『児童ポルノと法:反規制言説におけるナショナリズム』学会発表原稿

2010年9月10日、英国日本研究協会の年次大会において、 “Child Pornography and Law: Nationalism in Anti-regulation Discourses” (児童ポルノと法:反規制言説におけるナショナリズム)という発表をしました。そのスライドと原稿を引っ張りだしたので、日本語に訳して公開します。

If you prefer reading this paper in English, click here and click Download(.pdf).

2012/6/2 追記

  • 〇〇という団体への言及がない、みたいなご指摘が多いです。めんどくさいし、その他の部分は評価してくれてるひとだったりするしで、とりあえず目についたものには「ご指摘ありがとうございます」とか言ってきましたが、正直言って、私のこの発表の主題からして、的外れなご指摘です。そもそもわたしは児童ポルノに関する規制派・反対派の両者について歴史を追って「なぜこのような政治的な動きが出てきたのか」とかを論じるつもりはなかったですし、いまでも、それは誰か他の人がやればいいような仕事だと思っています。本文にある通り、「既に、レイプレイを指差して何かを語るという段階はすぎて」いると私は個人的に感じています。というか、調べればすぐにわかるような団体名です。言及されていないということが「論旨に関係ないから」ではなく「知らなかったから」だろうと思われるのは、わたくしがヘボいと思われているからなのでしょうね。いいけど、ヘボいし。
  • 私は反規制派や規制派の活動自体を調査対象にはしていないですし、分析・批判の対象にもしていません(APPを批判する、という目的は、唯一ありましたが)。すぐ下でも「レイプレイというゲームソフトが受けた批判に対して発生した日本語のインターネットスペースにおける論争に注目し、グローバル・セクシュアル・ポリティクスの文脈における児童ポルノを巡る言説について考え」るための発表だと言っています。ですので、たとえばネット上の言説しか扱っていない、みたいなご批判も、そりゃそうだ、って話なのです。ネット以外のことについては、わたくしの仕事ではないので、他の人をあたってください。また、その上で話したかった論旨は、最後の方で言っているとおり「フェミニズム自体の問題(中略)、クィア運動自体の問題(中略)、そして反グローバリズムとその国粋主義的な意味」について、それぞれを扱う社会運動がどう連帯できるかについてのものです。ただ、もちろん、明らかな事実誤認が書いてある場合など、今後もご指摘・ご批判は甘んじて受けます。

2012/6/4 追記

  • 鳥山仁さん @toriyamazine 、烏蛇さん @crowserpent さんと私 @cmasak のやりとりが http://togetter.com/li/313937 にあります。烏蛇さん、まとめありがとうございました。

この発表では、レイプレイというゲームソフトが受けた批判に対して発生した日本語のインターネットスペースにおける論争に注目し、グローバル・セクシュアル・ポリティクスの文脈における児童ポルノを巡る言説について考えます。


以下、性暴力の描写が含まれる内容となっています。もし読み進めることに不安があれば、ここでやめて頂いてかまいません。

.
.
.
.
.
.


レイプレイとは、プレイヤーが12歳の*1女の子を電車で痴漢し、逃げられないように拘束して公衆トイレ等さまざまな場所で強姦する、シミュレーションゲームです。ストーリーが進むにつれ、ときに輪姦を含む性暴力をくりかえし、その女の子の母や姉までも強姦し、その3人が性暴力を受けることに「快楽」を感じるようになります。さらに、妊娠、中絶と話は進んで行きます。このゲームはイリュージョン・ソフトウェアという会社が製作しアマゾン日本限定で販売していましたが、英語に訳された海賊版がすぐにアマゾン英国版のマーケットプレースに登場しました。メディアの反応を受けてアマゾン英国版はレイプレイをサイトから削除し、英国議会においても英国映画倫理委員会(British Board of Film Classification)の話題において「過激なポルノグラフィー」として言及されました。また一方で、2009年2月にはニューヨーク市議会の報道官クリスティーヌ・クィンらがレイプレイの不買運動を呼びかけました。5月には米国の女性団体イクオリティー・ナウ(Equality Now)が「Women’s Action 33.1」という声明を出し、レイプレイの販売停止を求めました。これを受けてアマゾン日本は販売を停止し、最終的に、9月に類似品(イリュージョン・ソフトウェアの製品を含む)の販売停止をアマゾン日本に求める「Women’s Action 33.2」が公表されるころには、イリュージョン・ソフトウェアのウェブサイトからもレイプレイは削除されることとなりました。この騒動について、日本語によるブロゴスフィアおよび掲示板において、昨年はとても大きな論争となったのです。


