2017/12/14の木曜日、青山学院大学の渋谷のキャンパスでジェンダーと法律に関する授業(英語開講)に呼ばれてゲストレクチャーをしてきました。

(注:このブログ記事はこの英語記事を和訳したものです。)

約140人の大きな授業で、特別英語が得意な学生が集まっているわけではないという状況だったので、ゆっくり話さなければいけない、語彙を限定しなければいけない、学生みんなが理解しているか見極めながら進めなければいけないと、課題をいくつも抱えての登壇となりました。

しかしあとから考えてみると、そういった課題・制約があったからこそ、私自身学べたことがありました。シンプルかつスローにレクチャーすることで、これまでの講演や発表などよりもうんとリラックスした空気感を作ることができたように感じます。また、これまではたくさん言葉を尽くすことが相手の理解を助けると思い込んでいたのですが、時々そこかしこで間を入れることで、聞いたことを咀嚼する余裕を学生が持てたような気がします。こうしたことは、動画を作るにあたって常にできるだけ「edutaining」(教育的 educating と娯楽的 entertaining をあわせた最近の造語)であろうとしていた私の方向性について、再考を促してくれました。

レクチャー用に配布プリントと自分用アウトラインを作ってあったので、それを基にここで以下にレクチャーの内容を共有したいと思います。(実際のレクチャーにおいては専門用語などを時々日本語を混ぜて補足説明しましたが、以下には含まれていません。)

レクチャーの内容

クィア理論という分野があります。これは、文学や映画、社会現象なんかを分析するときに使う視点のことです。白人的・中流階級的・障害者差別的・男性中心的・etc.な支配的視点とは違う多様な視点を人種理論、障害理論、フェミニスト理論などが提供してくれていますが、クィア理論もその仲間です。今日はそのクィア理論を皆さんに紹介したいと思います。

これまでレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス、もしくはクィアな人には会ったことがないという人、手を挙げて下さい——ありがとうございます。これからは皆さん、会ったことがあるよと言うことができますね。私はバイセクシュアルです。さらに、私の予想では、皆さんはすでにクィアかあるいはクィアかもしれない人に会ったことがあると思います。ただ、その人たちがまだ皆さんに伝えていないだけです。そういうのを英語では「クローゼットの中にいる」と言います。

クローゼット

どうしてクローゼットの中にいつづける人がいるのでしょうか? どうしてクローゼットから出てくる人(カムアウトする人)がいるのでしょうか? クローゼットの中にいつづける人は、周囲の人からネガティブな反応を受けることを恐れて、クローゼットにいます。カムアウトする人は、周囲の人からポジティブな反応を受けることを望んで、クローゼットから出てきます。

しかしどちらの場合も、私たちクィアにクローゼットの中かそとかを選ばせているのは社会のホモフォビア(同性愛嫌悪)とトランスフォビア(トランス嫌悪)です。

ここで疑問なのは、そのクローゼットは誰のものなのかというものです。私はここにただ存在しているだけですが、社会は私が異性愛者でシスジェンダーだと勝手に決めつけます。社会こそが、私の周りに、すべてのクィアな人の周りに、クローゼットを建てたのです。私たちはそんなもの作った覚えがありません。社会がクローゼットを作るのです。クローゼットはあたかも抑圧から守ってくれる盾のように見えますが、実際にはそれ自体が抑圧であることを私たちは理解しなければいけません。クローゼットは抑圧のひとつの形です。

状況が許さないなら、カムアウトせずにクローゼットにいてもいいんだよ、ということを私たちはよく口にします。あたかもクィアな人々には選択肢があって、何を選ぶかはひとりひとりが自由に決められるかのような物言いです。しかしクローゼットの中にいるかそとに出るかということは、自由な選択なんかでは全然ないのです。

LGBTQ の権利や政治について語るとき、私たちはしばしばそれを選択権や自由の要求であると考えています。もちろん権利を要求することや尊厳へのリスペクトを得ることは重要ですが、クィア理論は更に深いところへと行こうとし、選択や自由といった概念そのものすら疑問視します。どんな社会構造がその選択肢をありえるものにしているか? どんな前提にその自由が依拠しているか?——そういったことをクィア理論は疑問視するのです。

同性婚

同性婚というトピックを通して、クィア理論が分析においてどうより深いところへと行くのか、またこの新しい法的権利について単なるうわべだけの称賛を超えてどこへ行くのか、考えてみましょう。

同性婚に関しては、さらに詳しく『現代思想』2015年10月号で論じています。

まず、同性婚とは良いものでしょうか? 多くの人が良いものであると考えていますし、そう語っています。たくさんメリットがある、そうですよね? しかしここで立ち止まってもう一度問いを立てましょう。そもそも結婚自体、良いものなのでしょうか?

