ペドフィリアについてのマサキチトセの立場に関する誤解とデマについて(追記2022/8/2、8/5)

目次

  • 本文
    • 誤解:「ペドフィリアはLGBTQ+のQに含まれる」とマサキチトセは主張している
    • 誤解:マサキチトセは、ペドフィリアという欲望のあり方を子どもの安全や権利、尊厳よりも優先している
    • デマ:マサキチトセはペドファイルである
  • 2022.8.2 追記
    • この記事を「言い訳」と評価する声に対して
  • 2022.8.5 追記
    • 2017年の発言との整合性について
    • 「風向きが悪くなってから張る予防線を反復横跳びする」という部分について
    • 「LGBT関連の論者の中でも私はかなり突出して小児性愛擁護派」という発言について
    • ペドフィリアもペドファイルも他者化/悪魔化をしないという立場について
    • 追記のまとめ
    • 追記の追記

    本文

    2014年に翻訳して訳者の言葉を付記した以下の記事が、最近になって誤解を含んだ形で出回っているのを発見しました。中には私自身をペドファイル(小児性愛者)だと決めつける人も出てきているので、補足をします。

    誤解:「ペドフィリアは LGBTQ+ の Qに含まれる」とマサキチトセは主張している

    していません。

    実際このように誤解している人たちにツイッター上でリプライや引用RTした内容を以下に抜粋します。

    「クィアという言葉の射程に含まれる」と言うのは人を指す名詞としてのクィアではなく、文中で言っているような「性的な欲望やアイデンティティについて社会にどのような言説が存在するのか(過去・現在・未来にわたって)について包括的に考えるような態度」としてのクィアが考える対象として「ペドフィリアについて社会にどのような言説が存在するのか(過去・現在・未来にわたって)」も含まれる、という意味で言っています。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1450930503540899844

    「ペドフィリアはセクシャルマイノリティ」ってのも、そんなこと言った覚えはないし、なんなら過去にはクィア系のイベントでそういう発言した人に対して「でもペドフィリア、特に男性による女児を対象とした性的欲望は、日本においてこれまで迫害の対象だったとは言えないのでは(優遇されてきた側面もあるのでは)」と返答したこともある。ネット上でも何度も「性的欲望自体を断罪することはできないにしても、欲望は常に社会的文脈に左右されるから、例えば植民地支配における宗主国側の人間が植民地側の人間を性的に蹂躙するような描写がフィクションの世界で流行したとしたら、それはクィアという批評的態度の射程範囲に入ってくる」と言ってきた。ペドフィリアも同様に、「子ども」という概念の近代史や、「子どもの人権」という人権概念の発達とそれへの反発の歴史、資本主義における子どもの描写の流通と消費、その他色々な社会的文脈を捉えれば、批評の対象になる。それを「クィア(という批評的態度)の射程範囲だ」と書いたことはあるけど、ペドフィリアをセクシュアルマイノリティだと言った覚えはない。むしろ過去には、そう主張した人にツイッター上で反論を書いたこともある。そこで書いたのは、日本のコンテンツ産業がこれまで女児描写をやりたい放題やってきたこと、特に女児への性的な視線を男性異性愛者の欲望の亜種として受け入れ、それを満たすことに日本社会全体がこれまで寛容なばかりか積極的ですらあった、という内容だった。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1452808863304937473

    一応言っておくと、元記事を書いた2014年の段階で日本ではまだ人を指す名詞としてのクィアは一般に広まっておらず、ほとんどの人が知らない専門用語だった。私が話してるのが人を指す名詞としてのクィアではなく批評的態度としてのクィアであることは(文中で示してるとはいえ)専門外の人には伝わりやすさが不十分だったかもしれないな、と今振り返って思う。ただしそれは(私が批評的態度としてのクィアについて話してることは一応文中でも示してるわけだし)クィアが名詞として流通し始めた現在から遡ってその視点で私の文章を読み替えて構わないということではないよ。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453258262682472480

    「クィアにペドが含まれるという記事を界隈では有名なマサキチトセ氏も翻訳してます」というツイートに対して:

    訳者として私が書いたのは、批評的態度としてのクィアの分析対象に小児性愛も含まれるという話。訳文の中ではクィアのクの字も出ていない(性的指向とは書いてあるけど)。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453409090541998083

