『「カムアウトできる」「カムアウトできない」というレトリックの問題』

この記事は、インデペンデント・マガジン Pe=Po vol.1 に掲載されたものの全文です。ネットからも購入出来ますので、他の記事も気になるという方はどうぞ買ってみて下さい。

「親にカムアウトしたいけどまだ経済的に独立もしていないし……」、「友達はみんな知ってるけど、会社では絶対にカムアウトなんて出来ない……」、「同級生の数人にはカムアウトしてるけど、信頼出来る人だけ。他の人には絶対に言えない」などなど、カミングアウトにまつわるエピソードはボクたちのコミュニティに溢れている。それに対して老婆心を働かせたゲイやレズビアン、バイがこう言う。「誰彼構わず言う必要はない。自分がいいと思った相手に、いいと思ったときにだけカムアウトすればいいんじゃない? 人それぞれ事情があるしね」と。

もちろん老婆たちは本当に相手のことを思って言っているのだろう。しかしここで語られる「事情」とは何だろう。保守的な町に住んでいること? フォビアに満ちた職場で働いていること? 学校という閉塞的な場所で生きていること? 長男であること? 既婚者主婦であること? その事情を無視してカムアウトしたらどうなるだろうか。親から見放されたり、解雇されたり、いじめを受けたり、町を追い出されたり、離婚されたりする? 確かにその可能性はあるし、それを恐れてカムアウトしない人を蔑んだり「度胸がない」と見下したりすることはバカなことだと思う。だから当然「カムアウトしなさい」とか「カムアウトできないなんて、自分に自信がなさすぎる」とか「もっとみんながカムアウトすれば世界は変わるのに、しない人がいるからダメなんだ」とか、そういう、「事情」に思慮を働かせられない人の発言には辟易する。その点ではボクも老婆と同じ意見だ。

しかしボクが言いたいのは、「事情があるのだから仕方ないよね」ということではない。むしろこの記事でボクが批判の対象としているのは、正にそういう「しょうがないよ」みたいな上から目線の同情的な発言だ。

ボクは、クィアにとっての「事情」とは、強制異性愛社会に住んでいることや生物学的な性別に〈わたし〉の振る舞いやアイデンティティを追従させなければ制裁を受けるような状況だと思っている。だから「黙っていればヘテロだと思われる社会」なんて本当に嫌で嫌でしょうがないし、どうにかなって欲しいと思っている。しかし同時に、「黙っていればゲイだと思われる社会」も嫌だ。それはまた一つのカテゴリーであって、非ヘテロ男性という「ジェンダー・セクシュアリティの秩序の中では理解しがたい存在」を簡単に理解しやすくするマジック・ワードでしかない。しかもそのカテゴリーに乗った所で差別は全然残っているし、二級市民として扱われるだけだ。そんな詐欺みたいなカテゴリーに誰が入るか、と思う。そもそも「ゲイ」なんてボク自身の内側から出て来た言葉でもなければ、外からやって来てボクが快く迎え入れた言葉でもない。1 「男」だって「アジア人」だって、世界はボクに選ぶ権利も与えてくれなかったじゃないか。「黙っていれば男だと思われる社会」も出来ることなら勘弁してもらいたいし2、「ゲイだって言ってるのに『アジア人ゲイ』としかボクを扱ってくれない社会」なんて死ぬほど嫌だ。

つまり究極的に言えば、「アイデンティティを想定・強制されること」それ自体が生活に差し迫ってくる問題としてボクに嫌な思いをさせている「事情」なんだ。そんなボクにとって、「ゲイ」という言葉が広まっており人々もある程度受け入れる体制が出来ているような空間にいることは、必ずしも嬉しい経験じゃない。人は「ゲイなんですか?」とか「オカマちゃんですか?」と聞いて来るし、一言も言っていないのに「え、だってあなたゲイでしょ?」とか言われたり、言わないでいると勝手に邪推されたり噂されたりする。すごくカムアウトを求められている感じだ。「お前のセクシュアリティを言語化せよ、私たちに分かる語彙でシンプルに説明せよ」という圧力を感じてしまう。それはきっと、「ゲイ」という語彙が共有されているコミュニティだからこそ、むしろそこが重力の場みたいにボクを引きずり込もうとしてくるような、そういう感じ。

これがボクにとっての「事情」だ。つまり「あぁ、あなたは(ヘテロではなく)ゲイなのね」、「あぁ、あなたは(日本人ではなく)在日コリアンなのね」、「あぁ、あなたは(健常者ではなく)障害者なのね」、「あぁ、あなたは(白人ではなく)有色人種なのね」という分け方そのものが気に食わないのだ。相手の用意したカテゴリーに乗っかること、そしてそれに乗っからないと「差別されてる人だから、優しくしてあげよう」とすら思ってもらえないという脅迫めいたアイデンティティ要請がものすごくうるさい。そもそもそういうカテゴリー分けの仕方・枠組み自体が西洋近代的な思想の影響を受けたものであって、少なくともボクはそんなものを受け入れた覚えはない3。「自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、隠さざるをえないような状況にしている、強制異性愛社会」と Macska さんがブログで言っているが4、更に言えば、強制異性愛を含む(西洋近代的)文化的規範は、自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、〈決定し、包み隠さず告白すること〉を要求するような(そして、そうしない限り差別され続けるような)状況も同時に作り出しているのだ。

だから、そういう事情に辟易しているボクは、「カムアウトしないとまともに取り扱ってもらえない」ような社会やコミュニティも、すごく嫌い。それは「カムアウトできない社会・コミュニティ」と言われるような場所と同じくらいにボクを引き裂く。ゲイだと言ったら不平等な扱いを受ける社会と、ゲイだと言わないと平等の恩恵を受けられない社会って、単なる強制異性愛社会の裏表じゃないか。カムアウトしないと事態が解決に向かわないという状況は立派な「強制異性愛社会という『事情』」だ。そういう「事情」のある人は、カムアウトだってなんだってしたらいいと思う。カムアウト実践を選ぶことも、カムアウトしないことを選ぶことも、両方とも各人がそれぞれ自分の状況を考えて「このフォビックな社会の中ではマシ」な方向へと進むための生き延びる道でしかないのだもの5

「カムアウトしない方がいい場合もある」という主張への反論として「それはホモフォビックな社会の中ではマシというだけのことでしょ」と言う人もいるが、そんなこと言ったら「カムアウトした方がいい」という状況だって、「ホモフォビックな社会の中ではマシというだけ」だ。社会がホモフォビックじゃなかったら、そもそもカムアウトする必要だってないし、クローゼットに入る必要だってないのだから。罠みたいなもんだ。その罠にはめられているボクたちは、当然、カムアウトしたって、しなくたって、いい。どちらの選択肢が「よりよい」のかというのは、その人の周りの「事情」のあり方によって変わってくるはずで、その「事情」というのは「カムアウトできる」「カムアウトできない」という〈可能性〉のレトリックで説明されるべきものではないと思う。「カムアウトすることの方がカムアウトしないことよりも本人の利益を増やす」と判断できる状態だったらカムアウトする方がいいだろうし、逆であればカムアウトしない方がいいに決まっている(そんな判断はおそらく多くの人が自分で日々行っていることであって、ボクがこんなところでいちいち説明するほどのことでもないのだけれど)。とにかく、「カムアウトしない」ということが「できない」という〈可能性〉のレトリックで説明されることには、ボクは全然賛成できない。

「カムアウトすることで得られるものが失うもののよりも多い社会・コミュニティ」と「カムアウトしないことで得られるものが失うものよりも多い社会・コミュニティ」というのは両方存在するし、時期や集団の大きさ、年齢層、階級やミクロなレベルでの人間関係、そしてそれらのこれまでの歴史的変遷によっても状況は異なる。そしてその両方とも強制異性愛の異なるバージョンの上に成り立っている状況でしかない。どちらの方がいいとか悪いとかは普遍的な判断が出来ないし、自分にとってどちらの方がマシかしか言えない。あるときある場所ではカムアウトした方が「マシ」かもしれないし、その次の日に違う人たちと時間を過ごしているときはしない方が「マシ」かもしれない6。そのどっちの時間が本人にとって喜ばしい時間になるかは、本人が事後的に判断することであって、議論をする人間によって事前に予想が立てられるものではない。

ましてや、「運動全体のためにはどちらが好ましいか」という疑問には、回答などないはずだ。そもそも問い自体が強制異性愛社会の1つのバージョンの枠組みに則ってしまっていて、回答はコインの裏表にしかなり得ない。そもそも「運動全体」の利益とは、いったい誰の利益なのだろう。もちろん「現在この社会・コミュニティでは人はセクシュアリティのカテゴリーに入れられてしまうのであって、それを拒否したら生きては行けないし、権利も何一つ手に入らない。だからカムアウトする利益の方が多いのだ」という主張が持つ正当性には納得が行く。しかしそれはあくまでその地域、その時代にその文化・政治・宗教・道徳的背景があるから言えるだけの話であって(更に言えば、それはある程度西洋近代的で先進国的で都会的でエリート的な事情だとボクは思う)、「他の場所でもそのような状況になるべきだ。まだそうなっていない地域、つまりカムアウトしない利益の方が大きい地域は、遅れていて、クィアにとっては生きづらいはず。だから変わるべきだ」とは言えない。カムアウトしなくても(一部の)規範から外れて生活することは出来るし、そういう人がいることを周りも当然のように知っていたりする。ただ、それに名前を付けないだけだ。名前を付けたら「差別対象」として、あるいは「差別対象だから、差別してはいけない人たち」として新たに周囲の人たちの目に現前してしまうことになって、それまであった「生きやすさ」が消えてしまうかもしれない。カムアウトしない方が解放的な可能性もあるんだ。

また、カムアウトする利益の方がしない利益よりも大きいように見える社会・コミュニティにおいても、そこに住む人々全員にとってそうであるとは限らないし、あるいは、そこで語られる「利益」自体を望んでいないとか、カムアウトすることによって失われるものを失いたくないとか、様々な理由でクローゼットを貫く人もいるだろう。しかし彼らのそれぞれの状況を「事情」と呼び、彼らのその判断を「苦渋の決断」であるかのように語るのは、あたかも自分たちには「カムアウトすることの利益の方が大きい」という「事情」(!)がないかのように振る舞い、自分たちの方が他の人たちよりも「自由な判断」(!)が出来ているかのように語ることだ。

クローゼットでいることは権利ではない、というサラ・シュルマンさんの文章が前述の Macska さんのブログで紹介されていた。クローゼットでいないと暴力を受けたり解雇されたり社会生活を送れなくなったりする社会では、そう、クローゼットは「不自由」だ。自分が非ヘテロであることを言葉に出すことが出来ないのは、不自由極まりない。しかしボクが欲しいのはカミングアウト出来る社会ではない。ボクが欲しいのは、非へテロであることを言葉に出す必要もないほどクィアな世界であって、そこではもし口に出しても「カミングアウトした」などと仰々しく取りざたされたりしないし、「あたし明日数学のテストなんだよね」「あ、そ」くらいにしか関心を払われたりもしないだろう。そう考えると、一方で、カミングアウトだって権利ではない、不自由だ。なぜ言わなければいけないのか。なぜ「カミングアウト」などと大げさに、あたかも世紀の大告白かのように扱われなければいけないのか。カミングアウトしなければ生きて行けないとは、なんて不自由なんだろう。


