『「カムアウトできる」「カムアウトできない」というレトリックの問題』

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2022年11月20日

この記事は、インデペンデント・マガジン Pe=Po vol.1 に掲載されたものの全文です。ネットからも購入出来ますので、他の記事も気になるという方はどうぞ買ってみて下さい。

「親にカムアウトしたいけどまだ経済的に独立もしていないし……」、「友達はみんな知ってるけど、会社では絶対にカムアウトなんて出来ない……」、「同級生の数人にはカムアウトしてるけど、信頼出来る人だけ。他の人には絶対に言えない」などなど、カミングアウトにまつわるエピソードはボクたちのコミュニティに溢れている。それに対して老婆心を働かせたゲイやレズビアン、バイがこう言う。「誰彼構わず言う必要はない。自分がいいと思った相手に、いいと思ったときにだけカムアウトすればいいんじゃない? 人それぞれ事情があるしね」と。

もちろん老婆たちは本当に相手のことを思って言っているのだろう。しかしここで語られる「事情」とは何だろう。保守的な町に住んでいること? フォビアに満ちた職場で働いていること? 学校という閉塞的な場所で生きていること? 長男であること? 既婚者主婦であること? その事情を無視してカムアウトしたらどうなるだろうか。親から見放されたり、解雇されたり、いじめを受けたり、町を追い出されたり、離婚されたりする? 確かにその可能性はあるし、それを恐れてカムアウトしない人を蔑んだり「度胸がない」と見下したりすることはバカなことだと思う。だから当然「カムアウトしなさい」とか「カムアウトできないなんて、自分に自信がなさすぎる」とか「もっとみんながカムアウトすれば世界は変わるのに、しない人がいるからダメなんだ」とか、そういう、「事情」に思慮を働かせられない人の発言には辟易する。その点ではボクも老婆と同じ意見だ。

しかしボクが言いたいのは、「事情があるのだから仕方ないよね」ということではない。むしろこの記事でボクが批判の対象としているのは、正にそういう「しょうがないよ」みたいな上から目線の同情的な発言だ。

ボクは、クィアにとっての「事情」とは、強制異性愛社会に住んでいることや生物学的な性別に〈わたし〉の振る舞いやアイデンティティを追従させなければ制裁を受けるような状況だと思っている。だから「黙っていればヘテロだと思われる社会」なんて本当に嫌で嫌でしょうがないし、どうにかなって欲しいと思っている。しかし同時に、「黙っていればゲイだと思われる社会」も嫌だ。それはまた一つのカテゴリーであって、非ヘテロ男性という「ジェンダー・セクシュアリティの秩序の中では理解しがたい存在」を簡単に理解しやすくするマジック・ワードでしかない。しかもそのカテゴリーに乗った所で差別は全然残っているし、二級市民として扱われるだけだ。そんな詐欺みたいなカテゴリーに誰が入るか、と思う。そもそも「ゲイ」なんてボク自身の内側から出て来た言葉でもなければ、外からやって来てボクが快く迎え入れた言葉でもない。1 「男」だって「アジア人」だって、世界はボクに選ぶ権利も与えてくれなかったじゃないか。「黙っていれば男だと思われる社会」も出来ることなら勘弁してもらいたいし2、「ゲイだって言ってるのに『アジア人ゲイ』としかボクを扱ってくれない社会」なんて死ぬほど嫌だ。

つまり究極的に言えば、「アイデンティティを想定・強制されること」それ自体が生活に差し迫ってくる問題としてボクに嫌な思いをさせている「事情」なんだ。そんなボクにとって、「ゲイ」という言葉が広まっており人々もある程度受け入れる体制が出来ているような空間にいることは、必ずしも嬉しい経験じゃない。人は「ゲイなんですか?」とか「オカマちゃんですか?」と聞いて来るし、一言も言っていないのに「え、だってあなたゲイでしょ?」とか言われたり、言わないでいると勝手に邪推されたり噂されたりする。すごくカムアウトを求められている感じだ。「お前のセクシュアリティを言語化せよ、私たちに分かる語彙でシンプルに説明せよ」という圧力を感じてしまう。それはきっと、「ゲイ」という語彙が共有されているコミュニティだからこそ、むしろそこが重力の場みたいにボクを引きずり込もうとしてくるような、そういう感じ。

