「クリスチーネ剛田(61)の受賞パーティ 2009/8」 -ドラえもん二次創作シリーズ第2弾

こんばんは、直月です。高橋さん、素敵なご紹介ありがとうございます。集まって頂いた皆様にも、感謝を申し上げます。今回2009年度日本漫画賞を頂きました作品『虹のビオレッタ』ですが、夕栄出版の高橋編集長をはじめ、編集・校正を担当して下さった宇梶さん、解説を書いて下さったエッセイストの杉エイゴさん、そしてこの作品を手に取って読んで下さった皆さんがいなければ受賞には至らなかったと思います。本当にありがとうございました。少し長くなってしまいますが、こうして常々お世話になっている皆さんに、今日は大事なお知らせがあります。

私がクリスチーネ剛田という名前で漫画を描いていたことがある、と知ったら、ここにいる皆さんは非常に驚かれることでしょう。そんな名前は聞いたことがない、という方もいらっしゃるかもしれません。ここには出版業界の人間ではない皆さんもいらっしゃいますからね。クリスチーネ剛田は、1975年から1996年まで複数の雑誌でポルノ漫画を描いていました。私、直月理乃がクリスチーネ剛田と同一人物であるということは漫画業界ではある程度知られた事実ですが、一般に公表するのはこれが初めてになります。今日はプレスも揃ってお出でですから、是非包み隠さず報道して頂けたらと思います。

98年以降私が直月理乃名義で描いた作品に惹かれてファンになって下さった方には、ショッキングな告白に聞こえるかもしれません。ガッカリさせてしまっていたら、本当に申し訳なく思います。ですが本日皆さんにお話したいことと、私がクリスチーネ剛田だったことは、切っても切れない関係にあるのです。

業界の人間でしたら、剛田という名前でピンと来る方もいらっしゃるでしょう。私は、剛田武という男の妹です。『ドラえもん』の作者、と言えば、みなさんお分かりでしょう。ニュースでも散々取り上げられましたから、彼が昨年9月23日にこの世を去ったこともご存知ですよね。何よりも世間を驚かせたのは、兄を殺した犯人が彼の元同級生、しかも名前を「片岡のび太」とする人物だったということでした。ほとんどの方はそれまで『ドラえもん』を完全なフィクションだと思っていたことでしょう。しかし「のび太」という名前がメディアに現れたことで、『ドラえもん』が兄の小学生時代の経験を基にしたセミ・フィクションだったことが世に知れ渡りました。更に、今年4月には静香さんが雑誌のインタビューにこたえています。「クリスチーネ剛田」という名前がメディアに登場したのは、だいたい10年ぶりくらいだったと思います。さすがに直月理乃の名前を出すのは憚られたのでしょう。私も4月の段階では心の準備が出来ていませんでしたから、静香さんの配慮には感謝しています。

インタビューで、静香さんはとても多くのことを明かしました。『ドラえもん』で描かれなかった静香さん自身の欲望、香苗ちゃんの存在、ドラえもんが実は老人で、ふたりと関係を持っていたこと、そして私の兄が香苗ちゃんの体を傷つけることで中絶を行ったこと…。とてもとても重い過去です。子どもだった私たちには抱えきれないような生々しい過去を、それでも私たちは背負い、ひた隠しにして、これまで生きてきました。静香さんも仰っていた通り、いま現在所在が分かっているのは玉子さんと静香さんと私の3人だけです。のび太さんも、一応所在は分かっていますけれど、獄中で寿命を迎えるのではないでしょうか。私たち以外の人間は、みな、『ドラえもん』という作品の登場をきっかけに、壊れてしまいました。いや、ある意味私たち全員、壊れてしまったのかも知れません。

