同性婚を私が積極的に支持しない理由——あるいは同性婚を支持しない人が「国民」という概念に対抗しなければならない理由——あるいは同性婚とネオリベラリズム

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2022年11月20日

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

2013.6.21 タイトル一部変更

結婚を通して様々な利益や権利が得られるというのは、疑いがない。私自身も、もしどうしても結婚する必要が出て来たら、反婚の信条など横に置いて、結婚すると思う。「ゲイ」を商品化するようなマーケティングの仕事にだって、他の仕事の機会に恵まれなければ、就くだろう。生き延びることは、私にとって、政治的な信条なんかよりも重要なことだから。でも、まさにその、生き延びることを優先させるという態度を私が採用するからこそ、あたかも結婚制度にもLGBTマーケティングにも問題が全くないかのように振る舞うことは、してはいけないと思っている。それらに自分が関与してしまったとき、私は「私にはその権利がある」という態度ではなく、恥ずべきなのだ。

けれど、結婚していきなり自分の人生が素敵になるようなところは、そもそも想像も出来ない。人によっては、結婚は貧困への入り口だ。安定した職業を持っているひとばかりではない。あなたも、あなたのパートナーも、安定した職業を持っていないかもしれない。セーフティネットとしての結婚は、そもそも既に機能しなくなっている。それでも多くの人は、社会保障にありつけない人や、「国民」ではない人たちの移民としての大変な状況への解決策として、結婚を挙げる。もちろん、そういう側面があるからこそ、私は、自分が同性婚を支持しないからといって同性婚支持の人たちを攻撃しようとは思わない。でも個人的には、結婚していようがしていなかろうが、安心して安定した生活を送れるような社会であるべきだと思う。

結婚したいけれど、法的に認められていないから出来ない、という人は確かにいっぱいいる。でも、個人的に私がもっと気になるのは、結婚出来ないという人も含め、単身者で、かつ不安定で不安全な生活を送っている人たちのことだ。更に言えば、結婚していて、それでも不安定で不安全な生活を送っている人たちもいる。

同性婚が出来ないことが差別的である、というのには完全に同意する。けれど、それよりももっと、私にとっては重要で、急務なことがある。もちろん優先順位は人それぞれだから、全ての人に同意してもらおうとは思っていないけれど、パートナーシップに関するより良い法体制を作る運動において、まずもって同性婚の合法化が最も重要なゴールであると思っている人とは、共闘出来ないと思う。

安定した生活をきちんと整えることが最も重要で、だから結婚したいとかいう希望は後回しにされるべき小さな問題だ、と言いたいわけじゃない。結婚したくて、それでもパートナーと同性なので出来ない、という状況は、まがうこと無き差別だもの。でも、私は自分の労力やリソースを、同性婚支持のために費やそうとは思わない。

私のこの判断は、自分の育った環境や、階層の問題との関わり方に影響を受けていると思う。私の友人・家族・親戚・その他の知り合いの中には、外国人・シングルマザー・性産業で働いていて、安定とはほど遠い生活をしている人の方が、「安定はしてるけど、結婚出来ないんだよね」という人よりも多い。

カリフォルニア、東京、シカゴなどで出会った比較的新しい友人たちは、北関東での私の生活がどのようなものだったか、想像も出来ないと思う。だって、今の私を見たら、中産階級そのものだもの(でもそれは真実ではない。授業料全額支給の奨学金に受かっていなければ、私は今ごろ北関東で複数の仕事を掛け持ちでやっていただろうと思う)。だけれども、だからといって私の家族、周辺の地域の人たち、友人、その他の知り合いがみんな中産階級的、あるいは中産階級的文化の持ち主か(あるいは、これまでもそうであったか)と言ったら、そんなことはない。

こうやって、自分の身近な人たちに降り掛かる様々な問題を優先することには危険が伴うことも分かっている。それは、私が知り得ないような生活をしている人たちの痛みや不利益を見逃してしまう危険性を持っている。けれど、それを出来るだけ避けようとすると同時に、私は、身近な人間のことを考えることを放棄したら、誰のこともきちんと考えることなんて出来なくなってしまうと思っている。

