わたしの〈クィア〉とあなたの〈クィア〉は違う:グローバルでないドメスティックなクィアの不可能性

この文章は、2011年度上智大学グローバル・スタディーズ研究科ワークショップ・シンポジウムシリーズ「日本とJapanとクィアとqueer——日本におけるクィア・スタディーズの多様性と『グローバル』クィアの考察」(2011年12月17日)での発表原稿に若干表現上の修正をしたものです。

要旨

「グローバル・クィア」あるいは「グローバル・クィア・スタディーズ」が語られるとき、国民国家や地域、宗教の軸における「クィア」概念あるいは「LGBT」概念の翻訳可能性が取り沙汰されるのは当然のことである。しかし「グローバル」と対置されるであろう「ドメスティック」あるいは「ローカル」な「クィア」は、そもそも各国民国家・地域・宗教内部で確立された概念なのかを問うことも必要だろう。

本発表では、クィア・スタディーズの中心的地域である米国における階級・人種・宗教に注目し、そもそも「クィア」概念あるいは「LGBT」概念が必ずしも米国全体に流通していないことを示し、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という枠組みを批判する。また同時に、「翻訳可能性」が言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを考察し、ワークショップでの論点の1つとして提案したい。

発表内容

「グローバル・クィア」という言葉が とても うさんくさいものである ということは、会場にいらっしゃる みなさんは すでに ごぞんじかとおもいます。なにをもって「グローバル」であるといえるのか。「こまかな ちがいはあれど、ここのこれも、あそこのあれも、クィアだよね」といえるのであれば、そこに共通の「クィア」性とは、つまり「クィア的」であると みとめられる条件とはなにか。そして、そこで すてられる「こまかな ちがい」がうまれる理由とは具体的になんなのか。言語なのか、国ごとの文化なのか、あるいは民族の文化なのか。あるいは、階級や大学教育へのアクセスの どあい なのか。そして、そういったことを理由にしてうまれているとされうる「こまかな ちがい」には、どのようなものが ふくまれるのか。「グローバル・クィア」という言葉からは、たくさんの疑問点が うかびあがってきます。

動詞としての「クィアする」

「クィア」という言葉は、もともとが「変である」「奇抜である」という形容詞として存在しました。そのあと動詞の「台なしにする」「ダメにする」「破滅させる」という意味で つかわれるようにもなり、そして、20世紀になって、形容詞として「ホモセクシュアルの」という意味で つかわれるようになりました。そのすぐあとに、名詞の「ホモセクシュアルの人」という意味で つかわれるようになりました。そのあとエイズパニックなどを とおして「クィア」という言葉の意味が変容していくことは ごぞんじかと おもいます。ただ、わたしが注目したいのは、名詞の「クィア」から動詞の「クィア」——つまり「クィアする」という表現——が うまれたのではなく、名詞の「クィア」より100年あまりまえに、すでに「台なしにする」という意味の動詞が つかわれていたということです。かんがえてみれば、現在「クィアによむ・クィアリーディング」などとよばれる よみかたは、よく、「作品を台なしにする」と批判されます。これにたいし、「台なしにして なにがわるい」「そもそもそこで台なしにされるのは、作品ではなく、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもって よもうとする従来の姿勢なのではないか」というかんがえかたが、クィア・ポリティクス以降の文系学問のなかで すこしずつ信憑性をもって かたられるようになりました。もちろんこれは、実際にいろいろなひとが「よむ」という行為を とおしてやってきたことを、学問が あとおい しているわけです。この、動詞としての、あるいは なんらかのはたらきかけとしての「クィア」の議論は、「グローバル・クィア」という言葉が かたられるときに、簡単に ぬけおちてしまいます。名詞としての「グローバル な クィア」ではなく、動詞としての、「グローバル に クィア する」ということがどういうことなのか。すこし かんがえてみたいと おもいます。

「クィアする」ことと、規範

いってみれば、名詞としての「グローバルなクィア」を かんがえることそれ自体、動詞としての「グローバルにクィアする」行為であると おもいます。わたしたちは まさにいまこのワークショップで、グローバルにクィアしようとしているんです。しかしそれは、意図的に、このワークショップのなかだけで実践できるようなものではないと わたしはおもっています。というのも、「クィアする」ということは、かならずしも知識や知性を必要とはせず、ふとした瞬間に、ときに、あるいは おそらく大抵の場合無意識に、おこなわれてしまうものだと おもいます。それは、たとえば、ある作品をよんだ自分の解釈がほかの大多数のひとと ことなっていたとき、自分の からだについての解釈がほかのひとと ことなっていたとき、自分の性的欲望を かたって、ほかのひとから反発を うけたときなどに、そこで発生してしまう「事態」、そこに、なにかが「クィアされる」可能性がある、つまり「クィアする」あるいは「意図せずクィアしてしまう」契機がある、とおもっています。

