Facebook の性別を男女どちらにもしない方法

Facebook は、登録時に性別を決めてしまうと、それ以降「女性」と「男性」のいずれかしか選べません。日本語で使用しているぶんにはあまり影響はないかもしれませんが、言語を英語に切り替えて使っているとそこら中で she だの he だの her だの his だの表示されるので、私もずっと悩まされていて、いろんなウェブサイトで「どちらにも決めていない状態」に戻せないかと情報を探していたのですが、なかなか成功せず、困っていました。今回がっつり調べてみたら、ある人が作成したスクリプトによって性別を「どちらでもない状態」にすることが出来たので、ご紹介します。

Remove Facebook Gender(Facebook の性別を削除する)

I have created an automated method to remove your gender on facebook, and make it refer to you as “they” – this is what everyone will see, and not just you. (Facebook でのあなたの性別を削除する自動化された方法を作り出しました。これによって、 Facebook はあなたを “they” と呼ぶようになり、あなただけではなく、他の人全員にとってそのように見えるようになります) I’ve tested it in Firefox and Chrome, but it may work in other browsers. (Firefox と Chrome で検証済みですが、他のブラウザでもできるかもしれません)

とのことです。以下は日本語だけ書きます。

  1. Firefox ユーザーは、 Greasemonkey をインストールして、 Firefox を再起動して下さい。 Chrome ユーザーは Tampermonkey をインストールし、有効化してください。 Opera なら こちらの情報が有益かもしれません(試してはいません)。同様に、 Safari ユーザーはこちらの情報が有効かもしれません。 Internet Explorer なら Trixie がいいかもしれません。
  2. このスクリプトをインストールして下さい。
  3. Facebook のモバイルページにアクセスすると、性別変更が面になります。日本語設定の場合はどうなのかわかりませんが、英語版だと “Other/Undisclosed” という選択肢があります。

ここで “Other/Undisclosed” を選ぶと、すぐに Facebook 上で反映されます。日本語で見ていると特に変わったところはないように見えると思いますが、英語だと his だの her だの she だの he だのが、全部 they, them, their に変わります。

これは2013年4月2日に私自身が試して成功した方法です。 Facebook の仕様が変更すると、機能しなくなる可能性があります。やるならお早めに!

※ Alec Wright さんという人が作ったスクリプトです。

【4/21 13:30〜】貧Q第1回ミーティング兼立ち上げイベント開催!【久喜総合文化会館】

昨年末にツイッターやFacebookで呼びかけて、それにこたえてくださった皆さんと一緒に、「貧困をなくすためのクィアの会」(仮)を立ち上げることになりました! 以下の通り立ち上げイベントをやりますので、みなさんぜひご参加下さい!

北関東を活動拠点とするローカルなクィア団体「貧困をなくすためのクィアの会」(仮称、略称は『貧Q』)を立ち上げます。貧困の問題をどうにかしたい、貧困について考えている人とつながりたい、貧困の問題をクィアの問題と一緒に考えたい、そんな人たちで集まりませんか?

LGBTや貧困当事者でない人の参加も歓迎します!

第1回ミーティングでは、貧困とクィアの問題とは何だろうか、どんなことができるだろうかなどを話し合いながら、今後の活動や方向性、正式な名前などを決める予定です。(※発言は義務ではありません。参加だけでもOK!)

みなさんのご参加をお待ちしております!

日時
2013年4月21日(日)
午後1時30分〜4時30分

会場
久喜総合文化会館 研修室1
埼玉県久喜市下早見140番地

参加費(会場使用、交通費補助に充てます)
100円、500円、1000円のいずれかからの選択制となります。当日封筒をお渡ししますので、お支払い可能な額を入れ、退室時にお渡し下さい。

※会場の部屋に車椅子で入室される方、参加交通費補助をご希望される方は、お手数ですが事前に hinq.info アットマーク gmail.com までご連絡下さい。(「アットマーク」の部分を @ に変えて、送信して下さい)

連絡先: hinq.info アットマーク gmail.com
当日連絡先: c.masak.i-029 アットマーク ezweb.ne.jp (マサキ チトセ)

更に詳しい事を知るには、貧Qブログをご覧下さい。
http://hinq.wordpress.com/2013/04/01/kickoff/

『Facebook イベント」も作りました。ご参加の皆さんはぜひ「参加する」をクリックして下さい!
http://www.facebook.com/events/494876843893623/

貧Qの最新情報はこちらから

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同性愛について考える3つのこと

『ポーチ』というサイトに、「同性愛について理解を深める3つのこと」という記事が掲載されています。深める「ための」3つのこと、ではないのか? という疑問はさておき、「同性愛」というものについて、インタビューしてる人にしても、されている人にしても、私が考えているものとはいくつもの点で異なっているので、メモがてら、書いておきたいと思います。

せっかく「3つのこと」とまとめられているので、私もまねして「3つ」のことについて書こうと思いますが、元記事の「2 『典型的な性イメージ』がもたらす問題」については突っ込みどころがないので、必ずしも番号は対応していません。

1 「同性愛者の割合」は「3〜5%」なのか?

この記事の書き手によると、「なんと、同性愛者の割合は3〜5%。つまりだいたい25人に1人の割合。クラスに1人くらいはいる割合」とのことです。統計が紹介されているわけでもないので何とも言えませんが、実際には統計として2-3%というものから、10%を超えるものまであります。

ただしこういった統計というのは、「同性愛者である」という自己認識があること、それを統計を取っている相手に知られてもかまわないと思えること、などの条件が揃っているひとの割合しか出せないわけで、たとえば同性と恋愛関係を持っているけれど自分を「同性愛者」という言葉では認識してない(したくない)というひとはカウントされていません。

また、この記事では特にどこの話をしているか書かれていませんが、ほとんどの統計は「米国では」「英国では」など、欧米諸国の国内統計です。一方、「東北では」とか「四国では」どころか、「日本では」という統計すら、大規模の統計は取られていません。これがなぜ問題になるかというと、そもそも「同性愛者」(あるいは homosexual, gay, lesbian, same-sex attraction など、統計を取るときに使われる言葉)という言葉が普及しているか否か、他に使える言葉が存在しているかどうかなどによって、人々が自分のことや他人のことを認識するときに使う言葉が変わってくるからです。

更に、「同性愛者の割合」という表現からは、そもそも世の中には同性愛者とそうでない人々がいて、それぞれが混じって生きている、という前提がうかがえます。しかし、実際には、どういう人間を「同性愛者」と呼ぶのかは日々刻々と変わっています。それは、私たちを含めて、人々(メディア含め)が「同性愛」や「同性愛者」という言葉を使う場面や、その言葉を言いよどんだり、あえて口にしなかったりする瞬間などの積み重ねによって、少しずつ、変容していくものです。「同性愛者」というのは、そのように、人々が日々の言語使用の積み重ねによって「こういうひとを『同性愛者』と呼ぶんだよね」とある程度の共通理解を持っているような人のことを指すのです。同性愛者が先に存在していて、それに「同性愛者」という名前をつけたのではなく、そもそも多様で名前のつけがたい性のありかたの中に、1つの基準を設けて、あちらは同性愛者、こちらは異性愛者と、人々を分断しようとする動きを作った人々が、19世紀後半あたりに米国を中心にいた、という歴史があります。つまり、「同性愛者」という言葉は、ある種のひとびとを「同性愛者」という名前で呼ぶことで、あたかも全然違う人種であるかのように表現し、治療の対象としようとしたり、処罰の対象としようとしたり、差別の対象としようとしたひとたちの、言語使用の積み重ねによって形成されてきたのです。

2 同性愛は、自然に反しているのか?

インタビュー中で、「同性愛は歴史的にどの時代にもあったし、動物の世界でも同性愛はある」と書かれています。

まず、「歴史的にどの時代にもあった」というのは、上で書いたような19世紀後半からの歴史を考えると、にわかには信じがたい主張です。同性間の性的な関わりや、同性間の親密な感情については、私もそれはどの時代にもあっただろうと思います。けれど、それを「同性愛」という言葉で呼ぶことができるかどうかは、また違う問題です。

ある時代では、同性間の親密な感情は、権力のある男が若い男を愛でること、そこで生まれる関係性を意味していました。またある時代では、同性間の性的な関わりは、だれもが行いうる誘惑であり、その誘惑に負けることは罪であると考えられていました。どちらも、「同性愛」あるいは “homosexuality” どちらの言葉でも、的確に表すことのできない関係性です。

また、動物についても、メス同士、オス同士の複数の動物が性的な行為を一緒に行うことは、確かに観察されています。しかしそこで生じる関係性、感情などについて動物に聞いてみることができない以上、それを安易に人間の(現代の)「同性愛」という枠に入れて、同じように扱ってしまうことは、単純すぎる発想です。そもそも交尾自体が、人間の言う「性交」や「性行為」にあたると考えることは、安易です。

3 「性」はグラデーションである?

元記事にある画像を見ながら読んで頂きたいのですが、こういう「グラデーション」論は、結構よく使われる同性愛擁護論です。

しかし、一番左端を見て下さい。「100%男」と書いてあります。一番右端を見て下さい。「100%女」と書いてあります。自分を含め、周りのひとたちのことなどを思い浮かべて、想像してみて下さい。だれが、「100%女」でしょうか。もう、これ以上「女」な人間などありえない、という人は、いますか。あるいは、だれが、「100%男」でしょうか。もう、これ以上「男」な人間などありえない、という人は、いますか。誰を思い浮かべても、それ以上「男」っぽい、それ以上「女」っぽい人というのは、想定できるのではないでしょうか。あるいは、「2人とも100%男って感じだけど、ちょっと違うタイプの男だよな」という2人を思い浮かべることは不可能でしょうか。つまり、この「グラデーション」論は、なにかしら、男はこうだ、女はこうだ、という「両極」を前提としています。そしてそれは、実際には存在し得ないような、頭の中で想像する(けど、結果コンガラがっちゃって明確には想像できないような)イメージでしかないのです。

この「グラデーション」論の次の問題は、「常に合計が100%」であることを前提としている点です。つまり、例えば「恋愛対象」で言えば、「性別関係なく、複数の相手と活発に関係を結んでいる」ようなひとも、「女性にも男性にも関心はあるが、一切性的な、あるいは恋愛的な活動をしていない」ようなひとも、どちらも「50%女、50%男」という位置に配置されることになってしまいます。

また、グラデーションであることによって、例えば「10%右に近づくと、10%左から離れる」ことが前提とされています。つまり、男側に近づいた分、女側からは離れる、女側に近づいた分、男側からは離れる、ということが、当然視されていることが問題です。そもそも選択肢は女と男の2つしかないのでしょうか。あるいは、どちらにも同時に近づくことは不可能なのでしょうか。

これは、「女」と「男」のあいだのグラデーションを主張し、例えば「自己認識」のグラデーションにおいてはトランスジェンダーのありかたを表現できているような錯覚を起こさせるこの「グラデーション」論が、実際には、性別とは男と女のことであり、それ以外の選択肢はありえない(あるとしても、部分的に男であり、残りが女、あるいは部分的に女であり、残りは男である。他の要素はない)ということをも同時に主張してしまっていることを意味します。


以上、ずいぶん考え方が違うなぁと思ったところを列挙しましたが、

「性のあり方に関して、特に疑問を持ったことがないままに過ごせている人は、自分が『異性愛者』であり、性別越境を望まない人(シスジェンダー)であると認識して欲しい」

という主張には私も頷けますし、こういったポピュラーメディアに性に関する記事が載ること自体は、ある程度、歓迎すべき事態だとは思っています。

『セクシュアリティと政治がご専門のChalidaporn Songsamphan先生(2009年春特任教授)とポルノグラフィーについて対談しました』

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第12号に掲載されたものの日本語訳です。 HTML / PDF

マサキチトセ(CGSスタッフ 以下マ)

ポルノグラフィーについての基本的なスタンスを教えてください。

チャリダポーン教授(以下チ)

そもそもポルノは性的幻想の一つのあり方として捉えられるべき、プライベートな時間に誰しもが楽しむ権利を持っているものと考えます。しかしポルノを事細かく見た時、そこにはポルノ以外の物事との関連性やポルノそのものの多様性が見られ、ポルノ全体についての基本的なスタンスというものは築けません。ある種のポルノと違う種のポルノには、違うスタンスを持つ事があるのです。私たちは理論や説明を一つ打ち出し、そこに類似の全てのケースを矮小化しようとしがちですがそれではうまくいきません。私たちは全ての物事を個別に見る必要があるのです。

ポルノとその問題点を分析するときは、他の絵画等のアートとその問題点の分析とは違ったアプローチがされるべきでしょうか?

そうは思えません。性というものは私たちの文化において非常に特別な意味を持たされていて、ポルノはとても異質なものと思われていますが、私にはその分け方がいいとは思えない。顔を殴ることとペニスをヴァギナに入れることの違いについてフーコーが例を出していますが、私たちの文化意識が性に特定の位置、意味を与えている為に、これら2つの行動は全く違う意味を持っているのです。

「ポルノを定義すること」

しかしポルノグラフィーそのものの定義が曖昧ではありませんか。例えばボーイズラブと呼ばれるジャンルがポルノかどうかには共通見解がない。人によってはポルノだと言うでしょう。ポルノと非ポルノを分離することには常に問題がつきまとうと思いますが。

ポルノと非ポルノの境界線は私たちの理解や解釈を通して構築されるもので、流動的です。あるものがポルノかどうかは、私たちがそれをどのように見るかによります。何だってポルノになり得る。

でもそれだと何をポルノと思うかについて様々な定義が錯綜してしまいます。それらの間をネゴシエートするのは可能でしょうか。

まず多様な解釈が存在することを認めることから始めるべきでしょう。キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンは特定の考え方について「これはいい」とか「こうあるべきだ」と指図する傾向にあります。しかしそのように断定的に物事を見たり語ったりするのをやめ、まず私たち自身の間にある差異を認める。そこで初めてそれらの差異とどう向き合って行くかが問題になると思います。

「国家権力 対 批評」

国家がポルノの流通に何らかの法的な介入をする事については?

