包帯のような嘘

「短編小説『さようなら、片岡玉子』(野比玉子・作 村江輝夜・あとがき)」 -ドラえもん二次創作シリーズ第3弾

そうだ、野比という名前にしよう。すっかり灰が長くなった煙草を灰皿に押し付け、玉子は決めた。暑苦しさの抜けた心地良い風が、開け放した窓から入り込む。急に目の前の靄が消え、全てがうまく行く感触を得た玉子は、その昂奮のまま窓から外に駆け出したい気持ちになった。

思いつくことだけは大胆な玉子が、もちろんそれを実行に移すことはない。こんな真夜中に外を走り回れたらどれだけ気分がいいか。そう思いながら、玉子は立ち上がって窓の外を眺めた。暗く輪郭を見せる山の頂が、玉子がこれから目指そうとしているゴールのように思えてきた。山登りの経験は無かったが、頂上に至るまでに相応の苦難が待ち受けていることは分かっていた。

それでも、と玉子は後ろを振り返り玉夫の寝顔に目を遣る。玉子より四つも年下の玉夫は、まだ幼さの残るあどけなさで、口を半開きにして眠っていた。

「わたしが守るからね」

自分の口から出た言葉ながら、映画みたいだと苦笑した。そうだ、映画のようなものなのだ、と玉子は取り出した新しい煙草に火をつけながら窓のふちに腰を置いた。映画のようなドラマチックな展開になることは間違いなかった。いや、と玉子は思い直す。私と玉夫は、これまでの映画のような生活から逃げ出すために「野比」の名を名乗って生きて行くのだ。

野比玉子、野比玉夫、いいじゃないか。二人合わせて「のびのび」だ。タエの生まれた横須賀にある野比一丁目から取った安易な名前だったが、案外、しっくりくるものだ。いい名前なんていうものは、大体後付けで意味が与えられたものなのかもしれない、と玉子は一人納得する。

日が昇れば、タエが部屋に戻る。それまでにここを去っていること、それがタエの出した条件だった。朝方尋ねたときは眠たげな表情を一瞬で吹き飛ばし殊勝に再会を喜んでみせたくせに、事情を聞いたとたんタエは一瞬面倒くさそうな表情を見せた。売女が偉そうに、と玉子は思ったが、タエのボロ長屋しか行くところがないのだから仕方ない。そこも、日昇までに玉夫を連れて出ていかなければならないのだ。悔しさが玉子に唇を窄ませた。

しかし、行くあてが無いのだった。タエが置いて行ってくれたとりあえずの夕飯を玉夫がうまいうまいと言って食べたときは、少しだけ心を落ち着けることが出来た。ここ丸三日というもの始終気を張っていた玉子にとって、玉夫が嬉しそうな顔をするのが何よりもの救いだった。食欲を満たした玉夫はさっさと布団に体を埋め、掛け布団もかけずにそのまま眠った。

何も心配してくれるな、私が全て何とかするから、という気丈な心持ちが玉子を突き動かしていたのは事実だったが、こうまで寛がれると、これからずっと私は気を張り続けなければいけないのか、と落胆する。父母の家を黙って抜けだしてから三日間、玉子は自分の決断が果たして本当に玉夫と自分にとって最善のものだったのか、ずっと答えを出せずにいた。

――あるいは、私にとってのみ、最善だったのか。家を出るのは、本当に玉夫のことを思ってのことだったのか。

そんな思いを打ち消すように、玉子は手許の煙草を深く一吸いしてから窓の外に放り投げた。タエの煙草を勝手に吸っていることに、玉子は一切の良心の呵責も感じなかった。

何も無い畳の上にあった小さな木製のケースには、タエが下品に散らかした化粧品にまみれて未開封の煙草が二箱置いてあった。タエが仕事に出てすぐに玉子は煙草を手に取り、箱に書かれた商品名を見た。知らない名前だ。漢字の読み方も分からない。どうせ洒落たインテリが吸ってるような銘柄なのだろうと、タエに腹を立てた。

ここを出るときにはもう一箱も失敬していこう。どうせ汚い仕事をして買った煙草なのだ。玉子はそう考える自分も汚れた存在になった気がした。これから先、私はタエのような仕事をすることもあるのだろうか。タエの煙草を半分も空にしたのだから、私の体はもう汚い売女のそれと変わらないのかもしれない。嫌悪感と同時に、自分の中に不愉快なまでに昂ぶる感情があるのを玉子は認めた。


玉子の母は、新婦人協会の賛助員だった。『青鞜』とかいう雑誌を読み、父からもらったペンで熱心に線を引く姿は、玉子に複雑な思いを抱かせた。母は読み書きを遅くなって覚えたらしく、時々知らない漢字や表現について、帰宅した父に尋ねたりしていた。
「玉ちゃん、これからは女の人も自由になる時代よ。玉ちゃんもきっといつか素敵なお母さんになって、旦那さんや子ども、ひいては日本を支えるのよ」

そんなことを聞いても、玉子は不愉快になるだけだった。母のどこが自由なのか、皆目分からなかったからだ。母は「社会」とか「国家」とか、難しい言葉を会話に挟むのが好きだった。うんうん、と頷く父にも、玉子は苛立ちを感じていた。自分が稼いだ金で『青鞜』を買い、自分が買ってやったペンでそれに線を引き、わからない言葉があれば自分に意味を尋ねる女。それに適当に相槌をうつのは、さぞかし気分のいいものだっただろう。玉子は父も母も嫌いだった。

いつの日か玉子は、自分は子どもを産まない、経済的自立をするんだ、と決めていた。「ケイザイテキジリツ」という言葉は母がよく口に出していたから、玉子も自然に知っていた。どうやら母は、その言葉が嫌いらしいということも。だから自分はケイザイテキジリツをする、というのは単純に過ぎるかもしれない。しかし玉子には、何があっても母と同じ道は歩まない、という強い決心があった。


玉夫が苦しそうに寝返りを打った。普段暑がりでもなんでもない玉夫が、眠っている時だけは異常に汗を掻くことを玉子は知っていた。自分が窓に腰掛けているせいで風を遮っているような気がして、音を立てないように気をつけながら膝を曲げ、玉子は腰を畳に降ろした。外から見れば、窓の中に頭ひとつ飛び出た形だ。首の横を気持ちのよい風が通り過ぎて、部屋に入っていった。

「姉ちゃん、寒い」

くぐもった声で玉夫が言った。

「起きてたの」

「いや、寝てた。窓閉めてくれる」

「いいけど、汗掻いてるじゃない」

「暑くはないよ。逆に汗が冷えて寒いよ」

何となしに自分の気遣いを否定された気がして、向かい処の無い苛立ちを指先に込めて渋くなった窓を閉めた。

タエは何時頃帰るのだろう。玉子は既に家を出たのを後悔し始めていた。玉夫が起きているのが分かったからか、遠慮なしに玉子は大きな溜息をついた。玉夫は面倒くさそうに壁を向き直り、器用に掛け布団を手繰り、体に巻きつけた。まだ眠るつもりなのか。何だかんだで、空が明るくなり始めようとしている。

「姉ちゃん寝ないの?」

無神経な質問だ、と玉子は更に苛立った。お前が布団を占拠しているから寝れないんだろう、と言いたくなった。と同時に、布団を自分のものにしたところで寝られるような気分にないことは、玉子自身よく分かっていた。寝ないよ、と一言言うと、玉夫はやる気のない生返事を返した。あぁ、また会話が終わった、と玉子は思った。

