クィア学会2013を振り返る

2013年11月9日と10日は、クィア学会の第6回年次大会だった。同時に9日には臨時総会が、10日には定期総会が開催され、学会誌『論叢クィア』第6号もその場で会員に配布された。

私は2012年度のはじめ(2012年秋)に幹事に選ばれ、それから代表幹事と名簿管理担当を兼任する形でこれまで1年間活動をしてきた。すべてを振り返ることは体力的にも精神的にも不可能だが、今回の大会、総会、学会誌について、思ったことをまとめておきたい。

大会前日

前日の8日午後に新幹線で大阪に向かい、迷いながらもようやく開催地(関西大学千里山キャンパス)に到着し、他の幹事とともに印刷物の作成、看板やイスなどの設営に加え、予算案の最終的な詰めや大会での役割分担などを確認した。

shareonet
そういえば、迷っていたときにティッシュ配りの人に写真のティッシュを渡されたが、この際ジェンダー的なものは横に置くにしても、わたしの体型で月給80万の仕事となると相当ニッチなマーケットを狙った職場じゃないと無理な気がする。

kakariinそうそう、途中の駅で、妙な注意書きがあった。「係員の外入出を禁ず」とのこと。私は係員ではないので、外入出してもよかったのだろうか。いや、別に入りたかったわけではないのだけれど。おともだちから、「これ、係員の ホカ 入出を禁ず、では?」と突っ込みをもらって衝撃! そうねきっと!

それはさておき、予定より大幅に遅れて ダーナ と白腹さまと合流し、たこ焼きをごちそうになった。その後ご自宅にお邪魔し、夜遅くまで色々な話をした。過去の経験やいまのスタンス、最近の活動など、アクティビズム関連もそうでない話もたくさん聞かせてもらい、わたし自身も色々と話を聞いてもらった。

takoyakiおふたりの生活リズムを狂わせてしまって申し訳ない思いとともに、泊まらせてもらって本当によかったと思っている。

夜遅くになって宝塚の映像を観始め、気づいたらかなりヤバい時間に。

bagゲストルームにて、群馬を出る前にチャックさんにオシッコをひっかけられて悪臭を放っていたバッグから違うバッグに荷物を詰め替え、就寝。

大会

conf-outside大会の場では、ロビーの受付近くや喫煙所、廊下などで色々な人に再会したり、以前からオンラインで知り合いだった人と初めて直接お会いしたり、全く知らない同士出会ったりと、貴重な機会を得ることができた。中でも 水野ひばりさん、@t2koreさん、Yさん(大会に参加したことを公表されていないので、イニシャルで)、黒田綾さん、さんと初めて直接お話ができ(ですよね? 2回目とかだったらごめんなさい><)、福永玄弥さんをお見かけし、更にとても久しぶりに工藤晴子さんとも再会できたことが、強く印象に残っている。

その他、開催校である関西大学の院生さんおふたり(アルバイトとして大会運営に参加)に出会えたことも、とても貴重な経験だった。おひとりは音楽の受容のされ方に注目し研究されている方だった。私も以前音楽について書いたことがあり(「Kayokyoku and Women in Showa 40’s (1965 to 1974): Karaoke as Musical Practice/Resistance」)、注目する点は大きく違えど、もっとお話しして、色々話を聞かせて頂けたらよかったなと思った。

もうひとりは、いわゆる「性的指向」とはみなされない「性倒錯」について研究されている方で、セクシュアル・オリエンテーション(性的指向)に限定されないセクシュアリティ論の重要性を日々感じている私としては、今後もぜひかかわりを持って勉強させていただきたいと思った。

lunch-by-danaお昼ご飯は、なんとダーナがお弁当を用意してくれたので、スタッフ用のとあわせて2人ぶん食べるという暴挙に出た。手前の2つが(c)ダーナです。おいしゅうございました。(朝も電車内でダーナのつくってくれたオニギリを食べたので、空腹で倒れることなく午前中を過ごせた。本当にありがとう!)

kudo-booklet発表は3人程度ごとに部屋割りをし、いくつもの「分科会」にわかれ、同時に最大2つまで同時進行で行われていたが、2日目の工藤さんの発表に行かれなかったことが悔やまれる(理由は自分のせい)。幹事でもある長島さんが発表を聞いていてくれて概要をあとで教えてもらった。更に、工藤さんからもあとで写真にある冊子を頂いたので、じっくり読んでみることにする。