  1. ボクは自分の性に関する事柄を言葉で説明したりすることを既に(複雑すぎるから)あきらめているので、「ゲイ」という言葉に単なる文化的なスタイル以上のものを求めていないのだもの。「ゲイ」とはボクにとって一つの生き方であって、振る舞い方であって、コード。「男が男に惹かれること」とか「男と男がセックスすること」と「ゲイ」という言葉は少しは関連しているかもしれないけれど、それは「若者であること」と「ケータイを持っていること」くらいの関連性にしか感じられない。 
  2. 現代社会で「男」と扱われることは「女」に比べて得することばかりなのだけれど、だからと言って気持ちよく「はい、男です」と言えるわけじゃない。 
  3. 補足しておくと、ここで「西洋近代的」と言っているのは別に「西洋の近代に特有のものであって、それ以外のところには存在しない」という意味ではなく、「西洋近代のイデオロギーに関係することがら」というくらいの意味。つまり、西洋と呼ばれる地域にだって存在しないかもしれないし、東洋だろうがどこだろうが存在するかもしれないようなものであって、日本の中にだってものすごくいっぱいある。例えばアメリカのモンタナ州にはあんまりないかもしれないけど、日本の中野区にはがっつりあるかもしれないし、ある宗教のコミュニティの中ではあんまりないかもしれないけど、ある人種コミュニティのなかにはがっつりあるかもしれない、みたいな。 
  4. 『カムアウトをしない「自由」はない。クロゼットは「権利」ではない。』「minx [macska dot org in exile]」 http://d.hatena.ne.jp/macska/20090818/p1. retrieved September 27, 2009. 
  5. もちろん時にはアクティビズム的に、戦略的にカミングアウトを選択することもあるけれど。 
  6. 例えばボクの知り合いに50代の人がいるのだけれど、彼は自身をゲイだともオカマだとも女性だとも言っていない。彼の周囲の人も誰もそれを言葉には出さないし、質問もしないが、ほとんどの人が彼が「女性的な振る舞いをして、男性と性愛関係を結ぶ人」であることを知っている。彼は周囲の人たちと男女問わず仲良く近所的なコミュニティを築いており、飲みに行ったり旅行に行ったり近所の集まりに出たりしている。他にも、同性婚とかパートナーシップ法には反対だけど、レズビアンとしか思えない人が親戚の集まりにパートナーを連れてきてもみんながそれを当然だと思っている、という状況とか。 

【ICUのミスコンに反対するひとに10の質問】

長いです。めっっっっちゃ、長いです。先に謝っときます。

 6月3日、ことし10月末にICU(国際基督教大学)の学園祭(ICU祭)においてミスコンが開催されるという情報が、ツイッター上でながれた(ICU-CP9[主催団体]、2011年ICU祭実行委員会 企画調整局ICU祭実行委員会企画調整局サイト)。それからというもの、ツイッター上では様々な見解がいりみだれ、このイベントの開催に反対するわたしもいろいろな発言をしてきた。それらのツイートは togetter まとめ『ICU(国際基督教大学)でミスコン!?』にまとめることにし、ほかのひとの協力をえながら、2000以上のツイートを収集してきた。

 そのなかでわかったことは、意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していないこと、そして意外にもおおくのひとがミスコンの問題点を認識していたことだ。つまり、賛成派も反対派も、おもったよりもおおかった。「どうでもいいじゃん」というひとはそもそもあんまりツイートでミスコンにふれない、ということかもしれないけれど、割合としてだけでなく、単純に数として、反対派も賛成派もおおくのツイートを発信していた。

 そこで発信されたツイートには様々な論点がふくまれていたし、たとえばミスコンが企業とむすびついていることがおおいという指摘など、わたし自身がきづいていなかった論点もいくつかあった。反対派・賛成派のツイートをいくつもよんでいるうちに、賛成派にも多様な理由があり、反対派にも多様な理由があるのだなあということもわかった。わたし自身、反対派を表明するひとのツイートには、どうしても賛成できないものもみかけた。

 もちろん、反対するひとはみんなおなじ理由で反対しなければいけないわけではないし、ある理由がほかの理由よりもすぐれているとも断定はできない。でも、「おなじ反対派だから」という理由で批判をさけることはおかしいとおもうし、わたしをふくめみんなの人生は「ミスコン」、ましてや「ICUのミスコン」だけでうめつくされているわけでもない。ことしのICUのミスコンが中止になろうと、あるいは世界中のミスコンがすべてなくなろうと、それ以外のところでわたしたちは様々な性の問題に直面するし、性以外の様々な問題にも直面する。「ミスコンに反対する」という1点において団結し、そのなかにあるちがいをにくちをつぐむのなら、それは、そういった「ほかの問題」を容認することになってしまうだろう。

 というわけで、反対派にもいろいろな立場のひとがいるだろうとおもい、「ICUのミスコンに反対するひとに10の質問」というのをつくってみた。たぶんいろいろな回答があるだろうとおもう。「反対派」といえども、それぞれちがうおもいがあって反対しているんだ、ということが、これによってすこしだけあきらかになればいいな、とおもっている。
 質問がわるいとか、10こじゃたりない、という指摘もあるとおもうけれど、とりあえずわたしがおもいつくかぎりで、論点となっているものをえらんでみた。(というか、わたしがちゃんと「反対派」として明確にしておきたい論点をえらんだので、わたしの関心にかなりかたよっているとおもいますm(_ _)m)

ICUのミスコンに反対するひとに10の質問

  1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)
  2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。
  3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?
  4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?
  5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?
  6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?
  7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。
  8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。
  9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?
  10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。

 こういう「〜への10の質問」のたぐいは、わたしが回答するときにはいつも「質問がわるい!」とか「重要なことがぜんぜんふくまれてない!」とかおもってしまうのだけれど、きっとほかのひとからしたらこれもそういうふうにおもわれるかもしれない。というわけで、改変は大歓迎です。

わたしの回答

 「ICUのミスコン企画に反対する会」Facebookページグループにさそわれて、いまは管理人としてもうごいているのだけど、この会はわたしやもうひとりの管理人の個人の意見をだす場所ではなく、情報や意見ををやりとりする場所、まとまってなにかやりたいひとがきっかけにできる場所として運営している。共同声明を十数名の呼びかけ人の名義でつくったけれど、これはあくまで呼びかけ人の名義であり、「反対する会」全体の意見を代表するものではない。なので、個人的な意見はツイッターでのみ発信してきた。というわけで、以下のわたしの回答も、「反対する会」や「反対派全体」の意見を代表するものではないことを、つよく、言っておきます。

1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)

 はい。

2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。

 ひとつに、「よい女性像」が「よい男性像」にくらべて多様性にとぼしく、しかも実現するのが比較的むずかしいということがあります。たとえば男性であれば「愛想はわるいけど、正直もの」とか「ブサイクだけど思いやりがある」ような男性が「よい男性像」としてえがかれることがありますが、女性はなかなか「だけど」とおもってもらえません。
 すこしでもわるい(とされる)ところがあると、いきなり「ダメな女」あつかいをうけたりします。「家事がへたくそ」「こどもがきらい」「ふとっている」「浮気している」「下品である」「ブスである」「貧乏くさい」「くちうるさい」「不妊症である」「レズビアンである」「障害をもっている」などは、それだけで「魅力的な女性」にはなれないときめつけられる(ことのある)理由のほんのいくつかの例です。もちろん最近は「よい女性像」の数もふえてきています。それでもいまだに、世のなかは男性にたいして比較的あまい評価をくだしているのが現状だとおもいます。
 また、「よい女性像」にちかづくための要素には、なぜか不断の努力を必要とするものが比較的「よい男性像」のそれよりも、おおいです。体型も、家事も、子そだても、理想どおりにやっているとおもわれるためには、ほぼ毎日の努力が必要となります。でも男性は「正直なことを言う」「思いやりのある態度をとる」「なにか危険なことがおきたときに、たすける」「いざというとき、たよりになる」など、単発の行動をときどきおこなうだけでも「いい男性像」をアピールすることに成功したりします(もちろん失敗することもあるでしょうけど、そういう単発のなにかで女性が「いい女性」と評価されることはなかなかありません)。
 また、「よい女性像」の条件のひとつである「みためがうつくしい」にしても、その価値観を毎年うまく誘導して商売にしているファッション業界・化粧品業界・雑誌業界などのえらいひとたちがほとんど男性であることは、つまり世のなかにひろまっている「よい女性像」が男性がかんがえる「よい女性像」につよく影響をうけていることを意味します。それは、「よい女性像」が多様になり、達成が容易になることを阻んでいるひとつの原因だとおもいます。
 ミスコンは、そういった世にひろまった「よい女性像」(なかみがなんであれ)をみんなで「こういうのがいい女性だよね」と再確認するイベントであり、「よい女性像」の多様化と容易化を阻むので、反対です。