問題になるのは、国家がそのようなことをする為には何をポルノとし、それについてどのような介入を行うのかの明確な基準を打ち出す必要があるということです。そしてポルノについてそのように固定化された見方を打ち出すことは、他の解釈の可能性を予め封鎖してしまうことになる。法を持ち出すことの問題点はそこにあります。議論ができず、ネゴシエーションもできない。なんて危険な社会でしょう。人々は、性を社会的な活動の一つとして自由に語れるようになるべきです。議論の余地を残しておく必要があるのです。

では個人として表象上の不正義に対抗するにはどうすれば?

最も重要なのは、ある現象について意見や批判があれば、それを口に出すことです。表現の自由を尊重しているからといって、ポルノについて一切口を挟めないというのは間違っています。作品全体ではなくある一部について批判がある場合もあるでしょう。児童ポルノに関しては、合意に基づかない性行動への批判をしている人がいます。もし彼らの考えに同意出来ないのなら、どうして同意出来ないのかをきちんと論理で説明して対抗する必要があります。

「児童ポルノとフェミニズム」

今日の反児童ポルノの動きと、マッキノンやドウォーキンが行った反(異性愛)ポルノ運動の違いは何なのか不思議でなりません。「児童ポルノとフェミニズム」というタイトルでCGSNL011号に投稿した記事で、児童ポルノの問題について私たちは安易に法的な解決を急いでいるのではないかという懸念を書きました。ドウォーキンやマッキノンの考えに多くの人々は「ポルノに問題なんてない」と反論しましたが、児童ポルノについて同じように言う人は目立ちません。児童ポルノは何がなんでも悪いに決まっている、と自分たちの考えをきちんと吟味するのを怠っているように思います。表象というものが問題なのか否か、きちんと考える必要があると思うのです。

そうですね。しかしこの問題はもう少し丁寧に見る必要があると思います。児童ポルノの存在は多くの中産階級の人々をいらだたせます。というのも、中産階級的な性の価値観によれば「子ども」は無性であり、純粋で性的に清く、ゆえに成長するまでは守られるべきものだと思われています。それは単なる神話ですが、例えば法律においても大人による児童虐待を防ぐという名目の下で提案されたものの多くが立法化されて来ました。しかし「子ども」というカテゴリーをどのように定義しているのかについて、私たちは反省的な思考をあまりせずに来てしまっています。フェミニズムは「女」というアイデンティティ・カテゴリーがそもそも信用出来るものではなかったのではないかという議論が出る程に内外から批判を受け、疑問視されて来た歴史を持ちますが、「子ども」というカテゴリーをどのように「大人」から分離して定義出来るのかという疑問も同様に出るべきなのです。実際この問題については明確な定義や指針はありません。ですから児童ポルノや児童虐待について語るとき、議論が錯綜し、皆の意見がバラバラになることがありますが、その原因は「子ども」というカテゴリーのイメージが各自異なっていることにもあるでしょう。このように細かな部分にまで議論を進めることは中産階級の人々には恐怖体験となるでしょうが、だからこそ政策や法を通すときに中産階級の人々に「これは子どもたちのためだ」とアピールすれば、非常に通り易くなるという現状があるのです。

ミーガン法やカリフォルニア州のジェシカ法などもその例ですね。ところで児童虐待と聞いていつも思い浮かぶのは、1890年代にあった「夫が求めたとき妻は常に性的に奉仕しなければならない」という米国法です。児童ポルノを禁止しようという考えの背景には大人・子ども間の権力差についての憂慮があると思うのですが、では男女間に非常に大きな権力差があった当時、男性は女性とセックスをしてはいけないという法律が出来るべきだったのでは?

大人と児童の権力差というより、合意可能性が問題なのでは?

しかしその権力差によって「子どもは合意出来ない」と結論するのなら、厳しい男女差別下の女性もまた合意可能性は低いです。

確かにリベラルな論者や哲学者たちは女性が合意可能性を持っているとはあまり思っていませんでした。例えばジョン・ロックは、女性と子どもは理性的な能力がなく、ゆえに男性である世帯主によって代表されるべきだと言っています。彼らリベラルな論者たちにとってそれが問題としてとらえられなかったのは、彼らがそもそも女性を権利の正当な持ち主であるとは認めていなかったからでしょうね。

興味深い。子どもも女性も共に「未熟・権利ナシ・合意ムリ」と…。

「性の多様性にYES! が信用できない」

鈴木(CGSスタッフ 以下鈴)

それにも拘らず、中産階級の人々は女性を守ろうとはしてこなかった。一体何が違いなんでしょうね…。

結局人々の性についての見方は一貫していないということの現れですよね。特権的な性規範とは合致しないものでも多くのことを人々は受け入れていますが、それでも全然受け入れられていないものがある。性の多様性にYES! と言っている人でも、どんな多様性を念頭においているのか分からない。例えば異性愛ポルノグラフィーを性的幻想の一つのあり方であるとして、それを表現したり消費することの自由を唱える人はたくさんいます。しかしことが児童ポルノになると、そこに自由はないと多くの人々が断定します。私たちはこの矛盾をしっかりと見つめていない傾向にあります。

「今日のアクティビズム」

立場の似たお二人ですが、行動を起こす場合のアプローチは…?

もし何か行動を起こすとしたら、マサキさんと私は道を違えるかもしれないし、同じような道を選ぶかもしれない。それは全て扱っている個別の事象に依存しています。今日私が言いたかったことは、人は主張において常に一貫していなければいけないわけではないということです。というのも、ポルノグラフィーを細かく分析すると多様なケースが見つかり、それらが持つ意味も多様であると分かるからです。同じ理論を使ってそれらを一気に分析することは不可能です。ですから検閲には反対していながらも同時に児童ポルノ作品の中で行われることに批判を持つことは可能です。むしろこのような柔軟性こそが今日の社会運動の強みだとも思っています。というのは、互いに同意できるときには一緒に活動し、できないときにはしなくてもよい、あるいは同意できないことをお互いに了解して納得すればいい。この柔軟性は、しかし自分が何を考えているのか、相手と私は何について話しているのかを明確にすることを要求します。例えば「あなたの言う児童ポルノとは、何のことですか?」と聞いて、もし同じことを話していると思っていても実はそうではなかったことが分かったら、それを明らかにすることが重要です。

第3回子どもの性的搾取に反対する世界会議や反児童ポルノ団体も団結して見えますが、理解が一致しているか分かりませんね。

政治的なアクティビズムを行うときは内部の差異を抑圧していることもあります。しかしその場合でも実際に法律を立ち上げようとする際には結局差異が顕在化してしまうものなのです。法は多くの議論を生み出しますから、彼らの考え方が強固になり明確になればなるほど、彼らは互いに闘わざるを得なくなる。その段階になれば、彼らの中の差異は外部から見ても一目瞭然のものとなるでしょう。

とても楽しかったです。貴重な時間をありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。

『児童ポルノとフェミニズム』

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第11号に掲載されたものの英語版を再度本ブログ掲載にあたって翻訳し直したものです。

アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針が、第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)にて採択された。児童の性的活動に成人が関与した時点で、両者の権力差を考えれば、その行為は不可避に「同意のない行為」となる。そうした行為は本質的に性的搾取や暴力であると考えられており、それらの被害から児童を守るために、多くの国では既に児童ポルノの生産及び販売を禁止している。しかし今回採択されたのは、児童ポルノに関する監視を更に強め、実写ではない児童ポルノの単純所持すら違法化しようという方針だ。この背景にあるのは、実際の児童の関与があるかどうかに関わらず児童ポルノは人々の児童を見る目に影響を与えるし、児童ポルノの広範な普及は児童のイメージを極度かつ過度に性的なものにしてしまうという考え方である。つまり、合意の成り立たない行為で児童が実際に受ける身体的・精神的苦痛だけでなく、間接的であれ〈児童の表象〉自体は実際の児童に苦痛をもたらす、ということだ。

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、男性異性愛者向けに作られたポルノ——つまりほとんどのポルノ——は単に社会の男女権力差を反映するだけでなく、社会の男女権力差を維持・強化する働きも持っていると論じた。それはそうしたポルノが女性を貶めるように描いていること、そして更に言えば、私が「欲望の灌漑水路」と呼んでいるものをポルノが作り出しているからである。「クィア」なフェミニストとして、私は、逸脱的だろうが抑圧されていようが全ての欲望が尊重されるべきだと考える。一方、クィアな「フェミニスト」としては、欲望の灌漑——つまり欲望が同性愛や小児性愛、そして最も頻繁には異性愛へと形成されるより前に存在し、そうした欲望の形成を可能としているもの——に、より関心を持っている。この欲望の灌漑システムの内部では、ジェンダー・人種・民族・年齢・階級・外見・障がいの有無などの既存の権力構造に則った差異の表象が複雑に絡み合っている。しかし、欲望のあり方が必ずや社会的不正義に依存してしまうからといって、それが「間違い」だと言いたいのでもないし、そうした欲望を持つ人々を攻撃したいわけでもない。実際、同性愛や小児性愛など周縁に追いやられているような欲望でさえ、異性愛的な欲望よりも規範から自由なわけではない。私が言いたいのは、欲望は社会や文化から独立してあるのではない、ということである。

しかしマッキノンとドウォーキンが男性異性愛者向けのポルノにおける女性の表象の問題を社会に訴えた時、ほとんどの人は、女性のポルノ的表象には全く問題がないと言って彼女らを笑った。現在「児童を守る」という目的のために多くの支援者が集まっているというのに、当時彼女たちのもとに「女性を守る」という目的のために集い、資源を提供してくれる多くの支援者たちがいなかったのは、一体なぜだろうか? 唯一の違いは、この二人のフェミニストが「女性」のことを心配していたということだ。若い/年老いた/黒人の/白人の/アジア人の/ユダヤ人の/障がいを持った/障がいを持っていない……そんな女性たち。なぜ大衆は、「女性」がどんな風に公に表象されたところで構わないと思ったのだろうか。そして結局のところ、「表象」自体が問題含みだというのは、本当なのだろうか。

マッキノンとドウォーキンはのちに、反フェミニスト的自由主義者によってのみならず、フェミニストによっても「“ポルノ”という言葉で何を意味しているのか?」と批判されることになる。しかしそんな批判的なフェミニストが意図したのは、既存の権力関係の内部から撹乱を起こす可能性に光を当てることにあった。ポルノとして作られたか否かに拘らず、表象は受け手がどう解釈するかということに一切関与できない。もし誰かが裸の天使たちの絵画を見ながら自慰行為を行ったら、その作品は児童ポルノになるのだろうか。ジュディス・バトラーは著書『触発する言葉——言語・権力・行為体』で、以下のように論じる。つまり、欲望は社会・文化に依存しているが、しかし——あるいは正にそれゆえに——欲望を表象する際の諸々の規範的な決まりごとの内部にこそ、撹乱の契機がある。マッキノンとドウォーキンが主要なゴールと定めた「規制(検閲と訴訟)」。それを希求することは即ち国家権力へと縋り付くことである。それによって国家権力は、規制対象の表象に関する独占的な正統性を認められ、受容可能なセクシュアリティと受容不可能なセクシュアリティの境界線を書き直せる程にすらなる(歴史上「逸脱」したセクシュアリティを抑圧して来たように)。そうなれば、私たちは、一見異性愛規範的で性差別的なポルノが予期せぬ(時にクィアな)やり方で読み取られる可能性、すなわち「何か」を十全に描くことなどできない「表象」のそのプロセスの中で切り捨てられた余剰的な複雑性が再度掬い上げられる可能性を、予め閉じてしまっているのだ。バトラー以後、多くのフェミニストが反ポルノの議論を、依然力はあるものの同時に大いに疑問の余地がある、と見るようになっている。

ここで児童ポルノに戻り、以下のように問うべきだろう。現在世界規模で共有されている〈反児童ポルノ〉の精神は、当時の〈反ポルノ〉フェミニズムと同じく問題含みなのではないか。私たちはなぜ、ポルノに関するフェミニストの長い議論の歴史を顧みもせず、児童ポルノの法的解決を急いでいるのか。当時大衆は女性を貶める表象の問題を認めたがらなかったが、それが結果的に議論を活発化させ、フェミニストの言説を大いに鍛えてくれた。大衆は、なぜ今、一切を疑うことなしに児童の性的な表象の問題を早急に認めているのだろうか。

米国LGBT家族・友人団体PFLAGと、「クィア」vs「それ以外」という分け方について

(2011年5月の記事)

フェミニズムとかクィアの問題について普段は色んなことにツイッターやブログで口を出しては嫌がられるというパターンを繰り返してるわたしですが、ぐうたらな大学院生なりに研究的なこと(<「研究」と胸を張って言えないのが悲しいけど)も一応やっております(というアピール)。これまでの研究は、学士論文だけど「昭和40年代歌謡曲と女性」(英語、いずれ書きなおしてどこかに出します)、クィア学会で発表した「〈貧困〉は〈クィア〉か」(日本語だけど、原稿どっか行っちゃった)、あとイギリスの日本研究系学会で発表した「児童ポルノと法:ナショナリズムと反規制言説」(英語、そのままだと原稿部分が表示されないのでダウンロード推奨)などがあります。んで、いま修士論文書いてるんですが、その暫定的タイトルは「LGBT政治内の『親の活動』のエージェンシー:なぜ参加するのか、あるいは参加しないのか」です。

歌謡曲論文は音楽学を使った作品分析にクィア系文学理論を合わせたもの(指導教官の専門は英文学)、児童ポルノ発表はネット上の言説と国際的反児童ポルノ運動をからめてカルスタ風に、貧困クィア発表は「クィア」とか「ヘテロノーマティビティ」とかのクィア理論の概念についてあーだこーだ言うだけ、そして今回は社会学の指導教官についてインタビュー・ベースの修論。博士課程では文化人類学やるかもしれません。という、どんだけ揺れてるのあなた、という感じですが、まあわたくしなりに一応一貫したテーマみたいなのはあるんですよフフフ、みたいな。

というわけで、いま正に継続中の研究なので書けることは限られるんですが(インタビューだし、人が相手だし、色々あるのよ(っていうか日本にはIRB [Internal Review Board] が存在しないと聞いたんだけど、マジで? 調査倫理を勉強する機会に溢れてるので必要ないとかならいいけど、そうじゃないわよね))、ここ数カ月調査していてすごく面白いな〜と思った点を(自分の備忘録も兼ねて)書いておこうと思います。

