この文章は、2011年度上智大学グローバル・スタディーズ研究科ワークショップ・シンポジウムシリーズ「日本とJapanとクィアとqueer——日本におけるクィア・スタディーズの多様性と『グローバル』クィアの考察」(2011年12月17日)での発表原稿に若干表現上の修正をしたものです。
要旨
「グローバル・クィア」あるいは「グローバル・クィア・スタディーズ」が語られるとき、国民国家や地域、宗教の軸における「クィア」概念あるいは「LGBT」概念の翻訳可能性が取り沙汰されるのは当然のことである。しかし「グローバル」と対置されるであろう「ドメスティック」あるいは「ローカル」な「クィア」は、そもそも各国民国家・地域・宗教内部で確立された概念なのかを問うことも必要だろう。
本発表では、クィア・スタディーズの中心的地域である米国における階級・人種・宗教に注目し、そもそも「クィア」概念あるいは「LGBT」概念が必ずしも米国全体に流通していないことを示し、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という枠組みを批判する。また同時に、「翻訳可能性」が言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを考察し、ワークショップでの論点の1つとして提案したい。
発表内容
「グローバル・クィア」という言葉が とても うさんくさいものである ということは、会場にいらっしゃる みなさんは すでに ごぞんじかとおもいます。なにをもって「グローバル」であるといえるのか。「こまかな ちがいはあれど、ここのこれも、あそこのあれも、クィアだよね」といえるのであれば、そこに共通の「クィア」性とは、つまり「クィア的」であると みとめられる条件とはなにか。そして、そこで すてられる「こまかな ちがい」がうまれる理由とは具体的になんなのか。言語なのか、国ごとの文化なのか、あるいは民族の文化なのか。あるいは、階級や大学教育へのアクセスの どあい なのか。そして、そういったことを理由にしてうまれているとされうる「こまかな ちがい」には、どのようなものが ふくまれるのか。「グローバル・クィア」という言葉からは、たくさんの疑問点が うかびあがってきます。
動詞としての「クィアする」
「クィア」という言葉は、もともとが「変である」「奇抜である」という形容詞として存在しました。そのあと動詞の「台なしにする」「ダメにする」「破滅させる」という意味で つかわれるようにもなり、そして、20世紀になって、形容詞として「ホモセクシュアルの」という意味で つかわれるようになりました。そのすぐあとに、名詞の「ホモセクシュアルの人」という意味で つかわれるようになりました。そのあとエイズパニックなどを とおして「クィア」という言葉の意味が変容していくことは ごぞんじかと おもいます。ただ、わたしが注目したいのは、名詞の「クィア」から動詞の「クィア」——つまり「クィアする」という表現——が うまれたのではなく、名詞の「クィア」より100年あまりまえに、すでに「台なしにする」という意味の動詞が つかわれていたということです。かんがえてみれば、現在「クィアによむ・クィアリーディング」などとよばれる よみかたは、よく、「作品を台なしにする」と批判されます。これにたいし、「台なしにして なにがわるい」「そもそもそこで台なしにされるのは、作品ではなく、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもって よもうとする従来の姿勢なのではないか」というかんがえかたが、クィア・ポリティクス以降の文系学問のなかで すこしずつ信憑性をもって かたられるようになりました。もちろんこれは、実際にいろいろなひとが「よむ」という行為を とおしてやってきたことを、学問が あとおい しているわけです。この、動詞としての、あるいは なんらかのはたらきかけとしての「クィア」の議論は、「グローバル・クィア」という言葉が かたられるときに、簡単に ぬけおちてしまいます。名詞としての「グローバル な クィア」ではなく、動詞としての、「グローバル に クィア する」ということがどういうことなのか。すこし かんがえてみたいと おもいます。