 つぎに、「みる・みられる」の関係は、これまでずっと「男性=みる人、女性=みられる人」というかたちをとってきました。これも、テレビをはじめとした芸能ビジネスの発展や、芸能情報発信をする地位(プロデューサーなど)に女性がふえてきたこと、そして女性がみずから自分の欲望やのぞむことをくちにだせる機会が(女性運動やその他の歴史をとおして)増えてきたことなどによって、もちろん最近はかなりかわってきています。男性も女性のように「みられる人」の立場にたたされることがあること、そして男性も女性のように「みられる人」として商品(写真集、イメージビデオなど)にされることがあることは、先進国とよばれる地域にいて大衆文化を消費しているひとなら容易に実感できる歴史的変化だろうとおもいます。
 しかし、こういった変化(男性が「みる人」の立場に常にたっていられなくなったこと)にたいして、男性からのつよい反発がでることがあります。たとえば、BLとよばれる男性間の性愛をえがいた作品ジャンルにつよい嫌悪感をいだく男性はすくなくありません。そもそも男性同性間の性愛自体に嫌悪感がある、など、様々な要因があるとはおもいますが、そのひとつには、女性によって男性がえがかれ、それを女性によって消費されているということへの、つまり「みられる人」の立場に男性がおかれていることへの反発もあるとおもいます。ネットでは有名な「ただしイケメンにかぎる」というフレーズも、男性が「みられる人」の立場におかれることが(女性ほどではないにしても)ふえてきた現状への不満を、「イケメン」を好む(とされる)女性への揶揄に転化することで解消しているとも解釈できるでしょう。同じことが、「韓流ブーム」をばかにする男性にもいえるかもしれません。男性が「みられる人」の地位におちてしまうのは、なかなかつらい体験なのかもしれません。しかしそもそも「みる人」より「みられる人」の地位がひくく設定されていること自体が、おかしいのですが。
 いずれにしても、この変化はまだはじまったばかりです。ネットだけではなく、学校や職場、地域のひとたちのふるまいをかんがえてみてください。こころのなかで「あの男とやりたい」とおもっていたとしても、それを周囲にきこえるところでくちにだしたとたん、男性からも女性からも「あそんでる」とか「ビッチ」とか「常識がない」とか思われる女性がいるいっぽうで、「あの女とやりたい」と男性が公言してもその男性がほかの男性から非難をうけることはほとんどないでしょう。とくに、既婚のひとだったらその差はもっとひろがることでしょう。逆に、その男性を非難する女性がいたら「冗談がつうじないな」とか「男はそういうものなんだよ」とか言われて、非難自体が無効であるかのように扱われたりします。
 こういった男女のあつかわれかたの違いがまだまだ存在する以上、ステージに女性をならべて、審査員ふくめ会場のひとが(おうおうにして異性愛者の男性目線で構築された)世にひろがっている「よい女性像」をあたまにうかべながらならんだ女性をながめて、どの女性がより「よい女性」かの評価をくだすイベントであるミスコンには、反対です。そんなミスコンが今回、これまでのICUにおけるミスコンにかんする歴史を一切ふりかえらないかたちで開催の仮決定まですすんだことは(仮決定のあとも、学内限定サイトのみでの告知)、少しずつ「みる・みられる」の関係の男女差が小さくなりはじめている現代社会への反発があるのかもしれません。

 また、「ミスコン」という言葉には、「ミス」という独身女性につけられる言葉がふくまれています。独身女性しかエントリさせないというルールによって、いったいだれが得をしているのでしょう。「ミセス」(既婚女性)がまじっていたらこまるのは、だれなのでしょうか。
 ミスコンは「よい女性像」にもっともちかい女性を選ぶコンテストですが、おおくのミスコンでは(エントリするひとがある程度いれば)事前審査にうかった女性が大衆のまえにならぶのであって、かのじょらは事前審査においてすでにある程度「よい女性像」にちかいと判断された女性ばかりです。そうでなくとも、エントリする、あるいは他薦によってエントリされるためには、一般的な「よい女性像」からそうとおくないという自負なり、まわりからの評価が必要です。つまり、ミスコンは「1位の女性をみんなで賞賛するイベント」というだけではなく、「それぞれに一定レベル以上にはいい女である複数の独身女性をならべて、みんなで眺める機会」でもあります。
 「ミス〇〇」が独身女性であることの意味は、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」に書きました。つまり、日常生活では既婚か未婚かをみわけることができない雑多な「女性」というカテゴリーから、「妻・嫁にすることができる女」(しかもある程度「いい女」)だけを抽出し、ステージにならばせるイベントなわけです。
 そのような機能をもった「ミス」コンは、女性を「ひと」としてではなく「妻」や「嫁」という立場にふさわしいかどうかでふりわける、つまり社会的な役割におしこめることができるかどうかで評価をくだすイベントであり、その点でもわたしはミスコンに反対します。

 また、「えらぶ」側のひとのおおくが男子生徒や男性教員であること、そして前述のとおり、いずれにしても世にあふれている「よい女性像」を構築しているのは男性の目線がほとんどであることは、以下のことを意味します。つまり、ミスコンで1位にかがやいた女性は、みずからの身体や能力だけを学外にしらしめるだけでなく、どのような男性的目線が彼女をえらんだのかをも体現しているということです。すなわち、「ミス〇〇大学」は、その大学の「女性生徒」だけでなく、その大学における「男性たちの目線」をも代表させられるのです。「どんな女を評価する男性がいる大学なのか」の指標のひとつに、ミスコンがある、という。また、学内の男性同士でも「やっぱあの子が一番かわいかったよな」みたいなやりとりで、意識の統一が成功したりします(実際には失敗していても、失敗していることを告発できない空気が生まれたり)。「みる・みられる」の関係は、女・男のあいだだけではなく、ひとびとのあいだに様々な境界線を引き、固定化し、また、(たとえばミスコンのような)儀式によって最確認されるものなのです。
 もっと一般的なはなしをすると、地域や集団の代表に女性がえらばれることはすくなくありません。しかしそれは、そのひとが女性であることがなにかと都合いいときにかぎられます。つまり、女性が政治家として選挙に当選することはなかなかないもかかわらず、たとえば沖縄をえがいた映画で登場人物の女性が「沖縄」のイメージを担当させられることはおおいですし、あるいはニュージーランドがイギリスの植民地だった時代にニュージーランドにわたった植民者男性たちが「イギリスの男は女性的で、本当の男性性をうしなっている」という解釈をすることで「ニュージーランドの男性性」を構築しようとしたことなどにも、あらわれています。つまり、ほかのなにか(「沖縄」にたいする「日本」、「イギリス」にたいする「ニュージーランド」)とくらべて下位においておきたいものに「女性性」をおしつけることが、よくあるのです。白人がインドや中東に旅にでて現地の女性と恋におちるというおきまりのハリウッド映画も、おなじパターンをなぞっています。
 これは、外部からの目線にとって、ある文化の「女性性」の表象が、一種の「視覚的快感」をあたえるポルノグラフィとして機能していることをしめしています。それは、ときに性的な快感であり、ときに「女性性」を見下ろす優越感の快楽でもあり、ときには異文化を身勝手に消費する快感であり、ときにはそのすべてが混じってることもあるでしょう。「ミスアメリカ」とよばれる女性には、かってに「アメリカ文化」や「アメリカ人らしさ」という偏見がむけられます。「ミス日本」も、「ミス・ニューハーフ」も、他者からみればそれは、たんなる「女性」ではなく、フェチシズムの対象となる属性をもっているのです。大学のあいだで実際におおきな文化的差異があるとはおもえませんが、それでもひとは、「〇〇大学らしさ」というものを漠然としんじていたりします。たとえば、「岩手大の女子生徒」にはなにか素朴な部分があるとおもってやいませんか。「東大の女子生徒」にはちかづきにくさとか、恋愛経験のすくなさを期待してやいませんか。さらに、短大だったら知性がかけているとおもったり、理系の大学だったら勝手に白衣姿を想像したり、女子大だったら上品さを期待したりレズビアン関係を疑ったりしていませんか(いや、していないのならいいんですけど(笑))。
 これは、もちろん、「男だったら自分の大学の女子を学外からのフェチシズム的な目線から守れ」と言っているわけではありません。守らなくていいので、加担するのをやめましょうと言いたいのです。
 「ミスコンをやりたがってる女子生徒がいる」という反論もあるとおもいますが、わたしは「〇〇をしたがってる友人がいる」からといって、それをてつだうかどうかは「〇〇」がただしいことかどうかできめます。重要なのは自分がそれをただしいとおもうかどうかであって、その判断を保留にしたままで「友人のために」と言ったり、本当はただしくないと思っているけど「友人のために」と言って責任を友人におしつけることはよくないだろう、と言いたいのです。「ミスコンをやりたがってる女子生徒がい」たとしても、自分がミスコンをただしいことだとおもわないのなら、やるべきではないでしょう。逆にいえば、どんないいわけをいったとしても、ミスコンをやるときには、自分の「ミスコンをやる」という決断にともなう責任が発生するということです。
 もちろんこれは、女性がみずからの意志でなにかの代表になることを否定するものではありません。他者からの消費的な目線は、それが(民族や障害、階級、セクシュアリティなどとからまったうえで)女性にかたよってむけられていることが不当なのであって、ひとまえにでたときに不当なかたちでみられたとしても、その女性には責はありません。反省的にみつめなおすべきなのは、その不当にかたよった目線のありかたを「よし」とするような、メディアや日常生活におけるひとびとの表現行為の蓄積です。だから、そのような不当にかたよった消費的目線を追認するミスコンというイベントには、「今後もかたよったままでいいのだ」というメッセージを送ってしまう側面があり、その理由でわたしはミスコンに反対します。

3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?

 まず、「容姿だけではなく」といっても、結局、容姿が(ある程度)「よい」と認定されなければほかにどんな長所があったとしても「ミスコン」で1位になることはむずかしいでしょう。
 そして、わたしは容姿以外の様々な能力をふくめて「ひとりの人間として」女性をみること自体には重要性をかんじるものの、それをミスコンという形式でおこなうことには反対です。というのも、「ひとりの人間として」AさんはBさんよりもすぐれている、という表明を公に、それも集団の判断によっておこなうことが、よいことだとはとてもおもえないからです。むしろ、「容姿だけ」でランクづけするよりも、よっぽど非人道的なことなのではないかとすらおもいます。

4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?

 まず、これらの派生ジャンルはすべて、ミスコン批判を回避するためにかんがえだされたものだということをかんがえるべきだとおもいます。つまり、「ミスターコンもやるからいいだろう」などといってミスコンを擁護したいがためにかんがえだされたものだということです。そのやりかた自体に、わたしは卑怯さをかんじます。

 また、上にかいたように、わたしがミスコンに反対する理由は、ミスコンが社会全体にある「よい女性像」とのかかわりにおいて、それを強化したり、多様に発展していくながれをとめる効果をもっていることです。ですから、社会全体において男性がどうみられているか、女性がどうみられているか、そして女装・男装するひとがどうみられており、しないひとがどうみられているか、という点でかたよりがある状態では、かれらをどんなに形式的には平等にならべても(あたかも本当に平等であるかのように)、社会のそういったかたよりに影響をうけていないわけがない審査員や聴衆にランクづけさせるのでは、ちっとも平等ではありません。
 「ミスターコンだけをやっている」「男装コンテストだけをやっている」などのところは、すこしだけマシかもしれませんが。また、ミズコン(既婚・未婚をとわないバージョン)は、すこしだけマシだとおもいます。それでも、上でかいた「ミス=独身」問題以外の点では問題がのこっているとおもいます。