PFLAG(ピーフラッグ)というのは「Parents, Family, and Friends of Lesbians and Gays」(レズビアンとゲイの親・家族・友人)の略で、都市を中心に数百の部局(チャプター)と二十数万のメンバーを抱える、この類の団体では米国で(というか世界的に)最も大きなもの。「非友好的な社会で生きていくための支援」「無知や間違った情報に対抗するための教育」「差別を無くし、平等な市民権を獲得するための権利擁護」の3つの理念的柱を掲げて、LGBTの若者に加えて、かれらの家族や友人を受け入れて活動している。と言っても一般的には、子どもからレズビアンやゲイとカミングアウトを受けた親や保護者が電話やメールを通してサポートを受けたり、実際に月例のミーティングに参加するなどする場所という理解が広まっている。それは確かに間違いではないのだけれど、他にも色々やっている事実はあまり知られていない。

活動の多様性は後述するとして、PFLAGがLGBT政治内や学問の世界でどのようにとらえられているかを少しだけ説明する。単純に言えば、LGBT政治内ではほとんど目を向けられることはないのが現状。特に、「クィア」とかの言葉を使う団体や有色人種系、障害系などとからめたマルチイシューな団体、それらの言説に慣れている個人活動家や学生のあいだではほとんど話題にも上がらない。逆に論文検索なんかにかけると、「いいことしてるよね」と適当に他者化されるか「アメリカの中産階級・白人中心的な家族的価値観を再生産している」とラディカルに糾弾されるかに反応が二分されている。前者は心理学系・ソーシャルワーク系の論文が多く、後者はフェミニズムやクィア理論に近接してる分野に多い。

市民権運動とLGBT運動を専門とする人と話しているときにPFLAGの名前を出したら、「ああ、あのWUNCディスプレイの激しいところね」と笑われたこともある。(社会運動の理論によると、社会運動には「キャンペーン」(持続的な集団活動)、「レパートリー」(連帯したり、公共の場で集まったり、デモをしたりという方法論の採用)、「WUNCディスプレイ」(運動主体や対象に価値 worthiess 、統一 unity 、 大勢の参加 numbers 、そして深い関与 commitments があることを表現すること)という3つの要素がある。)それだけ、PFLAGはそういう「あってもいいけど、問題もあるし、なんか信用出来ないところ」という位置に置かれてるということだ。もちろんPFLAGが評価されている場もあるけれど、恐らく今の米国のLGBT政治の向かっている方向(アイデンティティ政治の権利獲得運動とラディカルな社会変革をマルチイシューに進めていく運動の二分化が進んでいて、どちらもある程度成果を出しながらも、運動の現場では後者の声が少しずつ高まっている状況)を考えると、PFLAGの評価が下がることはあっても、上がることはないと思う。

クィア理論やフェミニズムをある程度踏まえた議論においてPFLAGが批判の対象となるのは、パンフレットなどを通してPFLAGが対外的に見せている「外の顔」が明確に「アメリカの中産階級・白人中心的な家族的価値観を再生産している」ようなものであるから。例えば中には “We Are Mainstream America” (私たちは米国の主流の団体です(超意訳))とか書いてあるものがある。「親の愛」というレトリックも多用されていて、そこにミソジニー(女性嫌悪)的なものを感じるのは当然だとも思う。実際に調査(パンフレット等の内容分析とインタビュー)をしたのは Jessica Fields という人(PFLAGの名前は出していないけれど、恐らくPFLAGの調査)と、 K. L. Broad という人で、ふたりともPFLAGのやり方の危険性を指摘する結論を出している。特に Fields は、「境界を変化させるような『クィア』という概念」に照らし合わせた結果、PFLAGのやり方はLGBT当事者にとって最終的には悪い結果をもたらすだろうとまで言っている。

でも、「クィア」という概念を使いつつPFLAGを「ほとんど中産階級の白人だ」と決めつけたり、全員ヘテロセクシュアルである前提で議論をしているのは Fields と Broad の方だ。調査の初めの段階でPFLAGのミーティングに行ったときにわたしが最初に出会った人たちのひとりは、ゲイである自分はストーンウォール事件のあった1969年のすぐあとから当事者として様々な活動を行って来ていて、PFLAGとも関わって来たが、最近になって娘のひとりにレズビアンであるとカミングアウトされたという人だった。たったひとつの例だけれど、下に説明する色々なことも含め、当初 Fields や Broad に同意してPFLAGの調査を始めたわたしにとって、もしかしたら Fields や Broad の前提は暴力的な決め付けだったのかもしれないと疑いを持つきっかけになった。

ミーティングで出会ったPFLAGメンバーと話をしたりネットで色々団体の歴史を見てみると、PFLAGはストーンウォール事件から4年あまりの1973年に初めの部局(ニューヨーク)が出来ており、90年代からは(団体名はそのままだけれど)トランスジェンダーおよびバイセクシュアルの問題について公式に団体活動の範囲であると認め、その後有色人種のLGBTの支援を強化するためのプロジェクト(FOCN [the Families of Color Network])を開始し、現在全米に広がっている部局のうち15がそのプロジェクトを実施している。もちろんこれらの試みは全く不十分であるというのが、色々話を聞いたり状況を見た上でのわたしの考えだけれど、こういう努力がほとんど知られていないという状況も問題だと思う。

それに、かれらがトランスの権利や移民の権利について真剣に考えている様子は、シカゴにいて入ってくる情報だけでも分かる。PFLAGのメール(メーリングリストではなくCCやBCC、転送を駆使してるのが主要メンバーの年齢層の高さを表しているようで微笑ましいのだけれど)ではPFLAG関連情報の他にLGBT関連の最新報道記事や各部局のある地域でのLGBT関連イベント情報なども流れてくるのだけれど、同性婚などの「そりゃ回って当たり前よね」的な情報と同じくらい、あるいは少し多いかなという量の、トランスジェンダーの安全・雇用の問題、そして移民のLGBTの法的地位についての情報が流れてくる。

更に、 “Screaming Queens: The Riot at Compton’s Cafeteria” というドキュメンタリー映画(制作は歴史学者の Susan Stryker )を前にツイッターで紹介したのだけれど、これはストーンウォール事件の3年前、1966年にサンフランシスコでトランスの人たちによる暴動があり、これによっていくつかの点でサンフランシスコ内でのトランスの人向けの法的改善がなされたりした歴史を掘り返す映画。「全てはストーンウォールから始まった」と語られることの多いLGBT政治の歴史観を覆す内容であり、更に、LGBT政治におけるトランスの存在と重要性、貢献を明らかにする重要な映画でもある。この映画をシカゴで上映したのも、実はシカゴ内にあるPFLAGの部局のひとつだった。その部局は毎年、開催場所や時期はずれるけれど、10くらいの映画を選んで映画祭のようなものを小規模ながら開催している。団体内では常に定期的に映画上映会を行っていて(他にも、ゲストスピーカーを呼んだりしてるけど)、その中でも頻繁に上映されていると言ってわたしにも個人的にDVDを貸してくれたのが、 “Anyone and Everyone” という映画だった。これは米国内の様々な地域に住むアジア系、ネイティブ・アメリカン、黒人、ラティーナなど有色人種のLGBTの家族をインタビューを通して追ったドキュメンタリー映画。実際にどのような形でFOCNプロジェクトが効果を生み出しているかとは別に、少なくともこういう形で様々な試みが行われていることは Fields や Broad が(かのじょらの調査時には既にFOCNは始まっていた)見逃してしまったPFLAGの側面だ。

更に、またしてもわたしの調査の範囲でしか話せないけれど、PFLAGのミーティングやイベントは、普段からもバリアフリーな地域施設を使っている。メンバーの平均年齢が高く、杖や歩行補助車、車椅子を利用している人などが多くいる団体なので、そういう配慮がある程度実践されているのだと思う。また、地域施設を積極的に使う中で施設との信頼を生み出すのだろうけれど、例えばローカルな図書館のスタッフと密接につながることで、その図書館がトランスジェンダーに関する図書を集めたセクションを作るという成果も生まれている(もちろんそのPFLAG部局だけの成果ではないけれど)。また、多くの部局のミーティング会場はその地域の教会だ。教会とPFLAGの関係は歴史的に長く、メンバーにもキリスト者が多い(このへんの複雑な関係は、修士論文がまとまってからまた報告します)。中には、教会の神父に自分の子どものセクシュアリティについて相談したところPFLAGを紹介されたというメンバーもいた。ラディカルに様々な制度を批判し続けることの重要性はもちろんあるけれど、こうやって地域の人たちとつながることで既存の制度との協力体制を作りつつ既存の制度に介入していくことそれ自体を間違いだと言ってしまうと、これまでPFLAGやその他の多くの団体が成し遂げてきた成果をも否定してしまうことになる。この点は、わたしも日頃の態度を反省するべきだと思った。

ただ、全ての部局が全ての場合においてバリアフリーな会場を用意しているわけでないのは急いで追記が必要なことなので、言っておきます。例えばポートランドで行ったPFLAGのパーティ会場は坂の途中にあって、更に会場内が広すぎてメンバーがどこに集まってるのかも分からず、長い廊下を歩き続けてやっと見つけることが出来た。それに、わたしはバスで行ったのだけれど、バス停から会場までの道も分かりづらかった(って、これは単に慣れない土地だったからか?)。全国規模のイベント(と言っても全米をまとめてるスタッフが来てローカル部局のメンバーと交流する、とかなんだけど)が6月2日にシカゴで行われるので、色々と注意して見てみたいと思う。

PFLAGの団体としての、あるいは部局としてのあり方はここまでにして、次にメンバーの多様性についても話しておく。わたしが実際に見た範囲だけれど、PFLAGのメンバーには実際には色々な人がいる。PFLAGのイメージの1つに「中産階級の裕福なメンバーによる活動」というのがあるけれど、インタビューをしていくうちにそうとも言えないなと思うようになった。確かに現在経済的に余裕のある人間がPFLAGの活動に集まって来やすいのは事実。でもわたしがインタビュー前に書き込んでもらった調査票には「過去の職業、収入、居住地」をリストアップする箇所があって、その内容は非常に多様だった。インタビューの中でそれについて聞くと、これまでずっと現在の比較的余裕のある生活が送れて来たわけではないという人ばかりだった。かつて経済的に(各自程度は違えど)苦労した経験は、たとえ現在の経済的状況がよかったとしても、その人の文化的背景に大きな影響を与えているはず。それに、もし経済的に余裕のあるメンバーが集まっているということを団体の活動の評価に反映させるとしたら、多くの当事者団体ですらその非難を逃れられないだろう。

また、年齢と育った地域によって色々と違いはあるけれど、インタビューをした人たちのうち1人を除いて、子どものカムアウト以前に何らかの形でLGBTの人(当時はそう呼ばれていなかった場合も含め)との交流があったりする。それは「短大を出たあと単身で都市に行って経済的にぎりぎりの生活をしていたころ、時々まとまったお金でゲイクラブに行くのが唯一の楽しみだった」という比較的若い人から、「子どもの頃近所にあった美容院はゲイカップルが経営してて、よく遊びに行っていた」という人まで、色々いた。「高校の同級生が今で言うゲイだったが、小さい頃から家で女装していて、親もそれを咎めたりしていなかったらしい」とか、年齢のかなり高い人までが「学校の先生が今で言うレズビアンであることをみんな知っていたし、女子学生の一人とのちにパートナーになった」と語り、周囲の反応と当時の自分の反応を詳しく聞くと、「みんなその先生を尊敬していたし、からかったりはしてなかった。振り返って考えたことはなかったけれど」と言っていた。「子どものカミングアウトにショックを受けた」と答えたのはたった一人で(それでも「3歳くらいから、多分そうなんじゃないかとは思ってたんだけど」と笑った)、その他のインタビュー対象者は「まず、この子がこれから差別を受けるんじゃないかと心配した」と答えていた。これは、PFLAGやその他の個人の「LGBTの親」が世間に見せている「外の顔」、つまり「わたしは子どもがカミングアウトしてきて本当に驚いた。つらかった。けれど子どもを愛しているのは変わらないと思い直し、受け入れ、いまは子どもを誇りに思っています」という美談とは、かなりずれる語りだ。

また、インタビュー対象者は1人を除いて、全員何かしら他の社会運動に関わっている。学校教育の制度からはじかれてしまった子どもに勉強を教える活動を何十年もやっている人、自分が経済的に余裕があるときは常にホームレス支援に参加してきた人、若い頃から地域の女性団体に関わって来た人、労働組合のスタッフとして7年のあいだ戦った人など、それぞれに分野は違えど、子どもがカミングアウトする前からそもそも社会運動の重要性を身近に感じてきた人が多い。更に、白人のインタビュー対象者の複数人から同じことを聞いて驚いたのが、市民権運動に当時自分がきちんと参加しなかったという後悔の念が、今の自分の活動を後押ししているということ。特に、当時南部に住んでいた人は「子どもがゲイであるということで、わたしは、あの頃市民権運動にきちんと貢献できなかったぶん、今度こそ全力で活動するぞと思った」という人もいた。

調査を続けるにつれて、(まだ人数が少ないから何とも言えないけど)たぶん Fields とか Broad の研究の結論とは違う側面が見えてくるだろうと思う。初めは Fields と Broad に同意して始めた調査だったし、その後も結構長いこと人種と階級がLGBTの家族を「PFLAG(あるいは類似団体)メンバー」と「それ以外」に分断しているという予想を持っていたけど、今はむしろ宗教の問題と地域間移動の問題が鍵になってる気がする。また、「当事者」と「それ以外」に分けて、後者は一切クィアな面の無い団体・人たちという前提のもとで、取るに足らないものとしたり、同じことをしていてもより強い批判を向けることは、そもそも「クィア」という概念と関わる大きな問題だと思う。わたしの今回の調査の目的のひとつは、PFLAGに代表される「LGBTの家族」をきちんとLGBT政治の文脈に置き直して、単なる「親」だけではない複層的な立ち位置に光をあてること。このへんは、修士論文の形にちゃんとなったらまたブログで報告します。