これがボクにとっての「事情」だ。つまり「あぁ、あなたは(ヘテロではなく)ゲイなのね」、「あぁ、あなたは(日本人ではなく)在日コリアンなのね」、「あぁ、あなたは(健常者ではなく)障害者なのね」、「あぁ、あなたは(白人ではなく)有色人種なのね」という分け方そのものが気に食わないのだ。相手の用意したカテゴリーに乗っかること、そしてそれに乗っからないと「差別されてる人だから、優しくしてあげよう」とすら思ってもらえないという脅迫めいたアイデンティティ要請がものすごくうるさい。そもそもそういうカテゴリー分けの仕方・枠組み自体が西洋近代的な思想の影響を受けたものであって、少なくともボクはそんなものを受け入れた覚えはない3。「自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、隠さざるをえないような状況にしている、強制異性愛社会」と Macska さんがブログで言っているが4、更に言えば、強制異性愛を含む(西洋近代的)文化的規範は、自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、〈決定し、包み隠さず告白すること〉を要求するような(そして、そうしない限り差別され続けるような)状況も同時に作り出しているのだ。

だから、そういう事情に辟易しているボクは、「カムアウトしないとまともに取り扱ってもらえない」ような社会やコミュニティも、すごく嫌い。それは「カムアウトできない社会・コミュニティ」と言われるような場所と同じくらいにボクを引き裂く。ゲイだと言ったら不平等な扱いを受ける社会と、ゲイだと言わないと平等の恩恵を受けられない社会って、単なる強制異性愛社会の裏表じゃないか。カムアウトしないと事態が解決に向かわないという状況は立派な「強制異性愛社会という『事情』」だ。そういう「事情」のある人は、カムアウトだってなんだってしたらいいと思う。カムアウト実践を選ぶことも、カムアウトしないことを選ぶことも、両方とも各人がそれぞれ自分の状況を考えて「このフォビックな社会の中ではマシ」な方向へと進むための生き延びる道でしかないのだもの5

「カムアウトしない方がいい場合もある」という主張への反論として「それはホモフォビックな社会の中ではマシというだけのことでしょ」と言う人もいるが、そんなこと言ったら「カムアウトした方がいい」という状況だって、「ホモフォビックな社会の中ではマシというだけ」だ。社会がホモフォビックじゃなかったら、そもそもカムアウトする必要だってないし、クローゼットに入る必要だってないのだから。罠みたいなもんだ。その罠にはめられているボクたちは、当然、カムアウトしたって、しなくたって、いい。どちらの選択肢が「よりよい」のかというのは、その人の周りの「事情」のあり方によって変わってくるはずで、その「事情」というのは「カムアウトできる」「カムアウトできない」という〈可能性〉のレトリックで説明されるべきものではないと思う。「カムアウトすることの方がカムアウトしないことよりも本人の利益を増やす」と判断できる状態だったらカムアウトする方がいいだろうし、逆であればカムアウトしない方がいいに決まっている(そんな判断はおそらく多くの人が自分で日々行っていることであって、ボクがこんなところでいちいち説明するほどのことでもないのだけれど)。とにかく、「カムアウトしない」ということが「できない」という〈可能性〉のレトリックで説明されることには、ボクは全然賛成できない。

「カムアウトすることで得られるものが失うもののよりも多い社会・コミュニティ」と「カムアウトしないことで得られるものが失うものよりも多い社会・コミュニティ」というのは両方存在するし、時期や集団の大きさ、年齢層、階級やミクロなレベルでの人間関係、そしてそれらのこれまでの歴史的変遷によっても状況は異なる。そしてその両方とも強制異性愛の異なるバージョンの上に成り立っている状況でしかない。どちらの方がいいとか悪いとかは普遍的な判断が出来ないし、自分にとってどちらの方がマシかしか言えない。あるときある場所ではカムアウトした方が「マシ」かもしれないし、その次の日に違う人たちと時間を過ごしているときはしない方が「マシ」かもしれない6。そのどっちの時間が本人にとって喜ばしい時間になるかは、本人が事後的に判断することであって、議論をする人間によって事前に予想が立てられるものではない。

ましてや、「運動全体のためにはどちらが好ましいか」という疑問には、回答などないはずだ。そもそも問い自体が強制異性愛社会の1つのバージョンの枠組みに則ってしまっていて、回答はコインの裏表にしかなり得ない。そもそも「運動全体」の利益とは、いったい誰の利益なのだろう。もちろん「現在この社会・コミュニティでは人はセクシュアリティのカテゴリーに入れられてしまうのであって、それを拒否したら生きては行けないし、権利も何一つ手に入らない。だからカムアウトする利益の方が多いのだ」という主張が持つ正当性には納得が行く。しかしそれはあくまでその地域、その時代にその文化・政治・宗教・道徳的背景があるから言えるだけの話であって(更に言えば、それはある程度西洋近代的で先進国的で都会的でエリート的な事情だとボクは思う)、「他の場所でもそのような状況になるべきだ。まだそうなっていない地域、つまりカムアウトしない利益の方が大きい地域は、遅れていて、クィアにとっては生きづらいはず。だから変わるべきだ」とは言えない。カムアウトしなくても(一部の)規範から外れて生活することは出来るし、そういう人がいることを周りも当然のように知っていたりする。ただ、それに名前を付けないだけだ。名前を付けたら「差別対象」として、あるいは「差別対象だから、差別してはいけない人たち」として新たに周囲の人たちの目に現前してしまうことになって、それまであった「生きやすさ」が消えてしまうかもしれない。カムアウトしない方が解放的な可能性もあるんだ。

