《教職員向け》多様性から目を背けない学校環境のために

 2018年10月17日に埼玉県高等学校図書館研究会に呼んでいただいて、「多様性から目を背けない学校環境のために」というタイトルで講演をしてきました。以下が、講演の内容に加筆修正したものとなります。
 実際の講演ではもっと余談やプチエピソードなどがありましたが、必要なもの以外は省略しています。(必要じゃない話をしたのかよというツッコミはなしで……w)

 みなさんこんにちは、講師のマサキチトセです。
 プリントのプロフィール欄にこれまで書いた文章のタイトルが並んでいます。それぞれのタイトルからもおわかりになると思いますが、私は「複合差別」と呼ばれるものに大きな関心をもっています。
 複合差別とは、例えばLGBTと貧困だったり、LGBTと民族差別だったり、LGBTとセックスワーク ——いわゆる「売春」「買春」「援助交際」——だったり、単一の軸で説明しきれない差別の問題のことです。

 プロフィールにはさらに〇〇大学とか〇〇大学院とか書いてありますが、皆さんにも子供の頃があったように、私もかつては栃木県佐野市の〇〇中学校に通うバイセクシュアル当事者の生徒でした。
 幸運なことに学生当時はそんなに悩みを抱えてはいなかったんですが、やはり当事者としてこれまで生きるなかで、たくさんの嫌な思いをしてきました。
 その中の一つで強烈に覚えているのが、成人式で再会した部活の顧問に「よう、これになったか?」と手の甲を反対側の口の端に当てるジェスチャーをされたことです。

 体が熱くなるほど怒りを感じました。

 今でも「この野郎だけは絶対に許さない」と今でも思っていて、いつか名指しで告発してやろうと思っているんですが(笑)、同じようなジェスチャーって、他の人からもたくさんされたことあるんですよ私。例えばいま私はお店をやってるんですけど、そこのお客さんにされることもあります。
 でもまぁ、鼻で笑って済ませられるくらいには慣れてるんですね。
 もちろん慣れてるということはそれだけ傷ついてきたということでもありますけれど、じゃあどうして部活の顧問にはあんなに強い怒りを感じたんだろう、と。

 それで、気づいたんです。
 私、中学校のときからその先生は嫌いだったんだって。
 はなっからその人のことを信頼なんてしていなくて、だからあんなに怒ったんだって。

LGBTQの生徒が持つ不満とは

 学校で教職員にどんな不満があったかというのを以前ツイッターでLGBTQ——Qは「クィア」という言葉で、LGBT以外の多様な性のあり方を含めた総称のように使われることがあります——の人たちに聞いてみたことがあります。

 そうしたら、こんな回答が返ってきました。

・「女らしさ」「男らしさ」を前提とした発言
・カップルの話を当然に男女の組み合わせで話すこと
・男女同士の生徒が仲良いと「微笑ましい」、同性同士だと「心配」扱い
・「自分は理解がある」と思ってる人からの理解のない(浅い)発言
・性のあり方をからかわれたり、無理解をぶつけられたりしたときに、「中立」の立場をとるなどして自分を守ってくれないこと

 ほかにも色々な不満があると思いますが、ここで興味深いのは、性に関する部分をほかのことに置き換えても、「ああそれは嫌だよねえ」と思えるようなものばかりだということです。

 たとえば障害を持つ生徒が「障害者らしさ」を前提として話をされたら、いい気持ちはしないでしょう。
 家庭が貧困であることをからかわれたときに教職員が中立ぶって「お互いさま」扱いをしてきたら、納得できはしないでしょう。
 シングル家庭の生徒は、当然に「お父さんとお母さん」の組み合わせで保護者の話をされたらイラっとするかもしれません。

 あるいはほかのことに置き換えなくても、「女らしさ」を前提に話をされたら、LGBTQではない女子生徒も嫌な思いをするのではないでしょうか。
 自分自身がLGBTQでなくても親が同性カップルだったり親友が同性愛者だったりしたら、異性愛を前提とした発言に傷つけられることだってあるでしょう。