私は、フェミニズムの教育を受けたクィアな有色人種の人間として、この論争を、急速にグローバル化しつつある「子どもの安全」についての言説、そして日本における反グローバライゼーションの国粋主義的な感情の、両方について特に注意しながら、観察してきました。この二つの現象は、どちらも日本対欧米という二項対立を強化するものであると、私は思っています。特に私が危惧しているのは、この枠組みでは、グローバライゼーションについての典型的な(ジェンダーセクシュアリティを取るに足らないものとみなすような)政治的議論のために、フェミニストな、そしてクィアな視点が、代わり映えのしない男性中心主義や異性愛規範に取って食われてしまうのではないか、というものです。


レイプレイ騒動についてのオンラインでの論争を読みながら私が気づいたことは、議論が加熱するにつれ、人々の関心は、文化のあいだの国家的な境界について向けられるようになっていき、同時に、おそらく不可避的に、フェミニスト政治およびクィア政治からは遠ざかって行ったということです。この現象について今日私が指摘したいことは、大きく二点あります。ひとつは、フェミニズムの消去について。もうひとつは、クィアな連帯の欠乏についてです。そして、これらについて私は、「日本文化」にその責を帰すようなやり方で語るのではなく、むしろ日本と西洋の共犯関係としてとらえてみたいのです。


レイプレイが女性を貶めるような女性表象を含んでいることを明確に認識しているイクオリティー・ナウの声明をのぞき、現在ポルノグラフィーについて国際社会で語られていることのほとんどは、どのようにして子どもに安全と性的搾取からの自由を与えることができるか、ということに関するものです。


メディア表象が持つ言説的な権力についての理解は、先人たちの努力の結果、直接的な暴力から子供を守るだけでは不十分であると多くのひとが感じる程度には、広まってきています。これは、世界的に広まりつつある反ポルノグラフィーのアジェンダに、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた、実際の子どもが介在しないかたちの作品が含まれるようになったことからも明らかです。たとえば、第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)は、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針を採択しました。しかし、私自身はここで、子どもの安全を守るという近年のグローバルな方向性と、キャサリン・マッキノン(Catherine McKinnon)やアンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)などのフェミニストたちがかつて主張した、ポルノグラフィーは女性を貶めるものだという考え方とのあいだに、あまりおおきな違いを見いだせずにいます。現在の反児童ポルノの感情は、フェミニストによる反ポルノグラフィー運動とのあいだに、ひとつおおきな共通点を持っています。それは、両者ともに、表象というものを仮想現実の問題とするのではなく、現実の社会で起きている物事と密接な関係をもったものとしてとらえる点です。また、私は、この視点に同意しています。もちろん、検閲など、ある種の表象を何らかのかたちで抑制しようとする短絡的な解決案は有効ではないと思っています。そのような法というのは、ことごとく「なにがOKなポルノで、なにがNGなポルノか」を見分けることに失敗してきたからですし、今後も成功する見込みはないからです。しかし、だからと言って、それは私たちがポルノグラフィーをいっさい問題のないものとみなして構わない、という意味ではありません。フェミニストたちのあいだでも、またフェミニストの業界を超えたところでも、ポルノグラフィーについての議論はこれまでにすさまじい蓄積を残しています。そして、現在、多くのフェミニストは、ハリウッド映画など他の形のメディアと同程度にはポルノグラフィーが危険であると思っていますが、それはそのような表象がどのように作られ、消費され、評価されるのかによって程度が変わってくると考えています。また、「女性」といったときに、それがひとつの、何らかの共通の経験を持つ一枚岩な集団ではなく、ポルノグラフィーを見る目もひとりひとりの女性によって異なる、ということを、現在のフェミニストの多くは認識しています。ポルノグラフィー作品が批評の対象になることはありますが、それが法によって規制されていいのかどうかについては、現在でもフェミニストたちのあいだで意見が大きく分かれる問題となっています。