    これらの説明を受けても「小難しいロジック」「詭弁」とおっしゃる人に対して:

    分かりやすく言うと、ペドフィリアやそれに関する社会的言説などがクィア批評の「分析対象になる」ということです。それは植民地研究が大日本帝国を分析しても大日本帝国を肯定するとは限らないのと同様、ペドフィリアを擁護することを意味しません。分析の結果「この作品や言説は子どもの権利侵害を助長している」として、ペドフィリックな作品や言説を批判することも含まれています。 一方これは余談ですが、私が名詞としてクィアを使う時(例えば「クィアの権利と尊厳」とか言う時)に、そこにペドファイルを含めて考えてはおりません。LGBTQ+の「Q」にも含めて考えてはおりません。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453943308615438341

    誤解:マサキチトセは、ペドフィリアという欲望のあり方を子どもの安全や権利、尊厳よりも優先している

    していません。

    ツイッター上で公開された漫画(映画館職員がプリキュアの上映時に「小さい女の子に囲まれたいので、そういう席をくれ」と言われ、その時の恐怖感、そして上長に相談した時に「差別だ」と言われた時の衝撃を描いたもの)を見た人が、マサキチトセを「元漫画は差別」派——つまり描かれている上長と同じ意見を持っている——であるとツイッター上で書いており、それに対して以下のように引用RTで応答しました。

    ※映画館職員のツイートも、私の立場を誤解している人のツイートも、現在は削除されています。

    「元漫画」って何だろうと思ってこの人のTLに行ったら https://twitter.com/anna_maria107/status/1451467214704431107?s=21… のことらしい。私は自分の店でも他の場所でのイベントなんかでも「いかに男性による女性へのセクハラや性被害を事前に防ぐか」をかなり重要な課題だと思って工夫してる。もし「小さい女の子に囲まれたい」なんて要望を聞いたら、私に権限のある場では確実に「参加拒否」しますよ。「女性に囲まれたい」でもアウト。一方、この人が言う通り性犯罪もそうだしセクハラもほぼ男性が加害者だから、女性が「イケメンが多い席がいいです」って言っても「たまたまそうなったらラッキーですね〜」って要望は無視しつつ中には入れるよ。ただ、「小さい男の子に囲まれたい」って言われたら女性でもアウトだけど。だから、「元漫画は差別」派とか言われても、勝手な思い込みで印象操作するのやめなさいよ名誉毀損ですよ、としか。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1452808863304937473

    デマ:マサキチトセはペドファイルである

    事実と異なります。

    トランスジェンダーの権利や尊厳を貶めるためにトランスジェンダー当事者や支援者たちの過去の発言を(「こんなこと言ってる連中だぞ」というスタイルで)アーカイブしている差別的なウェブサイト『トランスジェンダリズムwiki』において、「マサキチトセ氏は、小児性愛者を公言してそのことの問題性を認識されていない」と書かれていたことについて、以下のように応答しました。

