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小松サマースクール講演原稿全文(高校生向け)

みなさんこんにちは。フリーライターのマサキといいます。

フリーライターというのは、依頼されたテーマで文章を書いたり、書いたものを自分で売り込んだりして、それが雑誌とかホームページに載ったらその都度原稿料をもらう「フリーランス」というスタイルの仕事です。言ってみれば漫画家の文章版みたいなもんです。

翻訳『米国の醜さ: 有色人種クィアとトランスが言う「私たちの名の下にそんなことはするな」』

日曜の夜、私は悪夢を見ていた。それも無理はない。日曜の朝、ルームメイトが私のパートナーと私のところにやってきて、オーランドの銃撃事件について知らせてくれた。それからというもの、私の1日はショックと怒りと悲しみに支配された。最終的にベッドに横になり目を閉じてじっとできるほどに落ち着けた時には、少々自分でも驚いたくらいだ。そんな日に見る夢がろくな夢なわけがない。

【全文】現代思想2015年10月号掲載『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』

 同性愛者権利運動にとって、あるいは自らその名を裏切るかのようにBとTを暗に、そして時に明確に排除する「LGBT運動」にとって、同性婚は不可欠な目標としてその思想的、政治的な視界の中心的な位置を占めてきたと言えるだろう。しかしこの政治的傾向——米国で同性婚推進を掲げる大手団体がエイズ危機のあと1990年代半ばから頭角をあらわし、2013年には同性愛者に関する社会運動体として最も多くの資金を諸基金から受け取るようになっていたことに象徴される現在のこの政治的流行——には、たった20年の歴史しかない。

「セックスワークは生き延びるための手段」と思いたかったのは自分ではないのか

セックスワークについてはこのブログでも他の場所でも(現代思想とかYouTubeとか)折に触れて言及しているので、私の発信したものをいくつも目や耳にしてくれている人であればセックスワークが私にとって重要なトピックであるということは知っていると思います。

現実にセックスワーカーへの偏見がはびこっている世の中で、セックスワーカーの尊厳や権利(労働者としてのそれ、女性やセクシュアルマイノリティとしてのそれも含め)を尊重する社会にしていくために少しでも役立つことがあればと思って発言してきましたが、その中には「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という物言いが多く含まれていました。

『現代思想』2015年10月号(本日9/28発売)に文章が掲載されました。

先月の頭に青土社より「LGBT特集」を組むとのことで原稿執筆依頼を受け、これまでこのブログなどで書いてきた同性婚関連の議論をまとめた文章を書きました。

内容に即したタイトルを真面目に考えてとりあえず仮に「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流『LGBT』運動と同性婚推進運動の欺瞞」としておいて、 Facebook でタイトルを書いたら「喧嘩売ってるね!」と言われたので、ビビってたんだけど青土社の人は全然タイトルに注文をつけず、気づいたらそのまま印刷されていました。でもさっき実物が届いて他の人の文章をパラパラと読んでみたら、タイトルは無難でも内容は私より喧嘩売ってる人もいたので、まぁいいよね。

以下、冒頭部分のみ公開します。

同性カップルとゲイ売春:「せっかくLGBTの認知度が上がってきてるんだから、印象悪くしないでよ」

2015年6月26日、米国最高裁判所で争われていた Obergefell v. Hodges の裁判において、「すべての州に、同性カップルへの婚姻ライセンスを発行すること、そして他の管轄区において有効に遂行された同性婚を認知することを要求する」判決が出された。これをきっかけに、私たちは多くの友人が Facebook や Twitter のプロフィール写真を薄い——あるいは薄っぺらい——レインボーに染めるのを見たし、米国のニュースサイトでは歓喜するレズビアン女性とゲイ男性の姿が写真に収められていた。

翻訳『同性婚の隠された歴史』(ヤスミン・ネアー)

同性婚について、最高裁判所はいつでも、それこそ明日6月26日にでも、その判断を出すだろう。

主流のゲイ男性やレズビアン女性がそこらじゅうで、固唾を飲んで待っていると言っている。 Twitter と Facebook のどちらにおいても、みんながどうなるだろうと気を揉んでいる様子を書いている。

この見せかけだけの気の揉み方は、求婚者からのアプローチに驚いたふりをしてみせるビクトリア朝時代の典型的な女性の姿を思い起こさせる。「なんとまぁ、思いもしませんでした! 私が生きている間に同性婚が実現するなんて! まったく驚きました!」

翻訳『同性婚の代償』(ティモシー・ステュワート-ウィンター)

米国全土での同性婚の権利を認めた最高裁判所決定は、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーのアメリカ人にとって喜ばしい瞬間をもたらした。私たちの平等な尊厳、そして異性愛カップルが享受するのと同じ法的保護を得る権利が認められたことは、公民権の歴史における画期的な出来事である。しかしこれはまた、第二次世界大戦後に始まった同性愛者の自由を求める運動にとって、最後の歌声になるかもしれない。

過去10年間にこの運動が得た二つの大きな勝利、つまりオープンに軍隊に務める権利と、婚姻する権利が実現したと同時に、女性の同一賃金や妊娠・出産に関する選択、住居や学校の分離状況、マイノリティに対する警察暴力、及び十分な賃金と、皆にとっての職と退職の保障といった、公民権の他の領域において、改善がストップしてしまったり、あるいは逆行してしまったということは、とても不運なことであった。

翻訳『結婚は私たちを決して自由にはしない』(ディーン・スペード、クレイグ・ウィルス)

近年、同性間の婚姻を認める州法が可決するたびに、同性間の婚姻の法的認知を肯定する裁判所判断が出されるたびに、政治家が同性間の婚姻を肯定的に語るたびに、革新を志向する("progressive")人々の多くは結婚を称揚してきた。一方同時に、多くのクィア活動家や学者は同性婚推進運動を厳しく批判してきた。結婚を擁護する者は時にこれらの批判があることを認め、このようなことを言う。「結婚は万人のためのものではないし、万能でもないけれど、それでも必要だ」と。