ペドフィリアについてのマサキチトセの立場に関する誤解とデマについて(追記2022/8/2、8/5、2023/6/17、7/20)

お知らせ:このサイトの更新は終了しました

サーバーが不安定だったり、ちょっとした設定ミスで表示されなくなったり、これまでこの WordPress サイトにはずっと悩まされてきたのですが、このたび theLetter というニュースレターサービスをメインに発信していくことにしました。

https://masakichitose.theletter.jp

詳細はリンク先の「このニュースレターについて」をご覧ください。

2022年11月20日

目次

  • 本文
    • 誤解:「ペドフィリアはLGBTQ+のQに含まれる」とマサキチトセは主張している
    • 誤解:マサキチトセは、ペドフィリアという欲望のあり方を子どもの安全や権利、尊厳よりも優先している
    • デマ:マサキチトセはペドファイルである
  • 2022.8.2 追記
    • この記事を「言い訳」と評価する声に対して
  • 2022.8.5 追記
    • 2017年の発言との整合性について
    • 「風向きが悪くなってから張る予防線を反復横跳びする」という部分について
    • 「LGBT関連の論者の中でも私はかなり突出して小児性愛擁護派」という発言について
    • ペドフィリアもペドファイルも他者化/悪魔化をしないという立場について
    • 追記のまとめ
    • 追記の追記
  • 2023.6.17 追記
    • ペドフィリアを他者化/悪魔化すべきでないという言論の責任について
  • 2023.7.20 追記
    • ペドファイルは差別されているのか

本文

2014年に翻訳して訳者の言葉を付記した以下の記事が、最近になって誤解を含んだ形で出回っているのを発見しました。中には私自身をペドファイル(小児性愛者)だと決めつける人も出てきているので、補足をします。

誤解:「ペドフィリアは LGBTQ+ の Qに含まれる」とマサキチトセは主張している

していません。

実際このように誤解している人たちにツイッター上でリプライや引用RTした内容を以下に抜粋します。

「クィアという言葉の射程に含まれる」と言うのは人を指す名詞としてのクィアではなく、文中で言っているような「性的な欲望やアイデンティティについて社会にどのような言説が存在するのか(過去・現在・未来にわたって)について包括的に考えるような態度」としてのクィアが考える対象として「ペドフィリアについて社会にどのような言説が存在するのか(過去・現在・未来にわたって)」も含まれる、という意味で言っています。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1450930503540899844

「ペドフィリアはセクシャルマイノリティ」ってのも、そんなこと言った覚えはないし、なんなら過去にはクィア系のイベントでそういう発言した人に対して「でもペドフィリア、特に男性による女児を対象とした性的欲望は、日本においてこれまで迫害の対象だったとは言えないのでは(優遇されてきた側面もあるのでは)」と返答したこともある。ネット上でも何度も「性的欲望自体を断罪することはできないにしても、欲望は常に社会的文脈に左右されるから、例えば植民地支配における宗主国側の人間が植民地側の人間を性的に蹂躙するような描写がフィクションの世界で流行したとしたら、それはクィアという批評的態度の射程範囲に入ってくる」と言ってきた。ペドフィリアも同様に、「子ども」という概念の近代史や、「子どもの人権」という人権概念の発達とそれへの反発の歴史、資本主義における子どもの描写の流通と消費、その他色々な社会的文脈を捉えれば、批評の対象になる。それを「クィア(という批評的態度)の射程範囲だ」と書いたことはあるけど、ペドフィリアをセクシュアルマイノリティだと言った覚えはない。むしろ過去には、そう主張した人にツイッター上で反論を書いたこともある。そこで書いたのは、日本のコンテンツ産業がこれまで女児描写をやりたい放題やってきたこと、特に女児への性的な視線を男性異性愛者の欲望の亜種として受け入れ、それを満たすことに日本社会全体がこれまで寛容なばかりか積極的ですらあった、という内容だった。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1452808863304937473

一応言っておくと、元記事を書いた2014年の段階で日本ではまだ人を指す名詞としてのクィアは一般に広まっておらず、ほとんどの人が知らない専門用語だった。私が話してるのが人を指す名詞としてのクィアではなく批評的態度としてのクィアであることは(文中で示してるとはいえ)専門外の人には伝わりやすさが不十分だったかもしれないな、と今振り返って思う。ただしそれは(私が批評的態度としてのクィアについて話してることは一応文中でも示してるわけだし)クィアが名詞として流通し始めた現在から遡ってその視点で私の文章を読み替えて構わないということではないよ。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453258262682472480

「クィアにペドが含まれるという記事を界隈では有名なマサキチトセ氏も翻訳してます」というツイートに対して:

訳者として私が書いたのは、批評的態度としてのクィアの分析対象に小児性愛も含まれるという話。訳文の中ではクィアのクの字も出ていない(性的指向とは書いてあるけど)。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453409090541998083

これらの説明を受けても「小難しいロジック」「詭弁」とおっしゃる人に対して:

分かりやすく言うと、ペドフィリアやそれに関する社会的言説などがクィア批評の「分析対象になる」ということです。それは植民地研究が大日本帝国を分析しても大日本帝国を肯定するとは限らないのと同様、ペドフィリアを擁護することを意味しません。分析の結果「この作品や言説は子どもの権利侵害を助長している」として、ペドフィリックな作品や言説を批判することも含まれています。 一方これは余談ですが、私が名詞としてクィアを使う時(例えば「クィアの権利と尊厳」とか言う時)に、そこにペドファイルを含めて考えてはおりません。LGBTQ+の「Q」にも含めて考えてはおりません。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453943308615438341

誤解:マサキチトセは、ペドフィリアという欲望のあり方を子どもの安全や権利、尊厳よりも優先している

していません。

ツイッター上で公開された漫画(映画館職員がプリキュアの上映時に「小さい女の子に囲まれたいので、そういう席をくれ」と言われ、その時の恐怖感、そして上長に相談した時に「差別だ」と言われた時の衝撃を描いたもの)を見た人が、マサキチトセを「元漫画は差別」派——つまり描かれている上長と同じ意見を持っている——であるとツイッター上で書いており、それに対して以下のように引用RTで応答しました。

※映画館職員のツイートも、私の立場を誤解している人のツイートも、現在は削除されています。

「元漫画」って何だろうと思ってこの人のTLに行ったら https://twitter.com/anna_maria107/status/1451467214704431107?s=21… のことらしい。私は自分の店でも他の場所でのイベントなんかでも「いかに男性による女性へのセクハラや性被害を事前に防ぐか」をかなり重要な課題だと思って工夫してる。もし「小さい女の子に囲まれたい」なんて要望を聞いたら、私に権限のある場では確実に「参加拒否」しますよ。「女性に囲まれたい」でもアウト。一方、この人が言う通り性犯罪もそうだしセクハラもほぼ男性が加害者だから、女性が「イケメンが多い席がいいです」って言っても「たまたまそうなったらラッキーですね〜」って要望は無視しつつ中には入れるよ。ただ、「小さい男の子に囲まれたい」って言われたら女性でもアウトだけど。だから、「元漫画は差別」派とか言われても、勝手な思い込みで印象操作するのやめなさいよ名誉毀損ですよ、としか。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1452808863304937473

デマ:マサキチトセはペドファイルである

事実と異なります。

トランスジェンダーの権利や尊厳を貶めるためにトランスジェンダー当事者や支援者たちの過去の発言を(「こんなこと言ってる連中だぞ」というスタイルで)アーカイブしている差別的なウェブサイト『トランスジェンダリズムwiki』において、「マサキチトセ氏は、小児性愛者を公言してそのことの問題性を認識されていない」と書かれていたことについて、以下のように応答しました。