    こんなこと言う必要ないと思うけど、私の3人いる元彼のうち2人は年上で1人は2歳下。彼氏じゃないけど関係を持った人たちは(自分が10代の頃を除けば)基本的に27,8〜40代前半で、例外として22,3歳の人が1人。ツイッターで14,5歳のゲイ男子から会いたいと言われたときは長文の説教DM送って断ってます。
    行為ではなく性的ファンタジーにおいても、私は(今は体型的に成功率だだ下がりだけど)同い年か少し年上の人に甘えて欲情させるのが好きなので、あえてむりやり小児性愛の枠組みに入れるとしたら私自身はファンタジーにおいてはどっちかって言うと小児側だと思う(タチだけど(誰得情報…))。
    ついでに言うと、自分が小児側として小児性愛者に欲情される性的ファンタジーは無くはない(普段そんなことは考えてないけど想像すればアリ、程度には)。レイプファンタジーを持つヘテロ女性がレイプを実際には望まないのと同様、私も実際に子どもの時に性虐待を受けたかったわけではないけどね。
    なので、私は小児性愛者では無いです。当事者ではない立場から「小児性愛者という人口全体を悪魔のように社会が扱うことは結果的に小児性犯罪を温存してしまうから、児童を守ることには繋がらない」という議論を支持しているだけです。それへの反論は結構だけど、小児性愛者呼ばわりは訴訟ものよ。
    ちなみに元彼に今回の件を話したら「私がショタかどうか、が問題ね。検証してもらいましょう」と意味不明のやる気を出していました。お前アラフォーやぞ。
    小児性愛者(ファンタジーの有無が問題)呼ばわりされただけで小児性犯罪者(行動の有無が問題)呼ばわりされたわけじゃないから、冒頭の行動における身の潔白は示す必要なかったな。世の中「小児性愛者=小児性犯罪者」と信じて疑わない人が多いから、防衛的になってしまった。
    しかし関係ないけど最初に言った14,5歳のゲイ男子の対応は大変だった。断っても断っても食い下がり続けるのよ。「絶対他の人に言ったりしませんから」とか。自分がその子の年齢の時の性的興味を振り返れば「やりたいんだろうなあ」って共感はできるけど、小児性愛傾向のある人があの調子でお願いされたら会ってしまうんじゃないかと恐ろしくなった。最後に長文DMで、危険な大人はたくさんいること、同年代と会って性的関わりだけでなくゲイ友達や恋人を作るような青春を送って欲しいことなどを伝えて、ブロックした。同じ学校や地域の繋がりの中で恋人や同じセクシュアリティの友人を作ることが困難なゲイの若者にとっては、これまでもずっと発展公園やネットの掲示板、今はゲイアプリやツイッターが頼みの綱なんだけど、そこにいる大多数は大人だから、初体験の相手が大人って子がかなり多い。最近はツイッターで若者同士で出会いやすくなってるけど、若者のふりした大人もいるらしい。
    もちろん「初体験の相手は大人だったけど別に何の問題もなかったし嫌な思い出もない」というゲイ男性もたくさんいるんだけど、やっぱり中高生世代が車も金も体力もある成人男性と会うのはリスクが高い。若者には、何とかリスクの低い出会いを見つけてほしい。
    (成人と中高生世代の具体的な差は、もちろん平均の判断能力や体格の差もあるけれど、例えば部屋代を払わないとドアから出れないラブホの構造は経済力の差を危険要因にしてしまうし、大都会以外では成人側が車を出して移動することが多いので車から出る自由を奪われてるのも危険要因になる。)
    しかしその子には長文の説教DM送るし、「お金がなくて困ってます。父親が病気で、母親のパートの給料だけで生活してます。サポお願いします」(サポとはサポートの略で個人売春の意味)とゲイ掲示板に書き込んでた人にメールで行政の支援情報を事細かく伝えたこともあるし、たぶんウザい大人だわ。
    後者の人にはさらに「どうしても行政の支援がよく分からない、窓口に行くのが不安、という場合は地元の共産党の議員に相談すると非常に親身になってくれますよ」とまで言った。絶対に返事来ないと思ってたんだけど「ありがとうございます。頂いた情報、詳しく調べてみます」と返事が来たよ。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1444320338079223812

    また、この件については YouTube でもお話ししました。

    さらに、今から10年前の2011年に私が書いたツイート(削除済み)のスクショが今でも出回っており、それを根拠に私をペドファイルだと決めつけている人がいました(画像参照)。

    その人の発言:「このマサキチトセとかいうクィア主義者、どうしてここまで熱心に小児性愛なんぞを擁護するのかと前から気になっていたのだが、何のことはない、こいつ自身が小児性愛者だったというオチか。ようはテメェの性癖をテメェで正当化しているだけだな。ま、そんなこったろうと思ってたが(絵文字:両目の目線を上に上げている)」 貼られていたスクショの私の発言:「@lotus_lotus Facebook で他の人にも言われましたwっw> Gael でも私は Diego がイケるわ〜〜特にヒゲがないときはもっとイケるわ〜〜〜あたしの中のペドフィリアが疼くわ〜〜〜ww