玉子は決して話好きではなかったが、会話の終わりというものがひどく嫌いだった。特に、相手の発言が会話の終わりを促していると分かると、会話を続けるのか終えるのかの判断を自分に押し付けられた気がして、嫌な思いをするのだった。『青鞜』の感想を語る母にいつも中途半端な返事をしていた父を思い出す。「そうか」「なるほど」「へえ」「いやあ」「ふうん」「うん」。父の声はいつもこんな何ともつかないようなセリフで再生される。他のことを言っているのを思い出そうとしても、そんな記憶が無いのだった。

玉夫に父の幻影を見た気がして、玉子は果たしてどうしたものかと考え込んだ。一人で逃げたほうが生き延びるのは簡単だろうという計算もあった。

明るくなったら玉夫を家に追い返し、私はタエにもう少しだけここに置いてもらおう。金は少しならある。家賃ということでそこから少しタエに遣れば、タエも嫌とは言わないだろう。煙草を勝手に吸ったのをタエは怒るだろうか。この時間なら飲み屋のあたりに行けば煙草くらい買えるだろうと思ったが、知らない街に出るのは不安もあった。それに、起きて私がいなかったら玉夫は不安に思うだろうか、とも思った。追い返す予定の人間になぜ今更気を遣うのだとすぐに思い直したが、いずれにしても煙草の件は気づかれる前に謝ってしまえばいいだろうと楽観的に考えることにした。変わってしまったとはいえ、タエとは小学校以来の幼馴染みではないか。きっと許してくれる。

「のびのび」のコンビは解消かと思うと、少し侘しい気持ちもある。そんな心積りがあったことすらまだ玉夫には話していないのに。「一緒に家を出よう」と言ったときに真剣な顔をして頷いた玉夫にもある程度は未来に希望を感じる部分があったのかもしれないと思うと、「のびのび」計画を話して玉夫の昂揚する顔を見てみたいという気持ちになった。そうすれば、自分もまた、玉夫と一緒に生きていく決心が付けられるかもしれないと思ったからだ。

時間はある。いつの間にか火を点けていた煙草をアルミの灰皿に置き、玉子は前屈みになって玉夫の肩に手を延ばした。とんとん、と叩くと、まだ眠りについていなかったのか、玉夫が「ん?」と言って振り向き、薄明かりの中で眠たげな目を半分ほど開いた。

「ねえ、『野比玉子』って名前、どう思う?」


ケイザイテキジリツというやつは、どうやらそう簡単には手に入らないらしい。タエのいる佐野市までは無銭乗車というやつをやったが、一人で追い返す以上玉夫には汽車代を持たせたほうが安心だった。いや、むしろ捕まってくれれば、インテリぶって体面を取り繕うタイプの母と父を困らせることが出来たか――一瞬そう思ったが、そんなことはもうどうでもよくなってもいた。

玉夫を追い返した次の日、タエが仕事場に一緒に来てみないかと玉子を誘った。仕事場って売春するところでしょう、という言葉が口を出そうになったが、黙ってタエが続けるのを待った。タエ曰く、そこは厳密には売春宿ではないらしい。余程玉子が不安気な表情を浮かべていたのだろう。

「やだなあ玉ちゃん、私、醜業婦なんかじゃないよお」

ついこの間まで売女だと思っていた女が自分が使うよりも余程蔑みを込めた言葉で彼女たちを表現したことに、玉子は心の中で笑った。

「ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだけど、タエちゃん夜に仕事しているって言うから」

「娼妓になるにゃあ色々と面倒くさいし、街に出て淫売やるんだって大変らしいよお。あ、友だちから聞いた話だけどねえ」

二十にもなって語尾を変に伸ばすタエの癖が気になったが、とにかく自分が今夜連れて行かれるのが座敷でないのには安心した。

「玉ちゃん知ってるう? 佐野市には朝鮮の人が結構移り住んで来てんだよ」

玉子が生まれる数年前に朝鮮が日本に併合されたという話は聞いていた。母がその件について父に意見を求めたことがあったからだ。父は「いいんじゃないかい」などとのらりくらりかわしていたが、母は「まあねえ」と相槌を打ちながらも納得行かない様子だった。言葉が通じない朝鮮人に出会ったらどうしたらいいんだろうと単純に思いながら、玉子はさしてどういったことでもないかのように忘れていた。

「それでね、私その人たちの仕事手伝ったりしてんだよね」

「へえ。大変じゃない」

「大変なことはないわよお。みんないい人だもの」

「だって、言葉とか。どうやって話すの」

「みいんな日本語上手だよお。朝鮮では日本語勉強させられるんだって」

「そうなの」

タエの「みいんな」という言い方に、耳慣れない抑揚が込められていた。この辺りの方言なのだろうか。田舎から出てきたのだからと張り切って方言を押し込めている自分を逆に笑われている気がした。

「仕事って、どんなことするの」

「まあまあ、行ってみれば分かるってえ」

ふと、こんな女と一緒にいて経済的自立など出来るのだろうかと不安が過ぎった。併合と言ったって、日本に来た朝鮮人が蔑みの対象であることは誰の目にも明らかだった。中には密航者もいるらしいと母が言っていたのを思い出す。朝鮮人と働いているような女と一緒にいたら、いつになってもまともな生活など出来ないのではなかろうか。玉子は近いうちにタエの部屋を出ようと決意した。


歩いて二十分もすると、タエの仕事場の前に到着した。日は既に落ちて、風が吹くと肘の辺りに寒さを感じた。季節は無情にも巡るのだ、と玉子は思った。父母の家を出て最初の晩は汽車の中で眠った。二晩目は道沿いの納屋に身を潜めた。秋になればそんなことも出来なくなるだろう。寄り添って体を交わらせる玉夫ももういないのだ。

ふと、玉夫が無事に帰路を終えられたかと不安になった。汽車代と、タエが拵えた握り飯二つしか持たせていない。途中で何かあれば玉夫一人ではどうしようもないだろう。男とはいえ、まだ十六なのだ。気になって駅の方角を見遣る。汽車はもう動いていないはずだが、玉夫を乗せた汽車が出発の汽笛を鳴らせた音だけが鮮明に蘇った。

あの時、玉夫は不満そうな表情にほんの少し安堵の色を浮かべていた。玉夫なりに、今後の行く末を不安に思っていたのだろう。もう大丈夫だよ、お前はお父ちゃんとお母ちゃんのところに戻って、まともな人間になりな。みるみる小さくなる汽車の尻に向かって、玉子はそう強く思った。

玉夫が「まともな人間」になるなら、対照的に私はまともじゃない人間になっていくことを選んだのだろうか。あるいは、元よりまともな人間などには成り得ない運命だったのか。

「玉ちゃん、これからは女の人も自由になる時代よ。玉ちゃんもきっといつか素敵なお母さんになって、旦那さんや子ども、ひいては日本を支えるのよ」

母の声が聞こえた気がして振り返ると、そこには母と同じころの年の女がいた。傍らに幼い娘を連れて、手に持った郵便物か何かの束を確かめる振りをしながらこちらを気にしている。繁華街という程でもない街だが、どうにもこの場に似つかわしくない親子連れに、玉子は奇妙な感覚を覚えた。玉子の方に一瞥くれたあと、女は娘の手を取って何やら玉子の知らない言葉を放ち、背後の建物に入っていった。

気持ちの悪い女だ。そう玉子は思った。私は朝鮮の人間とは合わないらしい、とまで思った。しかし、それも母から受け継いだ性質なのかもしれないと思うと嫌悪感が先に立った。朝鮮人に受け入れられ、自分も彼らを受け入れることは、母とは違う道を進む第一歩かもしれないと思い、もらえるものなら仕事をもらって帰ろうと心に決めた。