というわけで、わたしが唯一聞けたのは、自分が司会/準備を担当した「分科会2 – C301教室」のひびのまことさん、水野ひばりさん、黒田綾さんの発表だった。

ひびのさんの発表は、これまでのクィア学会幹事会に対する鋭い指摘が整理されていて、現幹事としても、いち会員としても、拝聴できて本当によかったと思っている。また同時に、労力を払いこのように発表をしていただいて、幹事としては申し訳ない思いでもある。またこの発表には他にも幹事が数名来ており、質疑応答の場で発表者とのやりとりをした幹事もいた。意見の違いやこれまでの問題はあれど、応答しあう関係をつくろうというひびのさんの呼びかけに、正に批判の対象として名指されている幹事が直接応えたという場でもあったように思う。

一方司会のわたしは、なぜか、何をどう勘違いしたのか、発表者の持ち時間は30分であるにもかかわらず11分経過時点で手もとのベルを鳴らし、手をパーに広げてひびのさんに向け、小さい声で「あと5分です」と言い放つという破天荒。「え?」みたいな雰囲気のなか自分の勘違いに気づき、しかも幹事会批判という文脈の中で私という幹事がやったことなだけに「え、幹事会による、検閲…?」みたいな風に思われてしまったのではないかと焦ってしまった。未だになぜ「11分経過」→「あと5分」と思ったのか、さっぱりわからない。その節はみなさま、失礼致しました。

水野さんの発表は、特定の団体や個人の例を引きつつも、日本社会におけるトランス/GIDについての様々な言説を、そこにどのような前提があるか、どのような一貫性があるか、というのを丁寧に見ながら紹介していくというスタイルの発表で、論点提示と論点整理が同時進行だったため、問題意識がすんなりと伝わってくるものだった。以前からこのトピックについてオンラインで発言をしていた水野さんだが、こうしてひとつのまとまりとして出していただいたことの意義ははかりしれないと思う。

また、分科会開始前にたまたま機械トラブルの対応に行った先に水野さんがいたので、そのときにご挨拶ができた。ひびのさん、黒田さんにも言えることだが、芯はありつつも、終始にこやかにお話される方だった。タブレットを片手に階段付近で発表の最終確認をされているのを拝見し、誠実な方なのだなあという印象も受けた。

黒田さんの発表は、とても引き込まれるものだった。それこそ、学会発表の標準フォーマットがバカバカしく思えてくるほどに。そもそも私はこれまで黒田さんのお名前しか拝見したことがなく、また、目につくものはほとんどが黒田さん「を」語るものばかりで、黒田さん「が」語るものには触れてこなかったという経緯があり、今回ご自身の口で、ご自身のタイミングで語るということで、いったいどんなものになるのか、楽しみにしていた。

その結果は、期待していた以上のものだった。黒田さんの手もとにあった資料は事前に拝見していたのだが、発表は途中からアドリブが中心になり、黒田さんの語りにどんどん自分が引き込まれて行くのを感じた。ひとことで言うと、「全部開示する」「そのまま開示する」というスタンスであったように思う。それは学会発表という文脈で考えたときには「整理されていない」と評価されてしまうものなのかもしれないが、黒田さんが矢継ぎ早に開示してくるものを聴衆が自ら、点と点を線で結ぶように、つなげることができるものであったと思う。そして、その点のつなぎかたが、聴衆ひとりひとりの生き方や経験を反映しているものとなるのだと思う。

直前に水野さんの発表の質疑応答があり、そこで「クィア」の定義が何かという話題が少し出ていたが、それに、(おそらくは)図らずも、黒田さんの発表がひとつの回答を提示していたように私には思えた。というのも、「クィア研究」といったときに、「クィア『を』研究する」というスタンスが幅をきかせてしまう現状があるなか(「セクシュアリティ研究」や「ジェンダー研究」にも同じことが言えるだろう)、黒田さんの発表内容は一貫して「クィア『な視点で』研究する」というスタンスを取っていたからだ。「クィア」と「非クィア」という境界は、一切前提とされていないように感じられた。L/G/B/Tなどの性的カテゴリーの不可能性や限界はアカデミアの内外で指摘されてきたことだが、それを「私はこうです」という語りではなく、「あなたはどうですか?」という問いかけの形で提示する黒田さんの発表には、とても感銘を受けた。