一方、現在、国際社会として、あるいは「国際的統治(global governance)」の一部としての私たちは、子どもの安全という世界的に広まっているイデオロギーと、それがセクシュアリティの統治の文脈で何を意味しうるのかについて、自分たちの思い込みをあまり疑うことなく、反児童ポルノ運動の動きに飛び込んでしまっているように感じられます。こんにちの社会がもし、私たちの思い込んでいるくらいに、実際に知的に進んでいて人道的であるならば、子どもの生活の質を脅かすとされる表象の暴力を前に、どうして私たちはドウォーキン/マッキノン以来のフェミニストの議論の蓄積を振り返っていないのでしょうか。それはあたかも、成人女性は、成人女性の性的表象によっていっさい痛めつけられることがないという結論に既に至っているかのような振る舞いです。

私が指摘しようとしているフェミニズムの消去は、これだけではありません。米国に拠点を置くイクオリティー・ナウと日本の団体であるポルノ・買春問題研究会(APP研・以下APP)のあいだには、双方向的な協力が見られなかったという不思議な現象があります。ここで私が明らかだと思うのは、単にフェミニズムが消去されただけではなく、特に日本内部のフェミニズムが不可視化された、という現象です。


このスライドは、レイプレイの販売を受けてAPPウェブサイトに掲載された同団体の声明です。しかしこれは、もともと英語で書かれたイクオリティー・ナウの声明の日本語訳でしかありませんでした。訳文に、イクオリティー・ナウのスポークスパーソンが登場したCNNの映像を貼付けただけのものです。このような国際的な協力関係は、特にこんにちの急速なグローバル化においては、社会運動にとって不可欠なものだと、私は思っています。しかし、もし事態が米国と日本で逆だったら、果たしてイクオリティー・ナウはAPPによる日本語の声明文を英訳しただろうか、と考えてしまうのです。あるいは少なくとも、イクオリティー・ナウは今回の問題について、自ら声明文を出すのではなく、単に支持を表明し、APPが必要とする資源(資料や金銭的援助など)を提供するだけでよかったのではないか、と。APPよりもそもそも目立つ団体であり、社会への影響力も大きいイクオリティー・ナウが声明文を出した方がいい、という判断かもしれませんが、しかしそれは、人種にはじまる様々な差異を超えてあらゆる女性について私たちフェミニストが考えようとするなら、まさに私たちが疑わなければならないような米国-日本間の権力構造のあらわれであります。


イクオリティー・ナウは善意で行動したのでしょうし、その立場は理解できます。しかし、いずれにしても、その行動の「フェミニスト」な部分は、それが日本のネット社会に届いたときには剥がれ落ちてしまっていました。この声明文は、児童ポルノ規制を奨励するものであると誤読されたのです。示唆深いのは、このレイプレイ騒動が、当時 Wikipedia の「レイプレイ」そのものについての記事よりも「児童ポルノ」のページ上でのほうがより詳細に紹介されていたことです。この混乱は、児童ポルノ法を厳しくし、実際の子どもが介在しない児童ポルノを処罰化する児童ポルノ法修正案を自由民主党が出していた時期であることが原因でしょう。それもまた、単なる偶然ではなく、国際統治と呼ばれる国際的な共犯関係のなかで生まれた同時性ではありましょうけれども。

皮肉なのは、イクオリティー・ナウが「フェミニスト」団体であることは、その声明のフェミニスト的な立ち位置を認め、価値を見いだすことではなく、むしろ声明全体を無効化することに役立ってしまいました。というのも、反児童ポルノ的なものはなんでも全て「フェミニスト」という言葉でレッテルを貼ってしまう雰囲気があったのです。そして、ここで国粋主義がひとつの役割を担うことになりました。それは、反フェミニスト感情が、ほとんど区別がつかないほどに、反外国人の感情と結びついてしまったことです。以下で説明する通り、この時点でフェミニズムはほぼ西洋のものであると決めつけられるか、少なくとも「内政干渉」と思われるほどには、外部のものであるととらえられていたのです。


このスライドは、強姦を受けた若いアメリカ人女性サバイバーについてのニュース記事が掲示板に貼付けられたものです。ここで、このサバイバーはレイプレイが販売されていることに怒りを表明しています。


