(ジャック・アポンテ トゥルス・アウト誌)
日曜の夜、私は悪夢を見ていた。それも無理はない。日曜の朝、ルームメイトが私のパートナーと私のところにやってきて、オーランドの銃撃事件について知らせてくれた。それからというもの、私の1日はショックと怒りと悲しみに支配された。最終的にベッドに横になり目を閉じてじっとできるほどに落ち着けた時には、少々自分でも驚いたくらいだ。そんな日に見る夢がろくな夢なわけがない。
夢の中で、私はパートナーと飛行機を降り、空っぽの奇妙な空港を歩いていた。周囲の人はテレビ画面を見上げていて、そこには幼少の頃に見て恐れていた湾岸戦争の映像に似たものが流れていた。でも私はその映像が、イラクでの新しい爆破の映像だと知っていた。つまり、私の人生で見てきた米国による戦争を象徴するような大規模の殺戮に帰結するような、ISIS(又の名をDaesh)をターゲットとした爆破である。
夢の中で私は、この爆破がオーランドのナイトクラブ「パルス」での銃撃事件に対する報復であるとすぐに分かった。怒りが急にやってきた。周囲に向かって私は叫ぶ。「こんなの最低だ! 米国は最低だ! 米国は世界で最低の国だ!」 そして私は起きた。
現状では、まだ戦争は宣言されていない。しかしこの終わりなき戦争を抱えた世界においては、紛争の終わりと始まりを明確に分けることなど困難ではある。いずれにしても、主たる政党の大統領候補者は、ISISと(ヒラリー・クリントンの言葉を借りれば)「イスラム過激派」のいつもの幻影に素早く剣を切りつけ始めた。
バーニー・サンダースですらこの流れに安易に乗り、今回の悲劇をISISの破滅を求めるべき機会として利用した。しかしオマル・マティーン(訳者注:オーランド銃撃事件の容疑者)は、ISIS、アルカイダ、ヘズボラなど彼自身が憧れるイスラム軍事組織のそれぞれの全く異なる思想の違いを理解している様子のない、一匹狼(訳者注:単独犯)だろうということが明白であるにもかかわらず、だ。マティーンが事件前の通報時にISISの話をしたと警察は言っているが、ISISどころか、彼は世界中のどの武装集団や過激団体からも訓練されたり指示されたり、そもそもコンタクトを取っていたという証拠すら存在しない。彼が受け取っていたのは、インスピレーションだけである。
しかしマティーンは、このLGBTナイトクラブ「パルス」をクィアやトランスのラテン系や黒人でひしめき合っていたラテンナイトの夜に標的にすることに、ISISからのインスピレーションを求める必要なんてなかった。マティーンがこれまでに幾度となく表明してきたとされるホモフォビア(同性愛嫌悪)、トランスフォビア(トランス嫌悪)、人種差別主義、性差別主義、そして暴力は、マティーンが生まれ育ったここ、まさにこの米国に潤沢に存在するものである。
黒人のクィア執筆家アドリエンヌ・マリー・ブラウンは、オーランドで起きたことについての文章の中でこの件に触れている。まず自身の過去の文章(9/11の10周年というふさわしい日に書かれている)で肩った、米国人が生まれながらに持っている「血まみれの生得権」についての箇所を引用している。
この国の責任を逃れることはできない
これらの残虐行為を振り落とすことはできない
これは血まみれの生得権だ
すべての子どもは血の中に生まれる
そして、「ポスト国粋主義のアメリカ生まれの革命家」として、彼女自身、そして彼女と希望やより良い世界の展望を共にする人々は、「アメリカに矛先を向けて、この場所から生まれうる未来を形作るという大変な仕事をする必要がある」とする。
私たちは尊厳と共に生まれる
涙を流す時、愛を遂行する時、私たちは美しい
恐れる時はアスファルトの道を気取って歩く
むせるような暗黒の中で互いに押し合うように寄り添い
自由の歌を、愛の歌を絞り出す
これが
アメリカだ
そう、これがアメリカである。オマル・マーティンが銃を手に入れることができたこと、警察官、特にニューヨーク市の警察に対する偶像化(訳者注:憧れ)、彼の人種差別主義や元妻に対する虐待は、すべてとてもアメリカ的だ。しかし彼が自分自身に向けていた嫌悪は、彼の怒りや嫌悪についての複雑さに関するいかなる新事実よりも、アメリカ的だろう。日曜の午後、私は「ドラァグ・クィーン: 反同性愛テロリストのオマル・マティーンは私の友人だった」という記事を発見した。これを皮切りに、いくつもの記事や新情報が世に出された。