    これに対し、以下のように応答しました。

    この10年前の知り合いとふざけたノリで書いたツイートが、私がペドファイルである根拠として出されている。Diego というのはディエゴ・ルナという私より6歳年上の俳優で、2011年当時31〜32歳。ここで話してた映画の公開は2001年なので21〜22歳の時の作品(その時私は15〜16歳)。
    とんだ根拠だこと。
    甘いマスクで、ヒゲを生やしてることが多いので、ヒゲがない状態の時はとても幼く見えて可愛い、ということを「私の中のペドフィリアが疼く」と表現しただけ。今ならそんな不用意で不謹慎な発言はしないけど、2011年当時私のツイッターは友人とだけ繋がってるようなアカウントだった。
    ねむみという人はスルーでいいんだけど、百合魔王なんとかという人のことは、皆さん通報してもらえたら助かります。シンプルに名誉毀損です。
    しかもこのツイートは、確か以前に誰かに問題だと指摘されたのを受け、確かに不謹慎だと思い削除しています。それがこうしてまた出てきたということは、誰かがスクショを撮っていて、保存しているのでしょうね。気味が悪い。
    これさあ、ほんと酷いと思うの。 私をペドファイルということにしたい勢が放つデマが最近増えてきてて、一応冷静に対処してるつもりだけど、精神的ダメージが蓄積してるのが自分でも分かる。

    https://twitter.com/MasakiChitose/status/1453741358632476678

    以上、誤解とデマについての補足でした。

    また何か出てきたら、ここに追記していくかもしれません。

    2022.8.2 追記

    ↑このスレッドの内容を以下に転載します。(適宜改行を入れるなど、読みやすいように改変はしています。)

    岸さんが書いてくれている通り私は、マジで、人物を指す名詞としてのクィアに人物としてのペドファイルを含めるつもりは昔からゼロなので、この引用内引用にある「言い訳」という評価は希望的観測でしかないわけです。

    「射程内」と書いた当時は人物を指す名詞としてのクィアという言葉はまだ広まっておらず、私自身もアカデミアに身を置いていたので、批評のジャンル(あるいは批評する際の態度)としてのクィアを念頭に置いて話していた。欲望のあり方を指す名詞としてのペドフィリアは、当然そういうクィア的な批評の対象に入るに決まってるわけです。ポストコロニアル批評が大日本帝国を批評対象とすることがあるのが当然なのと全く同じことです。

    翻って、私は人物を指す名詞としてのクィアに人物としてのペドファイルを含めない立場ですが、その理由は「日本においてペドファイルは、社会構造や文化意識によって迫害された歴史を持たないから」です。

    (女性による性愛的欲望はそもそも女性が主体であるというだけで迫害されてきた歴史を持ちますので、ここでは男性主体の欲望に限って言いますが)男性による女児や若年女子に対する性愛的欲望は、日本においては当然視され、擁護され、それどころか喚起、増幅、奨励されてきた歴史すらあります。

    欲望は社会構造や文化意識によって形成・変容されます("欲望の灌漑水路")。「そういう欲望もアリなんだ」と人に思わせるメッセージに溢れた社会においては当該欲望を持つ人は増えやすいですし、一方で「そういう欲望はダメなんだ」と強く禁止するメッセージに溢れた社会においても当該欲望を持つ人は増えやすかったりします(もちろんそれだけでなく、もっと複雑なのですが)。

    その灌漑水路を調整して人々の欲望を喚起、増幅、奨励することを原動力にしている日本のこの資本主義社会において、いわゆるロリコン表象は本当に近年まで(あるいは今でもある程度は)黙認されてきました。

    だから、私はどうしても人物を指す名詞としてのクィアに人物としてのペドファイルを含めることに抵抗があるのです。クィアは政治的なアイデンティティで、社会構造や文化意識による抑圧や迫害に抵抗する態度を意味に含みます。だから、社会に奨励されてきた歴史のあるセクシュアリティをそこに含めるのは、間違っていると信じているのです。

    ちなみに、こうしてペドフィリアについて社会構造や文化意識の観点から考え分析すること自体が、「欲望のあり方としてのペドフィリアを批評としてのクィアの対象にすること」です。そして、私はまさにそのように対象にしたことで、その結果、「人物を指すペドファイルを人物を指す名詞としてのクィアには含めない」という結論を出しています。

    この違いが理解できない人がたくさんいるようですが、もうこれ以上説明する言葉を私は思いつかないので、ここで今書いたことを読んでも理解できない人のことは諦めます。以上。