そして、その掲示板でついたコメントの一部がこちらです。

ここには、「日本のゲームに口出しすんな そっとしておいてくれ」「いやホント勝手に海外で売らないでください 迷惑なんです」「うるせえ外人がごちゃごちゃ言うな」「自国のレイプを他国の文化のせいにしないでください」「だから日本は放っておいてくれよ オマエラのために作ってるんじゃねぇんだよクソが」とあります。


また、この騒動についてのまとめサイトでは、児童ポルノ法修正案に賛成する団体がリストアップされていますが、イクオリティー・ナウについては「アメリカのニューヨーク市に本部がある」だったり、APPについても「米国の反ポルノ運動勢力の最右翼であるアンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノン(中略)の影響下にある大学関係者・弁護士・左翼活動家らが中心となって活動」とするなど、何らかの「西洋」性を強調するものとなっています。「キリスト教」という言葉も多用されています。


この騒動の最中、国粋主義的な感情は反西洋だけではなく、反コリアンの様相も見せ始めます。これらのコメントには、次のようにあります。「また韓国人の陰謀ですか。 これ、韓国人が組織的にやってるんでしょ、半日キャンペーンの一つとして。」「この子にレイプレイ教えたやつ誰だよ なかなかいいプレイだな」 またこれに対する返信として「この記事書いた朝鮮人がご丁寧に教えて差し上げたんだろう」「いい加減メリケンも韓国人に振り回されるのは止めろよ」「アメリカが言うな」 またこれに対する返信として「アメリカで言われているからというのに目を奪われるなよ? 裏でたきつけてるコリアンがいるのを忘れるな」


外国人嫌悪(ゼノフォビア)は、また一方で、反児童ポルノ活動家アグネス・チャン氏への個人攻撃としても現れています。これらが、チャン氏への言及を含んだコメントです。「児ポだろうがなんだろうが、余所者につべこべ言われるのが気にくわない」「アグネス『倭猿タチの古典ナンテ無価値ネ 全力デ潰スアルネ』」「レイプレイの件もアグネスも外人だけでどんどん話が進んでってほんとおもしれえ」「徹底的に規制してやるアル!って決意したって事か アグネスチャンは敵を増やすの上手いなw きっと色んな奴に怨まれてるんだろうなあ」「アグネスなんて、本国の人権侵害には何も言わないんだから、 360°どっから見ても工作員丸出しだろ。」「帰化すらしてない外人に感情論で法に干渉されたらたまんねえよ 現実の児童すら救ってないのに明確なソースもなしに『虹(引用者注・二次の意)規制すれば児童の性的搾取はなくなる』とか言われても」「こいつさっさと殺されればいいのに シナババア死ねよ」 内容もさることながら、カタカナで外国人の発言であることが強調されています。

この問題について起きた論争のすべてを紹介することはできませんが、ほとんどのコメントはこのようなパターンをなぞっています。明らかなのは、人々の関心が、どんどん日本という国家の境界の問題にひきつけられていき、同時に、イクオリティー・ナウやAPPが強化しようとしたフェミニスト的な政治からは急速に離れて行ったことです。気をつけなければならないのは、そういった現象が起こった原因のひとつは、イクオリティー・ナウとAPPが採用した戦略自体であるということです。


この発表の後半は、クィアな連帯の不在についてのものです。私は、このレイプレイ騒動において、ある種のクィアな連帯が形成される可能性があったと思っています。

先に進む前にご理解いただきたいのは、「ペドフィリア」と言ったとき、私は、単なる子どもへの性愛感情以上のものを含めて考えてはいません。つまり、いかなる行動も、ましてや法律違反も、この定義には含めていません。


とても一般化した話になりますが、日本と西洋でのペドフィリアのとらえられかたの違いを考えてみたいと思います。西洋の多くのひとは、同性愛者はペドフィリアであるという偏見を知っていると思います。歴史的に、ペドフィリアも同性愛も両方とも貶めるために、両者が関連づけて語られてきたのですが、西洋のLGBTフレンドリーになりつつある地域においては、人々の文化意識を変え、同性愛をペドフィリアとは違うものとする考えを普及することに成功してきました。しかしそれは同時に、ペドフィリアを病的な個人の悪魔のような集団とする見方を温存することに加担してきました。一方で、日本においてはペドフィリア、あるいはロリコンと呼ばれるものは、異性愛者の男性の倒錯した性的幻想の一部とみなされてきた傾向があります。インターネットで論争に参加した多くの反規制派はレイプレイを「日本の」文化の一部だとして擁護しましたが、しかし日本におけるクィアな存在はできるだけ自らのセクシュアリティや出生時とは異なるジェンダーへの同一化について沈黙を守るよう奨励されています。また、彼女ら彼らが日本に存在する事実すら、例えば「アメリカに行ったら、ケツ掘られないように気をつけろよ」というようなジョークによって、ないことにされたりします。


