【全文文字起こし】早稲田講演「『ということになっている』社会の息苦しさ」

壇上に並んで立っているマサキチトセと他の登壇者

早稲田大学演劇博物館が2019年7月15日に開催した「エンパクに虹をかける ─ LGBTQ入門」というイベント(会場:早稲田大学小野記念講堂)で、講演をしました。タイトルは「”ということになっている”社会の息苦しさ」。

いずれ文字化する予定ですよと言っていましたが、今回椎名こゆりさんが動画を見て文字起こしをしてくださったので、以下に掲載します。こゆりさん、ありがとうございます。

本イベントのその他の情報はこちらです。

動画

文字起こし

 みなさん、こんにちは。
 さっき見た時よりも少し人が増えていて嬉しいです。マサキチトセといいます。
 セクシュアリティとジェンダーを中心に、ライター……がメインですね、最近は YouTube の配信などもしています。資料の方にホームページや YouTube のアドレスがあるので、執筆してきたものや出してきた動画だったりはそちらをご覧いただければ、どういったことをやっているのか知っていただけるかと思います。

 えーと、そんなライターだの YouTube やらをやっているうちに、こういったイベントでお話をさせていただくことがだんだん増えてきて、ありがたいことなんですけども、LGBT とか、LGBTQ、ジェンダー、セクシュアリティ――ってことでよく聞くような話、というのとは、ちょっとズレる話をすることが私は多いんです。
 例えば、言葉としては何度も耳にしたことのあるであろう〈ダイバーシティ〉。なんていうんでしょうね……本当にね、本当に「多様である私たち」のこと、という考え方としてダイバーシティという言葉を使う場合もあれば、ダイバーシティとは言っていてもね……と思う使われ方もある。先ほど大賀さんから、エレベーターがないところでダイバーシティといえるのか? というお話がありましたけど、団体であれ個人の活動家であれ、〈ダイバーシティ〉という言葉を使ってはいても、必ずしも本当に「多様な私たち」それぞれの個々の経験であったり思いであったりを反映しているとは限らないんじゃないかな、と私は思っているんですよ。

 私はこれまでずっと、何年くらいだろう、5〜6年くらい? 色々書いたりしてきたんですけど、「『ダイバーシティ』で、正しい知識を得ましょう!」というのとは、だいぶ違う系統の話をするものなんです。
 ベースにあるのが、聞いたことのある方もいらっしゃると思うんですけど「クィア理論」。批評理論といわれる学問の分野の中の、セクシュアリティ、ジェンダーなど性に関するものに特化したもの、これがベースになるんですね。
 詳しい説明をする時間はないんですが、簡単に言ってしまうと、社会設計の観点ではなくて、どちらかというと社会分析の考え方。「社会はこうあるべきであって、こういう風に社会を作ってゆきましょう、こういう風にみんながやっていきましょう」とか「こういう仕組みを作り、こうして社会を変えてゆきましょう」という考え方というよりは、「今のこの問題の背景にあるのはこれなんじゃないの?」とか「このような歴史の流れがあるから今こうなっているんじゃないか?」とか、「かつてこうだと思われていたものは、その時はそれが主流の認識であったけれども、今、この視点を入れて考えると違う解釈ができるんじゃないか?」とか。「どうなってるのかしら?」という話を考える。のが、クィア理論です。
 このあたりがさっき言った「ダイバーシティの正しい知識を得ましょう!」というのと違うところかなと思っています。

 そんな私に「LGBTQ 入門」という仕事がきてしまったので、どんな話をしたらいいか、とても迷いはしたんです。
 え、でも、入門だから、ちゃんと「”L” が、”○○” で〜〜」みたいな話をした方がよいのか……!? と(笑)。
(会場からくすりと笑い)
 あの、一応軽くお話ししますけど、〈LGBTQ〉。L はレズビアンの略で、G はゲイですよね。B はバイセクシュアル、T はトランスジェンダーとか、トランスとか……トランスに関しては呼び方として、アイデンティティとして色々あるので必ずしも統一されませんが、最近は総称として、トランスと言うことが多いですね。
 前の3つは性的指向に関すること。自分のアイデンティティの性別と、相手の……アイデンティティはわかりようがないけれど、自分のみている対象としての、恋愛だったり性の対象だったりするものの、まあ自分が判断する性別ですよね。本人のアイデンティティは知らないから。その組み合わせの問題。
 T というのは、自分の性別とはなんであるかという、認識の問題。
 そして Q というのは、先ほどこの子が(傍らのぬいぐるみを優しく指して)Q ちゃんと言ってましたけど、〈クィア〉という言葉ですね。クィアという言葉の説明は、ええと……説明は、とても長くなってしまうので……。
(会場から同意の笑い)
 配布資料にある私のホームページに行っていただくと、『シノドス』というところに書いた文章があります。その中に私がクィアという言葉について、けっこう、ガッ! と説明したものが載っているので、もしよかったらそちらをご覧になってください。

 では。入門、とはいっても、こういうイベントにいらっしゃる方ってたぶん、何らかの形ですでに若干「入門」されてる方が多いと思うんです。なので、今日はちょっと違う「入門」のしかたをしたいな、と思ったんですよ。どういうふうにやったら、その違う入門というか、一回「リセット」できるかな、って考えたんですけど……。
 (会場へ)この中には、もちろんいろんな方がいらっしゃると思うんですが、これ挙手とかを求めるわけじゃないんですけどね、頭の中だけで考えていただければいいかなと思うんですけど、自分自身とか周囲の人の、経験の有無について考えていただきたいなと思って。

 たとえば、自分が性的活動の相手に、お金を払ったことがある方。周りにそういう人がいるかどうか。
 出会ったばかりの相手と、一度あるいは数回だけ、性的関係を持ったことがあるか。
 いわゆる、いわゆる「異性」が身につけるとされている衣服を着たりとか、いわゆる「異性」がするものとされている髪型をしたりとか、口調やふるまいをそのようにしたことがあるかどうか、とか。一時的にでもね。
 あとは、大きく年の離れた相手と性的関係を持ったり、望んだり、想像して興奮をしたことがあるかとか。
 複数の相手と同時に性的関係を持ったり、望んだり、想像して興奮したことがあるかとか。
 いわゆる「同性」との性的接触を望んだり、想像して興奮したり、実行したことがあるかとか。
 あるいは、いわゆる「異性」として扱われることが、居心地がいいと感じたことがあるかとか。
 屋外で性的行動におよんだり、それを望んだり、想像して興奮したことがあるかとか。
 口を使ったオーラルセックスや、肛門を使ったアナルセックスをしたり、望んだり、想像して興奮したことがあるかとか。
 妻や夫、その他のパートナーがいる時にそれ以外の人と性的関係を持ったり、望んだり、想像して興奮したことがあるかとか。
 いくらでも、そういった話は出せるんですけども。