インタビューが掲載される段になって、静香さんから連絡をもらいましたが、この話を公表してもいいかと聞かれ、私は迷いました。はっきり言って、私は構わない。だって私はもう直月理乃として生活をしているし、クリスチーネ剛田の名前で何を暴露されても、出版業界の人間は黙っていてくれるだろうとも思いました。この10年で直月としてやっと築いたキャリアが、それまでの私の人生の50年間を白紙にし、塗り替えるプロセスだったことを出版の人たちも理解してくれていましたし。しかし、他の人はどうだろう。「香苗ちゃん」は静香さんが作った偽名だから、実際の香苗ちゃんには被害は及ばないだろう。スネ夫さんのご家族も旧姓に戻されたし、きっと平気だ。でも玉子さんはどうだろうか。玉子さんは90歳を超えても未だに片岡玉子として言論活動をされていました。『ドラえもん』の作者殺しの犯人「のび太」の名字が片岡であると世に知られたとき、メディアは玉子さんのもとに殺到しました。その時の心労から玉子さんは入院してしまったのですが、そんな中、またこの、「『ドラえもん』の真相」とでもいうようなセンセーションを継続させるのは、玉子さんを更に傷つけるだけなのでは…。そう思い、静香さんには「玉子さんの判断に任せる」とだけ伝えました。

しかし、静香さんにとってこのインタビューはとっても重要なものだったのでしょうね。玉子さんには一切相談せず、掲載に踏み切ったようです。心身ともに弱っていた玉子さんは、インタビュー掲載の3ヶ月後、先月ですね、病室でこの世を去りました。静香さんのインタビューが直接の原因だったかどうかはわかりません。それに、私には静香さんを責める権利などないでしょう。私は、当時香苗ちゃんと兄のあいだに何が起きていたのかを知りながら、沈黙を守り通し、全ての暴力が具体化したあの夜も、家を抜け出す兄を見送り、自分の部屋でひとり漫画を描いていたのですから。私は静香さんたちがあの時経験した残酷さを目のあたりにすることなく、また、それに支配されるような人生を送ることもなく、生きてこれた側の人間なのです。語る、という行為は、人を自由にします。静香さんが自由になるためにあのインタビューの掲載に踏み切ったのであれば、私は彼女の自由を制限する権利を持っていません。

それに、私自身、玉子さんの最期には責任があります。これが、今日みなさんに最も伝えたかったことです。のび太さんは私のために沈黙を守ってくれましたが、私はこれ以上黙り続けることが出来ないと悟りました。語ることが人を自由にする反面、語りは人を不自由にもします。私は、61歳になる今日(こんにち)まで、黙り続けて来ました。黙ることが、私を自由にしていた部分があったのだと思います。そして、今度は私が語る番です。語ることで、私は自由を諦めなければならない。そう思って、今日はこの場を借りてみなさんに発表します。

私は去年、片岡のび太と協力して、兄・剛田武を殺害しました。

どうかみなさん、ご安心ください。そして落ち着いて最後まで話を聞いてください。この受賞パーティが始まる前に既に警察には連絡をしました。うしろの出口の両脇にいる方々は警察の方です。スピーチが終わり次第、私は手錠をかけられ、連行され、法の裁きを受けることになります。兄の殺害には関与しましたが、他の誰を殺したいとも思っていませんし、みなさんに危害を与えることはありません。どうか最後まで話を聞いてください。どうして兄を殺そうとしたのか、それだけ、みなさんに説明したら、このスピーチは終わりです。

どうして、と言っても、言い訳をしたいわけではありません。これは、静香さんが口火を切った「『ドラえもん』の真相」の続きだと思ってください。私は、子供の頃から兄に好意を持っていました。気持ち悪いと思われるかも知れませんが、性的に惹かれていた、というのが正確かもしれません。私が小学校5年生になったころ、兄が香苗ちゃんを家に呼ぶようになりました。初めのうちは私も一緒になって遊んでいたのですが、ある時期から兄と香苗ちゃんがふたりきりで部屋にこもって遊ぶことが増えました。私は香苗ちゃんに兄を取られてしまったような気持ちになり、こっそり襖の間から中を覗いてみたのです。当時の私はふたりが何をしているのか理解することは出来ませんでしたが、下着を脱いだ香苗ちゃんのスカートをめくって見入っている兄を見て、得も言われぬ気持ちになったのです。香苗ちゃんの下半身には私のものと似たものが付いている。それを兄が見つめている。そしてそれを私は背後からのぞき見している。それからというもの、香苗ちゃんがうちに遊びに来ることは苦痛でもあり、快楽でもありました。自慰を覚えたのもその時期です。のぞき見しながら自慰をして、その夜はそれを思い出してもう一度自慰をする。しかし不思議なことに、思い出すのはいつも、香苗ちゃんの体だったのです。私は兄が好きで、兄を見ていたのだと思ったのですが、想像の中での兄は、香苗ちゃんの背景にしか過ぎなかったのです。その場のスペクタクルは、兄の目が、指が、舌が、ペニスが欲望の対象とする香苗ちゃんの性器そのものを中心に展開していたのであって、私はじきに、そのようなスペクタクルである香苗ちゃん自身へと欲望を向けるようになったのです。想像の中で、私は兄自身になって、香苗ちゃんの体を所有しようとしていたのです。