全てのセクシュアリティ性的指向に限らず全てのセクシュアリティ)は、異性愛を中心としてとらえられ、あるいは異性愛の亜種であると考えられる傾向があります。例えばロリコンの男子バージョンであるショタコンも、異性愛の文脈で解釈されることがほとんどです。今日のネット社会では「男の娘」という言葉もありますが、メイド喫茶やコスプレなどのオタク文化と呼ばれるものと同様、メディアでもよく取りざたされるようになり、「男の娘」であるような男性は増えていると報道されています。私は、この現象は女性という自認の(戸籍上の)男性を含む男性性と考えられているものとの不一致を感じている人にとって、ある種のガス抜きのように機能していると考えていますし、もしこの現象がなければ女性として、トランスジェンダーとして、あるいは女装者などとして自認を持った個人も多数いるだろうと思っています。しかし、一般的な前提としては、男の娘は自らのジェンダー自認を疑うことはなく、単に女性の服装を楽しんでいあるだけだというものです。

また、性同一性障害という言葉はこの十数年で急速に広まり、同性愛もしばしば「反対の性を自認した上での異性愛」ととらえられます。もちろん同性愛とトランスであることは二律背反の関係にはありませんし、この混乱の責任が性同一性障害の言説に帰せられるべきとも思いません。しかし、同性愛が異性愛の言葉で説明されるという現象は、気になります。


このような理解のなかで、レイプレイがクィアな注目を浴びることはないでしょうし、実際にそうはなりませんでした。私の知る限り、日本の主流なLGBT団体はこの問題について語りませんでしたし、最も大きなLGBT新聞(オンライン)である Gay JapanNews は、過去三年間で児童ポルノに関する記事をたったひとつしか掲載しておらず、それもオーストラリアで児童ポルノの所持で九十人が逮捕されたという単なる報告にすぎませんでした。


しかし、そもそもどうしてクィアな連帯がこの問題において重要だったのか、と疑問に思うひともいるかと思います。そもそもはじめに、「クィア」とはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアルトランスジェンダートランスセクシュアルを傘下におく単なる総合カテゴリー名称ではありません。ゲイ男性を中心とする集団への攻撃や貶めにルーツを持つこの言葉は、大きくその意味を変え、セックスワーカー、ドラッグ使用者など、HIV感染のハイリスク集団とされた人々をも含む言葉となりました。そうなることで、エイズの広がりを公衆衛生の問題として認めなかったレーガン政権によって誰の生命が守られず、尊重されずにいたのかを、明確に、大きな広がりを含めたかたちで、表現する言葉ができました。ですから、私にとっては、「クィア」は怒りの言葉であり、連帯を呼びかける言葉です。自らのライフスタイルがゆえに周縁化され、軽視される人々のあいだの連帯を、呼びかけているのです。「クィア」は法に忠実になるわけでも、法を破ろうとするのでもなく、一般的な価値観において受け入れられているものへの抵抗としての、新しいやりかたで、法律を使い、ねじ曲げ、文句を言い、解釈しなおすのです。「クィア」は、性的指向ジェンダー自認の領域にとどまりません。「クィア」はカテゴリーを信じないかわりに、人々とその生き方に寄り添います。「クィア」はペドファイルと呼ばれるひとびとを、こどもと呼ばれるひとびとと同様に尊重します。「クィア」は、全ての人が性暴力から自由になるべきだと要求しながら、同時に、好きな性的ファンタジーを持つ権利も全ての人に与えられるべきだと要求します。「クィア」はある種の欲望のありかたを批評しながらも、欲望が社会的に構築されること、社会から自由ではないこと、そしてそれゆえに個人に責を帰せるものではないことを認識します。あらゆる欲望は、それがどんな名前であれ、構築されるものです。このように考えるといいかもしれません。つまり、空腹が私たち人間が生物として運命づけられた宿命であったとしても、食べ物の好き嫌いまではじめから決まっている訳ではない、と。もしあなたがケバブを大好きだとしても、もし数百年前の、まだケバブが日本に存在しない時代に生まれていたら、どうしたでしょうか。たぶん、ケバブのようなものを好きになっていたでしょうけれども、決してケバブが食べたいとは思わなかったことでしょう。セクシュアリティもまた、同様です。もし19世紀より前に生まれていたら、同性愛なんていう言葉は知らなかったはずです。現代のセクシュアリティの語彙においては、すべての言葉は理想的異性愛との関係において定義されています(理想的な異性愛とは〇〇が違う、理想的な異性愛と似ているが対象は同性である、など)。ペドフィリアもまた、ある種の性愛のありかたをそのように記述する言葉です。クィア理論はセクシュアル・マイノリティやジェンダー・マイノリティについて学ぶ学問ではなく、セクシュアリティについての規範について学ぶ学問ですから、ペドフィリアの問題をそこから排除する理由はありません。