だから、私にとっては、結婚なんかよりも、社会保障の方が重要な問題だ。結婚は、社会保障にまつわる様々な問題への解決策になってはいけないと思う。

そして、この私の判断は、同時に自動的に私に、「国民」という概念に対抗する責任を持たせることになる。なぜか。それは、現在殆どの国で国民になったり永住権を得るための最も手続きの簡素なものは、結婚だからだ。もちろんそれには、同性カップルは含まれない。従って、同性婚よりも社会保障を優先させるという私の判断は、自動的に、国民でない同性愛者が合法的に滞在権を得る機会の拡大を、より遅らせてしまうような力に、私も関与してしまっており、まさにいま、その判断をしていること自体、私は罪を犯していることを意味する。もし私が思い描く「より良い社会保障」が「国民」という概念の範疇に収まってしまうようなものだとしたら、同性婚の合法化を積極的に支持しないという私の判断は、全くもって、不正義になってしまう。

以下、追記。「この記事」とは、上の部分のことです。

同性婚についてのはなしがツイッターのTLで ながれてきたので、この記事のURLを紹介したのだが、言葉がたりないところが あったみたい。

ひとつめ、「じゃあ同性婚以外になにをすべきなのか」という問題。

これは、たとえば滞在権の問題については、直接入国管理の現状に抗議していくしかないとおもう。理想的には滞在・入国・就労の完全合法化が のぞましいけど、実際には「難民認定の基準緩和」とか「就労許可のある指定書の発行基準緩和」とか「滞在許可の期間の延長手続きの簡素化」とか「家族以外の人間がスポンサーになる滞在権の付与拡大」とかを すこしずつ もとめる方向になるとおもう。

ただ、私や、多くの移民問題に関わっている活動家が同性婚以外のそういったアプローチを取っていても、同性婚というアプローチを取るひとはいつづけるので、たぶん同性婚の合法化は進んでいく。だから、同性婚賛成派は安心してください。わたしからの批判などものともせず、しんじる道をつらぬけばいいんじゃない?

ふたつめ、「同性婚が合法になれば解決するのに、なんで同性婚というアプローチをとらないの?」という問題。

これについては、とりあえず米国の悪例がきになる、というのもある。というのも、滞在権にかんする法律は連邦法で、いっぽう婚姻にかんする法律は州法なので、ある州で同性婚が認められても、連邦法においては異性婚が前提なので滞在権の付与には至らないという、とてつもなくムカつくおはなし。これについては いろんなひとが がんばってるので、そのうちなんとかなるかも しれないけど。

で、おそらく一番問題だとわたしがおもうのは、婚姻にともなう おおきなリスク。婚姻するっていうことは、とてつもない量の契約項目に同意することなんだもの。たとえば財産分与というのは、もっている財産をわけるというだけでなく、もっている債務も遺族がかかえることを意味するのだもの。もちろん財産放棄という方法もあるけれども、配偶者の死亡から3ヶ月以内に放棄の手続きをしないと債務をかかえることになる。借金の存在を知らなければ財産放棄しないで3ヶ月たっちゃって、あとでとりたてられて びっくり、みたいなことだってある。そういうケースじゃなくても、とくに日本での社会生活において外国人は家族中心になりがち。借金の保証人に配偶者をえらばざるをえないひとは たくさんいる。

それに、日常生活においても、双方がある程度の収入をえているあいだは いいけれど、そうでなくなったとき、ひとりの収入で家族全員をくわせることになる。とくに外国籍のひとが失職した場合、外国人差別や偏見のある社会において、そう簡単に再就職ができないケースだっておおい。日本国籍だって再就職がすぐにできるひとばかりじゃないわけだし。「そういう苦難のときも、ささえあいます!」みたいなのが結婚だ、というひともいるかもしれないけど、「永住者になりたかったら、そういう苦難のときも、ささえあえ!」って政府からいわれているのが、現状ですよ。

また、「滞在権のために利用しているとおもわれたくなくて、プロポーズできない」という外国籍のひともいる。逆に、「滞在権のためには、結婚しかない」とはらをくくって結婚するひともいる。それは、双方にとって、いやなことだろうとおもう。「滞在権のために利用されたのだろうか」という疑念がきえない日本人配偶者もいる。

