「セックスワークは生き延びるための手段」と思いたかったのは自分ではないのか

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2022年11月20日

(※お前の心境の変化なんか読んでも何の役にも立たないよ、という人は、すみません、多分ほんとうに役に立たないので、もっと大切なことのために時間を使って下さい。)

セックスワークについてはこのブログでも他の場所でも(現代思想とかYouTubeとか)折に触れて言及しているので、私の発信したものをいくつも目や耳にしてくれている人であればセックスワークが私にとって重要なトピックであるということはご存知かと思います。

現実にセックスワーカーへの偏見がはびこっている世の中で、セックスワーカーの尊厳や権利(労働者としてのそれ、女性やセクシュアルマイノリティとしてのそれも含め)を尊重する社会にしていくために少しでも役立つことがあればと思って発言してきましたが、その中には「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という物言いが多く含まれていました。

それは「セックスワーカーはセックスが好きなんだ」とか「他の仕事ができないからセックスワークをしてるんだ」、あるいは「堕ちるところまで堕ちた結果セックスワークをしてるんだ」、「セックスワーカーには金を払えば何をしてもいい」というような、セックスワーカーの生活や尊厳を直視しないことによる偏見に満ちた考えが世間に広まっていることへのカウンターパンチというか、「労働だよ?仕事だよ?」という反論めいたものとして「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という主張をしてきたところがあります。

実際そういう話をした時に「じゃあ仕方ないか」と納得する人がいたことは、少しばかりの違和感を私に残しながらも、この物言いがある程度偏見の払拭に少しは効果を持っているのだという感覚を私にもたらしました。

じゃあその時感じる違和感って何だったのかというと、「なぜこの人に納得してもらって『仕方ない』と(許可や承認めいた)発言を引き出さないといけないんだろう」というものでした。でも私は、その違和感に気づかないふりをして、あるいは意識的に「必要悪」のように一人で納得して、「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」と言い続けてきた気がします。

自分の感覚をごまかして、自分がやってることが正しいかのように言い聞かせる必要があったのだと思います。

椎名こゆりさん @koyulic7 が昨年末に出した「わたしにだって言わせない」というブログ記事を拝見したのは、確か年明け間近のことでした。

椎名さんは、「この仕事を始めるときに、生きるため性風俗店で働くか、それとも貞操(?)を守って死ぬか、と天秤にかけた覚えとかね、ないんです」と書いていました。そして、以下のように続きます。(どこが欠けてもいけないと思うので長く引用します)

時間をかけてあらゆる方向に考えを巡らせ、やっぱりこうするしかないのだ、もはやわたしにはセックスワーク(そんな言葉もまだ知りません)しかないのだ、という熟慮の末の選択でもなければ、場当たり的で半ばヤケのような勢い任せの選択でもない。どっちでもない。自分の意思によるものだったことも確かですし、追い込まれていたことも確かです。どちらかに振り分けられるようなものではないんです。

その結果、なんとかやれないこともなく、他に検討した方法よりもその時の自分にとっていくらか総合的なメリットがありそうに見え、他人の足手まといにもなることもおそらくは少ないだろう、と結論付いたので、「もう少し頑張ってみよう」を一日ずつ一晩ずつ重ねるうちに気付けばそれなりの年月が流れた、というのが正直なところです。そして今となっては(この「今となっては」は省略できない)仕事にも馴染み、多少の(多少です。キャリアが長いと「天職と感じて誇らしげに働いている」ようなイメージを持つ人もおられるようですが、必ずしもそのような歌舞伎町の女王状態ではありません)愛着や「慣れ親しみ」のようなものはいくらか生まれており、また日々積み重ねてきたスキルやノウハウを捨てる気持ちにもなれず、他にもここでは説明したくないさまざまな理由によって、続けています。