結婚することで得られるメリットはたくさんあります。パートナーのビザのスポンサーになれること、病院で面会する権利があること、パートナーに対する医療行為に同意することができること、財産の相続ができること、子の養育権を共有できること、経済的に安定すること、健康保険に一緒に入れること、年金の積み立てが一緒にできることなどなどです。同性婚を推進する人たちは、こうしたメリットについて言及することが多いです。

しかし、結婚していることのメリットというのは、逆に言えば独身であることのデメリットでもあります。どうして独身の人はこのようなメリットを得ることができないのでしょうか? 多くのクィアがエイズの時代から抱えてきた後悔の1つは、病室の友人に面会することがしばしば許されなかったということです。パートナーだけではなく、友人です。当時の多くのクィアにとって、古典的な家族関係は必ずしも理解のある、受け入れてくれる存在ではありませんでした。かれらにとって、ほかのクィアな友人というのは家族と同等かあるいはそれ以上に大切な存在だったのです。恋愛関係や家族関係よりも強い友情関係というのだって、私たちは持つことができます。しかし同性婚を推進する人たちは友情関係の重要さやクィアにとってのその意味を忘れ、かわりに古典的な家族的価値観を好み、採用したようです。

結婚を通してしか得られないメリットがあるということは、つまり移民制度や医療ガイドライン、家族法、福祉や社会保障などのほかの制度に欠陥があるということです。こうした制度は婚姻関係にあるカップルを、個人ひとりひとりや結婚していないカップルよりも優先しています。同性婚を推進する人たちはこうした欠陥の解決を結婚だと考え、欠陥によって被る不利益は結婚を通して軽減・解消されると主張しています。

これが究極的に何を意味するのかというと、諸々の社会制度において不利益を被ることが多い人ほど(=既に周縁化されている度合いが高い人ほど)、結婚に魅力を感じるようにできているということです。

結婚はある意味、救急箱みたいな存在です。包帯や消毒液、痛み止めなどはありますが、手術ではありません。治療ではなく、ちょっとした応急処置しかできません。一方で、全ての社会制度の欠陥を解消することは手術のようなものです。それは、政府にとってとてもお金と労力のかかる手術です。つまり、政府は、婚姻制度を設けることによって、節約をしているのです。

ここで何が起きているのかというと、政府が本来やるべき責務が、家族という私的領域に転嫁されているのです。子育て、高齢者介護、障害者介護、経済的扶助など、こんにち多くの国家が自称する「福祉国家」なら国家によって賄われるべき負担が、家族に押し付けられています。

結婚は、ガス抜き(原文では “diversion”)です。そのへんの問題は見ないでこっち見て! 結婚すれば大丈夫だからさ!というわけです。では同性婚は何になるのか。これもまた、さらなるガス抜きでしかありません。

さらに悪いことに、すべての結婚が幸せではありませんし、メリットもちゃんと全部得られるとは限りません。そもそも家族の内部で起きているドメスティックバイオレンス(DV)や児童虐待——身体物理的暴力、精神的暴力、経済的暴力、性的暴力——の問題は非常に深刻です。経済的にも、パートナーやあなた自身が職をいきなり失うかもしれない。社会保険に入れてくれない悪徳企業で働いているかもしれない。あるいは知らないところでパートナーが借金を抱えているかもしれない。財産と同様に、借金もまた相続の対象です。

また、結婚のメリットは、離婚のさいの潜在的なデメリットでもあります。例えばパートナーに「離婚してお前の配偶者ビザを取り上げさせるぞ」と脅されることもあるでしょう。私自身、夫から暴力を受けていながら長い間離婚できなかった女性を知っています。彼女は配偶者ビザで日本に滞在していたからです。あるいはパートナーに「何年も主婦しかやってこなかったくせに、お前なんか一人で生きていけるわけがないんだ」と言われることもあるかもしれません。

結婚ははたして悪い約束のようなものです。あるいは政府が各種社会制度の欠陥から人々の注意をそらすための詐欺的手口です。同性婚の実現を目指すのではなく、私たちは全ての社会制度の問題を解決する必要があります。そうすれば、現在結婚のメリットとされているものが、結婚を通してではなく、各社会制度から直接人々に与えられるようになります。

同性婚に関しては、さらに詳しく『現代思想』2015年10月号で論じています。

これはあくまで私の出した結論です。クィア理論の視点を学んだみなさんは、自分の結論に至ることができます。これで私のレクチャーは終わりです。ありがとうございました。


以下に配布プリントの画像を貼り付けます。(英語の聞取りが不得意な学生も内容についてこれるように、担当教員からのアドバイスを踏まえ、箇条書きではなく全てフルセンテンスで書いています。)


マサキチトセ

評論家・ライター・イラストレーター・動画クリエイター。1985年生まれ。栃木出身、NZとUSを経て現在は群馬在住。シカゴ大学大学院修士課程中退。ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています🏳️‍🌈 性暴力サバイバー。 詳しいプロフィールはこちらから。《Twitter》@GimmeAQueerEye《コラム》note.mu《トーク動画》YouTube《イラスト》Instagram 《ジェンダー・セクシュアリティ関連のニュースやトピックを紹介するニュースレター》登録する

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