わたしは、もしかしたら、同性婚を推進しているひとたちよりも、結婚というものを神聖化しているのかもしれない。結婚するなら、単純にたがいにあいしあっているからする、というかたちで結婚してほしいと おもっているのかもしれない。だから、同性婚を支持するひとたちのいう「滞在権」とか「病気のときに…」とか「財産が…」とかに嫌悪感をかんじるのかもしれない。異性婚も、滞在権や相続権とかとは関係ないものになってほしいと おもっている。すきなもの同士がすきなときに、すきに結婚する。それでもたがいの生活が脅かされたり、とくに優遇されたりしない。離婚したくなったら離婚する。それでも、たがいの生活が脅かされたり、とくに優遇されたりもしない。そういう社会がのぞましいとおもう。

そういう、「すきにする」ような結婚、「単純にたがいがあいしあっているからする」ような結婚というのは、正直、わたしにとってはどうでもいいのだ。すきにしたらいい、とおもう。平等に、異性間でも同性間でも、あるいはどのような性別のくみあわせでも、できるようになるべきではある。でも、わたしにとってはどうでもいいのだ。「どうでもいい」とおもえないのは、滞在権の問題くらいのものなのだ。そして、滞在権は、「すきにする」「単純にたがいがあいしあっているからする」結婚をしているかどうかとは まったく無関係に、認められるべきだとおもう。婚姻というパッケージ商品に、まったくなんの権利も義務もつけなければいいのだ。だって、ひとりが、ひとりでも、いきていける社会のほうが、いいにきまってるじゃない。わたしは、そっちをがんばりたい、というだけのはなし。同性婚実現をがんばりたいひとは、勝手にがんばればいいじゃない、とおもう。批判はするけどね。

更に追記

某MLからの抜粋。同性婚について。

別れるときに弱い立場に置かれがちな人ーー年下とか、外国人とか、経済力のない人とかが、ちゃんとパートナーとしての権利主張をする根拠としても法制化は必要」

うーん。。。確かに、同性婚の話をするときって、結婚するときの話ばっかりですよね。別れるときに、本来守られるべき側の権利というのは、確かにあるでしょう。

それはそうなのだけれども、でも、そういった問題を「法的な婚姻関係(にあったこと)」を根拠にして解消しようとするのは、そもそも1人でいたら「弱い立場」になってしまうような社会そのものの問題を、後回しにすることになってしまう。

そもそも、同性婚のモデルになっているのは異性婚であり、その異性婚が「一方がもう一方を扶養する」というスタイルを、歴史上ある程度の期間採用してきたことに、問題があるのではないか。これはつまり、市民の生活を守るという仕事を政府が「家庭」にアウトソーシングするための道具として、「結婚」があるということ。つまり、「パートナーとしての権利」という概念自体が、政府の社会保障が不十分であることを前提としている。

政府の社会保障が不十分だから、政府は「パートナーとしての権利」を与えるようなそぶりをしながら、「パートナーとしての義務」を市民に押し付ける。あるいは、日本国籍保持者と結婚すれば日本に合法に住むことが容易になるような仕組みは、外国人に来てもらって労働力になってほしいけど何かあったときに国が面倒を見るのは嫌だ、という政府の意向でもある(「政府じゃなくて、配偶者をお前のセーフティネットにせよ」)。

結婚をして「パートナーとしての義務」を負うことは、すなわち政府の肩代わりをすることでもあるんだ。そして、結婚して「パートナーとしての権利」を得ることは、すなわち本来政府に求めるべきものを配偶者に求めるように仕組まれることだ。「家族のことは、家庭で面倒みてください」という制度が、結婚なんだ。

そう考えると、たとえば、結婚制度に反対しないこと、ましてや同性婚の実現に向けて動くことは、つまり、生活保護受給者をバッシングしたり、河本という芸人をバッシングしたような社会の風潮を、助長こそすれ、解消する方向にはいっさい寄与しないだろう。

いろいろ逡巡したけれど、結局私には、同性婚を支持することはできないなぁという結論。長々とすみませんね。。。

2013.7.16 更に更に追記

シノドスに掲載された「生活保護とクィア」という文章でも、同性婚に触れています。

2013.9.15 関連最新記事

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。