「クィアする」というのは、わざとではなく、なりゆきで おこってしまう事態である、つまり、意図的に「クィアする」主体として自分は存在できない、と わたしは おもうのですが、であれば、そこで「クィアされる」がわの客体、英語の文法でいえば「目的語」にあたるものは、いったい なんなのか。それは、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもってしまうように規範づけされている、わたしたち自身でありましょう。規範から自由なひとは、いないと おもうんですね。たとえば「異性愛者とはこういうものだ」という概念はたかが100年くらいまえに うまれたものですが、そのもととなったのは「同性愛者とはこういうものだ」という概念です。それをもとに、「同性愛者ではないもの」として「異性愛者」という人間像がうまれたのです。であれば、「わたしは異性愛者ではなく、同性愛者だ」というひともまた、異性愛を中心とする規範から自由ではありません。もし異性愛を中心とする規範が きえさる日がやってきたら、同性愛者も異性愛者も、もうそれまでと おなじ感覚でアイデンティティを たもつことはできないでしょう。「クィアする・台なしにする」という行為は、自己がのっかっている「台」も「台なし」にしてしまう行為なわけです。といっても、わたしたちは つねに規範に忠実に いきているわけでもありませんし、規範に忠実に いきているように みえても、そこに問題がないとも かぎりません。葛藤や妥協、黙認、ちいさな抵抗、無関心、忘却、いかり などがそこに存在することもあります。

そして、それらの、規範との「ズレ」のようなものが、「クィアする・してしまう」契機であると おもうのです。つまり、「クィアする」という行為は、規範によって自分がうけた「被害」——ときにそれは、規範づけされた自分がみずから おこなってしまう「加害」でもありますが——そのような経験と となりあわせの ものであるのではないでしょうか。これはもちろん、同性愛者差別やトランスジェンダー差別、女性差別などを念頭においていますが、それだけではなく、性にかんする自己認識や感覚、行為などが規範と衝突してしまう事態全体をかんがえています。

グローバルにクィアする

「クィアする」ことの契機が規範との「ズレ」にあるのであれば、なんらかの かたちで「クィアした」とされる言動が、よのなかに うけいれられる、そのこえを きいてもらえる、というのは、どういった事態なのでしょうか。それは、性にかんする規範がたんに ゆるやかになっていることを しめすのでしょうか。あるいは、もっとよくないことが おこっているのかもしれません。

さきほど、「クィアする」ということは、かならずしも知識や知性を必要としない、という はなしをしました。しかしそれは、だれの言動もすべからく平等に きくみみを もってもらえるということではありません。知識や知性、そのほかの様々な社会的状況のちがいが、「だれのクィアリングが注目されるのか」を左右してしまうことは、多々あります。というのも、クィアなはなしが世論や政府に歓迎されるとき、そこには性にかんする規範よりも現在緊急で重要だとおもわわれている規範が存在するケースが おおいわけです。それはたとえば、人種にかんする規範だったり、宗教にかんする規範だったり、階級にかんする規範だったりします。それらの規範を維持するにあたって都合のよい議論であれば、クィアな はなしは、歓迎されるということです。

人種にかんする規範

まず人種の問題について、すこし例をご紹介します。いま、アフリカ諸国における、同性愛をばっする法案が議論になっています。「同性愛をばっする」といっても様々な形式があって、おしりの あなを つかった性交渉がばっせられる場合、同性のパートナーの存在をオープンにしていることがばっせられる場合、バーや人権活動団体など同性愛者があつまるとされる場所にいくことが ばっせられる場合などがあります。現在ナイジェリアで、この種類の法案が可決されそうになっています。また、ウガンダで同様の法律をさらに きびしくして死刑を ふくませようとする うごきも、今年の国会解散をきに一時期とまっていましたが、10月に再開しています。