 つまり、多くの場合LGBTQの学生が教職員に持つ不満というのは、「LGBTQだけが傷つく」「LGBTQだからつらい」という性に特化した不満というよりも、どんな生徒でも嫌だなと思うようなことがたくさんある中で、LGBTQだと「なおさら」追い込まれる可能性が高くなるものがある、という風にとらえるといいのかもしれません。

 LGBTQ以外にも「なおさら」を作り出す要因はいくつもあります。
 親が移民だったり、障害があったり、女子だったり、日本語に慣れていなかったり、シングル家庭だったり……。
 こういう「マイノリティ属性」があると、嫌なことは「なおさら」攻撃力を増して生徒に重くのしかかる、というふうに理解するといいかもしれません。

「LGBTを理解する」vs「LGBTと向き合う」

 最近は「LGBTを理解する」という表現を使って、行政や企業で様々な研修や講習が開催されるようになりました。
 理解しようとすること自体は、とても素晴らしいことだと思います。そういう人がどんどん増えて欲しいと私自身思いますし、自分が子供のころにそういう大人がたくさんいたらよかったなとも思います。

 でも、「LGBTを理解」すれば、さっき話したような不満は解消されるでしょうか。

 教科書的なベーシックな知識として、たとえば「Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスジェンダー」とか「性的指向と性自認は別のものです」とかがあります。
 こういったことを全て理解したうえで、それでも、性のあり方をからかわれている生徒がいたときに中立の立場を取ろうとする先生なんてのは、容易に想像できます。

 色々な用語を覚えること自体は否定しませんが、そもそも、名前があってそこに人が入るのではなく、もっとぐちゃぐちゃに色んな人がいて、それを区切って名前をつけているというのが実際のところですよね。
 教育の現場で働く皆さんは当然日々の業務を通して理解していることと思いますが、「色んな子がいる」というシンプルなことです。
 性のあり方は、そういう「色んな」の一要素だということです。

 だから、今回こうして私がお話ししていますけれど、一番生徒のことをわかっているのは現場で生徒を目の前にして働いている皆さんですから、今日の話も、現場のことを常に考えながら、普段目にしている「色んな子」の顔を思い浮かべながら聞いていただけたら、嬉しいです。

 だって、何か知識を得ることだけで誰かを理解しようとするのは、なかなか難しいことだと思いませんか。
 勉強して理解したことは、ひとりひとりの生徒には適用できません。
 本当は生徒と向き合うことがまず最初にあって、そのために必要ならば調べたり、勉強したりするというのが本来の順番だと思います。

 ところが最近は、LGBT研修を受けた人全員に「アライバッジ」というものを配っているところがあったりします。
 アライというのは、当事者ではないけれど支援する立場の人のことです。
 数年前にLGBTQのパレードで、「あなたはLGBTを応援していますか」程度のいくつかの質問にYESと答えた人全員に、免許証のような「アライセンス(アライ + ライセンス)」を発行したブースもありました。

 アライバッジにせよアライセンスにせよ、与えることによって相手に「アライなんだから、支援しろよ」とプレッシャーをかける効果はあると思います。けれど、ずいぶん条件が緩いなあというのが私の感想です。
 アライセンスを見せられても、逆に私は警戒してしまうと思います。

 こうした表面的な支援表明というのは、私のように歳を重ねていれば「警戒する」程度で済みますが、そもそもなぜ警戒するのかと言ったら、これまでの人生で何度も何度もそういう表面的な支援表明をする人に傷つけられ、裏切られてきたからなんですね。

 そもそもアライというのは、周りの当事者が「この人は応援してくれてるな」と感じるところがスタートだと思うんです。
 逆に、基礎的な知識を頭に入れただけで「私はわかってる」と思ってしまったら、その瞬間にこそ、その人はアライであることを放棄することになるのではないでしょうか。

 それにアライにあたる人だって、一生懸命勉強したことが否定されたらすごくつらいですよね。
 生徒主体ではなく自分の知識をつけることを優先してしまうと、「LGBTを理解している自分」がとても大事に思えてきてしまいます。そんな自分が壊れるのが嫌で、当事者に嫌われたり反論されたりするとつらくなってしまったりします。

 その結果、「じゃあもういいよLGBTなんて」と諦めてしまったり、逆に「自分はもっと知識を得て、当事者を傷つけない模範的なアライになって、LGBT当事者に好かれなければ」という風に自分を追い詰めてしまう場合もあるでしょう。

 でもそれでは、誰のために勉強したのかわからないですよね。

じゃあ特にLGBTQのことは勉強しなくていいの?