しかし本当のことを言えば、兄に自分の性器を欲望される想像をしたことがないわけではありません。正確には、兄の欲望の対象になりたいと思いながら、同時に兄に同一化したいと思っていたのでしょう。奇妙な経験だと思われるでしょうが、私はそれからというもの、兄のような人間になりたいという気持ちと、兄に欲望されるような人間になりたいという気持ちの両方に引き裂かれる思いを持ってきました。兄のようになろうとすれば、それは兄に欲望されないようになっていくのと同じで、逆に兄に欲望されるような人間になろうとすれば、それは兄に「同等」とは扱ってもらえない、単なる欲望の対象としか見てもらえないということを意味していたのです。それは、あの空き地での夜以降、更なる妊娠を防ぐために香苗ちゃんとの性的関係を封印した兄が月経前の私を利用し始めたときに分かったことです。中学に上がったとき、私は兄に「もうやめて」と言いました。

私が中学2年生のとき、兄は漫画の描き方を教えろと言いました。兄との共通点が出来るのが嬉しくて、私はそれまでに得た知識と技術を全て兄に教え込みました。兄は上達が速く、1年も経つと私と一緒に作品を出版社に送るようになっていました。初めのうちこそ箸にも棒にもかからない状態でしたが、あるとき兄が友人と一緒に投稿した4コマ漫画が採用され、なんとデビューに至ったのです。私は、兄の欲望の対象にもなれない上に、兄と同等になることも出来ないのかと、打ちのめされる思いでした。それからの兄は、有名な漫画家と知り合いになったり、トキワ荘に住むようになったりと、当時漫画家を目指していた人間が全員うらやむような道を歩んでいきました。時々スランプがあったり、うまくいかない時期があったようではありましたが、作品が世に知られるようになると、仕事を世話してやろうか、というようなことを私に言ってくるようになりました。ですが私はそれを毎回断っていました。私も同じ道を歩まなければいけない、そのためには私もどこかに投稿した漫画が採用されて、有名な漫画家と知り合いになって、トキワ荘に住むようになって……と、必死で毎日漫画を描き続けました。

そうして、気づいたら私は28歳になっていました。兄は既に大きなヒット作品を作り出していた時期です。一方私は成長を忘れたかのように、まだ実家に住み、仕事もせず、ろくな生活をしていませんでした。この家を出るときはトキワ荘に引っ越す時だ、という今考えればバカみたいなこだわりを、とうとう捨てる時が来ました。私はとにかく安いアパートを探し、今でいうアルバイトを始め、そのあいまに漫画を描いていました。その頃には時々回ってくる漫画の仕事が2ヶ月に1つくらいあって、それも何かの冊子のイラストだったり、小さい雑誌の読み切り程度でしたが、悔しい反面、嬉しくもありました。そういった繋がりから、編集者や漫画家の友人も数人いました。「実家を出たのよ」と編集者の友人とカフェで話したら、彼が言いにくそうに、こう言ったのです。「ゴウちゃんさぁ、オレ、今度異動になって、1本連載の仕事任せられることになったんだよね。それで、ゴウちゃんにどうかなぁと思うんだけど……」。私がふたつ返事で承諾したその仕事は、男性向けのポルノ雑誌の漫画でした。

