『児童ポルノとフェミニズム』

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2022年11月20日

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第11号に掲載されたものの英語版を再度本ブログ掲載にあたって翻訳し直したものです。

アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針が、第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)にて採択された。児童の性的活動に成人が関与した時点で、両者の権力差を考えれば、その行為は不可避に「同意のない行為」となる。そうした行為は本質的に性的搾取や暴力であると考えられており、それらの被害から児童を守るために、多くの国では既に児童ポルノの生産及び販売を禁止している。しかし今回採択されたのは、児童ポルノに関する監視を更に強め、実写ではない児童ポルノの単純所持すら違法化しようという方針だ。この背景にあるのは、実際の児童の関与があるかどうかに関わらず児童ポルノは人々の児童を見る目に影響を与えるし、児童ポルノの広範な普及は児童のイメージを極度かつ過度に性的なものにしてしまうという考え方である。つまり、合意の成り立たない行為で児童が実際に受ける身体的・精神的苦痛だけでなく、間接的であれ〈児童の表象〉自体は実際の児童に苦痛をもたらす、ということだ。

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、男性異性愛者向けに作られたポルノ——つまりほとんどのポルノ——は単に社会の男女権力差を反映するだけでなく、社会の男女権力差を維持・強化する働きも持っていると論じた。それはそうしたポルノが女性を貶めるように描いていること、そして更に言えば、私が「欲望の灌漑水路」と呼んでいるものをポルノが作り出しているからである。「クィア」なフェミニストとして、私は、逸脱的だろうが抑圧されていようが全ての欲望が尊重されるべきだと考える。一方、クィアな「フェミニスト」としては、欲望の灌漑——つまり欲望が同性愛や小児性愛、そして最も頻繁には異性愛へと形成されるより前に存在し、そうした欲望の形成を可能としているもの——に、より関心を持っている。この欲望の灌漑システムの内部では、ジェンダー・人種・民族・年齢・階級・外見・障がいの有無などの既存の権力構造に則った差異の表象が複雑に絡み合っている。しかし、欲望のあり方が必ずや社会的不正義に依存してしまうからといって、それが「間違い」だと言いたいのでもないし、そうした欲望を持つ人々を攻撃したいわけでもない。実際、同性愛や小児性愛など周縁に追いやられているような欲望でさえ、異性愛的な欲望よりも規範から自由なわけではない。私が言いたいのは、欲望は社会や文化から独立してあるのではない、ということである。

しかしマッキノンとドウォーキンが男性異性愛者向けのポルノにおける女性の表象の問題を社会に訴えた時、ほとんどの人は、女性のポルノ的表象には全く問題がないと言って彼女らを笑った。現在「児童を守る」という目的のために多くの支援者が集まっているというのに、当時彼女たちのもとに「女性を守る」という目的のために集い、資源を提供してくれる多くの支援者たちがいなかったのは、一体なぜだろうか? 唯一の違いは、この二人のフェミニストが「女性」のことを心配していたということだ。若い/年老いた/黒人の/白人の/アジア人の/ユダヤ人の/障がいを持った/障がいを持っていない……そんな女性たち。なぜ大衆は、「女性」がどんな風に公に表象されたところで構わないと思ったのだろうか。そして結局のところ、「表象」自体が問題含みだというのは、本当なのだろうか。

マッキノンとドウォーキンはのちに、反フェミニスト的自由主義者によってのみならず、フェミニストによっても「"ポルノ"という言葉で何を意味しているのか?」と批判されることになる。しかしそんな批判的なフェミニストが意図したのは、既存の権力関係の内部から撹乱を起こす可能性に光を当てることにあった。ポルノとして作られたか否かに拘らず、表象は受け手がどう解釈するかということに一切関与できない。もし誰かが裸の天使たちの絵画を見ながら自慰行為を行ったら、その作品は児童ポルノになるのだろうか。ジュディス・バトラーは著書『触発する言葉——言語・権力・行為体』で、以下のように論じる。つまり、欲望は社会・文化に依存しているが、しかし——あるいは正にそれゆえに——欲望を表象する際の諸々の規範的な決まりごとの内部にこそ、撹乱の契機がある。マッキノンとドウォーキンが主要なゴールと定めた「規制(検閲と訴訟)」。それを希求することは即ち国家権力へと縋り付くことである。それによって国家権力は、規制対象の表象に関する独占的な正統性を認められ、受容可能なセクシュアリティと受容不可能なセクシュアリティの境界線を書き直せる程にすらなる(歴史上「逸脱」したセクシュアリティを抑圧して来たように)。そうなれば、私たちは、一見異性愛規範的で性差別的なポルノが予期せぬ(時にクィアな)やり方で読み取られる可能性、すなわち「何か」を十全に描くことなどできない「表象」のそのプロセスの中で切り捨てられた余剰的な複雑性が再度掬い上げられる可能性を、予め閉じてしまっているのだ。バトラー以後、多くのフェミニストが反ポルノの議論を、依然力はあるものの同時に大いに疑問の余地がある、と見るようになっている。

ここで児童ポルノに戻り、以下のように問うべきだろう。現在世界規模で共有されている〈反児童ポルノ〉の精神は、当時の〈反ポルノ〉フェミニズムと同じく問題含みなのではないか。私たちはなぜ、ポルノに関するフェミニストの長い議論の歴史を顧みもせず、児童ポルノの法的解決を急いでいるのか。当時大衆は女性を貶める表象の問題を認めたがらなかったが、それが結果的に議論を活発化させ、フェミニストの言説を大いに鍛えてくれた。大衆は、なぜ今、一切を疑うことなしに児童の性的な表象の問題を早急に認めているのだろうか。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。