 また、女装コンテストは最近おおくなってきましたが、男装コンテストは非常にすくないです。これは、ミスコンがミスターコンよりも圧倒的におおいのと同様に、「よい男性像」よりも「よい女性像」のほうが画一的で、ランクづけがしやすいという要因が1つかんがえられます。また、男性による「女装」はなぜか男性にも女性にも肯定的にとらえられることがおおい一方で、女性による「男装」がなぜか同様の評価をうけづらいという状況もあります。
 これは大昔から文学など芸術の分野でうけつがれてきたかたよりです。たとえばシェイクスピアの演劇は、女性の役を(わかい)男性がえんじていました。それは、女性は演劇のステージにあがってはいけないという差別的なルールがあったからです。同様のことは、日本の歌舞伎などにもみられます。つまり、男性が「女性」をえんじることはゆるされていたのに、女性はなにをえんじることもゆるされていなかった。女性による演劇への参入がみとめられてからも、女性が「男性」をえんじることはほとんどゆるされてきませんでした。追記:この部分について、Cristoforouさんよりした。
 これは、人種にかんしてもおなじ現象がそこらじゅうにちらばっています。かつて米国では(いまでもその傾向はありますが)、テレビや映画において、白人俳優が黒人の役をやることはコメディなどでたくさんみうけられましたが、黒人俳優は(そもそも人数がすくなかったこともありますが)白人の役をもらうことはほとんどありませんでした。最近では、同性愛者の俳優が異性愛者の役をもらうことのむずかしさについて語った俳優が話題になりました。
 「大は小をかねる」という言葉があります。これはつまり、上位にあるとおもわれるものは、下位にあるとおもわれるものの代わりになることができるという意味です。この発想とおなじものが、「えんじる」という行為にもあてはまれられてきた歴史があるのです。
 いや、単に逆がむずかしかっただけじゃないか、という反論もあるかと思います。しかし白人による「黒人」の模倣は(表現方法に黒人を侮辱するものがおおかったというだけではなく)だいたいヘタクソなものばかりでした。白人は肌をくろくぬれば「黒人の肌」にみえるけど、黒人の肌を「白人の肌」にみせるのは大変だ、という一見もっともらしい説明もあるにはありますが、そもそも白人がぬりたくった「黒」は、ずさんで適当な黒でした。これは、「黒人の肌」が実際にどんなものなのかには興味などないから「充分黒人っぽくね?」と白人たちがおもってしまったのであって、同時に、おなじように適当にぬられた色でも、「白人の肌」には関心があるものだから、「こんなのは白人らしくない、ずさんだ」とおもったのでしょう。黒人のコミュニティでしばしばつかわれるしゃべりかたの特徴の模倣についても、おなじことがいえるでしょう。また、男性による「女性」の模倣にも「えんじる」という観点からは非常に完成度のひくいものばかりが蔓延しています。とくに声は、男性が「女性」の模倣をするのも、女性が「男性」の模倣をするのも、なかなかむずかしいものの1つです。それでも男性による「女性」の模倣は、たまたまうまければ賞賛され、ヘタクソでもコメディとして成立したりします。
 わらいというのは、基本的には「日常生活とのずれ」によって生じるものですから、ヘタクソな「女装」が笑いをとるのは、その「女装」のうらがわにある「本来の男性の身体」がつよく認識されていることを意味するでしょう。そして、その男性身体「にもかかわらず」えんじるという行為によって身体の制約からのがれて「女性」の模倣ができるだろうと期待されているのが男性です。「模倣」という「技術」であることが前提としてあるからこそ、男性身体とえんじられる「女性性」のギャップが明確に聴衆につたわり、わらいをうみだすのです。一方で女性は、どんなにがんばっても「男なみ」にはなれないとみくだされてきた歴史があります。「なんだかんでいって生理で仕事やすむんじゃ、おおきな仕事はたのめないな」とか、「だってきみ、どうせ結婚・妊娠したらやめちゃうんでしょ? 出世したって意味ないじゃない」とか、女性をばかにしたものいいには、女性のいきかたや人格などを女性身体とむすびつけるものがたくさんあります。「男性」の模倣ができるわけがないとされてきた女性俳優もまた、その歴史から無関係ではないでしょう。

 最後に、「ICUらしさ」コンテストの問題も指摘しておきます。そもそも「ICUらしさ」とはなにを意味するのでしょうか。ICUは、エリート校です。実際にあたまがいいかどうかは個人によりますし、「あたまがいい」という基準もあいまいなものですが、すくなくとも学費はたかく、学生や教員にもとめられる学術的水準もたかく設定されています。ここには、階層の問題や、教育の機会の問題があります。
 「ICUらしさ」といったときに、外部からも内部からも「日英バイリンガル」「国際性」などが、とくに内部からは「批判的思考」「リベラルアーツ」などが、そしてとくに外部からは「キリスト教がつよい」「特殊な入学試験なので合格しづらい」などがきかれます。これらの要素をひっくるめて「ICUらしさ」と(かりに)呼んだとして、「国際的な経験(帰国子女なり留学経験なり)があり、日英バイリンガルで、リベラルアーツの教養をもち批判的思考ができるキリスト教信者のICU生」がえらばれるとしたら、それはおそらくかなりの確率で、「ICUのなかでも裕福な家庭のひと」でしょう。
 そういう予想が簡単にできる状況で「ICUらしさ」をきそわせることは、すなわち家庭の経済状況をきそわせることになります。そんなコンテストには、わたしは反対します。

5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?

 ミスコンにエントリする女性には、様々なひとがいます。たとえば、「匿名の現役ミスの方からのメッセージ」で紹介させていただいた現役ミスのかたは、まちづくりに積極的に参加するつもりでエントリしたそうです。また、社会貢献を本気でやっているミスのひと、ミスコンのなかにある問題点を改善しようと内部からがんばっているミスのひと、おおきなミスコンにでて有名になることで知名度をあげて社会につたえたいことを発信しようとしているひと、などなど、本当に多様です。もちろん、就職活動に有利だからという合理的な判断をするひともいます。たんにたのしいイベントがすきだから、というひともいます。自分にもっと自信をもつために参加するひともいます。
 わたしは、そういうひとのことは、性別関係なく、がんばってほしいとおもっています。
 ミスコンには問題はあります。でも、いまある資源をつかって目標を達成することには、とくに非難する必要性をかんじません。
 たとえば社会的に男性に位置づけられるひとは、すでにいまある資源をふんだんにつかっています。仕事場で上司に意見をいってもはなしをきいてもらえなかったり、あろうことか「今度ゆっくり」なんていわれて食事にいったらセクハラされた!みたいなことになっている女性がすくなくないのに、一方で男性のほとんどははじめから「仕事はある程度できるだろう」と信頼してもらえるし、セクハラもめったにありません。学校教育においても、男子生徒にたいするそういった優遇措置はたくさんあります。たとえば私は男子生徒だったのですが、あるとき面談で担任に「おまえ、数学で女子にまけてるぞ。もっとがんばらないと」といわれたことがあります。この担任が、当時わたしよりも数学の成績がよかった女子生徒との面談で彼女にいったいなにをいったのだろうか、と、いまでもときどきおもいだしてはかんがえこんでしまいます。こういったことは、わたしの担任だけではなく、いろいろなところでみうけられるようです。
 また、たとえば昇給についても、米国の調査ですが、こんなものがあります。これまで女性が男性よりも昇給の機会がないと思われていたところ、じつはそもそも女性は昇給を上司に提案することに消極的だ、という調査結果がでたのです。しかしさらにこの問題についてくわしく調査したところ、部下である「女性」と「男性」の積極性や消極性という男女差ではなく、「上司」の性別と部下の性別のくみあわせによって部下の積極性がある程度左右されていることがわかったのです。つまり、男性の上司に昇給を提案するのは、男性の部下にとってはむずかしくないが、女性の部下にとってはむずかしい。逆に上司が女性の場合は、男性の部下も女性の部下もかわらず昇給を積極的に提案できる、という結果がでたのです。管理職に男性がおおい環境、というだけでも、そこではたらく男性はすこしだけ女性よりも優遇されているのです。しかしその特権をつかって出世したり夢をかなえるのは、非難の対象になるべきではありませんよね。

6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?

 上にかいたような、性別や、性に関する自己表現、セクシュアリティ、民族、障害、階層など、社会にたくさんある様々な「かたより」がなくなったら、ミスコンをやってもいいとおもいます。もちろん、そんな社会には「ミスコンをやろう」というひとなんていないでしょうけれども。

7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。

・ミスコンをやる大学はレベルがひくく幼稚だが、これまでやってこなかったICUはレベルがたかかった、的な意見。

・ICUでやってもどうせかわいい子なんていないよ、という意見。

・ミスコンにでるような女は女の敵、という意見。

・大学当局によってつぶされて、企画者は処罰されるべき、という意見。

8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。

 今回のミスコン企画が実際に開催されるかどうかは、わたしは個人的にはそこまで重要なことではないとおもっています。なので、「中止」を目標にはしていません。中止されなかったとしても、ICUの学生や教職員、そして学外のひとたちがこの問題について、いままでよりもうんとかんがえてくれることを、個人的な目標にしています。
 そして、中止になるとしても、一切周囲からの強制・脅しなどがないことをのぞみます。たとえばICU祭実行委員会や大学当局が「中止」を決定したり、主催団体に「中止」の決定を強制するような事態は、なにがなんでも阻止すべきです。しかし一方で、個人や団体による「批判」「意見」はおおいにおこなわれてほしいとおもっています。
 むしろ、批判内容に納得しないのであれば、ぜひともミスコンは実施してもらいたいです。納得していないのに「中止」によって対話ややりとりがうやむやになり、ミスコンについての議論がストップしてしまうよりは、ミスコンが実施されたとしてもそのあともずっと議論がつづいていくほうがのぞましいとおもっています。

9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?

 社会全体であり、とくにICUにこれまでかかわってきたひと全員(わたしふくめ)です。なにに責任があるかといったら、ミスコン企画が可能になるような社会をわたしたちひとりひとりが形成し(つづけ)ていることであり、ICUという場所にいながら、その身近な場所すら変革しようとしてこなかったことに、です。
 

10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。

・児童ポルノ規制法の強化と、非実在青少年関連の規制論
・同性愛者のめだつ政治活動における、経済的多様性への関心のなさ
・DV(近親者暴力)支援体制における、身体的暴力への関心の偏重
・在日コリアンにたいする日本政府および日本国民による様々なかたちの暴力
・北京会議以降の日本のフェミニズムの主流化と、それにともなう問題
・難民申請者や外国人労働者の人権にたいする日本政府の無知・無関心・悪意のある無視

 これだけのながい文章になると、同意できないところ、まったくもって「おかしい!」とおもうところなど、たくさんあるとおもいます。どうぞしたのコメント欄やツイッターでご批判おねがいいたします。

マーティン・ルーサー・キングJr.の引用文とオサマ・ビン・ラディンの死

オサマ・ビン・ラディンが殺されてまもなく、英語圏で以下の引用文が一気に広がり、5月2日の夜(米国)にはわたしの Facebook のニュースフィード(ツイッターで言うタイムライン)にも既に数個同じものが流れていた。英語ブログでこのことについて書いたらいきなり普段の数倍のアクセスがあったので、この引用文への関心が高い様子が分かると思う。日本語話者のツイッターアカウントにも流れ始めていたので、日本語ブログででも書いておこうと思います。

 引用文の内容は以下の通り。和訳は適当です。

“I mourn the loss of thousands of precious lives, but I will not rejoice in the death of one, not even an enemy. Returning hate for hate multiplies hate, adding deeper darkness to a night already devoid of stars. Darkness cannot drive out darkness: only light can do that. Hate cannot drive out hate: only love can do that.” –Martin Luther King, Jr.

