性別について、今となってはある程度の認知度を獲得しつつある「LGBT」を説明する際に、私たちは「生物学的性」「性自認」「性的指向」という概念をよく使います。
世の中一般的には、まずベースに生物学的性があって、それを根拠に生物学的性と同一とされる性自認が発達して、そしてその性自認の反対の性(異性)に性的関心を持つようになる、という論理構造が幅を利かせているわけです。この「生物学的性→性自認→性的指向」という順番、そして左のものが右のものの根拠になり、人はまっすぐにシスジェンダーかつ異性愛に導かれるはずだ、という考えは、私たちが人の性別を解釈するときに大きな偏りを生み出します。
「体が男なら心も男、そして性的対象は女」、「体が女なら心も女、そして性的対象は男」というのが当然のこととされ、疑問視もされず、それにあてはまらない人に出会った時にはただただ理解不能に陥る人が続出、という状況は、少しずつ変わってきているものの、いまだに社会全体の多くの場において支配的です。(例えば、性同一性障害の認知度が高まった現代日本でも、トランスかつレズビアンの人に出会った時に「心が女なのに恋人が女!?どういうこと!?」と驚く人というのは未だにたくさんいます。)
この論理構造を「異性愛マトリクス」と呼んだりします。
異性愛マトリクスの問題点のひとつは、根拠のない因果関係を前提としていることです。つまり、生物学的性が性自認の根拠であると決めつけていること、性自認が性的指向の根拠であると決めつけていることです。レズビアンだっているし、バイだっているし、ゲイもいるし、体が女で性自認が男で性的対象が男(いわゆる「FTMゲイ」)だっているよね!なに無視してんの!って話です。これについては、恐らくほとんどのLGBT当事者や支援者やそのあいだや周辺にいる人たちにも、問題点が明らかだと思います。
しかし、異性愛マトリクスにはもうひとつ大きな問題点があります。それは、「生物学的性→性自認→性的指向」という流れにおいて、左に行けば行くほどより根幹的な、より基礎的な、より決定的な分岐点になり、右に行けば行くほどより後発的な、付随的な、補足的な分岐点(異性愛マトリクスにおいては分岐はせずまっすぐに進んで行くわけですが)になる、という思い込みです。つまり、体の生物学的性が最初に決まり、それが決定してしまえばあとは自動的に決まってしまうのだ、という、生物学的性を性のすべての根幹とする発想です。
この2つめの問題点については、「LGBT」関連の場においても、あまり議論されることがありません。それどころか、以下の画像に表れているように、むしろ前提として受け入れられてしまっている場合すらあります。
1つめの画像は、ツイッター上に「学生時代のゼミ発表資料」としてアップロードされていたものです。学生時代のものだそうなので、出典URLを示すことが適切かどうか分かりません。HTMLソースを開くとIDと投稿番号が見れるようにはしてありますので、投稿者に害を与えるつもりではなく単に「マサキが勝手に捏造したものではない」ことを確認したいだけだという人は、ソースを見て考えればツイートにたどり着けるでしょう。
2つめの画像は、最近ネットのLGBT界隈で話題になった「LGBTの学校生活に関する実態調査(2013) 結果報告書」の中の表です。
ご覧の通り、どちらの表も左から「生物学的性」「性自認」「性的指向」となっています。これは、生物学的性が性自認の根拠にならないこと、性自認が性的指向の根拠にならないことを示すことで、分岐の多様性を表しています。つまり、異性愛マトリクスの1つめの問題点を指摘していると言えます。
一方で、まさにこの表の書き方が分岐の様子を示しているがゆえに、項目の順番が、根幹的な分岐から付随的な分岐へ、左から右に並んでいるように見えます。人を性に関して分類するときには、まず最初に生物学的性でわける、次に性自認でわける、そして最後に性的指向でわける、という前提がここには見て取れます。あたかも、生物学的性が最も根幹的であるという異性愛マトリクスの前提を踏襲しているように見えます。
表を作った人にはそんなつもりはなかったのかもしれません。それに、もしそういう思い込みがあったとしても、ゼミ発表や報告書の内容の価値が著しく貶められるべきではありません。ただ、「生物学的性」に合った性自認を持て、「生物学的性」に合った性的指向を持て、という社会のプレッシャーに対抗している私たちが、どうしていまだに「生物学的性」の虚構の根幹性を時に受け入れてしまうのか、考えないといけないんじゃないかと思っています。