飲食店経営者の立場から「インスタ女子」問題を考える

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2022年11月20日

マツコ・デラックスが「インスタ女子」をディスる発言をしたことを今でも覚えています。食べ物を粗末にしているからとかいう理由で、マツコは「かわいいインスタあげてもお前はブスなんだからな!!」と言いました。

女性に向かって「ブス」という言葉で罵れば面白い、「ブス」と言われれば女は笑われ黙るしかない——そんな性差別的な社会の文脈に乗っかって、ずいぶんひどいことを言うものだと思った記憶があります。

そして先日、著名な塾講師の林修がテレビに出演し、「嫌われるオンナ」というくくりで「インスタ女子」を貶める発言をしました。「インスタ女子は目的と手段が逆転」しているそうです。いわく、旅行に行くことが目的のはずが、インスタに写真をアップするために旅行に行くことが「目的と手段が逆転」ということらしい。

まずそもそも「目的と手段が逆転」と言うのであれば「インスタに写真をアップするために旅行する」の逆転は本来「旅行するためにインスタに写真をアップする」という意味のわからない行動になってしまいます。論理性を大事にしているであろう林修にしては、ずいぶん大きな論理的間違いだなあと思います。

ここで起きているのは、「目的と手段が逆転」しているのではなくて、単に「別の目的がある」というだけの話です。手段は「電車で行く」とか「東名高速で行く」とかであって、その目的が人によっては「きれいな空気の中でバーベキューをする」だったり「温泉であたたまって酒盛りする」だったり「素敵な写真を撮って友達に見せる」だったりするだけです。

それだけのことなのに、どうして一部の目的だけを「インスタ女子」「嫌われるオンナ」のものとしてくくって、貶める必要があるのでしょう。

ひとつには、女のやることは何でもかんでも程度が低いものだと思いたい男性心理があるんじゃないかなと思います。写真を撮影するということだって、女性が主体になると途端に作品として価値が低いとか技術が乏しいとか思い込む人がたくさんいます。旅行にしても「女は本当に見る価値のあるスポットを知らない」と思い込む人がたくさんいますよね。「だから教えてあげる」という上から目線の男もたくさんいます。

実際には、電車にせよ花にせよ鳥にせよ花火にせよ、写真を撮ること自体が目的化している男性なんてたくさんいるのにね。でもテレビで「嫌われるオトコ」なんてくくりで語られたりはしてないです。その人たちが Facebook にそんな写真をあげてても「Facebook 男子」とかくくられたりしてないです。「インスタ女子」は「承認欲求がすごい」とか言われてますけど、男性が自分の作品を世に出しても「承認欲求がすごい」とかはあまり言われませんよね。

もうひとつは、女は常に男からの評価を気にしているはずだという思い込みもあるように思います。かつてガングロファッション+メイクが流行ったとき、私は小学生でしたが、各ワイドショーやバラエティーの番組が必死になって高校生男子に街頭インタビューをして「俺は色白の方がいいっすね」というコメントばかりを拾って放送している一方で、さらにさらにどんどん黒くなって行ったガングロギャルたちの姿を見てかっこいいなと思った記憶があります。

今でも「男はナチュラルメイクの方が好きだよ」とか「男はガリガリよりちょっと肉付きがいい方が好きだよ」とか言って女性の自己実現の腰を折ろうとしてくる男性がたくさんいます。あるいは、レズビアンカップルに対して「自分も混ぜて欲しい」とか言う男性もいます。ここに共通しているのは、「自分の方を向いていて欲しい」「男を必要とせず女だけで平気なんていう女に存在して欲しくない」という心理だと思います。女が勝手に楽しんでいるのが、我慢ならないんじゃないでしょうか。「インスタ女子」もまた、勝手に楽しんでいるだけです。「ブス」と呼ばれたり、「勉強できない子」の類比(アナロジー)に使われたりするいわれはありません。

飲食店経営者の立場から

さて本題に入ります。

私は飲食店を経営しています。料理に力を入れているダイニングバーです。その立場から、料理をインスタにアップする人をどう思っているか——

……

とてもありがたいと思っています。

まず、盛り付けを美しいと思ってくれたのだろうと思って嬉しい。人に見せたいと思えるような料理だと評価してくれたことが嬉しい。「私こういう料理食べてます」「私こういうお店に来ています」と人に自慢できるようなお店だと思ってくれたことが嬉しい。そしてもちろん、それを見た人が来てくれるかもしれないという宣伝効果が嬉しい。

