杉田水脈の差別発言と、セクマイの自己肯定感 #ThisIsPRIDE

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2022年11月20日

LGBTやクィア、性的マイノリティについてひどい物言いをするのはなにも政治家や著名人だけじゃなくて、学校の先生から親戚のおじちゃん、近所のうなぎ屋の店主などから私たちは日常的に嫌なことを聞かされている。

そうやって聞かされたことは少しずつ胸の底に沈み重なって、ちょうど川の底がよどんでいるのと同じように、普段は底のほうでおとなしくしているけれど、小さな石でもひょいと投げ入れればいとも簡単にふわぁと広がって、しばらくのあいだ私たちの心が晴れることはない。

あぁそういえば、私みたいな人間はおかしいんだった。

あぁそういえば、私みたいな人間は迷惑なんだった。

あぁそういえば、私みたいな人間は親不孝なんだった。

どれだけ理性で振り切っても、まとわりつくよどみは消えてくれない。もがけばもがくほど、水はどんどん濁っていく。だからそういう時は、水の中から顔を出して、石を投げ入れた人に文句を言うくらいしかできない。もうやめてくれって何度も言っているじゃないか。

水に目をやると、さっきより少しだけ透明な部分が増えている。そろりそろりと中に体を沈め、もといた場所に戻る。あの石も気づけば水に摩耗されて、どこにあったかなんて分からなくなるだろう。でもずっとここにあり続けるんだ。次の石が放り投げられたときに、そいつもふわぁと水を汚すだろう。

33年も生きていると、そんなのがだいぶ堆積していて、石を投げ入れる奴に文句を言うスキルもそこそこ身についている。文句を言っているあいだは、心の中に広がったよどみから目をそらすことができるから。昔よりも文句を言いやすい社会にはなっているから、私たちの声は少しずつ大きくなってきている。川のそとから文句を言ってくれるひとも増えてきた。投げ入れられる石の数も、大きさも、だいぶマシになっているはずだろうと思う。

けれど、ときどきドカンと大きな石が投げ入れられるときがある。メディアに出てる人なんかが大きな石を持ってることが多いかな。最近では政治家の杉田水脈(すぎた・みお)がぶん投げてきた

そういうときに気づくんだ。底にはすっごい量のよどみが沈んでいたことに。ぐっちゃぐちゃにされて前の見えない水の中で、溺れないように、それぞれのやり方で、私たちはそれをやり過ごしたり、なんとか水面にたどり着いて文句を言ったりする。

頭では分かっている。杉田水脈や、彼女の支持者、所属する党などが悪であるということを。それなのに、動画で一貫して異性愛を「普通」「正常」と呼ぶ彼女の姿を見た私は、ふと気がつくと、「私は異常」「異常な私が悪い」と思う方向に気持ちが引っ張られてしまっていた。周りの水が一瞬にして濁っていた。ギュゥと胃が痛む。鼓動が激しくなる。冷静になろうと、溺れないように、押し出すようにゆっくり息を吐く。

私は、悪くない。

それだけのことを、そんな誰もが必要としている自己肯定感を、この社会はどうして感じさせてくれないんだろうか。

33年も生きてきて、私はまだ濁りとよどみの無い川を泳いだことがない。でも、そういう川もあるはずなんだ。よどんで濁っているのが川の定義じゃないはずなんだ。

いま正に濁った水に溺れかけているひとや、よどみの上を注意深く泳いでいるひとたち、特に若いLGBTQや、逆に高齢のLGBTQ、あるいは最近LGBTQになった人、その他多くの自己肯定感を奪われているLGBTQに対して、すごく傲慢なことだと思うけど、「あなたはひとりじゃない」ってこと、「あなたの性のあり方を意図的に変えることはできない」ってこと、「少しでも地元から離れるとだいぶ楽になる」ってこと、そして「親や保護者の期待に応える義務はない」ってことを伝えたい。

あなたはひとりじゃない

どこでも言われている陳腐な表現だし、今更と思われるかもしれないけれど、「あなたはひとりじゃない」ということは何度繰り返しても足りないくらい大切なことだと思う。

自分の性のあり方について、あるいは周囲との違いについて、いじめられていることについて、悩んでいる仲間はたくさんいるよ。一緒に悩むことができる場が、日本にもあるよ(例:にじーずFRENS)。悩んでない仲間も実はいたりするし、そういう人たちとの出会いがあなたの悩みを少し楽にしてくれることもあるよ。

でも、私が「あなたはひとりじゃない」と言うとき、そして自分に「お前はひとりじゃない」と言い聞かせるとき、それは決して日本中や世界中に存在するLGBTQのことを指しているわけではないんだ。そうじゃなくて、本当に、マジで、あなたの身の回りにLGBTQがいるんだよ、と本当に、マジで思っている。

あなたの大好きな親友は、もしかしたら生まれた時に割り当てられた性別とは違う性別として生きているのかもしれない。そのことで、家族と医者がずっと連携してきてたり、学校も入学当初から色々工夫してきたかもしれない。それでも至らなくて、本人が傷つくこともあったかもしれないよね。

あなたの頼りにしている先生は、もしかしたらレズビアンで、パートナーと暮らしているかもしれない。あるいは暮らしてたのは最近までで、パートナーにふられてアパートを追い出されてしまったので、とりあえず実家に泊まってるかもしれない。でもレズビアンであることを親が良く思ってないから、あー早くアパート見つけて引っ越したいわーと毎日思ってるかもしれない。