「でね、玉ちゃん。ねえ玉ちゃん、聞いてるんけえ?」

強い訛りを語尾に込めてタエが言うのを認めると、作り笑いもそろそろ限界かと思いながら玉子は取り繕った。

「ごめんごめん、ここが仕事場ね」

「だからあ、一応私の仕事場はここだけどお、みんなの仕事場は違うんだってばあ」

話を聞いてなかったのが明らかになってしまった以上、食い下がるしかなかった。

「あ、そうなの。ごめんね、ちょっと玉夫のことが心配になって、ぼーっとしちゃった」

玉夫の名前を出すと、タエはあからさまに嫌な顔をした。タエは気づいているのだろうか。玉夫と私がそういう関係であることを。

「ま、とにかくう、まずはみんなを起こしに行きましょ」


汚い長屋は、タエの住んでいるところより一段も二段も程度の悪いものだった。この辺りは織物が中心だとタエから聞いていたから、てっきりタエはその類の下働きでもさせられているのかと思ったが、長屋に住む男たちを起こし、身なりを整えさせ、長屋から送り出すと今度は男たちの部屋の掃除をし始めた。

部屋は全部で二つ。布団が無造作に並べられた大きな部屋の奥に適当に拵えた台所があり、その横が手洗い所のようだった。更に奥のもう一つの部屋はよく見えなかったが、タエはそこから男たちの服や身の回りの物を出して彼らに渡していたから倉庫のようなものだろう。変な建物だ、と玉子は思った。元は個々の部屋がある長屋だったのだろうが、それではこの人数が住むことは出来ないということで、壁を抜いたような感じだった。

しかし、男たちの共同生活とはこんなにひどいものかと驚く。男たちを見送るタエに付いて三和土まで行くと、丁寧に並べておいた玉子の靴がとんでもない方向にひっくり返っていた。ざっと見て十二、三人といったところか。彼らはこんな時間から一体何の仕事をしているのだろう。

適当に掃除の手伝いをしながら、玉子はタエに聞いた。

「ねえ、あの人たちって何してる人たち。朝鮮の人よね」

「そうよお、朝鮮から来た人たち」

箒の先を窓の外に出してちゃっちゃっちゃと埃を落としながらタエが答えた。

「何やってる人たち」

「うーん、玉ちゃん、こういうの平気かなあ」

半ばひとり言のようにタエが言う。勿体ぶるタエの振る舞いに苛立ちを感じるが、仕事を紹介してもらえるかもしれないと思うと強く出れないのが口惜しかった。

「あのねえ、あの人たち、売ってるのよ」

「何を」

少し考えてからタエが答える。

「体を」

一瞬タエの言っている意味が分からなかった。父はマルキシストよろしく「労働者は疎外されているんだよ」とか偉そうに頷きながら言っていたけれど、タエはそういう意味で言ったのではないだろう。体を売るということは、読んで字の如く身体部位を売るということでもあるまい。そもそも売れるのは血くらいのものだし、毎日少しずつ売れるようなものでもない。であれば――

「役人さんとか、お武家さんには、若い男がいいって人が結構いるんだ」

「あの人たち、朝鮮から来て、日本の偉い男に抱かれて稼いでるってこと?」

あまりに直接的過ぎたかと言ったあとに後悔したが、タエは「そうそう」と軽く頷いた。箒は役目を終えたらしく、倉庫らしき部屋に仕舞われていった。代わりに雑巾と桶を持って出てきたタエが、手許から雑巾を一つ玉子に投げ遣る。

「ごめん、ちょっと手伝ってくれるう?」

タエの仕事は、体を売りに行くという男たちの寝床を夕方訪れ、彼らを起こし、身支度をして送り出す。そして彼らが「役人さんとか、お武家さん」の相手をしている間に掃除、洗濯をし、男たちの飯を作って彼らが帰るのを朝方まで待つ、というものだった。食事を作ったらもう帰ってもいいんじゃないかと思ったが、タエ曰く、長屋の留守番も兼ねている上に、男たちが無事に帰ったことの確認をするのも彼女の仕事なのだった。「無事に帰る」とは、雛たちが逃げ出さずにきちんと鳥籠に戻るという意味なのだろうと思った。


朝方男たちが一人、また一人と長屋に戻り始めたとき、玉子は敷き詰められた布団の一角で眠りこけていた。タエは男たちに声をかけ、飯を配っていた。玉子はのそりと起き上がって、タエの横まで行って飯を盛るのを手伝った。なるほどたしかに男たちの日本語はまあまあのものだった。堅苦しい感じが抜けないのは教科書で勉強したからだろう。それだけ若く、日本に来て間もないということだ。

陽の光の差し込む中でよく見れば、みな容貌もまあまあのものである。中でもシアという男は一際目立っていた。十八、十九に見える他の男たちの中で、一人だけ元服前のような顔と仕草をしていた。疲れているらしく虚ろな目をしていたところに「シアッ」と声をかけられて飯の列に渋々並んだ。

玉子は玉夫を思い出し、シアを愛おしいと感じた。じっと見つめながら飯を盛っていると、シアも玉子の方を見遣った。照れくさくなって視線を横に逸らすと、タエが軽蔑するような目でこちらを見ていた。玉子と目が合ったタエはさっと前を向き直ったが、玉子は今すぐにでもタエに飛びついて張り倒してやりたい気持ちになった。しかし少しの間はタエの部屋に厄介にならなくてはならない。ぐっと堪えた。

玉子が視線を前に戻すと、シアが消えていた。辺りを見回すと、シアを見つけるより前に、見慣れない女を観察する男たちの視線が突き刺さった。昨夜は暗く視界が悪かった上に、さっきまで寝ぼけていた玉子は気付かなかったが、男たちはタエが連れて来た女を見定めていたのだった。

異国の男たちが十人もの大群で自分に襲いかかってくるのを想像して、玉子は恐怖と同時に昂奮を覚えた。また、それとは対照的に、シアのような弱々しい男に襲いかかりたいという欲望もあった。口付けをしたらシアはどんな顔をするだろう。体を触らせたらシアは昂奮して勃起するだろうか。そこに手を触れたらシアはどんな声で喜ぶだろうか。朝鮮の言葉でも、そういう時に発する言葉が何かあるだろう。一つか二つ覚えておけば、そういうことになった時シアが喜ぶだろうか。

タエが片付けをし始めたので、如何わしい想像をするのをやめて玉子も鍋を洗い場に運んだ。横目に探すと、シアが布団に潜っていくのが見えた。あんなに若いうちからこんな仕事をしているのかと思うと、少し不憫な気持ちになった。

タエは割烹着を脱ぎ、何か朝鮮の言葉で男たちに声を掛けて長屋を出た。玉子は追いかけるようにして出たものの、タエは疲労から、一方玉子はシアのことを考えていたせいで、帰路は二人とも始終無口だった。


「玉子、ロウソク終わった」

最年長のチェが声をかけた。寝ぼけ眼で起き上がり、何も言わず倉庫に行き鍵を開けて中に入る。真っ暗な倉庫でもロウソクの保管場所が分かるほどに、玉子は長屋の間取りを把握していた。タエの部屋を出てもう一年以上が経っていた。タエは他の仕事を見つけたとか言って、週に一度手伝いにくればいい方だった。ロウソクを3本手に取って、倉庫を出てチェに手渡す。チェは礼も言わず燭台に戻ってロウソクに火を灯す。途端に長屋の全体が見渡せるようになった。