この問題にかんして、米国をはじめとする先進国では、市民活動家や学生、活動団体などが こえをあげてきています。しかし、ウガンダやナイジェリアなどの現地にも性的マイノリティの団体があるにも かかわらず、そういったところと連絡をとって連携しようとする努力は、ほとんどみられていないのが現状です。めだつのは、おおきな署名サイトが何万という署名をあつめて、それを現地の政府におくりつけるだとか、経済制裁をすべきだという こえだとか、とても一方的なものばかりです。小山エミさんという米国在住の活動家は、これにたいし、「ウガンダの あたらしい法案が とおったとして、それによって しぬ ウガンダの性的マイノリティの かずよりも、経済制裁によって しにおいやられる性的マイノリティのほうが おおいだろう」といって、批判しています。

また、これにはさらに うらがあって、アフリカ諸国で現在起こっている同性愛差別的な うごきというのは、米国の福音派クリスチャンによってけしかけられたものです。そのうちのひとりは、ジョン・マケインやバラック・オバマとの関係がふかいリック・ウォーレンです。こうして米国の保守派によってけしかけられたものが、米国の急進派から批判をあび、さらに米国による経済制裁を まねきかねない状況にされているわけです。

もうひとつ、人種の例をだします。2008年にオバマ現大統領が当選したとき、カリフォルニアでは同時に住民投票をおこない、「プロポジション・エイト」と呼ばれる州法案8号が可決しました。この法案は、一時期同性間の結婚をみとめていたカリフォルニア州の州法を、無効にするものです。可決のあと、これまで投票に参加していなかったがオバマ大統領を支持するために投票所にあらわれた おおくの黒人がこの法案に賛成の票をいれたことが可決の原因だとして、同性婚に賛成している多くは、黒人をさげすむ発言をしました。

あとになって わかったことですが、出口調査によると黒人の70%が法案に賛成だったと報道がありましたが、そのあとの調査では58%であったことがわかりました。それは、全体の賛成の割合である52%と くらべても、とくに黒人が同性愛差別的でありそれが原因で法案が可決したとは いいきれません。また、それまで投票活動をしていなかったからといって かれら・かのじょらに投票権がないわけではなく、「本来投票しないはずのやつが投票したから うんぬん」という論理は、非常に黒人差別的なものです。むしろ、本来投票できるはずの黒人が政治に無関心になってしまうような構造を批判的にみるべきですし、その構造を前提として法案の反対活動をした活動家や団体が「本来投票できるはずの黒人」にアプローチしなかったことを反省的に かんがえるべきです。

また、それでもカリフォルニア住民の黒人のうち58%が法案に賛成したことに注目し、黒人に同性愛差別的な感覚がつよいと かんがえることもできます。ただしそれは、キリスト教の教会と黒人社会の歴史、そしてその背景にある奴隷制の歴史と黒人差別の歴史を無視することになるでしょう。米国の司法制度は、黒人男性に不当に厳しいことで有名です。おおくの黒人男性が不当に逮捕されたり、不当に長い刑期を めいじられたり、不当に おもい刑をうけています。そのため、おおくの黒人女性はシングルマザーに ならざるをえない状況になっています。黒人の家族をバラバラにしてしまう構造が、米国にはあるわけです。

そんななか、白人ばかりの大手LGBT団体や活動家が性的マイノリティを代表して発言をしているわけです。また、今年米国のマクドナルドでトランスジェンダー女性が黒人女性2人に暴行をうけた事件では、その加害者が黒人であることを強調するような報告がでています。被害者に てを さしのべたのが白人女性であったことも、ニュースでいちいち報告されました。こういう、性的マイノリティのことを白人が わがものがおで やっている状況では、黒人社会がそれに反発を かんじるのも、わたしには自然なことに おもわれます。そもそも、黒人にかぎらず有色人種の性的マイノリティは、みずからが性的マイノリティであっても、大手LGBT団体や有名な白人LGBT活動家を信用していないことが おおいです。むしろ、それにも かかわらず42%の黒人が法案に反対票を とうじたことに、わたしは おどろきました。

つまり、米国における黒人蔑視や差別を背景にしているにも かかわらず、その結果である黒人社会の状況を、白人中心的な性的マイノリティに批判されているという状況です。やはりこれも、さきほどのウガンダの例のように、火をつけたがわが 火けしにまわる、いわゆるマッチポンプになっています。

宗教の問題

つぎに宗教の問題について、すこし おはなしします。9.11以降イスラム教が悪魔のように あつかわれだしたのは、米国にかぎらず、ヨーロッパ諸国や日本でも同様ですが、これはクィアに かんする問題でもあります。

