翻訳『同性婚の隠された歴史』(ヤスミン・ネアー)

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2022年11月20日

2015年6月25日・Yasmin Nair

同性婚について、最高裁判所はいつでも、それこそ明日6月26日にでも、その判断を出すだろう。

主流のゲイ男性やレズビアン女性がそこらじゅうで、固唾を飲んで待っていると言っている。 Twitter と Facebook のどちらにおいても、みんながどうなるだろうと気を揉んでいる様子を書いている。

この見せかけだけの気の揉み方は、求婚者からのアプローチに驚いたふりをしてみせるビクトリア朝時代の典型的な女性の姿を思い起こさせる。「なんとまぁ、思いもしませんでした! 私が生きている間に同性婚が実現するなんて! まったく驚きました!」

ここ(訳者注:米国)でも海外でも同性婚に対する文化的及び法的な取り扱いは大きく変化してきており、私たちはやっとこの驚いたふりをやめることになるかもしれない。

それでも、ゲイ男性とレズビアン女性はそこらじゅうでまだ振りを続けている。この文化的な行為は、結婚というものを、数十年の、あるいは実際には数百年に及ぶクィアの存在の歴史の中での自然の帰結であるばかりか、唯一望まれていた結果であるかのように歴史を書き換える行為をも同時に含んでいる。

例えば、ニューヨーク・タイムズ紙にフランク・ブルーニが最近寄せた記事で、彼は「エイズ危機を覚えているか?」と問う。そしてエイズで命を落とす愛する人の病院に行って面会する権利を奪われていた多くの人々について書く。「これは、繰り返し目にするような、怒りを引き起こすテーマである。そして多くの同性愛者と仲間が、もし互いに愛し合う同性の関係が異性愛者の持つのと同じ法的承認を得られていれば、こんなことは起きなかったとして抗議した。」

しかし実態はもっと悲惨であった。エイズが数百万の人々の命を奪ったのは、ホモフォビア、そして皆保険が存在しないことという毒物的な組み合わせが理由だったのだ。治療のための研究も薬品も存在せず、病院の方針もまた無能な公衆衛生と絡み合っていた。エイズを罹患した人々は当時その多くがゲイ男性で、そもそも病院は彼らを追い返し、見殺しにしたのだ。

病院のベッドにたどり着けた人たちは愛する人から引き離されたか? 確かにそうだ。しかし愛する人というのは、恋愛関係上のパートナーだけではない。友人たち、過去の恋人たち、そして生物学的家族や世間一般に理解されている関係の枠を超えたところで複雑で互いをケアしあうような友情のつながりをエイズの時代より前に数十年ものあいだ培ってきた多くの人々もまた、愛する人であった。こうしたケアと仲間意識のあり方が破壊されたことは、現在に至っても未だに私たちが消化しきれていない、エイズが残した遺産のひとつであろう。

だから、違うのだ。ブルーニの視野の狭い歴史観が私たちに信じさせてしまいそうな、恋愛関係上のパートナーである夫たちが死にかけている男性たちのベッド脇から追いやられて待合室にいるという話は、80年代のエイズの中心的な問題ではなかった。人がエイズで死んでいく、それもしばしば残忍だったり人間らしさを奪われた状況下で、ということこそが、もっと大きな問題だったのだ。しかしブルーニの話を信じてしまうならば、エイズから学べる教訓とは、この伝染病の問題はすべて同性婚によって解決されるというものにしかならない。

話はこれでは終わらない。ブルーニは「ロスアンジェルスに1950年に出現した、最も早く生まれた同性愛者の権利団体のひとつ」である Mattachine Society 、そして「サンフランシスコに1955年に出現したレズビアン政治団体 Daughters of Bilitis 」に言及し、「これらの種から、同性婚合法化の花が咲いた。介入してきた厳しい冬には事欠かなかった」と結論づける。

でたらめだ。これらの団体の意識の中には、結婚なんて入っていなかった。彼ら彼女らはゲイ男性とレズビアン女性が存在することを記録に残し、支援し、アウティングされれば生活どころか命すら失うことを意味した時代においてアウティングをされたゲイ男性とレズビアン女性に必要とあらば法的な資源を提供し助けるという目的のもと、茶封筒にニュースレターを隠して送付するなどして真っ暗な匿名性の中で戦っていたのだ。比較的保守的な団体として Mattachine と Daughters of Bilitis はその同化主義的な政治を批判されてきたが、多くのゲイ男性とレズビアン女性にとってしばしば唯一の資源であったことは否定できない。

同性婚の隠された歴史というのは、1990年代半ばに主流派同性愛者団体がのし上がって来るまでのあいだ、 LGBTQ のコミュニティーにおいて同性婚が大きなトピックであったことなど無かったということだ。何が起きたかといえば、エイズ後に政治的なエネルギーを失ったあと、 Human Rights Campaign や古参の National Lesbian and Gay Task Force(現 The National LGBTQ Task Force )などの団体が成長し、その指導者がほぼ全員白人ゲイ男性かレズビアン女性で、時々申し訳程度に有色人種も入るがいずれにしても、規範的(規範に合わせるタイプの)政治が唯一の道であると熱心に信じる人たちであったということである。