布団の方を見るとシアがなめらかな黒い前髪を乱して眠っていた。口は半開き、寝汗を掻いていた。今でも玉子は時々玉夫のことを思い出す。父母の家でうまくやっているだろうか。それとも今度は一人で家を出たか。もう十七になる。それくらいの気概が出てもおかしくない。あるいは、父母の奴隷に成り戻ったか。私一人を悪者にして、姉にいたずらされた可哀想な少年の位置に舞い戻ったか。自分だって喜んで腰を振っていたじゃないか、変態野郎が。そう思うと、少しだけ自分の罪が軽くなったような気がする。

「シア」

シアの布団に潜り込むと、敷き布団に染み込んでいた玉子の体温はすっかり飛散していた。チェが恨めしい。囁くように声を掛けた玉子に、シアが何ともつかない声を出しながら擦り寄って来る。シアは今年十五になる。しかし朝鮮では年の数え方が違うらしく、日本では十四歳とみなされるそうだ。どうでもいい。玉子は思った。年なんて人が決めた時間の区切りでしかない。現に、朝鮮と日本では年齢が違うなんていうことが起きてるんだ。シアが十五だろうと十四だろうと、玉子はシアを愛おしいと感じ、シアは玉子になついている。玉子にはそれで充分だった。

シアを抱き寄せ、シアの尻に沿って左手を滑らせる。チェたちの目が気になっていたのも最初の数ヶ月で、シアと玉子が交わっていることは既に全員が見知っていることだった。シアが右足を少し上げ、玉子の左足に絡めて玉子の左手を受け入れる。尻を撫で回した玉子の手が下着の横から滑り入ると、シアの体が一瞬強張る。

――シアは本当はこんなことしたくないのだろうか

時々そう思うことがあった。その都度玉子は、自分がとても非道い人間に思えて落胆するのだった。シアの肛門は柔らかい。それもまた玉子にとってはつらい事実だった。私だけのものにしたいという独占欲は無かったが、シアがつらい思いをしているんじゃないかと思うと、胸が張り裂ける思いだった。いつかシアを連れてこの街から逃げよう、とさえ思っていた。しかし、どこに? 玉子の野望は、いつもそこで立ち行かなくなってしまう。玉子には、土地に根を張ってしまう性(しょう)があるらしい。

シアは陰茎よりも、肛門と陰嚢の間を刺激されるのを好んだ。玉子にはよく分からなかったが、本人が望んでいるのだったらそうするのが一番いいだろうと思った。下着の横から差し入れた指でその辺りをぐっぐっと押し続けていると、シアの息が荒くなった。そろそろか、と思い、玉子は指をそのまま強く圧しつけ、固定した。シアの体が数秒間強張り、そして小さな嬌声と共に脱力した。

――これで交わったと言えるのだろうか

玉子はシアの下着から指を引き抜き、右肩を軸にゆっくり仰向けになった。もう既に眠そうなシアも、同様に反対側に回って仰向けになった。玉子が住み込みで働くようになって3日後初めて体を重ねた玉子とシアだったが、突然こういった指でのよく分からない場所への刺激を求められた。それ以来この変な習慣は毎晩続いている。シアは玉子の体に一切の執着を見せなかった。

シアは男が好きなのかもしれない。そう思うと、女の体を持っている自分が憎くなった。男のように陰茎が付いていれば、シアの肛門を突くことが出来るのに。そうすればきっとシアは喜ぶのだろう。畜生。普段シアを抱いている「役人さんとか、お武家さん」のことが突然憎くなった。陰茎なんていう下らないものが付いているというだけで、偉そうにしやがって。

シアもシアだ。あんなものの何がいい。お前は自分の陰茎なんて使わないくせに。だったらお前が女になって、私にその陰茎を寄越せ。玉子はゆっくり起き上がり、布団を半分除けた。シアの腰から下が露呈し、ロウソクの灯りで下着に影が出来ている。畜生。陰茎があるから影が出来るんだろう。偉そうに。

玉子は怒りに任せてシアの下着をずらして、まだ生え揃わないシアの陰毛を眺めた。ふと、シアが毎晩毎晩絶頂に達しているというのに、射精のあとが一切見当たらないことに気づいた。まだ精通していないのか。いや、玉夫は九つでとうに精通した。十五のシアが精通前だとしたら、随分と人の成長は疎らなものだ。下着を更に下へとずらすと、布が丸めてあるのが見えた。まさか射精の処理が面倒臭いからと言って下着の中に布を入れているのか。好色だな。そう思って布を抜き取って、玉子は目を見開いた。


「玉ちゃん、急いで!」

タエが帰るなり叫んだ。玉子はまたタエのところに厄介になっていた。シアが女だったという衝撃に戦き、玉子はシアに布団を被せてそのまま長屋を後にした。しばらくの間タエは口を聞いてくれなかったが、新しい仕事を辞めてまた長屋の留守番仕事に入ってくれた。事情は話せずとも、シアと何かがあったのだろうということはタエも感づいている。軽蔑しながらも何だかんだで玉子を追い出さないのは、幼馴染みの腐れ縁か、あるいは弱みを握って後で得をしようという打算か。

「チェたちのところに警察が来てる」

シアたち、と言わないところに気遣いなのか嫌味なのか分からない気味の悪さを感じたが、警察という言葉に玉子も只事ではないと強張った。あいつらは密航者だったのか。夜な夜なシアの布団に入る玉子をチェら年長組は軽蔑していたが、それでも昼間は適当に会話もし、時には一緒に鍋を囲んで笑い合うこともあった。ほんの少しばかり朝鮮語を覚えた玉子が、チェたちに発音を笑われて不貞腐れる、というのがお決まりの流れだった。それが、楽しかった。シアと一緒にいたいという気持ちが強かったのは確かだが、チェたちとの交流も、玉子を長屋に一年も居座らせた要因の一つだった。それなのにシアが女だと分かった瞬間に全てを棄てて逃げた自分が情けなかった。

タエと長屋に着くと、既に警察がチェたちを道へ引きずり出した後と見えて、見慣れた朝鮮人たちが横並びに縄に縛られていた。駆け出そうとした玉子をタエが制止する。なぜ、という顔をした玉子にタエが小声で言った。

「玉ちゃんも朝鮮人だと思われて逮捕されちゃうよ」

「でも私は日本人だよ。言えば分かってくれるでしょう」

「日本人かどうかなんてどうやって確かめるのよ。佐野に戸籍を移したわけでもあるまいし、調べるにしたって、玉ちゃんを捕まえて独房とかに入れたあとにゆっくりやるに決まってる。調べてもくれないかもしれない」

タエはいつの間にこんな場慣れした女になったのだろうと、憧れとも軽蔑とも取れない変な感情が沸き上がったが、確かにその通りかもしれないと思った。家出した娘のことなど父母がどうこうしてくれるとも思えない。タエの忠告は、玉子を現実に引き戻すのに充分だった。

――でも

長屋の壁に沿って並ばされた列にシアがいないのが気になった。逃げたのだろうか。あるいは、既に――。

急に悲しさが込み上げてきた。いや、あるいは、後悔が。私はなぜシアを置いて逃げたのだろう。シアに聞きたいことは沢山あった。どうして男の格好をしていたのか。私が陰茎を妬み、欲しいと思ったのと同じような感情だったのか。あるいはもっと強い信念を持って男として生きていたのか。また、若い男目当てで金を出したお偉方に女と知れて殴られたりはしなかったか。男に抱かれることは本意だったのか。女を、男を、何をシアは愛していたのか。あるいは、何よりも聞きたいのは、私を愛してくれてはいたのか、ということだった。

