スカっとしない方のフェミニズム

 1年前か、それとも2年くらい前か。ツイッターで見つけたのか、Facebook で見つけたのだったか。
 看護師が主人公の短い漫画だったと思う。
 とある老人が入院していて、その妻が毎日看病に訪れている描写から始まる。夫は身の回りの世話を全て彼女にさせていて、そのくせ彼女への態度は非常に悪い。横暴な物言いで、あれをやれ、これをやれと指示しては、時々癇癪を起こすような男だった。もしかしたら彼女もまた同じ病院に入院していたのだったかもしれない。もうあまりそういった細かい記憶は無い。
 とにかく彼女は少しずつ看護師たちに心を開くようになり、夫の傍若無人さは看護師らの知るところとなった。
 そんなある日、夫の容態が急変する。
 もう今にも逝ってしまうのではなかろうかという時、もがき苦しむ夫の耳元に彼女が口を近づけ何かを言う。その言葉が引き金になったように、夫は息を引き取った。
 彼女が言った言葉を聞いたのは、一人の看護師だけ。
「ずーっとあなたのことが大嫌いだった。早く逝ってください」

 何十年もの憎しみがこもった言葉だろう。
 ずっと言えずにいた不満をようやく口にすることができたこと自体は賞賛に値すると思うし、言えたことで彼女が長年の支配や呪縛から自分自身を解放できたとしたら、それは素晴らしいことだと思う。
 事実、この漫画をツイッターでシェアしている人たちには、彼女の最後の言葉を夫の何十年もにわたる振る舞いへの報いとして肯定している人が少なくなかった。それは特に、ジェンダー差別について意識の高い人々に顕著だった。
 私も15歳でフェミニズムに出会い、それから大学、大学院とずっとジェンダー研究やセクシュアリティ研究を志した人間だから、彼女の最後の言葉の重みは理解できる。
 けれど、私は彼女の行動をどうしても受け入れることができない。

 彼女もきっと、夫から愛されているという実感など、これまで一度も無かったのだろう。酷い扱いを受け、あれをやれこれをやれと指示され、妻、母、そして最後は介護する者として夫に尽くすことを求められてきたのだから。
 だが、夫の心情は推し量ることしかできないけれど、私なら、人生の最後に自分が一度も愛されていなかったことを知らされるより、それまで何十年もの日常生活を通して愛されていないことを少しずつ思い知らされる方が、よっぽどマシだ。
 死という不可逆的な不条理の際(きわ)に「ずっと大嫌いだった」と伝えられるなんて、そんなつらいことがあるだろうか。
 もう何も省みることも、後悔することも、学ぶことも、本当の意味で愛し直すことも、それを諦め抱えて生きていくことも、何もかも、およそ人間的な変容が全て許されない淵に追い込まれた者に、そんな言葉をかけることがどうしてできるのだろう。私はそれを、非人道的ですらあると思う。

 ただ、この漫画のモデルになった夫婦については、私は肯定も否定もしない。妻の最後の行動も、それ自体を評価する立場に私はいない。それが正解だったかどうかは、彼女自身が決めることだから。それに、最後まで夫に都合のいい美しい夫婦の物語の演じ手でいなけりゃならないなんて謂(いわ)れもない。
 もし私の知り合いが同じことをしたとしても、私は心の中でこそ強い戦慄を覚えるだろうが、それを口に出すことなく、「大変だったね、お疲れ様」と労うだろう。

 けれど、彼女の最後の行動を公に賞賛する人々のことは、私は肯定できない。もしそれがフェミニズムの名を冠しているならば、それは私が信じているフェミニズムではない。
 私の信じるフェミニズムは、彼女のような女性がもっと早くに、何十年もの我慢を重ねる前に自分の意志を取り戻し、夫に不満をぶつけるなり、離婚するなりして、何らかの解決を図ることができる社会を作ろうとするフェミニズムだからだ。この漫画を読んで、そのような社会の到来がこの夫婦にとって間に合わなかったことを悔いるようなフェミニズムだからだ。
 それは、人間の変容可能性を信じるフェミニズム、とも言えるかもしれない。

 そのようなフェミニズムにおいても、夫の最期の瞬間にようやく自分の気持ちを告げた妻に対し、そんな非人道的な行動に至ってしまうほどの苦労があったのだろうと考え、寄り添い、それまでの我慢を労ったり、彼女が自分を取り戻せたことに祝福や応援の言葉をかけたりすることはできる。
 むしろそれは、とてもフェミニズム的なピア・サポートだと思う。例えば長年のDV被害の結果夫を殺してしまう妻もいるが、フェミニズムはそのような女性にも寄り添うことができる思想だと思っている(この漫画の妻の行動を殺人と同列に並べることはできないけれど)。
 でもそれは、そんな女性たちの行動そのものを肯定したり賞賛することとは別だ。「そうするのが正解だった」と認識するのと、「そうすることしか正解が無いかのように思えてしまうほど追い詰められていた女性がいる」と認識するのでは、大きな違いがある。

 これはフェミニズムに限った話じゃあない。
 例えば父親に酷くホモフォビックな暴言を吐かれ続けていたゲイ男性が父親の死に際に「ずっと大嫌いだった、早く死んでくれ」と言うシーンを映画で見たとしても、私は同じクィアの当事者として、決して晴れやかな気持ちでそのシーンを見ることはできない。
 もちろんそのゲイ男性に共感し、寄り添って考えることはするものの——いや、むしろ彼に寄り添えば寄り添うほど——その言葉を吐くに至るまでの彼の苦悩や、その言葉を放った彼が今後それをどう抱えて生きていくのか、そして生きているうちに自身のホモフォビアを父親が省みることができなかったことなどに思いを巡らし、とても苦しい気持ちになるだろう。映画を観終えたあとも、なんて後味の悪いシーンだったんだ、と振り返るに違いない。

 当然、そういうシーンを見て心の中でスカっとする人もいるだろうと思う。先の漫画を読んでスカっとした人も少なくないようだし。例えば、まさに現在全く同じような思いをしている当事者だったら、多少スカっとしてしまったとしても不思議ではないと思う。
 だから、みんながみんな私と同じ気持ちになるべきだとは言わない。だがそれを公の場で言っていいのだろうか?
 さすがにそれはダメなんじゃないか、と私は思っている。

(追記:公の場でも、あまり影響力の大きくない一般の人が個人の感想として言うぶんには「ダメ」とまでは思わないです。)

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。