🎧ライター志望のマイノリティに知ってほしい8つのこと

 今日も一日お疲れ様です。ライターのマサキチトセです。
 マイノリティという立場から物を書く仕事、最近どんどん増えていますよね。私も2015年くらいからお金をもらって文章を書く仕事を時々しています。
 私の場合は、自分がバイセクシュアル気味であるとか、ノンバイナリー気味であるとか、そういう背景もあって、性的マイノリティに関する社会問題についての執筆や講演依頼を頂くことが多いです。
 皆さんの中には、在日コリアンであるとか、貧困女性であるとか、いろんな立場があると思います。そして、ある程度そういう立場から SNS ãªã‚“かで発信をしていると、原稿依頼が来ることなんかもあると思います。
 今回は、マイノリティとしての立場から物を書くということについて、私がここ数年ずっと考えていることをまとめてみようと思います。マイノリティとしての立場で物を書いている、あるいはその予定の人や、ライター志望の人たちが、少しでも役に立ててくれたらと願っています。
 決して「マイノリティ・ライターとして売れるコツ」なんかを話すつもりはないので、今そういうのを必要としている人は、別のコンテンツを探した方がいいかもしれません。そして、いつか道に迷った時に、戻ってきてくれればと思います。

内容はこんな感じです

  • 映像版は YouTube ã§
  • 音声版は Podcast ã§
  • 1. ç”Ÿè¨ˆã‚’立てようと思うと…
  • 2. çµŒé¨“談の切り売りは詰む
  • 3. ç‚Žä¸Šãƒªã‚¹ã‚¯ã¯é«˜ã„ぞ
  • 4. æ€’りは力だが…
  • 5. äº¤å‹é–¢ä¿‚は幅広く
  • 6. ãƒšãƒ³ãƒãƒ¼ãƒ ã¯å¤§åˆ‡ã«
  • 7. é¡”出しは慎重に
  • 8. ä¿¡é ¼ã§ãã‚‹ç·¨é›†è€…を掴んで離すな

映像版は YouTube ã§

音声版は Podcast ã§

※ Apple、Google Podcasts、Amazon Music Podcasts ã«ã‚‚配信しています。「マサキチトセ」で検索してみてください。

1. ç”Ÿè¨ˆã‚’立てようと思うと…

 まず最初に、夢を壊すようなことを言います。ライターとして生計を立てようとは、思わない方がいいです。
 そもそもウェブメディアも紙媒体の出版社も、潤沢な原稿料を払えるほどの経営状況のところは、ほぼありません。編集者たちは、上司から、少しでも原稿料を削るようにと言われてばかりです。運よく多くの仕事に恵まれたとしても、それは一時的なものかもしれません。
 今やっている仕事があるなら、それを辞めることは考えない方がいいです。ただし、1年分の生活費がまかなえるほどの貯金がある、とかの場合には、専業ライターになることにトライしてみてもいいかもしれません。それでも、私なら怖くてできないと思います。

 生計を立てようと思わない方がいい理由は、それだけではありません。マイノリティとしての立場から物を書く私たちは、いつも寄稿先の意向と自分の書きたいことのバランスに悩まされています。つまり、書きたいことを書かせてもらえるような仕事ばかりではない、ということです。
 ネットをちょっと検索すると、私と同じ業界の LGBTQ+ é–¢é€£ã®ãƒ©ã‚¤ã‚¿ãƒ¼ã•ã‚“たちの記事がたくさん見つかります。ゲイのライターがオネエキャラを前面に出していたり、レズビアンのライターがエロをテーマに書いていたり、トランスのライターが「元女」とか「元男」と自称して発信していたりします。
 それ自体は、単体で見れば決して悪いことではないです。みんなそれぞれ頑張っているのだと思います。けれど、そういう、ゲイ=オネエ、レズビアン=エロいもの、トランス=元〇〇、というステレオタイプに満ちたやり方は、無名のウェブメディアが無名のライターに安い原稿料で書かせる記事に典型的なものです。
 それでも全然構わないよ、という人や、それこそ自分が書きたいものなんだ、という人には、自由にやってもらいたいと思います。でも、そうじゃないものを書きたい人にとっては、ライターの仕事は時に非常に酷なものです。

