クィア学会2013を振り返る

2013年11月9日と10日は、クィア学会の第6回年次大会だった。同時に9日には臨時総会が、10日には定期総会が開催され、学会誌『論叢クィア』第6号もその場で会員に配布された。

私は2012年度のはじめ(2012年秋)に幹事に選ばれ、それから代表幹事と名簿管理担当を兼任する形でこれまで1年間活動をしてきた。すべてを振り返ることは体力的にも精神的にも不可能だが、今回の大会、総会、学会誌について、思ったことをまとめておきたい。

大会前日

前日の8日午後に新幹線で大阪に向かい、迷いながらもようやく開催地(関西大学千里山キャンパス)に到着し、他の幹事とともに印刷物の作成、看板やイスなどの設営に加え、予算案の最終的な詰めや大会での役割分担などを確認した。

shareonet
そういえば、迷っていたときにティッシュ配りの人に写真のティッシュを渡されたが、この際ジェンダー的なものは横に置くにしても、わたしの体型で月給80万の仕事となると相当ニッチなマーケットを狙った職場じゃないと無理な気がする。

kakariinそうそう、途中の駅で、妙な注意書きがあった。「係員の外入出を禁ず」とのこと。私は係員ではないので、外入出してもよかったのだろうか。いや、別に入りたかったわけではないのだけれど。おともだちから、「これ、係員の ホカ 入出を禁ず、では?」と突っ込みをもらって衝撃! そうねきっと!

それはさておき、予定より大幅に遅れて ダーナ と白腹さまと合流し、たこ焼きをごちそうになった。その後ご自宅にお邪魔し、夜遅くまで色々な話をした。過去の経験やいまのスタンス、最近の活動など、アクティビズム関連もそうでない話もたくさん聞かせてもらい、わたし自身も色々と話を聞いてもらった。

takoyakiおふたりの生活リズムを狂わせてしまって申し訳ない思いとともに、泊まらせてもらって本当によかったと思っている。

夜遅くになって宝塚の映像を観始め、気づいたらかなりヤバい時間に。

bagゲストルームにて、群馬を出る前にチャックさんにオシッコをひっかけられて悪臭を放っていたバッグから違うバッグに荷物を詰め替え、就寝。

大会

conf-outside大会の場では、ロビーの受付近くや喫煙所、廊下などで色々な人に再会したり、以前からオンラインで知り合いだった人と初めて直接お会いしたり、全く知らない同士出会ったりと、貴重な機会を得ることができた。中でも 水野ひばりさん、@t2koreさん、Yさん(大会に参加したことを公表されていないので、イニシャルで)、黒田綾さん、さんと初めて直接お話ができ(ですよね? 2回目とかだったらごめんなさい><)、福永玄弥さんをお見かけし、更にとても久しぶりに工藤晴子さんとも再会できたことが、強く印象に残っている。

その他、開催校である関西大学の院生さんおふたり(アルバイトとして大会運営に参加)に出会えたことも、とても貴重な経験だった。おひとりは音楽の受容のされ方に注目し研究されている方だった。私も以前音楽について書いたことがあり(「Kayokyoku and Women in Showa 40’s (1965 to 1974): Karaoke as Musical Practice/Resistance」)、注目する点は大きく違えど、もっとお話しして、色々話を聞かせて頂けたらよかったなと思った。

もうひとりは、いわゆる「性的指向」とはみなされない「性倒錯」について研究されている方で、セクシュアル・オリエンテーション(性的指向)に限定されないセクシュアリティ論の重要性を日々感じている私としては、今後もぜひかかわりを持って勉強させていただきたいと思った。

lunch-by-danaお昼ご飯は、なんとダーナがお弁当を用意してくれたので、スタッフ用のとあわせて2人ぶん食べるという暴挙に出た。手前の2つが(c)ダーナです。おいしゅうございました。(朝も電車内でダーナのつくってくれたオニギリを食べたので、空腹で倒れることなく午前中を過ごせた。本当にありがとう!)

kudo-booklet発表は3人程度ごとに部屋割りをし、いくつもの「分科会」にわかれ、同時に最大2つまで同時進行で行われていたが、2日目の工藤さんの発表に行かれなかったことが悔やまれる(理由は自分のせい)。幹事でもある長島さんが発表を聞いていてくれて概要をあとで教えてもらった。更に、工藤さんからもあとで写真にある冊子を頂いたので、じっくり読んでみることにする。