 ――あの、嫌な思い出とかがあったら、一切そんなこと考えなくていいんですけど――ただ、こういったことが、一切ありませんよ、という人って、ものすごく少ないと思うんですね。
 もちろんいろんなセクシュアリティがあって、性的欲望をほとんど抱いていないとかゼロであるとか、あるいは、対ヒトとしての欲望は持っていません、とかもありますし、性的欲望はあるけれども恋愛感情はないですよ、とかっていう……先ほど大賀さんの発表でもいろんな言葉が出てましたね、アセクシャルとかアロマンティックとか、デミセクシュアルとか、色々な言葉があります。だから、いま言ったような話が全然ないですよと、特にさっきの性的関係の話に関してはね、全然ないです、って人ももちろんいるんです。そんなことを望んだこともないという人ももちろんいます。
 けれども、ぜんっぜん、本当に「ない」という人が、多いとは、思えないんですね。

 で、いま言ったような例って全部、保守の立場からは「本来、あるべきではない」とされてきたものですよね。もちろん緩くなっているものもありますよ。オーラルセックスなんてものは別に、したことがありますと言ったとしてもそこまでは、あれですけど。
 こういったものが「規範」として存在している。してはいけない、本来しない方がいいとされているところに、近代の特徴――これは時代的な「近代」ですね――自由恋愛とか、恋愛結婚とか、核家族というものを重視するようになった近代の特徴、まあロマンティックラブイデオロギーとか呼ばれますけど。
 基本的に「女は女らしく生きて、男は男らしく生きて」というジェンダーの規範を前提として、さらに精神的な愛の対象、性的欲望の対象、あとは再生産――つまり子供を作ることですね。その唯一のパートナーとして配偶者、いわゆる「異性」の配偶者というものを置く。
 近代よりも前というのは、まあ近代になった途端にパッと変わったわけじゃなく緩やかにですが、どちらかというと家族と家族の結びつきとか、跡取りをつくるシステムとして、結婚というものがあったんですけど。今でもそういうふうに保守的な場所はありますよね。
 近代に入って、先ほど言ったような「唯一無二の、トップのパートナーとしての配偶者」。性的欲望も恋愛対象も子供を作るということも、全部を対象として一対一の結婚をするということが一般化しました。

 その背景には、国が人口を把握したい、人口を管理したいなどの思惑があります。ちょうど資本主義社会が広がっていく中で、それまで家の農業と家事労働といったものが一緒くたで、どこまでが金銭を得るための労働で、どこまでが生きるための労働……結局全部生きるためなんですけどね? なにかを作って売ったりするのも、家の中で洗濯したりするのも。ただ家事労働といわゆる商売的な労働とが一緒くただったものが、企業というものができて。多くの社会においては男性ですよね、男性が家庭から企業へと出勤して、働いて帰ってくる。そういうスタイルの働き方が、資本主義社会によって一気に広がりました。
 それと同時に何が起きたかというと、それまで生きるために必要でやっていたこと――家事労働、家庭内介護労働、家庭内育児労働、といったものが、女性に押しつけられたわけです。愛の名のもとにね。しかも、家庭というものが、それまでのぐちゃっとした状態とは違ってきて、企業——「社会」って言うじゃないですか、「社会人」とか「社会に出たことがない」って——社会というのはこっち側、そっち側は私的領域、プライベートな空間でしょ、と思われているから、家事労働にも家庭内介護労働にも、賃金が払われることはない。そういった分析はフェミニズムでされてきていますけども。
 そういう背景の中で、自由に恋愛をして、いわゆる男性と女性が結婚をして、愛の名のもとに子供を作り、女性が育てて男性が外で働く。みたいなモデルというのが、近代によって爆発的に増えたわけです。
 それを「結婚の異性愛化」と私は呼んでいます。

 そうして「こうあるべき」「こうでなければおかしい」という規範が生まれたわけですが、この規範を100%守り通している人なんて……正直、ほとんどいないと思うんです。
 先ほど言ったように、規範が緩くなってきているというのもそうですけど、比較的強いであろう規範――皆さん想像しやすいと思うのは、異性愛であれとかシスジェンダーであれとか――に関しても、本当に私たち、そこまで従って生きている人がそんなに多いのか? そんなにマジョリティなのか? どちらかというと実際の行動や欲望、自分の在り方というのは、規範とかなりズレているんじゃないか? と思うんですね。

 この規範というのが、本日のタイトルにもなっている「ということになっている」。私がこの表現を使ったのは、実体とはかけ離れている、と思っているからです。
 そういった規範はあるけれども、しっかりと守っている人って実際どんなにいるんだろう? 守っていなくても「ということになっている」から、そういう体(てい)でお互いに秘密を守り合ったり、気が付かないふりをしたり、そうして私たちは社会を回しているんじゃないか、とね。
 そういう意味で「『ということになっている』社会」という言葉を使っています。

 たとえば――ここからセクシュアルな、性的な話が出てきますので、苦手な方は少しお部屋を出られる選択肢もあると思いますのでどうかご自由になさってください、でも真面目な大事な話なんですよ――、
 アメリカで、エイズパニックが起きたとき。
 HIV への感染が広まって、エイズを発症した人がもう本当にバタンバタンと死んでしまった時代がありました。時の政府や医療業界の対応は遅れ、偏見もすごくありました。医療行為を拒否する医者や、あるいは HIV に感染してエイズ発症してしまった患者を家族が追い出すなど、とにかくもの凄い、もの凄かったんです。社会として患者を守る体制が全然なかった時代というのがありました。