    これ、昔から私の発言を追ってくれてる人たちには蛇足でしかない。
    2016年にあるオタク文化の論者が「オタクのロリコン趣味も性的少数者だ」的な主張をした時にも私は強く批判したし、その時も「日本の性に関する産業のやりたい放題さ、特にヘテロ男性(多くの性嗜好は男性異性愛者の欲望の亜種とされてます)の欲望をとことん満たすことへの社会全体の努力は甚大です」と書いて、成人男性から女児や若年女子に向けての性愛的欲望がいかに社会に奨励されているかを指摘してる。その1年前にもトークイベントで同じような話をした記憶がある。

    ずっと同じ話をしてるんだよ。

    マサキチトセのツイート

    2022.8.5 追記

    以下のように、この(今読者が見ている)記事と2017年の発言の間の整合性に疑問を向けられていることを知りましたので、説明します。

    ■「風向きが悪くなってから張る予防線を反復横跳びする」という部分について説明します

    上げられているスクショを開くと見える投稿日時からも分かるとおり、この私の発言は2017年10月13日になされたものです。そして先日(2022年8月3日)の追記で言った通り、私は2015年のクィア系のイベント、そして2016年のネットでの論争において、「ペドファイルも性的少数者だ」などという主張に対して既に異論を唱えています。

    また、2017年の段階で既に、フェミニズムやLGBTQ関連の運動の業界において、ペドファイルに対しての風向きは相当悪かったです。私のこの2017年の発言は、この時点で既にかなり勇気の必要とする発言でした。

    なので、「風向きが悪くなってから」という指摘は単純に事実誤認です。

    ■「LGBT関連の論者の中でも私はかなり突出して小児性愛擁護派」という部分について説明します

    ここで私が意味しているのは——これもうんと昔から言い続けてるので、私を長年追ってくれている読者には蛇足ですが——上で書いた通り、当事者ではない立場から「小児性愛者という人口全体を悪魔のように社会が扱うことは結果的に小児性犯罪を温存してしまうから、児童を守ることには繋がらない」という議論を支持している、という意味です。(参考:ミーガン法のまとめ

    なぜこのような立場を「突出して[…]擁護派」と表現したのか疑問に思う人もいるかもしれませんが、先にも書いた通り、この発言をした2017年の時点では既にフェミニズムやLGBTQ関連の運動の業界においてペドフィリアに対する他者化や悪魔化は浸透していて、その状況下において、(欲望のあり方としての)ペドフィリアについても(人物を指す名詞としての)ペドファイルについても他者化や悪魔化をしない立場であった私は、比較的「擁護的」と描写されうる立場にいたからです。

    ■ペドフィリアもペドファイルも他者化/悪魔化をしないという立場について補足します

    (1) 欲望のあり方としてのペドフィリアを他者化しないという立場について

    私は人々の欲望を個人に自然発生するものとは思っていません。欲望は——欲望に限らず人間の心理的現象のほとんどは——たとえその基になる欲(リビドー)が身体的に備わっていて個々人にある程度の傾向のバラつきがあるとしても——社会的影響を受けて最終的に形成されるものだと思っています。

    例えば、何かを食べたいという欲は誰にでも備わっているものです。そこには個々人で体質的に多少は生来のバラつきがあるかもしれません。ですが、実際に今「ピザが食べたい」と思っている私は、生まれてこの方さまざまなものを食べてきた経験や、ここ数日実際に摂取してきた栄養素のバランス、ピザというものに付随する文化的意味(みんなでシェアして食べる楽しさなど)、そしてピザを私が思い浮かべることを可能にしている時代制約や地域制約(ピザというものが私の住んでいる地域で現在普及していることなど)といった社会的/環境的な要因があって初めて「ピザが食べたい」と思っている訳です。

    (ちなみにここで食事を例として出したのは欲望の社会的/環境的形成プロセスの説明として分かりやすいと思ったからであって、性的行為の相手を「食べる」と表現するような巷の例えを支持しているからではありません。)