「わたしは、かけがえのない数千の命が失われたことを悼むと同時に、たった一人の死も——たとえそれが敵であっても——喜んだりはしない。嫌悪に嫌悪で返すことは、嫌悪を増大にするだけであり、既に星のない夜に更に暗さを追加するようなものだ。暗黒は暗黒を追いやることはできない。それが出来るのは光だけだ。嫌悪は嫌悪を追いやることはできない。それが出来るのは愛だけだ。」マーティン・ルーサー・キングJr.

 この引用文を初めに見たとき、「MLK(マーティン・ルーサー・キング)が生きてたらそう言うかもしれないけど、オサマ・ビン・ラディンが殺されたという今の文脈で、それをMLKが言うことは適切だろうか」と思った。

 ビン・ラディン関連のウェブページばかりが検索に引っかかるので大変な思いをしてやって見つかったのが、以下のサイトだ。

 全て、今回出回ったMLKの引用文が偽物である、似ている箇所はあるけどMLKの本などにはそんな言葉は無い、という内容だ。MLKの言葉である、という証拠が出ていない現状では、わたしはこの引用文を偽物だととりあえず思うことにした。

 でも、この引用文が偽物であるからといって、単に引用(というか、偽情報の拡散)をやめればいいかというと、そうでもないと思う。この引用文が出回っていること、それが意味すること、それがもたらす効果などは、引用文が本物かどうかとは関係ないのだから。多くの米国市民(その中には「(今のところ)今世紀最大のテロリスト!オサマ・ビン・ラディンの死!」を祝っている人もたくさんいる)にとって、この引用文は命を大切にすることについて考えるきっかけになるだろう。

 けれど、引用文が本物だろうが偽物だろうが、オサマ・ビン・ラディンの死という文脈においてはこの引用文は不適切と言わざるを得ない。

 そもそも、MLKはオサマ・ビン・ラディンを「敵」とみなしただろうか。不利益や酷い差別を受けていた多くの黒人と一緒に黒人市民権運動を通して白人至上主義的な米国社会から権利や尊重を少しずつ勝ち取る運動をしたMLKにとって、「敵」とは一体誰だったのか。

 「”Love is the only force capable of transforming an enemy to a friend” 敵を友人に変えることの出来る唯一の力は、愛である」とMLKは言った。市民権運動の文脈での「敵」は、暴力において優位に立っていた者のことである。であれば、MLKにとっての「敵」とは「白人至上主義者」だったと考えて間違いない。

 「テロとの戦い」という言葉が反ムスリムの政治活動や中東出身者への社会全体の嫌悪を支えるレトリックになっているいま、自分の言葉が(自分のじゃないんだけど、たぶん)「うーん、わたしたちにとってビン・ラディンは敵だけど、死んだのを喜んだりはしないよ」というリベラルな自己表現に使われることをMLKは果たして喜ぶだろうか。「わたしたち」はいったい誰か。もし引用者が「わたしたち」にMLKをも含まれると思っているなら、ひどく間違えていると思う。

 確かにMLKは、「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」と言った。ここで、1つめの「暴力」をV1と呼び、2つめの「暴力」をV2と呼ぼう。すると、「V1にV2で応酬することは暴力を増大させる」となる。そして、ここでのV1とはいったい誰の暴力だろうか。多くの人は9・11をV1だと思っているらしい。けれど、それは大きな間違いだ。

 世界で起きた様々な暴力の歴史を全て振り返ることは難しいけれど、規模・期間・効果の面で考えると、わたしにはV1は西洋社会(特に米国)がサウジアラビア、イラクその他でやってきた物理的・経済的・社会的暴力(イスラエルを支持していることなども含め)のことであるように思える。9・11は、そもそもV2だったのだ。オサマ・ビン・ラディンとアル・カイダの仲間が行ったのは、「暴力に暴力で応酬すること」だったのだ。もちろん、それに対して2000年代米国や米国に親和的な国家が更なる暴力を引き起こしたことを考えると、MLKの「暴力を増大させる」というのは真実だが。

 もし引用者がMLKのものだったとしても、米国市民がそれを引用する資格は無いと思う。世界で起きている暴力を止めたいと思っている中東の人々によって引用されるべきもののはずだ。もちろんそれは、世界で起きている暴力の責任が中東の人々にあるからかれらが止めるべきだと言っているのではない。MLKの時代においても、MLKの言葉は黒人に向けられていたけれど、実際に暴力をやめるべきだったのは黒人じゃなくて白人至上主義者たちだ。同様に、中東における暴力を米国等西洋国家がやめるべきだというのは当然。

 MLKを引用すること(MLKの言葉ですらないんだけど、たぶん)によって、米国が行っている暴力の責任から個人が逃れることは出来ない。あたかも全ての始まりはオサマ・ビン・ラディンの暴力であったかのような振る舞いでオサマ・ビン・ラディンを「擁護」するのはやめて、米国・英国・日本、そして中東の人々の土地に軍を送った全ての国の責任を追求しなければいけない。なぜなら、わたしたち先進諸国は9・11というV2に対して、V3で応酬したのだから。

*修正*

 MLKは「”Returning violence for violence multiplies violence” 暴力に暴力で応酬することは暴力を増大させる」とは言っていませんでした。「”Returning hate for hate multiplies hate” 嫌悪に嫌悪で応酬することは嫌悪を増大させる」、そして「”violence multiples violence” 暴力は暴力を増大させる」とは言っています(ここをクリックすると本の該当部分が見れます)。この違いによって上で書いたことが無意味になるわけではないですが、引用文の不正確さを指摘する記事で引用ミスしてたんじゃ目も当てられないわオホホ。ごめんなさ〜い。

「日本初の『ゲイ議員』」は「初」じゃない。

「ちょっとあんた反応遅くない?」と思われそうなので言っておきますが(笑)、英語媒体で “Japan’s first openly gay politician” とか書いてあるのを見つけてすぐに英語ブログで『“An Openly LGBT Politician in Japan!?” Is Not A New Phenomenon』という記事を書いたので、そちらもよかったら合わせてどうぞ。

 で、日本語の媒体ではニューズウィーク誌が書いている。

日本初の「ゲイ議員」が誕生
2011年04月26日(火)18時39分

 統一地方選が終わったが、今回、日本で初めて同性愛者であることを公言する「ゲイ議員」が誕生した。東京・豊島区議の石川大我と中野区議の石坂わたるだ。

 性的少数者であるLGBT(レズビアンやゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の政治家としては、世田谷区議の上川あや(今回3期目の当選)が有名だ。彼女は生物学的な性別と本人が自認する性別が一致しない性同一性障害で、戸籍の性別も男から女に変えている。

 ニューズウィーク日本版は06年、「ゲイ in Japan」という特集を掲載した。「ゲイ人」レイザーラモンが「ふぉ~~」とやっていた頃である。その時に取材をさせてもらったのが石川で、当時は何人かの仲間と一緒に、ピアフレンズというゲイの若者向けの友達作りイベントを開催していた(ピアフレンズは今はNPO法人となり、その輪もずいぶん広がっている)。

 その後、NHKの番組に出演したり、千葉県の人権関係の委員を務めたりと少しずつ活動の場を広げる石川を見て、いつか政治家をめざすのだろうと密かに思っていた。

 しかし、同性愛者を公言して、政治の場に立つことはとても難しいことだと思う。色眼鏡で見られることもあるし、その当事者の権利拡大が第一義なのだろうと思われて支持が広がりにくい面もあるからだ(一般に同性愛者の割合は人口の5%くらいといわれる)。

 政策を訴えるうえで、多くの候補者は自らの経験や立場を強調する。例えば母親であること、介護の場で働いてきたこと、弁護士の経験……。すべて社会生活につながるものだが、これが同性愛者という立場の場合、どうしても「男が好きな男」「女が好きな女」と、いわゆる「性癖」としてとらえられがちだ。

 しかし同性愛をセックスの面からだけ考えるのは間違っている。結婚制度や家族制度という社会の基礎となるさまざまな制度がからんでくる話だし、お年寄りや障害のある人なども含めた広い意味での社会的弱者の問題にもつながる。

 世界的には同性愛を公言している政治家はけっこういる。仏パリのドラノエ市長(男)や独ベルリンのウォーウェライト市長(男)、米テキサス州ヒューストンのパーカー市長(女)、アイスランドのシグルザルドッティル首相(女、国家首脳として初めて同性結婚)などなど。彼らについての話を、ニュースや新聞で見たり読んだりしたことはあるはずだ。

 ところが、今回のゲイ議員誕生についてはあまりニュースになっていないような気がする。社会の変化の象徴として画期的な出来事だと思うのだが。

――編集部・大橋希

 石坂わたるさんや上川あやさんへの言及があるなど、英語媒体に比べてはまだマシ。でも「ゲイ議員」という言葉にものすごい問題が含まれてる。それは後述。

 英語版では PinkPaper.com (“Britain’s leading gay news website“) で Stacey Cosens さんがこんな記事を書いている。ちなみにこの内容は他の英語媒体での石川大我くんネタとほぼ同内容(少なくとも現段階では)。

Japan’s first openly gay politician wins seat
Taiga Ishikawa has become Japan’s first openly gay politician after winning a seat in the Tokyo ward assembly in local elections on Sunday.

Stacey Cosens
Tuesday, 26 April 2011

Taiga Ishikawa has become Japan’s first openly gay politician after winning a seat in the Tokyo ward assembly in local elections on Sunday.

Speaking to AFP he said: “I hope my election victory will help our fellows nationwide to have hope for tomorrow, as many of them cannot accept themselves, feel lonely and isolated and even commit suicide,”

“Many LGBTs, or sexual minorities, realise the fact when they are at elementary and junior high schools, many of which are operated by the municipality,”

“As a ward assembly member, I would like to reinforce support to LGBT children at schools.”

Ishikawa revealed he was gay in his book “Boku No Kareshi Wa Doko Ni Iru” (Where Is My Boyfriend?),”published in 2002.

The Toshima race saw 53 candidates compete for 36 seats.

 「ゲイ」という言葉が「ゲイ男性」を意味する傾向は英語にもあるけれど、日本語においてのそれよりは強くない。日常会話においてレズビアン女性を “gay” と表現することは珍しくない。そんな中、少なくともレズビアンを公表している尾辻かな子さんの存在がある状況で、 “Japan’s first openly gay politician” は明らかに誤報。

 「ゲイ」がレズビアン女性を指すことがほとんど無い日本語においても、この文脈で石川大我さん・石坂わたるさん・上川あやさんが言及されている中で(特に「初のゲイ議員」という、性的指向と政治についての歴史を記録するような記事において(記者も「社会の変化の象徴として画期的な出来事」として報道してるし))尾辻さんへの言及が無いというのは、レズビアン消去だし、歴史の消去。

追記:尾辻かな子さんは当選後にカミングアウトしたので当てはまらない、という(尾辻さんのことを知ってる人はほとんどみんな知ってるような知識をもとにした)意見がネットで出始めてるけれど、(1)だとしても自分が記者だったら尾辻かな子さんに言及するべきだと判断すると思わない? (2)「尾辻さんは当選後カムです( ー`дー´)キリッ」って言うことによってあなたは何を擁護しようとしているのか考えてみて。

 それに、「議員」と “politician” も微妙に違う概念でしょう。議員は任期のあいだだけの職業だけど、 “politician” (政治家)は任期に縛られない概念。 Wikipedia の “politician” 項目には:

A politician or political leader (from Greek “polis”) is an individual who is involved in influencing public policy and decision making. This includes people who hold decision-making positions in government, and people who seek those positions, whether by means of election, coup d’état, appointment, electoral fraud, conquest, right of inheritance (see also: divine right) or other means.