こんなこと言う必要ないと思うけど、私の3人いる元彼のうち2人は年上で1人は2歳下。彼氏じゃないけど関係を持った人たちは(自分が10代の頃を除けば)基本的に27,8〜40代前半で、例外として22,3歳の人が1人。ツイッターで14,5歳のゲイ男子から会いたいと言われたときは長文の説教DM送って断ってます。
行為ではなく性的ファンタジーにおいても、私は(今は体型的に成功率だだ下がりだけど)同い年か少し年上の人に甘えて欲情させるのが好きなので、あえてむりやり小児性愛の枠組みに入れるとしたら私自身はファンタジーにおいてはどっちかって言うと小児側だと思う(タチだけど(誰得情報…))。
ついでに言うと、自分が小児側として小児性愛者に欲情される性的ファンタジーは無くはない(普段そんなことは考えてないけど想像すればアリ、程度には)。レイプファンタジーを持つヘテロ女性がレイプを実際には望まないのと同様、私も実際に子どもの時に性虐待を受けたかったわけではないけどね。
なので、私は小児性愛者では無いです。当事者ではない立場から「小児性愛者という人口全体を悪魔のように社会が扱うことは結果的に小児性犯罪を温存してしまうから、児童を守ることには繋がらない」という議論を支持しているだけです。それへの反論は結構だけど、小児性愛者呼ばわりは訴訟ものよ。
ちなみに元彼に今回の件を話したら「私がショタかどうか、が問題ね。検証してもらいましょう」と意味不明のやる気を出していました。お前アラフォーやぞ。
小児性愛者(ファンタジーの有無が問題)呼ばわりされただけで小児性犯罪者(行動の有無が問題)呼ばわりされたわけじゃないから、冒頭の行動における身の潔白は示す必要なかったな。世の中「小児性愛者=小児性犯罪者」と信じて疑わない人が多いから、防衛的になってしまった。
しかし関係ないけど最初に言った14,5歳のゲイ男子の対応は大変だった。断っても断っても食い下がり続けるのよ。「絶対他の人に言ったりしませんから」とか。自分がその子の年齢の時の性的興味を振り返れば「やりたいんだろうなあ」って共感はできるけど、小児性愛傾向のある人があの調子でお願いされたら会ってしまうんじゃないかと恐ろしくなった。最後に長文DMで、危険な大人はたくさんいること、同年代と会って性的関わりだけでなくゲイ友達や恋人を作るような青春を送って欲しいことなどを伝えて、ブロックした。同じ学校や地域の繋がりの中で恋人や同じセクシュアリティの友人を作ることが困難なゲイの若者にとっては、これまでもずっと発展公園やネットの掲示板、今はゲイアプリやツイッターが頼みの綱なんだけど、そこにいる大多数は大人だから、初体験の相手が大人って子がかなり多い。最近はツイッターで若者同士で出会いやすくなってるけど、若者のふりした大人もいるらしい。
もちろん「初体験の相手は大人だったけど別に何の問題もなかったし嫌な思い出もない」というゲイ男性もたくさんいるんだけど、やっぱり中高生世代が車も金も体力もある成人男性と会うのはリスクが高い。若者には、何とかリスクの低い出会いを見つけてほしい。
(成人と中高生世代の具体的な差は、もちろん平均の判断能力や体格の差もあるけれど、例えば部屋代を払わないとドアから出れないラブホの構造は経済力の差を危険要因にしてしまうし、大都会以外では成人側が車を出して移動することが多いので車から出る自由を奪われてるのも危険要因になる。)
しかしその子には長文の説教DM送るし、「お金がなくて困ってます。父親が病気で、母親のパートの給料だけで生活してます。サポお願いします」(サポとはサポートの略で個人売春の意味)とゲイ掲示板に書き込んでた人にメールで行政の支援情報を事細かく伝えたこともあるし、たぶんウザい大人だわ。
後者の人にはさらに「どうしても行政の支援がよく分からない、窓口に行くのが不安、という場合は地元の共産党の議員に相談すると非常に親身になってくれますよ」とまで言った。絶対に返事来ないと思ってたんだけど「ありがとうございます。頂いた情報、詳しく調べてみます」と返事が来たよ。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1444320338079223812

また、この件については YouTube でもお話ししました。

さらに、今から10年前の2011年に私が書いたツイート(削除済み)のスクショが今でも出回っており、それを根拠に私をペドファイルだと決めつけている人がいました(画像参照)。

その人の発言:「このマサキチトセとかいうクィア主義者、どうしてここまで熱心に小児性愛なんぞを擁護するのかと前から気になっていたのだが、何のことはない、こいつ自身が小児性愛者だったというオチか。ようはテメェの性癖をテメェで正当化しているだけだな。ま、そんなこったろうと思ってたが(絵文字:両目の目線を上に上げている)」 貼られていたスクショの私の発言:「@lotus_lotus Facebook で他の人にも言われましたwっw> Gael でも私は Diego がイケるわ〜〜特にヒゲがないときはもっとイケるわ〜〜〜あたしの中のペドフィリアが疼くわ〜〜〜ww

これに対し、以下のように応答しました。

この10年前の知り合いとふざけたノリで書いたツイートが、私がペドファイルである根拠として出されている。Diego というのはディエゴ・ルナという私より6歳年上の俳優で、2011年当時31〜32歳。ここで話してた映画の公開は2001年なので21〜22歳の時の作品(その時私は15〜16歳)。
とんだ根拠だこと。
甘いマスクで、ヒゲを生やしてることが多いので、ヒゲがない状態の時はとても幼く見えて可愛い、ということを「私の中のペドフィリアが疼く」と表現しただけ。今ならそんな不用意で不謹慎な発言はしないけど、2011年当時私のツイッターは友人とだけ繋がってるようなアカウントだった。
ねむみという人はスルーでいいんだけど、百合魔王なんとかという人のことは、皆さん通報してもらえたら助かります。シンプルに名誉毀損です。
しかもこのツイートは、確か以前に誰かに問題だと指摘されたのを受け、確かに不謹慎だと思い削除しています。それがこうしてまた出てきたということは、誰かがスクショを撮っていて、保存しているのでしょうね。気味が悪い。
これさあ、ほんと酷いと思うの。 私をペドファイルということにしたい勢が放つデマが最近増えてきてて、一応冷静に対処してるつもりだけど、精神的ダメージが蓄積してるのが自分でも分かる。

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453741358632476678

以上、誤解とデマについての補足でした。

また何か出てきたら、ここに追記していくかもしれません。

2022.8.2 追記

↑このスレッドの内容を以下に転載します。(適宜改行を入れるなど、読みやすいように改変はしています。)

岸さんが書いてくれている通り私は、マジで、人物を指す名詞としてのクィアに人物としてのペドファイルを含めるつもりは昔からゼロなので、この引用内引用にある「言い訳」という評価は希望的観測でしかないわけです。

「射程内」と書いた当時は人物を指す名詞としてのクィアという言葉はまだ広まっておらず、私自身もアカデミアに身を置いていたので、批評のジャンル(あるいは批評する際の態度)としてのクィアを念頭に置いて話していた。欲望のあり方を指す名詞としてのペドフィリアは、当然そういうクィア的な批評の対象に入るに決まってるわけです。ポストコロニアル批評が大日本帝国を批評対象とすることがあるのが当然なのと全く同じことです。

翻って、私は人物を指す名詞としてのクィアに人物としてのペドファイルを含めない立場ですが、その理由は「日本においてペドファイルは、社会構造や文化意識によって迫害された歴史を持たないから」です。

(女性による性愛的欲望はそもそも女性が主体であるというだけで迫害されてきた歴史を持ちますので、ここでは男性主体の欲望に限って言いますが)男性による女児や若年女子に対する性愛的欲望は、日本においては当然視され、擁護され、それどころか喚起、増幅、奨励されてきた歴史すらあります。