    世の中には欲望(例えば同性愛的欲望)を生理学的あるいは遺伝学的に解明しようとする動きもありますが、いまだにそういった研究で決定的なものは出ておらず、むしろ、そういった研究者でも大抵の人は「社会的/環境的な影響との兼ね合いで発生するだろう」と結論づけています。(私はどちらかと言うと社会的/環境的な影響の方が重要だと思っていますが。)

    つまり私は、異性愛や同性愛と同様に、ペドフィリアもまた、社会的/環境的に形成される部分が非常に大きいと思っているということです。

    また一方で、実際には「ペドフィリアには分類されないけれど、児童や若年の人に性的関心が無いわけではない」という人がとんでもなく多い、ということも指摘しておきます。

    私がこれまでの人生で関わってきた人たちの中には、ポリティカルコレクトネスを心がけているわけではない人たちも当然たくさんいます。今現在もそうです。身の回りにいるのは、社会問題に強い関心を持たない人たちばかりです。下品な下ネタも耳に入るし、私自身もそれに参加することもあります。その中には、一般的に「良くない」とされる自らの欲望を開陳する人もいます。そして、これまで耳にしてきた人の欲望の話を総合的に考えると、少なくとも15〜16歳以上であれば性的関心の対象になる、という人が実際には男女問わずとても多くいる、という印象を持っています。

    私の身の回りだけでなく、芸能界を見ればそれは一目瞭然でしょう。18歳未満でデビューする俳優やアイドルを性的に消費しているのがペドフィリアに分類される欲望を持つ人たちだけだとしたら、彼ら彼女らは芸能界で成功することができません。実際にはそれよりうんと多くの人々が18歳未満の男女を性的に消費しているからこそ、ああいったビジネスが成功しているのです。これは AKB やジャニーズだけの話ではありませんし、日本に限定される話でもありません。少し例えが古いですが、ブリトニー・スピアーズやバック・ストリート・ボーイズのニックを思い出せば分かることです。

    つまり、ペドフィリアは社会的/環境的に形成される部分が非常に大きい上に、ペドフィリアに分類される欲望を持たないまでも若い人々に(も)性的関心を持つ成人は想定されているよりうんと多く存在する、ということです。であれば、ペドフィリアというものを「特殊な人々が持っている特殊な性癖」と解釈すること(=他者化すること)は、現実から目を背けることになります。実際にはこの社会に生きる誰もがペドフィリアという欲望と無関係ではないのですから、児童や若い人びとを守るためにすべきなのは他者化ではなく、自分たちも加担しているこの社会のあり方を変えていくことです。

    (2) 人物を指す名詞としてのペドファイルを悪魔化しないという立場について

    私は、小児性犯罪を明確に悪だと思っています。また、小児性犯罪という言葉で描写されることの少ない現象——例えば18歳未満(特に中高生の女子、男子、その他の性別の人)と成人の間の性的行為は表に出てこないだけで実際とても広まっている現象です——についても、成人と中高生の間には大きな権力の差があり、私としても、そういった性的行為を禁止している各自治体の条例を支持しています。

    だいぶ上の方でも書いた通り、成人と中高生世代の間には平均的に大きな権力の差があります。判断能力や体格の差がよく挙げられますけれど、他にも例えば、部屋代を払わないとドアから出れないラブホの構造は経済力の差を危険要因にしてしまいますし、大都会以外では成人側が車を出して移動することが多いので、車から出る自由を奪われているのも大きな危険要因でしょう。

    ですので、18歳未満と性的関わりを持つことを「悪」だと見なすのは、最も重要な前提です。

    その上で、こちらもまた当たり前のこととして、欲望と行動は必ずしも一致しないという事実も、児童や若い人びとを守るためには絶対に理解しないといけない前提です。

    「欲望と行動は必ずしも一致しない」という主張には飽き飽きしているという人も多いかと思います。こうした主張は多くの場合、女児を性的に描写する表象を好きなだけ消費させろと要求するような人々によってなされるからです。ロリコン漫画雑誌『COMIC LO』が「YES ロリコン NO タッチ」という言葉を打ち出したことを知っている人も多いかと思います。