クリスチーネ剛田の誕生です。いや、初めは違う名前でしたが、2つめの連載の仕事のときにクリスチーネ剛田にしました。本当は私が描きたかった種類の漫画でデビューするときに使おうと思っていた名前でしたが、ポルノ漫画の売れること売れること。1つめの連載が終わった頃には、私はこれで食っていこうと決めていました。クリスチーネ剛田は大して有名にもなりませんでしたが、連載も常に平均して2本、読み切りを1年に3本くらい出せるようになり、ある程度安定した生活が出来るくらいにはなりました。初めの頃は、描く女性のモデルはみんな香苗ちゃん、男性のモデルはみんな兄、という感じでしたが、慣れてくるにつれて、キャラクターや設定を作り上げたり、性の描写にバリエーションを付けるテクニックを身につけていきました。といっても、男性読者が読みたいプロットなんて、そもそもバリエーションに乏しいものだったのですけれどもね。レイプだの中絶だの痴漢だの近親相姦だの、そういう、現実の世界に蔓延している悪を、ちょっと設定を変えてやるだけで、読者は喜ぶのだと分かってしまったのです。鍵となるのは、「被害を受ける女が、それを喜んでいる、つまり被害ではなかったのだ」という設定にすること。クリスチーネ剛田は、レイプや近親相姦を大いに作品に取り入れ、ある程度支持を受けるようになって行きました。

そんな中、兄が『ドラえもん』の連載を開始しました。やっとクリスチーネ剛田として、兄を追いかける人生に終止符を打ったというのに、兄はどんどん出世し、なおかつそれを私の目から隠せないほどに有名でした。スネオさんの自殺が翌年の1980年、その10年後くらいに香苗ちゃんが四国に行きましたが、私は『ドラえもん』という作品の中身に憤怒した彼ら彼女らとは違う理由で、すなわち同じ漫画家としての嫉妬、同一化したいのに出来ない兄へのフラストレーション、兄がかつて欲望した私の漫画の技術がもう兄の欲望の的ではないことへの絶望など、そういった理由で、兄に対して悪意を持つようになっていたのです。そして、その悪意が、長年煮え続けたのび太さんの悪意と結びついた結果が、去年の兄の死です。

そんなことで、と思われるかも知れません。ポルノ漫画だって他の漫画と変わらない、立派な作品だ、と言って下さる方もいるでしょう。当時の私も、そういう周囲の声に支えられて描いていたところがあります。ですが、どんなに気を強く持とうとしても、ポルノ漫画家であるということにつきまとう烙印は、私にとっては苦痛でした。実家の母には「恥さらしだ」と言われ、遠方に嫁に行ったことにされました。職業を明かさなければならない状況では、漫画家だと言うと「何を描いてらっしゃるんですか?」と純粋な好奇心を向けられ、そのたびに嘘を付くのが苦痛でした。周囲の男性は、私が女性のポルノ漫画家だというだけで、セクハラのような発言をしたり、時には性的な関係を強要してくる人もいました。近しい友人でも、です。悔しかった。プライドを持ってポルノ漫画を描いている人も周りにはいました。ですが、私はどうしてもプライドを持てなかった。彼ら彼女らを見下している部分もあった。私はいつか「ちゃんとした」漫画を書くんだ、兄のような漫画家になるんだ、という思いを捨てられずにいたのです。また同時に、男が女を貶めている作品ばっかりを描いていた自分にも、嫌気が差していました。ですから、仕事の傍ら、別名で出版社にポルノではない漫画を描いては送っていました。

50歳になって運が回ってきた私は、一般の漫画雑誌に読み切りを載せてもらえるようになりました。半年後には連載の話も頂き、1週間かけて考えた「直月理乃」というペンネームを紙に書いて出版社にFAXで送ったときには、手が震えて何度も書き直しました。しかしそれから直月理乃は鳴かず飛ばずの10年を過ごすことになります。もう一度ポルノ漫画の世界に戻ろうか、と考えたこともありました。しかし、「一般漫画」と「ポルノ漫画」は、「男」と「女」のように、異なる価値を与えられています。ポルノ漫画を描いていて、しかも女だった日には、漫画家の中では最も劣位に置かれた存在です。「一般漫画」の世界にこだわることは、私にとって、兄と同じ土俵に立ち続けることと同義でした。ですがそれは、同じ土俵において、兄に負け続けることとも同義でした。