もう何もシアに聞くことが出来ないと思うと、玉子は自分が憎くて仕方がなかった。涙の出そうな目に力を込めて、じっとチェたちを見た。もしシアがまだ中にいるのなら――あるいは私からは死角に入っているだけか――いずれにしても、今この場を見届けければいけないという使命感に駆られていた。

チェと目が合った。身を隠して様子を窺っている私を、チェは軽蔑するだろうか。寝食を共にしておきながら、シアとの一件に衝撃を受けて立ち直れず、あれから一度も長屋に足を踏み入れなかった私を、いつものあの目付きで、冷酷に蔑むだろうか。私は、その蔑みを受けることをも使命だと思い、チェを見つめ返した。さあ、蔑め。私は警察が怖い。日本人だから大丈夫だろうと傲慢にもたかをくくっていたような馬鹿だ。密航者であるチェたちがこれまで生きてきた波乱万丈のほんのちょっとも理解出来ないような、家出初心者だ。私はあんたたちが普通にずっとここにいられると思ってた。いつかシアと結婚したいとまで思ってた。そんなこと普通に出来ると思ってた。笑え。馬鹿な女だと笑えばいい。

強引に見つめ返す玉子に、チェは左の口角を上げて笑みを寄越して見せた。笑うと左の口角だけが上がるのは、チェの癖だった。そこに嫌味や含意が無いことを玉子は知っていた。玉子が混乱していると、チェは朝鮮語で大声を上げた。

「シアは逃げた!」

「逃げる」という言葉は、玉子が初めに覚えた朝鮮語の一つだった。売春している者たちにとって、そして祖国を離れて来た人間にとって「逃げる」という言葉は、身近過ぎて、そして胸が焼けるような言葉だ。

シアが逃げた。玉子は腰が抜けるほど安心した。人は逃げたらもう逃げ続けるしか道はない。シアは今後も逃げ続ける人生を生きることだろう。けれど、今この場で逮捕されるのとどちらがいいか。シアの気持ちは分からないが、玉子は何よりもシアがこの場を逃れたことを心から喜んだ。

「朝鮮語を使うな!」

警官の一人が棍棒を高く振り上げ、チェの頭を強く殴った。思わず玉子は目を塞いだが、棍棒がチェの頭に当たる時のゴンっという音と、そのまま倒れ込むチェの膝が地面に当たる音が玉子の耳には無情にも突き刺さった。警官は呻くチェの頭に更に棍棒を何度も打ち付け、その度にゴンっゴンっという鈍い音が聞こえた。

響く殴打音の中玉子が涙を溜めた目を薄く開けると、タエもまた泣いていた。しかしタエは、声を出さまいと、あるいは鼻も啜らまいと、そしてチェの受けている仕打ちを目に焼き付けようとでもしているのか、涙も鼻汁も全て垂れ流しのまま、真正面を向いて、目を見開いたまま号泣していた。そうだ、タエは私が佐野に来る前からチェを知っているのだった。そして朝鮮語も私より遥かに話すことが出来た。チェが私にシアが逃げたことを告げ、そのために今この場で殺されかけていることを、タエは全て理解している。

チェの方を向き直ると、チェはもう虫の息だった。かろうじて左手の指がひくひくと動いているのが、まだ生きていることの証拠だった。どうかもう勘弁してくれ、せめて生きたまま逮捕してくれ、と何が正義だか分からない願いを玉子が心の中で呟いた瞬間だった。警官はチェの左手をダンっと思い切り踏みつけ、もう片方の足でチェの顔面を蹴り上げた。

他の朝鮮人たちは黙って俯いていた。どうしようもないのだろう。逆らえば同じ目に遭うのは目に見えていた。せめて生きたまま逮捕してくれ――朝鮮人たちの顔にも、同じ悲痛な思いが見て取れた。


チェの死体は警官が二人がかりで担いでいった。そして朝鮮人たちの繋がれた縄が引かれ、長屋前の喧騒は一気に路地へと消え入った。シアが逃げたことに心からよかったと思いつつも、自分にそれを伝えるために命を捨てたチェ、そしてこれからどんな目に遭うのか想像も出来ない朝鮮人たち。玉子の頭は様々な思いが渦巻き、何も考えられずにいた。その場にへたり込み泣き腫らした玉子とタエは、互いに目を合わせないまま、どちらともなく立ち上がり、歩き出した。

シアはもう長屋の近くにはいないだろう。どこか遠くへ逃げているはずだ。一人で勝手に逃げる度胸、あるいは狡賢さのある男ではない。チェたちが逃がしたのだろう。だとしたら、金は持たせただろうか。どこに行けばいいか、伝えただろうか。そうでないなら、シアは、当てもない孤独な旅に出てしまったのだ。次に行く場所は定まらないのに、移動し続けなければ、逃げ続けなければならない人生。

――私とは、同じで、違う

玉子は、次に行く場所の当てがない自分とシアを重ね、それでも一所に根を張ることが出来る自分がどれだけ恵まれているかに思いを馳せた。感じるのは、ただ無力感だった。逃げ続ける人生とは、どんなものなのだろうか。朝鮮と日本、そのあいだにあって、どちらにも根を張らない人生とは、どんなものなのだろうか。そして、女と男、そのあいだにあって、どちらにも根を張らない人生とは。

あるいはシアは、朝鮮と日本、女と男、どちらかに根を張りたいと思っているだろうか。日本にいるのだから、日本に居続けたいと願っているのだろうと考えるのは単純に過ぎるだろうか。あるいは、男の格好をしているのだから、下着に布を入れてまでして男として生きているのだから、男であり続けたいと願っているのだろうと考えるのは単純に過ぎるだろうか。

とぼとぼと歩いていると、駅が左手に見えてきた。ふと、柱の影にシアの姿が見えた気がした。陽が傾きかけているために、よく見ることが出来ない。玉子は目を細める。歩を止めた玉子の方を振り向き、そして玉子の目線の先を追ったタエが言った。

「玉ちゃん、あれシアくんじゃない」

分からない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

「そうかもしれない」

楽観的な方だけ、タエに言った。

「最後に、会ってきたら」

タエは残酷なことを言う、と思う。何を言えというのだ。「さようなら」は既に、私が長屋を去った日に言ってしまったようなものだ。「お元気で」なんて、追われている人間に言えるか。「ごめんなさい」――何に? 謝りたい気持ちはあったが、具体的にこれとあれとそれについてごめんなさい、と謝れるような単純なものではなかった。タエの「最後に」という言葉も、玉子には堪えていた。

もう二度と会えないのだ。そう思ったら、何の言葉も思いつかなかった。畜生。私が警察だったらいいのに。畜生、畜生。私が縄を持って、シアのところに駆けて行って、縛ってしまいたい。私に権力があったら、シアをずっとここに置いてやりたい。玉子は、母がよく使っていた「権力」なんていう言葉で自分の感情を表していることにも気づかず、苛立った。

遠くのシアは、近づいてくる汽車の音に気づき、何の荷物も持たずに駅の中に入って行った。ああ、また私は汽笛を聞くのか。玉子は絶望的な気持ちになった。

玉夫は汽車に乗り、元居た場所へと帰って行った。シアもまた汽車に乗る。しかし玉夫とは違い、シアは居たことのない地へと向かって行くのだ。玉夫は今後ずっと、「ここではないどこか」を夢見ながら生きることだろう。そしてシアはずっと「ここではないどこか」に追いやられて行く。全く正反対だな、と考えていると、全て見透かしたようにタエが言った。