ひとつには、「女装して米国にはいってくるテロリストがいる」として、米国政府が身分証チェックを強化したことと関係があります。2005年に施行されたリアル・ID法がこれにあたります。この法律は、移民や難民認可のハードルを たかめると同時に、複数の身分証のあいだで ことなった情報が記載されているひとをチェックして、テロリストである可能性がたかいとして疑惑をかける根拠となるものです。 当時「あなたがトランスであることを証明する書類を もちあるいて おきましょう」とアドバイスしたLGBT団体が、トランス当事者によって批判されています。 現在は身分証の性別が複数あっても政府にコンタクトされることはなくなりましたが、これで一件落着とするのであれば、リアル・ID法をはじめとする米国の移民排斥やテロ対策を みとめてしまうことになります。

さらに、いままさに問題となっているものに、「ピンク・ウォッシング」というものがあります。これは、中東において唯一LGBTの権利を大切にしている国としてイスラエルを宣伝し、同時に、いかにほかの中東諸国——イスラム圏の国々——がLGBTの人権を蹂躙しているかを強調する政治的なうごきです。これによって、イスラム教やイスラム教徒への偏見が強化され、彼ら彼女らへの暴力が正当化されるような しくみになっています。

しかし、イスラム圏の国々の性的マイノリティの あつかいについて、先進国のわたしたちは あまりおおくを しりません。現在同性愛に死刑を かしている国は6つで、そのなかでもサウジアラビアはほとんどの場合死刑を執行しません。死刑をふくまない反同性愛法がある国もいくつかありますが、それらの法にそって実際に司法がうごいて処罰しているケースは、あまり おおくありません。レバノンのように、法律は存在しても、文化的には同性愛に寛容なところもあります。また、このような法律をもたない国も おおくあります。実際におおく死刑を おこなっているのはイランで、ここ40年ちょっとで約4000人を死刑にしました。ただし、イランでは宗教家のアヤトラ・コメイニが性別再指定手術——いわゆる性転換手術——を みとめるという発言をして、イランの最高指導者がその主張を みとめています。おおくの宗教家がこれを支持しており、現在イランでは性別再指定手術をうけるひとに補助金をだしています。

イランでこの40年で4000人が死刑にされてきたという はなしをしましたが、たとえばパレスチナとイスラエルの紛争において、イスラエルはこの10年ちょっとで6500人をこえるパレスチナ人を ころしています。また、実際、先進国においてヘイトクライムで ころされるひと、差別的待遇による経済的破綻などで しぬひと、イジメを苦に自殺するひとなどを、 イスラム圏で性的マイノリティが しぬ人数と くらべるような統計は存在しません。しかし、これらを くらべたとき、はたしてどちらが絶対におおいと いえるような統計になるかは、わたしには ちょっとわかりません。

これは、くらべてどう、という はなしではないですし、片方が わるいからもう片方はいい、という はなしでは ないのですが、イスラエルの現在おこななっている暴力に めをつぶって、そこでいかにLGBTの人権が まもられているか、しかも「中東のほかの国に くらべていかにパラダイスか」を宣伝する、この、ピンク・ウォッシングという うごきは、注意して みていかないといけません。

イスラエルのこのイメージアップの こころみは米国内でも顕著で、米国の おおくのプライドパレードでイスラエル関連の団体がフロートを だしています。米国はイスラエルとの密接な関係がありますし、イスラム圏の国々への偏見が つよまることはテロ対策においても都合がいいわけです。先日米国のクリントン国務長官が同性愛者の権利について大々的にスピーチをして、今後米国が世界中で同性愛者の権利を推進していく方向性をしめし、話題になりましたが、すでにインターネット上では、これを「アメリカの文化帝国主義だ」とする批判が でていたりします。

階級の問題

つぎに、 これは、人種の問題も からんできますし、地域の文化の問題も関係するんですが、 階級の問題について、すこしだけ おはなしします。おそらく日本でもそうですが、米国においても、田舎であればあるほど、そして低所得であればあるほど、同性愛は嫌悪され、トランスジェンダーは迫害され、そして女性は しいたげられている、というイメージがあります。それは、かならずしも「全然そんなことないよ!」とは いえないと おもうのですが、クィア系の議論に、それが学問的なものであれ、政治活動的なものであれ、都会の中流階級のはなしばっかりが でてくる状況では、じゃあ田舎での生活を えらぶ性的マイノリティは、低所得である状況から ぬけだせない性的マイノリティは、議論の対象にもならないのか、もし差別をうけたとしても自業自得ということになってしまうのか、という疑問があります。