というわけで、わたしが唯一聞けたのは、自分が司会/準備を担当した「分科会2 – C301教室」のひびのまことさん、水野ひばりさん、黒田綾さんの発表だった。

ひびのさんの発表は、これまでのクィア学会幹事会に対する鋭い指摘が整理されていて、現幹事としても、いち会員としても、拝聴できて本当によかったと思っている。また同時に、労力を払いこのように発表をしていただいて、幹事としては申し訳ない思いでもある。またこの発表には他にも幹事が数名来ており、質疑応答の場で発表者とのやりとりをした幹事もいた。意見の違いやこれまでの問題はあれど、応答しあう関係をつくろうというひびのさんの呼びかけに、正に批判の対象として名指されている幹事が直接応えたという場でもあったように思う。

一方司会のわたしは、なぜか、何をどう勘違いしたのか、発表者の持ち時間は30分であるにもかかわらず11分経過時点で手もとのベルを鳴らし、手をパーに広げてひびのさんに向け、小さい声で「あと5分です」と言い放つという破天荒。「え?」みたいな雰囲気のなか自分の勘違いに気づき、しかも幹事会批判という文脈の中で私という幹事がやったことなだけに「え、幹事会による、検閲…?」みたいな風に思われてしまったのではないかと焦ってしまった。未だになぜ「11分経過」→「あと5分」と思ったのか、さっぱりわからない。その節はみなさま、失礼致しました。

水野さんの発表は、特定の団体や個人の例を引きつつも、日本社会におけるトランス/GIDについての様々な言説を、そこにどのような前提があるか、どのような一貫性があるか、というのを丁寧に見ながら紹介していくというスタイルの発表で、論点提示と論点整理が同時進行だったため、問題意識がすんなりと伝わってくるものだった。以前からこのトピックについてオンラインで発言をしていた水野さんだが、こうしてひとつのまとまりとして出していただいたことの意義ははかりしれないと思う。

また、分科会開始前にたまたま機械トラブルの対応に行った先に水野さんがいたので、そのときにご挨拶ができた。ひびのさん、黒田さんにも言えることだが、芯はありつつも、終始にこやかにお話される方だった。タブレットを片手に階段付近で発表の最終確認をされているのを拝見し、誠実な方なのだなあという印象も受けた。

黒田さんの発表は、とても引き込まれるものだった。それこそ、学会発表の標準フォーマットがバカバカしく思えてくるほどに。そもそも私はこれまで黒田さんのお名前しか拝見したことがなく、また、目につくものはほとんどが黒田さん「を」語るものばかりで、黒田さん「が」語るものには触れてこなかったという経緯があり、今回ご自身の口で、ご自身のタイミングで語るということで、いったいどんなものになるのか、楽しみにしていた。

その結果は、期待していた以上のものだった。黒田さんの手もとにあった資料は事前に拝見していたのだが、発表は途中からアドリブが中心になり、黒田さんの語りにどんどん自分が引き込まれて行くのを感じた。ひとことで言うと、「全部開示する」「そのまま開示する」というスタンスであったように思う。それは学会発表という文脈で考えたときには「整理されていない」と評価されてしまうものなのかもしれないが、黒田さんが矢継ぎ早に開示してくるものを聴衆が自ら、点と点を線で結ぶように、つなげることができるものであったと思う。そして、その点のつなぎかたが、聴衆ひとりひとりの生き方や経験を反映しているものとなるのだと思う。

直前に水野さんの発表の質疑応答があり、そこで「クィア」の定義が何かという話題が少し出ていたが、それに、(おそらくは)図らずも、黒田さんの発表がひとつの回答を提示していたように私には思えた。というのも、「クィア研究」といったときに、「クィア『を』研究する」というスタンスが幅をきかせてしまう現状があるなか(「セクシュアリティ研究」や「ジェンダー研究」にも同じことが言えるだろう)、黒田さんの発表内容は一貫して「クィア『な視点で』研究する」というスタンスを取っていたからだ。「クィア」と「非クィア」という境界は、一切前提とされていないように感じられた。L/G/B/Tなどの性的カテゴリーの不可能性や限界はアカデミアの内外で指摘されてきたことだが、それを「私はこうです」という語りではなく、「あなたはどうですか?」という問いかけの形で提示する黒田さんの発表には、とても感銘を受けた。