「あんたはどこに行くの」

そうだ、私には帰る場所も無ければ、追って来る刺客もいないんだった。移動しない人生。それは、生きるということと矛盾してしまわないか。生きることは、変化し続けることだろう。玉夫はそれを諦め、奴隷になって行った。奴隷もいつかは反乱を起こして自由を手に入れるだろうか。それでも、玉夫はそれを横で見ている類の人間だろう。ではシアは。シアは移動し続ける、変化し続ける。それは、生きていることだろうか。そうかもしれない。でも、ではなぜ、玉夫の体は生き続け、シアの体は常に死と隣り合わせなのか。

夕日がしっかりと真横から駅を照らしている。そろそろ汽笛が鳴って、シアをどこか、ここではない場所に連れて行ってしまうだろう。シアの終着駅はどこだ。私の終着駅は一体――

玉子は駈け出した。いつも考えるだけで実行に移さない玉子だったが、今は何も考えが無かった。ただ一目散に駅に向かった。玉子には、今から自分の生が始まるのだという確信があった。

「さようなら、玉ちゃん」

遠く背後から、タエの声が聞こえた。そうだ、その通りだ。シアにかける言葉は思いつかないが、玉子は走りながら小さく、力強く言った。

「さようなら、片岡玉子」



あとがき 村江輝夜

片岡玉子、いや野比玉子がこの原稿を送って来たのは二年前、二〇〇九年七月二十四日の夕方だった。当時文筆家・片岡玉子の編集担当をしていた私は二日置きに彼女の病室に足を運んでいたが、私には筆を進めていることなど一切伝えず、老いた体を死に任せるように随分と小さくなってしまっていた。親類のいない先生が一人で病と戦いながら書いた原稿。私はすぐに印刷し、それを握りしめて病院に向かった。

追伸には「明日にも死ぬ体」とあった。私は原稿を読みながらタクシーの後部座席で涙を堪えた。先生に何かがあれば病院から私に連絡が来ることになっていたので、まだ持ちこたえているのだろうという希望を持つことが出来た。原稿を読み終えた私は、携帯電話を取り出してリダイヤルボタンを押す。

「はい、西新宿南総合病院放射線科ナースステーションです」

「あ、片岡玉子の…」

何だろう、と電話をする度にここで止まってしまう。私は玉子さんの何にあたるのだろう。「編集担当」と言っても玉子の事情を知らない看護師には分からないだろう。では、玉子さんも私も今まで知らずにいた事実、握りしめた玉子からのメールに書かれた真実をここで暴露すべきか。

「あの、村江です。片岡玉子の看病をしている」

結局普段と同じ言い方でやり過ごした。

「ああ、ちょうどご連絡差し上げるところでした」

そう言って看護師は何か書類を取り出している様子だった。悪い報せなのかと冷や汗を掻いた。

「出来れば今夜中にいらして頂きたいのですが」

そのつもりだ、と伝えて電話を切った。到着するまで持ち堪えて欲しい、その一心でタクシーの窓から病院の方角を見つめた。


先生からのメールには、原稿の他に次のような文章が添付されていた。長くなるが、全文を掲載する。

 村江さん、如何でしたか。私の文筆活動の最後を締めくくるには、ちょっと生々しすぎたでしょうか。昨今在日コリアンの皆さんに対する反感や攻撃が強まっている気運がありますから、すぐに出版という訳にはいかないかもしれませんね。出版時期や媒体については村江さんのご判断に全てお任せ致します。私としましては、いつか世に出ればいいという気概で書きましたので、急ぐものでもありません。あるいは、ある程度事態が落ち着いてからの方がいいかもしれませんね。いずれに致しましても、村江さんのお力添えで、いつか出版に漕ぎつけていただければ、と思います。何卒宜しくお願いします。

もうお分かりだと思いますが、今回の原稿はノンフィクションです。私が二十歳から二十一歳になるまで佐野市というところに住んでいた時の記憶を辿って、筆を進めました。『ドラえもん』の出版以降野比を名乗るのを止め片岡玉子として言論活動をして参りましたが、そもそもなぜ私が片岡の名を封じて野比玉子を名乗るようになったのか、その経緯が分かっていただけると思います。

その他にも書きたいことは山ほどあるのですが、私もすっかり老いました。夏を越せるかどうかは分からない、というのが担当医の見解です。九十一歳まで生きられたこと、そして最後まで文章を書くことが出来たこと。本当に幸運だとしか言いようがありませんが、ご存知の通りフィクション小説や文芸批評にかまけた私は、自分自身のことについて語るということを怠って参りました。ですから、源静香さんが4月の雑誌で「独白」と称して過去を語っているのを見て、私は正直、うらやましいっと思いました。自分を語ることで、静香さんがようやく自らの怒りを、暴力を、そして「欲望」を表現し、世間にそれを知らしめることが出来た。うらやましいっ。単純にそう思ったのです。

そういった馬鹿みたいな動機で私の最後の原稿に手を付けましたが、小説の形式を気にしながら書くということが、どうやら私の老いた頭には相当な負担になったようです。本当ならこの続きを書きたい。あともう少し、ほんの数ヶ月でいいから寿命を延ばしてもらいたい、と祈りましたが、パソコンに向かって物を書くのはあと一日限りと、世に言うドクターストップがかかってしまいました。ですので、最後の一日を、長年お世話になった村江さんへのお手紙を書くことに費やそうと思いました。

以下には、本編『さようなら、片岡玉子』の続きに書こうと思っていたことが書いてあります。恐らく、静香さんを皮切りに今後更に広がって行くであろう『ドラえもん』登場人物による暴露の連鎖の一端を担うようなものになるでしょう。夏には直月理乃先生が日本漫画賞を受賞なさることに決まったそうですね。恐らくそこでも何らかの発表があると思います。村江さんの同僚には「漫画なんて」と小馬鹿にしている方もいらっしゃいますが、どうぞ私への弔いと思って、皆様ご出席なさるようご説得下さい。

「ドラえもんは老人でした」という部分が一斉に世の話題をさらった静香さんのインタビューですが、老人と言われるとは玉夫も可哀想なものだなと思います。私より四つも年下で、当時まだ三十七、八だったのですから。確かに老けこんで見窄らしい姿にはなっていましたが、そうは言っても五十代中盤くらいの見た目だったと思いますよ。と言っても、小学生だった静香さんからしたら充分に老人に見えたのでしょうね。二十代の頃はまだ可愛げのある顔をしていたんですけれど。

何はともあれ玉夫が静香さんや香苗さんにしたことは許されないことです。あ、村江さんはもうお分かりだと思いますが、香苗さんという名前は静香さんが作った仮名です。本名はシア・テヨンさん、当時のあだ名はヨンちゃんでした。(この部分は、もしこの手紙を公開される場合は省略してください。ヨンちゃんはご結婚されて名字が変わっているはずですし、現在は通名で生活なさっているでしょうから大きな問題は無いとは思いますが、先程申し上げた通り現在在日コリアンへの嫌悪が再燃しておりますので、念のため注意を払って頂けたらと思います。)

玉夫は静香さんにもヨンちゃんにもひどいことをしていました。それを知っていて何もしなかった私も、お二人には本当に申し訳ないと思っています。ですから静香さんが玉夫を殺したとき、私はそれを警察には言いませんでした。当然の怒りだと思いましたし、玉夫の死は私を過去の呪縛から解き放ってくれるものでもありましたから、正直安堵の念もありました。