私は司会であるにも関わらず質疑応答に参加させていただいたのだが、そのときにひとつだけ気になった点をうかがってみた。というのも、個々人の生き方への注目と尊重を重視する黒田さんは、発表の途中で、新自由主義的な個人主義や自己責任論とは異なる主張であると付け加えていたのだが、たとえばアファーマティブ・アクションに象徴されるような差別是正の介入についてどう評価していけばよいと考えているのか、気になったのだ。少し悩ましい表情をされたあと、黒田さんは、その介入がどのようになされるのか、どのような文脈でなされるのかによってケースバイケースで考えなければならないと答え、トップダウン的な介入には慎重な姿勢を見せた。

黒田さんとは発表の前後にもたくさんお話ができた。恐らく、今回の大阪への旅においてダーナ、白腹さんについで、三番目に多く言葉を交わした相手だっただろう。黒田さんとのやり取りの中で、特に共感を強く持ったのは、「性」に関する議論をできるだけ開いていくことを指向している点だった。クィアな現象はそこら中で起きているんだということ、だからこそ過去の歴史の掘り返しも含め、「クィアではない」と単純に思われているところを再検証したり、俎上に上げていくことが大切であるということを、過去数年間で私は少しずつ感じてきたのだが、黒田さんもまた、そのように物を見ているように見受けられた。

また、自分にできることをする、というスタンスも、すてきだと思った。これは今回の黒田さんの発表にも言えることだが、無理して形式を整えたところで、削ぎ落とされるものがたくさん出てしまうのだから、こんがらがっているなら、こんがらがったまま出してみる、というスタンスなのだろう。だからこそ、黒田さんの発表は聴衆を引き込むものであったし、聴取のひとりひとりが様々な点のつなぎかたで発表を解釈することができたのだろうと思う。

もうひとつ、黒田さんとお話ししたことのなかで、重要だと思ったことを紹介したい。それは、「取り巻きができないようにしないと危ない」ということだ。名前が知られるようになって、どこかに呼ばれたり、話しかけられたりすることが増えてくうちに、気がついたら自分の周りにひとがいた、というとき、そこには大きな危険があるのだということ。黒田さんはもちろんだけれど、私自身、少しずつ色々なひとたちに名前を知ってもらえるようになってきていて、また、気づいたらアラサーだし、オンラインでの発言は人の批判が多いし、「色々知ってて詳しい人」「難しいこと言ってる人」「怖い人」という風に思わせてしまう場面も増えていることだろうと思う。それこそ「この人に嫌われたら困る」とかまで行ってしまうと、非常に危険なことになる。何も考えずに振る舞い、発言し、行動してしまったり、あるいは少し考えた結果「どうぞ、お気になさらずに」程度のことを言っているだけでは、そういう状況は改善しない。自分から意識的にそういう構図を解体するために動かないといけないと思う。そのへんを、「ひとり」で動くということの重要性にからめて、黒田さんも考えているとのことだった。

総会

今回の総会では、9日の臨時総会も10日の定期総会も、本当に出しゃばりで申し訳ないんだけど、ほとんど前に出ずっぱりだった。選挙管理委員会が前に出ていたときも、私は挙手が多く、不規則発言も少なくなく、しかも論理構築するまえに手をあげちゃうものだから、まとまらない発言もあり、書記を担当してくれた金田さんをはじめ、その場にいた人たちに迷惑をかけてしまったことを反省している。

その上で、いくつか、今振り返って思っていることを書いておきたい。

まずはじめに、第五期幹事として、「クィア学会ニュースNo.67」にて会員に提出した3つの文章が、少なくとも「出された」ということについて、総会の承認を得ることができたこと、また、その内容については議論を継続するにしても、第五期幹事会ができるだけ誠実な対応を心がけてきたということについて一定の理解を総会から得ることができたことを、非常に嬉しく思っている。予算案が一部を除いて全会一致で可決に至ったことも、これまでの経緯を考えると、前進であったと考えている。