もちろん、あなたが大嫌いで、ちっとも信用できないような人たちの中にも、LGBTQはいる。

だから、「あなたはひとりじゃない」ってのは気休めなんかでは全然なくて、本当にひとりじゃないっていう意味なんだよ。

あなたの性のあり方を意図的に変えることはできない

同性愛や両性愛、その他の色々な性的指向については、これまでにたくさんの人たちが「治そう」としてきた。脳に電気信号を送るような過激なものもあれば、キャンプ体験を通して同性愛を治そうとする運動もある。

そして、それらすべてが、失敗に終わっている。

私たち人間のセクシュアリティは、変化することがある。私自身、異性愛から両性愛に移行して、同性愛に移行して、両性愛に戻って、同性愛になって、今は両性愛の一種に落ち着いたかな? という感じ。

でもだからって、それは自分や他人の意志によって変えられたわけではない。きっかけはあったのかもしれないけど、気がついたらなっていたという感じだった。

だから、無理に自分のセクシュアリティを変えようとしたりしないでほしい。周りにあなたのセクシュアリティを変えようとしてくる人がいたら、逃げてほしい。逃げられなかったら、強気になってほしい。強気になれなかったら、その話ができるところで仲間を見つけてほしい。

それに、「治す」という言葉自体、あたかも本来異性愛だったものがおかしくなって他の性的指向になっているかのような物言いで、科学的に無根拠だし、すっごく差別的だと思う。「治そう」とする時間やエネルギーがあったら、同性愛だって両性愛だってなんだってそのままで人生を邪魔されることなく楽しく生きることができる社会を作ることに使ったほうが、よっぽど有意義なのにね。

そういや、最初は「どうしてそんなことになっちゃったの」と言っていた祖母(92)だけれど、今では「まーちゃんは Kinki Kids だったらどっちがタイプ? 私はこうちゃん」とか言ったりするようになった。きっとそのほうが、私と楽しい時間が過ごせるって気づいたんだと思う。私は剛がタイプだよ、おばあちゃん。

少しだけ地元から離れるとだいぶ楽になる

私は栃木県足利市っていうところで生まれて、同県の佐野市で育って、海外とか東京とかを経て、今は群馬県館林市に住んでる。足利と佐野と館林はそれぞれお互いに隣り合わせで、30〜40分くらいで行き来ができる。

そんな経験からの自分の感想だけれど、隣町に行くだけでもずいぶん楽になるよ。

地元にいるのがつらくて都会に行くLGBTQは多いけど、都会だからって生きやすいとは限らない。物価も家賃も高いし、LGBTQのコミュニティだからってあなたの居場所になれるかどうかは分からない。都会に出てお金に困ってしまうLGBTQはたくさんいるよ。

だから、隣町とか、あるいは一番近い大きな街に引っ越すことができたら、それだけでもめちゃくちゃ楽になるんだってことを、覚えておいてくれたら嬉しい。

私は、育った佐野市と30〜40分くらいの距離に住んでる今がすごくちょうど良くて、生きやすいなあって思ってる。私のことを(セクシュアリティのこと含め)良く思ってない昔の知り合いや親戚に会ってしまうことは滅多にないし、でも私のことを(セクシュアリティのこと含め)良く思ってくれている人とは簡単に会える距離だから。

親や保護者の期待に応える義務はない

孫の顔を見せたい、家業を継げと言われている、未婚なことを責められている、などなど、親や保護者との関係性に悩んでいるLGBTQは多い。

ジェンダーやセクシュアリティのことについて書いたり話したりする仕事をしているのに——そして自身も性差別や人種差別に反対し行動している母を相手にしてすら——私だってたまに思ってしまう。

たとえば、姉の子どもたちと仲良くしている母を見て、自分にはあの幸せを母に与えることができないんだと罪悪感を感じたことがないとは言えない。母も姉も、姉の子どもたちも、みんな私のことを受け入れ、LGBTQ差別に対して一緒に怒ったり、考えたりしてくれているというのに。

この罪悪感は、いわゆる「毒親」関連の本やサイトに触れたことで、だいぶ薄らいだように思う。そこには、「親の期待に応えなければ」「親を幸せにしなければ」という強迫観念から自由になっていいんだということが、たくさんたくさん書かれていたから。

子どもは、親の人生の脇役じゃない。

親の幸せは、親自身が自分の責任で手に入れるもの。

頑張ってそう思うようにしたら、少しずつだけど、罪悪感が減っていった。

このことについて母親と話したことも何度もある。そのときに母は、「自分の子ども全員に孫を見せてもらうことが幸せとは思ってない」と言った。

そうか、私は母親を幸せにしなければという強迫観念の裏で、母親にとって何が幸せなのかを勝手に想像して、勝手に決めつけて、勝手に罪悪感を感じてたんだ——

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そんなこと聞かされても何の助けにもならないよ、今つらいんだよ、どうにもならないんだよ、というひともたくさんいると思う。そんなあなたに私がしてあげられることはありません。本当にごめんね。

あるいは、そんなことでは悩んでないよ、余計なお節介だよ、というひともいるかもしれないと思う。だとしたら、あなたの他の悩みが少しでも減って、楽しい人生が送れることを願ってます。

でもいずれにしても、いつか何かがあったときに、ふと私が今日話したことを思い出すことで何かあなたの気持ちが楽になったりしたら、嬉しいな。

#ThisIsPRIDE

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。