同性婚の隠された歴史がいつかやっとのことで書かれたとき、それは、少数の富裕者に人質に取られていたような(訳者注:交渉のカードに使われたという意味か?)資源をろくに持たないコミュニティーに押し付けられたことを暴くだろう。90年代半ば以降、オープンなゲイ男性やレズビアン女性が増えたが、彼ら彼女らは主に白人で、権力と富を持っていたし、自らの野心が他の皆の野心と平等に見られかつ満たされ、自らの富が家族の中に継承され、すでに注意深く増やしてきた経済的な利益を今後も増やし続けられる方法を渇望していた。

同性婚の隠された歴史は、それが「平等」とは一切関係ないものであり、少数のゲイ男性とレズビアン女性が自らの富にしがみついていられることを実現するためのものであったということである。

最も適した例は、ブルーニや他の人々が勇敢なヒロインとして描く Edith Windsor だ。 Human Rights Campaign や他の団体・人々は、彼女について神話を作り上げた。その神話とは、彼女がニューヨークの寒くて隙間風の入るような空っぽの屋根裏部屋でドアの外の狼の鳴き声を聞きながら寒さに耐えるためマッチを何度もすり続けている小さな老女である、というものだった。

実際には、 Windsor は金持ちなんてものではない。私がザッと計算したところ、彼女は1千万ドル(訳者注:日本円で約10億円)ほどの富を持っている。この額が少額に感じられるようなニューヨークの富裕層と比べれば貧しいと言えるのかもしれないが、 DOMA (訳者注: Defense of Marriage Act =結婚を異性間だけに限定する法)制定によって何らかの影響があるほどの不動産を持っている自分を想像するのが好きな、実際には彼女よりも全然少ない富しか持っていないのに幻覚を見ているゲイ男性とレズビアン男性と比べれば、 Windsor ははるかに快適な生活を送っている。私たちはきちんと目を向けなければならない。 Windsor は税金を払えないから払わなかったのではなく、払うことを拒否したのだ。

同性婚の隠された歴史は、 Edith Windsor が救いのない被害者であるという神話を維持することに、左翼メディアも主流メディアも喜んで共謀したということだ。ニューヨーク・タイムズ紙が Windsor を取り上げたこの記事も一つの例である。タイムズ紙はたいていの場合、人々の純資産を公開することを重要視している新聞だ。富裕層向けの新聞であり、富裕層は他の富裕層仲間について知ることを好むのだから。さらに、今回の件は税金および税に関する裁判がストーリーの中心である。だからタイムズ紙が Windsor の資産を調べ暴くことは絶対に必要なことであった。しかしタイムズ紙は、この問題については全く口を閉ざしている。

そもそも、この裁判がアピールしようとしている対象であるアメリカ人が Edith Windsor のことを税金で苦しんでいる人ではないと知ったとしたら、彼女への共感ははるかに少なかっただろうし、「見てこんな可哀想な小さなご老人の女性が大変なことに」というやり口を使うことで(訳者注:本当の裁判所ではなく)大衆の意見に判断を委ねるような戦い方をしたこの裁判は、敗北していたことだろう。だからタイムズ紙はジャーナリズムの矜持など持っている振りすらせず捨て去って、最低限の事実のみ報道したのだ。すでに公に記録されている彼女の不払い税額だけは報道せざるを得なかったが、彼女の純資産など下世話なことは忠実に沈黙を守ったのだ。

同性婚の隠された歴史は、同性婚推進運動の本当の目的を隠す動きが、同時にクィアの直面する他の問題が無視される状況を作ってきたということだ。同性婚に批判的だとうそぶく人々からすら聞かれる主張に、同性婚は正しい優先順位ではないが、同性婚によって他の問題にも必要なだけの注目が向けられるようになる、なぜなら(好んでこの表現を使う人が結構いるのだが)「波が上がればすべての船が昇る」からだ、というものがある。

くだらない嘘をつくんじゃない。波は上がっていない。同性婚はむしろ、タイタニック号を沈没させた氷山みたいなものであることが明らかになっている。メイン州の同性婚の戦いについての記事で Ryan Conrad が言っている通り、HIV/エイズ関連や若者関連の運動をしている団体はかなり厳しい状況にあるし、すでに閉鎖しているものもあるのだ。

端的に言って、同性婚の隠された歴史とは、がつがつして強欲で完全に自己中心的なゲイ男性とレズビアン女性によって実行されたこのがつがつして強欲で完全に自己中心的な運動という本当の歴史が、フランク・ブルーニや、フランク・リッチやリンダ・ハーシュマンなどの愛想のいい異性愛者アライ(訳者注:一緒に戦う仲間、という意味)などによって、構造的に消去されているということだ。同性婚の隠された歴史と言った時、私たちの性生活がもっと面白いものになることを同性婚が邪魔するかもしれないということを騒いでいるのではない。同性婚の勝利が、個人間の性愛関係だけが経済的保障や健康保険へのアクセスを実現するようなネオリベラルな社会を固定化してしまうということなのだ。同性婚はやっと叶った夢である、という話をするのが好きな人たちがたくさんいる。現実には、同性婚は悪夢でしかないし、ネオリベラリズムにとって最も利用しやすい道具である。

原文の筆者について

Yasmin Nair(ヤスミン・ネアー)
http://yasminnair.net/

翻訳について

この文章は、上記原文筆者が上記日付に本人のウェブサイトに掲載したブログ記事 The Secret History of Gay Marriage を、マサキチトセが2015年7月21日に日本語に翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。