2. çµŒé¨“談の切り売りは詰む

 次に、自分の経験を切り売りしない方がいい、という話をします。
 私の業界、LGBTQ+ é–¢é€£ã®è¨€è«–は、ここ5年くらいでどんどん広がっています。新聞やニュースでも取り上げられたり、政治的なトピックとして浮上したり、そして出版社やウェブメディアも LGBTQ+ ã‚’取り扱うものが増えてきました。
 そこにライターとしての参入機会がある、というのは事実ですが、同時に、多くのメディアは LGBTQ+ ã®å€‹äººã²ã¨ã‚Šã«æ³¨ç›®ã—て、その半生を振り返るようなストーリーを好んで取り上げようとします。もちろんその背景には、そのような個人のストーリーを好んで消費する読者層の存在があります。
 個人の経験談というのは確かに訴求力が高いですし、その内容が悲惨だったり、笑ってしまうようなものだったり、びっくりするようなものだったりすればするほど、人々はそれを消費したがります。だからつい、マイノリティの立場から物を書く私たちは、自分の経験談をネタにしてしまう。
 私もかつて、そのような原稿依頼を受けたことがあります。私は自分の経験は自分が語りたい時にしか語らない主義で、あまり人から言われて語るのは好きではないので、そういう依頼は断ることにしていました。今では私がどういうものを書く人なのか分かっているので、個人的な経験談を求める編集者はいなくなりました。一方で、講演依頼では未だに「マサキさんが経験した葛藤などについても触れてください」と言われることがあります。適当にごまかして、個人の話はできるだけ避けることにしています。

 なぜ自分の経験談をネタにしない方がいいのか。
 それは第一に、疲弊するからです。自分の過去の嫌なことも含めて思い出さなければならないということ、自分の周囲にいる人や過去にいた人をネタにすることの罪悪感、自分と同じような経験をした人はたくさんいるのに自分だけにスポットライトが当たることで感じる違和感など、人それぞれでしょうけれど、そういうことを考えるのはとても疲れることです。
 もう一つの理由は、自分の経験談はいつか枯渇するからです。いつも同じ話をしている人というのは、講演活動などではよく見かけます。それは決して悪いことではないし、むしろそういう人はきちんと自分の経験談をストーリーとしてブラッシュアップして、聴衆に分かりやすいように、理解が深まるように、洗練させています。ですが、ライターとしては、同じ話ばかりしているわけにはいかないです。自分の経験を語るにしても、いろいろな切り口から語れる引き出しの多さや、別の話題とつなげて話を広げられる応用の力などが必要になってきます。

3. ç‚Žä¸Šãƒªã‚¹ã‚¯ã¯é«˜ã„ぞ

 次に、炎上リスクについて話したいと思います。
 ネットで物を書くことに限らず、どんな形であれ世の中に何かを発信するということには、常に賛同と否定の両方を受け取る覚悟が必要です。いいねを押してくれたり、シェアしてくれたりする人のほかに、あなたを思いっきり批判する人や、個人攻撃をしてくる人も出てくるでしょう。少しでもバズったり、名前が知られてくるようになると、粘着してアンチと呼ばれる存在になる人も出てきます。
 そして、それだけでなく、普段はあなたの書くものに賛同してくれてたような人たちですら、ある時突然あなたを追い詰める存在になることがあります。

 元々思想が全く違う人たちに叩かれるのは、慣れてしまえば案外平気になるものです。しかしマイノリティとしての立場から物を書くということは、その読者の多くもまた、同じか、あるいは別の種類の何らかのマイノリティである可能性が高いということです。
 その人たちがあなたの書いた最新の記事を読んで、「それは違うよ」と思った時、その人たちはあなたをきちんと、容赦なしに批判してくるでしょう。それはその人たちの誠実さでもあります。あなたを「どうせダメなやつ」と思ったら、スルーするでしょうから。
 しかしあなたは、世の中の多くの、マイノリティの立場からではなく書いている一般のライターたちだって、しょっちゅう間違えてるじゃないか、と思うかもしれません。確かに、とんでもない過ちをおかしているのでもない限り、あるいはとんでもなく有名な人でもない限り、一般ライターによる多少の過ちは見過ごされています。ちょっとだけ外国人を軽視する表現をしてしまったり、女性を性的対象としてのみ見る視点を無批判に取り入れてしまったり、そういう記事は世の中にたっくさんあって、別に炎上などしてないわけですから、なぜ自分ばかりが責められなければならないんだ、と思うのは自然なことです。
 ただ、簡潔に言ってしまえば、マイノリティの立場から書くライターには、「正しくあれ」「間違えるな」という、より高いハードルが課せられているんです。それを受け入れて、否定的な声の中から真っ当な批判を見つけ出し、真摯に応答しつつ、自分の精神的健康を守ることができるのが理想です。しかしそれはとっても難しい。私も先日ツイッターで何人もの人に叩かれて、できるだけ冷静に、なるほどと思う指摘だけを受け入れるよう努めていましたが、悪意のこもった表現や決めつけ、無視などされたことで、半日以上も胃痛に悩まされました。
 ライターに限らず、マイノリティの発信者にとってのメンタルヘルスケアは、今後重要な課題になっていくと思っています。