椎名さんはセックスワークで稼いだお金を実際に生活費に充てていて、だからセックスワークは生き延びるための手段ではないとは言えないとしつつも、職業として選択する時の複雑さ、整理のつかなさ、そしてその選択の理由についての語りを要求されることや、語らぬセックスワーカーについて勝手に理由を決めつけることの不当さを教えてくれています。そして、「彼女は生きるために、セックスワークを選んだ。」と自身のことを書かれた時には「そのことがわたしが尊重されるべき理由であっちゃいけないんですよって言いたい」という気持ちになったと語り、勝手に理由を決めつけられたのは「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう、と思われていたのかもしれません」と説明しています。

「セックスワーカーを『生きるためにその道を選んだのだから』と他人が定義することは、危ないことだと思う」——この部分まで読んだとき、これは正に自分がしていることではないかと、怖くなりました。私はセックスワーカーではないし、過去にそうだった経験もない。なのに「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という物言いをしてきた。怖くなって、すぐに脳内自己弁護に走りました。「でも世の中の偏見に対抗するにはこうしないと」「偏見に満ちた人に少しでもセックスワーカーを尊重してもらうにはこの言い方しか」などなど、私の頭の中の弁護士が私を弁護し始めました。

そうしているうちに、楽になれるはずだと思っていました。実際は、もっと苦しくなっただけでした。

ここで公に語ることは私以外の人のプライバシーを侵害することになるため詳細は伏せますが、私には身近に元セックスワーカーがいます。古い時代の話です。5、60年前の話なんじゃないかな。その人(Aさんとします)がセックスワークをしていなければ、もしかしたら今私は生きていなかったか、より不運な境遇に生きているか、あるいは生まれてすらいなかったかもしれません。自己弁護の結果自分が苦しくなったのは、Aさんのことが頭から離れなかったからだと思います。

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今言った通り、Aさんがセックスワークに従事していたことで実際にAさんは生き延びたし、まわりまわって私もこうして生まれ、生き延びることができています。だから、セックスワークの生き延びる手段としての側面を否定することは出来ません。貧困から抜け出すべく必死に働き生きて私にあらゆる機会を作ってくれた母に感謝しているのと似たような感じで、Aさんにも(セックスワークだからではなく、生き延びてくれたことを)感謝しています。それがいつしか——きっと私の中にあるセックスワークへの偏見(「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう」)なのだと思います——Aさんがセックスワークをしていた理由を「生き延びるためだから」と勝手に決めつけるようになっていました。

椎名さんは、「一体またどうして、なんだって風俗なんかを、という質問に何度も何度も何度もさらされるうちに、まるで説明責任があるかのような気分にいつの間にかなる日もあ」ったと言います。私は、Aさんがセックスワークをしていた事実を恥ずべきものとは思っていないという自分のポージング(姿勢作り)のために、Aさんの本当の理由や経緯を尊重せず、また「恥ずべきものとは思っていない」くせに——実際にはそう思う部分があったのだと思います——言い訳するかのように、勝手に説明責任を感じて「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」と言い続けてきた気がします。

椎名さんの記事を読んで、「セックスワークは生き延びるための手段」と思いたかったのは自分であることに気付かされました。

自分がAさんのことを恥じていたのではないか、自分が「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう」という偏見をセックスワークに対して持っていたのではないか——頭の中の弁護士はぐうの音も出ませんでした。墨で書かれた「有罪」の半紙が脳内裁判所の風になびきました。

数多くある職業の中で特にセックスワークばかりが「なぜその職業を選んだのか」を問われ語られること自体が、セックスワークを他の労働のあり方とは別の、理由がなければすべきではないようなものとする社会通念の現れなのでしょう。それを頭ではわかっていながらも、それは興味本位で「セックスが好きだから」とか「薬物中毒だから」とか「父親に虐待を受けてたから」という回答を引き出したくて「なぜ」と問うたり邪推したりすることが問題なのであって、他の職業と同様に「生活のため」とかだったら問題ないと思っていました。でも、それは自分に都合のいい、間違った解釈でした。

ひとつには、他の職業もまた「生活のため」とは言えど、単純にその動機のみによって選択されたり継続されたりしているわけではありません。椎名さんがセックスワークを選んだ時のように、「熟慮の末の選択でもなければ、場当たり的で半ばヤケのような勢い任せの選択でもない」選び方だったり、やってみたら「なんとかやれないこともなく」「気付けばそれなりの年月が流れ」ており「愛着」が生まれたり生活のリズムが定着したりして継続している——そういうことって、職種に関係なくよくあるパターンです。