欲望は社会構造や文化意識によって形成・変容されます("欲望の灌漑水路")。「そういう欲望もアリなんだ」と人に思わせるメッセージに溢れた社会においては当該欲望を持つ人は増えやすいですし、一方で「そういう欲望はダメなんだ」と強く禁止するメッセージに溢れた社会においても当該欲望を持つ人は増えやすかったりします(もちろんそれだけでなく、もっと複雑なのですが)。

その灌漑水路を調整して人々の欲望を喚起、増幅、奨励することを原動力にしている日本のこの資本主義社会において、いわゆるロリコン表象は本当に近年まで(あるいは今でもある程度は)黙認されてきました。

だから、私はどうしても人物を指す名詞としてのクィアに人物としてのペドファイルを含めることに抵抗があるのです。クィアは政治的なアイデンティティで、社会構造や文化意識による抑圧や迫害に抵抗する態度を意味に含みます。だから、社会に奨励されてきた歴史のあるセクシュアリティをそこに含めるのは、間違っていると信じているのです。

ちなみに、こうしてペドフィリアについて社会構造や文化意識の観点から考え分析すること自体が、「欲望のあり方としてのペドフィリアを批評としてのクィアの対象にすること」です。そして、私はまさにそのように対象にしたことで、その結果、「人物を指すペドファイルを人物を指す名詞としてのクィアには含めない」という結論を出しています。

この違いが理解できない人がたくさんいるようですが、もうこれ以上説明する言葉を私は思いつかないので、ここで今書いたことを読んでも理解できない人のことは諦めます。以上。

これ、昔から私の発言を追ってくれてる人たちには蛇足でしかない。
2016年にあるオタク文化の論者が「オタクのロリコン趣味も性的少数者だ」的な主張をした時にも私は強く批判したし、その時も「日本の性に関する産業のやりたい放題さ、特にヘテロ男性(多くの性嗜好は男性異性愛者の欲望の亜種とされてます)の欲望をとことん満たすことへの社会全体の努力は甚大です」と書いて、成人男性から女児や若年女子に向けての性愛的欲望がいかに社会に奨励されているかを指摘してる。その1年前にもトークイベントで同じような話をした記憶がある。

ずっと同じ話をしてるんだよ。

マサキチトセのツイート

2022.8.5 追記

以下のように、この(今読者が見ている)記事と2017年の発言の間の整合性に疑問を向けられていることを知りましたので、説明します。

https://twitter.com/sikakuno/status/1555172363846971392(2023.6.17 追記:凍結されたアカウントのため現在は見れなくなっています。)

■「風向きが悪くなってから張る予防線を反復横跳びする」という部分について説明します

上げられているスクショを開くと見える投稿日時からも分かるとおり、この私の発言は2017年10月13日になされたものです。そして先日(2022年8月3日)の追記で言った通り、私は2015年のクィア系のイベント、そして2016年のネットでの論争において、「ペドファイルも性的少数者だ」などという主張に対して既に異論を唱えています。

また、2017年の段階で既に、フェミニズムやLGBTQ関連の運動の業界において、ペドファイルに対しての風向きは相当悪かったです。私のこの2017年の発言は、この時点で既にかなり勇気の必要とする発言でした。

なので、「風向きが悪くなってから」という指摘は単純に事実誤認です。

■「LGBT関連の論者の中でも私はかなり突出して小児性愛擁護派」という部分について説明します

ここで私が意味しているのは——これもうんと昔から言い続けてるので、私を長年追ってくれている読者には蛇足ですが——上で書いた通り、当事者ではない立場から「小児性愛者という人口全体を悪魔のように社会が扱うことは結果的に小児性犯罪を温存してしまうから、児童を守ることには繋がらない」という議論を支持している、という意味です。(参考:ミーガン法のまとめ

なぜこのような立場を「突出して[…]擁護派」と表現したのか疑問に思う人もいるかもしれませんが、先にも書いた通り、この発言をした2017年の時点では既にフェミニズムやLGBTQ関連の運動の業界においてペドフィリアに対する他者化や悪魔化は浸透していて、その状況下において、(欲望のあり方としての)ペドフィリアについても(人物を指す名詞としての)ペドファイルについても他者化や悪魔化をしない立場であった私は、比較的「擁護的」と描写されうる立場にいたからです。

■ペドフィリアもペドファイルも他者化/悪魔化をしないという立場について補足します

(1) 欲望のあり方としてのペドフィリアを他者化しないという立場について

私は人々の欲望を個人に自然発生するものとは思っていません。欲望は——欲望に限らず人間の心理的現象のほとんどは——たとえその基になる欲(リビドー)が身体的に備わっていて個々人にある程度の傾向のバラつきがあるとしても——社会的影響を受けて最終的に形成されるものだと思っています。

例えば、何かを食べたいという欲は誰にでも備わっているものです。そこには個々人で体質的に多少は生来のバラつきがあるかもしれません。ですが、実際に今「ピザが食べたい」と思っている私は、生まれてこの方さまざまなものを食べてきた経験や、ここ数日実際に摂取してきた栄養素のバランス、ピザというものに付随する文化的意味(みんなでシェアして食べる楽しさなど)、そしてピザを私が思い浮かべることを可能にしている時代制約や地域制約(ピザというものが私の住んでいる地域で現在普及していることなど)といった社会的/環境的な要因があって初めて「ピザが食べたい」と思っている訳です。

(ちなみにここで食事を例として出したのは欲望の社会的/環境的形成プロセスの説明として分かりやすいと思ったからであって、性的行為の相手を「食べる」と表現するような巷の例えを支持しているからではありません。)

世の中には欲望(例えば同性愛的欲望)を生理学的あるいは遺伝学的に解明しようとする動きもありますが、いまだにそういった研究で決定的なものは出ておらず、むしろ、そういった研究者でも大抵の人は「社会的/環境的な影響との兼ね合いで発生するだろう」と結論づけています。(私はどちらかと言うと社会的/環境的な影響の方が重要だと思っていますが。)

つまり私は、異性愛や同性愛と同様に、ペドフィリアもまた、社会的/環境的に形成される部分が非常に大きいと思っているということです。

また一方で、実際には「ペドフィリアには分類されないけれど、児童や若年の人に性的関心が無いわけではない」という人がとんでもなく多い、ということも指摘しておきます。

私がこれまでの人生で関わってきた人たちの中には、ポリティカルコレクトネスを心がけているわけではない人たちも当然たくさんいます。今現在もそうです。身の回りにいるのは、社会問題に強い関心を持たない人たちばかりです。下品な下ネタも耳に入るし、私自身もそれに参加することもあります。その中には、一般的に「良くない」とされる自らの欲望を開陳する人もいます。そして、これまで耳にしてきた人の欲望の話を総合的に考えると、少なくとも15〜16歳以上であれば性的関心の対象になる、という人が実際には男女問わずとても多くいる、という印象を持っています。

私の身の回りだけでなく、芸能界を見ればそれは一目瞭然でしょう。18歳未満でデビューする俳優やアイドルを性的に消費しているのがペドフィリアに分類される欲望を持つ人たちだけだとしたら、彼ら彼女らは芸能界で成功することができません。実際にはそれよりうんと多くの人々が18歳未満の男女を性的に消費しているからこそ、ああいったビジネスが成功しているのです。これは AKB やジャニーズだけの話ではありませんし、日本に限定される話でもありません。少し例えが古いですが、ブリトニー・スピアーズやバック・ストリート・ボーイズのニックを思い出せば分かることです。

つまり、ペドフィリアは社会的/環境的に形成される部分が非常に大きい上に、ペドフィリアに分類される欲望を持たないまでも若い人々に(も)性的関心を持つ成人は想定されているよりうんと多く存在する、ということです。であれば、ペドフィリアというものを「特殊な人々が持っている特殊な性癖」と解釈すること(=他者化すること)は、現実から目を背けることになります。実際にはこの社会に生きる誰もがペドフィリアという欲望と無関係ではないのですから、児童や若い人びとを守るためにすべきなのは他者化ではなく、自分たちも加担しているこの社会のあり方を変えていくことです。