私は司会であるにも関わらず質疑応答に参加させていただいたのだが、そのときにひとつだけ気になった点をうかがってみた。というのも、個々人の生き方への注目と尊重を重視する黒田さんは、発表の途中で、新自由主義的な個人主義や自己責任論とは異なる主張であると付け加えていたのだが、たとえばアファーマティブ・アクションに象徴されるような差別是正の介入についてどう評価していけばよいと考えているのか、気になったのだ。少し悩ましい表情をされたあと、黒田さんは、その介入がどのようになされるのか、どのような文脈でなされるのかによってケースバイケースで考えなければならないと答え、トップダウン的な介入には慎重な姿勢を見せた。

黒田さんとは発表の前後にもたくさんお話ができた。恐らく、今回の大阪への旅においてダーナ、白腹さんについで、三番目に多く言葉を交わした相手だっただろう。黒田さんとのやり取りの中で、特に共感を強く持ったのは、「性」に関する議論をできるだけ開いていくことを指向している点だった。クィアな現象はそこら中で起きているんだということ、だからこそ過去の歴史の掘り返しも含め、「クィアではない」と単純に思われているところを再検証したり、俎上に上げていくことが大切であるということを、過去数年間で私は少しずつ感じてきたのだが、黒田さんもまた、そのように物を見ているように見受けられた。

また、自分にできることをする、というスタンスも、すてきだと思った。これは今回の黒田さんの発表にも言えることだが、無理して形式を整えたところで、削ぎ落とされるものがたくさん出てしまうのだから、こんがらがっているなら、こんがらがったまま出してみる、というスタンスなのだろう。だからこそ、黒田さんの発表は聴衆を引き込むものであったし、聴取のひとりひとりが様々な点のつなぎかたで発表を解釈することができたのだろうと思う。

もうひとつ、黒田さんとお話ししたことのなかで、重要だと思ったことを紹介したい。それは、「取り巻きができないようにしないと危ない」ということだ。名前が知られるようになって、どこかに呼ばれたり、話しかけられたりすることが増えてくうちに、気がついたら自分の周りにひとがいた、というとき、そこには大きな危険があるのだということ。黒田さんはもちろんだけれど、私自身、少しずつ色々なひとたちに名前を知ってもらえるようになってきていて、また、気づいたらアラサーだし、オンラインでの発言は人の批判が多いし、「色々知ってて詳しい人」「難しいこと言ってる人」「怖い人」という風に思わせてしまう場面も増えていることだろうと思う。それこそ「この人に嫌われたら困る」とかまで行ってしまうと、非常に危険なことになる。何も考えずに振る舞い、発言し、行動してしまったり、あるいは少し考えた結果「どうぞ、お気になさらずに」程度のことを言っているだけでは、そういう状況は改善しない。自分から意識的にそういう構図を解体するために動かないといけないと思う。そのへんを、「ひとり」で動くということの重要性にからめて、黒田さんも考えているとのことだった。

総会

今回の総会では、9日の臨時総会も10日の定期総会も、本当に出しゃばりで申し訳ないんだけど、ほとんど前に出ずっぱりだった。選挙管理委員会が前に出ていたときも、私は挙手が多く、不規則発言も少なくなく、しかも論理構築するまえに手をあげちゃうものだから、まとまらない発言もあり、書記を担当してくれた金田さんをはじめ、その場にいた人たちに迷惑をかけてしまったことを反省している。

その上で、いくつか、今振り返って思っていることを書いておきたい。

まずはじめに、第五期幹事として、「クィア学会ニュースNo.67」にて会員に提出した3つの文章が、少なくとも「出された」ということについて、総会の承認を得ることができたこと、また、その内容については議論を継続するにしても、第五期幹事会ができるだけ誠実な対応を心がけてきたということについて一定の理解を総会から得ることができたことを、非常に嬉しく思っている。予算案が一部を除いて全会一致で可決に至ったことも、これまでの経緯を考えると、前進であったと考えている。

