「トランスコリアン」が安易な3つの理由と1つの原因

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2022年11月20日

「トランスコリアンには怒るのに、トランス女性にはどうして怒らないのか」
 そういった声が「TERF」(トランス排除的ラディカル・フェミニスト)たちから上がっている。

 トランスコリアンとは、あるツイッター利用者が作った言葉だ。曰く、Kポップなどを愛好する日本人が「今日から自分もコリアン」と言いだしたら問題があるだろうに、どうしてピンクのスカートを履きたがる男が「今日から自分も女」と言いだしたら女性として認めなければならないのだ、という主張らしい。
 一見筋が通っているように見えるけど、あまりに多くの前提が共有されていなくて、頭を抱えてしまった。

安易な理由 1

 このツイートをした人は、在日コリアンや植民地主義の歴史をどこまで知っているのだろう。どこまで考えたことがあるのだろう。「今日から自分もコリアン」という言葉から想起するものが、自らのアイデンティティや生き方、あり方を模索する在日コリアンではなく、Kポップなどを愛好する日本人だということを、どう理解したらいいのだろう。
 移民のアイデンティティやルーツにかかわる葛藤や苦悩については、在日コリアンに限らずとも膨大なリソースがある。それこそ映画でもいい。ドラマでもいい。当事者にとって「〇〇人になる」ということのリアリティがどんなものか、何でもいいから少し見てみて欲しい。

 自分のルーツをどう認識するか、どんなアイデンティティを持ち、どういう自分として生きていくかは、特に移民二世、三世、四世などにとっては、人生における大きな課題の一つになり得る。
 在日コリアンは植民地主義の歴史を通して現在の差別的な日本社会に至るまで、一貫して「日本人であれ」「朝鮮人であれ」「日本人じゃない、朝鮮人だろ」「朝鮮人じゃない、日本人だろ」と勝手に言われてきた。政府に、自治体に、警察に、軍に、公安に、先生に、同級生に、親に、同胞に。
 ある時まで周囲に対して「日本人」として生きてきて、自分のルーツを見つめ直して「今日からコリアン」になった在日コリアンもいるのだ。逆に帰化という決して簡単ではない決断をして「今日から日本人」という生き方を選んだ在日コリアンもいる。そしてそのどちらの場合も、それでもアイデンティティを揺るがされる経験からは自由ではなかったり、正しい決断だったのかと逡巡を繰り返す人々だっている。
 日本人と日本社会の在日コリアンに対するこれまでの扱いを考えれば、日常生活において状況に応じて表現するアイデンティティを調整することだって当然あり得ることだし、それを周囲が勝手に「あいつのアイデンティティは信頼できない」などと言うことはできない。

安易な理由 2

 また一方で、このツイートをした人はトランスの人々の生きる現実をどこまで知っているのだろう、どこまで考えたことがあるのだろう、という疑問も湧く。「今日から自分も女」という言葉から想起されているピンクのスカートを履きたがる人(この人は「男」と呼ぶけれど)が、どういう気持ちでそのスカートに足を入れたのか、何回、何日、何ヶ月、何年を「やっぱり履かない、履けない」と思いながら過ごしてきたのかなどには、思いを馳せないのだろうか。
 トランスの人々の苦悩や葛藤、生活上の困難や、トランジション(性別移行)のリアリティだって、もうだいぶリソースが増えてきた。どうしても時間やお金をかけたくないなら、ツイッターだっていいのに。ブログだっていいのに。何かしらトランスの人々の感じているリアリティに触れる機会を作って欲しい。

 どうも「TERF」たちは、性自認という感覚が理解できないという。自分の体が女だから周囲からも女として扱われ、女性差別を受けてきたという事実があるだけで、自分のことを「自分は女だ」という認識はない、と。
 実は私だって性自認は理解できない。理解できないというか、自分ごととして共感することができないのだ。
 私は自分の身体や存在の仕方そのものに違和感を感じたり、自分ではないものとして扱われることの苦悩を味わったことがない。でもトランスの人々は多くの場合長期間に渡ってそのような経験をする。女扱いや男扱いされることについて、「扱いが不当だ」というだけではなく、「自分はそれではないのに」という感覚を経験する。
 つまり、長年かけてトランス当事者が「それではないなら、自分の性別は何なんだろう」と葛藤し「性自認」を強く意識していく一方で、シスジェンダーの人々は自分の性自認について考えなくてもよい日々を送る。性自認が理解できないと言うが、理解できなくて当然なのだ。この現象には「マジョリティの無徴性」という名前が付いている。
 私は性自認という感覚に共感することはできないが、トランスジェンダーの友人の話や生き方、考え方にふれる中で、かれらのアイデンティティを(理解できないなりに)尊重することを学んだし、また、自分には無い感覚がかれらには「ある」ということも知った。