 それでエイズ運動というのが起きました。ゲイ男性もそうですし、セックスワーカー、ドラッグユーザー、つまりハイリスク集団と呼ばれていた人たちですね。ライフスタイルだとか行動がハイリスクな人たち。ドラッグユーザーだと針の使い回しとかがありますし、セックスワーカーも仕事上、感染リスクがありますよね。ゲイ男性に関しては、必ずしも多くの人がするわけではないけれど、アナルセックスをする人もいます。膣よりも肛門のほうが、粘膜の感染リスクは高いので。
 エイズ運動、これがその後のクィア運動へとつながっていくんですが、その運動の成果として、政府への怒りというか、一切放置するのはどういうことだと。これは公衆衛生の問題であって、個人の自己責任ではないんだぞ、という運動が起きたんです。

 それでようやく、政府や医療業界などが対応しようとし始めて。するとぶち当たった問題が、「ゲイ男性を対象に無料で血液検査をします」といっても……全然集まらないわけです。
 もちろん偏見があるというのが当然ありますよね。さらに調査を進めていくと、「自分のことをゲイ男性だと思っていないけれど、男性と性的接触を持つ男性」が、すっげえ多いということがわかってきて。そこで、〈MSM〉という言葉ができました。Men who have Sex with Men. 男性とセックスをする男性。MSM の方、と言われれば、もちろん抵抗はあるでしょうが、それは行動ですから、「男性とセックスをすることのある男性」と言われれば「ああ、確かにするわ」と、まだ認めやすい。「ゲイ男性」「バイセクシュアル男性」と言われたときにその人たちは、必ずしも自分がそうだとは、思っていないんですよね。

 特別に多いケースだというわけではありませんが、結婚をしていて子供も孫もいて、という人もいっぱいいらっしゃいます。なので、アイデンティティやラベルとしての「ゲイ」「バイセクシュアル」と、実態の行動、いわゆるストレートとか異性愛とかノンケとか言われるラベルと、実際の行動とが、しっかり分かれているわけではないんです。
 あるいはレズビアンのコミュニティの中で、軽口のように言われる言葉として「主婦レズ」というものがあります。結婚していてダンナさんがいて、女性同士の性的関係とか恋愛関係に関心を示したりコミュニティに入って友だちや恋人をつくろうとしたり、なんていう人を「主婦レズ」と。ただこれはちょっと軽口というか悪口的な言葉なんですけど。でも、それがどういう意味かというのがコミュニティの中で知れ渡っているほどには、そういった現象はあるということですよね。

 あとは、去年あたりの調査で出たんですけど、「アナルへの刺激を伴うマスターベーションの経験の有無」を問うたところ、男性の……これはゲイとかバイとかストレートとかのセクシュアリティ関係ないですよ? 男性の33.6%が、経験があると。さらに、アナルへの異物挿入の経験があると答えた人が24%。
 この数字は――たとえばゲイ男性バイセクシュアル男性は何割いて〜、とかいう統計はとてもいっぱいあって、それぞれの振れ幅がひどいのでどれも特別に信頼できるものというのがないですけれど、まあよく言われている「5%〜11%」くらい……分からないですけどね?(笑) だとして――
 全員、その全員が、そういった行動をしていたとしても……33%と、24%ですよ?
 その時点で、ゲイだとかバイセクシュアルだというアイデンティティと、マスターベーションにおけるアナルの使い方、使うかどうかというのとは、明らかにズレているというのがわかるじゃないですか。

 たとえば、ちょっとゲイ男性の話ばっかりになっちゃいますけど――GPS 系の出会いアプリみたいなのありますよね。あれ、私最初に入れてみたときに、「1km 圏内」にすごい人数がいてびっくりしたんですよ、えっこんなにいたんだ、って。しかも地方ですよ、この辺じゃなくて。こんなにいたんだ、へぇー、って思ったんですけど、実際色々知ってくると……そんなもんじゃないですね(笑)。GPS アプリに出ているような人というのはごくごく少数。たとえば出会い系の掲示板、あと Twitter も匿名性が高い SNS なので使ってる人が多いですが、そういうところでね、やっぱり「既婚」とか「秘密厳守」とか「ノンケです」とかいう言葉、ものすっごく、頻繁に出てきます。

(パタン! と音)
ああ〜〜〜レインボーフラッグがぁ〜〜!
(レインボーフラッグを倒してしまい落下、拾って元の位置に戻そうとするがなぜかうまくいかない)
……これはちょっと、落としっぱなしにはできないですよね(笑)
(会場、遠慮しつつも笑う)
(無事に固定され、再開)

 アイデンティティの問題として、これは実際の私の知り合いの話をしますね。
 服装も振る舞いも、とても男性的な人で、ずっと独身なんですけど、ただ正直、最初に見たときは……こんなふうに勝手にジェンダーを想定するのは悪い話だと思うんですけど、男性だろうなと思ってこちらは振る舞っていました。や、だからってなにかするとかいう訳じゃないんだけれども(笑)、そうしていたらば、お名前を伺って。相手の話を総合的に考えるに、おそらくその方は、少なくとも産まれたときには女性として性別を割り当てられた人だろう、と感じて。
 でも、その人は自分のことをトランスだとか、おなべって言葉を使う人もいますけど、自分のことをそういうふうに言ったりは一切しないんです。ただ、周りの人たち、長くお付き合いのある人たちが、特に年配の方なので多いんですけど、みんなやっぱりなんとなく、そういうことなんじゃないのかな、とは思っている……。ただ、そんなこと気にしちゃったら、ねえ? 10年も20年も30年もお付き合いできないですから、基本的には「そういうところもあるあの人」という扱いになっています。
 ただ、知り合いの中であればまだあれなんですけど、たとえば女性用のトイレとか――今、トランス女性のトイレの問題、もちろんトランス男性にもかかる問題ですけど、オンライン上でとても話題になっていますね――いまお話しした知り合いの方が、もしも女性トイレに入っていたとしたら、おそらく驚かれるだろうな、というようなビジュアルではあるんです。だから、年配の方でもあるし、恐らくものすごく日々色々な工夫をされているのではないかと思うんです。
 ただこの人は「トランスジェンダーです」とか「心が男です」とか、そういう話は一切してこない。
 あとは、一緒に暮らしている同年代の女性との家庭があるんですよ。どういう関係なのか、周りの人、近所の人も一切知らないっていう。で、誰も特に問うわけでもなく、うわさにするわけでもなく、その二人は一緒に住んでいますね、ということで了解されている。