もちろん、上で言った全てのことがあるからといって、PFLAGが本当にLG中心じゃないとか、白人中心じゃないとか、中産階級中心じゃない、とは私も断言できない。例えば、ポートランドにある黒人向けPFLAG部局はもう片方の(実質白人向けになっている)部局とほとんど交流が無いという話だし、シカゴにしても、うちから歩いて5分のところに黒人向け部局が1年半前からあるけど、メンバーは殆どいない。シカゴのかなり大きな黒人セクシュアル・マイノリティ女性の団体 Affinity Community Service と一緒にミーティングを開くことでなんとか毎月1回のミーティングを実現しているだけのようなところもある。わたしのインタビューにこたえてくれた人も、これまでのところほとんどが白人だ。PFLAGと関係のないLGBT家族にもなかなかコンタクトが取れない。

ただ、シカゴの場合は、他のあらゆる部局も最初の数年はメンバーが集まらなくて本当に困ったという話を年配のPFLAGメンバーから聞くので、必ずしも失敗例というわけではないのだろうけれども(ちなみにポートランドはメンバーがそこそこ恒常的にいる、というのをポートランド部局(白人ばかりの方)の偉い人からも、シカゴの知り合いからも聞いた)。

ちなみにその、うちの近所の部局は、6月か7月に地域の教会(ミーティングの開催場所でもある)と協力しあって「スピリチュアリティとセクシュアリティ」というシンポジウム(というかたぶんそんな大それたものではなくて、単に集まって地域の人との対話の場をつくろうということなのだろうけれど)をやるらしい。私も参加する予定だけれど、「黒人は白人に比べて宗教的だから保守的でフォビックだ」という偏見をまき散らす白人LGBTQ学生活動家が私の周りには多い中、「宗教が全てではないと思う。白人ばかりのLGBT団体が地域の黒人住民たちと対話をしようとしてこなかったからというのも大きいはず」と語っていた人がイベント運営に携わってるので、どういう風に対話が試みられるのか、陰で協力できるところは協力しつつ、期待と不安を持って見届けたいと思う。

わたしの〈クィア〉とあなたの〈クィア〉は違う:グローバルでないドメスティックなクィアの不可能性

黒ピンクの衣装で2016年TRPでプロテストする3人

この文章は、2011年度上智大学グローバル・スタディーズ研究科ワークショップ・シンポジウムシリーズ「日本とJapanとクィアとqueer——日本におけるクィア・スタディーズの多様性と『グローバル』クィアの考察」(2011年12月17日)での発表原稿に若干表現上の修正をしたものです。

要旨

「グローバル・クィア」あるいは「グローバル・クィア・スタディーズ」が語られるとき、国民国家や地域、宗教の軸における「クィア」概念あるいは「LGBT」概念の翻訳可能性が取り沙汰されるのは当然のことである。しかし「グローバル」と対置されるであろう「ドメスティック」あるいは「ローカル」な「クィア」は、そもそも各国民国家・地域・宗教内部で確立された概念なのかを問うことも必要だろう。

本発表では、クィア・スタディーズの中心的地域である米国における階級・人種・宗教に注目し、そもそも「クィア」概念あるいは「LGBT」概念が必ずしも米国全体に流通していないことを示し、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という枠組みを批判する。また同時に、「翻訳可能性」が言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを考察し、ワークショップでの論点の1つとして提案したい。

発表内容

「グローバル・クィア」という言葉が とても うさんくさいものである ということは、会場にいらっしゃる みなさんは すでに ごぞんじかとおもいます。なにをもって「グローバル」であるといえるのか。「こまかな ちがいはあれど、ここのこれも、あそこのあれも、クィアだよね」といえるのであれば、そこに共通の「クィア」性とは、つまり「クィア的」であると みとめられる条件とはなにか。そして、そこで すてられる「こまかな ちがい」がうまれる理由とは具体的になんなのか。言語なのか、国ごとの文化なのか、あるいは民族の文化なのか。あるいは、階級や大学教育へのアクセスの どあい なのか。そして、そういったことを理由にしてうまれているとされうる「こまかな ちがい」には、どのようなものが ふくまれるのか。「グローバル・クィア」という言葉からは、たくさんの疑問点が うかびあがってきます。

動詞としての「クィアする」

「クィア」という言葉は、もともとが「変である」「奇抜である」という形容詞として存在しました。そのあと動詞の「台なしにする」「ダメにする」「破滅させる」という意味で つかわれるようにもなり、そして、20世紀になって、形容詞として「ホモセクシュアルの」という意味で つかわれるようになりました。そのすぐあとに、名詞の「ホモセクシュアルの人」という意味で つかわれるようになりました。そのあとエイズパニックなどを とおして「クィア」という言葉の意味が変容していくことは ごぞんじかと おもいます。ただ、わたしが注目したいのは、名詞の「クィア」から動詞の「クィア」——つまり「クィアする」という表現——が うまれたのではなく、名詞の「クィア」より100年あまりまえに、すでに「台なしにする」という意味の動詞が つかわれていたということです。かんがえてみれば、現在「クィアによむ・クィアリーディング」などとよばれる よみかたは、よく、「作品を台なしにする」と批判されます。これにたいし、「台なしにして なにがわるい」「そもそもそこで台なしにされるのは、作品ではなく、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもって よもうとする従来の姿勢なのではないか」というかんがえかたが、クィア・ポリティクス以降の文系学問のなかで すこしずつ信憑性をもって かたられるようになりました。もちろんこれは、実際にいろいろなひとが「よむ」という行為を とおしてやってきたことを、学問が あとおい しているわけです。この、動詞としての、あるいは なんらかのはたらきかけとしての「クィア」の議論は、「グローバル・クィア」という言葉が かたられるときに、簡単に ぬけおちてしまいます。名詞としての「グローバル な クィア」ではなく、動詞としての、「グローバル に クィア する」ということがどういうことなのか。すこし かんがえてみたいと おもいます。

「クィアする」ことと、規範

いってみれば、名詞としての「グローバルなクィア」を かんがえることそれ自体、動詞としての「グローバルにクィアする」行為であると おもいます。わたしたちは まさにいまこのワークショップで、グローバルにクィアしようとしているんです。しかしそれは、意図的に、このワークショップのなかだけで実践できるようなものではないと わたしはおもっています。というのも、「クィアする」ということは、かならずしも知識や知性を必要とはせず、ふとした瞬間に、ときに、あるいは おそらく大抵の場合無意識に、おこなわれてしまうものだと おもいます。それは、たとえば、ある作品をよんだ自分の解釈がほかの大多数のひとと ことなっていたとき、自分の からだについての解釈がほかのひとと ことなっていたとき、自分の性的欲望を かたって、ほかのひとから反発を うけたときなどに、そこで発生してしまう「事態」、そこに、なにかが「クィアされる」可能性がある、つまり「クィアする」あるいは「意図せずクィアしてしまう」契機がある、とおもっています。

「クィアする」というのは、わざとではなく、なりゆきで おこってしまう事態である、つまり、意図的に「クィアする」主体として自分は存在できない、と わたしは おもうのですが、であれば、そこで「クィアされる」がわの客体、英語の文法でいえば「目的語」にあたるものは、いったい なんなのか。それは、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもってしまうように規範づけされている、わたしたち自身でありましょう。規範から自由なひとは、いないと おもうんですね。たとえば「異性愛者とはこういうものだ」という概念はたかが100年くらいまえに うまれたものですが、そのもととなったのは「同性愛者とはこういうものだ」という概念です。それをもとに、「同性愛者ではないもの」として「異性愛者」という人間像がうまれたのです。であれば、「わたしは異性愛者ではなく、同性愛者だ」というひともまた、異性愛を中心とする規範から自由ではありません。もし異性愛を中心とする規範が きえさる日がやってきたら、同性愛者も異性愛者も、もうそれまでと おなじ感覚でアイデンティティを たもつことはできないでしょう。「クィアする・台なしにする」という行為は、自己がのっかっている「台」も「台なし」にしてしまう行為なわけです。といっても、わたしたちは つねに規範に忠実に いきているわけでもありませんし、規範に忠実に いきているように みえても、そこに問題がないとも かぎりません。葛藤や妥協、黙認、ちいさな抵抗、無関心、忘却、いかり などがそこに存在することもあります。

そして、それらの、規範との「ズレ」のようなものが、「クィアする・してしまう」契機であると おもうのです。つまり、「クィアする」という行為は、規範によって自分がうけた「被害」——ときにそれは、規範づけされた自分がみずから おこなってしまう「加害」でもありますが——そのような経験と となりあわせの ものであるのではないでしょうか。これはもちろん、同性愛者差別やトランスジェンダー差別、女性差別などを念頭においていますが、それだけではなく、性にかんする自己認識や感覚、行為などが規範と衝突してしまう事態全体をかんがえています。

グローバルにクィアする

「クィアする」ことの契機が規範との「ズレ」にあるのであれば、なんらかの かたちで「クィアした」とされる言動が、よのなかに うけいれられる、そのこえを きいてもらえる、というのは、どういった事態なのでしょうか。それは、性にかんする規範がたんに ゆるやかになっていることを しめすのでしょうか。あるいは、もっとよくないことが おこっているのかもしれません。

さきほど、「クィアする」ということは、かならずしも知識や知性を必要としない、という はなしをしました。しかしそれは、だれの言動もすべからく平等に きくみみを もってもらえるということではありません。知識や知性、そのほかの様々な社会的状況のちがいが、「だれのクィアリングが注目されるのか」を左右してしまうことは、多々あります。というのも、クィアなはなしが世論や政府に歓迎されるとき、そこには性にかんする規範よりも現在緊急で重要だとおもわわれている規範が存在するケースが おおいわけです。それはたとえば、人種にかんする規範だったり、宗教にかんする規範だったり、階級にかんする規範だったりします。それらの規範を維持するにあたって都合のよい議論であれば、クィアな はなしは、歓迎されるということです。

人種にかんする規範

まず人種の問題について、すこし例をご紹介します。いま、アフリカ諸国における、同性愛をばっする法案が議論になっています。「同性愛をばっする」といっても様々な形式があって、おしりの あなを つかった性交渉がばっせられる場合、同性のパートナーの存在をオープンにしていることがばっせられる場合、バーや人権活動団体など同性愛者があつまるとされる場所にいくことが ばっせられる場合などがあります。現在ナイジェリアで、この種類の法案が可決されそうになっています。また、ウガンダで同様の法律をさらに きびしくして死刑を ふくませようとする うごきも、今年の国会解散をきに一時期とまっていましたが、10月に再開しています。

この問題にかんして、米国をはじめとする先進国では、市民活動家や学生、活動団体などが こえをあげてきています。しかし、ウガンダやナイジェリアなどの現地にも性的マイノリティの団体があるにも かかわらず、そういったところと連絡をとって連携しようとする努力は、ほとんどみられていないのが現状です。めだつのは、おおきな署名サイトが何万という署名をあつめて、それを現地の政府におくりつけるだとか、経済制裁をすべきだという こえだとか、とても一方的なものばかりです。小山エミさんという米国在住の活動家は、これにたいし、「ウガンダの あたらしい法案が とおったとして、それによって しぬ ウガンダの性的マイノリティの かずよりも、経済制裁によって しにおいやられる性的マイノリティのほうが おおいだろう」といって、批判しています。

また、これにはさらに うらがあって、アフリカ諸国で現在起こっている同性愛差別的な うごきというのは、米国の福音派クリスチャンによってけしかけられたものです。そのうちのひとりは、ジョン・マケインやバラック・オバマとの関係がふかいリック・ウォーレンです。こうして米国の保守派によってけしかけられたものが、米国の急進派から批判をあび、さらに米国による経済制裁を まねきかねない状況にされているわけです。

もうひとつ、人種の例をだします。2008年にオバマ現大統領が当選したとき、カリフォルニアでは同時に住民投票をおこない、「プロポジション・エイト」と呼ばれる州法案8号が可決しました。この法案は、一時期同性間の結婚をみとめていたカリフォルニア州の州法を、無効にするものです。可決のあと、これまで投票に参加していなかったがオバマ大統領を支持するために投票所にあらわれた おおくの黒人がこの法案に賛成の票をいれたことが可決の原因だとして、同性婚に賛成している多くは、黒人をさげすむ発言をしました。

あとになって わかったことですが、出口調査によると黒人の70%が法案に賛成だったと報道がありましたが、そのあとの調査では58%であったことがわかりました。それは、全体の賛成の割合である52%と くらべても、とくに黒人が同性愛差別的でありそれが原因で法案が可決したとは いいきれません。また、それまで投票活動をしていなかったからといって かれら・かのじょらに投票権がないわけではなく、「本来投票しないはずのやつが投票したから うんぬん」という論理は、非常に黒人差別的なものです。むしろ、本来投票できるはずの黒人が政治に無関心になってしまうような構造を批判的にみるべきですし、その構造を前提として法案の反対活動をした活動家や団体が「本来投票できるはずの黒人」にアプローチしなかったことを反省的に かんがえるべきです。

また、それでもカリフォルニア住民の黒人のうち58%が法案に賛成したことに注目し、黒人に同性愛差別的な感覚がつよいと かんがえることもできます。ただしそれは、キリスト教の教会と黒人社会の歴史、そしてその背景にある奴隷制の歴史と黒人差別の歴史を無視することになるでしょう。米国の司法制度は、黒人男性に不当に厳しいことで有名です。おおくの黒人男性が不当に逮捕されたり、不当に長い刑期を めいじられたり、不当に おもい刑をうけています。そのため、おおくの黒人女性はシングルマザーに ならざるをえない状況になっています。黒人の家族をバラバラにしてしまう構造が、米国にはあるわけです。

そんななか、白人ばかりの大手LGBT団体や活動家が性的マイノリティを代表して発言をしているわけです。また、今年米国のマクドナルドでトランスジェンダー女性が黒人女性2人に暴行をうけた事件では、その加害者が黒人であることを強調するような報告がでています。被害者に てを さしのべたのが白人女性であったことも、ニュースでいちいち報告されました。こういう、性的マイノリティのことを白人が わがものがおで やっている状況では、黒人社会がそれに反発を かんじるのも、わたしには自然なことに おもわれます。そもそも、黒人にかぎらず有色人種の性的マイノリティは、みずからが性的マイノリティであっても、大手LGBT団体や有名な白人LGBT活動家を信用していないことが おおいです。むしろ、それにも かかわらず42%の黒人が法案に反対票を とうじたことに、わたしは おどろきました。