いち会員としては、総会での議論が対話としての側面を強く持っていたように感じられた。特に選挙管理委員会による議題について様々な意見が出されたことは、総会がきちんと機能するために重要なことだったと思う。「反対意見を投じる会員」というのがいつも特定の会員であるというイメージがあったが、今回の選挙関連の議題については、現幹事も含め、会員のあいだの意見の多様性が明確であったと思う。この件に関しては全会一致によって「この議題に関してのみ、多数決を取る」ことが承認され、実際に多数決によって可決となったのだが、その内容は、それまでに交換された多様な意見を反映したものであった。こうした積み重ねによって、より会員が意見を表明しやすくなり、対話の場としての総会の機能が正常に働くようになればいいと思ってる。また、将来的に議決方法を正式に総会として確定することができる段になった際には、今回のこの例は非常に参考になる事例となるだろうとも認識している。

悔やまれるのは、幹事会の権限の有無やその範囲を確定する4つの議案が決に至らなかった(時間がなく、説明も不十分であった)ことである。しかし議事録にはこれらの議案が保留状態である(どのような決も出ていない)ことが記録として残るため、次期幹事会はいつか決が出るまでのあいだ、これら議案に関する活動については慎重に動かざるを得なくなり、それは悪いことではないと思う。その点では、概要を説明して議事録に残っただけでもよかったと思う。

つぎに、予算案が一部を除いて可決されたと言ったが、これについて、私の意見を書いておきたい。

基本的に、歴代の幹事会への批判については私は個人的に賛同するものが多い。しかし同時に、批判を明言している会員自身も「迷っている」と話していたように、第四期幹事会であった人に支払われる交通費のみ除いた予算を承認することの弊害については、考えなければならないだろう。学会予算から支出される幹事の交通費は、院生や活動家など、所属先から交通費をもらっていない人たちに対するものであり、これが学会から支出されないということは、アカデミアで常勤職を持ち、しかも所属先が交通費を支出してくれる状況にある一部の人たち以外は、「交通費が自腹になる可能性」を覚悟しないと幹事になることはできないという状況をつくってしまう。

もちろん、「お前に予算は払わない」と総会に言われてしまうような仕事っぷりをしなければいいのだ、という主張はあると思うし、幹事はそのように努めなければいけないと私も思うが、しかし交通費が自腹になる「可能性」があるというだけでも、幹事になることのハードルは上がる。今回の件では、第四期幹事であった人の交通費は「否決」ではなく「ペンディング」(保留)という表現をされており、今後の総会において遡及的に可決することが可能であるような形式を取っている。それでもやはり、自分で立て替えた交通費を即日、あるいは少なくとも数ヶ月以内に受け取れない、場合によっては今回のように1年以上保留状態になり、最終的にも支払われる保証は無いという状況は、「経済的に余裕のある会員のみが幹事になれる」という状況を実質つくりかねない。

「幹事のなり手が少なくなってしまうから」という理由で予算案の全面可決を支持する意見もあったが、私がその場でも言った通り、それは理由にはならないだろう。その論理性こそ幹事会に批判的な会員本人が「迷っている」と言ったものの、予算案の「一部」可決という案は、不当行為に対する抗議行動であり、「幹事のなり手がいなくなってしまう」という懸念には、それを打ち消すほどの根拠はない。しかし、会員は知っての通り、幹事会は執行機関であるが、その活動において暴走することが可能であり、経済的に余裕のある会員のみが幹事であるような状況になってしまったら、貧困や労働問題などへの配慮に欠いた運営に走ってしまう可能性をより拡大してしまうように思える。また、総会後の個人的なやりとりから、幹事会に批判的な会員にもこの懸念は共有されていることがわかった。

ただ、幹事への不信任を表明する手段として、ある時期に学会員にとっては「予算案に反対意見を投じて否決とする」以外のものが無かったのだろうということは容易に想像できる。また、今回の定期総会においても6月の臨時総会においても「予算の部分的可決」という道を総会が承認してくれたこと、予算を「人質」にすることは望ましくないという発言が幹事会に批判的な会員からもあったこと、更には前述の通り、予算案の全体的可決ではなく第四期幹事会の交通費を総会として認めないという主張にも自身「迷いがある」という発言があったことなど、過去数ヶ月を通して第五期幹事会が学会員にできるだけ誠実に向き合う努力をしてきただけではなく、幹事会に批判的な会員からも歩み寄ろうとしてくれているのが目に見えてわかる。こうした変化は、前述の通り、現幹事の一部(第四期幹事であった者も含む)が今回のひびのさんの発表の部屋に来て、内容を聞き、直接質問をし、それにひびのさんも応答した、ということにも、象徴されているように感じている。