この問題にたいする回答として ひとつありえるのが、「いいや、そんなことはない。そういう人たちだって権利を まもられるべきだ。だから田舎にも、低所得のひとたちにも、きちんと教育をして、LGBTに寛容になれるようにしてあげるべきだ」というものです。「あ、どうも、クリントンさんこんにちは」ってかんじですが、状況はもっと複雑なはずです。たとえばジャック・ハルバースタムは、田舎にすんでいた あるトランス男性が、 トランスの存在が認知されないような、想像もされないような田舎にいたからこそ、男性としてパスして生活ができていたのでは、と指摘しています。また、ちょっとはなしが とびますが、世界で二番めにイスラム教徒のおおいパキスタンでも、地域によっては、労働者階級の文化が同性間の性愛関係を うけいれている場合があるそうです。これは、低所得でもそのままでいいよね!ということではなく、そういった人々の生活環境を一緒くたに「おくれている」と みてしまうことは、おかしいという はなしです。

わたし自身もまた、低所得世帯のおおい田舎でそだち、家族もふくめ、周囲にはいわゆる「低階層」とよばれるような文化が つねにありました。わたしが階層的に随分余裕ができたいまでも、そういった人間関係が きれているわけではありません。かれら・かのじょらとの やりとりの なかで、どうしても はなしが つうじなくて もどかしさを かんじることもありますが、同時に、かれら・かのじょらも また経済的に大変なおもいをしていたり、あるいは地域的に都市から はなれているからか、とてもすんなりと はなしが つうじること というのが多々あります。たとえば、クィア系の はなしをしたときに、それを社会の問題として認識してくれることが おおいと かんじるのは、ほかの面で めぐまれているひとたち よりも、そういった、むかしからの しりあいのかた だったりします。

また、ここでやっと最初のはなしに もどるのですが、「クィアする・おもいがけずクィアしてしまう」瞬間というのは、おそらく、クィア性が うけいれられるとき ではなく、規範との衝突が契機になるという はなしをしました。これは、理論的にも そういうかんじ だろうとは おもうのですが、実生活における感覚的なものでもあります。というのも、さっき いったような、むかしからの しりあいは、時々びっくりするくらい女性をバカにした発言をしたり、性的マイノリティに かんして ひどい発言をすることがあります。それに きずつくこともありますが、そういった性の話題になったときに、かれら・かのじょらは、あたりさわりのない ことを いって ながすのではなく、自分の、しばしば差別的な かんがえを表明して、わたしの いいぶんにも みみを かたむけることも おおいです。そうすると、わたし自身もまた、そこから まなぶことが おおかったりします。都会の、中流階級の、自称「リベラル」な、理解がありますアピールをするひとたちとの やりとりに かけているものに、であうことが あるということです。もちろんそれは、いつでもそうであるわけでは ないですけれども。

そういうとき、わたしは、自分が しんじてしまっている規範に きづかされることがあったりします。わたし自身が「こうである」と おもっていたものが、きりくずされることが あるんです。それは ときに不快でありますし、おそらく わたしの いいぶんを きいている相手も不快な おもいをしているかもしれません。しかし、クィアなはなしが容易に うけいれられる空間と くらべたとき、わたしは、こちらのほうがよっぽど、「クィアする・おもいがけずクィアしてしまう」事態の契機があるように かんじています。これは個人的な感覚ですし、かぎられた経験でしかないので、一般化することはできませんが、すくなくとも「低所得者層」の空間にクィアな現象は おこりえない という偏見は、まちがっていると いうことができると おもいますし、そのように わたしは いいたいと おもっています。

小まとめ

はじめのほうで、「クィアする」ということは、かならずしも知識や知性を必要としない、という はなしをしました。そして、知識や知性、そのほかの様々な社会的状況の ちがいが、「だれのクィアリングが注目されるのか」を左右してしまうことは、多々あります、とも いいました。その例として、人種の問題、宗教の問題、そして階級の問題について おはなし したところです。階級の はなしは あんまりいい例がだせなくて もうしわけなかったんですが、いいたいことは つたえられたと おもいます。つまり、人種マイノリティや宗教マイノリティ、そして低所得者層の生活においてどんな「クィアする」ような事態が起こっていようと、そんな「クィアリング」には だれも注目しない、だから、低所得者層や人種マイノリティ、宗教マイノリティは、まったくクィアなところのない存在だと おもわれてしまったりするのではないか、という はなしです。