4. æ€’りは力だが…

 次は怒りについてです。
 マイノリティの社会運動にとって必要なものはたくさんありますが、その中には怒りの感情も含まれます。怒りだけが全てではありませんが、中には、怒りこそが原動力だ、という運動のやり方もあるでしょう。特に LGBTQ+ ã®ç¤¾ä¼šé‹å‹•ã¯ã€1980年代に政府や社会に対して「ふざけんな」と怒りを向けたエイズ運動とクィア運動の歴史を経ているわけです。怒りはとても重要な感情です。
 運動にとって重要というだけでなく、怒りは、マイノリティ個人個人の生きる力にもなり得ます。社会の制度や人々の差別意識によって、多くのマイノリティは自尊心や自己肯定感を削がれながら生きています。あまりにもその状況に慣れてしまって、何か嫌なことをされた時ですら「自分が悪いんだ」とか「自分がおかしいんだ」とか「黙ってやり過ごそう」とか思ってしまうことがあります。だからマイノリティにとって「怒っていいんだ」「あれは怒って当然だ」と怒りを認めることは、生きる上でとても重要なことなんです。

 しかし、さっき炎上について話した時に言ったように、私たちは互いへのハードルを非常に高く設定しがちです。何か一つでも意見が合わないことがあると、もうその人を味方として見れなくなってしまったりします。社会運動の内部でも、大学や研究所などアカデミアにおいても、ツイッターなどの SNS ã§ã‚‚、そうやってマイノリティ同士で仲違いする人たちをたくさん見てきました。私自身も、友人を失う経験をしています。
 だから、これから、あるいは今まさにマイノリティとして発信しているみなさんには、怒りを押し込めるのではなく、あるいは怒りを無いことにするのでもなく、怒りの表出を制御する術を身につけてほしいと思っています。
 これはアンガー・マネジメントと呼ばれるものです。アンガーは怒り、マネジメントは管理やコントロールという意味です。怒ってはいけないと自分を抑えるのではなく、適切に怒るための訓練のことです。例えばそれは、間違えた人がいた時に、相手がそれを間違いだと学んで成長することを促せるような怒り方、というのも含みます。常にそうしなければいけないわけではありません。自分をあまりにも侮辱してくるような相手には、ただただ大声で怒りをぶつけるという判断もあるかと思います。その基準を自分で設け、判断できるようになることが大事です。

 ただ、人によっては健康上の理由でアンガー・マネジメントが難しい場合もあると思います。感情表現のコントロールが難しくなってしまう病気や障害はたくさんあります。だからこれはマイノリティ全員に求めるべきものではないし、できない人を責めるべきでもありません。むしろ、より多くの人が適切な怒り方を身につけることで、感情表現のコントロールが難しい人たちとも今より良いコミュニケーションが可能になるんです。
 当然、失敗もたくさん経験すると思います。アンガー・マネジメントが大事だと気づいた今も、私だって失敗したなと思うことはたくさんあります。けれど、後悔先に立たず。失敗しながら、心がけて生きるしかないのでしょう。皆さんにも、特にこれから発言力を増していくような若い世代のマイノリティ発信者にも、同じ心がけを持ってほしいんです。私はこれ以上マイノリティのコミュニティが割れていくのを見たくはありません。

5. äº¤å‹é–¢ä¿‚は幅広く

 次に、交友関係を幅広く持った方がいい、という話をします。
 マイノリティとして発信していると、ネット上で似たような属性や境遇の友人ができたりすることもあると思います。属性や境遇だけでなく、考え方も似ている人に出会う機会が増えるでしょう。特にこれまでそういう仲間に恵まれてこなかった人たちは、この新しい交友関係に喜びを感じ、誰よりも自分を分かってくれるような気がしてしまうと思います。
 そして、それは、とても危険なことです。