LGBTであることとペドフィリアについての日本における複雑な関係を理解できれば、日本は近代化が遅れているだとか、西洋化する前の日本はクィアだったとかの主張は危険であることがわかると思います。ペドフィリア的な欲望は、「外国文化」とは異なる「日本文化」の一部としての異性愛男性の性的ファンタジーと理解されているわけです。そして、一見クィアLGBT団体は、反児童ポルノ運動にたいして何も反応をしてきませんでした。これは、単に日本が近代化を、異なった形で進めていることを表しています。そして、前述の通り、これらの現象は決して国際的な影響から独立した現象ではありません。

若さを性的なものとするのは、そもそも日本だけの独特のものではありません。ブリトニー・スピアーズザック・エフロンのような若年層の芸能人の表象は常に性的な要素を持っています。雑誌、ポルノサイト、ハリウッド映画、リアリティーショー、ポップスやラップ音楽の歌詞などは、全て、若ければ若いほどいい、というメッセージを送っています。特に女性には「girl」という表現があり、これは男性に使われる「guy」とも「boy」とも異なる意味が与えられています。また、レイプレイがそもそもイギリスのアマゾンで翻訳されて販売されたことも思い出されます。つまり、セクシュアリティ多様性は、国家の境界の内部と外部を横断しているのです。


私が考えてみたいのは、国家的な境界を越えながらも、同時にその境界が私たちにとって何を意味するのかを無視しないような、ある種のポリティクスです。これはまた、フェミニストたち、クィアたちをつなぎつつ、同時に資本主義対共産主義、あるいはグローバリズムナショナリズムというような「お堅い」ポリティクスに取り込まれないような、ポリティクスです。


児童ポルノの文脈に引き寄せてみると、次のような課題が浮かび上がります。つまり、日本対その他という二項対立でとらえず、検閲という発想から距離を取り、また「ペドファイル」という想像のカテゴリーに執着せずに、どうやったら子どもや女性を守れるのだろうか、という課題です。


この課題は、フェミニズムにも、クィア政治にも、そして反ナショナリズムの政治にとっても、関係していることです。なぜなら、結局これは、安全とは何かという問題に関わってくるからです。まず認識しなければならないのは、ペドファイルとして、あるいは「アジアの野蛮な文化」として「他者」を悪魔扱いすることは、決して子どもや女性がさらされている危険を減らしはしない、ということです。児童の性的虐待の加害者のうちほとんどが被害者の父、兄、叔父・伯父、教師、牧師、コーチ、両親の知り合いであり、多くの女性は自宅で、そして恋愛関係を結んだ相手から暴力を受けています。しかし、上で示したとおり、イクオリティー・ナウから国粋主義的な反規制感情まで、ペドフィリアへのクィアの無関心からクィア的・フェミ的なものの日本国外へのアウトソーシングまで、そして増大している世界規模の反児童ポルノ運動からセクシュアリティ病理と同性愛の分離まで、私たちは、人々が他者をスケープゴートにしたがることを、痛いほど知っています。そしてそれは、フェミニストの、そしてクィアな存在の、世界的な協力関係の構築を阻害しています。必要なのは、外ではなく、内側を見る視点です。グローバル化のなか、私たちが連帯できる領域は、ふたつあると考えています。それは、家族的価値観の問題と、「脅威」という概念についての問題です。


