群馬県高崎市「群馬の森」に行き、日本に労務動員された朝鮮人を追悼する碑を見てきました

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2022年11月20日

批判回避のためにありとあらゆるミソジニーを免罪しようとしている男が多い昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか(←本文とは関係ない時候の挨拶です)。

群馬県高崎市にある「群馬の森」という県立公園には、「記憶 反省 そして友好」と刻まれた追悼碑があります。これは、かつて日本がその植民地政策によって日本国内の鉱山や工場に労務動員し、事故や過労で亡くなった朝鮮の人々を追悼する目的で建立された碑です。

私はニュースを殆ど読まないし見ないという体たらくなのですが、東京新聞の群馬版のサイトだけは、更新されるとメールで更新情報が届くようにしてあります。(シンプルなページなので、はてなアンテナを使っております。はてサだもの。)そこにあったのが、以下の記事です。

また、検索すると以下の記事も見つかりました。

Facebook (鍵つき)で「群馬にこんな追悼碑があったことは知らなかった。守るべきだと思う。」と書いた通り、恥ずかしながら、群馬県に最初に住んでから約10年(そのうち4年以上海外でしたが)、この追悼碑のことを私は全く知りませんでした。

その後、以下の記事が出ました。

これについては、以下のような反応をしておりました。(一時的にツイッター復活していた時期だったのです。)

また、友人から回って来たメールにて、「撤去を求める請願」が出されているということも知りました。

せっかく群馬にこんな重要なものが存在するのに、撤去されるなんて! という思いから、県庁の担当部署にメールで存続を希望している旨を伝えました。以下、一部を伏せ字、省略したものを転載します。

群馬県庁 ○○○○部○○○○課(担当部署名) ご担当者様

館林に住んでおります、○○(筆者実名)と申します。
県庁職員の皆様には日頃より大変お世話になっております。

先日、群馬県立公園『群馬の森』の追悼碑に関する報道を目にしました。
追悼碑の存在に反発を感じている方が大勢いらっしゃること、
撤去を求める声があがっていることなども、知りました。

これに関し、群馬県に住む者として、気持ちをお伝えできればと思いメールしております。
大変お忙しいことと存じますが、お目を通して頂けたら幸いです。

私は16才まで栃木県佐野市周辺で育ち、その後海外で数年を過ごしたのち、
2004年に群馬県に引っ越して参りました。
群馬には外国から来て生活している人も多く、また
館林市内にもモスクがあるなど、多文化な環境をとても気に入っております。

それまでは引っ越しの多い家庭ではありましたが、
今では家族全員群馬県に骨を埋めるつもりでおります。

そんな中、この追悼碑の存在を知り、
群馬県にそのようなものが存在していること、これまで存在していたということを
知らなかった自分を恥ずかしいと思うと同時に、群馬県を更に好きになりました。
自分が住んでいる地域に誇りを感じたのは、初めての経験でした。

そして、撤去を求める声が上がっているということを知り、
とても悲しい気持ちになりました。

私は20代後半なので、戦争当時のことは分かりません。
追悼碑に反対している人たちには、やむにやまれぬ思いがあるのかもしれません。
ですが、追悼碑に書かれた言葉には嘘はありません。
この言葉は、植民地主義や戦争から多くの痛みを負った人々に寄り添い、
戦争を経てやはり多くの痛みを負った日本人が、それでも自らの責任を振り返るという
とてもとても重みのある言葉です。
そして同時に、「友好」という、未来へ向けての希望も私たちに訴えています。

私は、そんな言葉が書かれた追悼碑のある群馬県に、ずっと住み続けたいと思っています。
どうか撤去せず、追悼碑をそのまま保存してくださいますよう、お願い致します。

○○○○(筆者実名)

このブログをご覧の皆さんにとっては不十分と思われる点や不正確な表現が目に付くかもしれませんが、できるだけ正直な気持ちを率直に伝え、追悼碑の存続を求めている群馬県民もいるのだという点を中心に書きました。お返事を頂くことはないと思いますが、少なくとも県庁職員のどなたかに目を通してもらえたら嬉しいなと思っています。

そんなメールを送ったのが5月13日の火曜日。まさかその二日後に実際に追悼碑を直に見ることができるとは思っていませんでした。

今日(といっても厳密には昨日ですが)、私は FAT CATS 開店準備のため、前橋市に行っていました。地理は私も苦手なので最近知ったのですが、前橋市は高崎市の隣にあります。用事が済んでコストコにでも行ってみようとそちらの方面に移動中、「群馬の森」という標識が目に入りました。