私が佐野に残り玉夫を父母の家に送り返してから四年後、二十歳になったばかりの頃に玉夫は徴兵されました。あと数年で終戦という時期でしたから、軍が誰彼構わず徴兵していた時代ですね。母は政治的な関係で「行くな」とは言えず、涙を目に浮かべて送り出したそうです。父は最後まで抵抗したそうですが、逮捕をちらつかせた軍関係者に最終的には負けてしまったようです。田舎ではインテリぶって威張っておいて、結局国家に負けるのでは、父の権力も財力もそれだけのものだったということでしょう。そんな力を持つことがいいことか悪いことかは分かりませんが、見掛け倒しの小さな男だなと玉夫が後で漏らしていました。

大戦ではあまり危険なところに送られることはなかったようですが、元々軍の訓練を受けたわけでもなく、田舎ですっかりスポイルされた玉夫は生死をかけた戦いを初めて目の当たりにして、今でいうPTSDの状態になりました。学校には戻れず、かと言って家にずっといたのでは体面が悪い、ということで父母が私に目を付け、玉夫を送りつけてきたのです。

私が今で言う西新宿に住んでいたことは、タエ経由で父母にも知らせてありました。嫌っていたとは言え、そしてそれ以上に嫌われていたとは言え、生きているのか、どのあたりで生活をしているのかくらいのことは知らせておくべきだと思ったのです。今思えば、おかげで玉夫が手許に戻ったのですから、正解でした。

玉夫はすっかり頬が痩け、かつて気弱さをカバーして有り余るほどだった若さのエネルギーがどこかに消えてしまっていました。当時は鬱病という言葉もPTSDなどという洒落た言い方もなかった時代ですから、医者に診てもらったところで追い返されるだけと思い、西新宿の自宅に引き取って面倒をみました。シアとは二つか三つ違いだったと思います。しかし一緒に住んでみて、隣に座っている二人を見比べるとシアとの違いは明らかでした。不憫だなと思いました。

私があの時送り返さなければ戦争など行かなくて済んだかもしれない。当時はそんな思いで毎晩泣きました。シアは私を弟思いの良い姉だと思ったようでしたが、当の私はあんなに愛でていた魅力的な少年がここまで堕ちてしまうのかという落胆の思いの方が強かったのが正直なところです。

それでも、玉夫の精神はみるみる回復して行きました。時々冗談に笑顔で反応するようになったり、自暴自棄になって伸ばしっぱなしだった髪を自分から切ってほしいと言ってきたり、少しずつ会話も増えて行きました。玉夫が来てから半年も経つと私はまた玉夫に惹かれるようになり、シアに嘘を付いては出掛けさせ、自宅で玉夫とセックスをする日々が続きました。精神的な回復が完全でない故に時々見せる過剰な動揺やチック症状なども含めて、とても愛おしいと感じていたのです。本編の方はもう読まれたでしょうから、私が大人の落ち着いた男なんかより未熟さを見せる男に惹かれる性癖を持っていることは村江さんももうお分かりですよね。お恥ずかしい告白ですが、もう人生いよいよ短くなって参りましたから、洗いざらい言ってしまいます。

私と玉夫は、実の父から性的な虐待を受けていました。と言っても暴力的なものではなく、あくまで性的に私と玉夫を喜ばせるのが父の楽しみという感じでした。私たちもさして嫌がるわけでもなく、人間の体って面白いな、触るところによって気持ちよかったりくすぐったかったりするんだな、くらいのことを思っていました。ですから、今で言うトラウマのようなものは私にはありませんでした。玉夫がどう思っていたかは、私には分かりません。

そのうち、父がいない時にも玉夫と私はその遊びをするようになり、思春期にも関わらず外で恋愛などせず姉弟でそんなことばかりしていました。一番楽しかったのは、玉夫が父に責められているのを見ることでした。中学に入って少し無口になった玉夫も父にペニスや肛門を舐められている時などはよく声を出したので、私も面白がって色々なことを玉夫にするようになりました。可愛いなあと思うようになったのはこの頃です。一方で、何をするにも冷静沈着に、一切感情の起伏を感じさせない父の振る舞いは嫌いでした。大人の男に惹かれないのはこの頃からだったようです。

母は、私たちが何をしていたのか知っていました。すっかり性に関しての感覚が鈍っていたのか、私は戸の隙間から覗く母に対してどうして部屋に入ってきて一緒に遊ばないのだろうかと不思議に思ってすらいたんですが、母の目線を追うと、そこにはいつも玉夫がいました。ああ、母は玉夫にしか興味が無いのだなと思うと、言いようのない寂しい気持ちになったのを覚えています。また同時に、母の玉夫を見る性的な視線を意識したことが、私が玉夫に惹かれるきっかけになった側面もあります。

かくしてペニスは、男の欲望と女の欲望の両方の主人公であったのか、という絶望が後になってやって来ました。それが、本編後半の私の心境です。当時は、ペニスを手に入れれば全てが手に入るような気がしていました。実際には殆どの男が何にも手に入れることなど出来ていないのに。馬鹿ですね。そしてペニスなど無くても欲しい物が手に入ることはある、ペニスなんかより余程欲しがるべき物は沢山ある、ということも後になってやっと学んだことです。それは、シアが教えてくれました。

玉夫が西新宿に来たことで、私は以前より随分と落ち着いた目で玉夫のペニスを眺めることが出来ました。随分滑稽なものだ、と思ったものです。シアの繊細で持久力のある性器に比べて、何と武骨で、せっかちで、役立たずなのかと。しかし役立たずでも一つだけ得意な分野がありますね。射精です。私はある日玉夫の子を孕んでいることを医師に告げられました。

「双子です、おめでとうございます」

おめでたくなんてありませんでした。まず、シアに伝えるべきか迷いました。ペニスというやつは普段は何の役目も果たさないくせに、こういう取り返しの付かないミスばかり起こして、自分は平気な顔をしてヴァギナに負担を押し付けるのだから、本当に頭に来ます。玉夫がタイミングを間違えたあの日、もっときちんと掻き出しておくんだったと後悔しました。

シアは冷静に話を聞いてくれました。

「三人で育てればいい」

シアは子どもが生まれるのが楽しみだとも言いました。私は本当にこれでいいのかと自問しながらもついに堕胎が出来ない時期に入ってしまい、結局生むことにしました。と言っても当時のことですから、まともな医者はそもそも堕胎に首肯などしませんでしたけれども。

もう村江さんはお分かりだと思います。生まれた姉をテヨン、弟をのび太と名づけました。テヨンが朝鮮名なのはシアの痕跡を次の世代に継ぎたかったから。そうでもしないと、シアはいつの間にかいなかったことにされてしまうのではないかという不安が私にはありました。のび太はもちろん「のびのび」と生きて欲しいという願いから付けました。一人で、私と玉夫が築こうとした未来を生きて欲しいと思ったのです。私たちは誰も戸籍を共にしていませんでしたから、法律上の名字は私の過去の名前、片岡になりました。でものび太には野比姓を名乗ってもらおうと決めていました。

片岡テヨンと野比のび太。朝鮮と日本。女と男。私の過去と現在。全てが私の人生を物語っていました。私の子どもに、これ以上に相応しい名前は無いと確信したんです。

ところが、テヨンとのび太が三歳になって間もなく、シアがテヨンを連れて失踪したのです。私はそこら中探し回りました。捜索願を出せば不法滞在扱いのシアに不都合が生じると思い、人づてにシアの居場所を突き止めようとしましたが、不可能でした。朝鮮語が多少分かると言っても、在日コリアンのコミュニティに行ったところで私は余所者でしかありません。棍棒で殴られて死んだチェのことを思えば、戦後間もないあの時期、日本人がたどたどしい朝鮮語で朝鮮人を探しまわっていたら警戒するのが当然です。