異性愛規範は、その多くの面で、家族的価値観と密接につながっており、日本の文脈においては、それは継承と相続が社会で大きな意味を持つような、そして配偶者間の性暴力が未だきちんと認識されていないような状況にある家族制度と密接に関連しています。戸籍制度は明治時代の帝国主義の最中に導入され、日本にルーツを持たないひとびとをこれまでずっと排除してきました。この制度においては、日本国民と結婚した外国籍のひとは、配偶者としてではなく、脚注として戸籍に登録されます。全ての世帯は世帯主を持ち、世帯主だけが結婚前の名字を法的に維持できます。また、六ヶ月は再婚できないという法は、女性だけを対象とするものです。日本の文脈においては、戸籍制度はクィアの、フェミニズムの、そして反ナショナリズム政治の、すべての問題なのです。


次にクィアフェミニスト、そして反ナショナリズム政治がしばしば直面するものに、「社会への脅威」という言説があります。しばしば私たちは女性の問題をジェンダーの問題とし、クィアの問題をセクシュアリティの問題と考えてしまいがちですが、女性とクィア、そして女性でありクィアであるひとびとは、「夜道を返せ」(take back the night)運動や同性愛者へのヘイトクライムからもわかるとおり、しばしば、セクシュアリティの社会的統治のターゲットにされます。注意したいのは、女性は夜道を歩くべきではないという主張の背景にあるのは、男性を脅威としてとらえる考え方ではなく、男性が占有している夜道に「介入」する女性を「脅威」と感じる考え方です。さらに、日本においても、外国人嫌悪的な、そして反移民的な言説が近年増加しており、そこには中国人やコリアンを日本社会にとって危険な「脅威」ととらえる考え方があります。日本に住む中国人やコリアンによる犯罪や、中国から輸入される低品質の食料品などをセンセーショナルに報道するメディアの影響も強大です。「脅威」が外部からやってくるものだという考え方があり、ゆえにそれは外国人嫌悪や同性愛嫌悪、女性蔑視やトランス嫌悪に利用され、同時に、内部の脅威についての関心が弱まって行きます。ドメスティックバイオレンスや配偶者間の性暴力は、ほんの最近まで認識されてもいませんでした。また、子を持つ母親が犯罪を犯すと、それが小さなことであっても、ありえないはずのことが起きたという感じに報道し、スキャンダルに発展するのです。


私が特に興味をそそられ、しかし同時にとてもつらい気持ちにさせられるのは、決して特定のゲームや、日本で許容されているフォビアではありません。それは、レイプレイを巡る言説が結果としてフェミニズム、特に日本のそれの消去に至ったこと、そしてクィアな連帯が形成されなかったことです(これらの原因は、グローバル化を進める権力のありかたと反グローバリズム感情のあいだの緊張関係および共犯関係にあると考えています)。この発表では、家族的価値観と「脅威」概念が、フェミニズムクィア政治、そして反ナショナリズム政治の三つがつながり、共闘できる領域であるということを示せたらよかったと思います。レイプレイは、日本の問題であり、フェミニストの問題であり、ジェンダーの問題、セクシュアルマイノリティの問題でも、グローバル問題でも、クィア問題でもあり、国家問題でもあるのです。それはなぜか。


なぜなら、レイプレイ騒動が、明らかにしたものは、フェミニズム自体の問題(日本についての、そして日本におけるオリエンタリズム的・オキシデンタリズム的な考え方)、クィア運動自体の問題(ペドフィリアなど、性的指向ジェンダー自認以外のものへの無関心)、そして反グローバリズムとその国粋主義的な意味だったからです。既に、レイプレイを指差して何かを語るという段階はすぎており、むしろ、私たち自身の問題から端を発する物事を反省的にとらえるべきなのです。なぜなら、そのようにしなければ、外側ばかりを見て、内側を見ることをいつになっても始められないからです。


発表終了。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でマサキをフォローしよう!

この記事が気に入ったらシェアしてね!

YouTubeもやってます!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です