とあるし、日本語の「政治家」項目にも:

現代の日本では、「衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長の職」(国会議員、地方議員、地方首長)は公職選挙法の適用対象となる公職とされ、公職にある者、公職の候補者または候補者となろうとする者が政治家の代表的な存在である。

副知事、副市長、民間人閣僚、政治を志している人(政治活動家)も政治家と呼んで差し支えない。

とある。

 それを考えれば、 “Japan’s first openly gay politician” は恐らく東郷健。 “Japan’s first gay politician” は誰だろうね、クローゼットだったら私たちには知りようがない。「ゲイ議員」という言葉の問題もそこにある。恐らく「ゲイ」自認の政治家・議員はこれまでもたくさんいた。公表しない人ばっかりだっただろうけれども。

 こういう報道のミスは、記者だけが責められるものでもないと思う。というのも、日本語で出回っているネット情報においても大我くんを「初のオープンリーなゲイ政治家」扱いしているものはたくさんあるから。でも記者の仕事というのは自分の手に入れたソースの信憑性を吟味して、読者にとって信頼に足る記事を書くことのはず。

 こういう歴史の消去は、あたかもクィアの存在が政治の世界において何か新しい現象でもあるかのような、ターニングポイントでもあるかのような印象を与えるし、それは同時に「これまでずっと抑圧されていたけど、時代が変わりつつある」という物語を生産・再生産するものであって、問題が大きい。

 で、「初のオープンリーなゲイ政治家」という表現をさっき括弧にくくって紹介したけれど、ボクが今回の大我くんネタ報道のあり方と同様に最近気になっているのが、「オープンリー」という言葉の突然の広まり方。ここ1週間くらい(あるいはもうちょっと前から)「オープンリーな」という言葉がネット上のクィア関係者のあいだで広まっている。

 これは “open” という形容詞(「〜な」「〜だ」「〜い」と訳される品詞)が一度 “openly” という副詞(「〜に」「〜的に」「〜で」と訳される品詞)に変換されたのち、更にそれに日本語の「な」を付けることによって形容動詞(英語では形容詞)にもう一度戻されているという、すごくトリッキーな手順で作られた新しい用語なのだけれど、そのジャパングリッシュの変なエキゾチック感にボクが個人的に感じる違和感はまあ置いておいて、そんなトリッキーな手順をたまたま多くの人が今回一斉に思いついて使い始めたわけじゃないのは明らかだと思う。恐らく何らかの形で候補者あるいは支持者のあいだでオーガナイズされて使用されるようになり、広まったんだろう。

 それは全く構わない。言語は日々変わっていくものだし、言語資源が人々の世界観を反映し、また生成して行くものであるのは当然の、不可避の出来事だから。でもこのタイミングで「オープンリーな」という言葉が一気に広がったことの背景にはどんな効果が意図されていたのか、そして実際にどんな効果があったのかは、考える必要があると思う。

 「オープンなゲイ」(ゲイだけの話じゃないけど)という言葉ではなく、「オープンリーなゲイ」あるいは「オープンリー・ゲイ」という言葉を使うことのメリットは何だったのだろう。1つには、「オープン」という言葉が(既に「開店中」みたいな強い意味が存在する日本語において)「クローゼットではない」という意味として通じるかどうか分からないので、あえてちょっと変えることで「開店中」とか他の意味に誤解されるのを避ける、という効果があると思う。

 2つめに、「オープン」という言葉が既に多くの日本語話者にとって馴染みのある響きなので、そこで意味が切れることが明らかだから、「オープン・ゲイ」「オープンなゲイ」と言ったときに、残りの部分、つまり「ゲイ」の部分が聞き手にとって明確に聞き取れてしまう。逆に「オープンリー・ゲイ」だと、英語が多少分かる人でなければ、どこに切れ目があるのかも分からないと思う。「オープン・リーゲイ」という切れ目があると思う人も多いと思う。「オープン・リーゲー」とか「オープン・リーグ A」と思うかも。「サッカーの試合か何か?」みたいな。そうすると、英語が多少分かる人以外は「ゲイ」の話、つまり性的指向の話だとは分からずにこの言葉を受け流してしまうかもしれない。意図されてはいなくとも、そういう効果はあると思う。

 3つめに、「オープンリー」という新しい言葉を使うことで、そしてそれをツイッターやmixi等のネットを通して広めて行くことで、今回の政治家三名の選挙活動や当選が、何かとんでもなく新しい現象であるかのような、つまり前述の報道のあり方と呼応する形で、「日本のクィア政治の歴史」のターニングポイントを人工的に印象操作で作り出してしまう効果があると思う。

 既に多くのクィア系のツイッターアカウント(個人・団体)で「オープンリー・ゲイ」「オープンリーなゲイ」という言葉は多用されていて、それはもはや、何かひとりひとりノルマでも課せられているのかしらと疑ってしまうほど頻繁に使われている。それが、ボクにはすごく怖い。

 最後に、ちょっとこの話題とは関係ないのだけれど、上で紹介した PinkPaper.com という「ゲイ・ニュース・サイト」にコメントしようとしたときにアカウント登録を求められたのだけれど、そこに「タイトル」という項目があって、これが必須項目だった。「タイトル」というのは、ちょっと日本語でなんと呼ばれるものなのか分からないのだけれど、 Mr. とか Mrs. とか Miss とか Prof. とかの、肩書きや性別、婚姻状況を表す、姓名の直前に付けるアレです。

 で、 PinkPaper.com 、 “Mr. / Mrs. / Miss / Rev. / Prof.” あと何だったか忘れちゃったけど、そういう選択肢しか用意していない。つまり、 Prof. (教授) や Rev. (師 – 聖職者用) などプロフェッショナルな職業に就いていない人間はジェンダー化されたタイトルを選ばないとユーザー登録が出来ず、コメントも残せないという設定になっている。「ゲイ・ニュース・サイト」だろう? とびっくりした。

共生ネットによる『セクシュアル・マイノリティへの対応に関する要望書』およびそれにまつわる議論について

“共生社会をつくる” セクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク(以下「共生ネット」)が『被災地におけるセクシュアル・マイノリティへの配慮ある対応について要望書を提出しました』という記事で、同団体が緊急災害対策本部および内閣官房長官の枝野幸男さんに提出した旨を報告し、要望書(以下「要望書」)本文の一部を公開しています。

 この要望書に関して、わたしは一般公開よりも一足早く、共生ネットさんから直接連絡を頂いていました。というのも、わたしは今回の地震・津波の報道を目にしてすぐに、LGBTであることによって被災地(特に避難所・仮設住宅生活)においてどのような困難が上乗せさせられるのかについてツイッター上で意見を募り、のちに(2011年03月11日(金) 19:00:00に)『被災地のLGBTが望むこと』というwikiサイトを立ち上げ、様々な立場の方々に意見を書き込んで頂いていました(当時のトップページはこちらです)。当初は出来るだけ早く意見を集約しようと「3月16日(水)の午前9時まで」という意見書き込みの締め切りを設けていました。それは、避難所等のいわゆる「現場」で使える資料(想定していたのは、A4サイズ1枚の、専門用語等を排したわかりやすいガイドラインの作成です)を出来るだけ早くまとめたいという思いでしたが、被災地のLGBT当事者含め様々な方々のご意見を頂戴する中で、「情報内容」「配布形式」「配布対象」「配布時期」の再検討が必要であることを認識し、意見集約・配布を急ぐのではなく、各方面との連絡を取りながら今後数ヶ月以上続くであろう避難所生活・仮設住宅生活を長期的に見越した資料の作成のために、提言内容の精査及び改善を行って行くことにいたしました(これらの変更は3月16日午後10時15分にwiki上で発表致しました)。

 さて、当初より多くの方に意見を書き込んで頂くためにジェンダー・セクシュアルマイノリティ関連のメーリングリストに案内を流したのですが、そのうちの1つが共生ネットさんでした。運営の方からお返事を頂き(12日午後9時14分)、共生ネットでも緊急災害対策本部および内閣官房長官宛の要望書を作成中である旨教えて頂きました。また、その際『被災地のLGBTが望むこと』を参考資料としたいとのことで、許可を求められ、了承しました。了承した理由は、緊急災害対策本部および内閣官房長官宛の(のちに、内閣府、NGO会議、関連委員会・省庁にも提出する旨連絡を受けました)要望書を出す「政治要請」としての活動と、『被災地のLGBTが望むこと』で目的としていたガイドライン作成は大きく目標を違えるものですが、共生ネットさんがいずれにせよ政治要請をすると決めているのであれば、多くの人たちが知恵を出し合ってきた『被災地のLGBTが望むこと』の知見を全く提供しないよりは、それを参考にして頂く方がより良いものができると判断してのことです。これによって、政府への申し入れ・当面の政府関係機関への配布は共生ネットさんにお任せし、『被災地のLGBTが望むこと』では継続して意見の集約と提言の改善を行うことにいたしました。

 内容および要望書内の「謝辞」の文面等について共生ネットさんとやり取りを重ね、現在のかたちで合意に至り、共生ネットさんが要望書の提出を行いました。しかし、当初「内閣府、NGO会議、関連委員会・省庁」宛ということであったはずの要望書は、大規模なジェンダー・スタディーズ系のメーリングリスト(他にも媒体はあったかもしれませんが、私の知る限りではメーリングリストのみでした)を通して、また転載・拡散を呼びかける形で、公表されました。要望書をまとめ、文書化し、公表したのは共生ネットさんであり、その責任が一切『被災地のLGBTが望むこと』に書き込みをした人々(わたし自身を含め)に無いことを要望書内「謝辞」において明確にして頂いてはいましたが、要望書内のいくつかの項目は『被災地のLGBTが望むこと』の内容と酷似しているものもあり、wiki上で頂いたコメント(配布・配信の時期や方法に慎重になるべきとの声)を鑑みると、今の時点で要望書全文の転載・拡散を呼びかけることは、そもそも『被災地のLGBTが望むこと』にコメントないし本文書き込みをして下さった方々の意志をないがしろにすることであり、更に、慎重さを求めるコメントにあるような懸念が現実になるのを後押ししてしまうことになると判断し、共生ネットさんに再度ご連絡を差し上げ、当該メーリングリスト上で再度共生ネットさんより「1ページ目にある情報のみ転載・拡散可能」との旨を流して頂けることになり、迅速に対応して頂くことが出来ました。また、共生ネットさんが今回このタイミングでの情報発信を試みた背景にあるお考え、メンバー等の経験、その他につきましてもご説明頂きました。