いち会員としては、総会での議論が対話としての側面を強く持っていたように感じられた。特に選挙管理委員会による議題について様々な意見が出されたことは、総会がきちんと機能するために重要なことだったと思う。「反対意見を投じる会員」というのがいつも特定の会員であるというイメージがあったが、今回の選挙関連の議題については、現幹事も含め、会員のあいだの意見の多様性が明確であったと思う。この件に関しては全会一致によって「この議題に関してのみ、多数決を取る」ことが承認され、実際に多数決によって可決となったのだが、その内容は、それまでに交換された多様な意見を反映したものであった。こうした積み重ねによって、より会員が意見を表明しやすくなり、対話の場としての総会の機能が正常に働くようになればいいと思ってる。また、将来的に議決方法を正式に総会として確定することができる段になった際には、今回のこの例は非常に参考になる事例となるだろうとも認識している。

悔やまれるのは、幹事会の権限の有無やその範囲を確定する4つの議案が決に至らなかった(時間がなく、説明も不十分であった)ことである。しかし議事録にはこれらの議案が保留状態である(どのような決も出ていない)ことが記録として残るため、次期幹事会はいつか決が出るまでのあいだ、これら議案に関する活動については慎重に動かざるを得なくなり、それは悪いことではないと思う。その点では、概要を説明して議事録に残っただけでもよかったと思う。

つぎに、予算案が一部を除いて可決されたと言ったが、これについて、私の意見を書いておきたい。

基本的に、歴代の幹事会への批判については私は個人的に賛同するものが多い。しかし同時に、批判を明言している会員自身も「迷っている」と話していたように、第四期幹事会であった人に支払われる交通費のみ除いた予算を承認することの弊害については、考えなければならないだろう。学会予算から支出される幹事の交通費は、院生や活動家など、所属先から交通費をもらっていない人たちに対するものであり、これが学会から支出されないということは、アカデミアで常勤職を持ち、しかも所属先が交通費を支出してくれる状況にある一部の人たち以外は、「交通費が自腹になる可能性」を覚悟しないと幹事になることはできないという状況をつくってしまう。

もちろん、「お前に予算は払わない」と総会に言われてしまうような仕事っぷりをしなければいいのだ、という主張はあると思うし、幹事はそのように努めなければいけないと私も思うが、しかし交通費が自腹になる「可能性」があるというだけでも、幹事になることのハードルは上がる。今回の件では、第四期幹事であった人の交通費は「否決」ではなく「ペンディング」(保留)という表現をされており、今後の総会において遡及的に可決することが可能であるような形式を取っている。それでもやはり、自分で立て替えた交通費を即日、あるいは少なくとも数ヶ月以内に受け取れない、場合によっては今回のように1年以上保留状態になり、最終的にも支払われる保証は無いという状況は、「経済的に余裕のある会員のみが幹事になれる」という状況を実質つくりかねない。

「幹事のなり手が少なくなってしまうから」という理由で予算案の全面可決を支持する意見もあったが、私がその場でも言った通り、それは理由にはならないだろう。その論理性こそ幹事会に批判的な会員本人が「迷っている」と言ったものの、予算案の「一部」可決という案は、不当行為に対する抗議行動であり、「幹事のなり手がいなくなってしまう」という懸念には、それを打ち消すほどの根拠はない。しかし、会員は知っての通り、幹事会は執行機関であるが、その活動において暴走することが可能であり、経済的に余裕のある会員のみが幹事であるような状況になってしまったら、貧困や労働問題などへの配慮に欠いた運営に走ってしまう可能性をより拡大してしまうように思える。また、総会後の個人的なやりとりから、幹事会に批判的な会員にもこの懸念は共有されていることがわかった。

ただ、幹事への不信任を表明する手段として、ある時期に学会員にとっては「予算案に反対意見を投じて否決とする」以外のものが無かったのだろうということは容易に想像できる。また、今回の定期総会においても6月の臨時総会においても「予算の部分的可決」という道を総会が承認してくれたこと、予算を「人質」にすることは望ましくないという発言が幹事会に批判的な会員からもあったこと、更には前述の通り、予算案の全体的可決ではなく第四期幹事会の交通費を総会として認めないという主張にも自身「迷いがある」という発言があったことなど、過去数ヶ月を通して第五期幹事会が学会員にできるだけ誠実に向き合う努力をしてきただけではなく、幹事会に批判的な会員からも歩み寄ろうとしてくれているのが目に見えてわかる。こうした変化は、前述の通り、現幹事の一部(第四期幹事であった者も含む)が今回のひびのさんの発表の部屋に来て、内容を聞き、直接質問をし、それにひびのさんも応答した、ということにも、象徴されているように感じている。

