先月の頭に青土社より「LGBT特集」を組むとのことで原稿執筆依頼を受け、これまでこのブログなどで書いてきた同性婚関連の議論をまとめた文章を書きました。
内容に即したタイトルを真面目に考えてとりあえず仮に「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流『LGBT』運動と同性婚推進運動の欺瞞」としておいて、 Facebook でタイトルを書いたら「喧嘩売ってるね!」と言われたので、ビビってたんだけど青土社の人は全然タイトルに注文をつけず、気づいたらそのまま印刷されていました。でもさっき実物が届いて他の人の文章をパラパラと読んでみたら、タイトルは無難でも内容は私より喧嘩売ってる人もいたので、まぁいいよね。
以下、冒頭部分のみ公開します。
同性愛者権利運動にとって、あるいは自らその名を裏切るかのようにBとTを暗に、そして時に明確に排除する「LGBT運動」にとって、同性婚は不可欠な目標としてその思想的、政治的な視界の中心的な位置を占めてきたと言えるだろう。しかしこの政治的傾向——米国で同性婚推進を掲げる大手団体がエイズ危機のあと1990年代半ばから頭角をあらわし、2013年には同性愛者に関する社会運動体として最も多くの資金を諸基金から受け取るようになっていたことに象徴される現在のこの政治的流行——には、たった20年の歴史しかない。
振り返れば、1966年のコンプトンズ・カフェテリアの反乱、1969年のストーンウォール・インの反乱と、それまで同性愛者やトランスジェンダー を抑圧していた警察権力への抵抗が始まり、のちにエイズ危機を迎えることで社会的に望ましくないとされる者 を明確に差別する政府や各種機関への抵抗と政治的要求 が強まったあと、私たちがこの20年間で観測したものは、性に関する社会運動の急速な主流化と保守化、そして資本主義によるその取り込みであった。この現実的な歴史を直視し、その内部に同性婚推進運動を位置づけることで見えてくるのは、排除と忘却に支えられた、グロテスクな世間体政治 respectability politics に陥った今日(こんにち)の「LGBT運動」の姿である。
他の人のタイトルを見るには、『現代思想』を出版する青土社の詳細ページへどうぞ。そこから購入もできます。
追記
後日、全文をこちらに掲載しました。