同性婚を私が積極的に支持しない理由——あるいは同性婚を支持しない人が「国民」という概念に対抗しなければならない理由——あるいは同性婚とネオリベラリズム

2013.6.21 タイトル一部変更


結婚を通して様々な利益や権利が得られるというのは、疑いがない。私自身も、もしどうしても結婚する必要が出て来たら、反婚の信条など横に置いて、結婚すると思う。「ゲイ」を商品化するようなマーケティングの仕事にだって、他の仕事の機会に恵まれなければ、就くだろう。生き延びることは、私にとって、政治的な信条なんかよりも重要なことだから。でも、まさにその、生き延びることを優先させるという態度を私が採用するからこそ、あたかも結婚制度にもLGBTマーケティングにも問題が全くないかのように振る舞うことは、してはいけないと思っている。それらに自分が関与してしまったとき、私は「私にはその権利がある」という態度ではなく、恥ずべきなのだ。

けれど、結婚していきなり自分の人生が素敵になるようなところは、そもそも想像も出来ない。人によっては、結婚は貧困への入り口だ。安定した職業を持っているひとばかりではない。あなたも、あなたのパートナーも、安定した職業を持っていないかもしれない。セーフティネットとしての結婚は、そもそも既に機能しなくなっている。それでも多くの人は、社会保障にありつけない人や、「国民」ではない人たちの移民としての大変な状況への解決策として、結婚を挙げる。もちろん、そういう側面があるからこそ、私は、自分が同性婚を支持しないからといって同性婚支持の人たちを攻撃しようとは思わない。でも個人的には、結婚していようがしていなかろうが、安心して安定した生活を送れるような社会であるべきだと思う。

結婚したいけれど、法的に認められていないから出来ない、という人は確かにいっぱいいる。でも、個人的に私がもっと気になるのは、結婚出来ないという人も含め、単身者で、かつ不安定で不安全な生活を送っている人たちのことだ。更に言えば、結婚していて、それでも不安定で不安全な生活を送っている人たちもいる。

同性婚が出来ないことが差別的である、というのには完全に同意する。けれど、それよりももっと、私にとっては重要で、急務なことがある。もちろん優先順位は人それぞれだから、全ての人に同意してもらおうとは思っていないけれど、パートナーシップに関するより良い法体制を作る運動において、まずもって同性婚の合法化が最も重要なゴールであると思っている人とは、共闘出来ないと思う。

安定した生活をきちんと整えることが最も重要で、だから結婚したいとかいう希望は後回しにされるべき小さな問題だ、と言いたいわけじゃない。結婚したくて、それでもパートナーと同性なので出来ない、という状況は、まがうこと無き差別だもの。でも、私は自分の労力やリソースを、同性婚支持のために費やそうとは思わない。

私のこの判断は、自分の育った環境や、階層の問題との関わり方に影響を受けていると思う。私の友人・家族・親戚・その他の知り合いの中には、外国人・シングルマザー・性産業で働いていて、安定とはほど遠い生活をしている人の方が、「安定はしてるけど、結婚出来ないんだよね」という人よりも多い。

カリフォルニア、東京、シカゴなどで出会った比較的新しい友人たちは、北関東での私の生活がどのようなものだったか、想像も出来ないと思う。だって、今の私を見たら、中産階級そのものだもの(でもそれは真実ではない。授業料全額支給の奨学金に受かっていなければ、私は今ごろ北関東で複数の仕事を掛け持ちでやっていただろうと思う)。だけれども、だからといって私の家族、周辺の地域の人たち、友人、その他の知り合いがみんな中産階級的、あるいは中産階級的文化の持ち主か(あるいは、これまでもそうであったか)と言ったら、そんなことはない。

こうやって、自分の身近な人たちに降り掛かる様々な問題を優先することには危険が伴うことも分かっている。それは、私が知り得ないような生活をしている人たちの痛みや不利益を見逃してしまう危険性を持っている。けれど、それを出来るだけ避けようとすると同時に、私は、身近な人間のことを考えることを放棄したら、誰のこともきちんと考えることなんて出来なくなってしまうと思っている。