それらは、マティーンがクィア連続体(訳者注:原文では "queer spectrum" で、LGBTのようにカテゴリーに分けない性の理解の仕方)のどこかに位置していた可能性、彼がこれまでずっとクィアやトランスの人々に対して暴力的だったり敵対的だったわけではないこと、そして何かが彼の中で変わってしまったのだということを示している。(訳者注:「ドラァグ・クィーン……」という)記事タイトルを見たとき、私はすぐに1999年の映画「アメリカン・ビューティー」を思い出した。映画では、海兵隊を退職した大佐が10代の息子を同性愛者と知り暴行して家から追い出しておきながら、弱気になり自分を再発見したときにはケビン・スペイシー演じるキャラクターに口づけをし、そしてコレクションから1丁の銃を取り出し彼自身の愛の対象を殺すのだ。
そう、確かにこれがアメリカなのだ。
アメリカ人であるという血まみれの生得権を持ち生まれてきた私たちは、しかし、オーランドの悲劇から何を学ぶか、この場所からどこに向かうかを選ぶことができる。私たちのいわゆる政治的リーダーは、イスラム過激派についてのお決まりの発言をダラダラと繰り返すが、ラテン系や黒人のクィアやトランス、そしてその仲間たちは別の道を選ぼうとしている。私が話したクィアやトランスの人々、クィアやトランスの団体、そしてラテン系や黒人の人々は、死者を悼みつつも互いを慰め、共に仲間として存在し、連帯するために集まろうとしている。
(訳者注:画像の文字は「警察が増えても私たちは安全にはならない。私たちは一つ。」)
私の経験から言って、私たちが集まろうとしているのは、土曜の夜の残虐な事件があってから以前よりもホモフォビアやトランスフォビアの暴力に恐れているからではない。友人やコミュニティの仲間から私が聞いた恐れというのは、普段はラテン系や黒人のクィアやトランスの人々を(良くて)無視しているような政治家がほとんどなのに、ラテン系や黒人のクィアやトランスの人々の名の下に米国政府が冷淡かつ偽善的に遂行しうる暴力への恐れである。
有色人種のクィアやトランスは、私たちの名の下に行われる暴力への呼びかけを拒否し、クィアもトランスも多数存在するムスリムの兄弟姉妹(訳者注:原文では "siblings")に連帯する。有色人種のクィアやトランスを中心に据える団体からは、ここ数日でいくつもの声明が出されており、そこでは私たちの名の下に正当化されるイスラモフォビア(イスラム嫌悪)を非難している。
このショックと悲しみの最初の瞬間、私たちはコミュニティーの皆さんに、イスラモフォビアや根拠なき推測を奨励しないよう呼びかけます。私たちにわかっているのは、有色人種のLGBTを標的とする非常に暴力的な表現、制度、法律や方針の風潮を見つけるのに、米国主流の外側に目を向ける必要なんてないということです。
ナショナル・クィア・エイジアン・パシフィック・アイランダー・アライアンスより。
個人の行動は、何か一つの民族や人種、信心の代表ではありません。この国のイスラモフォビアが危険なレベルにまで増大している中、どのような物語を選び語るかということについて意識的になることは特に重要になっています……。私たちの中のLGBTQでかつムスリムである者は、私たちの存在や意図を日々疑問視し続けるようなこの世界においてどちらのアイデンティティを明かす方が恐ろしいことなのか、様子を見ているところです。
南アジアにルーツを持つLGBTQのための非営利団体 Trikone より。
今回の事件に油を注いで火を起こそうとする者が現れるでしょう。イデオロギーや対話を用いて私たちのコミュニティーを分断しようとする者が現れるでしょう。十分に用心して、このような不要なバックラッシュに参加することを拒否してください。なぜならそうしたことは、癒しのプロセスをさらに遅くさせるだけなのです。
ジョージア・トランス・ラティーナ・コアリション、Latino LinQ・NAESM・SisterLoveなど数多くの団体を含むアトランタ拠点の団体連盟より。
私たちは、互いから独立して生きているわけではないのです。人種やジェンダー、アビリティ(訳者注:身体や精神的にできること、disability[障害]の反対語)、セクシュアリティ、宗教、そして生活背景などの複合的な交わりを通して、私たちは互いに深く繋がっているのです。暴力に反対する団結、そして愛のもとでの連帯を呼びかけます。痛みにおいては、言葉や行動で暴力に暴力で応酬しないという決意を持って、互いを思いやらなければなりません。包摂、肯定、そして理解という考えをさらに進める必要があるのです。この殺戮は、この国においてイスラモフォビアがどんどん脅威になっている時代に起きた出来事です。この悲劇をムスリムのコミュニティに対するさらなる偏見や嫌悪のために利用しないでください。そうではなく、LGBTQやその他のすべての人々に対する嫌悪や暴力に反対する動きにおいて、私たちを奮起させるものとしなければなりません。