こういう風に思う飲食店経営者は少なくなくて、同じ町の他の飲食店に行って「お店や料理の写真を Facebook とかにあげてもいいですか?」と聞くとたいてい「ありがとうございます」と言われます。特にオープンして間もないお店だと、「ぜひよろしくお願いします」とまで言われます。私も自分の店で聞かれたときはそういう対応をしています。

※ もちろん全飲食店がそういう考えとは限らないし、「ご遠慮ください」と言うのもお店の当然の権利です。

そして、4年お店をやっていて思うのですが、料理の写真を撮る人には性別や年齢や職業による偏りは全然ありません。世間では「インスタ女子」と揶揄されてますが、実際は「インスタおじさん」も「インスタ男子高校生」も「インスタおばあちゃん」も「インスタサラリーマン」も「インスタ社長」もいくらでもいます。女性でもインスタやっていない人もたくさんいますしね。

いやそうじゃないんだよ、食べ物を粗末にすることが悪いって言ってるんだよ、と言われるかもしれません。でも、今までの経験上、誰一人として、写真を撮った上で食べ物の大部分を残した人はいません。目の前に出された食べ物を目で楽しんで、写真を撮って楽しんで、さらに味を楽しんでくれる人ばかりです。もちろんこれにも、性別や年齢や職業の偏りはありません。みんな食べてくれます。

夜遅くになって閉店間際に入店して、特に楽しもうという雰囲気でもなく、写真を撮るわけでも会話を楽しむわけでもなく、ただ時間をつぶしにきたような人たちは、残すことが多いです。それでも、食べ物に力を入れていることをメニューから察知して1品でも何か頼もうと思ってくれたことには感謝しています。

あと、うちの常連さんの中に非常に少食の高齢の女性がいます。彼女はお酒は必ず7〜8杯飲むのですが、体調の問題で、食べ物はお通しも食べきれないくらい少食です。でも、うちが食べ物を頑張っている店だということをわかってくれているから、必ず何か注文してくれます。ひとくちぶんだけ取り皿にとって、私に「食べて」と渡して来ます。そしてそのほんのひとくちぶんを口に入れて、「本当にこのお店は何を食べても美味しいね」と褒めてくれます。渡されたフードを、私は喜んで食べます。

彼女は実店舗オープン前の屋台時代から来てくれているお客さんで、ずっとうちの店を応援してくれている人です。近くに座った人にも「スペアリブが本当に美味しいから食べてみて」とか「お腹が空いてないなら今度は夕飯食べに来てみてね」とか話しかけてくれます。自分がお酒をあまり飲めない日でも、スタッフ全員にドリンクをおごってくれて、少しでも多くお金を使ってくれようとしてくれます。

もちろん、食べ物を残されること自体が嬉しいわけではありません。料理担当者は私よりさらに悲しい気持ちになると思います。でも、私たち人間は、食事にたくさんの様々な社会的意味を見出しています。食事は、ただ「食べること」ではないと思うんです。

そのお客さんと私たちスタッフは、フードの注文から、ひとくち食べて褒めるところ、「食べて」と私が残りをもらうところ、「美味しいね」と言い合うところ、「量は食べられないから、美味しいものを少しだけ食べたいのよね」「そうだよね、その揚げ物気に入ってくれてるよね」というやりとりをするところまで含めて、一緒に食事をしているんだと思っています。それが、彼女がうちの店に来る理由なんじゃないかな。

このことを、誰がバカにできるでしょうか。食べ物を粗末にしているとか、お金を浪費しているとか、他人が口出しできることでしょうか。彼女や私たちスタッフがみんなその場を楽しんで、幸せな気分で1日を終えられるなら、何が問題だというのでしょう。

「インスタ女子」も「インスタおじさん」も「インスタ男子高校生」も「インスタおばあちゃん」も「インスタサラリーマン」も「インスタ社長」も、そこに何かしらの意味があるから料理写真や旅行写真を出しているんだと思います。

だから何だって言うんでしょうか。

ましてや「インスタ女子」だけを取り上げて「嫌われるオンナ」と揶揄するなんて、何の権利があってそんなことをするのでしょう。

他人の趣味に口出しできるほど何か崇高な趣味でも持っているのでしょうか。

そんな人がいたら「他人の趣味に口出しすることも趣味なんですね」と返すしかないですけどね。

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    1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。