 なんでこんな話をしたかっていうと、見えている LGBT、私たちが「LGBT」と聞いて、ああこういう人たちかなって想像をする――自分を含めてかもしれないけどね――のって、ものすごく一部、ごくごく一部でしかないんです。

 公表していないってパターンもすごくあるのと同時に、自己認識すらない人もすごくいっぱいいる。
 隠しているとか、なかったことにしているとか、忘れたふりをしているとか。で、周りも、その部分が見えないフリをしている。
 でも、みんな――あ、「多くの人」を「みんな」って言っちゃいけないね――多くの人が、自分のこととか、自分の身の回りで聞いた話を振り返れば、規範からはズレた生き方をしている人はすごく多いんだってこと、本当はわかっているじゃないですか。
 だから、「ということになっている」というタイトルをつけたんですけど。

 こういう話をすると、「見えていない」LGBTQ の人たちっていうのは、クローゼットの中にいるだけなんじゃないか? 言えていないだけなんじゃないか? と思われがちです。

 クローゼットというのは、ご存じの方が多いと思いますけど一応説明しますね。カミングアウトしていない状態のことを「クローゼットの中にいる」って表現するんです。〈カミングアウト〉の元になった英語の表現が、”coming out of the closet ” なので。クローゼットの中の人、というのが言っていない人のことですね。まあ必ずしもクローゼットを出たからって、この人たちに言いました、ってなったからって、次に会う人には言ってないわけだからね、いちいちいちいちドアは閉まっちゃうわけですけど。

 でも、じゃあ言えてないからって、「言えるような社会を作っていきましょう〜!」って方向があるじゃないですか。いわゆるさっき言ったような、「ダイバーシティ系」だとか、「LGBT の正しい知識を得ましょう!」みたいな方向だと、やっぱそういう「言える雰囲気を作って寛容な社会を!」みたいなね……寛容、という言葉を使うかはわからないけど。
 でもねえ、「この人の本当のアイデンティティはこれだ」とか、「この人の本当のセクシュアリティはこれだ」とか、「この人はこういうものを欲望している!」ってのは……そんなに、言えるのかな!? と。

 そういうことを言い出したっていうのがそもそも、さっき言った近代の特徴のひとつなんです。というのは、人種化された同性愛者――「結婚が異性愛化された」って、私さっき言いましたよね。それとほぼ時を同じくして、「同性愛は人種化された」と、思っています。
 人種化とは何か。「この人はこういうことをした」「この人はこういうことをしたいと思っている」という話と、「この人は、こういうことをする人」「この人は、こういうことをしたいと思っている人」……この違いです。前者は人種化されていないですよね。人、という言葉を使ってはいても。

 例えば、私の知り合いの佐藤さん(仮名)。
「佐藤さんは前にこういう事をしたことがある」「佐藤さんは、産まれたときに医者から割り当てられた性別はこっちだった」というのと、「あ〜あの人は〈FtM〉の〈トランスジェンダー〉で、もう手術は済んでいて〜」というのとは、ちょっと違いますよね。
「あの人は〈ゲイ男性〉で、〈○○〉とかっていうタイプの人が好きで、だから『こういう人』」っていうのと、「この人はこうなんですよ」って話は全然違いますよね。

「人」単位のカテゴリとしての同性愛者——近代になった頃のカテゴリなんて、L、G、B、Tと分かれてなんていないですから、当時は「同性愛者」というカテゴリに一緒くたにされて、異常者だ、逸脱者だ、というふうに、がっ、とまとめられました。それまでは、「人って性に関して逸脱することもあるよね」「逸脱した経験のある人もいるよね」だったのが、「この人は逸脱した人だ! 〈逸脱者〉だ!」になってしまった。人単位のカテゴリができてしまったんです。

 そのときに、バッ、と分かれてしまった。いわゆる〈ノーマル〉って言葉ありますよね――よく、じゃあ残りはアブノーマルですかってツッコミが入りますけど――いわゆるノーマルと呼ばれている人たち、異性愛者でシスジェンダーの人たちというのと、そうじゃない人たちと、グループとして分かれちゃったんです。
「(こちら側の)人!」「(あちら側の)人!」(腕を左右に強く振り、それぞれを強調)

 もちろん性の規範というのは、近代に至る前にもありました。ビクトリア朝とか。ただ、一生、あるいは少なくとも長期間、異性愛とかシスジェンダー、つまり「ノーマル」であり続ける人間というのを想定し、そこから外れる行動や欲望というのは、実際には自分たちもしていても、他の「逸脱者」の人たちがすることだ――というように押し付けて、それを前提として社会を回すようになったのは近代です。

 そうすると、「逸脱者」の側に追いやられてしまった人には、2つの選択肢がありますね。
「ノーマル」を装うか、「逸脱者」のカテゴリを引き受けるか。
 今のところ、どちらの選択肢も、うーん……生き延びるためには、その日その日、その場その場で選ばなくてはいけないことですが……。
 ただその、逸脱者のカテゴリを引き受けて……いや、そもそもカテゴリ全体として差別というか異常視され迫害されてきた歴史がありますから、抵抗するためにはやはり仲間を作ったりしなきゃいけないですよね。
 で、仲間を作ると文化が生まれます。みなさんがよくご存知のところでいうと、ドラァグ・ショーとか。ヴォーグという踊りとか。クラブカルチャーはアメリカでは特にすごかったです。日本だとなんだろうね、ゲイ男性の熊的なアートとかかな。いま私が思いつかないだけで、他にも色々あるでしょう。色々な文化を作ってきた歴史があります。