 学生だったことがある人は、いわゆる仲良しグループの怖さを知っている人も多いと思います。昨日まで仲良かった人が、突然除け者にされたりする。そういう場でしたよね。それは、大人になっても、社会運動なんていう大きな目標のもとに集っても、変わらず起こるものなんです。

 マイノリティとして生きていると、例えば地元の友人たちとか、家族親戚とか、近所の人たちとか、職場の人たちとか、そういう身近な交友関係が窮屈に感じられることがあります。それでも多くのマイノリティはできるだけ苦痛を感じずに社会生活を営もうと日々工夫を凝らしていると思いますが、社会運動や言論の場に身を置き始め、そこで考えの似た人たちとの交友関係が一気に広がった人は、つい身近な交友関係を軽視してしまったりします。
 もちろん、一定期間を新しい交友関係の中で過ごしたいと思う気持ちはよく分かります。これまで経験したことのない居心地の良さを感じる人もたくさんいるでしょう。私もそうでした。この交友関係さえあれば生きていける、とまで思いかけました。そして、それは間違っていました。

 もちろん身近な交友関係も、取捨選択はすべきです。全ての身近な人と良好な関係を結ぼうとすれば、自分が壊れてしまうと思います。マイノリティであれば特にそうだと思います。
 だけど、自分が本当につらくなってしまわない程度には、身近な交友関係を維持してください。職場だけでもいいです。兄弟姉妹だけでもいいです。行きつけの店の常連たちでもいいです。あるいは、マイノリティの社会運動や言論の場にいる人たちでもいいから、1つではなく、複数の集団に身を置いてください。
 それがいつかあなたを救う日が来るかもしれません。

6. ãƒšãƒ³ãƒãƒ¼ãƒ ã¯å¤§åˆ‡ã«

 次に、ペンネームについてお話しします。
 基本的にはどんなペンネームでもいいので、一度決めたら一貫して使うことを念頭に置いてください。そして、記事に自分の名前が載るお仕事を増やしましょう。それを見て、あなたに次の仕事を依頼する人が出てきます。

 ただ何でもいいとは言っても、私のお勧めは「覚えやすい」「言いやすい」「実名っぽい」「似た名前の著名人がいない」の4つを満たす名前です。
 覚えやすい名前が良いのは当たり前ですが、「言いやすい」というのが大事なのは、文字で書かれたあなたの名前だけではなく、人が声に出すあなたの名前もまた、あなたの宣伝になるからです。例えば編集者同士の雑談や、イベントスタッフ同士の雑談なんかでも、あなたの名前を誰かが口に出すことはあるわけです。その回数が増えれば増えるほど、あなたに仕事が来る可能性は上がります。
 また、言いやすいというのは、音として発音しやすいというだけではなく、言うのが恥ずかしいような名前ではない、というのも含みます。インパクトのある下ネタみたいな名前も戦略的に使うことはアリですが、行政機関とか教育機関とかからの原稿や講演の依頼も将来的に来る可能性を考えると、私はお勧めしません。
 実名っぽいのが良い理由は、イロモノとして見られるのを回避できるからです。発信は内容が一番大切ですけれど、ページを飛ばされてしまったり、クリックせず素通りされてしまっては意味がありません。さらに、実名っぽいと、人が会話の中で「〇〇さん」と自然に言うことができて、やはり宣伝効果があります。
 似た名前の著名人がいないのが重要な理由は、シンプルに、検索した時にあなたの情報が埋もれてしまうからです。
 ちなみに私はカタカナで「マサキチトセ」という名前でやってますが、これは失敗だったなと思っています(笑) è¦šãˆã‚„すさで言えば、しょっちゅう「マセキチトセ」だと間違われてますし、言いやすさだと「キチト」の部分が言いづらいです。別に言うのも恥ずかしいような名前ではありませんが、カタカナなのでちょっと社会的信頼が得づらいかもと思ってます。検索は「マサキチトセ」だと問題ないのですが、よく人に呼ばれる「マサキさん」という言い方だと、私以外の人がたくさん出てきてしまいます。難しいですね。
 ペンネームにはこだわりたいという人もいるでしょうから、こだわりを完全に捨てろとは言いません。でも、後悔しない名前を選んでほしいなと思います。