つまり、米国における黒人蔑視や差別を背景にしているにも かかわらず、その結果である黒人社会の状況を、白人中心的な性的マイノリティに批判されているという状況です。やはりこれも、さきほどのウガンダの例のように、火をつけたがわが 火けしにまわる、いわゆるマッチポンプになっています。

宗教の問題

つぎに宗教の問題について、すこし おはなしします。9.11以降イスラム教が悪魔のように あつかわれだしたのは、米国にかぎらず、ヨーロッパ諸国や日本でも同様ですが、これはクィアに かんする問題でもあります。

ひとつには、「女装して米国にはいってくるテロリストがいる」として、米国政府が身分証チェックを強化したことと関係があります。2005年に施行されたリアル・ID法がこれにあたります。この法律は、移民や難民認可のハードルを たかめると同時に、複数の身分証のあいだで ことなった情報が記載されているひとをチェックして、テロリストである可能性がたかいとして疑惑をかける根拠となるものです。 当時「あなたがトランスであることを証明する書類を もちあるいて おきましょう」とアドバイスしたLGBT団体が、トランス当事者によって批判されています。 現在は身分証の性別が複数あっても政府にコンタクトされることはなくなりましたが、これで一件落着とするのであれば、リアル・ID法をはじめとする米国の移民排斥やテロ対策を みとめてしまうことになります。

さらに、いままさに問題となっているものに、「ピンク・ウォッシング」というものがあります。これは、中東において唯一LGBTの権利を大切にしている国としてイスラエルを宣伝し、同時に、いかにほかの中東諸国——イスラム圏の国々——がLGBTの人権を蹂躙しているかを強調する政治的なうごきです。これによって、イスラム教やイスラム教徒への偏見が強化され、彼ら彼女らへの暴力が正当化されるような しくみになっています。

しかし、イスラム圏の国々の性的マイノリティの あつかいについて、先進国のわたしたちは あまりおおくを しりません。現在同性愛に死刑を かしている国は6つで、そのなかでもサウジアラビアはほとんどの場合死刑を執行しません。死刑をふくまない反同性愛法がある国もいくつかありますが、それらの法にそって実際に司法がうごいて処罰しているケースは、あまり おおくありません。レバノンのように、法律は存在しても、文化的には同性愛に寛容なところもあります。また、このような法律をもたない国も おおくあります。実際におおく死刑を おこなっているのはイランで、ここ40年ちょっとで約4000人を死刑にしました。ただし、イランでは宗教家のアヤトラ・コメイニが性別再指定手術——いわゆる性転換手術——を みとめるという発言をして、イランの最高指導者がその主張を みとめています。おおくの宗教家がこれを支持しており、現在イランでは性別再指定手術をうけるひとに補助金をだしています。

イランでこの40年で4000人が死刑にされてきたという はなしをしましたが、たとえばパレスチナとイスラエルの紛争において、イスラエルはこの10年ちょっとで6500人をこえるパレスチナ人を ころしています。また、実際、先進国においてヘイトクライムで ころされるひと、差別的待遇による経済的破綻などで しぬひと、イジメを苦に自殺するひとなどを、 イスラム圏で性的マイノリティが しぬ人数と くらべるような統計は存在しません。しかし、これらを くらべたとき、はたしてどちらが絶対におおいと いえるような統計になるかは、わたしには ちょっとわかりません。

これは、くらべてどう、という はなしではないですし、片方が わるいからもう片方はいい、という はなしでは ないのですが、イスラエルの現在おこななっている暴力に めをつぶって、そこでいかにLGBTの人権が まもられているか、しかも「中東のほかの国に くらべていかにパラダイスか」を宣伝する、この、ピンク・ウォッシングという うごきは、注意して みていかないといけません。

イスラエルのこのイメージアップの こころみは米国内でも顕著で、米国の おおくのプライドパレードでイスラエル関連の団体がフロートを だしています。米国はイスラエルとの密接な関係がありますし、イスラム圏の国々への偏見が つよまることはテロ対策においても都合がいいわけです。先日米国のクリントン国務長官が同性愛者の権利について大々的にスピーチをして、今後米国が世界中で同性愛者の権利を推進していく方向性をしめし、話題になりましたが、すでにインターネット上では、これを「アメリカの文化帝国主義だ」とする批判が でていたりします。

階級の問題

つぎに、 これは、人種の問題も からんできますし、地域の文化の問題も関係するんですが、 階級の問題について、すこしだけ おはなしします。おそらく日本でもそうですが、米国においても、田舎であればあるほど、そして低所得であればあるほど、同性愛は嫌悪され、トランスジェンダーは迫害され、そして女性は しいたげられている、というイメージがあります。それは、かならずしも「全然そんなことないよ!」とは いえないと おもうのですが、クィア系の議論に、それが学問的なものであれ、政治活動的なものであれ、都会の中流階級のはなしばっかりが でてくる状況では、じゃあ田舎での生活を えらぶ性的マイノリティは、低所得である状況から ぬけだせない性的マイノリティは、議論の対象にもならないのか、もし差別をうけたとしても自業自得ということになってしまうのか、という疑問があります。

この問題にたいする回答として ひとつありえるのが、「いいや、そんなことはない。そういう人たちだって権利を まもられるべきだ。だから田舎にも、低所得のひとたちにも、きちんと教育をして、LGBTに寛容になれるようにしてあげるべきだ」というものです。「あ、どうも、クリントンさんこんにちは」ってかんじですが、状況はもっと複雑なはずです。たとえばジャック・ハルバースタムは、田舎にすんでいた あるトランス男性が、 トランスの存在が認知されないような、想像もされないような田舎にいたからこそ、男性としてパスして生活ができていたのでは、と指摘しています。また、ちょっとはなしが とびますが、世界で二番めにイスラム教徒のおおいパキスタンでも、地域によっては、労働者階級の文化が同性間の性愛関係を うけいれている場合があるそうです。これは、低所得でもそのままでいいよね!ということではなく、そういった人々の生活環境を一緒くたに「おくれている」と みてしまうことは、おかしいという はなしです。

わたし自身もまた、低所得世帯のおおい田舎でそだち、家族もふくめ、周囲にはいわゆる「低階層」とよばれるような文化が つねにありました。わたしが階層的に随分余裕ができたいまでも、そういった人間関係が きれているわけではありません。かれら・かのじょらとの やりとりの なかで、どうしても はなしが つうじなくて もどかしさを かんじることもありますが、同時に、かれら・かのじょらも また経済的に大変なおもいをしていたり、あるいは地域的に都市から はなれているからか、とてもすんなりと はなしが つうじること というのが多々あります。たとえば、クィア系の はなしをしたときに、それを社会の問題として認識してくれることが おおいと かんじるのは、ほかの面で めぐまれているひとたち よりも、そういった、むかしからの しりあいのかた だったりします。

また、ここでやっと最初のはなしに もどるのですが、「クィアする・おもいがけずクィアしてしまう」瞬間というのは、おそらく、クィア性が うけいれられるとき ではなく、規範との衝突が契機になるという はなしをしました。これは、理論的にも そういうかんじ だろうとは おもうのですが、実生活における感覚的なものでもあります。というのも、さっき いったような、むかしからの しりあいは、時々びっくりするくらい女性をバカにした発言をしたり、性的マイノリティに かんして ひどい発言をすることがあります。それに きずつくこともありますが、そういった性の話題になったときに、かれら・かのじょらは、あたりさわりのない ことを いって ながすのではなく、自分の、しばしば差別的な かんがえを表明して、わたしの いいぶんにも みみを かたむけることも おおいです。そうすると、わたし自身もまた、そこから まなぶことが おおかったりします。都会の、中流階級の、自称「リベラル」な、理解がありますアピールをするひとたちとの やりとりに かけているものに、であうことが あるということです。もちろんそれは、いつでもそうであるわけでは ないですけれども。

そういうとき、わたしは、自分が しんじてしまっている規範に きづかされることがあったりします。わたし自身が「こうである」と おもっていたものが、きりくずされることが あるんです。それは ときに不快でありますし、おそらく わたしの いいぶんを きいている相手も不快な おもいをしているかもしれません。しかし、クィアなはなしが容易に うけいれられる空間と くらべたとき、わたしは、こちらのほうがよっぽど、「クィアする・おもいがけずクィアしてしまう」事態の契機があるように かんじています。これは個人的な感覚ですし、かぎられた経験でしかないので、一般化することはできませんが、すくなくとも「低所得者層」の空間にクィアな現象は おこりえない という偏見は、まちがっていると いうことができると おもいますし、そのように わたしは いいたいと おもっています。

小まとめ

はじめのほうで、「クィアする」ということは、かならずしも知識や知性を必要としない、という はなしをしました。そして、知識や知性、そのほかの様々な社会的状況の ちがいが、「だれのクィアリングが注目されるのか」を左右してしまうことは、多々あります、とも いいました。その例として、人種の問題、宗教の問題、そして階級の問題について おはなし したところです。階級の はなしは あんまりいい例がだせなくて もうしわけなかったんですが、いいたいことは つたえられたと おもいます。つまり、人種マイノリティや宗教マイノリティ、そして低所得者層の生活においてどんな「クィアする」ような事態が起こっていようと、そんな「クィアリング」には だれも注目しない、だから、低所得者層や人種マイノリティ、宗教マイノリティは、まったくクィアなところのない存在だと おもわれてしまったりするのではないか、という はなしです。

うけいれられるタイプのクィアリングには、ほかの規範が関係しているという おはなしもしました。それは、イスラム教やイスラム教徒を悪魔のようにみたり、イスラエルがいい国だというイメージを つくったり、黒人は性的マイノリティに不寛容だとしたり、田舎は規範がつねにガチガチなので、そこにいる性的マイノリティは ろくでもない あつかいを うけているという偏見を もったり、移民はLGBTの権利を尊重しないから おいだすべきだ と主張したり、そういう規範に、利用されているということです。

「クィアする」ということは批評行為ですが、それはたんに他者のすがりついている規範を批判することではないと おもっています。はじめのほうで いったとおり、それは、異性愛を中心とし、男性を中心とし、ジェンダーのきまりごとを忠実に まもってしまうように規範づけされている、「わたしたち自身」を批判に さらすことをも ふくむ行為なのです。そして、規範から自由なひとなどいない、という おはなしもしました。ですから、「クィアする」、あるいは、「おもいがけずクィアしてしまう」、もっとわたしが いいたいことを正確にいえば、「おもいがけず、その場の なにかがクィアされてしまう」事態というのは、おそらく だれにとっても、たのしいものでは ありません。

これはつまり、「他者」を対象として「自己」が「クィアする」、いいかえれば、他者のがわにある同性愛差別的、トランスジェンダー差別的、女性蔑視的、あるいは性的な規範に忠実な部分「だけが」批判に さらされる事態というのは、自分だけが批判から まぬがれようとする ふるまいが そこにあることを意味します。それは おそらく、やっている本人からしたら、愉快なことかもしれません。

これは、容易に、不正義のアウトソーシングになります。つまりそれは、イスラム教は、黒人は、低所得層のひとたちは、自分たちと ちがって、わるいことをしている、という設定のまま、その「わるいこと」——ここでは女性差別や性的マイノリティへの差別——からの利益は自分たちも うけている、ということです。最近では、ジョニー・ウィアーというスケート選手について同性愛差別的なコメントをしたカナダの報道関係者、およびオーストラリアの報道関係者がいましたが、米国では「フランス語話者であるコメンテーターがこういった」「オーストラリアのコメンテーターがこういった」という報道が おおくされました。ちなみに、カナダにおいては、フランス系の移民は ながく労働搾取をうけてきた歴史があります。また、オーストラリアも、おなじ英語圏でありながら、より野蛮なイメージを おしつけられた地域です。このように、「クィアする」——クィアリング——が、階級差別や民族差別、移民排斥、宗教弾圧などの思想に くみこまれて しまいうるわけです。それが、それでも、「クィアする」行為であると かんがえることが できるかどうかは、わかりませんが。

しかし、そのように くみこまれるからといって、性にかんする規範がまるっと きえるわけではなく、むしろ とりこまれ、利用され、つかいすてられるのが現実だと おもっています。政府や世論に歓迎されているあいだも、ジェンダーのきまりごとや、同性愛者を異性愛者と同等に あつかわない姿勢、男性を優遇する構造などがなくなるわけではなく、二級市民あつかいのまま、利用だけされるのではないでしょうか。たとえば、2年前にドイツのプライドパレードでジュディス・バトラーが主催者からの表彰を辞退したことが話題になりましたが、そこでバトラーが——バトラーがというか、現地の移民系・人種マイノリティ系クィア団体などから きいた はなしや、それをうけて本人が しらべたはなしを もとに——告発したのは、ドイツの大手LGBT団体が政府と協力して、移民排斥に加担しているという はなしでした。それだけでも ゆゆしき事態ではありますが、そもそも、ではドイツ政府が本当に性的マイノリティの問題について、本気で かんがえていたのかと かんがえると、おそらく そうではないでしょう。

クィア・スタディーズ in 英米 and in 日本

ここまでで みてきたように、「グローバルなクィア」ではなく「グローバルにクィアする」という動詞を かんがえたとき、わたしたちは いまのところ、あまりいい例を みつけることができないでいます。これは、自己をも批判にさらす、つまり自分の よってたつ「台」すら「台なしにする」ことが、そもそものグローバライゼーションの議論において、そして わたしたち ひとりひとりがグローバライゼーションについて かんがえたときに、あまり重要視されて こなかったことを意味するのかもしれません。

そして、現状グローバル・クィアの議論が「英米 対 日本」という かたちで、とくに前者が「クィア」という概念の うまれた地であり後者に「輸入」されるという前提の なかで かたられるとき、英米のクィア・スタディーズに あしを つっこんでいるひとがまず「台なしにする」べきは、英米でしょう。つまり、米国をはじめとする先進国の内部でそもそも前提とされている、日本などに「輸入」される おおもとに なっている設定の「ドメスティック・クィア」が、本当に「米国」などの国家的な単位のなかで共有された概念なのか、うたがって みてみることが重要なわけです。それは、最終的には、「米国」という国境的くぎり自体に うたがいの めを むけることにならざるを えない はずです。