 そうして「私たち」という感覚が生まれて。
「そういう人」としてひとくくりにされてきた歴史がありますから、「『そういう人』で何が悪いんだ?」という態度が生まれたわけです、さっきお話したエイズ運動と時を同じくして。
 よく言われる「ストーンウォール」という、ニューヨークで起こった事件があります。コミュニティの場に警察がガサ入れみたいにして、そこで起こった暴動です。「これをきっかけに LGBT 運動が始まった」などとよく言われています。しかしその3年前にあたる1966年に、サンフランシスコでも同じような事件がありました。そのときには、ワアワアやった後に、警察に働きかけて、今でいうトランス女性たちの就職がしやすくなったんです。それまでは、身分証の性別が違うとハローワークのようなところに行っても門前払いだったのが、ちょっと変わって。
 このハローワークの話とつながるんですけど、ストーンウォールにしてもそうですし、いま言ったサンフランシスコのコンプトンズ・カフェテリアでの事件もそうだったんですけど、そこにいた人たちというのは大半がセックスワーカーだったんですね。オフィシャルな就労機会に著しく恵まれない、それこそハローワークで紹介されるような仕事の選択肢を閉ざされている人たちが多くて、さらに、有色人種が多かった。しかも、内訳としてはトランス女性と現代では言われる人たちが多かったんです。
 よく「ゲイ運動の始まり=ストーンウォール」と言われるんですが、実際にはトランス女性が大半だったんです。そしてゲイ男性、バイセクシュアル男性、トランス女性、いずれにしてもセックスワーカーの割合がとても多かった。

 いま、LGBT とか LGBTQ 運動と言われているものには、「こんなに『まとも』なんです!」みたいな言い方で権利や尊厳を回復、獲得しようとしているものもありますけど、ちょっと、うーん……もちろんそれも大事です、けれども、切り捨てるものが多い。先ほど言ったトランスジェンダー女性やセックスワーカー、「ストーン・ウォールがゲイ運動の始まり」と言った時点で、ちょっと記憶から消えそうになりますよね? その点で『ストーンウォール』という映画もだいぶ批判されましたけど。

 そもそも LGBT、LGBTQ という言葉は「そういう人」としてくくられてきた歴史があるから、くっつけることに意味があるわけですよ。別概念ですよ、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーっていうのは。それこそ、Tは関係ないじゃないですか? って言う人もいるくらい。
 だけど、「だけど、連帯しましょう!」――という言葉なわけですよ。

 よく、LGBTQIA、P、O……みたいなね、どこまで長くすんねーん、と当事者の間でも笑い話にすることがあるんですけど(笑) でも、そうやって、どんなに分断されそうになっても――それこそアメリカで反差別法を成立させようとしたとき、トランスジェンダーの部分を削れば通りやすくなるぜ、みたいなことになって、トランスジェンダーの部分を消して法律を通そうとして……ということがありました。結局できなかったんですけど。
 迎合してしまう、社会に。社会は厳しいからね。そうやって分断されそうになる、それでも連帯を! という言葉なんです。
 あるいはどんなに自分が誰かを置き去りにして、自分だけ得をしたくなっちゃっても。それでも、連帯することを諦めません、そこに戻ります――という意志の言葉として、LGBT とか、LGBTQ、LBGTQIAP ナントカカントカ……っていうね、そういう言葉たちはある、というふうに私は思っているんですね。

 さっき言った「カテゴリの名前と実態がすごくズレている」という話をすると、じゃあ LGBT カテゴリいらないじゃん、となっちゃうじゃないですか。なんで名前を付ける必要があるのかって。だって、ここにいるストレートのシスジェンダーの男性と、ここにいるトランスジェンダーのストレートの男性と、ここにいるシスジェンダーのバイセクシュアルの男性と、ここにいるレズビアンの女性と〜……って、ばーーーっと並べると、博物館になっちゃうけど(笑) そうやってばーーーっ! と並んだときに、誰がどんなことをしている人なのかなんて、本当は一切予想がつかない。本当は! つかないはず、なんですよ。

 さっきの MSM の話をすれば、自分の隣にいる人、電車なんかで乗り合わせて隣にいる男性が、たとえば女性と手をつないでいるとしても、昨日の夜に女性とセックスしたか、男性とセックスしたかの確率なんて正直五分五分ですよ、わかんないんですもん。そのぐらい、カテゴリが実態とズレている。
 でも、じゃあなんで、LGBT というカテゴリを使うのか? といったらば、「逸脱者」として、「そういう人」たちとして、くくられて異常視されてきた歴史があるから。
 連帯を諦めない、という意志を持つに至るような、迫害の歴史を持つからです。

 でも LGBT って言葉に関しては、最近ものすごく広まってきましたよね。メディアにも出てくるし、一般的に、日常生活において……まあ私は自分で丸出しなので(笑) とは思うんですけど、普通にそのへんの文房具屋さんのおじさんとかも最近では LGBT という言葉を知ってるなって。だいぶ広まってるなと思ってるんですけど。

 たとえば昔だったらばね、全然(自分のことを)言わない人がほとんどでした。だってその言葉自体を自分のものだと思っていなかったり、言葉自体を知らない、聞いたことがないからね。そういう時代から、社会運動の高まりだとか、メディアの広がりとかでどんどん、「〈ノーマル〉を装わない」という選択ができるようになった。さっき「〈ノーマル〉を装うという選択肢」と「〈逸脱者〉としてカテゴリを引き受ける」という選択肢の二択になってしまうという話をしましたけど、「装わない」という選択肢もアリなんじゃね? という感じが、最近は……もちろん状況や地域、周りの環境によって違いますが、でもだいぶ、言いやすい環境にいる人の数が増えてきたんじゃないかなって思うんですね。

 ただ、メディア上で LGBT という言葉は広まって認知度が爆上がりしてますけど、たまに変な見出しとかありますよね?

「自死した LGBT 男性」――(うんざりと訝しむ表情で)どれだろう?
(会場から控えめな笑い)
あの、今じゃなくて昔の経験も含まれば、場合によってはその全部であるってことも確かにあるかもしれないって以前知り合いに指摘されて、確かにとは思ったんですけど……でも今の段階を指して「LGBT 男性」って、ちょっと変な表現。
「芸能人の娘が LGBT をカミングアウト!」――どれでカミングアウトしたのかさっぱりわからない。
 それから経済系の雑誌、たとえば『プレジデント』とか。そういったものにLGBTが出てきて、変な使い方してんなあ! と思うこともあります。

 ただ最近ね、ほんとここ何ヶ月とかで何回も見ておもしろいなと思ったのは、これ Twitter とかで若者が書いてるんですけど――普段はクローゼット、つまり言ってないんですって。ただ週末によく東京とか行って、その人はゲイかバイなのかわかんないけど、まあ仲間と会ったり新宿2丁目に遊びに行ったりもしている様子なんです。そのことを、「自分は週末 LGBT だから」というふうに、言っていたんです。
(会場からわずかに、戸惑いとも感嘆ともつかない反応)