(2) 人物を指す名詞としてのペドファイルを悪魔化しないという立場について

私は、小児性犯罪を明確に悪だと思っています。また、小児性犯罪という言葉で描写されることの少ない現象——例えば18歳未満(特に中高生の女子、男子、その他の性別の人)と成人の間の性的行為は表に出てこないだけで実際とても広まっている現象です——についても、成人と中高生の間には大きな権力の差があり、私としても、そういった性的行為を禁止している各自治体の条例を支持しています。

だいぶ上の方でも書いた通り、成人と中高生世代の間には平均的に大きな権力の差があります。判断能力や体格の差がよく挙げられますけれど、他にも例えば、部屋代を払わないとドアから出れないラブホの構造は経済力の差を危険要因にしてしまいますし、大都会以外では成人側が車を出して移動することが多いので、車から出る自由を奪われているのも大きな危険要因でしょう。

ですので、18歳未満と性的関わりを持つことを「悪」だと見なすのは、最も重要な前提です。

その上で、こちらもまた当たり前のこととして、欲望と行動は必ずしも一致しないという事実も、児童や若い人びとを守るためには絶対に理解しないといけない前提です。

「欲望と行動は必ずしも一致しない」という主張には飽き飽きしているという人も多いかと思います。こうした主張は多くの場合、女児を性的に描写する表象を好きなだけ消費させろと要求するような人々によってなされるからです。ロリコン漫画雑誌『COMIC LO』が「YES ロリコン NO タッチ」という言葉を打ち出したことを知っている人も多いかと思います。

これに関する私の意見は、「欲望と行動は必ずしも一致しないという主張自体は正しいが、児童を性的に描写する表象を好き勝手に世に出したり消費したりすることを社会全体として是としてはいけない」というものです。法律や条例で規制することには基本的に反対なのですが(規制するためにはそういった表象を見る権利を無制限に警察や行政など権力側にだけ与えることになるし、人が何を見るべきかを権力側がどこまで決めてよいのかという議論もある)、公権力の介入しないやり方——ゾーニングだったり、自主規制だったり、市民同士の批判だったり、出版社へのボイコット行動だったり——を通して、社会全体として児童を性的に描写する表象の流通に対抗することには賛成の立場です。

これを逆の言い方で言うと、児童を性的に描写する表象を好き勝手に世に出したり消費したりしてよいとは思わないが、欲望と行動は必ずしも一致しないという主張自体は正しいと思う、ということです。

これは別に、アセクシュアリティ(実際に自分が他人と性的関わりを持つことを望まない)やフィクトセクシュアリティ(フィクションの性的描写にのみ性的欲望が向く)の話ではないです。そうではなく、よりもっと一般的な話として、性的なことに限らず、私たちには、「こうしたいな〜」と思っている事柄でも実際にそのチャンスが巡ってきた時に「そんな気になれないな〜」と思うことがあります。逆に、普段は全然「やりたいな〜」って思ってなかったことでも、目の前にチャンスが現れた時には行動してしまう、という経験もあるはずです。小説が読みたいなと思って本屋で買ってきたのに、部屋の隅に積みっぱなしにしちゃってる、とか。乗り気じゃないのにスキーに誘われたから「自分は滑らないけどね」と言って参加したのに、結局現地に着いたらやってみたくなって滑ってみた、とか。

そして、そういうことは小児性犯罪もまた例外ではないということは、客観的な事実として判明していることです。実際に児童や若い人々に性犯罪を働いた者の多くは、普段は成人に性愛的関心が向いている人たち、つまりペドファイルとは分類されない人たちなのです。彼ら彼女らは、目の前にふいにチャンスが現れてしまって、加害行為に至るのです。これは、同性間の性暴力の加害者に、実際には同性愛者よりも異性愛者の方が多い、というのと似ています。

加害者の多くは父親、おじ、兄、教師、部活のコーチ、地域の児童向けサークルの大人など、児童や若い人たちとの接点が多い人たちです。そして——繰り返しますが——この人たちの多くは普段は成人に性的関心を向けており、ペドファイルとは分類されない人たちです。考えれば当たり前の話です。先ほどAKBやジャニーズを例に出しましたが、ペドフィリアに分類される欲望を持たないまでも、若い人々に(も)性的関心を持つ成人は想定されているよりうんと多く存在するのですから。チャンスがあれば——そして加害責任から逃れられそうな状況が想定できるなら——行動に移してしまうという潜在的な加害者は、どこかに潜んでいるペドファイルという悪魔というより、私たちの父であり、おじであり、兄であり、教師であり、コーチであり、サークルの大人たちであり、もっと言えば、私たち社会の構成員全員です。

以上が、人物を指す名詞としてのペドファイルを悪魔化しない立場を私が採用する根拠です。

■追記のまとめ

以上の背景から、私は、(欲望のあり方としての)ペドフィリアについても(人物を指す名詞としての)ペドファイルについても他者化や悪魔化をしない立場を採用しています。それを「小児性愛擁護派」と単純に書いたことは反省すべきかもしれませんが、その当時の状況や文脈においてはそう表現するのも間違いではなかった(今ならもっとわかりやすく表現するけど)と思っているので、撤回する意思はありません。

また、今回「言い訳」とか「風向きが悪くなってから張る予防線を反復横跳びする」と言われたことについても、読者には、時系列を追ってもらえれば、私の考えや主張がある程度一貫していることが理解してもらえると思っています。

以上

■追記の追記(↑この追記を書いてから10分後くらい)

ちなみに、また「言い訳」とか言われたくないので一応言っておきますが、ここで書いていることは全て何年も前から私が考えたり発言してきた内容です。新たに思いついたことや、最近知ったこと、あるいは追記を書くために調べて知ったことなどは、1つもありません。記憶の限り、少なくとも6〜7年はずっと同じ考えです。(それはそれで進歩がねえな、って感じだけど。)

2023.6.17 追記

この部分までを読んだ(はずの)方が、それでも疑問に思う点をツイートしていました。ツイッター上ではブロックしていますが、以下に応答します。

学問としての「クィア的批評」が「ペドフィリア/小児性愛」を扱うのはわかった。 しかし「LGBTQ+」の「Q」が「クィア」という解釈もあり得る以上、ジェンダーについて特に関心のない一般の人たちに対しても「クィア」とはなにか、そしてもし「ペドフィリアとチャイルドマレスターは違う」というなら、

どのように違うのか、小児と成人間で性的同意が可能なのかついても、「クィア」を扱うアカデミアの人たちは分かりやすく説明する責任があるのでは? そして自分たちの言論がアカデミアのなかだけでなくて現実社会に影響を及ぼしたときに、どういった人たちに支持され、そして実際に子どもたちが

被害にあった場合に責任がとれるのかということについても、(「実際に行動に移した人が悪い」と逃げるのではなくて)よくよく向き合って考えてほしい。 ペドフィリアについてのマサキチトセの立場に関する誤解とデマについて(追記2022/8/2、8/5) https://ja.gimmeaqueereye.org/entry/27272 を読んだ感想です。

(中略)

実際にペドフィリアを“他者化/悪魔化”しない場合、心理的な抵抗感/ハードルが下がり、小児性愛者の絶対数が増えるのは当然のことなのでは? 現に瀬戸マサキさん自身もこのブログで >異性愛や同性愛と同様に、ペドフィリアもまた、社会的/環境的に形成される部分が非常に大きい といっているわけだし。

当然、子どもも社会の構成員であり、保護者たちは常々不審者情報に気を張り巡らせて生活しているし、(特に小児期の)性被害者もいる中で、歯切れ悪くもペドフィリアを否定しきらない言説というのは、そういった人たちの心理的安全性を損なうのではないか? 社会に与える影響をどう説明するのだろう。