また、カムアウトする利益の方がしない利益よりも大きいように見える社会・コミュニティにおいても、そこに住む人々全員にとってそうであるとは限らないし、あるいは、そこで語られる「利益」自体を望んでいないとか、カムアウトすることによって失われるものを失いたくないとか、様々な理由でクローゼットを貫く人もいるだろう。しかし彼らのそれぞれの状況を「事情」と呼び、彼らのその判断を「苦渋の決断」であるかのように語るのは、あたかも自分たちには「カムアウトすることの利益の方が大きい」という「事情」(!)がないかのように振る舞い、自分たちの方が他の人たちよりも「自由な判断」(!)が出来ているかのように語ることだ。

クローゼットでいることは権利ではない、というサラ・シュルマンさんの文章が前述の Macska さんのブログで紹介されていた。クローゼットでいないと暴力を受けたり解雇されたり社会生活を送れなくなったりする社会では、そう、クローゼットは「不自由」だ。自分が非ヘテロであることを言葉に出すことが出来ないのは、不自由極まりない。しかしボクが欲しいのはカミングアウト出来る社会ではない。ボクが欲しいのは、非へテロであることを言葉に出す必要もないほどクィアな世界であって、そこではもし口に出しても「カミングアウトした」などと仰々しく取りざたされたりしないし、「あたし明日数学のテストなんだよね」「あ、そ」くらいにしか関心を払われたりもしないだろう。そう考えると、一方で、カミングアウトだって権利ではない、不自由だ。なぜ言わなければいけないのか。なぜ「カミングアウト」などと大げさに、あたかも世紀の大告白かのように扱われなければいけないのか。カミングアウトしなければ生きて行けないとは、なんて不自由なんだろう。


  1. ボクは自分の性に関する事柄を言葉で説明したりすることを既に(複雑すぎるから)あきらめているので、「ゲイ」という言葉に単なる文化的なスタイル以上のものを求めていないのだもの。「ゲイ」とはボクにとって一つの生き方であって、振る舞い方であって、コード。「男が男に惹かれること」とか「男と男がセックスすること」と「ゲイ」という言葉は少しは関連しているかもしれないけれど、それは「若者であること」と「ケータイを持っていること」くらいの関連性にしか感じられない。 
  2. 現代社会で「男」と扱われることは「女」に比べて得することばかりなのだけれど、だからと言って気持ちよく「はい、男です」と言えるわけじゃない。 
  3. 補足しておくと、ここで「西洋近代的」と言っているのは別に「西洋の近代に特有のものであって、それ以外のところには存在しない」という意味ではなく、「西洋近代のイデオロギーに関係することがら」というくらいの意味。つまり、西洋と呼ばれる地域にだって存在しないかもしれないし、東洋だろうがどこだろうが存在するかもしれないようなものであって、日本の中にだってものすごくいっぱいある。例えばアメリカのモンタナ州にはあんまりないかもしれないけど、日本の中野区にはがっつりあるかもしれないし、ある宗教のコミュニティの中ではあんまりないかもしれないけど、ある人種コミュニティのなかにはがっつりあるかもしれない、みたいな。 
  4. 『カムアウトをしない「自由」はない。クロゼットは「権利」ではない。』「minx [macska dot org in exile]」 http://d.hatena.ne.jp/macska/20090818/p1. retrieved September 27, 2009. 
  5. もちろん時にはアクティビズム的に、戦略的にカミングアウトを選択することもあるけれど。 
  6. 例えばボクの知り合いに50代の人がいるのだけれど、彼は自身をゲイだともオカマだとも女性だとも言っていない。彼の周囲の人も誰もそれを言葉には出さないし、質問もしないが、ほとんどの人が彼が「女性的な振る舞いをして、男性と性愛関係を結ぶ人」であることを知っている。彼は周囲の人たちと男女問わず仲良く近所的なコミュニティを築いており、飲みに行ったり旅行に行ったり近所の集まりに出たりしている。他にも、同性婚とかパートナーシップ法には反対だけど、レズビアンとしか思えない人が親戚の集まりにパートナーを連れてきてもみんながそれを当然だと思っている、という状況とか。 

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。