『セクシュアリティと政治がご専門のChalidaporn Songsamphan先生(2009年春特任教授)とポルノグラフィーについて対談しました』

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2022年11月20日

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第12号に掲載されたものの日本語訳です。 HTML / PDF

マサキチトセ(CGSスタッフ 以下マ)

ポルノグラフィーについての基本的なスタンスを教えてください。

チャリダポーン教授(以下チ)

そもそもポルノは性的幻想の一つのあり方として捉えられるべき、プライベートな時間に誰しもが楽しむ権利を持っているものと考えます。しかしポルノを事細かく見た時、そこにはポルノ以外の物事との関連性やポルノそのものの多様性が見られ、ポルノ全体についての基本的なスタンスというものは築けません。ある種のポルノと違う種のポルノには、違うスタンスを持つ事があるのです。私たちは理論や説明を一つ打ち出し、そこに類似の全てのケースを矮小化しようとしがちですがそれではうまくいきません。私たちは全ての物事を個別に見る必要があるのです。

ポルノとその問題点を分析するときは、他の絵画等のアートとその問題点の分析とは違ったアプローチがされるべきでしょうか?

そうは思えません。性というものは私たちの文化において非常に特別な意味を持たされていて、ポルノはとても異質なものと思われていますが、私にはその分け方がいいとは思えない。顔を殴ることとペニスをヴァギナに入れることの違いについてフーコーが例を出していますが、私たちの文化意識が性に特定の位置、意味を与えている為に、これら2つの行動は全く違う意味を持っているのです。

「ポルノを定義すること」

しかしポルノグラフィーそのものの定義が曖昧ではありませんか。例えばボーイズラブと呼ばれるジャンルがポルノかどうかには共通見解がない。人によってはポルノだと言うでしょう。ポルノと非ポルノを分離することには常に問題がつきまとうと思いますが。

ポルノと非ポルノの境界線は私たちの理解や解釈を通して構築されるもので、流動的です。あるものがポルノかどうかは、私たちがそれをどのように見るかによります。何だってポルノになり得る。

でもそれだと何をポルノと思うかについて様々な定義が錯綜してしまいます。それらの間をネゴシエートするのは可能でしょうか。

まず多様な解釈が存在することを認めることから始めるべきでしょう。キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンは特定の考え方について「これはいい」とか「こうあるべきだ」と指図する傾向にあります。しかしそのように断定的に物事を見たり語ったりするのをやめ、まず私たち自身の間にある差異を認める。そこで初めてそれらの差異とどう向き合って行くかが問題になると思います。

「国家権力 対 批評」

国家がポルノの流通に何らかの法的な介入をする事については?

問題になるのは、国家がそのようなことをする為には何をポルノとし、それについてどのような介入を行うのかの明確な基準を打ち出す必要があるということです。そしてポルノについてそのように固定化された見方を打ち出すことは、他の解釈の可能性を予め封鎖してしまうことになる。法を持ち出すことの問題点はそこにあります。議論ができず、ネゴシエーションもできない。なんて危険な社会でしょう。人々は、性を社会的な活動の一つとして自由に語れるようになるべきです。議論の余地を残しておく必要があるのです。

では個人として表象上の不正義に対抗するにはどうすれば?

最も重要なのは、ある現象について意見や批判があれば、それを口に出すことです。表現の自由を尊重しているからといって、ポルノについて一切口を挟めないというのは間違っています。作品全体ではなくある一部について批判がある場合もあるでしょう。児童ポルノに関しては、合意に基づかない性行動への批判をしている人がいます。もし彼らの考えに同意出来ないのなら、どうして同意出来ないのかをきちんと論理で説明して対抗する必要があります。

「児童ポルノとフェミニズム」

今日の反児童ポルノの動きと、マッキノンやドウォーキンが行った反(異性愛)ポルノ運動の違いは何なのか不思議でなりません。「児童ポルノとフェミニズム」というタイトルでCGSNL011号に投稿した記事で、児童ポルノの問題について私たちは安易に法的な解決を急いでいるのではないかという懸念を書きました。ドウォーキンやマッキノンの考えに多くの人々は「ポルノに問題なんてない」と反論しましたが、児童ポルノについて同じように言う人は目立ちません。児童ポルノは何がなんでも悪いに決まっている、と自分たちの考えをきちんと吟味するのを怠っているように思います。表象というものが問題なのか否か、きちんと考える必要があると思うのです。

