2015年6月26日・ティモシー・ステュワート-ウィンター
画像:ストーンウォールの反乱の1ヶ月後、1969年7月27日に同性愛者の権利を支援する人々がマンハッタンで抗議デモをしている様子。(フレッド・W・マクダーラ/ゲッティ・イメージス)
米国全土での同性婚の権利を認めた最高裁判所決定は、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーのアメリカ人にとって喜ばしい瞬間をもたらした。私たちの平等な尊厳、そして異性愛カップルが享受するのと同じ法的保護を得る権利が認められたことは、公民権の歴史における画期的な出来事である。しかしこれはまた、第二次世界大戦後に始まった同性愛者の自由を求める運動にとって、最後の歌声になるかもしれない。
過去10年間にこの運動が得た二つの大きな勝利、つまりオープンに軍隊に務める権利と、婚姻する権利が実現したと同時に、女性の同一賃金や妊娠・出産に関する選択、住居や学校の分離状況、マイノリティに対する警察暴力、及び十分な賃金と、皆にとっての職と退職の保障といった、公民権の他の領域において、改善がストップしてしまったり、あるいは逆行してしまったということは、とても不運なことであった。
性的指向や性自認を理由とした雇用及び住居差別の禁止という、最も同性愛者に幅広く適用されるであろう公民権の法律が未だに私たちを避け続けている(訳者注:成立する様子がない)のは、偶然ではない。反差別法は単にそれを施行しなければならない政府にとって甚大なコストを生み出すだけでなく、それを遵守しなければならない企業にも甚大なコストを生み出す。一方で、軍隊や婚姻制度に同性愛者を入れることは、コストを生み出しはしない。実際、米国内の大きな航空会社、銀行、保険会社や製造業者を含め、379の企業が、結婚に関する法律の不平等によって面倒な規制や財政困難が引き起こされており優秀な人材の確保の邪魔をしているとして、同性婚を支持する文書を出している。
2003年にマサチューセッツ州が同性婚を米国で初めて合法化した時、国内の多くの地域でそのような人の繋がり方を禁止する住民投票という形のバックラッシュが席巻した。これを受け、結婚に興味を持っていなかったレズビアン女性とゲイ男性の多くも、同性婚に関する疑義を一度棚上げにした。
しかしこうして目的を一致させたことには、代償が伴った。婚姻の平等運動を牽引した推進団体 Freedom to Marry は、2013年時点で、同性愛者に関する社会運動体として最も多くの資金を諸基金から受け取っていた。こうして結婚の戦いに注ぎ込まれた労力と資金の数割でも、トランスジェンダーの人々やホームレスのティーンエージャー、雇用差別の被害者、レズビアンやゲイの難民や難民申請者、孤立した高齢の同性愛者、そして私たちコミュニティにいる他の弱者たちのために使われるようなことはあるだろうか? 2011年にニューヨーク州が同性婚を合法化した頃、同州は、同性愛者やトランスジェンダーの割合が一般人口よりも高いホームレスの若者に向けての福祉サービスの資金を削減していた。
第二次世界大戦以降始まった同性愛者の権利運動は、社会の端っこから始まった。その最も大きな声は、社会慣習をひっくり返そうとしていたのであって、参加しようとしていたのではない。この運動がある日結婚に関して一致団結するなんてことは、避けられないことでは全くなかったのだ。
全国的な同性愛雑誌 ONE は、出版が開始された1953年に、同性愛者がいつか結婚することを許されるかもしれないという考えを退けていた。「私たちのような反乱者は、自由を求めるのだ!」と、ある記事には書かれている。「実際、私たちは(それがいかに秘匿されている形であったとしても)異性愛者よりも多くの自由を持っているのであって、何か変化を起こすことは、世間体と引き換えにその自由の一部を受け渡すことである」