    これに関する私の意見は、「欲望と行動は必ずしも一致しないという主張自体は正しいが、児童を性的に描写する表象を好き勝手に世に出したり消費したりすることを社会全体として是としてはいけない」というものです。法律や条例で規制することには基本的に反対なのですが(規制するためにはそういった表象を見る権利を無制限に警察や行政など権力側にだけ与えることになるし、人が何を見るべきかを権力側がどこまで決めてよいのかという議論もある)、公権力の介入しないやり方——ゾーニングだったり、自主規制だったり、市民同士の批判だったり、出版社へのボイコット行動だったり——を通して、社会全体として児童を性的に描写する表象の流通に対抗することには賛成の立場です。

    これを逆の言い方で言うと、児童を性的に描写する表象を好き勝手に世に出したり消費したりしてよいとは思わないが、欲望と行動は必ずしも一致しないという主張自体は正しいと思う、ということです。

    これは別に、アセクシュアリティ(実際に自分が他人と性的関わりを持つことを望まない)やフィクトセクシュアリティ(フィクションの性的描写にのみ性的欲望が向く)の話ではないです。そうではなく、よりもっと一般的な話として、性的なことに限らず、私たちには、「こうしたいな〜」と思っている事柄でも実際にそのチャンスが巡ってきた時に「そんな気になれないな〜」と思うことがあります。逆に、普段は全然「やりたいな〜」って思ってなかったことでも、目の前にチャンスが現れた時には行動してしまう、という経験もあるはずです。小説が読みたいなと思って本屋で買ってきたのに、部屋の隅に積みっぱなしにしちゃってる、とか。乗り気じゃないのにスキーに誘われたから「自分は滑らないけどね」と言って参加したのに、結局現地に着いたらやってみたくなって滑ってみた、とか。

    そして、そういうことは小児性犯罪もまた例外ではないということは、客観的な事実として判明していることです。実際に児童や若い人々に性犯罪を働いた者の多くは、普段は成人に性愛的関心が向いている人たち、つまりペドファイルとは分類されない人たちなのです。彼ら彼女らは、目の前にふいにチャンスが現れてしまって、加害行為に至るのです。これは、同性間の性暴力の加害者に、実際には同性愛者よりも異性愛者の方が多い、というのと似ています。

    加害者の多くは父親、おじ、兄、教師、部活のコーチ、地域の児童向けサークルの大人など、児童や若い人たちとの接点が多い人たちです。そして——繰り返しますが——この人たちの多くは普段は成人に性的関心を向けており、ペドファイルとは分類されない人たちです。考えれば当たり前の話です。先ほどAKBやジャニーズを例に出しましたが、ペドフィリアに分類される欲望を持たないまでも、若い人々に(も)性的関心を持つ成人は想定されているよりうんと多く存在するのですから。チャンスがあれば——そして加害責任から逃れられそうな状況が想定できるなら——行動に移してしまうという潜在的な加害者は、どこかに潜んでいるペドファイルという悪魔というより、私たちの父であり、おじであり、兄であり、教師であり、コーチであり、サークルの大人たちであり、もっと言えば、私たち社会の構成員全員です。

    以上が、人物を指す名詞としてのペドファイルを悪魔化しない立場を私が採用する根拠です。

    ■追記のまとめ

    以上の背景から、私は、(欲望のあり方としての)ペドフィリアについても(人物を指す名詞としての)ペドファイルについても他者化や悪魔化をしない立場を採用しています。それを「小児性愛擁護派」と単純に書いたことは反省すべきかもしれませんが、その当時の状況や文脈においてはそう表現するのも間違いではなかった(今ならもっとわかりやすく表現するけど)と思っているので、撤回する意思はありません。

    また、今回「言い訳」とか「風向きが悪くなってから張る予防線を反復横跳びする」と言われたことについても、読者には、時系列を追ってもらえれば、私の考えや主張がある程度一貫していることが理解してもらえると思っています。

    以上

    ■追記の追記(↑この追記を書いてから10分後くらい)

    ちなみに、また「言い訳」とか言われたくないので一応言っておきますが、ここで書いていることは全て何年も前から私が考えたり発言してきた内容です。新たに思いついたことや、最近知ったこと、あるいは追記を書くために調べて知ったことなどは、1つもありません。記憶の限り、少なくとも6〜7年はずっと同じ考えです。(それはそれで進歩がねえな、って感じだけど。)

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。