うけいれられるタイプのクィアリングには、ほかの規範が関係しているという おはなしもしました。それは、イスラム教やイスラム教徒を悪魔のようにみたり、イスラエルがいい国だというイメージを つくったり、黒人は性的マイノリティに不寛容だとしたり、田舎は規範がつねにガチガチなので、そこにいる性的マイノリティは ろくでもない あつかいを うけているという偏見を もったり、移民はLGBTの権利を尊重しないから おいだすべきだ と主張したり、そういう規範に、利用されているということです。

「クィアする」ということは批評行為ですが、それはたんに他者のすがりついている規範を批判することではないと おもっています。はじめのほうで いったとおり、それは、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもってしまうように規範づけされている、「わたしたち自身」を批判に さらすことをも ふくむ行為なのです。そして、規範から自由なひとなどいない、という おはなしもしました。ですから、「クィアする」、あるいは、「おもいがけずクィアしてしまう」、もっとわたしが いいたいことを正確にいえば、「おもいがけず、その場の なにかがクィアされてしまう」事態というのは、おそらく だれにとっても、たのしいものでは ありません。

これはつまり、「他者」を対象として「自己」が「クィアする」、いいかえれば、他者のがわにある同性愛差別的、トランスジェンダー差別的、女性蔑視的、あるいは性的な規範に忠実な部分「だけが」批判に さらされる事態というのは、自分だけが批判から まぬがれようとする ふるまいが そこにあることを意味します。それは おそらく、やっている本人からしたら、愉快なことかもしれません。

これは、容易に、不正義のアウトソーシングになります。つまりそれは、イスラム教は、黒人は、低所得層のひとたちは、自分たちと ちがって、わるいことをしている、という設定のまま、その「わるいこと」——ここでは女性差別や性的マイノリティへの差別——からの利益は自分たちも うけている、ということです。最近では、ジョニー・ウィアーというスケート選手について同性愛差別的なコメントをしたカナダの報道関係者、およびオーストラリアの報道関係者がいましたが、米国では「フランス語話者であるコメンテーターがこういった」「オーストラリアのコメンテーターがこういった」という報道が おおくされました。ちなみに、カナダにおいては、フランス系の移民は ながく労働搾取をうけてきた歴史があります。また、オーストラリアも、おなじ英語圏でありながら、より野蛮なイメージを おしつけられた地域です。このように、「クィアする」——クィアリング——が、階級差別や民族差別、移民排斥、宗教弾圧などの思想に くみこまれて しまいうるわけです。それが、それでも、「クィアする」行為であると かんがえることが できるかどうかは、わかりませんが。

しかし、そのように くみこまれるからといって、性にかんする規範がまるっと きえるわけではなく、むしろ とりこまれ、利用され、つかいすてられるのが現実だと おもっています。政府や世論に歓迎されているあいだも、ジェンダーのきまりごとや、同性愛者を異性愛者と同等に あつかわない姿勢、男性を優遇する構造などがなくなるわけではなく、二級市民あつかいのまま、利用だけされるのではないでしょうか。たとえば、2年前にドイツのプライドパレードでジュディス・バトラーが主催者からの表彰を辞退したことが話題になりましたが、そこでバトラーが——バトラーがというか、現地の移民系・人種マイノリティ系クィア団体などから きいた はなしや、それをうけて本人が しらべたはなしを もとに——告発したのは、ドイツの大手LGBT団体が政府と協力して、移民排斥に加担しているという はなしでした。それだけでも ゆゆしき事態ではありますが、そもそも、ではドイツ政府が本当に性的マイノリティの問題について、本気で かんがえていたのかと かんがえると、おそらく そうではないでしょう。

クィア・スタディーズ in 英米 and in 日本

ここまでで みてきたように、「グローバルなクィア」ではなく「グローバルにクィアする」という動詞を かんがえたとき、わたしたちは いまのところ、あまりいい例を みつけることができないでいます。これは、自己をも批判にさらす、つまり自分の よってたつ「台」すら「台なしにする」ことが、そもそものグローバライゼーションの議論において、そして わたしたち ひとりひとりがグローバライゼーションについて かんがえたときに、あまり重要視されて こなかったことを意味するのかもしれません。