@000Gwen さんのスレッド

まず、「射程内」という言葉で私が意味したことを理解してもらえてよかったです。

■「クィア」という言葉が何を示すのか説明する責任について

これまで様々な場所で説明してきていますが、シノドスに掲載された『生活保護とクィア』という記事の冒頭部分がいちばんシンプルにまとまっているものかなと思います。

さらに申し上げますと、たとえ「クィア」という(人物を指す)名詞にペドファイルらを含めて考えている人がいたところで——この記事で書いてきた通り私はそれに反対の立場ではありますが——そこに大きな問題があるようには思えない、とも、実は思っています。というのも、「クィア」にせよ「LGBTQ+」にせよ、それに該当するからといって他者の権利を侵害したり尊厳を毀損したりする権利など無いからです。

例えば、ゲイ男性がクィアに該当するからといって、それによって合意なき性行為に及ぶ権利が獲得できるわけではありません。そんなこと、あってはならないことです。それと同様、もしペドファイルをクィアに含めるという主張がなされたとしても、だからといって合意なき性行為に及ぶ権利が獲得できるわけではありません。

たとえば、成人と18歳未満の間には性的合意を認めないという立場を私は採用していますので(この記事の上の方でも「18歳未満と性的関わりを持つことを『悪』だと見なすのは、最も重要な前提です」と書いています)、たとえ誰が「クィア」だの「LGBTQ+」だの「セクシュアル・マイノリティ」だのに該当したとしても、あるいは全く該当しなくても(シスジェンダーの異性愛者だったりしても)、そういったことがらとは一切関係なく、そもそも、その成人が18歳未満と性的関わりを持つことは許されてはならないという立場です。

ですので、そもそも、「ペドファイルがクィアに含まれるか、LGBTQ+に含まれるか、性的マイノリティに含まれるか」などという議論になぜこれだけ多くの人が関心を寄せているのか、理解に苦しんでいます。

この疑問については、@000Gwen さんのスレッドを引用している @OZlzOpMaDTl0XQo さんのスレッドを見ることで、少しだけヒントを得られました。そこには、@baphomet_2525 さんのツイートが引用されていました。

「子どもの性的自己決定権」無しには「ペドフィリアはセクシュアル・マイノリティ」にはならず、「子どもの性的自己決定権」無しには「思春期ブロッカーの投与」は「パターナリズム」になる^^ 「子どもの性的自己決定権」を欲しがっているのが「水着の中学生に群がるおっさん」^^

@baphomet_2525 さんのツイート

文意を読み取るのに時間がかかりました。なぜなら、「『子どもの性的自己決定権』無しには『ペドフィリアはセクシュアル・マイノリティ』にはならず」という部分が、なぜそうなるのか理解できなかったからです。文の前半と後半がなぜ繋がるのか、と考えると、おそらくですが、このツイート投稿者および賛同者たちは、どこか「セクシュアル・マイノリティであれば、その性的行動は許されるべきだ」という信念を持っているのかもしれません。

ですが、セクシュアル・マイノリティだろうがマジョリティだろうが、合意なき性的行為はアウトです。

ちなみに子どもの性的自己決定権については、私は

  • (a) 子どもの意思決定を尊重する自己責任論(例:子ども自身が望むと言えば何をやってもいいし、保護や支援もしない)
  • (b) 子どもの意思決定を尊重する慎重論(例:子ども自身が何を望むのかに配慮した上で、必要な知識や支援、保護や、場合によっては最小限の禁止などを通して子どもの不利益をできるだけ発生させないようにする)
  • (c) 子どもの意思決定を尊重しないパターナリズム(例:子どもが何を望もうが関係なく、その子どもにとって最も有益だと大人が思う選択肢を選ばせようとする)
  • (d) 子どもの意思決定を尊重しない行動支配論(例:子どもが何を望もうが関係なく、その子どもの行動をコントロールしようとする)

の4つに立場が分かれると思っていて、私自身は「子どもの意思決定を尊重する慎重論」を採用しています。

これは実際に様々な児童福祉の施策において望ましいとされている立場です。例えば18歳未満と成人の間の性的関係が明るみになった場合でも、現行の法律や条例はそれを十把一絡げに違法行為とはみなしません。年齢差は何歳なのか、恋愛関係にあったのかどうか、互いの家族などとの交流があったのかどうかなど、色々な観点から考えて、どの程度まで18歳未満の当事者の自己決定権を認めうるか、検証するのです。ですので、ごく少数のケースではありますが「結婚を前提に互いの家族に紹介しあっている」などの場合は、警察は動きません(余談ですが、そう考えると、同程度に真剣な恋愛関係を結んでいても異性同士の場合より同性同士の場合の方が警察が動く可能性が高いですね)。

また、ここで同様に取り沙汰されている思春期ブロッカーも、まさにこの「(b) 子どもの意思決定を尊重する慎重論」の立場から奨励されているものです。トランスジェンダーの子どもたちには、可能であれば早く自分のアイデンティティである性別のホルモンを投与したいと思っている者が多くいます。もし社会が「(a) 子どもの意思決定を尊重する自己責任論」を採用したとしたら、ホルモン治療をどんどんさせてもらえることでしょう。しかし実際には、まだ判断能力に乏しい年齢の子どもたちにそんな決定をさせてよいのだろうかという懸念があります。思春期ブロッカーは、まだ現時点で長期にわたる調査に乏しいのは事実ですが、医学的に可逆性があると認められています。思春期ブロッカーは第二次性徴を止める働きを持っていますが、ブロッカーの投与を止めることで第二次性徴は再開する、ということです。ホルモン投与する前に猶予期間を設ける目的で利用されます。

ですので、前述の「『子どもの性的自己決定権』無しには『ペドフィリアはセクシュアル・マイノリティ』にはならず」という部分のみならず、「『子どもの性的自己決定権』無しには『思春期ブロッカーの投与』は『パターナリズム』になる」という部分も、様々な専門家が長年「どのようにして子どもの権利や尊厳、命や QOL を守りながら彼ら彼女らの性的自己決定権をも尊重できるか」と試行錯誤してきた経緯をすっ飛ばした雑な立論であることがわかります。

■ペドフィリアとチャイルドマレスターはどのように違うのかを説明する責任について

まず、「ペドフィリア」は小児性愛というセクシュアリティの名前で、チャイルドモレスターは児童性虐待者という人物を指す名前です。文法上の分類を揃えるために、前者は「ペドフィリア」ではなく「ペドファイル」(小児性愛者)に置き換えて応答します。

これらの言葉は、そもそも語義が違います。混同している人こそ、どのように同じなのかを説明する責任があるのではないでしょうか。いずれにしても、私自身はこれまで様々な場所でこれらの違いを説明してきました。

ある人物がペドファイルであるか否かは、明確な定義があります。それは「13歳以下の子どもに対してのみ、あるいは13歳以下の子どもに対してばかり性的に惹かれる、16歳以上の人物」というものです。(これは厳密な定義で、実際多くの人々は「18歳未満の人々に対してばかり性的に惹かれる18歳以上の人物」のことをざっくりとペドファイルを呼んでいると思います。)

ここで重要なのは、誰かがペドファイルに分類されるとき、その人が実際に子どもに対して性的な行為を行ったことがあるかどうかは、一切関係ないということです。一方でチャイルドモレスターもまた、その人がチャイルドモレスターだと言われるとき、その人がペドファイルであるか否かは一切関係ないのです。

そして実際、調査によれば、この記事内ですでに詳細に説明した通り、チャイルドモレスターの大多数は「ペドファイル」に分類されないような人々であることがわかっています。実際のチャイルドモレスターたちは、普段は成人女性と性的関わりや恋愛関係などを結んでいる異性愛男性たちが大多数を占めているのです。もっと細かく言えば、彼らの多くは(普段は成人女性を性の対象としている)被害者の父親、兄、おじ、教師などです。