※性別を特定しない三人称複数の代名詞として私はひらがなの「かれら」という表現を使っています。

安易な理由 3

 今回の「トランスコリアン」についてのツイートを読んでもう一つ思ったことがある。
 それは、そもそも差別を説明する時に他の問題を安易に例に出すのは良くないという基本中の基本すら共有されていないのか、という、驚きと絶望の混じった気づきだった。

 自分の関心のある差別について周囲の理解がなかなか得られない時、既に多くの人が問題を認識している別の問題を取り上げて説明すれば分かってもらえるかもしれないと期待してしまうのは、よくあることではある。私もやってしまったことがある。
 例えば優生思想を批判する時に「ナチスのようだ」と言う人がいるけれど、それは実際にナチスによって迫害や殺害されたホロコースト被害者たちのリアリティを軽視する行為だと思う。かれらが実際に経験した恐怖や痛み、苦しみなどに真摯に言及するのではなく、その背景にあった思想的類似点だけを取り出すことは、とても失礼な行為だ。一方で、自分がまさに批判しようとしている現代の優生思想によって被害を受けている/受けることになる人々のリアリティにも目が向けられていない。全方位に対して、敬意の欠いた態度だと思う。

 物事はとても複雑で、ましてや民族と性別に関するアイデンティティのあり方や変容の仕方などを一緒くたに考えていいはずなんてない。それらが別物であり、別物として考えなければならないということは、先に書いたそれぞれの背景を思い浮かべればすぐに分かることじゃないか。

安易な原因

 本当に、どの角度から見てもこのツイートはとにかく安易だ。

 なぜそんなに安易なのか。それはきっと、目的がトランス当事者への「からかい」でしかないからだと思う。
 実は「TERF」たちはこれまでも「猫自認」などと言って、「自分が言い張れば何にでもなれるとでも言うのか」と、トランス当事者のあり方への否定的な主張をしてきた。今回の「トランスコリアン」もその一環なのだ。

 実際「今日からコリアン」も「今日から女」も、その背景にどれだけ本人の葛藤や苦悩があるのかなんて分からないはずだ。中にはとても軽い動機から言い出す人もいるかもしれないけれど、それが本人にとって後々とても重要な人生の分かれ目になったり、たくさんの葛藤や苦悩、喜び、出会い、別れなどに繋がっていくことだってある。
 しかし「TERF」たち、いや、あまり主語を大きくしない方がいいか。少なくともこのツイートをした人は、民族アイデンティティや人種アイデンティティや性別アイデンティティに揺らぎを感じていたり、移行の意志を持っている人たちに寄り添う気など無く、ただ単に「そんなものは否定していいんだ」というところからスタートしている。

 正直に言えば、私だって「どう考えてもあなた、安易に自分にマイノリティー属性があるかのように振る舞いたいって思っただけでしょ?」って思うときはある。(こんなことを言っていいのか分からないけれど、実際そう思ってしまうことを否定することも不誠実だと思うのでここに書いておく。)
 けれど、初めから全否定するスタンスで接するようなことはしたくない。
 だって、ガチかもしれないじゃん。
 その人の背景や、今のアイデンティティに至った経緯、葛藤や苦悩などを私が全部把握しているケースなんてないもの。だからガチの可能性を常に念頭に置くし、ガチだって気づいたら、それがどんなに一般的には荒唐無稽なことだとしても、できるだけ寄り添いたいと思ってる。

 いや、私が「ガチ認定」をする立場にいるなんておこがましい勘違いだし、そもそもその場限りの冗談とかを除けば、民族にせよ性別にせよ、(時々異性装を楽しんでいるとか、ハロウィンで自分のルーツにない民族の格好をしたとかではなく)移行したり移行を望んでいる人は、基本的にガチだ。
 実は移行を望んでいるけれど周囲からの反応が怖いから何かのイベントの時に異性装を楽しんでいるだけという体(てい)で自分のアイデンティティに近い服装をしてみる人なんかもいるから、「ガチかガチじゃないか」を判断することにどれだけの意味があるかと言ったら「勝手にガチかどうか振り分けて自分がすっきりするだけ、しかも相手の尊厳を軽んじてる」くらいの意味しか無いのだけれど。(もちろん医療とか行政などの制度的な運用においては基準を設ける必要があるだろうけれど。)
 それなのに初めから「そんなものは否定していいんだ」からスタートしていたら、ものすごい人数(いや、ほぼ全員)を踏みにじることになってしまう。