そして、日本においてクィア・スタディーズに あしを つっこんでいるひとにとって重要なのは、もちろん ひとつめに、「輸入もと」の米国とは ことなる場所——つまり「輸入さき」——であるとされ、グローバル・クィアという概念の材料にされていることへの批判的考察であり、そしてもうひとつは、「日本」が歴史的に みずからを主体——つまり「東アジア共同体」構想という ひとつのグローバル思想の中心——であるとみなしてきたことを ふりかえり、いまになっても国内外で日本中心主義に もとづいた不正義を おこなっていることについての批判的考察を おこなうことです。

日本の東京中心主義、在日コリアン、東日本大震災

たとえば、先日 活動家の島田暁(しまだ・あきら)さんがツイッターで、在日コリアンの性的マイノリティがその両方についてカミングアウトすることがあまりないのは——あまりない、というのも島田さんの周囲にいないというだけだと おもいますが——在日コリアンのコミュニティにおける性別役割分業が きびしいからである、という内容の発言をしました。ごじつ 島田さんはこの発言への批判に応答し、おそらく撤回もしていたと おもうのですが、かれの発言は、移民の文化を不当に「おくれている」とみなすものであり、さらに、おそらく日本社会における すべての人間が全体的に責任を おっている性的マイノリティの問題を、あたかも日本社会と在日コリアンコミュニティが ふたつに わけられるかのように想定したあとで、後者のなかの問題は後者の問題だとして きりはなす——あるいは きりはなした うえで、包摂しようとする——ものです。ここでは、在日コリアンである性的マイノリティが在日コリアンのコミュニティにおいて性的マイノリティであることをカミングアウトすることの困難は想定されていますが、ぎゃく——つまり、かのじょら・かれら性的マイノリティのコミュニティにおいて在日コリアンであることをカミングアウトすることの困難については、想定されていません。しかし、島田さんの周囲において両方カミングアウトしているひとが すくないという現象は、むしろ後者の例なわけです。しかしそこには ふれずに、在日コリアンのコミュニティの問題を指摘してしまう。そして、ちょっと うつくしい同情と包摂の物語を つくってしまう。

おなじ構図は、あらゆるところに存在します。東日本大震災が3月に おきたとき、わたしはまず被災地にいる性的マイノリティにどんな困難が まちうけているのだろうと おそろしくなり、ネット上に だれでも かきこみが できるウェブサイトを つくりました。そこで意見を募集し、A4の紙一枚程度のシンプルな、被災地で支援をするひとが よめるようなものに まとめようと おもっていました。そのさい、東北地方にいる性的マイノリティの かたがたから いくつかコメントがつき、いまの段階ではそのような資料の配布は のぞましくないという意見を いただきました。それをうけ、現在に いたるまで保留の状態でいます。内容・時期・配布のしかたなどは、今後ゆっくり きめていきたいと おもっています。ただ、いまは のぞましくないという ご意見を頂戴するまで、わたし自身は相当、クリントン国務長官や、「海外でもLGBTの権利を推進していく」と かたったオバマ大統領っぽかったわけです。あるいは、ウガンダへの経済制裁を声高に さけんだ米国の活動家にも つうじるところがあったと おもいます。これは重要な問題だな、と、わたし自身 非常に かんがえさせられる経験となりました。

そのあと、共生ネットという団体から要望書が政府等に提出され、これもまた、わたしの つくったウェブサイトの内容を大幅に反映していることから いろいろな誤解が うまれたのですが、それは小澤かおるさんが様々なところで ご説明くださっているので、割愛します。

ただそこで、レインボーエイドという団体が調査をし、東北は家父長制がつよく、とても保守的だという報告を だしました。この調査をした小澤さんの結論は かならずしも「東北は保守的だ」というものでなく、東北の性的マイノリティあるいは団体との連携をきちんと とることの重要性を指摘するものでしたが、調査中にインタビューで でてきた「東北は保守的だから」という主旨の証言が ひとりあるきを して、それを前提に議論が すすんでいる印象をうけています。『被災とジェンダー/セクシュアリティ~緊急時、見落とされがちな視点を今後に活かすために』というイベントが9月24日に開催されましたが、そこでも、この「東北は保守的だ」という表現が、あまりきちんと議論されないまま、大雑把に前提とされている印象をうけました。登壇者の高橋準さんは、この「東北は保守的だ」というのは、西南日本と東北日本でわけたときの後者の家族観について いっていたそうです。しかし、おおくの ひとは「東北は関東とちがって保守的だ」という解釈をしているようでしたし、この問題について議論が おこることもありませんでした。

わたしは、自分がウェブサイトを つくったときに被災地の性的マイノリティや団体への連絡を おこたったことを反省しつつ、ぎゃくに かれら・かのじょらから連絡をしてくれたことに感謝すると同時に、しかし、そのまったく反対方向というか、被災地の性的マイノリティの言葉をそのまましんじて「東北は保守的なんだぁ」と納得することも、おかしいと おもっています。そもそも、関東が保守的でなかったことなど あっただろうか。たとえば女性運動における東北地方や近畿地方の女性のがんばりは、どう評価するのか。反原発運動で、もっとも保守的だったのは関東ではないのか。

たとえば、レインボー・アクションという団体が4月16日に、『差別発言に「NO」と言える日本を!石原都知事の同性愛者差別発言に抗議する』というデモをおこないましたが、その宣伝文句は、つぎのようなものでした。

2010年12月に報道された石原都知事の同性愛者差別発言を受け、抗議したい人たちでデモを行います。性的マイノリティの象徴である「レインボー」を身につけ、東京から多様性を発信するべく、新宿二丁目を通り、新宿駅前から都庁へ向かいます。東京から虹色に!
http://ishiharakougi.blog137.fc2.com/blog-entry-90.html

「東京から多様性を発信」、「東京から虹色に」というのは、あたかも東京が口火をきってはじめて、地方に その ながれが とびひ するかのような表現です。しかし、性的マイノリティの尊厳や権利について真剣に かんがえている地方行政のリーダーは、たとえば九州の宮崎県都城市などにいました。石原都知事が再選された東京から、というのは、ちょっとわけがわからない はなしだと おもうんです。

(文章アップロードするにあたっての、注意がき:4月の段階でのこういった表現は、現在ではつかわれていないそうです。コメントくださったかたに感謝します。)

まとめ

グローバル・クィアについて、というのがこのワークショップの おおきなテーマでした。だいぶいろんな はなしを もりこんでしまったので、あっちいったり こっちいったり している かんじがあったと おもいますが、はじめにオーガナイザーのソニヤに みせた要旨では、この発表の目的を、つぎのふたつに設定していました。ひとつは、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という わくぐみを批判すること。そして ふたつめは、「翻訳可能性」——つまり「クィア」という言葉が、英米以外において どのように とりいれられるのか、あるいは とりいれに失敗するのかということ——が、言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを指摘することでした。

また、名詞としての「クィア」ではなく、動詞としての「クィア・クィアする」に注目するというのは、ギリギリになって おもいついたことなんですが、そうすることで、ともすればグローバライゼーションのはなしに ひきずられてしまいがちなグローバル・クィアの問題を、ちょっと強引にクィアのはなしに ひきつけて、おはなしが できたかと おもいます。「自分のよってたつ台をも、台なしにする」——「クィア」という動詞のもつ、この諸刃の剣、というか、さしちがえ覚悟みたいな いきごみを おもいだすことで、わたしたちは、まずもって、グローバル・クィアについて うえから俯瞰するような、自分は中立ですみたいな視点で かたることはできないということ、そして、「グローバルにクィア」しようと こころみるとき、自分のよってたつ「ドメスティック・クィア」の曖昧さに めを むけなければならないということを、意識できるような きがしています。

そんな、かんじです。(了)

『児童ポルノと法:反規制言説におけるナショナリズム』学会発表原稿

2010年9月10日、英国日本研究協会の年次大会において、 “Child Pornography and Law: Nationalism in Anti-regulation Discourses” (児童ポルノと法:反規制言説におけるナショナリズム)という発表をしました。そのスライドと原稿を引っ張りだしたので、日本語に訳して公開します。

If you prefer reading this paper in English, click here and click Download(.pdf).

2012/6/2 追記

  • 〇〇という団体への言及がない、みたいなご指摘が多いです。めんどくさいし、その他の部分は評価してくれてるひとだったりするしで、とりあえず目についたものには「ご指摘ありがとうございます」とか言ってきましたが、正直言って、私のこの発表の主題からして、的外れなご指摘です。そもそもわたしは児童ポルノに関する規制派・反対派の両者について歴史を追って「なぜこのような政治的な動きが出てきたのか」とかを論じるつもりはなかったですし、いまでも、それは誰か他の人がやればいいような仕事だと思っています。本文にある通り、「既に、レイプレイを指差して何かを語るという段階はすぎて」いると私は個人的に感じています。というか、調べればすぐにわかるような団体名です。言及されていないということが「論旨に関係ないから」ではなく「知らなかったから」だろうと思われるのは、わたくしがヘボいと思われているからなのでしょうね。いいけど、ヘボいし。
  • 私は反規制派や規制派の活動自体を調査対象にはしていないですし、分析・批判の対象にもしていません(APPを批判する、という目的は、唯一ありましたが)。すぐ下でも「レイプレイというゲームソフトが受けた批判に対して発生した日本語のインターネットスペースにおける論争に注目し、グローバル・セクシュアル・ポリティクスの文脈における児童ポルノを巡る言説について考え」るための発表だと言っています。ですので、たとえばネット上の言説しか扱っていない、みたいなご批判も、そりゃそうだ、って話なのです。ネット以外のことについては、わたくしの仕事ではないので、他の人をあたってください。また、その上で話したかった論旨は、最後の方で言っているとおり「フェミニズム自体の問題(中略)、クィア運動自体の問題(中略)、そして反グローバリズムとその国粋主義的な意味」について、それぞれを扱う社会運動がどう連帯できるかについてのものです。ただ、もちろん、明らかな事実誤認が書いてある場合など、今後もご指摘・ご批判は甘んじて受けます。

2012/6/4 追記

  • 鳥山仁さん @toriyamazine 、烏蛇さん @crowserpent さんと私 @cmasak のやりとりが http://togetter.com/li/313937 にあります。烏蛇さん、まとめありがとうございました。

この発表では、レイプレイというゲームソフトが受けた批判に対して発生した日本語のインターネットスペースにおける論争に注目し、グローバル・セクシュアル・ポリティクスの文脈における児童ポルノを巡る言説について考えます。


以下、性暴力の描写が含まれる内容となっています。もし読み進めることに不安があれば、ここでやめて頂いてかまいません。

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レイプレイとは、プレイヤーが12歳の*1女の子を電車で痴漢し、逃げられないように拘束して公衆トイレ等さまざまな場所で強姦する、シミュレーションゲームです。ストーリーが進むにつれ、ときに輪姦を含む性暴力をくりかえし、その女の子の母や姉までも強姦し、その3人が性暴力を受けることに「快楽」を感じるようになります。さらに、妊娠、中絶と話は進んで行きます。このゲームはイリュージョン・ソフトウェアという会社が製作しアマゾン日本限定で販売していましたが、英語に訳された海賊版がすぐにアマゾン英国版のマーケットプレースに登場しました。メディアの反応を受けてアマゾン英国版はレイプレイをサイトから削除し、英国議会においても英国映画倫理委員会(British Board of Film Classification)の話題において「過激なポルノグラフィー」として言及されました。また一方で、2009年2月にはニューヨーク市議会の報道官クリスティーヌ・クィンらがレイプレイの不買運動を呼びかけました。5月には米国の女性団体イクオリティー・ナウ(Equality Now)が「Women’s Action 33.1」という声明を出し、レイプレイの販売停止を求めました。これを受けてアマゾン日本は販売を停止し、最終的に、9月に類似品(イリュージョン・ソフトウェアの製品を含む)の販売停止をアマゾン日本に求める「Women’s Action 33.2」が公表されるころには、イリュージョン・ソフトウェアのウェブサイトからもレイプレイは削除されることとなりました。この騒動について、日本語によるブロゴスフィアおよび掲示板において、昨年はとても大きな論争となったのです。


私は、フェミニズムの教育を受けたクィアな有色人種の人間として、この論争を、急速にグローバル化しつつある「子どもの安全」についての言説、そして日本における反グローバライゼーションの国粋主義的な感情の、両方について特に注意しながら、観察してきました。この二つの現象は、どちらも日本対欧米という二項対立を強化するものであると、私は思っています。特に私が危惧しているのは、この枠組みでは、グローバライゼーションについての典型的な(ジェンダーセクシュアリティを取るに足らないものとみなすような)政治的議論のために、フェミニストな、そしてクィアな視点が、代わり映えのしない男性中心主義や異性愛規範に取って食われてしまうのではないか、というものです。


レイプレイ騒動についてのオンラインでの論争を読みながら私が気づいたことは、議論が加熱するにつれ、人々の関心は、文化のあいだの国家的な境界について向けられるようになっていき、同時に、おそらく不可避的に、フェミニスト政治およびクィア政治からは遠ざかって行ったということです。この現象について今日私が指摘したいことは、大きく二点あります。ひとつは、フェミニズムの消去について。もうひとつは、クィアな連帯の欠乏についてです。そして、これらについて私は、「日本文化」にその責を帰すようなやり方で語るのではなく、むしろ日本と西洋の共犯関係としてとらえてみたいのです。


レイプレイが女性を貶めるような女性表象を含んでいることを明確に認識しているイクオリティー・ナウの声明をのぞき、現在ポルノグラフィーについて国際社会で語られていることのほとんどは、どのようにして子どもに安全と性的搾取からの自由を与えることができるか、ということに関するものです。