 最初こそ、なに言ってるのかな? って思ったんですけど、でも、なんか……え、そういうふうに思ってるんだ! って。ゲイだ! とか、バイだ! じゃなくて、自分の帰属意識として、LGBT というコミュニティの中に自分のアイデンティティがあるんだと思って、えっ、すごいな、と思って。
「自分は LGBT です」と言う人も時々目にするじゃないですか。当事者ではない他人が言っているのを聞いて「なーに言ってんだよ、どれだよ(笑)」なんて言うことはあったんですけど、自分で言い出している人が最近はいて。
 あと、Twitter のプロフィール欄で「lgBt」と大文字にしたり「(L)GBT」とカッコで囲んでいる人って最近多いんですよ。「自分はこれだけど、でもこの中のメンバーなんですよ」という表現だなあと思っていて。

 LGBT っていう言葉が変なことになってんなあって思うメディアの見出しとかもありますけど、レズビアンだとかゲイだとか、バイセクシュアルだ、トランスだ、あるいは自分をホモだという人もいますね、ビアンだとか、私は自分のことレズって言うしって人だっている。自分は GID です、って人も、Xジェンダー、クィア、パンセクシュアル……自分は女装子です、って人もいるし、ポリアモリーだとか、いろんな言葉がありますが、その中で「LGBT だ」という認識が、え、広まってるの最近!? って思ったんです。
 LGBT って、自己認識だけど、同時に他者との関わり、帰属意識というか連帯を意識している言葉です。もしかして、コミュニティというか仲間意識という認識を持って大人になることが可能な時代になってきたのかなって、それはすごく面白いなって……私としては喜ばしい、嬉しいなって思っています。

 ただ、「〇〇だ」って言う、ということ……さっき「自分のカテゴリが自分の実態とはズレている」っていう話をしましたけど、それでもやっぱり言わないと、〈名前〉を使って言わないと、人からは勝手にシスジェンダーで異性愛者であるだろうと事前に決めつけられますよね? 言ってない人はデフォルトで全員異性愛者でシスジェンダー、みたいな。
 よく「カミングアウトできる社会を作りましょう」だとか言うじゃないですか。でもカミングアウトは権利ではないと思っていて。カミングアウトしなければならない、ということはどういうことなのか? 結局、さっき言ったように「ということになっている」から、言わなければ「そういうこと」にされてしまうということですよね?
 規範の裏表でしかない。カミングアウト、クローゼット、どっちも別に最初から決めつけられなければ言う必要もないし隠す必要もないじゃないですか。
 よくこの例えを出すんですが、ただ普通に生きていたらクローゼットを強引に建てられちゃった、って感じ(笑) で、いや、ちがうよー? と出るんだけども、でも、その人には「あぁ違うんだあ」って思われても、また違う人に会ったときにはバターン! って閉まっちゃうわけ(笑)
 なんなら、同じ人でも「え、言ったよね……!?」ということありますよね。
 当事者の方にはたぶん共感していただけると思うんですけど、言っても言っても! 異性愛シスジェンダー、という前提で話をしてくる人、いるんですよ(笑) ちょっとどういうことなのかわかんないんですけど。

……きのう父親にやられました、私。「言ったよねぇ!?」(笑)

「でもクローゼットの人って、みんな事情があるんだから慎重にやったほうがいいよ」とか、
「地方に住んでる人はやっぱりちょっと状況考えたほうがいいよね」
「家族とか職場とかが保守的だとなかなか……」
「自分で『この人なら』と思える人にだけ、っていうのはどうかなあ」とか、心配する声ってあるじゃないですか。
 でも、「事情があるから」みたいになってるけど、私としてはそもそもカミングアウトしないと生きづらい社会全体の事情があるので。カミングアウトしてもしなくても、言っても言わなくてもメリットもデメリットもないのが、社会のベストじゃないですか? 軽〜く言って、ほ〜、くらいの。いや、重くカミングアウトして「ほ〜」て言われたらちょっと傷つくかもしんないけど(笑) でもまあ、どんどんカジュアルにカミングアウト……もう「カミングアウト」じゃないよね、そうなったら。普通に「昨日スルメ食ったわ」くらいの話(笑) そういうレベルとしてできるようになれば「ほ〜ん」じゃないですか。
 いや「スルメ食った」だけ言われたらどうしていいかわかんないか!(笑) でも、「昨日スルメ食って美味かったよ」とかさ、なんか普通の会話としての流れだったらさ、「へぇよかったね」みたいな話になると思うわけですよ(笑) そのくらいになればいいと思うんですよ、なかなかそうはなっていないので。

 なんだろうね、「カミングアウトできる社会へ!」ってなると……
「ハイ、社会がありますねえ〜(手で丸い輪を描きながら)こういう人たちがほとんどですけれども。あ、LGBT の方々も〜(外から小さな塊をつかみ、輪の中にヒョイとくっつける)」
みたいな。
「も」みたいになる。そういう前提がある気がするんですよ。結局さっき言った、「人種化して、外部化して、逸脱者として出した」まま、「あっごめん忘れてた〜」みたいな。そんな感じで「拾う」のが、本当に望ましい社会なのかって。結局「追加」をするだけで、規範は残ったままですよね? こういったことをする人は異常者だ、という規範。それを、これに関しては許してあげますよ〜と。
「アッ、同性愛? あっでも相手の方のことをとても愛していらっしゃって。ああそれは素晴らしいですねえ!」
「アッ、同性カップル? でも子供が欲しい? まあ素晴らしい。良い家庭を作ってくださいね!」
「アッ、トランスジェンダー? でも女性らしい服装をされてますね、なんて美しい!」
 ふざけんじゃないって話ですよ。

 それで(当事者が)生きやすくなることは、もちろん否定しないですよ。なんか、クッソ気持ち悪りィんだよ! みたいなこと言われるよりは全然いいんですけど!(笑)
 でも、「アッ(「気遣い」の微笑み)」みたいなものに関しては、それでいいのかしらと。それで進めていってもね……。

 なんでそういう話をしてるかっていうと、LGBT と言っても見えている LGBT は本当にごく少数だ、という話をしましたが、そもそも見えないのは「人種化されてしまうから」。こういう経験があります、こういう欲望を持っています、こういう風に生きたいと願望を持っています、と言ったなら、「そういう人」にされてしまう――から、言えない。「そういうことすることがあるんだ」であれば、言えることであっても。