そうですね。しかしこの問題はもう少し丁寧に見る必要があると思います。児童ポルノの存在は多くの中産階級の人々をいらだたせます。というのも、中産階級的な性の価値観によれば「子ども」は無性であり、純粋で性的に清く、ゆえに成長するまでは守られるべきものだと思われています。それは単なる神話ですが、例えば法律においても大人による児童虐待を防ぐという名目の下で提案されたものの多くが立法化されて来ました。しかし「子ども」というカテゴリーをどのように定義しているのかについて、私たちは反省的な思考をあまりせずに来てしまっています。フェミニズムは「女」というアイデンティティ・カテゴリーがそもそも信用出来るものではなかったのではないかという議論が出る程に内外から批判を受け、疑問視されて来た歴史を持ちますが、「子ども」というカテゴリーをどのように「大人」から分離して定義出来るのかという疑問も同様に出るべきなのです。実際この問題については明確な定義や指針はありません。ですから児童ポルノや児童虐待について語るとき、議論が錯綜し、皆の意見がバラバラになることがありますが、その原因は「子ども」というカテゴリーのイメージが各自異なっていることにもあるでしょう。このように細かな部分にまで議論を進めることは中産階級の人々には恐怖体験となるでしょうが、だからこそ政策や法を通すときに中産階級の人々に「これは子どもたちのためだ」とアピールすれば、非常に通り易くなるという現状があるのです。

ミーガン法やカリフォルニア州のジェシカ法などもその例ですね。ところで児童虐待と聞いていつも思い浮かぶのは、1890年代にあった「夫が求めたとき妻は常に性的に奉仕しなければならない」という米国法です。児童ポルノを禁止しようという考えの背景には大人・子ども間の権力差についての憂慮があると思うのですが、では男女間に非常に大きな権力差があった当時、男性は女性とセックスをしてはいけないという法律が出来るべきだったのでは?

大人と児童の権力差というより、合意可能性が問題なのでは?

しかしその権力差によって「子どもは合意出来ない」と結論するのなら、厳しい男女差別下の女性もまた合意可能性は低いです。

確かにリベラルな論者や哲学者たちは女性が合意可能性を持っているとはあまり思っていませんでした。例えばジョン・ロックは、女性と子どもは理性的な能力がなく、ゆえに男性である世帯主によって代表されるべきだと言っています。彼らリベラルな論者たちにとってそれが問題としてとらえられなかったのは、彼らがそもそも女性を権利の正当な持ち主であるとは認めていなかったからでしょうね。

興味深い。子どもも女性も共に「未熟・権利ナシ・合意ムリ」と…。

「性の多様性にYES! が信用できない」

鈴木(CGSスタッフ 以下鈴)

それにも拘らず、中産階級の人々は女性を守ろうとはしてこなかった。一体何が違いなんでしょうね…。

結局人々の性についての見方は一貫していないということの現れですよね。特権的な性規範とは合致しないものでも多くのことを人々は受け入れていますが、それでも全然受け入れられていないものがある。性の多様性にYES! と言っている人でも、どんな多様性を念頭においているのか分からない。例えば異性愛ポルノグラフィーを性的幻想の一つのあり方であるとして、それを表現したり消費することの自由を唱える人はたくさんいます。しかしことが児童ポルノになると、そこに自由はないと多くの人々が断定します。私たちはこの矛盾をしっかりと見つめていない傾向にあります。

「今日のアクティビズム」

立場の似たお二人ですが、行動を起こす場合のアプローチは…?

もし何か行動を起こすとしたら、マサキさんと私は道を違えるかもしれないし、同じような道を選ぶかもしれない。それは全て扱っている個別の事象に依存しています。今日私が言いたかったことは、人は主張において常に一貫していなければいけないわけではないということです。というのも、ポルノグラフィーを細かく分析すると多様なケースが見つかり、それらが持つ意味も多様であると分かるからです。同じ理論を使ってそれらを一気に分析することは不可能です。ですから検閲には反対していながらも同時に児童ポルノ作品の中で行われることに批判を持つことは可能です。むしろこのような柔軟性こそが今日の社会運動の強みだとも思っています。というのは、互いに同意できるときには一緒に活動し、できないときにはしなくてもよい、あるいは同意できないことをお互いに了解して納得すればいい。この柔軟性は、しかし自分が何を考えているのか、相手と私は何について話しているのかを明確にすることを要求します。例えば「あなたの言う児童ポルノとは、何のことですか?」と聞いて、もし同じことを話していると思っていても実はそうではなかったことが分かったら、それを明らかにすることが重要です。

第3回子どもの性的搾取に反対する世界会議や反児童ポルノ団体も団結して見えますが、理解が一致しているか分かりませんね。

政治的なアクティビズムを行うときは内部の差異を抑圧していることもあります。しかしその場合でも実際に法律を立ち上げようとする際には結局差異が顕在化してしまうものなのです。法は多くの議論を生み出しますから、彼らの考え方が強固になり明確になればなるほど、彼らは互いに闘わざるを得なくなる。その段階になれば、彼らの中の差異は外部から見ても一目瞭然のものとなるでしょう。

とても楽しかったです。貴重な時間をありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。