もちろんここで書かれている自由とは、壊れやすいものであった。翌年にはロスアンジェルスの郵便局長がこの雑誌を卑猥なものとみなして、配達拒否するということが起きた。最高裁判所は雑誌側の主張を認めたが、1950年代から1960年代にかけて多数の同性愛者関連の出版社や企業、バーが閉店を余儀なくされた。
1969年にマンハッタンでゲイバーでの警察の強制捜査に対抗して起きたストーンウォールの反乱のあと、フェミニストやラディカルな黒人の要請に応える形で急速に運動が成立した。1972年には、ある活動家がレズビアン系の新聞で、彼女とその仲間は「銃を持った革命家、あるいはホワイトハウスやチェイス・マンハッタン銀行を爆破するような爆弾脅迫グループよりもさらに恐ろしい、社会にとっての最も大きな脅威である」と書いている。
当時、カミングアウトすることはそれ自体がラディカルな行為であった。性的なアイデンティティが暴露された人は、それに応じた大きな代償を払うことになった。1975年、ヴェトナム戦争の退役軍人オリバー・W・シプルは、ジェラルド・R・フォード大統領の暗殺を未然に防いだが、彼が同性愛者だと報道関係者が知った時、彼の人生は破壊されてしまった。テニスのチャンピオンであるビリー・ジーン・キングが1981年にレズビアンだとアウティングされた時には、彼女は商業スポンサーの多くを失った。
1980年代のエイズ危機は、同性愛者のコミュニティーを打ちのめしたが、同時にそれはコミュニティーを蜂起させることにもなった。
活動家たちは、静脈注射を使う薬物使用者、セックスワーカー、ホームレスなど、この伝染病の被害を受けている他の人々との連帯を見出すことで、薬品研究と承認のための連邦資金を要求し、レーガン政権による社会的セーフティーネットの削減に抗議するようになった。1991年には、活動家団体 Act Up が米国医師会の会議でデモを行い、皆保険を要求した。エイズ危機が子の養育権、病院の面会や末期治療の問題を通して明らかにしたのは、同性愛者の結婚からの排除がどれだけ影響を及ぼしているかということだった。
エイズによって同性愛者に対する恐怖が再燃した一方で、エイズは彼ら彼女らを政治的主流に駆り立てることにもなった。エイズ関連の支援団体は当時大きくなりつつあった非営利セクターの一部を担っていた。医薬品の進歩によってエイズが米国において死を意味しなくなってからの20年間で、同性愛者の権利運動はその要求を推し進めるために、政府、そして企業までもと協力体制をどんどん作り上げてきた。
最近になるまで、同性愛者の勝利というものはローカルな、あるいは州のレベルに留まっており、連邦政府は遅れを取っていた。活動家に背中を押され、オバマ大統領がこの流れを変えた。ビル・クリントン政権の名残である軍隊内でのオープンな同性愛者の禁止を撤廃しようとする民主党議員に、彼も参加した。婚姻保護法(原文:"Defense of Marriage Act")(これもまたクリントン時代の名残である)の中のある重要な条項について最高裁判所は二年前に無効としているが、それ以前にオバマ政権の司法省はこの条項を擁護することを拒否していた。
このゲイ・プライド・マンス(同性愛プライド月間)は長期にわたって人々の記憶に残るだろう。私たちの多くは、この日を待たずして亡くなった友人や恋人たちに思いを馳せている。ケーキは食べられ、花がちりばめられる。ほうきが飛び越えられ、グラスは叩き割られる。私たちみんなが他のどんな問題をも差し置いて結婚を優先することを選択はしなかっただろうが、この権利を欲しがる声が広範にわたっていたことは誰も否定できないだろう。
多少のバックラッシュは出てくるだろう。地域の聖職者が抵抗したり、あるいは宗教的自由に関する法律によって企業が従わないで済むように企てたり。