仕方がないと諦めるまでに、あまり時間はかかりませんでした。玉夫がいたからです。シアの代わりになるというのではありません。私が子どものこと、シアのことばかりを気にしている間に、玉夫はPTSDの症状を悪化させ、一人で何をするにも困難を来すようになっていたのです。

ああ、これは罰だ。私は思いました。私も母や父と同じように、そして軍隊や戦争と同じように、玉夫を壊してしまった。父のようにも母のようにもなりたくない、ケイザイテキジリツをするんだと息巻いて、好き勝手移動し続けた結果、そのしっぺ返しが今になって降り掛かってきたんだ。私は、玉夫を支えて生きて行くことを決意しました。

「わたしが守るからね」

久しぶりにその言葉を口にしました。映画みたい。そう、映画のようでした。それまでも、そしてそれからもずっと。私の人生は言うなれば、『映画 ドラえもん 創世記』。全てはここから始まったのです。

ろくなことが無い人生だ。村江さんはそう思っておられることでしょう。私もそう思います。十年後に再会したテヨンは剛田くんに堕胎させられ、すっかり老人と化した玉夫は静香さんに殺され、のび太は剛田くんを殺して獄中。とんでもない人生です。シアが逃げたのも、私と離れることでテヨンを私の不幸から守ろうとしたのかもしれません。

のび太の小学校の保護者会で再会したシアは、私に気づくと体を緊張させ、ゆっくりと軽い会釈をしました。目許が光ったのは涙だったのか、あるいは西窓から差し込んだ陽が彼のメガネに反射したのか。いずれにせよ、シアは正しい選択をしたと思います。国境を、そして性別を移動した結果、移動し続けなければ生き延びられない身になってしまったのですから。

願わくば、シアのような人間が住む地に根を張れる社会を。願わくば、シアのような人間が自由に性別を選べる社会を。願わくば、玉夫のような人間を壊してしまわない社会を。願わくば、玉夫のように壊れてしまった人間がもっと楽に生きて行ける社会を。

願わくば、私のような人間も、救われる社会を。

平成二十一年七月二十一日夏の日に

野比玉子

追伸

医師にお願いして、十分間だけパソコンを打つ時間を貰いました。私はもう明日にも死ぬ体です。そこで村江さんにお願いがあります。『さようなら、片岡玉子』本編から、前半部分を全て削除して下さい。我儘申し上げて申し訳ありません。何卒宜しくお願い致します。

追伸にある通り、本編の前半は削除してある。その理由は私にはよく分からなかったが、故人の遺志を尊重したい。


先生の病室に到着した私は、昨晩にも増して衰弱した様子の先生に駆け寄った。ベッドの横に看護師がいたが、軽く会釈をしながら去って行った。ああ、もう医者や看護師がどうこう出来る段階ではないのだと悟り、ナースステーションに行くのは後でいいと判断した。

「先生、村江です。分かりますか」

先生の目がゆっくり私の顔をとらえる。度の強い眼鏡はテレビの横に置いてあるから、私の顔など本当は見えていないのだろう。ゆっくり口元を動かして先生が言った。

「メール」

「見ました。最後の原稿、確かに受け取りました」

安心したように息をふうと吐き、先生の目が天井に戻る。

「あの、先生。私、テヨンです」

言おうか言わまいか迷い続けた言葉がすんなり出てきたことに、自分でも驚いた。しかし先生は虚ろな目を天井に向けたまま、こちらを見ようとしない。重ねる言葉が思いつかなかった。先生が知りたがっているのではないかということを一方的にでも話そうと思った。ベッド横の椅子に腰掛けながら続ける。

「私は十二歳まで大阪で育ちました。公園での出来事から数年後にまた大阪に戻って、父に大学まで進学させて貰いました。村江輝夜という通名は大学からずっと使っています。玉子さんに黙っていてごめんなさい。でも玉子さんが私の母親だということはメールを読むまで知りませんでした。それから、父は私が大学を出てすぐに韓国に渡り、一昨年鬼籍に入りました」

一気に捲くし立てるように言った。私の六十三年の人生、父の八十三年の人生はこんなに単純だっただろうかと思いながらも、今ここで死にゆく先生に言えることは限られていた。

「それから、二十年くらい前に私が四国の親戚のところに身を寄せたというのは、私が流した嘘です。『ドラえもん』のことはショックでしたが、私は過去に縛られたくなかった。玉子さんは、テヨンに親戚がいるなんて有り得ないということを分かっていたと思います。私村江がテヨンだということも、もしかしたら勘づかれているのかもしれないと思ったことが時々ありました」

先生の顔が少し緊張を解いたように見えた。あるいは、顔の筋肉がそれだけ衰えていたということか。

少しだけ迷って、こう付け加えた。

「先生、私は『ドラえもん』の外側の人間です。それでも、同時に、先生が生きた証でもあります。私は『ドラえもん』という呪縛から解放されることを選びます。先生も、もう楽になってください」

先生の顔から生気が消えるのが分かった。立ち上がってナースコールを押そうとするが、焦って押せない。ようやくボタンを捕らえて押すと、看護師の声が聞こえた。何を言われたか咄嗟に理解できなかったが、玉子さんが今息を引き取ったかもしれないと伝えて、もう一度椅子に座り直した。息をつく。じっと玉子さんの顔を眺めてこう呟いた。

「さようなら、野比玉子さん」

片岡と野比の歴史が終わった瞬間だった。『ドラえもん』の終末。『ドラえもん』本編が描かなかった黙示録。


それでも世界は続いてしまう。私も生き延びる。直月さんとのび太さんは獄中、スネ夫さんも玉子さんも死んだ。今『ドラえもん』後を生きているのは、静香さん、杉エイゴさん、そして私だけか。何故か私たちは誰も子どもを残さなかった。私たちが死んだ時、それは本当に『ドラえもん』が終わる時だろう。

あるいは、終わるのだろうか。静香さんは、「数多くの香苗ちゃんが、これまでも、今現在も、そしてこれからも、存在し続けるのだと思います」と言った。『ドラえもん』は私たちだけの物語ではないのかもしれない。私だけが『ドラえもん』の外にいるつもりだったが、『ドラえもん』に外も内も無いのかもしれない。

『さようなら、片岡玉子』で玉子さんは何を言いたかったのだろう。玉子さんは「映画 ドラえもん 創世記」と呼んだ。そこに描かれていたのは性と暴力、そして境界だ。それらが人を苦しめ続ける限り、『ドラえもん』は生まれ続けるのだろう。「香苗ちゃん」だけじゃない、数多くの玉子さん、玉夫さん、私の父シア、静香さん、武さん、スネ夫さん、のび太さん、チェ、そしてテヨンがいるのだ。逃げられない。そして逃げられないからこそ、逃げ続けなければならない。


玉子さんは、『ドラえもん』登場人物による暴露の連鎖が今後更に広がって行くと予想した。その通り、玉子さんが亡くなった直後の日本漫画賞授賞式で直月理乃先生が重大発表を行って逮捕された。そして私、村江――テヨン――もまた、それに便乗してこうしてあとがきを書いている。静香さん、直月さん、玉子さん、そして私。真実は膨大に膨れ上がり、もう誰の手にも負えなくなっている。私たちは『ドラえもん』を過去の物にしたがっているのか、あるいはそれに執着しているのか。現在と過去、生と死。どちらを選んでも、もう片方が亡霊のように付き纏う。であれば、私を片岡テヨン、のび太さんを野比のび太と名付けた玉子さんのように、両方を同時に生きていくしかないのだろうか。過去を現在に引き継ぐこと、現在を過去に求めること、決して何も死ぬ事のないループの中で生きるしか。

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