うぉー行きたい追悼碑見たい! と思い、コストコを目前に引き返して渋滞の中「群馬の森」に向かいました。しかし18時半に閉園される「群馬の森」の駐車場は既に入れない状態になっており、ダメもとで雨の中傘をさして歩きで入園を試みました。入り口付近で清掃していた管理の方に閉園時間が迫っていることは分かっているが追悼碑をぜひ一度拝見したい旨伝えると、本当に閉園時間ギリギリだったにも関わらず、快く中に入れてくださいました。(この際もうひとつハートフルなエピソードがあったのですが、それは Facebook で友だち限定で書こうと思います。)

時間がないので急いで公園最奥の追悼碑の場所まで向かい、ようやく見つけた追悼碑は、公園の名前に負けずとてもとても「森」感のあるエリアにひっそりと存在していました。以下、撮影した写真を載せます。

追悼碑に向かう園内の小径の右側の写真

↑とても「森」感のある小径の右側。

追悼碑に向かう園内の小径の左側の写真

↑小径の左側。

追悼碑に向かう園内の小径

↑小径正面。まっすぐ進むと左側に追悼碑があるよと管理の方に教えて頂きました。

追悼碑目前の小径

↑そのまま進むと、少し開けた場所に出ました。

小径を挟んで追悼碑の反対側の様子

↑開けた場所で右側に視線をやると、ベンチがいくつも並び、休憩所のようになっています。

小径から追悼碑のあたりを見た様子

↑そのまま左側に目線をやると、追悼碑が見えてきました。

追悼碑の隣に別の碑が立っている様子

↑追悼碑に近づくと、何やら碑がふたつ並んでいるように見えます。

追悼碑と別の碑に近づいた様子

↑更に近づくと、朝鮮人追悼碑とは別に、少し離れた隣に別の碑が建っていました。ちなみにこの周辺には、小径を挟んで反対側の休憩用ベンチのほかには何も無く、ただただ「森!」という感じのエリアでした。管理の方曰く、入り口からここに到着するまでに「2キロはある」とのことでしたが、途中美術館のような建物の職員用駐車場と思しき場所を通りすぎてからは、小径のほかはただただ「森!」でした。1キロ半くらい森の中を進んだ感じだと思います。

この時点で、「もうひとつの碑はいったい何なんだ!?」という疑問が湧き、まず先に右側の碑を見てみることにしました。

追悼碑の右側に並んで建てられたもうひとつの碑

↑左下に見えるメッセージに「愛の光」と書いてあるので、もしかしたらなにか宗教的な碑なのかなと勝手に思ったのですが、実際には全く違っていました。

「愛の光」と書かれたメッセージにクローズアップした様子

↑なんと、平成11年に設立二十周年を迎えた群馬県アイバンクが献眼者(角膜提供者、ドナー)への感謝の意を込めて建てた顕彰碑とのことです。(「顕彰」という言葉を知らなかったので検索したら、「功績や善行などを称えるために立てられる石碑などのこと」とありました。また、必ずしも著名でない功績に対してのものであることが多いそうです。)

「献眼顕彰碑」と書かれた石碑の近影

↑「献眼顕彰碑」とありますね。

↓献眼者の名前が彫られていました。

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその一

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその二

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその三

というわけで、朝鮮人追悼碑を直に見に来たはずでしたが、思いがけず群馬における医療史とも出会うことができました。平成11年の20年前といったら、35年前、つまり1979年に群馬県アイバンクが設立されたことになります。私が生まれる6年前のことです。全国のアイバンクと比較して早いのか遅いのかは知りませんが、「アイバンク」というものの存在を知らずに私がセガサターンなんかで遊んでいた頃、とっくにアイバンクが存在していて、しかもこれだけの献眼者がいたということに、歴史に対しての自分のちっぽけさと、無知を恥じる気持ちと、そして同時に歴史というものの重みを感じました。

時間がないのでそういう思いにふけっている余裕もなく、今回のメイン目的、朝鮮人追悼碑に目を移しました。

追悼碑を正面から見た様子。ちなみに小径方面は正面ではなく、顕彰碑の方向を向いていた。

↑朝鮮人追悼碑を正面から見た様子です。追悼碑は小径の方角ではなく、顕彰碑の方向に正面を向けて建てられていました。小径に立って追悼碑を見ると、追悼碑の右側が目に入るような配置になっています。

追悼碑に近づいて正面を見た様子。正面側には「記憶 反省 そして友好」の文字。朝鮮語と英語も併記されている。

「記憶 反省 そして友好」という部分の近影

↑追悼碑に近づいてみました。正面には「記憶 反省 そして友好」の文字が刻まれており、朝鮮語と英語も併記されています。

追悼碑を裏側から見た様子。ここにもプレートがつけられ、メッセージが書かれている。

追悼碑裏側のプレートに書かれたメッセージ。画質が悪く文字は読み取れない

↑裏側にまわってみました。中央にプレートがつけられており、そこにもメッセージが刻まれています。残念ながら、陽が落ちてきている雨の中撮影した写真は画質が良くなく、文字が読み取れません。急いでいたのでこの場で読むことはできなかったのですが、たむたむ(多夢・太夢)ホームページこの碑文の内容が掲載されていたのを読むことができました。以下に引用します。