 こういう話をすると、結構多くの人が「じゃあやっぱ別にLGBTの知識は必要ないんですよね。性も生徒それぞれの個性だし」という反応をします。
 でも、それではダメだということを説明させてください。このラインより上のエリアが無料で表示されます。

 ジェンダーフリーという言葉が10〜15年前に話題になりましたが、そのときのことを覚えている人はちょっと一回その記憶を忘れてください。
 というのも、英語の教育分野で使われた「ジェンダーフリー」という言葉が誤訳・誤用されて広まったのが日本のジェンダーフリーだったからです。

 英語の教育用語としての「ジェンダーフリー」は、教育の現場において「男女の性別を一切考慮せずに平等な教育をしましょう」という思想のことでした。
 一方「ジェンダーセンシティブ」という言葉も同時に出ていて、これは「すでに家庭や地域、メディア、これまでに通った学校などにおいて男女の性別をもとに異なる扱いを受けてきた生徒に対して、自分のところの学校だけが形式的に平等な教育をしたところで生徒は本来の平等を享受できない」という考えを背景に、社会が性差別的なのだから、むしろ「男女の性別に敏感な教育をしましょう」という思想のことです。

 たとえば、女子生徒は高校に入ってくる前の段階で「女子は理系が苦手」という先入観を周りも自分も持っていることが多いです。東京医科大学の受験不正操作も話題になりましたね。
 つまり世の中は制度としても意識としてもそういう仕組みになっていて、そんななか、ひとつの学校がどれだけ「男子も女子も理系を選べるよ」と平等ぶったところで、女子生徒は男子生徒と同じ自由度で理系を選ぶことはできません。
 つまり、「ジェンダーフリーではなくジェンダーセンシティブな教育が必要だ」というのが、この教育分野での議論です。

 そう考えると、LGBTQの生徒に関しても、ただ放っておけばいい、他の生徒と同じように接すれば十分だ、とは言えないのではないでしょうか。

 普通という言葉を各生徒ひとりひとりにとっての「普通」ととらえれば、普通に自由に多様に生きることができるのが理想ですよね。
 しかし、私たちの社会は、そして学校は、マイノリティが普通に自由に多様に生きることを困難にしています。
 何もしないということは、そういう現状を追認し、維持することになってしまいます。

 私たちは、ぼーっとしていれば差別に加担しないで済むような気がしていますが、実際はぼーっとしているだけで差別への加担なのです。
 そうならないためには、センシティブになること、つまり意識的な工夫が必要になります。

じゃあどんな工夫をしたらいいの?

 意識的な工夫って言っても、どうしたらいいのだろう……と悩んでしまう人も多いと思います。そこで、具体的なアクションを起こす前にそもそもどんな心構えで臨むのが良いかについて考えてみましょう。

 ゼロトレランスという言葉があります。トレランスは寛容であること、許容することという意味です。
 これは「悪いものはとにかくダメであって、絶対に許さない」という態度のことです。例えばドラッグは絶対にダメという考え方もそのひとつです。

 一方で、ドラッグユーザーに衛生的な針を配る社会運動などもあります。ドラッグをしてしまっていることは事実として受け止め、その上でより安全にドラッグを使用できるためにしている活動です。
 こういう考え方をハームリダクションといいます。ハームは痛みやつらさ、リダクションは減らすという意味です。

 教育現場ですと、性教育においてコンドームの使用をすすめることが「性交を奨励するのか」と非難される、という状況を想像するとわかりやすいかもしれません。
 あるいは先ほど少し触れたジェンダーフリー騒動においても、障害を持つ子供が通う養護学校において教職員が工夫して考えた性教育のやり方(実際に人の形をした人形を、きちんと「服を脱がすことは相手の同意が必要なんだ」ということまで教えながら使うなど)を保守派の政治家が取り上げて、半裸状態にした人形の写真をわざわざ出して「こんな過激なジェンダーフリー性教育が学校で蔓延している!」とデマを流したという経緯があります。