 わたしは依然、1ページ目のみにせよ、このタイミングでのこの形での情報拡散には賛成は出来ません。また、内容に関しましても、『被災地のLGBTが望むこと』に書き込まれた「『LGBTの代表』である人を置かない」という項目は反映されず、代わりに『災害対策本部は、セクシュアル・マイノリティに関する専門知識や支援経験のある人を登用し、意見を聴取してください』」という項目が入るなど、いわゆるトップダウンの傾向が強まったことには危惧を感じています。しかし要望書はあくまで共生ネットさんの名義ですので、私に出来るのは懸念をお伝えするところまでです。現在は、「全文をインターネットで公表する際に『被災地のLGBTが望むこと』への謝辞文面をどうするか」といったところで継続して話し合いをしています。参考資料としての利用を了承した者の責任として、どういった形が最も望ましいのか、模索しているところです。

 さて、今回この共生ネットさんの要望書に関して、小田中直樹さんという方が個人ブログにて意見を書いています。「【3/21】タイミングの大切さについて。」および「【3/25】「疑似インテリゲンチャ」またはハンパな全能感の哀しみ。」がそれにあたります。これらは、小田中さんの言葉を借りれば「3/17(引用者注:要望書の提出日)というのは、やっぱりまずいと思う」という懸念による、要望書への批判です。その点(タイミングがよくないのではないか、という懸念)だけにおいて言えば、わたしも小田中さんに同意しますし、わたし自身、今回wiki上で様々な人のコメントや書き込みを頂く中で、自分が起こすアクションについて慎重になる必要性を強く感じました。ただ、わたしは、拙速な行動を予定していたことを反省したからと言って、それを踏まえたわたしが「タイミング」に関して最終的に下す決断が本当に正しいものになる確信はありません。その点において、小田中さんにはその「タイミング」を見極める能力があるという想定が小田中さんの批判から見え隠れすることに、危惧を感じます。

 特に気になるのは、「戦時」「戦後」「復興期」およびその段階的発展における「余裕」の変化に関する小田中さんの理解・考察が、そもそも(団体なり地域なり社会なりに)余裕が無くなった時にその重要性が優先順位において押し下げられ、無視されたり切り捨てられたり犠牲にさせられるようなパターンを繰り返し経験してきたセクシュアル・マイノリティの歴史および生活経験を、同様のロジックを用いて再生産するものだと思うからです。このような経験の中、セクシュアル・マイノリティの権利や尊厳を求めることは、往々にして「贅沢」「自己中心的」と言った言葉で非難を受けて来ました。

 小田中さんは次のように言います。

保健室では、残り少ないストーブの灯油を気にしながら、臨月の妊婦さんが震えていました。教室の床にブルーシートを敷いて、老人の皆さんが、どうにかゲットした段ボールのうえで毛布にくるまって寝てました。そういうタイミングで、例えば地元紙があの提言をニュースとして載せたら(ありえなかったと思いますが)「なに言ってんだ、この贅沢者が」になる危険もあったでしょう(まだ「戦後」段階だから、たぶんそんな余裕はなく、大丈夫だったろうとは思いますが)。

3)セクシュアル・マイノリティの健康ニーズについて知識のある医師やカウンセラーを配置してください。
==>どこにいるんだ、そんな人? たしかに仙台にもいるが、自分の避難で精一杯。避難者全体の健康ニーズすら、ボランティアでまわってくるお医者さんのおかげで、どうにかカバーできたのである。それでも、暖房もないなかで、インフルエンザの子供たちが避難していたんだぞ。ぜーたく言うな。

もしも提言するんだったら、まずは「性的少数者」だけではなく、そういう「全体」に想いを馳せて(できれば「思いをはせてからにして」)ほしい・・・それが、ぼくの期待です。もちろん、それはネットワークの「しごと」ではないかもしれませんが、しかし有限のリソースを配分する提言をするのであれば、全体に目を配らないと説得性が減少します。

 「臨月の妊婦」「子供たち」は、(現実にはセクシュアル・マイノリティと無関係ではない人々であるにも関わらず)セクシュアル・マイノリティがそこから周縁化されているような規範に基づく価値体系(ヘテロセクシズム)において保護を受けやすい主体です。小田中さんは、「性的少数者」と「全体」を対置させるレトリックにおいて、「臨月の妊婦」「子供たち」を「全体」の側に、そして「贅沢者」「ぜーたく言う」者を「性的少数者」の側に配置するような典型的なヘテロセクシズムをなぞりつつ、セクシュアル・マイノリティの要望を「説得性が減少」すると評価します。

 しかし、要望書がこのタイミングで提出されたことを原因として「説得」させられなかった人、というのは、(小田中さんが示している限りにおいては)小田中さんご本人のみです。自分が説得させられなかった、納得しなかったという事実を、主語を提言者(共生ネット)に転換することで、あたかも要望書あるいは要望書の提出の手つき(タイミング含む)こそが疑いなく「説得性」の低いものであったかのように再構築するレトリックを実践しています。差別において、明確な差別主義者よりも時に厄介なのは、「私はあなたのような人を差別したりしないんだけど、周囲の人はどうか分からないから、こうしなさい」とアドバイスを寄越すような自称博愛主義者です。「私」が「アドバイス」出来る立場にあると思えること、「私」が「差別したりしない」人かどうかを「私」が決められると思えること、それ自体が特権的な立場にある者の特権であって、その特権の行使をしつつも「差別」の本当の犯人を「私」の外部に配置することは、差別のアウトソーシングです。

 私は、もちろん、個人的には共生ネットの要望書の内容に不備があると思いますし、タイミングや拡散の方針については最善ではなかった、むしろ弊害を引き起こしうるリスクの高いものであったのではないかと思います。その点では、小田中さんと同様の懸念を感じていると言っていいでしょう。しかし、それは、私がそう思っているだけなのかもしれない。共生ネットには東北地方も含め様々な地域の出身者、様々な年齢のメンバー、そして様々な立場を持ち、同様に様々な人々・団体との関わりを持ったメンバーが所属しています。私は、そのような多様な団体が同団体名義で決定した今回の要望書公表に関して、異論はあれど、謙虚にならざるを得ないと認識しています。そして、先に言った通り、「贅沢」「余裕が無い」といった理由によって黙らされ、当然の権利を与えられず、尊厳を踏みにじられて来たセクシュアル・マイノリティの歴史と生活経験に思いを馳せれば、今回の小田中さんの批判における論理の立て方は、たとえその批判内容が社会構成員の大多数にどれだけ妥当だと認められようと(「タイミング」に関してのみであれば、何度も言っている通り、私自身も小田中さんに同意しています)、まぎれもなくヘテロセクシズムに根ざす側面がありますし、また、ヘテロセクシズムをなぞることで、その再生産に寄与してしまうものでもあると思います。

 セクシュアル・マイノリティが「余裕のあるときだけ考慮してもらえる」ような立場に押し込められて来た歴史をともに認識した上で、どのようにしたら今回の要望書のようなアクションがより有効にセクシュアル・マイノリティの権利や尊厳の回復・尊重を実現出来るのか、小田中さん含め、共生ネット含め、わたし含め、様々な立場にある者が考えることが出来ればと思います。

*追記*

 なぜか(設定かな?)言及されてもトラックバックが届かない状態みたいなので、言及してくださった font-da さんのブログへのリンクを貼ります。

同性婚を私が積極的に支持しない理由——あるいは同性婚を支持しない人が「国民」という概念に対抗しなければならない理由——あるいは同性婚とネオリベラリズム

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

2013.6.21 タイトル一部変更

結婚を通して様々な利益や権利が得られるというのは、疑いがない。私自身も、もしどうしても結婚する必要が出て来たら、反婚の信条など横に置いて、結婚すると思う。「ゲイ」を商品化するようなマーケティングの仕事にだって、他の仕事の機会に恵まれなければ、就くだろう。生き延びることは、私にとって、政治的な信条なんかよりも重要なことだから。でも、まさにその、生き延びることを優先させるという態度を私が採用するからこそ、あたかも結婚制度にもLGBTマーケティングにも問題が全くないかのように振る舞うことは、してはいけないと思っている。それらに自分が関与してしまったとき、私は「私にはその権利がある」という態度ではなく、恥ずべきなのだ。

けれど、結婚していきなり自分の人生が素敵になるようなところは、そもそも想像も出来ない。人によっては、結婚は貧困への入り口だ。安定した職業を持っているひとばかりではない。あなたも、あなたのパートナーも、安定した職業を持っていないかもしれない。セーフティネットとしての結婚は、そもそも既に機能しなくなっている。それでも多くの人は、社会保障にありつけない人や、「国民」ではない人たちの移民としての大変な状況への解決策として、結婚を挙げる。もちろん、そういう側面があるからこそ、私は、自分が同性婚を支持しないからといって同性婚支持の人たちを攻撃しようとは思わない。でも個人的には、結婚していようがしていなかろうが、安心して安定した生活を送れるような社会であるべきだと思う。

結婚したいけれど、法的に認められていないから出来ない、という人は確かにいっぱいいる。でも、個人的に私がもっと気になるのは、結婚出来ないという人も含め、単身者で、かつ不安定で不安全な生活を送っている人たちのことだ。更に言えば、結婚していて、それでも不安定で不安全な生活を送っている人たちもいる。

同性婚が出来ないことが差別的である、というのには完全に同意する。けれど、それよりももっと、私にとっては重要で、急務なことがある。もちろん優先順位は人それぞれだから、全ての人に同意してもらおうとは思っていないけれど、パートナーシップに関するより良い法体制を作る運動において、まずもって同性婚の合法化が最も重要なゴールであると思っている人とは、共闘出来ないと思う。

安定した生活をきちんと整えることが最も重要で、だから結婚したいとかいう希望は後回しにされるべき小さな問題だ、と言いたいわけじゃない。結婚したくて、それでもパートナーと同性なので出来ない、という状況は、まがうこと無き差別だもの。でも、私は自分の労力やリソースを、同性婚支持のために費やそうとは思わない。

私のこの判断は、自分の育った環境や、階層の問題との関わり方に影響を受けていると思う。私の友人・家族・親戚・その他の知り合いの中には、外国人・シングルマザー・性産業で働いていて、安定とはほど遠い生活をしている人の方が、「安定はしてるけど、結婚出来ないんだよね」という人よりも多い。