自家栽培されたテロ(訳者注:国内テロ)は、国家や自警団の暴力を含む植民地主義の長い歴史の産物です。精神をゆがめ、人々を互いに暴力に駆り立てるような白人至上主義と資本主義の産物です……。死者を敬うために、そして未だ生きる者のために死に物狂いで戦うために、私たちは、人権を優先し、死を招く暴力を助長しない形の、安全というものの新しいビジョンを必要としています。「犯罪者」が黒人と同義語ではないように、「テロリスト」がムスリムと同義語ではないということを明確に理解する世界を必要としています。敵は今もこれまでも、白人至上主義、家父長制、資本主義、軍事主義という4つの脅威です。これらの制度が解体されない限り、そして反黒人的な考えが反ムスリム・反クィア/トランスの偏見、搾取、排除にも燃料を投下しないようにならない限り(訳者注:黒人の人権や尊厳を中心課題とするブラック・ライヴス・マターだが、黒人に対するアンチを解決するだけではダメだと思っている、という意味だと思われる)、私たちは本当に自由にはなれないのです
くりかえすが、私たちの今回の悲劇を誰かの暴力的で帝国主義的な狙いに取り込まれないようにするために、私たちのコミュニティは「私たちの名の下にそんなことはするな」と言わなければならない。前回は、ニューヨークのコミュニティだった。9/11後、私たちはストリートに出て集まり、アフガニスタンやイラクでの酷すぎる無差別な戦争を正当化するために9/11を利用することを許さないと政府と国に主張した。攻撃で愛する人を亡くした人々、すすと瓦礫に覆われながらタワーから逃げだせた人々、攻撃によって生活が崩壊され一変してしまった人々、輪郭線に生まれた空っぽの穴を毎日毎日見ながら生きた人々……私たちは幾度となく集まり、スローガンを叫び、行進した。攻撃で大きな影響を受けなかった米国の人々たちに、どうか私たちの悲劇を、世界にさらなる不正義と死をもたらす言い訳に使わないでくださいと懇願した。
今回はラテン系、黒人、そしてその他の有色人種クィアとトランスの人々が立ち上がっている。悲劇のさなか、「テロ」「ジハード」「ISIS」というけたたましい騒音をかきわけ、もういい加減にしてくれ、繰り返さないでくれ、今度こそは私たちの名の下にそんなことはしないでくれという声を上げようとしている。この国が100人ちょっとの死傷したクィアやトランスの人々、ましてや黒人やブラウンの人々のために戦争をするだなんていう幻想を抱いているわけではない。実際、ラテン系や黒人のクィアやトランスのコミュニティに対する今回の攻撃がテロというテーマに取り込まれつつあること、つまりおうおうにしてホモフォビア的でトランスフォビア的な米国社会に売り込みやすい枠組みに取り込まれつつあることを、私はすでに観測している。私たちは反対の声を上げ続ける。私たち自身の悲劇の時に私たちを消そうとすることに。そして、ムスリムの人々に対して嫌悪が巧妙に向けられていなかったらこの国にいる多くが喜んで私たち有色人種のクィアとトランスの人々に向けるであろう、身体的・言語的暴力に。
原文筆者について
Jack Aponte(ジャック・アポンテ)
ジェンダー/クィアの米国在住プエルトリコ人。カリフォルニア州オークランド在住。
@jackaponte
翻訳について
この文章は、上記原文筆者が執筆し、上記日付にトゥルス・アウト誌(オンライン)に掲載された American Ugliness: Queer and Trans People of Color Say "Not in Our Names" を、マサキチトセが2016年6月15日に日本語に翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。
画像について
原文に掲載されていた画像を転載している。
画像1:2016年6月13日にロサンジェルス市役所前で行われた追悼式に数千人が集まった。カサンドラ・ショアとキャンディス・ダーデンが互いを慰めている様子。(撮影:モニカ・アルマイダ/ニューヨークタイムズ)
画像2:青の背景に有色人種らしき二人が抱き合っている様子を描いたイラスト。「警察が増えても私たちは安全にはならない。私たちは一つ。」という文字がある。(作者:マイカ・バザント)