 若者に性的な知識を与えないことによって若者の性行動を抑制しようとするのは、ゼロトレランス的な考え方ですね。
 一方できちんとした性教育を行い、例えばコンドームを配布するなどというのは、ハームリダクション的な考え方です。
 どっちが生徒の安全に繋がるかは、火を見るよりも明らかですよね。

 差別の話に戻りましょう。
 もちろん、マイノリティの生徒のことを考えれば、差別的なものは一切排除したいのが正直なところです。学校を「誰もが過ごしやすい場所」にしなければいけないと思うのは、素晴らしい考えだと思います。
 けれど、それは「本来そうであるのが理想だ」という話であって、その上で実際に現場でどう学校環境を作っていくかは別の話です。

 私は、「みんなで少しずつ過ごしにくさを分担する場所」というのが、実際の運営・運用に必要な観点だと思っています。

 マイノリティは、すでに過ごしにくさの負担が大きいわけです。
 と言うか、過ごしにくさが偏って分配されているのがマイノリティです。逆に過ごしにくさを免れているのがマジョリティです。

 これは、社会全体において例えば女性で在日コリアンの人とゲイ男性で障害を持っている人を比べた時にどっちが恵まれているかというような話でありません。
 何か1つの項目を取り上げた時に、例えば民族という項目を取り上げたら、それを軸にして、過ごしにくさを多く負担させられている在日コリアンやニューカマーと呼ばれる移民たち、アイヌ民族や琉球民族などはマイノリティであり、過ごしにくさの負担が少ないいわゆる「日本人」がマジョリティになる、という一面的な話です。

 先ほど言った「みんなで少しずつ過ごしにくさを分担する場所」を作るというのは、その負担の割合を平坦にすることです。

 差別解消の話になると、よく「言いたいことも言えなくなっちゃう」と愚痴る人がいますが、そもそもマイノリティはすでに言いたいことを我慢させられることが多いという現状認識が抜け落ちています。
 負担の偏りに頼ることで、マジョリティはたまたまこれまで「言いたいことを言えていた」だけなんです。

 高校に話を戻すと、「高校は本当に楽しいことばっかりで、先生もみーんないい人だった」なんて言う人がいたら、私はきっと「嫌味で言ってるのかな?」と思うと思います。満足のいく高校生活を送れる人なんて、ほんのわずかです。全然いないかもしれません。
 問題なのは、その中でマイノリティ属性を持つ生徒は「なおさら」過ごしにくさを負担させられている、ということです。
 だから、その勾配を平坦にする必要があるんです。偏った負担を、みんなで分担するんです。

 マイノリティの生徒が一切傷つけられることなく高校生活を終えられたら、そんな素晴らしいことはありません。
 でも実際は、人と人はある程度傷つけ合ってしまうものです。
 だから周りの大人は、何かが起きる前に事前に「守ってあげる」ことよりも、何かあったときに「それはひどいね!」って「一緒に怒ってあげる」ことのほうが大切なんじゃないかと思うんです。

 ゼロトレランスは、周りにも自分にも100%の正しさを求め、全てを監視対象にするような発想につながります。マイノリティの生徒を守ろうとしてがんじがらめになって、自分や周囲の人が間違うこと、傷つけることを事前に回避しようとしてしまいます。
 そしてそれは、おそらく失敗に終わります。周りは絶対に思い通りには動いてくれないし、自分に100%を求めれば疲弊し、バーンアウトして潰れてしまいます。

 そうではなくて、自分が間違う・傷つけることもあるということを認めるところからがスタートです。

 生徒の意思と権利、尊厳をきちんと認め、リスペクトを持って接することで、自分が間違った時に教えてもらえるような信頼関係を普段から結んでおくことが、とても大切なんだと思います。
 そして、もし自分の間違いを指摘して教えてくれる人がいたら、それをきちんと受け止めなければいけません。

 事前に完璧にするのではなく、「完璧でない自分」をスタート地点に置くんです。

「怒ってあげる」vs「一緒に怒ってあげる」

 なぜ「怒ってあげる」のではなく「一緒に怒ってあげる」なのか。
 それは、当然のこととして、マイノリティの生徒がマジョリティの生徒と同じように楽しく過ごしたり、悩んだり、悔しかったり楽しかったり、切なかったりテンション上がったりする学校生活を普通に自由に多様に過ごすための工夫は、本人が主体となって進められるべきだからです。