7. é¡”出しは慎重に

 次に、顔出しについてです。
 パーソナルブランディングとか言ってる人たちは「顔を出すことで信頼が得られる」とかって言うんですけど、名の知れてるライターって別に全員顔出してるわけじゃないですよね。もちろん自分の好きにすればいいと思うんですけど、私は、自分が顔出しでやってきたのを棚に上げて言うんですが、顔出しはお勧めしません。

 まず、一度顔を出したら、二度と引っ込められないです。
 ネットが無かった時代と違って、今はほとんどの情報がネット上に出ます。紙媒体に書いたプロフィール欄につけた小さな顔写真すら、それを写真に撮ってアップする人もいます。それらを全て消滅させることは、ほぼ不可能です。
 私自身もかつて、本名を漢字表記で公表したことがありました。数ヶ月後にやっぱりやめようと思って消したのですが、その時にはすでにツイッターでもブログでも、あと何かの公式サイトにも、私の本名が漢字表記で出てしまっていました。結局、本名で検索して出てくるサイトの1つ1つに直接連絡をして「すみません、今は本名表記をやめたので、書き換えてくれませんか」とお願いして回ることになりました。それでも連絡がつかず残ってしまったものもあります。
 ですから、どんなに後悔しても、一度出してしまった情報をネットから消すことはできないと思っておいてください。特にマイノリティにとって顔出しは、将来の社会生活にまで影響を及ぼしうる決断です。慎重に考えてくださいね。

 ただ、マイノリティである私たちにとって、顔出しで活動することは大きな意義を感じさせるものでもあります。自分の属性や境遇を隠さずに、堂々としている人が世の中にいる状況を、自分たちでまさに作っているわけですから。でも、その意義に必要以上に惑わされないでくださいね。

8. ä¿¡é ¼ã§ãã‚‹ç·¨é›†è€…を掴んで離すな

 最後に、編集者についてです。
 2015年に初めてちゃんと編集者に文章を直してもらってから2022年の今まで、私が書いた文章の中で、私が「ひとりで書いた」と思える記事は1本もありません。全て編集者との合作だと感じています。
 私がそう言うと、私の仲の良い編集者は「合作…なのに、もし何かあったら名前を出してるライターが叩かれるんです…僕たちはライターを矢面に立たせてるんです…」と鬱モードに入ってしまうのですが、私は過去の編集者たちには感謝しています。だからと言って、叩かれた時に「編集者のせい」だとは思いません。まあ、編集者が直前に勝手に手直しした部分がおかしくなってたとしたら、そいつのせいだけど(笑)。

 過去の何人もの編集担当者とのやり取りには、忘れられないエピソードがいくつもあります。
 当時まだ日本では全く話題になっていなかった反トラフィッキング運動について、私がたまにツイッターで書いているのを見て「この問題について最近こういうニュースがありました。すぐに記事書けますか?」と言ってきた編集者。
 執筆者に支払う原稿料が安すぎる、もっと執筆者に還元しなければ、と編集部で戦っていた編集者。
 媒体の今後の方向性についての悩みを打ち明けてくれ、どうやって誠実なメディアであることとビジネスとして成立させることを両立させるか、一緒に何時間も話し合った編集者。
 人種、ジェンダー、セクシュアリティという本人の根幹的な問題意識、そして自分の生きていきたい生き方や、社会にどう働きかけていきたいか、夜中にたくさん話してくれた編集者。
 私はとても編集者に恵まれたライターだな、と、振り返って思います。そのうちの二人とは今でもしょっちゅう連絡を取り合っています。なんとびっくり、今年の元旦、年明け早々連絡を取ったのもこの二人でした。

 信頼できる編集者に出会えることは貴重なことです。
 もしあなたが既にそういう編集者に出会っていたら、大切にしてください。そして、私たちもまた、そういう志の高い、誠実な編集者たちにとって信頼できる書き手でありたいものですね。

最後に

 以上、マイノリティとしての立場から物を書くということについて、私がここ数年ずっと考えていることをまとめてみました。
 鵜呑みにしろ、とは言いません。何か一つでも、あなたが今後ライターや発信者としてやっていく際に参考になることがあったらいいな、と思います。

 以上です。
 みんな、明日も生きようね。

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。