@000Gwen さんは「ペドフィリアとチャイルドマレスターはどのように違うのか」と疑問を持っているようですが、もしそのような問いかけをするのであれば「父親とチャイルドモレスターはどのように違うのか」「教師とチャイルドモレスターはどのように違うのか」などの疑問を持つ方が、よほど子どもの安全の実現に近づけることでしょう。

(なお、ペドファイルの悪魔化についての私の考えがセックスワークの例と近似しているという @000Gwen さんの指摘は、以上の理由から、的外れであると思っています。セックスワークの犯罪化で性取引が地下に潜ってしまうというのは、犯罪に手を染めたくない人が買い手から減って犯罪リスクをおかしてもいいという買い手ばかりが残るという点、また、犯罪であることで何か問題が起きた時でも警察の助けを求めづらくなるという点などが「地下に潜る」とされる要因として挙げられています。つまりセックスワークの担い手も買い手も、同じ人たち(の一部)がより地下に潜る、という話です。一方でペドファイルの悪魔化は、実際に児童性虐待を行なっている非ペドファイルの父親・兄・おじ・教師たちなどが、社会がペドファイルにばかり注目している間に、継続して児童性虐待を行い続けてしまうという問題です。私には近似しているとは思えません。また、余談ですが、 @000Gwen さんが引用している @DangaiMisaki さんが書いているセックスワークについてのツイートスレッドは、合法化と非犯罪化を意図的にか無意識にか混同しているようです。私を含めセックスワークを労働者保護の観点から論じている人々は、合法化にも大きな問題があると認識した上で、非犯罪化を支持しています。)

■小児と成人間で性的同意が可能なのかを説明する責任について

この記事の中でもさんざん説明しましたし、ほかにも様々な場所で説明している通り、私は18歳未満と成人のあいだで合意のある性的行為は認められないという立場を採用しています。最も端的に書いてある部分をこの記事の上の方から引用します。

私は、小児性犯罪を明確に悪だと思っています。また、小児性犯罪という言葉で描写されることの少ない現象——例えば18歳未満(特に中高生の女子、男子、その他の性別の人)と成人の間の性的行為は表に出てこないだけで実際とても広まっている現象です——についても、成人と中高生の間には大きな権力の差があり、私としても、そういった性的行為を禁止している各自治体の条例を支持しています。

だいぶ上の方でも書いた通り、成人と中高生世代の間には平均的に大きな権力の差があります。判断能力や体格の差がよく挙げられますけれど、他にも例えば、部屋代を払わないとドアから出れないラブホの構造は経済力の差を危険要因にしてしまいますし、大都会以外では成人側が車を出して移動することが多いので、車から出る自由を奪われているのも大きな危険要因でしょう。

ですので、18歳未満と性的関わりを持つことを「悪」だと見なすのは、最も重要な前提です。

■ペドファイルを他者化&悪魔化しないとペドファイルが増えるのでは?という疑問について

学問的に誠実な回答をするならば、「わかりません」となります。この記事の上の方から引用します。

欲望は社会構造や文化意識によって形成・変容されます("欲望の灌漑水路")。「そういう欲望もアリなんだ」と人に思わせるメッセージに溢れた社会においては当該欲望を持つ人は増えやすいですし、一方で「そういう欲望はダメなんだ」と強く禁止するメッセージに溢れた社会においても当該欲望を持つ人は増えやすかったりします(もちろんそれだけでなく、もっと複雑なのですが)。

■ペドファイルを他者化&悪魔化しない言説は、子どもや保護者や児童性虐待サバイバーの心理的安全性を損なうのでは?という疑問について

「心理的安全性」という言葉の意味するものが何なのか理解できていないのですが、もしそれが「安心感」なのであれば(そうでなかったらごめんなさいね)、私は安心感よりも実際の安全が重要だと思っています。実際の安全はペドファイルの他者化や悪魔化によって遠ざかります。どこかにいる悪魔ではなく、自分の夫に、兄に、弟に、父に、息子に——自分が男性であれば自分自身にも——注意を向けることが、子どもが性虐待を受けずに生きられる社会の形成に最も有効な方法です。

2023.7.20 追記

エンダーさん @52qt がこの記事に対してツイッターで反応していたので、こちらからも応答します。正直、応答する価値があるとは思えないような悪意のある解釈ばかりで(あるいはちゃんと読む気がそもそもないのかもしれません)、ここに追記するかどうか迷ったのですが、一応書いておきます。

以下にスレッドを引用します。

https://ja.gimmeaqueereye.org/entry/27272

「ペドフィリアについてのマサキチトセの立場に関する誤解とデマについて(追記2022/8/2、8/5、2023/6/17)」

これを読んだうえでデマでも誤解でもないと思うんだよ

「人に対してクィアを使うときと、分析対象としてクィアを使うときがある」
いや、そんなんわからんわ
---
自分の中で納得してても他人にはわからん。
しかも「自分の中のペドフィリアが疼くわ〜」
昔言ったことだから、友達相手だから、は通らないよ
そんなん他人からみてわかる?

自分の中の理屈がエスパー的に他人に伝わるっておもってるのか?
欲望の灌漑ってなに?
他者化って、どんな意味で使ってる?
---
こんなふうに言葉をいろいろ「いや、違う意味で〜」って毎回ずらすことが釈明になると思ってるのは、甘え。
普通に流通した意味で使えない言葉を使っておいてデマもなにもないわ。
小児愛者と犯罪者は違う、ペドフィリアに対する差別がある?

なにそれ。ペドフィリアに対する差別ってなに?
---
差別って言葉について、今本を読んでるけど、社会的に害をなす種類の欲望をもつ人に「こっち来るな、ふざけんな、ポルノとかありえない」と思うのが差別?
こっちは子どもを守ろうとしてるんだわ。
象牙の塔の理屈だ。
常識を踏まえない理屈を振り回して、一般人を啓蒙しようとして、その言い草はない
---
ペドフィリアに「欲望を持つこと自体は悪ではない」とメッセージ出すことが本当に治療に役立つと思ってるなら、誰にでもわかるように書けよ。
釈明が必要なことを書くなよ。
ツイートで、ペドフィリアが疼くと書いたのはデマじゃないじゃん。
なにデマとか言ってるの?
そこが信用ならないんだなー
---
てか、分析対象のしてのクィアにはペドフィリアは入ります、ひとについてはペドフィリアは入りません、だからいいんです〜って、どういうこと?
分析対象なら、クィアにペドフィリアは入るんだよね?
じゃあデマじゃないじゃん。
クィアに含めて分析するのはなぜなの?
いや、わからんわ〜
---
そこを自明のように描いてるけど、ペドはペド、クィアはクィアにしておかなかったのはなぜ?
ペドは犯罪論とか治療で分析すりゃいいよ。苦しみによりそう必要ある?
あと、逆にクィアには何が入るの?レズビアンゲイバイの他に何が入るの?
ネクロフィリアとか?ズーフィリアとか?
---
他人が読むことを想定しないブログってなんなん?
全くの他人が書いてない前提を共有しないことが「デマ」?「誤解」?
全くの他人が悪いの?
それこそ、悪魔化?他者化?とやらじゃないか。
自分勝手で子どもじみてる。
---
批判をデマだ誤解だと言えば済むなんて、素晴らしい特権階級ですこと。
---
ペドフィリアを嫌う、拒否するのって「差別」なの?
便利ですね〜「差別」
ゴミ箱概念じゃん。

じゃあ人殺し欲望を持つ人を拒否るのは「差別」?
苦しみに寄り添うべきですか。
同じことだよ。
ペドフィリアと殺人欲望は同列なんだよ。普通はね。
---
(中略)
---
ペドフィリアに関する冗談を言うことくらいあるでしょ的なノリだけど、そんなこと冗談でも普通言わん。
おぞましい。