 本当に生徒が何を望んでいるのか、どんなことがしたいのか、どんな風に扱われたいのかなどは、どんなにLGBTの研修を受けても分かることはありません。生徒ひとりひとり別の人間なんですから。
 色々大人が知識を得ることで、「もしかしてこうかな」「ひょっとしたらこれは違うのかな」など予想を立てたり、生徒との関わりにおいて選択肢として提案する程度のことはできても、あくまで何を選ぶか、何を選ばないかは本人の意思によって決められるべきです。

 もちろん「俺はFTMトランスジェンダーなんだけど、体育はサッカーじゃなくてバスケがいいな」とかの「いやLGBTQ関係ないがな」っていう要求とか、あるいは学校運営上どうしても対応することができないような要求に応える必要はありません。
 でも、着替えの場所を工夫するとか、制服の選択肢を増やすとか、水着を着用する授業を選択制にするとか、いろいろ運営上可能な工夫はあります。
 トランスジェンダーの生徒の場合は特に、学校の仕組みがあまりにもシスジェンダー(=トランスジェンダーではない)中心に作られているので——つまり、トランスジェンダー当事者には大きく負担が偏っているので——こうした工夫を望むケースが多いです。

 そういった希望を、先に大人が決めつけるのではなく、きちんと本人から聞き取って、受け止めることが大切です。
 主人公は生徒本人です。周りの大人は、アドバイスをするんじゃなくて、「こういうリスクがあると思うけど、あなたはそのへん不安がある?」みたいな言い方で、大人としての経験をもとに、生徒が自分の意思で判断する材料を増やすことで協力してあげるのが良いと思います。

 そしてもうひとつ大事なこと——間違っても「自分が救ってあげなきゃ」とは思わないでください。
 生徒にとって、学校にひとりでも信頼して話ができる人がいたら、それはすごいことです。そういう人がゼロなのと比べたら、とてつもなくマシです。
 でも、その「ひとり」に、あなたがなれるとは限らないんです。他の大人が選ばれるかもしれません。
 そして、それならそれでいいんです

 相談されたからと言って、ずっと自分に相談し続けてくれるかはわかりません。落ち着いて、「あなたは大切な生徒だよ」という態度を維持しながら、生徒に「またいつでも相談できる」と思ってもらえるようにしてください。
 そして生徒が明確にこうして欲しいと求めてきたら、ようやく出番です。その要望の実現のために協力してあげてください。

 もちろん、人は判断を間違えます。
 ゆうべ早く寝れば遅刻しなかったのにとか、あの時点で逃げていればとか、もっと早く離婚していればとか、大人でもしょっちゅう後悔していますよね。自分を責める必要のないことまで責めてしまったりして、悩んだりしますよね。
 ましてや15〜18歳の頃なんて、振り返れば後悔ばっかりじゃないですか。

 だから、生徒が「やっぱりこうして欲しい」と言ってきたら、「あの時はこう言ってた」とか「自分で決めただろ」とか言うんじゃなくて、いままさにその生徒が何を望んでいるのかを受け止めて、それを中心に支えてあげてください。
 普段から「やっぱり」って生徒が言いやすいような雰囲気を作っておくことも大切です。

信頼関係と自己肯定感、そして

 生徒との関わりを普段からきちんと良い形に維持しておくこと、そうすることで自分が生徒に信頼されることが大切だという話をさっきからしてきましたが、それが大切なのは、そうすることで生徒が自分の意思で、自分に必要な支援が何かを考えて、きちんとそれを求めやすくなるからです。
 その中にはもちろん制度上の要求もありますし、会話の中で「そういう言い方されると嫌なんですけど」とか言うことなんかも含まれています。

 きっと私も、成人式で再会した中学の顧問の先生のことを信頼していたら——この人なら言っても大丈夫、この人なら受け止めてくれると思えていたなら——きっと「先生、それやめて」って言えたと思います。

 また、そういったことを言えたり、要求ができるためには、そもそも自分に意思や希望を持つ権利があると思えなければなりません。
 自分の希望は尊重されるんだ、自分の意思は聞いてもらえるんだ、嫌なら嫌だと言っていいんだ、こうして欲しいって言ってもいいんだ、という感覚は、ある程度の自己肯定感が無ければ芽生えません。