だから、私にとっては、結婚なんかよりも、社会保障の方が重要な問題だ。結婚は、社会保障にまつわる様々な問題への解決策になってはいけないと思う。

そして、この私の判断は、同時に自動的に私に、「国民」という概念に対抗する責任を持たせることになる。なぜか。それは、現在殆どの国で国民になったり永住権を得るための最も手続きの簡素なものは、結婚だからだ。もちろんそれには、同性カップルは含まれない。従って、同性婚よりも社会保障を優先させるという私の判断は、自動的に、国民でない同性愛者が合法的に滞在権を得る機会の拡大を、より遅らせてしまうような力に、私も関与してしまっており、まさにいま、その判断をしていること自体、私は罪を犯していることを意味する。もし私が思い描く「より良い社会保障」が「国民」という概念の範疇に収まってしまうようなものだとしたら、同性婚の合法化を積極的に支持しないという私の判断は、全くもって、不正義になってしまう。

以下、追記。「この記事」とは、上の部分のことです。

同性婚についてのはなしがツイッターのTLで ながれてきたので、この記事のURLを紹介したのだが、言葉がたりないところが あったみたい。

ひとつめ、「じゃあ同性婚以外になにをすべきなのか」という問題。

これは、たとえば滞在権の問題については、直接入国管理の現状に抗議していくしかないとおもう。理想的には滞在・入国・就労の完全合法化が のぞましいけど、実際には「難民認定の基準緩和」とか「就労許可のある指定書の発行基準緩和」とか「滞在許可の期間の延長手続きの簡素化」とか「家族以外の人間がスポンサーになる滞在権の付与拡大」とかを すこしずつ もとめる方向になるとおもう。

ただ、私や、多くの移民問題に関わっている活動家が同性婚以外のそういったアプローチを取っていても、同性婚というアプローチを取るひとはいつづけるので、たぶん同性婚の合法化は進んでいく。だから、同性婚賛成派は安心してください。わたしからの批判などものともせず、しんじる道をつらぬけばいいんじゃない?

ふたつめ、「同性婚が合法になれば解決するのに、なんで同性婚というアプローチをとらないの?」という問題。

これについては、とりあえず米国の悪例がきになる、というのもある。というのも、滞在権にかんする法律は連邦法で、いっぽう婚姻にかんする法律は州法なので、ある州で同性婚が認められても、連邦法においては異性婚が前提なので滞在権の付与には至らないという、とてつもなくムカつくおはなし。これについては いろんなひとが がんばってるので、そのうちなんとかなるかも しれないけど。

で、おそらく一番問題だとわたしがおもうのは、婚姻にともなう おおきなリスク。婚姻するっていうことは、とてつもない量の契約項目に同意することなんだもの。たとえば財産分与というのは、もっている財産をわけるというだけでなく、もっている債務も遺族がかかえることを意味するのだもの。もちろん財産放棄という方法もあるけれども、配偶者の死亡から3ヶ月以内に放棄の手続きをしないと債務をかかえることになる。借金の存在を知らなければ財産放棄しないで3ヶ月たっちゃって、あとでとりたてられて びっくり、みたいなことだってある。そういうケースじゃなくても、とくに日本での社会生活において外国人は家族中心になりがち。借金の保証人に配偶者をえらばざるをえないひとは たくさんいる。

それに、日常生活においても、双方がある程度の収入をえているあいだは いいけれど、そうでなくなったとき、ひとりの収入で家族全員をくわせることになる。とくに外国籍のひとが失職した場合、外国人差別や偏見のある社会において、そう簡単に再就職ができないケースだっておおい。日本国籍だって再就職がすぐにできるひとばかりじゃないわけだし。「そういう苦難のときも、ささえあいます!」みたいなのが結婚だ、というひともいるかもしれないけど、「永住者になりたかったら、そういう苦難のときも、ささえあえ!」って政府からいわれているのが、現状ですよ。