今までの人生一度もそういうことを言わない人のほうがほとんどだよ。
「言っても許される界隈」ってイメージが強化されるだけの弁明です。

https://twitter.com/52qt/status/1680000559259217921

エンダーさんは終始敵対的な表現や煽るような表現を使っているので、私もあまり気を遣わずに応答していきたいと思います。

■これを読んだうえでデマでも誤解でもないと思うんだよ
■「人に対してクィアを使うときと、分析対象としてクィアを使うときがある」 いや、そんなんわからんわ
■自分の中で納得してても他人にはわからん。

→「批評行為としてのクィア批評の対象になる」という話があなたにとって難しいのは分かりました。実際あなたは私の文章を「読んだうえで」、それでもまだ(太字は追記:2023年12月4日)「分析対象としてクィアを使うとき」などと言っています。この記事を本当に読めば分かるはずですが、クィア批評の対象=クィア、ではありません。クィア批評とは、批評する側がクィア理論に依拠した批評をすることを意味します。対象は、批評する側が選ぶすべての物事です。
 当時は人を指して「クィア」と呼ぶことが珍しかったのもあり、私の元の文章が2023年現在のあなたに分かりづらいものであることは認めます。また当時の状況を知らない人たちの多くがあなたと同様「批評行為としてのクィア批評の対象になる」という話をすっと理解できないというのも、不思議ではありません。ただ、だからといって誤解ではないことにはなりません。

■しかも「自分の中のペドフィリアが疼くわ〜」
 昔言ったことだから、友達相手だから、は通らないよ
 そんなん他人からみてわかる?

→画像には「2011/6/19」の投稿であること、そして lotus_locus さんという人へのリプライであることが明確に示されています。「他人からみてわかる」と思います。不用意な発言だったとは(この記事の上の方でも書いた通り)認めます。

■自分の中の理屈がエスパー的に他人に伝わるっておもってるのか?
■欲望の灌漑ってなに?
■他者化って、どんな意味で使ってる?
■こんなふうに言葉をいろいろ「いや、違う意味で〜」って毎回ずらすことが釈明になると思ってるのは、甘え。
■普通に流通した意味で使えない言葉を使っておいてデマもなにもないわ。

→分からないことを質問するというのは良い心がけだと思いますが、聞き方があまりに失礼なのであなたに説明する気が起きません。他人が自分に分かるように書いてくれるはずで、自分が分からないように書かれていたら書き手のせいだ、と思っているようですが、そちらの方がよっぽど「甘え」ですよ。
 また、「毎回ずらす」と書かれていますけれど、私は最初から一貫して同じ意味で言葉を使っています。「普通に流通した意味」と仰いますけれど、当時はクィアという言葉は人を指す意味であまり使われていなかったと何度も何度も繰り返し書いていますので、それが読めないなら、あるいは理解しようともしないなら、あなたはご自身がちゃんと私の文章を読もうとなんてしていないことを自分で示してしまっています。

■小児愛者と犯罪者は違う、ペドフィリアに対する差別がある?
■なにそれ。ペドフィリアに対する差別ってなに?
■差別って言葉について、今本を読んでるけど、社会的に害をなす種類の欲望をもつ人に「こっち来るな、ふざけんな、ポルノとかありえない」と思うのが差別?

→私が言っていないことを捏造するのをやめてください。私は「ペドフィリアに対する差別」なんていうものがあるなんて言ったことありません。むしろまさにこの記事の中で私は「日本においてペドファイルは、社会構造や文化意識によって迫害された歴史を持たない」と明言していますよね? 本当に「読んだうえで」反応していますか? どこもかしこも読めてなさすぎてびっくりなんですが。

■こっちは子どもを守ろうとしてるんだわ。
■象牙の塔の理屈だ。

→こちらも同様です。上でも書いた通り、実際の安全はペドファイルの他者化や悪魔化によって遠ざかります。どこかにいる悪魔ではなく、自分の夫に、兄に、弟に、父に、息子に——自分が男性であれば自分自身にも——注意を向けることが、子どもが性虐待を受けずに生きられる社会の形成に最も有効な方法です。あなたが言う「こっち来るな、ふざけんな、ポルノとかありえない」は、実際に子どもの安全を遠ざけています。どちらが「象牙の塔の理屈」ですか?

■常識を踏まえない理屈を振り回して、一般人を啓蒙しようとして、その言い草はない

→「常識を踏まえ」る理屈とは、あなたのようにペドファイルを他者化・悪魔化することで子どもを守ってるつもりになって実際は子どもの安全を遠ざけているような人たちが満足するような、あなた方にとっての「常識」におもねった理屈、という意味だろうと思うのですが、私はある程度研究に携わってきた人間として、そんな学問的に不誠実はことはできません。

■ペドフィリアに「欲望を持つこと自体は悪ではない」とメッセージ出すことが本当に治療に役立つと思ってるなら、誰にでもわかるように書けよ。
■釈明が必要なことを書くなよ。

→「治療に役立つ」とかいう話を、私はしていません。そもそも、ペドファイルたちにどんなメリットがあるかを、私は私の主張の主軸にしていません。私は一貫して子どもの安全のために語っています。ペドファイルの他者化・悪魔化に反対しているのは、それが子どもの安全を遠ざけると思っているからです。

■ツイートで、ペドフィリアが疼くと書いたのはデマじゃないじゃん。
■なにデマとか言ってるの?
■そこが信用ならないんだなー

→その点について、私がどこかでデマと言っていますか? 私は自分の当該発言の存在も、それが不適切であったということも認めていますよね? 本当に「読んだうえで」書いてますか? 私がデマだと言っているのは、当該発言を根拠に「マサキチトセはペドファイルだ」と決めつける行為についてです。

■てか、分析対象のしてのクィアにはペドフィリアは入ります、ひとについてはペドフィリアは入りません、だからいいんです〜って、どういうこと?
■分析対象なら、クィアにペドフィリアは入るんだよね?
■じゃあデマじゃないじゃん。
■クィアに含めて分析するのはなぜなの?
■いや、わからんわ〜

→あなたはきっと、分からないのが当たり前だ、とか、もしかしたら、マサキはおかしなことを言っている、と信じているようですが、あなたが私の文章を理解できていないだけです。「分析対象としてのクィア」なんていう言葉を、私は使っていません。私が言っているのは、「クィアの分析対象に小児性愛も含まれる」「ペドフィリアやそれに関する社会的言説などがクィア批評の『分析対象になる』」という話です。
 繰り返しになりますが、クィア批評の対象=クィア、ではありません。クィア批評とは、批評する側がクィア理論に依拠した批評をすることを意味します。対象は、批評する側が選ぶすべての物事です。
 付け加えると、ここで私が言っている「すべての物事」とは、ペドフィリアだけではなくあらゆる性的欲望を含むもので、さらに間接的なものも含めれば住居問題だったり、災害だったり、音楽作品なども含まれます。例えばボーイズラブ漫画も当然クィア批評の分析対象になり得ますが、ある作品に小児性愛が描かれていたら(過去には多く、また現在でも少なからぬ作品に小児性愛的な描写はあります)、その作品の批評は途中でやめるべきだと言うのでしょうか。あるいは小児性愛的な部分だけ無視して分析すべきなのでしょうか。
 私の言う「クィア批評の分析対象にする」という表現がどうにも理解されている気がしないのですが、例えばある特定の時代の作品に小児性愛的に肯定的な描写が多かったとして、それを「小児性愛を肯定的に描く作品がこの時代に多く見られるのは何故だろう」と調べたりする、ということでしかありません。あるいはとある作品がジェンダーに配慮し、人種や民族、障害などあらゆる観点から見ても素晴らしい出来だとしても、そこで小児性愛が肯定的に描かれていたら「小児性愛を肯定的に描くことで、作者は性的自己決定権や子どもの人権を貶めている」と批判することも、「ペドフィリアをクィア批評の分析対象にする」ということです。
 これはすごく単純なことで、例えばフェミニズム批評が労働環境を分析対象としたとして、その労働環境を肯定しているわけではない、というのと全く同じです(ましてやそこでセクハラをしている上司をフェミニストと呼ぶなんてこともありえませんよね)。あるいはポストコロニアル批評が米軍基地を分析対象としたところで、米軍基地を肯定しているわけではない、というのと全く同じです。
 あらゆる物事が対象であるのに、私が元の文章で何故あえてペドフィリアを「クィア(批評)の射程内」と言ったかと言うと、クィア理論においてもセクシュアリティ研究においても、ペドフィリアについて語ることを忌避する傾向が多少なりともあるからです。
 ちなみに、以上のことは最初の最初から、2014年の元の文章から、きちんと書いています。以下に引用します。