メディア表象が持つ言説的な権力についての理解は、先人たちの努力の結果、直接的な暴力から子供を守るだけでは不十分であると多くのひとが感じる程度には、広まってきています。これは、世界的に広まりつつある反ポルノグラフィーのアジェンダに、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた、実際の子どもが介在しないかたちの作品が含まれるようになったことからも明らかです。たとえば、第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)は、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針を採択しました。しかし、私自身はここで、子どもの安全を守るという近年のグローバルな方向性と、キャサリン・マッキノン(Catherine McKinnon)やアンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)などのフェミニストたちがかつて主張した、ポルノグラフィーは女性を貶めるものだという考え方とのあいだに、あまりおおきな違いを見いだせずにいます。現在の反児童ポルノの感情は、フェミニストによる反ポルノグラフィー運動とのあいだに、ひとつおおきな共通点を持っています。それは、両者ともに、表象というものを仮想現実の問題とするのではなく、現実の社会で起きている物事と密接な関係をもったものとしてとらえる点です。また、私は、この視点に同意しています。もちろん、検閲など、ある種の表象を何らかのかたちで抑制しようとする短絡的な解決案は有効ではないと思っています。そのような法というのは、ことごとく「なにがOKなポルノで、なにがNGなポルノか」を見分けることに失敗してきたからですし、今後も成功する見込みはないからです。しかし、だからと言って、それは私たちがポルノグラフィーをいっさい問題のないものとみなして構わない、という意味ではありません。フェミニストたちのあいだでも、またフェミニストの業界を超えたところでも、ポルノグラフィーについての議論はこれまでにすさまじい蓄積を残しています。そして、現在、多くのフェミニストは、ハリウッド映画など他の形のメディアと同程度にはポルノグラフィーが危険であると思っていますが、それはそのような表象がどのように作られ、消費され、評価されるのかによって程度が変わってくると考えています。また、「女性」といったときに、それがひとつの、何らかの共通の経験を持つ一枚岩な集団ではなく、ポルノグラフィーを見る目もひとりひとりの女性によって異なる、ということを、現在のフェミニストの多くは認識しています。ポルノグラフィー作品が批評の対象になることはありますが、それが法によって規制されていいのかどうかについては、現在でもフェミニストたちのあいだで意見が大きく分かれる問題となっています。


一方、現在、国際社会として、あるいは「国際的統治(global governance)」の一部としての私たちは、子どもの安全という世界的に広まっているイデオロギーと、それがセクシュアリティの統治の文脈で何を意味しうるのかについて、自分たちの思い込みをあまり疑うことなく、反児童ポルノ運動の動きに飛び込んでしまっているように感じられます。こんにちの社会がもし、私たちの思い込んでいるくらいに、実際に知的に進んでいて人道的であるならば、子どもの生活の質を脅かすとされる表象の暴力を前に、どうして私たちはドウォーキン/マッキノン以来のフェミニストの議論の蓄積を振り返っていないのでしょうか。それはあたかも、成人女性は、成人女性の性的表象によっていっさい痛めつけられることがないという結論に既に至っているかのような振る舞いです。

私が指摘しようとしているフェミニズムの消去は、これだけではありません。米国に拠点を置くイクオリティー・ナウと日本の団体であるポルノ・買春問題研究会(APP研・以下APP)のあいだには、双方向的な協力が見られなかったという不思議な現象があります。ここで私が明らかだと思うのは、単にフェミニズムが消去されただけではなく、特に日本内部のフェミニズムが不可視化された、という現象です。


このスライドは、レイプレイの販売を受けてAPPウェブサイトに掲載された同団体の声明です。しかしこれは、もともと英語で書かれたイクオリティー・ナウの声明の日本語訳でしかありませんでした。訳文に、イクオリティー・ナウのスポークスパーソンが登場したCNNの映像を貼付けただけのものです。このような国際的な協力関係は、特にこんにちの急速なグローバル化においては、社会運動にとって不可欠なものだと、私は思っています。しかし、もし事態が米国と日本で逆だったら、果たしてイクオリティー・ナウはAPPによる日本語の声明文を英訳しただろうか、と考えてしまうのです。あるいは少なくとも、イクオリティー・ナウは今回の問題について、自ら声明文を出すのではなく、単に支持を表明し、APPが必要とする資源(資料や金銭的援助など)を提供するだけでよかったのではないか、と。APPよりもそもそも目立つ団体であり、社会への影響力も大きいイクオリティー・ナウが声明文を出した方がいい、という判断かもしれませんが、しかしそれは、人種にはじまる様々な差異を超えてあらゆる女性について私たちフェミニストが考えようとするなら、まさに私たちが疑わなければならないような米国-日本間の権力構造のあらわれであります。


イクオリティー・ナウは善意で行動したのでしょうし、その立場は理解できます。しかし、いずれにしても、その行動の「フェミニスト」な部分は、それが日本のネット社会に届いたときには剥がれ落ちてしまっていました。この声明文は、児童ポルノ規制を奨励するものであると誤読されたのです。示唆深いのは、このレイプレイ騒動が、当時 Wikipedia の「レイプレイ」そのものについての記事よりも「児童ポルノ」のページ上でのほうがより詳細に紹介されていたことです。この混乱は、児童ポルノ法を厳しくし、実際の子どもが介在しない児童ポルノを処罰化する児童ポルノ法修正案を自由民主党が出していた時期であることが原因でしょう。それもまた、単なる偶然ではなく、国際統治と呼ばれる国際的な共犯関係のなかで生まれた同時性ではありましょうけれども。

皮肉なのは、イクオリティー・ナウが「フェミニスト」団体であることは、その声明のフェミニスト的な立ち位置を認め、価値を見いだすことではなく、むしろ声明全体を無効化することに役立ってしまいました。というのも、反児童ポルノ的なものはなんでも全て「フェミニスト」という言葉でレッテルを貼ってしまう雰囲気があったのです。そして、ここで国粋主義がひとつの役割を担うことになりました。それは、反フェミニスト感情が、ほとんど区別がつかないほどに、反外国人の感情と結びついてしまったことです。以下で説明する通り、この時点でフェミニズムはほぼ西洋のものであると決めつけられるか、少なくとも「内政干渉」と思われるほどには、外部のものであるととらえられていたのです。


このスライドは、強姦を受けた若いアメリカ人女性サバイバーについてのニュース記事が掲示板に貼付けられたものです。ここで、このサバイバーはレイプレイが販売されていることに怒りを表明しています。


そして、その掲示板でついたコメントの一部がこちらです。

ここには、「日本のゲームに口出しすんな そっとしておいてくれ」「いやホント勝手に海外で売らないでください 迷惑なんです」「うるせえ外人がごちゃごちゃ言うな」「自国のレイプを他国の文化のせいにしないでください」「だから日本は放っておいてくれよ オマエラのために作ってるんじゃねぇんだよクソが」とあります。


また、この騒動についてのまとめサイトでは、児童ポルノ法修正案に賛成する団体がリストアップされていますが、イクオリティー・ナウについては「アメリカのニューヨーク市に本部がある」だったり、APPについても「米国の反ポルノ運動勢力の最右翼であるアンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノン(中略)の影響下にある大学関係者・弁護士・左翼活動家らが中心となって活動」とするなど、何らかの「西洋」性を強調するものとなっています。「キリスト教」という言葉も多用されています。


この騒動の最中、国粋主義的な感情は反西洋だけではなく、反コリアンの様相も見せ始めます。これらのコメントには、次のようにあります。「また韓国人の陰謀ですか。 これ、韓国人が組織的にやってるんでしょ、半日キャンペーンの一つとして。」「この子にレイプレイ教えたやつ誰だよ なかなかいいプレイだな」 またこれに対する返信として「この記事書いた朝鮮人がご丁寧に教えて差し上げたんだろう」「いい加減メリケンも韓国人に振り回されるのは止めろよ」「アメリカが言うな」 またこれに対する返信として「アメリカで言われているからというのに目を奪われるなよ? 裏でたきつけてるコリアンがいるのを忘れるな」


外国人嫌悪(ゼノフォビア)は、また一方で、反児童ポルノ活動家アグネス・チャン氏への個人攻撃としても現れています。これらが、チャン氏への言及を含んだコメントです。「児ポだろうがなんだろうが、余所者につべこべ言われるのが気にくわない」「アグネス『倭猿タチの古典ナンテ無価値ネ 全力デ潰スアルネ』」「レイプレイの件もアグネスも外人だけでどんどん話が進んでってほんとおもしれえ」「徹底的に規制してやるアル!って決意したって事か アグネスチャンは敵を増やすの上手いなw きっと色んな奴に怨まれてるんだろうなあ」「アグネスなんて、本国の人権侵害には何も言わないんだから、 360°どっから見ても工作員丸出しだろ。」「帰化すらしてない外人に感情論で法に干渉されたらたまんねえよ 現実の児童すら救ってないのに明確なソースもなしに『虹(引用者注・二次の意)規制すれば児童の性的搾取はなくなる』とか言われても」「こいつさっさと殺されればいいのに シナババア死ねよ」 内容もさることながら、カタカナで外国人の発言であることが強調されています。

この問題について起きた論争のすべてを紹介することはできませんが、ほとんどのコメントはこのようなパターンをなぞっています。明らかなのは、人々の関心が、どんどん日本という国家の境界の問題にひきつけられていき、同時に、イクオリティー・ナウやAPPが強化しようとしたフェミニスト的な政治からは急速に離れて行ったことです。気をつけなければならないのは、そういった現象が起こった原因のひとつは、イクオリティー・ナウとAPPが採用した戦略自体であるということです。


この発表の後半は、クィアな連帯の不在についてのものです。私は、このレイプレイ騒動において、ある種のクィアな連帯が形成される可能性があったと思っています。

先に進む前にご理解いただきたいのは、「ペドフィリア」と言ったとき、私は、単なる子どもへの性愛感情以上のものを含めて考えてはいません。つまり、いかなる行動も、ましてや法律違反も、この定義には含めていません。


とても一般化した話になりますが、日本と西洋でのペドフィリアのとらえられかたの違いを考えてみたいと思います。西洋の多くのひとは、同性愛者はペドフィリアであるという偏見を知っていると思います。歴史的に、ペドフィリアも同性愛も両方とも貶めるために、両者が関連づけて語られてきたのですが、西洋のLGBTフレンドリーになりつつある地域においては、人々の文化意識を変え、同性愛をペドフィリアとは違うものとする考えを普及することに成功してきました。しかしそれは同時に、ペドフィリアを病的な個人の悪魔のような集団とする見方を温存することに加担してきました。一方で、日本においてはペドフィリア、あるいはロリコンと呼ばれるものは、異性愛者の男性の倒錯した性的幻想の一部とみなされてきた傾向があります。インターネットで論争に参加した多くの反規制派はレイプレイを「日本の」文化の一部だとして擁護しましたが、しかし日本におけるクィアな存在はできるだけ自らのセクシュアリティや出生時とは異なるジェンダーへの同一化について沈黙を守るよう奨励されています。また、彼女ら彼らが日本に存在する事実すら、例えば「アメリカに行ったら、ケツ掘られないように気をつけろよ」というようなジョークによって、ないことにされたりします。


全てのセクシュアリティ性的指向に限らず全てのセクシュアリティ)は、異性愛を中心としてとらえられ、あるいは異性愛の亜種であると考えられる傾向があります。例えばロリコンの男子バージョンであるショタコンも、異性愛の文脈で解釈されることがほとんどです。今日のネット社会では「男の娘」という言葉もありますが、メイド喫茶やコスプレなどのオタク文化と呼ばれるものと同様、メディアでもよく取りざたされるようになり、「男の娘」であるような男性は増えていると報道されています。私は、この現象は女性という自認の(戸籍上の)男性を含む男性性と考えられているものとの不一致を感じている人にとって、ある種のガス抜きのように機能していると考えていますし、もしこの現象がなければ女性として、トランスジェンダーとして、あるいは女装者などとして自認を持った個人も多数いるだろうと思っています。しかし、一般的な前提としては、男の娘は自らのジェンダー自認を疑うことはなく、単に女性の服装を楽しんでいあるだけだというものです。

また、性同一性障害という言葉はこの十数年で急速に広まり、同性愛もしばしば「反対の性を自認した上での異性愛」ととらえられます。もちろん同性愛とトランスであることは二律背反の関係にはありませんし、この混乱の責任が性同一性障害の言説に帰せられるべきとも思いません。しかし、同性愛が異性愛の言葉で説明されるという現象は、気になります。


このような理解のなかで、レイプレイがクィアな注目を浴びることはないでしょうし、実際にそうはなりませんでした。私の知る限り、日本の主流なLGBT団体はこの問題について語りませんでしたし、最も大きなLGBT新聞(オンライン)である Gay JapanNews は、過去三年間で児童ポルノに関する記事をたったひとつしか掲載しておらず、それもオーストラリアで児童ポルノの所持で九十人が逮捕されたという単なる報告にすぎませんでした。


しかし、そもそもどうしてクィアな連帯がこの問題において重要だったのか、と疑問に思うひともいるかと思います。そもそもはじめに、「クィア」とはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアルトランスジェンダートランスセクシュアルを傘下におく単なる総合カテゴリー名称ではありません。ゲイ男性を中心とする集団への攻撃や貶めにルーツを持つこの言葉は、大きくその意味を変え、セックスワーカー、ドラッグ使用者など、HIV感染のハイリスク集団とされた人々をも含む言葉となりました。そうなることで、エイズの広がりを公衆衛生の問題として認めなかったレーガン政権によって誰の生命が守られず、尊重されずにいたのかを、明確に、大きな広がりを含めたかたちで、表現する言葉ができました。ですから、私にとっては、「クィア」は怒りの言葉であり、連帯を呼びかける言葉です。自らのライフスタイルがゆえに周縁化され、軽視される人々のあいだの連帯を、呼びかけているのです。「クィア」は法に忠実になるわけでも、法を破ろうとするのでもなく、一般的な価値観において受け入れられているものへの抵抗としての、新しいやりかたで、法律を使い、ねじ曲げ、文句を言い、解釈しなおすのです。「クィア」は、性的指向ジェンダー自認の領域にとどまりません。「クィア」はカテゴリーを信じないかわりに、人々とその生き方に寄り添います。「クィア」はペドファイルと呼ばれるひとびとを、こどもと呼ばれるひとびとと同様に尊重します。「クィア」は、全ての人が性暴力から自由になるべきだと要求しながら、同時に、好きな性的ファンタジーを持つ権利も全ての人に与えられるべきだと要求します。「クィア」はある種の欲望のありかたを批評しながらも、欲望が社会的に構築されること、社会から自由ではないこと、そしてそれゆえに個人に責を帰せるものではないことを認識します。あらゆる欲望は、それがどんな名前であれ、構築されるものです。このように考えるといいかもしれません。つまり、空腹が私たち人間が生物として運命づけられた宿命であったとしても、食べ物の好き嫌いまではじめから決まっている訳ではない、と。もしあなたがケバブを大好きだとしても、もし数百年前の、まだケバブが日本に存在しない時代に生まれていたら、どうしたでしょうか。たぶん、ケバブのようなものを好きになっていたでしょうけれども、決してケバブが食べたいとは思わなかったことでしょう。セクシュアリティもまた、同様です。もし19世紀より前に生まれていたら、同性愛なんていう言葉は知らなかったはずです。現代のセクシュアリティの語彙においては、すべての言葉は理想的異性愛との関係において定義されています(理想的な異性愛とは〇〇が違う、理想的な異性愛と似ているが対象は同性である、など)。ペドフィリアもまた、ある種の性愛のありかたをそのように記述する言葉です。クィア理論はセクシュアル・マイノリティやジェンダー・マイノリティについて学ぶ学問ではなく、セクシュアリティについての規範について学ぶ学問ですから、ペドフィリアの問題をそこから排除する理由はありません。