カリフォルニア、東京、シカゴなどで出会った比較的新しい友人たちは、北関東での私の生活がどのようなものだったか、想像も出来ないと思う。だって、今の私を見たら、中産階級そのものだもの(でもそれは真実ではない。授業料全額支給の奨学金に受かっていなければ、私は今ごろ北関東で複数の仕事を掛け持ちでやっていただろうと思う)。だけれども、だからといって私の家族、周辺の地域の人たち、友人、その他の知り合いがみんな中産階級的、あるいは中産階級的文化の持ち主か(あるいは、これまでもそうであったか)と言ったら、そんなことはない。

こうやって、自分の身近な人たちに降り掛かる様々な問題を優先することには危険が伴うことも分かっている。それは、私が知り得ないような生活をしている人たちの痛みや不利益を見逃してしまう危険性を持っている。けれど、それを出来るだけ避けようとすると同時に、私は、身近な人間のことを考えることを放棄したら、誰のこともきちんと考えることなんて出来なくなってしまうと思っている。

だから、私にとっては、結婚なんかよりも、社会保障の方が重要な問題だ。結婚は、社会保障にまつわる様々な問題への解決策になってはいけないと思う。

そして、この私の判断は、同時に自動的に私に、「国民」という概念に対抗する責任を持たせることになる。なぜか。それは、現在殆どの国で国民になったり永住権を得るための最も手続きの簡素なものは、結婚だからだ。もちろんそれには、同性カップルは含まれない。従って、同性婚よりも社会保障を優先させるという私の判断は、自動的に、国民でない同性愛者が合法的に滞在権を得る機会の拡大を、より遅らせてしまうような力に、私も関与してしまっており、まさにいま、その判断をしていること自体、私は罪を犯していることを意味する。もし私が思い描く「より良い社会保障」が「国民」という概念の範疇に収まってしまうようなものだとしたら、同性婚の合法化を積極的に支持しないという私の判断は、全くもって、不正義になってしまう。

以下、追記。「この記事」とは、上の部分のことです。

同性婚についてのはなしがツイッターのTLで ながれてきたので、この記事のURLを紹介したのだが、言葉がたりないところが あったみたい。

ひとつめ、「じゃあ同性婚以外になにをすべきなのか」という問題。

これは、たとえば滞在権の問題については、直接入国管理の現状に抗議していくしかないとおもう。理想的には滞在・入国・就労の完全合法化が のぞましいけど、実際には「難民認定の基準緩和」とか「就労許可のある指定書の発行基準緩和」とか「滞在許可の期間の延長手続きの簡素化」とか「家族以外の人間がスポンサーになる滞在権の付与拡大」とかを すこしずつ もとめる方向になるとおもう。

ただ、私や、多くの移民問題に関わっている活動家が同性婚以外のそういったアプローチを取っていても、同性婚というアプローチを取るひとはいつづけるので、たぶん同性婚の合法化は進んでいく。だから、同性婚賛成派は安心してください。わたしからの批判などものともせず、しんじる道をつらぬけばいいんじゃない?

ふたつめ、「同性婚が合法になれば解決するのに、なんで同性婚というアプローチをとらないの?」という問題。

これについては、とりあえず米国の悪例がきになる、というのもある。というのも、滞在権にかんする法律は連邦法で、いっぽう婚姻にかんする法律は州法なので、ある州で同性婚が認められても、連邦法においては異性婚が前提なので滞在権の付与には至らないという、とてつもなくムカつくおはなし。これについては いろんなひとが がんばってるので、そのうちなんとかなるかも しれないけど。

で、おそらく一番問題だとわたしがおもうのは、婚姻にともなう おおきなリスク。婚姻するっていうことは、とてつもない量の契約項目に同意することなんだもの。たとえば財産分与というのは、もっている財産をわけるというだけでなく、もっている債務も遺族がかかえることを意味するのだもの。もちろん財産放棄という方法もあるけれども、配偶者の死亡から3ヶ月以内に放棄の手続きをしないと債務をかかえることになる。借金の存在を知らなければ財産放棄しないで3ヶ月たっちゃって、あとでとりたてられて びっくり、みたいなことだってある。そういうケースじゃなくても、とくに日本での社会生活において外国人は家族中心になりがち。借金の保証人に配偶者をえらばざるをえないひとは たくさんいる。

それに、日常生活においても、双方がある程度の収入をえているあいだは いいけれど、そうでなくなったとき、ひとりの収入で家族全員をくわせることになる。とくに外国籍のひとが失職した場合、外国人差別や偏見のある社会において、そう簡単に再就職ができないケースだっておおい。日本国籍だって再就職がすぐにできるひとばかりじゃないわけだし。「そういう苦難のときも、ささえあいます!」みたいなのが結婚だ、というひともいるかもしれないけど、「永住者になりたかったら、そういう苦難のときも、ささえあえ!」って政府からいわれているのが、現状ですよ。

また、「滞在権のために利用しているとおもわれたくなくて、プロポーズできない」という外国籍のひともいる。逆に、「滞在権のためには、結婚しかない」とはらをくくって結婚するひともいる。それは、双方にとって、いやなことだろうとおもう。「滞在権のために利用されたのだろうか」という疑念がきえない日本人配偶者もいる。

わたしは、もしかしたら、同性婚を推進しているひとたちよりも、結婚というものを神聖化しているのかもしれない。結婚するなら、単純にたがいにあいしあっているからする、というかたちで結婚してほしいと おもっているのかもしれない。だから、同性婚を支持するひとたちのいう「滞在権」とか「病気のときに…」とか「財産が…」とかに嫌悪感をかんじるのかもしれない。異性婚も、滞在権や相続権とかとは関係ないものになってほしいと おもっている。すきなもの同士がすきなときに、すきに結婚する。それでもたがいの生活が脅かされたり、とくに優遇されたりしない。離婚したくなったら離婚する。それでも、たがいの生活が脅かされたり、とくに優遇されたりもしない。そういう社会がのぞましいとおもう。

そういう、「すきにする」ような結婚、「単純にたがいがあいしあっているからする」ような結婚というのは、正直、わたしにとってはどうでもいいのだ。すきにしたらいい、とおもう。平等に、異性間でも同性間でも、あるいはどのような性別のくみあわせでも、できるようになるべきではある。でも、わたしにとってはどうでもいいのだ。「どうでもいい」とおもえないのは、滞在権の問題くらいのものなのだ。そして、滞在権は、「すきにする」「単純にたがいがあいしあっているからする」結婚をしているかどうかとは まったく無関係に、認められるべきだとおもう。婚姻というパッケージ商品に、まったくなんの権利も義務もつけなければいいのだ。だって、ひとりが、ひとりでも、いきていける社会のほうが、いいにきまってるじゃない。わたしは、そっちをがんばりたい、というだけのはなし。同性婚実現をがんばりたいひとは、勝手にがんばればいいじゃない、とおもう。批判はするけどね。

更に追記

某MLからの抜粋。同性婚について。

別れるときに弱い立場に置かれがちな人ーー年下とか、外国人とか、経済力のない人とかが、ちゃんとパートナーとしての権利主張をする根拠としても法制化は必要」

うーん。。。確かに、同性婚の話をするときって、結婚するときの話ばっかりですよね。別れるときに、本来守られるべき側の権利というのは、確かにあるでしょう。

それはそうなのだけれども、でも、そういった問題を「法的な婚姻関係(にあったこと)」を根拠にして解消しようとするのは、そもそも1人でいたら「弱い立場」になってしまうような社会そのものの問題を、後回しにすることになってしまう。

そもそも、同性婚のモデルになっているのは異性婚であり、その異性婚が「一方がもう一方を扶養する」というスタイルを、歴史上ある程度の期間採用してきたことに、問題があるのではないか。これはつまり、市民の生活を守るという仕事を政府が「家庭」にアウトソーシングするための道具として、「結婚」があるということ。つまり、「パートナーとしての権利」という概念自体が、政府の社会保障が不十分であることを前提としている。

政府の社会保障が不十分だから、政府は「パートナーとしての権利」を与えるようなそぶりをしながら、「パートナーとしての義務」を市民に押し付ける。あるいは、日本国籍保持者と結婚すれば日本に合法に住むことが容易になるような仕組みは、外国人に来てもらって労働力になってほしいけど何かあったときに国が面倒を見るのは嫌だ、という政府の意向でもある(「政府じゃなくて、配偶者をお前のセーフティネットにせよ」)。

結婚をして「パートナーとしての義務」を負うことは、すなわち政府の肩代わりをすることでもあるんだ。そして、結婚して「パートナーとしての権利」を得ることは、すなわち本来政府に求めるべきものを配偶者に求めるように仕組まれることだ。「家族のことは、家庭で面倒みてください」という制度が、結婚なんだ。

そう考えると、たとえば、結婚制度に反対しないこと、ましてや同性婚の実現に向けて動くことは、つまり、生活保護受給者をバッシングしたり、河本という芸人をバッシングしたような社会の風潮を、助長こそすれ、解消する方向にはいっさい寄与しないだろう。

いろいろ逡巡したけれど、結局私には、同性婚を支持することはできないなぁという結論。長々とすみませんね。。。

2013.7.16 更に更に追記

シノドスに掲載された「生活保護とクィア」という文章でも、同性婚に触れています。

2013.9.15 関連最新記事

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こんばんは、直月です。高橋さん、素敵なご紹介ありがとうございます。集まって頂いた皆様にも、感謝を申し上げます。今回2009年度日本漫画賞を頂きました作品『虹のビオレッタ』ですが、夕栄出版の高橋編集長をはじめ、編集・校正を担当して下さった宇梶さん、解説を書いて下さったエッセイストの杉エイゴさん、そしてこの作品を手に取って読んで下さった皆さんがいなければ受賞には至らなかったと思います。本当にありがとうございました。少し長くなってしまいますが、こうして常々お世話になっている皆さんに、今日は大事なお知らせがあります。

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今はもう平気で観れますけれど、あの連載が始まった時は、心の底から怒りが沸き上がって来ましたね。あんな風に勝手に私の名前を使われるなんて、思ってもいませんでしたから。武さんが自分の少年時代のことを漫画で描くつもりらしい、というのは聞いていましたけれど、ああいう形で私たちのあの時代が描かれるというのは、正直ショックでした。すぐにのび太さんとスネ夫さんに連絡を取ったのですが、のび太さんはただただ驚いているという様子で、スネ夫さんは連絡が取れない武さんに対して怒りを抑えられないという感じでした。それは私も同じ気持ちでしたので、その後も何度か武さんに連絡を試みましたが、一切つないではもらえませんでした。

それから1年も経たないうちに、スネ夫さんが自殺したという連絡をもらって、本当にやりきれない思いで一杯になりました。その時わたしは既に独り身でしたので、子供もいませんし、同じマンションの住人から「変な噂が流れてるけれど大丈夫?」と心配されるくらいで済んでいましたが、スネ夫さんはご家族もいたようですし、仕事先でも相当嫌な思いをしていたそうです。それから少しして、奥様とお子さんたちは奥様の旧姓に名字を変えて、東北の方へ引っ越されたとのことです。
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