 さっきの例で言うと……セックスワークを利用したことがある、とかって、『そういう人』とはならないと思うんですよ。人単位として、『お金を払ってセックスをする人』とまではならないと思うんです。セックスするのにお金を払うことあるって人もいるよね、そういう経験ある人もいるよね、くらいだと思うんですよ。中にはいるでしょうねっていうふうな認識だと。

 だけど、特にこの LGBT に関しては、「そういう人」とされているから、たとえば10年前の自分の身分証明書になんという性別が書かれていたかが言えないとか、昨夜セックスした相手の性別を伏せて友だちと猥談をする、とかね、そういう人が出てくる。逸脱者として「お前は『そういう人』なんだ」とされてしまうから。

 となると、さっきの「カテゴリと実態のズレ」を思い出してほしいんです。「ということになっている」社会というのは、その規範から、「ハイ逸脱してます」「ハイ私も逸脱」「逸脱してますなあこれは」「逸脱、してるけど?」「逸脱? してますよ!(笑)」とできる人、自分でアイデンティティを引き受けたり、「私はこのセクシュアリティだな」と名前を自分から獲得――ゲイだったりバイセクシュアル、パンセクシュアル、それは色々ありますけど――そういう人だけじゃなくて、まさに今「と、いうことになっている」体(てい)で生きている人たち。自分のことを L とか G とか B とか T とか Q っていうふうに認識して「いない」けれども実態は色々あり、だけども、あたかも実態もしっかり異性愛でシスジェンダーですという「体(てい)で」生きてます……という人、すごくいっぱいいる。
「ということになっている社会」という規範は、LGBT といわれる、もしくは自分で言う人々だけではなく、ものすごい人数のその人たちのことも抑圧しているわけです。

 よく「LGBT にとって生きやすい社会は、異性愛者とシスジェンダーにとっても生きやすい社会です」なんていうセリフがありますけど、それは別に「お互いに尊重しあえる優しい社会だから☆」って話じゃないんですよね、私の理解では。
 そもそも一生に渡って、一貫していわゆる異性だけを恋愛対象、性の対象とします100%です私は! という異性愛者や、一生に渡って自分の性別に一切! 違和感を感じない、生まれたときに割り当てられた性別としての振る舞いや服装、生き方、そのすべてに一切のつらさもなく受け入れられる人なんて……ほとんど存在しないですよね。
 すっごい人数が、隠したり、なかったことにしたり、一時の気の迷いだったのだと思い込もうとしたり、忘れたふりをしたりしながら、生きています。私たちの社会のほぼ全員が、「ということになっている」規範を押し付けられ、脅迫されているわけです。
 よく差別問題において、「マジョリティも当事者です」なんて言うじゃないですか。「加害者として」あるいは「特権を持っている者として」当事者です、って。でもね性の問題は、ほとんどの人にとって本ッ当に、まじで! 自分ごと。だと私は思っています。

 私は飲食店をやっているので、カウンター越しに人とよく話すんですけど、「LGBT とかちょっと……」とか、「気持ち悪いとか思っちゃうのって間違ってますか」なんて質問をされる時もあって。「気持ち悪いと思ってしまうのはしょうがないよね」ってよく答えるんです、だって思っちゃうんだから。それを間違っていますと言われたところでなんにも解決しないんで(笑) それはわかったよ、と。
 ただ、自分がそう思ってしまう背景には社会の刷り込みがあるんじゃないかな〜とか、そういう可能性もちょっと考えてみてね〜、みたいなことを言って……そしてよく付け加えるのが、「自分もいつそうなるか分からないから、そう考えていると自己否定や自己嫌悪で辛くなっちゃうよ」と言うんですね。
 そうすると、半々くらい、反応として(笑) 「自分はありえないですよー!!」みたいなタイプと、「ああ確かに、まあ、まあ……」みたいなタイプと。で、ありえないの人に追い打ちをかけるように(笑) 「ありえないって思っていると、ありえちゃった時に本っ当に混乱して辛くなっちゃうから、『今のところはナイなあ』くらいに思っといたほうがいいよ〜」って言うの。そうすると、「確かに……」みたいな反応を示す人もけっこういます。まあしょっちゅう性の話をしているわけじゃないですけどね、普通に「こないだは酔っ払っちゃってごめんねぇ」みたいな話ばっかりしてますけどね(笑) でも、性の話もたまには出ますよ。そういうときには、こんなふうに話したことがあります。

「まあ確かに……」となる人がゼロじゃないってこと、「ありえないっすよ!」という反応が多いと思っていたらそうでもないのが分かって……これは特定の人のことを想像して言っているわけじゃなく全体として考えてですけど、身に覚えがある人、というのも、実際行動に移したかどうかはおいておいてね、欲望を持つとか願望を持ったことがある(今はないけど)、とかも含めてね、「身に覚えがないわけじゃない」人っていうのが、実際は結構いるんだろうなあ、と。

 こういう話するとねぇ、あの、ポストコロニアル関係、植民地主義関係の勉強や研究をされていたり興味を持っている方が「確かに! LGBT って欧米の概念で、日本には適用できないですよね〜」とか「パキスタンの地方に行くと男同士の関係があるらしくて」とか「ゲイって名前で呼ばないだけなんですよね」「ネイティブアメリカンの文化って、”two-spirit” と言って第三の性なんですよね〜」とかいう話をされることがあって(苦笑)

 まあ、文化によって欲望やアイデンティティのあり方が変わったり、歴史的に変遷するのはもちろんそうなんですけど。たとえば LGBT という概念をね、そのカテゴリを自明視、当たり前だとして他の文化にまで同様にリベラルな態度を広めようとするやり方は帝国主義的ですね、といった批判の声もあります。
 確かにその指摘は正しいんですが、「欧米はそうだろうけども」という、なんか、うーん、あるじゃないですか、えっ、ちょっとナショナリズム入ってるのかな? っていう。「日本は、こう!」みたいな。
 こうして色々とお話をするにあたっては、今の日本だけの事象を見ているわけではないので。たとえばアメリカの話は色々見ています。で実態として、アメリカだからって「L! G! B! T! それ以外!」みたいな社会なわけは一切なくて。正直、ほとんど同じような状況です。地方によってとか、多少のズレはあるでしょうけど。