そして、現状グローバル・クィアの議論が「英米 対 日本」という かたちで、とくに前者が「クィア」という概念の うまれた地であり後者に「輸入」されるという前提の なかで かたられるとき、英米のクィア・スタディーズに あしを つっこんでいるひとがまず「台なしにする」べきは、英米でしょう。つまり、米国をはじめとする先進国の内部でそもそも前提とされている、日本などに「輸入」される おおもとに なっている設定の「ドメスティック・クィア」が、本当に「米国」などの国家的な単位のなかで共有された概念なのか、うたがって みてみることが重要なわけです。それは、最終的には、「米国」という国境的くぎり自体に うたがいの めを むけることにならざるを えない はずです。

そして、日本においてクィア・スタディーズに あしを つっこんでいるひとにとって重要なのは、もちろん ひとつめに、「輸入もと」の米国とは ことなる場所——つまり「輸入さき」——であるとされ、グローバル・クィアという概念の材料にされていることへの批判的考察であり、そしてもうひとつは、「日本」が歴史的に みずからを主体——つまり「東アジア共同体」構想という ひとつのグローバル思想の中心——であるとみなしてきたことを ふりかえり、いまになっても国内外で日本中心主義に もとづいた不正義を おこなっていることについての批判的考察を おこなうことです。

日本の東京中心主義、在日コリアン、東日本大震災

たとえば、先日 活動家の島田暁(しまだ・あきら)さんがツイッターで、在日コリアンの性的マイノリティがその両方についてカミングアウトすることがあまりないのは——あまりない、というのも島田さんの周囲にいないというだけだと おもいますが——在日コリアンのコミュニティにおける性別役割分業が きびしいからである、という内容の発言をしました。ごじつ 島田さんはこの発言への批判に応答し、おそらく撤回もしていたと おもうのですが、かれの発言は、移民の文化を不当に「おくれている」とみなすものであり、さらに、おそらく日本社会における すべての人間が全体的に責任を おっている性的マイノリティの問題を、あたかも日本社会と在日コリアンコミュニティが ふたつに わけられるかのように想定したあとで、後者のなかの問題は後者の問題だとして きりはなす——あるいは きりはなした うえで、包摂しようとする——ものです。ここでは、在日コリアンである性的マイノリティが在日コリアンのコミュニティにおいて性的マイノリティであることをカミングアウトすることの困難は想定されていますが、ぎゃく——つまり、かのじょら・かれら性的マイノリティのコミュニティにおいて在日コリアンであることをカミングアウトすることの困難については、想定されていません。しかし、島田さんの周囲において両方カミングアウトしているひとが すくないという現象は、むしろ後者の例なわけです。しかしそこには ふれずに、在日コリアンのコミュニティの問題を指摘してしまう。そして、ちょっと うつくしい同情と包摂の物語を つくってしまう。

おなじ構図は、あらゆるところに存在します。東日本大震災が3月に おきたとき、わたしはまず被災地にいる性的マイノリティにどんな困難が まちうけているのだろうと おそろしくなり、ネット上に だれでも かきこみが できるウェブサイトを つくりました。そこで意見を募集し、A4の紙一枚程度のシンプルな、被災地で支援をするひとが よめるようなものに まとめようと おもっていました。そのさい、東北地方にいる性的マイノリティの かたがたから いくつかコメントがつき、いまの段階ではそのような資料の配布は のぞましくないという意見を いただきました。それをうけ、現在に いたるまで保留の状態でいます。内容・時期・配布のしかたなどは、今後ゆっくり きめていきたいと おもっています。ただ、いまは のぞましくないという ご意見を頂戴するまで、わたし自身は相当、クリントン国務長官や、「海外でもLGBTの権利を推進していく」と かたったオバマ大統領っぽかったわけです。あるいは、ウガンダへの経済制裁を声高に さけんだ米国の活動家にも つうじるところがあったと おもいます。これは重要な問題だな、と、わたし自身 非常に かんがえさせられる経験となりました。

そのあと、共生ネットという団体から要望書が政府等に提出され、これもまた、わたしの つくったウェブサイトの内容を大幅に反映していることから いろいろな誤解が うまれたのですが、それは小澤かおるさんが様々なところで ご説明くださっているので、割愛します。

