私たちは、大騒ぎすることを自分たちに許さなければならない

 祖母が死んだ。
 その日はバレエの日だった。バレエの日というのは、週に一回、知り合いのバレエ教室の先生がやっている大人向けのストレッチ教室に通う日だ。10時に起きて、11時までにスタジオに行く。のそのそとベッドから這い出た10時半ごろ、母親から電話がかかってきた。

「ばあちゃんが起きないんだけど」

 まだ寝巻きだった私は急いでコートを引っ掛け、同じマンションの母の家に走った。エレベーターを待っているのももどかしく、階段を駆け降りた。
 ドアを開け祖母の部屋に行くと、眠っているかのような祖母がいた。肩を揺する。起きない。手を触ってみる。冷たい。

 これまでも「もしかして死んでいるのでは」と思う瞬間というのは何度もあった。寝息が聞こえない夜とか、午後になっても部屋から出てこない時に、母と部屋を覗きに行って、呼吸を確認しては「紛らわしんだよ(笑)」と笑った。今回もそうだったらいいなと思っていた。

 目に涙を溜めたまま、母と私は「ああ」「ああ」と繰り返した。「死んでるよね」と言う母の声が震えていた。「これは、死んでるねえ」——言葉に出すと、両目頭がギューっとなった。
 状況を受け止めることができない私たちは、冷たい祖母を置き去りに、ひとまずリビングに戻った。母はパニックに陥っていた。

「どうしよう、どうしたらいいか分からない。まさかこんなことになるなんて」
「とにかく訪問ケアの人に電話してみよう」

 私も冷静ではなかったけれど、二人ともパニクってしまうわけにはいかなかった。
 いつも来てくれている訪問ケアの人が駆けつけてくれた。手を組ませ、祖母のお気に入りのハンカチでそれを固定してくれた。入れ歯を入れながら、「せっかく美人さんなんだから、ちゃんとしないとね」と祖母に優しく声をかけてくれた。


 それからの五日間は、怒涛の日々だった。
 姉と伯母がやってきて、四人で親族や葬儀社、菩提寺に連絡をした。遺体を安置所に運び出すためにエレベーターの緊急窓を開けてもらう必要があり、マンションの管理会社にも連絡をした。やりかけの仕事を同僚にバトンタッチする必要もあった。姉は体温の消えた祖母の手にピンクの派手なネイルを施してやっていた。
 二人でやってきた葬儀社の人に「手を貸してください」と言われ祖母をベッドから担架に移す時、私は久しぶりに細くなった祖母の足に触れた。
 数ヶ月前、足をマッサージしてほしいと言われてさすったのが最後だった。その時とは違って、冷たく、置物のような足だった。

 翌日から、毎日安置所に行った。
 棺に入った祖母は姉と姪の手によって化粧が施され、血色が良くなっていた。今にもパッと大きな目を開けて「やだわ、私、死んでないわよ」と微笑むのではないかと思った。介護の認定の時に「今日の日付は何ですか」と聞かれて母と私の方を振り向いた顔を思い出す。やだわ、私、ボケてないわよ、という表情だ。
 二年間の寝たきり生活の間も、祖母は亡くなるまで認知症にはならなかった。日付も、自分の年齢も、家族のことも、ちょっと忘れかけそうな時もあったけれど、指摘すると「あら、そうだったわね、やだわ」と笑うのだった。認知症は死の恐怖を和らげると聞いたことがある。では、祖母は怖かっただろうか。

 毎日葬儀社と菩提寺の僧侶と打ち合わせを重ねることで少しは気が紛れていたけれど、母も私も、整理しきれない気持ちをずっと持て余していた。もっとこうしてやっていれば、あの時違う声をかけてあげていれば、夜中に様子を見に行っていたら——


 母は自分のマンションで祖母と同居していた。
 訪問ケアと伯母が来る時間帯以外は母がずっと面倒を見ていた。祖母はガラケーを持っていたので、グラスの水が無くなったりリモコンを床に落としたりするたびに、母に電話をして呼び出していた。母が仕事中でも、眠っていても。だから母は二年間ずっと寝不足気味だった。
 その上祖母は耳が遠くなっていたので、電話に出ても母の声は届かない。それでも用件を言ってくれればいいのに、祖母は「ちょっと来てくれる?」と言うだけだった。仕事を早く切り上げて自宅に戻ったこともある。

 亡くなる前日も、仕事中の母に何回か着信があった。
 どうしてもその日のうちに仕上げたい仕事を終えて自宅に母が戻ると、祖母は「背中をさすってほしい」と言った。疲れていた母は、仕方なく、しばらくさすってやったそうだ。
 この時母がもし祖母の電話を無視して、疲れ果てた体をベッドに預けてしまっていたら、母を襲ったであろう罪悪感や後悔は計り知れない。最後の夜に娘に背中をさすってもらったのと、電話をしても来てもらえなかったのでは、祖母の最期は180度変わってしまっただろう。

 しかし、それでも母は後悔の念に苛まれている。もっと優しくさすってやれば、もっと長い時間さすってやれば、と思ってしまっている。


 母に何度言っても納得してもらえていないのだが、私は勝手に祖母の死についてある仮説を信じている。
 それは「祖母は、自分が本来人生において享受するはずだった幸せの総量の帳尻がようやく合ったから、亡くなったのだ」というものだ。