 マイノリティはそうした自己肯定感を削がれながら生きています。

 やれ「わがままだ」とか「権利ばっかり声高に主張するな」とか「分をわきまえろ」とか「お前が我慢すれば済むのに」とか「注目されたいだけでしょ」とか、いろんなことを言われているうちに、マイノリティは自分の感覚がおかしいんじゃないか、自分はわがままなだけだろうか、と思ってしまいがちです。
 ほかにも、例えば親などの養育者による虐待を通して自己肯定感が削がれている子供もたくさんいます。

 だから、周りの大人が本人の希望をきちんと把握しようと思ったら、その生徒が「自分はこの大人に大切に思われている」と実感しなければ始まりません。そうして初めて、自分が望んでいることについて考え始めることができるんです。

 そもそも自己肯定感の低さは、マイノリティの生徒だけでなくどんな生徒にとっても、将来の人生の選択肢を大きく狭める要因になってしまいます。
 生徒たちの自己肯定感が高くなるような学校環境というのを、周囲の大人には目指してもらいたいです。

 そしてもう一つ、生徒のためにできることがあります。

 それは、教職員同士が互いの性のあり方、障害、民族などの違いを尊重し、尊厳と権利を認め合う姿を生徒に見せることです。

 例えばこれは私の妄想ですが、職員が働きながら性別の移行をして、それについて他のどの教職員も受け入れて、陰で笑うことも貶めることもなかったとしたら、その学校にいるトランスジェンダーの生徒はきっと自分の性のあり方を肯定しやすくなるでしょうし、在学中でなかったとしても、いつか自分が性別移行する未来を想像しやすくなるでしょう。

 あるいは担任の先生が女性同士でパートナー関係を持っていることを隠しておらず、それを他のどの教職員も受け入れて、陰で笑うことも貶めることもなかったとしたら、その学校にいる同性愛や両性愛、その他のセクシュアリティを持つ生徒はきっと自分の性のあり方を肯定しやすくなるでしょうし、現在いるパートナーのことや未来のパートナーについて、幸せと結びつけて考えることがしやすくなるでしょう。

 学校は、教職員にとっては職場です。職場で働く人は、労働者です。
 労働者が我慢して、自分を殺して働いている姿を生徒に見せていては、(多くの生徒は労働者になるでしょうから)いつか生徒たちが働き始めたときに、我慢して、自分を殺して働くべきだと思ってしまうかもしれません。
 そうじゃないんだよ、自分はこう働きたいという希望を持ってもいいんだよ、それが実現できる場合だってあるんだよ、というのを周りの大人が示してあげることは、生徒たちの現在のそして未来の生き方を大きく変えるでしょう。

(講演内容はここで終了)

事前アンケート&質疑応答

(情報提供の意味が強い部分なので、ですますを省略)

高校図書館にはどんな本があったらよいと思うか
 生徒の読解力は多様なので、司書が良いと思ったら漫画でも学術書でも置いて欲しい。
 特に今は zine(ジン)と呼ばれる個人出版の冊子でジェンダーやセクシュアリティに関するものが出てきている。 bgubefree.org をぜひ見て、入手できるようならこういった zine も図書館に置いて欲しい。

 LGBT系の著者でおすすめは遠藤まめた、牧村朝子、中村珍。
 このほか新宿のオカマルトというお店に膨大な資料がある(ゲイ男性に関するものが比較的多い)。ブックカフェなので飲み物とかが注文できるはず。きちんとお金を使った上で、資料を見たり、運動の歴史にも詳しい店主にアドバイスを求めると良いかもしれない。

 特にLGBT系に特化してはいないが、荻上チキの著書には高校図書館に合うものがありそう。

 LGBT系ではないけれど、他の社会問題を中心に据えた本として、『私のエッジから観ている風景』『鏡の前で会いましょう』『彼女は頭が悪いから』『母がしんどい』『中卒労働者から始める高校生活』『北欧に学ぶ小さなフェミニストの本』はおすすめ。
 他にもヨーロッパの性教育の本で翻訳されているもの、特に性行為に関する「同意」を重要視しているものは是非置いて欲しい。
 なぜこういうものもおすすめしているかと言うと、もちろん他の社会問題も重要だからではあるが、同時に、LGBTQで「かつ」他のマイノリティ属性も持っている当事者がたくさんいるからである。