 もっと言えば、例えば「コリアン」になりたい「日本人」だって、本当に目の前にいたら、その人が普段感じている葛藤や苦悩に思いを馳せずにはいられない。(もちろんその人に問題のある発言があれば批判するけど「コリアンになりたい」と言っただけで批判したりはしない。まあ他の発言も含めて総合的に考えて「どういう動機で言ってんだろう」って懐疑的な気持ちにはなるかもしれないけど。)
 だってガチだったら、植民地主義の歴史や現在の日本の排外主義の広がり、そしてそんな日本にルーツを持っている自分について、多かれ少なかれ考えたことがないとは思えないもの。

 当然、知識量とか教育の機会の多少、それに直結する家の経済的背景、また「コリアンになりたい」と思い始めてからの期間などによって、現時点ではまだそこまで考えが至っていないということもあるだろう。
 それでも実際に移行するうちに、帰化とか言語習得とか移住とかの制度的なハードルに加え、実際に周囲に溶け込むための努力やそのプロセスにおける苦悩などを経験するだろうし、それらを通してやはり先に書いたような日本にルーツを持っていることの葛藤にぶち当たるのではないかと思う。「そんな葛藤、知ったこっちゃねえよ」と思うのは自由だけれど、別に「お前の存在は問題だ」とまで言うことはないんじゃないか、と私は思う。

 性別についても、先日トランス男性が「性別移行をしてから、自分にとっての男性性って何だろうって思うようになった。それまで目指してきた男らしさというのが、ある時から窮屈な規範に感じられるようになった」と話していた。
 これは男女問わず他のトランス当事者からも聞いたことのある葛藤だ。自分が目指している女性性はミソジニーを含んだジェンダー規範に則ったものなのではないか、というトランス女性の葛藤も耳にすることがある。

 もちろん、そういう葛藤がなければ「ガチじゃない」ということではない。先に書いた通り「ガチかガチじゃないか」を個人的に判断することにはほとんど意味がないばかりか、相手の尊厳を軽んじることになるし、例えばトランジション(性別移行)がある程度進むまでは、とにかく日常生活での苦痛をやわらげることや、性別移行のための準備や、周囲との折り合い、金策など、シスジェンダーの人々が抱えることのない悩みで頭がいっぱいで、ジェンダー規範の問題性まで考える余裕は無いということもあるだろう。
 けれどこちらもやはり移行が進むにつれ、移行前は聞いてもらえた話も聞く耳を持ってもらえなくなったり、移行前は咎められなかったソフトな性格が「女々しい」と言われたり、多くのシスジェンダーの男女が日々感じている程度にはトランス当事者も日常生活の多くの場面でジェンダー規範の息苦しさに気づくのではないかと思う。「やっと女のつらさが分かったか、ざまあみろ」と思うのは自由だけれど(これはまだ TERF 的にはマシな方で「それは本当の女のつらさではない、なぜならお前は男だから」レベルの悪意を向ける人もいる)、別に「お前の存在は問題だ」とまで言うことはないんじゃないか、と私は思う。

 いや、強い葛藤や苦悩がある人だけを認め、あとは否定してもいい、という話をしているつもりはない。けれど、たとえどんなに属性的に最強のマジョリティ様だとしても多かれ少なかれ人は誰しも葛藤や苦悩を抱えて生きているのだから、性別を移行したいとか民族を移行したいなんていう一般的な理解の得難い要望を思っている人に葛藤や苦悩が無いわけがない。
 せめて「この人にも色々あったんだろうな」と思うくらいの人情は持っていたいし、他の人にも持ってもらいたい。
 別に初めから全員を全肯定しろとは言わない。でも初めから全否定するのはやめようよ、って思う。同じ社会に生きる者として「あなたみたいな感覚もあるのかもしれないね」くらいは思おうよ。その上で相手とどう付き合っていくか、制度上どうやって包摂していくかなどは、個別に判断したり議論すればいいんだから。そんなことすらままならない人たちとは、同じテーブルで議論なんてできないよ。

追記 2020.11.13 - 6:42

 実際に反民族差別などの文脈で活動や言論に参加している日本人左翼の中にはあたかも自分も「在日コリアン」や「コリアン」の同胞かのように振る舞っている人がいる、という話を見て、たしかにそれは事実だと思ったので付記しておきます。

 私自身、「当事者」と「アライ」(当事者ではないが当事者の権利や尊厳のための運動に携わったり支援したりする人)の問題はずっと気になっていて、あまり「当事者の声」に何か絶対的なものを見ているような運動は苦手な一方で、「アライ」が取るべき/取ってはならない立場というものにも意識的であるべきだと思ってきました。
 これは自分の最も強く関わっている LGBTQ+ の運動について特にずっと考えてきたことですが、他の問題についても——つまり私自身がマジョリティ側にあたる問題についても——「アライ」としてどういう立場を取るのか、取れるのかを多少なりとも検討しながらやってきた、ということです。