「LGBT」のことに限らず、「クィア」のこと、「LGBTQ」のこと、「セクシュアル・マイノリティ」のことなどについて語られるときも、小児性愛について忘却されていたり、むしろ意識的に排除されているケースが多いと感じています。しかし性的欲望に関する社会的序列は、「成人した、障害のない、極端な体型ではない、人種ごとに理想化された美の基準に近い、ある程度清潔な、性別がシンプルにわかりやすいタイプの、異性」に対する欲望を中心としています。

私は「クィア」という言葉を必ずしも「LGBT」などの「性的指向と性自認の組み合わせ」に限定した言葉だとは思っていません。「クィア」は、性的な欲望やアイデンティティについて社会にどのような言説が存在するのか(過去・現在・未来にわたって)について包括的に考えるような態度だと思いますし、そこから意図的に排除すべき性的現象・欲望・行為・意志・言説などはないと思っています。当然、小児性愛もまた、クィアという言葉の射程内に入っているはずです。

https://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1531

 ご覧の通り、最初から「クィア」を批評する側の「態度」だと言っています。ただ、「クィア」が人を指す名詞として普及しかけている現在では誤解もやむを得ないのかなとこれまで他の人たちにはできるだけ優しく対応してきました。しかしあなたは完全に私の文章を読めていないうえに、ずいぶん偉そうです。誤解をするのは勝手ですけれど、こんなに読めていないのにそんな態度だなんて、恥を知ってほしいと思います。

■そこを自明のように描いてるけど、ペドはペド、クィアはクィアにしておかなかったのはなぜ?
■ペドは犯罪論とか治療で分析すりゃいいよ。苦しみによりそう必要ある?
■あと、逆にクィアには何が入るの?レズビアンゲイバイの他に何が入るの?
■ネクロフィリアとか?ズーフィリアとか?

→もう十分に説明をしたので分かると思いますが、批評する側の態度としてのクィアの射程内には当然レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダーだけでなく、仰る通り、ネクロフィリアやズーフィリアも入ります。ネクロフィリアという性のあり方がさまざまな映画でどのように描かれてきたかとか、「同性婚を認めたら動物との結婚も認めなきゃいけなくなる」と騒ぎ立てる右翼の政治運動とか、そういうもの、当然クィア批評の対象に入るに決まってるじゃないですか。
 人を指す名詞としてのクィアに何を含めるかは、それぞれ論者ごとに意見があるとは思いますが、私は「社会構造や文化意識によって迫害された歴史を持つかどうか」という基準で考えています。ネクロフィリアやズーフィリアについては私は詳しくありませんが、少なくとも上で何度も書いた通り、ペドフィリア(特に成人男性による女児に対する性的欲望)については迫害どころかむしろ資本主義下において奨励、喚起されてきた歴史を持つと思っているので、人を指す名詞としてのクィアに含めて考えてはいません。
 (何度も何度も同じ話を繰り返しているので飽きさせてしまっているかもしれませんが、何度も言わないと理解できないようなので仕方なく繰り返しています。)
 あとこれ、上で @000Gwen さんに書いた時も思ったのですが、「苦しみによりそう」ってどこから来たんですか? クィア批評の分析対象にすることは「苦しみによりそう」ことではありませんよ。分析対象にした上で、思いっきり批判することだってあるんですから。また、人を指す名詞としてのクィアに何らかのセクシュアリティ(例えば同性愛)を含めることは、「苦しみによりそう」ことではありませんよ。人を指す名詞としてのクィアは基本的には当事者コミュニティの内部から「私たちクィア」という形で政治的連帯やコミュニティの結束などを意識して語られる言葉です(つまり私が「ペドファイルを人を指す名詞としてのクィアに含めて考えてはいない」というのは、政治的連帯やコミュニティの結束の相手としてペドファイルたちを見ていない、ということです)。誰かが偉そうに「あなたもクィアに入れてあげるね」と言って、そこに入ることが許された人たちが「苦しみによりそ」ってもらえるようなものではないです。@000Gwen さんもエンダーさんも、クィアという言葉を「かわいそうな人たち」と思っているのではないですか? ふざけるのもいい加減にしてください。

■他人が読むことを想定しないブログってなんなん?
■全くの他人が書いてない前提を共有しないことが「デマ」?「誤解」?
■全くの他人が悪いの?
■それこそ、悪魔化?他者化?とやらじゃないか。
■自分勝手で子どもじみてる。

→普通「そういう意味じゃないんですよ」って言われたら、「そうなんだ」ってなりません? もし私が他人に理解されなかったからといって「誤解だ!」「デマだ!」って怒りまくっていたのならあなたの言うことも分かりますが、実際私はこの記事の冒頭で引用した通り「専門外の人には伝わりやすさが不十分だったかもしれないな、と今振り返って思う」とツイートしていますよね。理解できなかった人を「悪い」だなんて言ってないです。自分が理解できないことを棚に上げて私を責めているあなたと、どちらが「子どもじみて」ますか?

■批判をデマだ誤解だと言えば済むなんて、素晴らしい特権階級ですこと。

→あなたにこうして捏造までされて(=ペドファイルは差別されているなんて私の言ってないことを言ってることにされて)、自分が一貫して同じことを言ってるのに「毎回ずらす」とか書かれて、「誰にでもわかるように書けよ」などと暴言を吐かれて、どこが「デマだ誤解だと言えば済」んだのかさっぱり分かりません。色んな人にあーだこーだ言われて、その結果、この記事これが4回目の追記ですよ?

■ペドフィリアを嫌う、拒否するのって「差別」なの?
■便利ですね〜「差別」
■ゴミ箱概念じゃん。
■じゃあ人殺し欲望を持つ人を拒否るのは「差別」?
■苦しみに寄り添うべきですか。
■同じことだよ。
■ペドフィリアと殺人欲望は同列なんだよ。普通はね。

→以上私が書いてきた説明で、この部分については回答不要と判断します。
 ただ1点だけ。私は性暴力サバイバーのひとりとして、性暴力を「魂の殺人」と表現することには反対の立場です。些末なことですが一応。

■ペドフィリアに関する冗談を言うことくらいあるでしょ的なノリだけど、そんなこと冗談でも普通言わん。
■おぞましい。
■今までの人生一度もそういうことを言わない人のほうがほとんどだよ。
■「言っても許される界隈」ってイメージが強化されるだけの弁明です。

→あなたの周りにはそんな人が一切いないのかもしれませんが、一般社会ではそのような冗談はたくさん聞きます。一応言っておきますが、ゲイコミュニティやクィア研究者コミュニティなどではむしろそういう冗談は忌避される傾向にあります。私が言っている「一般社会」というのは、近所の知り合いや、職場の同僚、地元の元同級生など、ランダムに出会った多岐にわたる人々のことです。たまたま私の生きる日常に下品な人が多いのかもしれませんし、それは否定しても意味がないのでしませんが、あなたの言う「言っても許される界隈」というのは明確にクィア運動やクィア研究に携わる人たちを指した悪口だと思うので、一応言っておきました。あなたはお上品な方々とお上品な誤読でもしながら仲良く生きてください。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。