また、「滞在権のために利用しているとおもわれたくなくて、プロポーズできない」という外国籍のひともいる。逆に、「滞在権のためには、結婚しかない」とはらをくくって結婚するひともいる。それは、双方にとって、いやなことだろうとおもう。「滞在権のために利用されたのだろうか」という疑念がきえない日本人配偶者もいる。

わたしは、もしかしたら、同性婚を推進しているひとたちよりも、結婚というものを神聖化しているのかもしれない。結婚するなら、単純にたがいにあいしあっているからする、というかたちで結婚してほしいと おもっているのかもしれない。だから、同性婚を支持するひとたちのいう「滞在権」とか「病気のときに…」とか「財産が…」とかに嫌悪感をかんじるのかもしれない。異性婚も、滞在権や相続権とかとは関係ないものになってほしいと おもっている。すきなもの同士がすきなときに、すきに結婚する。それでもたがいの生活が脅かされたり、とくに優遇されたりしない。離婚したくなったら離婚する。それでも、たがいの生活が脅かされたり、とくに優遇されたりもしない。そういう社会がのぞましいとおもう。

そういう、「すきにする」ような結婚、「単純にたがいがあいしあっているからする」ような結婚というのは、正直、わたしにとってはどうでもいいのだ。すきにしたらいい、とおもう。平等に、異性間でも同性間でも、あるいはどのような性別のくみあわせでも、できるようになるべきではある。でも、わたしにとってはどうでもいいのだ。「どうでもいい」とおもえないのは、滞在権の問題くらいのものなのだ。そして、滞在権は、「すきにする」「単純にたがいがあいしあっているからする」結婚をしているかどうかとは まったく無関係に、認められるべきだとおもう。婚姻というパッケージ商品に、まったくなんの権利も義務もつけなければいいのだ。だって、ひとりが、ひとりでも、いきていける社会のほうが、いいにきまってるじゃない。わたしは、そっちをがんばりたい、というだけのはなし。同性婚実現をがんばりたいひとは、勝手にがんばればいいじゃない、とおもう。批判はするけどね。

更に追記

某MLからの抜粋。同性婚について。

別れるときに弱い立場に置かれがちな人ーー年下とか、外国人とか、経済力のない人とかが、ちゃんとパートナーとしての権利主張をする根拠としても法制化は必要」

うーん。。。確かに、同性婚の話をするときって、結婚するときの話ばっかりですよね。別れるときに、本来守られるべき側の権利というのは、確かにあるでしょう。

それはそうなのだけれども、でも、そういった問題を「法的な婚姻関係(にあったこと)」を根拠にして解消しようとするのは、そもそも1人でいたら「弱い立場」になってしまうような社会そのものの問題を、後回しにすることになってしまう。

そもそも、同性婚のモデルになっているのは異性婚であり、その異性婚が「一方がもう一方を扶養する」というスタイルを、歴史上ある程度の期間採用してきたことに、問題があるのではないか。これはつまり、市民の生活を守るという仕事を政府が「家庭」にアウトソーシングするための道具として、「結婚」があるということ。つまり、「パートナーとしての権利」という概念自体が、政府の社会保障が不十分であることを前提としている。

政府の社会保障が不十分だから、政府は「パートナーとしての権利」を与えるようなそぶりをしながら、「パートナーとしての義務」を市民に押し付ける。あるいは、日本国籍保持者と結婚すれば日本に合法に住むことが容易になるような仕組みは、外国人に来てもらって労働力になってほしいけど何かあったときに国が面倒を見るのは嫌だ、という政府の意向でもある(「政府じゃなくて、配偶者をお前のセーフティネットにせよ」)。

結婚をして「パートナーとしての義務」を負うことは、すなわち政府の肩代わりをすることでもあるんだ。そして、結婚して「パートナーとしての権利」を得ることは、すなわち本来政府に求めるべきものを配偶者に求めるように仕組まれることだ。「家族のことは、家庭で面倒みてください」という制度が、結婚なんだ。