 何が言いたいかというと、人間誰しもにとって、近代の――いま私たちが知っているような性の規範というのは、『無理難題』です。
 なので、みんなが抑圧をされている。みんなが脅迫をされている。全員とは言い切れないですけどね、ほとんどの人、社会全体がそういう抑圧を受けているわけです。これ別にみんなそれぞれ大変ねっていう、「みんなちがって、みんないい。」みたいな話じゃないですよ?(笑) 特にその中で〈逸脱者〉として名前をつけられている人々には、そういう歴史があります。

 連帯の言葉としての「LGBT」「LGBTQ」には、連帯を可能にすると同時に、なにかやっぱり人種化、というものを強化してしまう部分はあると思うんです。「私たち LBGTQ」というとき、内部の垣根を超えてはいるんですけど……。
〈逸脱者〉として割り当てられた、押し付けられたカテゴリ。これを逆手に取ってじゃないけれど、「そういう人で何が悪い?」みたいな態度、これがいわゆる〈プライド〉、プライドパレード等と言うときのプライドです。英語では “pride” の反対は “shame” とされています。「恥」です。つまり〈逸脱者〉の烙印を押され、恥ずべきことだとされてきたことへ対してのアンチテーゼとしてプライドという言葉を使っているんです。
 それは否定できないというか、それも大事な戦略じゃないですか。抑圧されてきた私たち、迫害されてきた私たちは、っていう。〈アイデンティティ・ポリティクス〉、〈アイデンティティ政治〉なんて言われますけど。

〈ジェンダーフリー〉という言葉が昔……15年くらい前? に出ましたね。この言葉、日本においては政治の色がいっぱいついてしまっているので、ご存知の方は一回忘れてください、日本での意味を。
 英語圏でジェンダーフリーという言葉が教育学の分野に出てきた時というのは、ジェンダーから自由、とかジェンダーを取っ払って――教育学の言葉ですからね、教室の中においてジェンダーを度外視して、という意味だったんです。
 しかしそのジェンダーフリーという言葉を使った教育学者が提唱しているのは、〈ジェンダー・センシティブ〉。ジェンダーに繊細に、ということですね。その場にいる人たちは結局、教室の外ではジェンダーを前提に扱われている。女の子は女の子らしくしろだとかを、ダイレクトにしろ間接的にしろ、メディアを通してにしろ、すごく受けるわけじゃないですか。ジェンダーの刷り込みを。それを連れてきて「ジェンダー関係なく全員平等に扱いまーす」ってやったってね。
 例えば……アメリカだと今はそうではないですけど、当時は日本と同じように「女子は理系はちょっとねえ」「数字は苦手だろう」みたいな偏見があったわけです、今は逆に平均を取ると女性の方が理系の成績はいいんですけど。メディアを通してだったり、家族、先生などのちょっとした言葉や何もかも、あるいはテレビドラマに出てくる医者が男性ばっかりだとか、そういうのも含めてね、もう、刷り込まれてきちゃってるわけじゃないですか。「女子は理系が苦手!」を。
 それをクラスに集めて「はーいじゃあサイエンスのクラスやりたい子はこっち」。面談にしても「〇〇さんどのクラス取りたいの?」とやっても、なかなか、女子、理系選びづらくね……? って感じじゃないですか。
 だから、クラスルームの中でジェンダー・フリー、ジェンダーを度外視、とやっても、ダメじゃん?
……というのが、その教育学者の主張だったんです。
 ジェンダーの影響をすでに受けている生徒たちの、すでに受けているという事実に働きかけなくてはならない、それを前提に物事を変えていかなければならない。そうしてジェンダーにセンシティブになりましょう――という意味で〈ジェンダー・センシティブ〉が良いのではないか、〈ジェンダー・フリー〉では良くないんじゃないか、という議論があったんですよ。
 日本の話と全然違うじゃないですか。

 それって、さっき私がお話した「カテゴリと実態がズレているよ」という話につながります。みんなズレズレなのだからといって「カテゴリ関係ないよね」「みんな自由で好きにやればいいじゃん」と、そういう方向に行くのは、やはりさっき言った迫害、異常視、逸脱者として追いやられて「普通はああじゃねえよな」と言われてきた歴史があって、それで実際エイズが “gay cancer”、ゲイの人がなるガン、なんて名前で呼ばれて本当に何年も――10年近くも? 放置されたから、ばんばんばんばん人が死んだわけですよ。下手したら人が死んじゃう、(噛んで)みなごろし、いや皆殺しじゃないよっ、みごろし! 「見殺し」(笑)
皆殺しの件もナチスではあったわけで……笑っちゃいけないですね。
 そう、下手したら本当に見殺しにされるということを考えると、「そういう人」としてくくられてきた私たち、っていうアイデンティティはとても大事です。
 だけどやっぱり、「当事者はこちら、その他の人はこちら! 当事者の権利と尊厳を!」という分け方での活動は――大事なんですよ、その活動は。だけどこの分け方って、順番を逆にすれば「ノーマルはこちら、逸脱者はこちら」の追認でしかない。

 そのままの枠組みのままでやったらば、「寛容か、不寛容か」——アッいいですよと言うか、それダメです、と言うか——の枠組みでしか、私たちの性の権利や尊厳の問題が語られなくなってしまうじゃないですか。
 私たちの生きる上でのあり方、セクシュアリティとかアイデンティティなどの実態から目を背けて、結局「ということになっている社会」の「ということ」のバリエーションが増えるだけ、みたいな。規範があって私たちを苦しめていること、ズレている人たち――まあほとんどの人がズレてるんですけど――を苦しめている規範は、そのまんまじゃないですか。

 なので、私が今日みなさんと共有したかった考え方というのは……〈LGBT〉、歴史を引き受けて連帯を指向する言葉としてもちろん使っていきましょう、だけど使っていきながら、そのカテゴリ自体には「ん?」と、「眉唾ものかな?」と疑い続ける。そうして〈ノーマル〉と呼ばれている人たちも含めた私たち社会の全員が、あらゆる性のあり方についてとやかく言われない社会を目指す、っていうのが、私が「そうなったらいいな」と思っているビジョンなんです。
 という話を1時間してきたわけですけれど(笑) 多少なりとも「そうだよね」って共感してくれる人がいたら、嬉しいです。以上です。

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。