当事者が安心して図書館を利用できるようにするには
 大人に関わらなくても図書館のLGBTQ関連の情報にたどり着ける仕組みがあると良い。ひとつのアイディアだが、LGBTQ関連の新しい本の紹介とか、LGBTQに関する特集記事とかをウェブ上に用意して、図書館だより的な広報物にQRコードを付けておくとか。

今話題になっているトピックにはどんなものがあるか
 以前は「性同一性障害」のトピックが一般的には広まっていたが、今は同性パートナーシップが中心かもしれない。

(ちなみに性同一性障害は診断名であって、人のあり方自体を指す言葉として使わない当事者も多い。トランスジェンダーの人が性別適合手術を望んでいる場合、性同一性障害の診断が必須である。また、法的な性別の変更を望んでいる場合も、日本では性別適合手術が性別変更の要件になっているため、やはり性同一性障害と診断される必要がある。手術は望まないが性別変更を望む人の希望は通らない制度になっている。また、どちらも望まないトランスジェンダー当事者の中には、性同一性障害と周囲に決めつけられ、医療モデルで解釈されることを苦痛に感じる人もいる。)

 同性パートナーシップが、きらびやかな、美しい愛の物語として前面に出てきている裏で、そこからこぼれ落ちるものというのも、いわばホットなトピックと言えるかもしれない。
 例えば未成年ゲイ男性をターゲットとした買春・性的搾取など。
 家庭や学校が苦痛だったりして、他の場所に居場所を求めるLGBTQは多いので、そこにつけこんだ商売もあるし、利用する大人もいる。
 若者のネットリテラシーの重要性が叫ばれているが、家庭からも学校からも地域からも孤立しやすいLGBTQは特にネットに頼る機会が増えてリスクも高まる。

(ただ、セックスワークやサバイバルセックス自体を問題視してはいけない。他の職業のように、参入したい人が参入できて、離脱したい人が離脱できる、そして何より従事している人が安全に、安心して従事できるような支援が必要。ここで問題視すべきなのは、セックスワークやサバイバルセックスではなく、LGBTQに孤立感を持たせている家庭や学校、地域のほう。)

 また、ホットなトピックというわけではないが、Xジェンダーやパンセクシュアル、アセクシュアルなどなど、どんどん新しいカテゴリーが生まれているので、そういったものを扱った図書などにもレーダーを張っておくと良いと思う。「LGBT」のどれかに自分を押し込めなければいけないと生徒が思わないように。

学内の教職員の不寛容や無理解にどう対応すべきか
 もちろん研修などを通して変わってもらうよう試みるのも大切。でもどうにもならない人もいる。悔しいけれど、功利的なアプローチが有効かもしれない。

 今は保護者の世代の理解度がどんどん高まっていて、LGBTQであることを打ち明けている当事者を友人に持つ保護者や、そもそもLGBTQの保護者も増えている。
 今後はどんどんLGBTQに関する学校へのクレームが増えていく。
 また、SNSの普及によって学校の不十分/不適切な対応が「炎上」するリスクもどんどん高くなっている。

 LGBTQなんて心から気持ち悪い、LGBTQの生徒が自殺しようが全く何もかわいそうとも思わない、という教職員がたとえいたとしても、リスク管理の一環として、不寛容・無理解は心の内に秘めておくことが業務に組み込まれていくはず。

相談を受けた時に、外部との連携はどうすべきか
 行政機関と繋がっておくことは大切だけれど、行政機関にも無理解や無知はある。
 きちんと相談業務の訓練を受けているLGBT相談ホットラインなどにまず相談してみるのがいいかもしれない。当事者以外の相談も受け付けているところが多い。

 若者向けの団体やイベントに生徒を繋げてあげるのも大切。
 少し遠いが、池袋で毎月集まりがある「にじーず」という若者のグループがおすすめ。前述の遠藤まめたが関わっており、信頼できる場所だと思う。

(以上)

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。趣味はイラストと音楽制作。 2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。