兄は、よく私の作品についての感想をFAXで送ってくれました。「今回のはちょっと展開が早過ぎるね」「キャラクターをもっといかしたほうがいい」「忙しいのかな?ちょっと絵が雑だったよ」「〇〇先生の作品に影響を受けすぎてるよ」。褒めてくれることもありました。「このあいだの読み切りはよかったね。ああいうのをもっと書いたほうがいい」「今回の展開はオッと思ったよ」。いずれにしても、彼のFAXを見るたびに、吐き気がしました。私は、いつまでたってもこの人よりも下なのか。この人を超える日は一生来ないのか。はっきり言って、私の漫画の技術は兄よりも上でした。プロットも、描画も、キャラクターも、コマ割りも、私から見れば兄の作品はみな同じパターンの連続でしたし、それがいいんだ、と言われればおしまいですけれど、私は彼の作品に引き込まれたことはありませんでした。それでも、私は兄に「もっとこうしたほうがいい」とか「今回のはよかったね」なんていうFAXは送らなかった。送らなかったし、送ろうと思っても送れなかった。前提に、兄が上で、私が下というのがあったから。

のび太さんから連絡を受けたとき、私はまさに兄から辛辣な「感想」をFAXで受け取った直後でした。もう十年以上連絡を取っていなかった私たちは1時間くらい話し込み、今度静香さんと3人で食事でもしようか、という話などをしました。ああそろそろ寝ないと明日の打ち合わせに間に合わないな、と私が時計を見てふと思ったときに、のび太さんが『ドラえもん』の話をし始めたのです。その時初めて私はスネ夫さんの自殺や香苗ちゃんが四国へ行ったことを知りました。「どうしても許せないんだよね…」と遠慮がちに言うのび太さんに、私は同意しました。それから数度のび太さんと直接会って『ドラえもん』の話をするうちに、少しずつ、私たちは剛田武殺しの計画を固めて行ったのです。

メディアではのび太さんがベランダから侵入して兄を待ち伏せしたことになっていましたが、彼をマンションの部屋に入れたのは私です。というのも、兄は以前マンションを購入した際に「君の仕事場にしなさいよ」と言って私のための部屋をひとつ用意してくれていたのです。もちろん、使ったことはありませんでしたが、一応スペアキーだけは持っていました。そうしてのび太さんを部屋に入れ、私はマンションを去りました。実際にどうやってのび太さんが兄を殺したのかまではわかりませんが、計画通りに進んだのであれば、のび太さんは、かつて兄が香苗ちゃんにそうしたように、腹部を強くけったり殴ったりして殺したはずです。また、書きかけの原稿やこれまで受賞したトロフィー、賞状、コンピュータなども全てめちゃくちゃにして来て欲しい、という私の要望が滞りなく実行に移されたのも、あとで部屋の整理をしに行ったときにきちんと確認しました。これが、『ドラえもん』の作者の死の真相です。静香さんも知らない私の欲望が、半世紀越しに暴力へと昇華したのです。

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これで、みなさんにお伝えしたかったことは全てです。長い時間を取ってしまって申し訳ありません。また、今回の日本漫画賞受賞を、とても嬉しく思います。もちろん、去年受賞していれば兄は死なずに済んだかも知れませんが、そんなことより、私はいま、かつて兄の実力を認めたこの賞が、私の実力をやっと認めてくれたということに涙が止まりません。喜びの涙でもあり、悔しい涙でもあります。『虹のビオレッタ』は、ある兄妹の物語です。兄も妹も、重要なキャラクターです。しかし、何がなんでも主人公は妹にしようと思いました。常に脇役だった私、黙っていた私、いつもフラストレーションを抱えていた私、セリフの少なかった私。そんな「ジャイ子」は、『ドラえもん』でも正にそのまま描かれています。今の私、直月理乃は、60歳を超えてやっと主人公になれました。仕事を認められた女が、殺人に関与した経験を持ち、それを告白し、警察に連行される。なんと立派な主人公でしょう。みなさん、主人公の私を、さぁ見送ってください!

 

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