 祖母の人生の前半は貧困と暴力と、戦争と天災による苦しみが占めていた。だからか、祖母の口癖は「長生きして取り返さなくっちゃ」というものだった。その言葉を聞くたびに母は、「取り返すって、誰から……?(私からは嫌だよ)」としかめっ面をしていた。
 しかし「誰から」という疑問を横に置いて「何を」と考えれば、それはきっと幸福のことだったのだと思う。そして祖母は、本来彼女が受け取るべき幸福の総量を、二年間の寝たきり状態を通してようやく手に入れることができたのではないか。

 と、私の勝手な妄想で人の死を説明することは、とても暴力的なことだろうと思う。けれど、そうしなかったら、死という圧倒的な、不可逆的な理不尽を、受け止めることができないのだ。
 私がこの仮説を唱えても、母は笑って「そうかもねえ」と聞き入れない。「納得できないの?」と聞いてみた。すると母は「本当に満足して死んだのかなあ、って思っちゃうんだよね」と言う。
 私は必死に「すっごく満足したわけじゃなかったとしても、ほら、せめてプラスマイナス0にならなかったら悔しくて婆ちゃん多分死ねてないはずよ」と畳み掛けた。母はまだ納得できない様子で、ふふ、と笑った。


 なんとか用意した金で告別式、火葬、骨壷の祭壇設置まで終え、私たちはようやく葬儀社から解放された。追加の返礼品や、四十九日の準備など、これからやらなければならないことは残っているが、ひとまず小休止だ。
 ふと SNS を開くと、ウクライナに対するロシアの武力侵攻の話で持ちきりだった。

 そうか、今そんなことが起きているのか。
 祖母の死すら受け止めきれていない私には、ウクライナの状況にまったく現実味を感じることができなかった。
 こちとら人一人亡くなっただけでこんなに大騒ぎだったのに、いったいぜんたい、どうやったら戦争など起こそうと思えるのだろうか。
 その後も報道では負傷したり、亡くなってしまったウクライナ人への言及が続いた。そのたびに私が思うのは、かれらの遺族のことだ。

 私たちはつい数字で考えてしまう。
 何十万人が虐殺されたとか、実は何万人に過ぎなかったとか、何千人もが撲殺されたとか、今日は何百人しか陽性じゃなかったとか。そうやって、自分自身を統計上の存在に矮小化してしまう。被害の甚大さを訴えるときですら「こんなに多くの人々が」と言ってしまったりする。
 でも本当は、人が一人死ぬということだけで大問題なのだ。私たちは、人が一人死んだだけで大騒ぎしてもいいのだ。

 日本には、街に出て反戦を訴えている人々を冷笑する愚か者がたくさんいる。国家と国家の交渉がどうとか、厳しい経済制裁がどうとか、もっとそういう話がしたいのかもしれない。きっと、そういう話も大事なのだろう。
 けれど、私たちは大騒ぎしていいのだ。大声で怒っていいのだ。
 もっと言う。
 私たちは、大騒ぎすることを自分たちに許さなければならない。その自由を放棄したら、私たちはその瞬間に、人間であることも放棄することになる。

 ロシアを非難する声は急速に広まっている。あらゆる国家の元首たちが、ロシアの行動を悪しきものと見做している。報道を日々目にしている一般市民の多くも同様だ。普段政治のことなどつぶやかないようなツイッターユーザーたちも、戦争反対の声を出し始めた。
 そんな様子を見ていると、「大騒ぎ」が広まりつつあるのかなと期待してしまいそうになる。
 でも、これまでもずっとそうだったように、大騒ぎは必ず収束してしまう。どんな社会運動も、ぱっと盛り上がっては、消えていくのだ。
 消えていく、というのは不正確かもしれない。実際は、大騒ぎを起こし続けている人々がいるのだ。目立たなくとも、注目されなくとも、聞き入れてもらえなくとも、運動を継続させ、発展させ、広めようとしている人たちが常にいる。

 そこから逆に導き出されるのは、過去に起きた数々の大騒ぎに私たちは耳を傾けてきただろうかという疑問だ。

 今ロシアがやっていることは、かつて西欧諸国や日本が行ったことと何も変わらない。そして西欧諸国や日本は時代に合わせてその手法を変えただけで、今だって変わらずあらゆる悪事を働いている。
 ロシアや DPRK(いわゆる「北朝鮮」)などのいわゆる共産圏に対してずっと挑発行為をしてきたのは、誰だ。発展途上国で内乱をけしかけて内政を壊滅させ、次々に自分の傀儡政権を作ってきたのは、誰だ。
 アメリカはずっと戦争をし続けている。自衛しかしないはずの日本も、アメリカの起こすそれらの戦争に参加し、加担してきた。
 日本は戦後、戦争責任をうやむやにし、いまだに過去を精算できていないどころか、その過去を嘘で塗りつぶそうとすらしている。

 そういった問題に、今でもずっと声を上げ続けている人たちがいる。大騒ぎし続けている人たちがいる。

 今回のロシアとウクライナの問題が何らかの形で終結したとして、私たちはその時、また固く耳を閉ざすのだろうか。そんなこともあったねと、遠い異国で起きた、自分たちとは無関係の事件として、なおも継続して大騒ぎしている人々から、私たちは目を逸らしてしまうのだろうか。

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。