しかし宗教的右翼よりもさらに大きな危険は、私たちが新たに発見した強大な影響力が、他の人々の困難を見る私たちの目を濁らせてしまうというリスクである。現在、かつてない数の同性愛者が、インサイダーである。米国の最も価値の高い企業の一つであるアップルもゲイ男性が率いている。ウィスコンシン州の民主党員でありレズビアンのタミー・ボルドウィンは、2012年に上院に当選している。主要な共和党員、リバタリアン、資本家、CEOなどが名前を出し、時間とお金を同性婚推進のために費やしている。
しかしそれよりももっと多い同性愛のあるいはトランスジェンダーのアメリカ人は、永続的にアウトサイダーだ。反同性愛のレトリックをさらに強化する教会もあり、家族による拒絶や若者のホームレス化に寄与している。トランスジェンダーのアメリカ人に対する暴力は増加している。刑務所にいる同性愛者は依然として強姦や虐待にさらされている。黒人の若者のあいだでは H.I.V. の感染率が上昇している。
1920年に憲法修正第19条が公式に承認されたあとにフェミニストが学んだ通り、一つの方針の追求のためにほとんどの力を注いでしまう社会運動というのは、決定的な勝利を収めたあと、勢いをなくし停滞する。
同性愛者はいま、結婚する権利を求める戦いに注いだのと同じだけの資源と労力を、差別からの保護を求める戦いに注ぐべきである。私たちの戦いは警察の嫌がらせへの反撃から始まったのだということ、そして「黒人の命だって大切だ」(原文:"Black Lives Matter"、訳者注:黒人をターゲットとした警察による殺害が相次ぐ米国で、抗議する人々が現在このスローガンを用いている)というのは自分たちの運動でもあるということを、私たちは頭に入れておかないといけない。同性婚を合法化した、最初ではなく、20番目の国にふさわしく、アメリカは海外において平等を説く際には偉そうにせず、転向者の心持ちで臨まなければならない。
同性愛者の運動は、家族の価値を認めることを主張してきた。そこには、片親の家族、養子のいる家族、その他もろもろのあらゆる形が含まれるのだ。他のこと、この家族肯定的な社会の転向の中では見失われるリスクの高いことも、主張してきた。それは、親密さ、家族生活、そしてケアは常に一つのパッケージに包まれているわけではないこと、結婚が子供や財産や健康を守るための唯一の方法であってはならないということ、家族を持つことが完全な市民権を持つための要件になってはいけないこと、そして慣習的な世間体が社会受容への唯一の道になってはいけないということだ。
私が教える学部生の多くは、同性婚が考えることもできなかった時代というのを覚えていない。しかしこんにち生きているアメリカ人にとって、同性愛者であるとカミングアウトすることは将来結婚しないということを意味していた。そしてカムアウトすることを選んだ私たちは、排除されている人々に共感するという以外の選択肢に乏しかったも意味していた。どう考えても、私たちは結婚するタイプではなかった(訳者注:原文は "the marrying kind" で、英語表現としてセクシュアリティを問わず結婚に合わないと感じる人やそう言われてる人などを指す言葉)。そしてそれが、私たちが特別な存在であった理由の一つだった。
私たちの中には、結婚が社会の端っこから抜け出すチケットだと感じる人もいるだろう。しかし、最高裁判所が認めたからといって先走って勝利を宣言して、そこから排除されている人々や、基本的な承認への要求すらままならない世界中の人々のことを無視するとしたら、それは悲劇だ。私たちの歴史を忘れること、同性愛者であるということが何を意味してきたのかを忘れることは、払うには高すぎる代償である。
原文の筆者について
ティモシー・ステュワート-ウィンター
ラトガーズ大学ニューアーク校歴史学部助教授。 "Queer Cloud: Chicago and the Rise of Gay Politics" の著者。
翻訳について
この文章は、上記原文筆者が英語で書き、上記の日付に ニューヨーク・タイムズ紙で公開された文章を、2015年7月20日にマサキチトセが翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。