今後継続して対話が進むなかで、今年2回発生した「予算案の部分的可決」という事態が恒常化することなく、そもそも予算を人質に取るような必要が発生しないような学会をつくっていくことができればいいなと思っている。幹事としてというよりも、会員として、そのような学会づくりに寄与して行きたいと思う。

dinner-on-return正直非常に体力の消耗をともなった大会・総会だったけれど、終わったときにはある種の達成感というか、何はともあれ帰りの新幹線の中の駅弁はおいしゅうございました。(翌日には風邪をひいてダウンしてしまいましたが)

学会誌

ronsoqueer「論叢クィア第6号」が完成し、大会の場で配布された。その中のふたつの文章について、メモを残しておきたい。

大阪から群馬への帰路、電車内で真っ先に読んだのは井芹さんの「フレキシブルな身体——クィア・ネガティヴィティと強制的な健常的身体性」だった。一気に読み切ってしまい、もう一度、今度はマーカーを引きながら読んだが、その内容を簡潔にまとめるだけの力が私には無いので、怠惰ながら要旨をここに転載する。

固定的で一貫したアイデンティティという幻想を批判し、流動的なセクシュアリティやジェンダー表現に既存の規範を撹乱する潜在性を見出してきたクィア・ポリティクスが、〈フレキシビリティ〉の称揚という点においてネオリベラリズム体制と共犯関係を結びつつある現状は、今クィア理論が取り組むべき主要課題の一つである。本論文は、エイズ危機の影響を色濃く受けた初期クィア理論における代表的な議論の再読を通じて、〈身体〉の境界をめぐってクィアネスが前提とする健常的身体性を明らかにする。ある種の否定性をクィアネスと結びつける議論が、ネオリベラルな多元主義への抵抗というその意図とは反対に、特権的な「能力」や「強靭さ」に裏打ちされた〈フレキシブル〉な身体を要請する危険性を批判的に考察する。

この論文で指摘されていることは、「The Privilege To Say ‘I Don’t’」というブログ記事で私が書いたこと(反婚のポリティクスに関わるクィアが、「結婚しなくてもOK」な自分の特権を顧みていないことに対する違和感)に少しだけ関連していると同時に、しかし私自身の葛藤を強烈に呼び起こすものでもあった。

覇権的言説のなかに固定化されてしまう身体、押し込められてしまう身体に対するフレキシブルな身体の優越性は、確かにクィア的な言説の中でしばしば前提とされている。しかし私は、撹乱的であること、越境的であることについて、その「条件」について疑問を持つことはあっても、そもそもの撹乱性/越境性がなにか「よいもの」であるかのような前提についてきちんと考えたことがなかった。

たとえば、「女→男」「男→女」という越境についてのみクィア性を見出すような言説については、その二項対立自体に問題があるということはわかっていても、「他の撹乱のしかたがあるだろう(女→男、男→女という以外にも越境の道はあるだろう)」というところで思考を中断していた。(どんな形であれ)越境「できる」ということについては、越境「できない」ことに対する優越性を前提としていたように思う。その点で、たとえば単純な「女→男」「男→女」という形ではない現象や、単純な同性愛的欲望ではない欲望のあり方に対して「でもこれって越境的/撹乱的だよね、クィアだよね」と、クィア性を見出すような作業をすること自体、ある前提のもとに可能であったのだということを、この論文を読むことで気づかされた。

もうひとつ、特筆しておきたい文章は、吉仲さんによる「社会運動の戸惑い——フェミニズムの『失われた時代』と草の根保守運動」(山口智美・斉藤正美・荻上チキ)の書評だ。吉仲さんも脚注で書いてくれた通り、私もこの本の第四章にはフィールド調査と加筆に関わっている。書評へのきちんとした応答は著者三名に任せるとして、個人的な感想をここに記しておきたい。

まず、自分が調査にも加筆にも関わり、またその中で多くのことを学んだプロジェクトがこうして本になっただけではなく、様々なところから書評を受け、また今回初めてアカデミックな媒体で書評が発表されたことを、嬉しく思う。電車を乗り継ぎ、群馬の自宅に到着するや否や、さっそく著者に吉仲さんの書評について知らせたところ、喜びの声を聞くことができた。