 なので、例えばツイッターで表示名やプロフィール欄にハングル表記の言葉を入れている人がいますが、それを見て嫌だなあと思ったことが何度もあります。
 その人が日本語とコリアンのバイリンガルだったり、朝鮮半島での在住経験があったり、何かしらの背景が分かっている人であれば(私はコリアンを読んで理解することができないので何が書いてあるか分からないのもあって)ハングル表記を使う理由が何かあるのかもしれないな、と思えるのですが、そうでない場合は「安易にファッションあるいはポーズとしてハングル表記で何か書いているだけなのではないか」と疑うような気持ちになったりします。

 実際はそんなのは序の口で、民族運動などの社会運動に携わっている在日コリアンには、もっとびっくりするくらい厚顔無恥な日本人左翼の言動に辟易している人も少なくないだろうと思います。

 ですので、あたかも自分も「在日コリアン」や「コリアン」の同胞かのように振る舞っている日本人左翼の存在を私も問題だと思いますし、私自身もそのような振る舞いをしてしまうことが無いように気をつけないといけないと感じています。

 一方で、今回先のツイート利用者によってトランスジェンダーの性別移行と並置された「トランスコリアン」という現象は、同胞かのように振る舞うというよりは、本当に自分をコリアンであると認識している/認識したい/認識されたいと思っている人のことを指していると思っています。
 ですので、日本人左翼に時々見られる「同胞気取り」とは別の問題だと認識しています。

追記 2020.11.13 - 8:09

 こんなことをわざわざ言わなければと不安になったこと自体、この世がミソジニーにまみれていることの証左ですので、本当に悲しいことなのですが、一応書いておきます。

 私はフェミニズムを非常に重要な運動だと思っています。
 10代なか頃にフェミニズムに触れてから、たくさんのフェミニストたちの言葉や行動を目にし、強い尊敬の念を抱いてきました。また、数多くのフェミニストと出会い、彼女らとの交流を通してたくさんの経験と学びを得てきました。

 そんな私の現状認識は、女性差別は今も存在する、男性中心主義は今も存在する、家父長制は今も存在する、そしてそれらは私たちの生活のすみずみにまで行き渡っていて、女性として生きる人々にとても不利な世の中になっている、というものです。

 また、トランス女性への攻撃に使われることの多い「男性特権」という概念について語るのは不安もありますが、事実として男性として生活している人(シスジェンダー男性)には男性特権があると思います(注)。個人差もあるし、他の差別軸(民族、障害の有無、健康状態など)によっては本人の実感として「全然特権なんて無い」という人もいるとは思いますが。

 ですので、私のこの記事の内容をもって「フェミニストは間違ってる」とか「フェミニズムはダメだ」とか、そういうご自分の主張の根拠になさることはやめてください。

(注)シスジェンダー男性と比べれば平均的にだいぶ低い程度ではありますが、10代〜20代など将来に与える影響の大きい時期に長い期間男性として扱われた経験のあるトランス女性も、男性特権と無縁ではありません。
 そういうことを言うと「ほら、トランス女性は男性特権があるから女性としては認められないんだ!」と言う人が出てくるので急いで付け加えますが、これは経済的に豊かな家庭で育ったけれど今はカツカツ、という女性にも「自分はいい仕事に就ける」という自信とか「絶対生活を安定させるぞ」という意思などを持ちやすいという経済特権があり得るのと同じことです。
 女性の中には経済特権のある女性がいたり、健常者特権のある女性がいたり、シスジェンダー特権のある女性がいたり、男性特権のある女性がいる、という女性の多様性の話です。それらの違いを無視するのではなく、しかし敵対軸にするのでもなく、「女性性」に押し付けられた規範や神話を解体し、女性に不利な制度を変え、すべての女性が性別による息苦しさから解放されることを目指してきたのがこれまでのフェミニズムの歴史だと認識しています。

追記 2020.11.13 - 8:30

 「男性として生活している人(シスジェンダー男性)」と書きましたが、トランス男性にも男性として生活している人はたくさんいるので、不正確な表記でした。トランス男性もまた、トランス女性と同様性別移行の時期や期間によって個人差はあるでしょうが、男性特権と無縁ではありません。

 また別件ですが、批判等に対する応答はツイッターではなくこのブログにて行います。ツイッターではリツイートもいいねもリプライも(自分の出るイベントの宣伝など以外では)基本的にしない方針ですので、ご承知おきください。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。