もうひとつは、こうして単純なひとつの動機によって選ばれるわけではないにも関わらず、幾多ある職業の中でセックスワークだけが「なぜ」と問われること、勝手に「なぜ」かを決めつけられること、何かしらの明確な「なぜ」があると想定されていること自体が、そもそもおかしいというものです。その中身が「セックスが好きだから」でも「生活のため」でも、セックスワーカーのことを勝手に決めつけている点では同じことなのに、私はそれに気づいていませんでした。

私は「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」と言うことで、(セックスワーカーのことを勝手に決めつけてまで)(しかも大義名分でごまかして自己正当化してまで)何を守りたかったのだろうか。きっとそれは、世の中のセックスワーカーでもAさんでもなく、Aさんやひいては世の中の女性に対して抱いている私自身の(ものすごく認めたくはないが無意識的に持っていると認めざるをえない)女性差別的な偏見と内面化した規範——つまり好んでセックスワークする女性などいない、いたとしたらその女性はセックスワークに従事していることを正当化出来ない、という信心——を守りたかったのだろうと思います。情状酌量の余地もありません。

セックスワークと私自身の関係というのは決して強固な当事者性に支えられるものでは全くなく、あるいは断絶しているのでもなくて、ぐにゃっと曲がっていて、なんというか、伸ばして絡まって指にまとわりつく風船ガムのように、気をつけていないと切れてしまうけれど、思い通りの形にまとめることもできない、捨て去ろうとしても離すことが出来ないものだと感じています。だから人と話していても機会があればセックスワークについて言及したり、文章を書いたり動画を作る時もセックスワークに触れたりと、私自身からセックスワークを無関係のものとして切り離すことのないようにしようとしています。でも、それが私のあらゆる発言を正当化するわけじゃない。私がこれまで「セックスワークは生き延びるための手段」と主張する度に、私は女性差別やセックスワークへの侮蔑を再生産していました。

セックスワークを自分から切り離して考えることはできないから、きっとこれからも私は折にふれてセックスワークについて発言していくことと思います。でもそれなら、今回気づかせてもらった自分の暴力性、差別性にフタをして気づかなかったことにするんじゃなくて、ちゃんと直視しないといけない——そう思って、ブログに書くことにしました。自分の悪いところについてこうして公に書くのはつらいけど、書いて、ちゃんと自分のことを振り返ろうと思ったから、あるいは、その責任があると思ったからです。

あとがき、的な

自分の立場性を無視して客観性を装いつつ俯瞰的に物を言うことの問題性が学問の分野で指摘されるようになってから数十年、いまはむしろ書き手や語り手が自分を社会の一部として考えや見方に偏りのある一個人であることを認識し、自分の感情や考えについてもきちんと含めて語ることが誠実な姿勢だと思われるようになって来ています。

でもこの風潮には、前から少し疑問がありました。というのも、書き手や語り手になりやすい立場の人(男性、民族マジョリティ、健常者、異性愛者、シスジェンダーなど)が書いたり語る内容に自分語りが増え、その結果マイノリティ研究や社会運動において語られる話でもマジョリティが主人公のように存在しているというケースがいくつか目につく印象があったからです。しかもその話をマイノリティが読んだり聞いたりするというのは、マジョリティによるマイノリティの時間の収奪のように感じられます。

だから、私は客観性を装うことも避けなければと思いつつ、同時に自分語りにならないようにするにはどうバランスを取ればいいのかと、ここ数年ものを書くときに考えていました。

今日は、そのルールを崩しました。私の心境の変化なんて語られてもしょうがないだろうなと思いましたし、セックスワーカーの尊厳や権利、安全を拡大するために活動したり発言したり身近な仲間と関係を作っている人たちに私の自分語りを読ませたいとは思っていません。でも、正直に言うと、自分のために書きました。2016年への年の変わり目に、私はこういう問題に気づかせてもらえたんだということを書き留めておくために。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。