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「セックスワークは生き延びるための手段」と思いたかったのは自分ではないのか

セックスワークについてはこのブログでも他の場所でも(現代思想とかYouTubeとか)折に触れて言及しているので、私の発信したものをいくつも目や耳にしてくれている人であればセックスワークが私にとって重要なトピックであるということは知っていると思います。

現実にセックスワーカーへの偏見がはびこっている世の中で、セックスワーカーの尊厳や権利(労働者としてのそれ、女性やセクシュアルマイノリティとしてのそれも含め)を尊重する社会にしていくために少しでも役立つことがあればと思って発言してきましたが、その中には「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という物言いが多く含まれていました。

同性カップルとゲイ売春:「せっかくLGBTの認知度が上がってきてるんだから、印象悪くしないでよ」

2015年6月26日、米国最高裁判所で争われていた Obergefell v. Hodges の裁判において、「すべての州に、同性カップルへの婚姻ライセンスを発行すること、そして他の管轄区において有効に遂行された同性婚を認知することを要求する」判決が出された。これをきっかけに、私たちは多くの友人が Facebook や Twitter のプロフィール写真を薄い——あるいは薄っぺらい——レインボーに染めるのを見たし、米国のニュースサイトでは歓喜するレズビアン女性とゲイ男性の姿が写真に収められていた。

標準体重ですらない女の自己肯定感はどの人形が教えてくれるのか

決して平均的でないプロポーションで、「女性はこうあるべき」「魅力的な女性はこういうものだ」という社会通念に寄与してきたバービー人形に対抗して、 Nickolay Lamm さんというアーティストが実際のアメリカの十代女性の平均的なプロポーションを再現して作ったのが、ラミリー人形。私も「いいね」と思っていたし、今でも一定の効果はあると思うのだけれど、ラミリー人形が全く問題がないとは言えないような気がしてきたので、ここに書いておく。

夜に働く人を排除しない社会運動・アカデミアがいいよね

世の中の多くのシンポジウムだのワークショップだの読書会だのは、たいてい土曜の夕方とか、平日の夕方以降に開催されてる。開催する側としても「開催する曜日と時間帯はどうするか」を考えるにあたってできるだけ多くの人が参加できるようにしたいと思っているだろうと思うのだけれど、その「多くの人」の母数にそもそも入っていない人っているよねと思うの。

「永遠の愛を誓いません」と言える特権

Facebook と Twitter をダラダラと眺めていたら、ニューヨーク・タイムズ紙の『Gay Couples, Choosing to Say 'I Don't'』、つまり(誓いますかという問いかけに対し)「誓いません」と言うことを選択する同性カップルたち、というタイトルの記事を見つけた。婚姻制度に反対している私は当然のごとくまずタイトルに目を奪われたし、他の同じような考えの人たちも反婚の意見が主流派メディアでようやく紹介され始めたことを喜ばしく思いながら Facebook や Twitter でリンクをシェアしているようだった。すげえじゃんと思って記事を読んでみると、とてもがっかりすることになった。その理由とは、記事のエリート主義的な物言いだった(大変予想外)。

群馬県高崎市「群馬の森」に行き、日本に労務動員された朝鮮人を追悼する碑を見てきました

批判回避のためにありとあらゆるミソジニーを免罪しようとしている男が多い昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか(←本文とは関係ない時候の挨拶です)。

群馬県高崎市にある「群馬の森」という県立公園には、「記憶 反省 そして友好」と刻まれた追悼碑があります。これは、かつて日本がその植民地政策によって日本国内の鉱山や工場に労務動員し、事故や過労で亡くなった朝鮮の人々を追悼する目的で建立された碑です。

「LGBT」の反義語は「異性愛者」ではありません

少年ブレンダさんによる性の多様性のマトリクス。縦の軸が上に行くほど「規範に伝統的」、下に行くほど「規範に自由」となっており、横の軸が左に行くほど「性別が変わらない」、右に行くほど「性別が変わる」となっている。左上のゾーンがシスジェンダー、右下のゾーンがトランスジェンダー、右上が性同一性障害(性別二元論のトランスジェンダー)、左下のゾーンが性別違和(ジェンダーロールなんかイヤです)、そして中央がXのゾーン(FtX、MtXなどなど……)。全てのゾーンに渡って、ピンクの三角形やオレンジの丸、青いクローバーや藍色の四角形などが散らばっており、これらは同性愛、両性愛、異性愛などの性的指向を指している。

「LGBT」という言葉がずいぶん普及してきています。テレビでもラジオでも雑誌でもウェブメディアでも「LGBT」という言葉はそこら中に出てきます。しかし、正に「LGBT」の権利や尊厳について語るコメンテーターやライターが、「LGBT」の反義語として「異性愛者」という言葉を使いまくっていることに、とても強い違和感を感じます。
「LGBT」という言葉を使っているのに、「私たち異性愛者は…」とか「Aさんは異性愛者ですが、LGBTの友人が…」とかのコメントやナレーションが流れるテレビ番組なんか見ていると、本当に、どういうつもりなのかと思います。

『生物学的性→性自認→性的指向』という順番について

性別について、今となってはある程度の認知度を獲得しつつある「LGBT」を説明する際に、私たちは「生物学的性」「性自認」「性的指向」という概念をよく使います。

世の中一般的には、まずベースに生物学的性があって、それを根拠に生物学的性と同一とされる性自認が発達して、そしてその性自認の反対の性(異性)に性的関心を持つようになる、という論理構造が幅を利かせているわけです。この「生物学的性→性自認→性的指向」という順番、そして左のものが右のものの根拠になり、人はまっすぐにシスジェンダーかつ異性愛に導かれるはずだ、という考えは、私たちが人の性別を解釈するときに大きな偏りを生み出します。

「LGBT」フレンドリーなら何やってもいいのか?

昨年、大阪市淀川区が出した「LGBT支援宣言」がネットでも話題になった。

それ自体が悪いことではないとは思うものの、私は何となく不安を感じて、この区長の名前を検索してみた。そして見つけたのが、この論文(PDF)。これは、榊正文(さかき・まさふみ)淀川区長が区長に立候補する際の公募論文として提出したもので、大阪市のウェブサイトに掲載されているもの。

「査読(さどく)」というシステム:その慣習的なやり方と、オルタナティブなやり方

学問など、専門性を重視する業界では、論文を出版することが研究成果を発表する方法として頻繁に採用されています。研究者は同業者の論文を引用したり参照することで、互いとの議論を深めて行きます。また、どの媒体に掲載されたかということによって、読者の多くはその論文の信憑性を推測したりします。なので、水準が低いと思われている媒体に論文が掲載されても、その研究を真剣に取り合わないような人もいたりします。その水準を確保するために、各媒体の編集委員会は「査読(さどく)」というプロセスを行っています。