碑文
20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地にして支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えた今、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。
2004年4月21日
「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を 建てる会

また、同ホームページの情報によると、

2004年2月、建てる会が小寺弘之知事(当時)に「県立公園施設設置許可書」を申請。県は翌3月、「政治的行事および管理を行わない」などを条件に許可した。
碑文の内容は、戦後50年となった1995年の「村山談話」の範囲内にとどめるよう、「強制連行」の表現を除くなど文言をすりあわせた。

建立後の維持管理は同団体が行うこととなっており、追悼碑建立のための県費支出は行っていない。

とのことです。つまり、当時の内閣総理大臣が「閣議決定に基づき発表した声明」(Wikipedia - 「村山内閣総理大臣談話『戦後50周年の終戦記念日にあたって』」、アクセス2014.5.16)の範囲内にとどまる内容の碑文となるよう、当時の群馬県が既に介入し、建てる会と県の双方の合意に基づいた文であるということです。

追悼碑から小径の方向を向いた様子

↑追悼碑の裏側をまわり、小径の方角を向いてみました。左右に伸びる小径の向こう側に、休憩ベンチが並んでいるのが見えます。撮影時は気がつきませんでしたが、その奥に少し開けたエリアがありますね。更に奥に行くと通り抜けられるのかどうか分かりませんが、いずれにしても、その場にいた限りでは、公園内かなり奥の孤立したエリアに追悼碑と顕彰碑がひっそりと立っているという印象を受けました。

写真は以上になります。

この追悼碑についてインターネットで検索すると、碑の存在や碑文などに抗議する内容の文章ばかりがヒットします。「群馬の恥」とまで書いている人もいました。新聞記事にもありましたが、抗議の声はここ数年で百件を超えているそうです。管理の方も、抗議の声があがっているという事実は認識しているとのことでした。(時間もなかったので質問はできなかったのですが、「抗議の声があがっているそうですね」と言うと「えぇそうなんです」とだけお答え頂けました。)

私は上でも書いた通り、自分の身近なところ(と言っても高崎には数回しか行ったことありませんが……)にこういった追悼碑が存在しているということをとても嬉しく感じましたし、撤去を求める声には明確に反対です。県庁にメールをするということが適切な方法であったとは断言できませんが、群馬在住、群馬勤務、群馬通学、群馬出身などなど、群馬にゆかりのある人には、ぜひ追悼碑の存続を望む声をあげて欲しいと思っています。

もちろん、追悼碑が存続すればそれでいいというわけではありません。日本が戦前、戦中、戦後行って来た植民地政策や植民地主義的な外交、国内の旧植民地出身者への差別的待遇など、過去から現在に至るまでたくさんの問題を作り出して来たのが日本という国です。在日コリアンなどに対する差別的な言葉のパターンがインターネットのみならず日常生活の場にまで浸食してきており、より気軽に反在日コリアンの言葉を人前で語れるようになった現代の日本社会の文化的問題に加え(注)、朝鮮学校の無償化除外や、雪害時の除雪作業からの朝鮮学校近隣の対象除外、また DPRK (朝鮮民主主義人民共和国)に対する経済制裁や、終戦後すぐに行われた日本国籍の一方的剥奪、1982年までの国民年金からの排除など、日本政府による制度的な差別・問題行動は多岐にわたります。

(注:もちろん、もっと時代をさかのぼれば、今よりも気軽に、当然のように朝鮮人や他の外国人に対する差別的な言葉が一般的に広く使用されていた時代や場所もありますが、2005年あたりからある種の差別的レトリックのパターンが急速に広まったことは事実かと思います。)

そういった中で、追悼碑だけを存続させることが目的化してはならないと私は思っています。しかし一方で、この追悼碑すら守ることができない社会になることは、断じて食い止めなければならないとも思っています。

もちろん、私が実物を見に行くほどにこの追悼碑を気にかけている理由には、これが私が住む群馬県内のものだからというものもあると思います。他にもっと優先的に守るべきものがあるだろう、というご指摘は甘んじて受けますし、真剣に検討します。一方で、ローカルなものの大切さというものをここ数年で学んで来た私には、やはりこの追悼碑の問題は大きなものではあります。

大局をとらえつつ、大言壮語に陥ることなくローカルな視点を持ち行動すること、そしてローカルなものを注視しながらも、大局を見失わない、という——同じことを逆に言っているだけですが——バランスを保ちつつ、そして同時に周りの人を大切にしながら、動ける範囲で動いて行きたいなと思っています。(途中から所信表明みたいになってしまった……)

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。