今回の吉仲さんの書評の結びでは、この本が「黙殺」されてはならないという主張があり、まったくその通りだという読者目線での同意と、そのように言っていただけたことへのプロジェクト参加者目線での喜びがある。また、クィア学会の学会誌ということもあり、性的指向に大きく関連する第四章に大きな比重が置かれるかと思ったが、そうではなく、全体としての議論、意義、改善点などについてまんべんなく言及されていて、その点もありがたいと思った。

吉仲さんは、本書の「反フェミニズム側」に関する「資料」としての有用性が高いことを評価していて、私自身それについては強く同意する。根気づよくフィールド調査に明け暮れた著者たちの努力の賜物だと思っている。一方で、吉仲さんはさらに、前半の章で「フェミニズム側」の多様性の描写が少ないこと、そして「フェミニズム/反フェミニズム」の境界について更なる分析が求められることも指摘している。

「フェミニズム/反フェミニズム」の境界については、まさに私が関わった第四章での都城市のフィールド調査が思い出され、吉仲さんがこの点に注目してくれたことを嬉しく思った。たとえば、内村仁子(よしこ)さんは「フェミニズム側」なのか「反フェミニズム側」なのか、非常に難しい判断だろうと思う。こうした例は内村さんに限らず、本書のあらゆるところに散見される。この問題について本書が掘り下げて分析したかと言えば、確かにそうとは言えず、むしろ現象として、フィールド調査から見えたものをそのまま描写している。

私自身がこの問題について掘り下げるとしたら、どのようにするだろうか、と考えたが、おそらくそれは結果的に、「フェミニズム側」と「反フェミニスト側」がしっかり峻別できるのだというという思い込み自体を分析することになるだろうと思う。「フェミニズム側」にも「反フェミニズム側」にも明確に振り分けられない○○さんはいったいどういう人だろうか、という分析ではなく、そもそも私たちがしばしば前提としがちな「フェミニズム側」という仲間意識自体を疑ってみることから始めなければいけないように感じているということだ。

この点において、「フェミニズムの多様性」描写が乏しいというご指摘については、都城市のフィールド調査に同行し、第四章の加筆をした者として、少し違和感を感じているところだ。というのも、第四章で出ているだけでも、池江美知子さん、長倉スミさん、たもつゆかりさん、シエスタのメンバーたち、条例づくりの懇話会委員たちに加え、地元の宮崎日日新聞、他市から訪問した尾辻かな子さんといった、かなり多くの人たちが「性的指向」という言葉を条例に入れるため、そして削除させないために、動いていた。私はその状況を実際にフィールド調査で知り、地方の「運動系」フェミニストの存在と重要性を認識することになった。宇部、千葉の章でも、同様に「運動系」フェミニストの存在が言及されている。

「フェミニズム側」と言ったとき、たしかにそこには一枚岩的なものを想像してしまうことがある。だからその内部の多様性をよりきちんと見よう、というのは、まったくもってその通りだと思うのだが、「内部の多様性」が「アカデミア系フェミニスト」の内部の多様性だったり、「行政系フェミニスト」の内部の多様性であっては、それは不十分なものになるだろう。もちろん、「運動系フェミニスト」の内部の多様性だけでも不十分である。そもそも、これらの分類がつねにきれいに当てはまる場合だけでもないだろう。

本書については、私は、「運動系フェミニスト」の地方での動きが細かく描写されていると思っている。それはそれで不十分なのだろうが、しかしフェミニスト運動家の存在と、かのじょらかれらが担ってきた役割に目を向けることは、現在のフェミニズムにとって特に重要な課題だろうと思っている。私自身、女性運動の歴史とフェミニズム理論の歴史であれば、いずれにしても詳しいとは言えないが、まだ後者の方が知っていることが多い。クィア運動の歴史とクィア理論の歴史についても、同様である。(それはつまり、運動と相互に関連し合っている理論についても、不十分な理解しかできていないということでもある。)自らのそのような偏りを反省するに至ったのも、本書のプロジェクトに参加したからという理由が大きい。だからこそ、「運動系」の地方フェミニストの存在を含めて描写した本書は、吉仲さんの指摘とは反対に、フェミニズムの多様性について考えるための重要なきっかけとなるものだと個人的に私は思っている。

 

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