そう考えると、たとえば、結婚制度に反対しないこと、ましてや同性婚の実現に向けて動くことは、つまり、生活保護受給者をバッシングしたり、河本という芸人をバッシングしたような社会の風潮を、助長こそすれ、解消する方向にはいっさい寄与しないだろう。

いろいろ逡巡したけれど、結局私には、同性婚を支持することはできないなぁという結論。長々とすみませんね。。。

2013.7.16 更に更に追記

シノドスに掲載された「生活保護とクィア」という文章でも、同性婚に触れています。

2013.9.15 関連最新記事

同性婚実現のその先に向けて

「同性婚を私が積極的に支持しない理由——あるいは同性婚を支持しない人が「国民」という概念に対抗しなければならない理由——あるいは同性婚とネオリベラリズム」への9件のフィードバック

  1. 国家権力などに対抗するための領域として、「家庭」を設定するという考え方もアリだと思うよ。
    「家庭が国家に従属するから法制度で守られる」ではなく「国家から自治権をかちとる」という発想ね。

    私的自治の領域というのは多種多様にあるべきで、その意味では家庭もその中の重要なひとつといえるのではないかと。
    まあ
    家庭ばっかり重視するという保守派の視線が何を意味しているか、についての懸念はもっともではある。

    1. コメントありがとうございます。
      「家庭」が私的自治の領域としての側面を持つというご指摘は仰る通りかと思います。
      個人と国家が一直線で繋がる社会にも危険性は大いにあると私も思います。
      家族規範に抗うクィア的な言説が個人主義やネオリベラルな方向、あるいは能力主義的なものに簡単に向いてしまうことへの懸念もあります。
      今後そういった問題についての議論をしていく必要はあると思うのですが、しかし地下に眠るMさんが仰るような「家庭ばっかり重視するという保守派の視線が何を意味しているか、についての懸念」が全然共有されていない状況に今あると私は感じていて、そこに恐怖を感じているというのが正直なところです。
      ただ、「現況に合わせて主張を調整して公に出す」ことが常に正しいとは限らず、それは場合によっては「緊急事態状況下における強権発動」をも正当化してしまう可能性があり危険だとも思いますので、バランスに欠いたものを書く時には細心の注意が必要だなと改めて思いました。ご指摘に感謝します。

  2. 追記

    >婚姻というパッケージ商品に、まったくなんの権利も義務もつけなければいいのだ

    ガキは特定少数の信頼できる大人に育てられるべきであり、そこで育てられるガキに関連して権利も義務も必要。「特典」もあっていいと思う。

    http://synodos.jp/society/6198

    これなんてどう思う?