ただそこで、レインボーエイドという団体が調査をし、東北は家父長制がつよく、とても保守的だという報告を だしました。この調査をした小澤さんの結論は かならずしも「東北は保守的だ」というものでなく、東北の性的マイノリティあるいは団体との連携をきちんと とることの重要性を指摘するものでしたが、調査中にインタビューで でてきた「東北は保守的だから」という主旨の証言が ひとりあるきを して、それを前提に議論が すすんでいる印象をうけています。『被災とジェンダー/セクシュアリティ~緊急時、見落とされがちな視点を今後に活かすために』というイベントが9月24日に開催されましたが、そこでも、この「東北は保守的だ」という表現が、あまりきちんと議論されないまま、大雑把に前提とされている印象をうけました。登壇者の高橋準さんは、この「東北は保守的だ」というのは、西南日本と東北日本でわけたときの後者の家族観について いっていたそうです。しかし、おおくの ひとは「東北は関東とちがって保守的だ」という解釈をしているようでしたし、この問題について議論が おこることもありませんでした。

わたしは、自分がウェブサイトを つくったときに被災地の性的マイノリティや団体への連絡を おこたったことを反省しつつ、ぎゃくに かれら・かのじょらから連絡をしてくれたことに感謝すると同時に、しかし、そのまったく反対方向というか、被災地の性的マイノリティの言葉をそのまましんじて「東北は保守的なんだぁ」と納得することも、おかしいと おもっています。そもそも、関東が保守的でなかったことなど あっただろうか。たとえば女性運動における東北地方や近畿地方の女性のがんばりは、どう評価するのか。反原発運動で、もっとも保守的だったのは関東ではないのか。

たとえば、レインボー・アクションという団体が4月16日に、『差別発言に「NO」と言える日本を!石原都知事の同性愛者差別発言に抗議する』というデモをおこないましたが、その宣伝文句は、つぎのようなものでした。

2010年12月に報道された石原都知事の同性愛者差別発言を受け、抗議したい人たちでデモを行います。性的マイノリティの象徴である「レインボー」を身につけ、東京から多様性を発信するべく、新宿二丁目を通り、新宿駅前から都庁へ向かいます。東京から虹色に!

http://ishiharakougi.blog137.fc2.com/blog-entry-90.html

「東京から多様性を発信」、「東京から虹色に」というのは、あたかも東京が口火をきってはじめて、地方に その ながれが とびひ するかのような表現です。しかし、性的マイノリティの尊厳や権利について真剣に かんがえている地方行政のリーダーは、たとえば九州の宮崎県都城市などにいました。石原都知事が再選された東京から、というのは、ちょっとわけがわからない はなしだと おもうんです。

(文章アップロードするにあたっての、注意がき:4月の段階でのこういった表現は、現在ではつかわれていないそうです。コメントくださったかたに感謝します。)

まとめ

グローバル・クィアについて、というのがこのワークショップの おおきなテーマでした。だいぶいろんな はなしを もりこんでしまったので、あっちいったり こっちいったり している かんじがあったと おもいますが、はじめにオーガナイザーのソニヤに みせた要旨では、この発表の目的を、つぎのふたつに設定していました。ひとつは、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という わくぐみを批判すること。そして ふたつめは、「翻訳可能性」——つまり「クィア」という言葉が、英米以外において どのように とりいれられるのか、あるいは とりいれに失敗するのかということ——が、言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを指摘することでした。

また、名詞としての「クィア」ではなく、動詞としての「クィア・クィアする」に注目するというのは、ギリギリになって おもいついたことなんですが、そうすることで、ともすればグローバライゼーションのはなしに ひきずられてしまいがちなグローバル・クィアの問題を、ちょっと強引にクィアのはなしに ひきつけて、おはなしが できたかと おもいます。「自分のよってたつ台をも、台なしにする」——「クィア」という動詞のもつ、この諸刃の剣、というか、さしちがえ覚悟みたいな いきごみを おもいだすことで、わたしたちは、まずもって、グローバル・クィアについて うえから俯瞰するような、自分は中立ですみたいな視点で かたることはできないということ、そして、「グローバルにクィア」しようと こころみるとき、自分のよってたつ「ドメスティック・クィア」の曖昧さに めを むけなければならないということを、意識できるような きがしています。

そんな、かんじです。(了)

「わたしの〈クィア〉とあなたの〈クィア〉は違う:グローバルでないドメスティックなクィアの不可能性」への1件のフィードバック

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