LGBTであることとペドフィリアについての日本における複雑な関係を理解できれば、日本は近代化が遅れているだとか、西洋化する前の日本はクィアだったとかの主張は危険であることがわかると思います。ペドフィリア的な欲望は、「外国文化」とは異なる「日本文化」の一部としての異性愛男性の性的ファンタジーと理解されているわけです。そして、一見クィアLGBT団体は、反児童ポルノ運動にたいして何も反応をしてきませんでした。これは、単に日本が近代化を、異なった形で進めていることを表しています。そして、前述の通り、これらの現象は決して国際的な影響から独立した現象ではありません。

若さを性的なものとするのは、そもそも日本だけの独特のものではありません。ブリトニー・スピアーズザック・エフロンのような若年層の芸能人の表象は常に性的な要素を持っています。雑誌、ポルノサイト、ハリウッド映画、リアリティーショー、ポップスやラップ音楽の歌詞などは、全て、若ければ若いほどいい、というメッセージを送っています。特に女性には「girl」という表現があり、これは男性に使われる「guy」とも「boy」とも異なる意味が与えられています。また、レイプレイがそもそもイギリスのアマゾンで翻訳されて販売されたことも思い出されます。つまり、セクシュアリティ多様性は、国家の境界の内部と外部を横断しているのです。


私が考えてみたいのは、国家的な境界を越えながらも、同時にその境界が私たちにとって何を意味するのかを無視しないような、ある種のポリティクスです。これはまた、フェミニストたち、クィアたちをつなぎつつ、同時に資本主義対共産主義、あるいはグローバリズムナショナリズムというような「お堅い」ポリティクスに取り込まれないような、ポリティクスです。


児童ポルノの文脈に引き寄せてみると、次のような課題が浮かび上がります。つまり、日本対その他という二項対立でとらえず、検閲という発想から距離を取り、また「ペドファイル」という想像のカテゴリーに執着せずに、どうやったら子どもや女性を守れるのだろうか、という課題です。


この課題は、フェミニズムにも、クィア政治にも、そして反ナショナリズムの政治にとっても、関係していることです。なぜなら、結局これは、安全とは何かという問題に関わってくるからです。まず認識しなければならないのは、ペドファイルとして、あるいは「アジアの野蛮な文化」として「他者」を悪魔扱いすることは、決して子どもや女性がさらされている危険を減らしはしない、ということです。児童の性的虐待の加害者のうちほとんどが被害者の父、兄、叔父・伯父、教師、牧師、コーチ、両親の知り合いであり、多くの女性は自宅で、そして恋愛関係を結んだ相手から暴力を受けています。しかし、上で示したとおり、イクオリティー・ナウから国粋主義的な反規制感情まで、ペドフィリアへのクィアの無関心からクィア的・フェミ的なものの日本国外へのアウトソーシングまで、そして増大している世界規模の反児童ポルノ運動からセクシュアリティ病理と同性愛の分離まで、私たちは、人々が他者をスケープゴートにしたがることを、痛いほど知っています。そしてそれは、フェミニストの、そしてクィアな存在の、世界的な協力関係の構築を阻害しています。必要なのは、外ではなく、内側を見る視点です。グローバル化のなか、私たちが連帯できる領域は、ふたつあると考えています。それは、家族的価値観の問題と、「脅威」という概念についての問題です。


異性愛規範は、その多くの面で、家族的価値観と密接につながっており、日本の文脈においては、それは継承と相続が社会で大きな意味を持つような、そして配偶者間の性暴力が未だきちんと認識されていないような状況にある家族制度と密接に関連しています。戸籍制度は明治時代の帝国主義の最中に導入され、日本にルーツを持たないひとびとをこれまでずっと排除してきました。この制度においては、日本国民と結婚した外国籍のひとは、配偶者としてではなく、脚注として戸籍に登録されます。全ての世帯は世帯主を持ち、世帯主だけが結婚前の名字を法的に維持できます。また、六ヶ月は再婚できないという法は、女性だけを対象とするものです。日本の文脈においては、戸籍制度はクィアの、フェミニズムの、そして反ナショナリズム政治の、すべての問題なのです。


次にクィアフェミニスト、そして反ナショナリズム政治がしばしば直面するものに、「社会への脅威」という言説があります。しばしば私たちは女性の問題をジェンダーの問題とし、クィアの問題をセクシュアリティの問題と考えてしまいがちですが、女性とクィア、そして女性でありクィアであるひとびとは、「夜道を返せ」(take back the night)運動や同性愛者へのヘイトクライムからもわかるとおり、しばしば、セクシュアリティの社会的統治のターゲットにされます。注意したいのは、女性は夜道を歩くべきではないという主張の背景にあるのは、男性を脅威としてとらえる考え方ではなく、男性が占有している夜道に「介入」する女性を「脅威」と感じる考え方です。さらに、日本においても、外国人嫌悪的な、そして反移民的な言説が近年増加しており、そこには中国人やコリアンを日本社会にとって危険な「脅威」ととらえる考え方があります。日本に住む中国人やコリアンによる犯罪や、中国から輸入される低品質の食料品などをセンセーショナルに報道するメディアの影響も強大です。「脅威」が外部からやってくるものだという考え方があり、ゆえにそれは外国人嫌悪や同性愛嫌悪、女性蔑視やトランス嫌悪に利用され、同時に、内部の脅威についての関心が弱まって行きます。ドメスティックバイオレンスや配偶者間の性暴力は、ほんの最近まで認識されてもいませんでした。また、子を持つ母親が犯罪を犯すと、それが小さなことであっても、ありえないはずのことが起きたという感じに報道し、スキャンダルに発展するのです。


私が特に興味をそそられ、しかし同時にとてもつらい気持ちにさせられるのは、決して特定のゲームや、日本で許容されているフォビアではありません。それは、レイプレイを巡る言説が結果としてフェミニズム、特に日本のそれの消去に至ったこと、そしてクィアな連帯が形成されなかったことです(これらの原因は、グローバル化を進める権力のありかたと反グローバリズム感情のあいだの緊張関係および共犯関係にあると考えています)。この発表では、家族的価値観と「脅威」概念が、フェミニズムクィア政治、そして反ナショナリズム政治の三つがつながり、共闘できる領域であるということを示せたらよかったと思います。レイプレイは、日本の問題であり、フェミニストの問題であり、ジェンダーの問題、セクシュアルマイノリティの問題でも、グローバル問題でも、クィア問題でもあり、国家問題でもあるのです。それはなぜか。


なぜなら、レイプレイ騒動が、明らかにしたものは、フェミニズム自体の問題(日本についての、そして日本におけるオリエンタリズム的・オキシデンタリズム的な考え方)、クィア運動自体の問題(ペドフィリアなど、性的指向ジェンダー自認以外のものへの無関心)、そして反グローバリズムとその国粋主義的な意味だったからです。既に、レイプレイを指差して何かを語るという段階はすぎており、むしろ、私たち自身の問題から端を発する物事を反省的にとらえるべきなのです。なぜなら、そのようにしなければ、外側ばかりを見て、内側を見ることをいつになっても始められないからです。


発表終了。

「短編小説『さようなら、片岡玉子』(野比玉子・作 村江輝夜・あとがき)」 -ドラえもん二次創作シリーズ第3弾

そうだ、野比という名前にしよう。すっかり灰が長くなった煙草を灰皿に押し付け、玉子は決めた。暑苦しさの抜けた心地良い風が、開け放した窓から入り込む。急に目の前の靄が消え、全てがうまく行く感触を得た玉子は、その昂奮のまま窓から外に駆け出したい気持ちになった。

思いつくことだけは大胆な玉子が、もちろんそれを実行に移すことはない。こんな真夜中に外を走り回れたらどれだけ気分がいいか。そう思いながら、玉子は立ち上がって窓の外を眺めた。暗く輪郭を見せる山の頂が、玉子がこれから目指そうとしているゴールのように思えてきた。山登りの経験は無かったが、頂上に至るまでに相応の苦難が待ち受けていることは分かっていた。

それでも、と玉子は後ろを振り返り玉夫の寝顔に目を遣る。玉子より四つも年下の玉夫は、まだ幼さの残るあどけなさで、口を半開きにして眠っていた。

「わたしが守るからね」
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わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム【再掲載】

この記事は2010年1月20日に WAN (Women’s Action Network) のサイトに掲載された「【ライブ中継への反響・その1】わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」という記事の全文です。[元記事 @WAN]


「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

「主体がどうとかいう話には興味がないんですよね」とか、「そういう議論に何か意味があるんですか?」とか、あるいは「それは一般の女性の役に立たない理論だと思います」とか、そういうことを言われると、抽象的な議論はどこかに隠居して細々とやっていきたいものだわ、と思ってしまうのだけれど、しかしそれでも私にとってのフェミニズムは、誰かにとって「興味がない」ものだったり、「何」も「意味が」ないようなものだったり、「一般の女性」とやらにとって「役に立たない」ものであったとしても、私の人生や家族、友人の人生にとって重要だと思ってやっていることだ。たとえそれが他のフェミニストから拒絶されたとしても。

私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。フェミニズムは必ずしも異性愛女性のことだけを考える思想ではないし、クィア理論は必ずしも同性愛者やトランスジェンダーのことだけを考える思想ではない。両者の射程は思ったよりも広く、そして互いに裏切りつつ、協力し合い、反目しつつ、アイディアを盗み合う。その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。私のフェミニズムはそういう人たちの利益のためにあるのではないし、そういう人たちに「わかりやすい」言葉で説明するような義理も、動機も一切ない。むしろある種のマジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。

フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。その1つ1つのやり方や戦略、その成果に関しては評価が分かれる所だし、私も必ずしもそれら全てに同意するわけではないが、それらの行動の背後にある情熱のようなものには敬意を表したいと思っている。

その点で「おまんこシスターズ」という言葉を打ち出した上野千鶴子氏、多くのフェミニストに総スカンを食らってもテレビで話し続け、世間から罵倒や攻撃を受けて来た田嶋陽子氏、社会に既に受け入れられている言語をずらす実践として “womyn” や “grrl” といった言葉を積極的に使って来たアメリカのフェミニスト(の一部)など、多くのフェミニストの態度を、その評価は横に置いておくにしても、私は尊敬する。

しかし先日の WAN x ジェンダーコロキアムの共催イベント、「男(の子)に生きる道はあるか?」において、私はまたもや、絶望することになった。「男性に通じるフェミニズム」を提示したい、「男子に楽になってもらいたい」という澁谷知美氏、「男性への理解と愛情を基に」本を書き、それに「反発が驚く程なかった」ということを嬉しそうに語る両氏。

もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。

私もまた、2008年に NWEC でワークショップを開く際、前日の打ち合わせにたまたま同席した方に言われたことがある。「そんなに難解な議論をしたのでは、理解を得られない。理解されたいのでしょう? だったらもっと一般向けの話し方をしなくては」と。

確かに、単純なことをわざわざ言葉をこねくり回して難解にする必要はないし、そんなパフォーマンスは私も嫌いだ。しかし、そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。

過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。

だが、澁谷氏の、そして時に上野氏の今回のイベントにおける発言には、絶望しか感じられなかった。「女子も辛いが、男子も辛い」という澁谷氏の発言は(それが実際に現実を反映していることは確かだが)あまりに迎合的だと思うし、「女というところから出発して、ジェンダー規範に縛られた人間を対象にし、更にそれを男にもおろしていく」実践としての『平成オトコ塾』も、その実証研究としての評価は横に置いて言えば、なぜそんなことをする気になったのかと不思議でしかたがない。それは、上野氏の「男性への愛」という話にも感じたことだが、何よりも「なぜ、フェミニズムがずっと批判し、拒否すべく尽力して来たような『母』の位置を、自ら体現してしまっているのだろう」という疑問が頭をよぎる。

上野氏は他にも、フェミニズムを「おばさん」の言説であるとし、男受けのする「娘さん」を降りて「おばさん」になる実践とフェミニズムを接続している。しかしそもそも「娘さん maiden 」と「おばさん crone 」とを分けるジェンダー規範を批判して来たのは、紛うことなきフェミニズムではなかったか。フェミニズムの歴史的蓄積はどこに行ってしまったのか。

新春企画ということで大々的に宣伝もして、ネット中継までして、録画したものをアップロードまでして、これが2010年段階の日本のフェミニズムの集大成なのかと思うと、絶望しか感じられないのは仕方がない。ただ、これが日本のフェミニズムを代表するわけではない、代表させてはならないということを私たちは肝に銘じて、フェミニズムの実践をして行かなければならないだろう。絶望ばかりもしていられないのだ。

上の記事を WAN サイトに投稿しようと思ったきっかけ

[元記事 @フェミニズムの歴史と理論]

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はここをクリックするとアクセス出来ます

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。

そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。

「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。

今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。

とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。

もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

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