    1. とても難しい問題だと思っています。
      というのも、養子制度というのはそれ自体に既にたくさんの問題をはらんでいて、それは恐らく「特定少数の信頼できる大人」とは誰なのかという問題が往々にして「善意」によって隠されていることに起因しているように感じています。
      隠されている内実としては、実際に子どもが「信頼できる」と感じるかどうかではなく(それは個別具体的に検証するしかないのですが)、周囲が「信頼できる」と認定するような「大人」かどうかが重要で、それを判断する社会成員はみな階級差別、民族差別、性差別、障害者差別などが存在する社会で生き、影響を受けているわけです。
      例えば、「貧困状態のシングルマザー(実母)よりも中流階級の男女カップルに育てられたほうが子どもにとっても良いだろう」というような偏見があり、しかし貧困状態が子どもにとって本当に良いとは言えないのも事実ですから、養父母が「善意」で養子に取ることに一定の正当性が見出されます。しかし一方で、貧困状態のシングルマザーが十分に子育てできないほど困窮している事実は、養子制度が正にそういう不均衡な状況に依存しているにもかかわらず、あるいは依存しているからこそ、温存されることになります。その結果、「貧困状態のシングルマザー(実母)よりも中流階級の男女カップルに育てられたほうが子どもにとっても良いだろう」という考え(あるいは一定の事実)は維持・強化され、またそれに乗っかる形で養子制度が継続し……という悪循環になってしまいます。
      LGBTなり何なりの社会的カテゴリーにいる者が今後地位を向上して行く中で、「○○よりも××に育てられた方が子どもにとっても良いだろう」と言われる偏見の左側(○○)から右側(××)に移動することは、必ずしも悪いことではないですが、養子制度の問題に携わってきた人たちや、自身養子として育ち養子制度に疑問を持っている当事者などにとっては、良いことでもないわけです。
      そういった議論を踏まえた上で、「○○」と「××」の不均衡の問題を考え、不均衡を是正するための行動をしながら、しかし同時に少しずつ「○○」から「××」への(「LGBT」など一部の人ではなく、あらゆるカテゴリーの人の)移行を促進するというのであれば、私の違和感の大部分は解消される気がしています。
      その上で、婚姻制度と子どもの権利についてですが、これは実際今でも離婚や未婚の場合の子どもにとっては、2つの別の問題として存在しています。子どもにとっては、親同士が婚姻関係にあろうがなかろうが、子どもとして、親それぞれと親子関係を結んでいます。それが実質機能しているかどうか(養育費未払い問題など)は別ですが。
      私の思い至っていないこともあるかもしれませんが、現段階では私は、きちんと、今よりも、親子関係と婚姻関係を腑分けすべきだと考えています。

      1. レスおくれてごめんねー♪

        >現段階では私は、きちんと、今よりも、親子関係と婚姻関係を腑分けすべきだと考えています。

        これは目からウロコでした。
        親子関係と婚姻関係の腑分けという発想が正直ありませんでした。
        僕もヘテロ♂やなあ・・・と。

        家庭という「親子関係と婚姻関係その他の複合体」を考えるとき
        両者をロジックとして弁別しておくことは、たぶんとても大事な話になりますね。
        その辺りを踏まえて、もうちょっと考えてみます。
        大切なご指摘、ありがとう。

  3. ガキを作れる状態にあるヘテロカップルにとっては、
    【再生産】というのは婚姻関係と親子関係の複合体として自明だろうけど、
    たとえば性的マイノリティーとか、貧困層とか、障害者とかにとって
    【再生産】ってのはそもそも何だろか? 
    ってところからまず考え始めたほうがよさそうな気がしてきました。

    再生産概念の自明性、というのがけっこー鍵かもしれない。
    などと再生産概念の自明性にとらわれていた不甲斐ない身でいっておきますw

    1. いえいえ、私のこの考えも私の生きてきた人生や周囲の環境によって影響を受けているので、欠けている視点など大いにありえます。地下猫さんがお気づきになったことを私に伝えてくださることには、感謝しております。

      「再生産」が社会的にどのような位置づけなのか、それが多様なセクシュアリティや人間関係を持つ私たちの個々にどのような影響を与えているのか、属性や状況によってどう異なるのかなど、複雑すぎてめまいがしますが、考えるべきことがたくさんありますね…。

      地下猫さんに紹介頂いた読み物を見て、婚姻の問題が依然として親子関係の問題と大いに重なっていること、子どもの問題を無視して婚姻の問題を話すことが片手落ちになりうることなど、思い至ることがありました。ありがとうございます!

  4. む、「片手落ち」は意図的に使ってる?
    意図的ならば特に言うことはない。
    僕自身もひどい罵倒屋だしなw
    身体的メタファーを用いた表現については
    考えてはいるのだけれどまとまっていないし。

    1. あああああああああああ、全然意図的じゃないです!! 完全に無意識の健常者中心主義/障害者蔑視の現れです!>< ご指摘ありがとうございます T_T 以前他の人に指摘されたこと(「白い目で見る」という表現について)があって、それから特に気をつけようと思っていたにもかかわらず、またもややってしまいました……。

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