今後継続して対話が進むなかで、今年2回発生した「予算案の部分的可決」という事態が恒常化することなく、そもそも予算を人質に取るような必要が発生しないような学会をつくっていくことができればいいなと思っている。幹事としてというよりも、会員として、そのような学会づくりに寄与して行きたいと思う。

dinner-on-return正直非常に体力の消耗をともなった大会・総会だったけれど、終わったときにはある種の達成感というか、何はともあれ帰りの新幹線の中の駅弁はおいしゅうございました。(翌日には風邪をひいてダウンしてしまいましたが)

学会誌

ronsoqueer「論叢クィア第6号」が完成し、大会の場で配布された。その中のふたつの文章について、メモを残しておきたい。

大阪から群馬への帰路、電車内で真っ先に読んだのは井芹さんの「フレキシブルな身体——クィア・ネガティヴィティと強制的な健常的身体性」だった。一気に読み切ってしまい、もう一度、今度はマーカーを引きながら読んだが、その内容を簡潔にまとめるだけの力が私には無いので、怠惰ながら要旨をここに転載する。

固定的で一貫したアイデンティティという幻想を批判し、流動的なセクシュアリティやジェンダー表現に既存の規範を撹乱する潜在性を見出してきたクィア・ポリティクスが、〈フレキシビリティ〉の称揚という点においてネオリベラリズム体制と共犯関係を結びつつある現状は、今クィア理論が取り組むべき主要課題の一つである。本論文は、エイズ危機の影響を色濃く受けた初期クィア理論における代表的な議論の再読を通じて、〈身体〉の境界をめぐってクィアネスが前提とする健常的身体性を明らかにする。ある種の否定性をクィアネスと結びつける議論が、ネオリベラルな多元主義への抵抗というその意図とは反対に、特権的な「能力」や「強靭さ」に裏打ちされた〈フレキシブル〉な身体を要請する危険性を批判的に考察する。

この論文で指摘されていることは、「The Privilege To Say ‘I Don’t’」というブログ記事で私が書いたこと(反婚のポリティクスに関わるクィアが、「結婚しなくてもOK」な自分の特権を顧みていないことに対する違和感)に少しだけ関連していると同時に、しかし私自身の葛藤を強烈に呼び起こすものでもあった。

覇権的言説のなかに固定化されてしまう身体、押し込められてしまう身体に対するフレキシブルな身体の優越性は、確かにクィア的な言説の中でしばしば前提とされている。しかし私は、撹乱的であること、越境的であることについて、その「条件」について疑問を持つことはあっても、そもそもの撹乱性/越境性がなにか「よいもの」であるかのような前提についてきちんと考えたことがなかった。

たとえば、「女→男」「男→女」という越境についてのみクィア性を見出すような言説については、その二項対立自体に問題があるということはわかっていても、「他の撹乱のしかたがあるだろう(女→男、男→女という以外にも越境の道はあるだろう)」というところで思考を中断していた。(どんな形であれ)越境「できる」ということについては、越境「できない」ことに対する優越性を前提としていたように思う。その点で、たとえば単純な「女→男」「男→女」という形ではない現象や、単純な同性愛的欲望ではない欲望のあり方に対して「でもこれって越境的/撹乱的だよね、クィアだよね」と、クィア性を見出すような作業をすること自体、ある前提のもとに可能であったのだということを、この論文を読むことで気づかされた。

もうひとつ、特筆しておきたい文章は、吉仲さんによる「社会運動の戸惑い——フェミニズムの『失われた時代』と草の根保守運動」(山口智美・斉藤正美・荻上チキ)の書評だ。吉仲さんも脚注で書いてくれた通り、私もこの本の第四章にはフィールド調査と加筆に関わっている。書評へのきちんとした応答は著者三名に任せるとして、個人的な感想をここに記しておきたい。

まず、自分が調査にも加筆にも関わり、またその中で多くのことを学んだプロジェクトがこうして本になっただけではなく、様々なところから書評を受け、また今回初めてアカデミックな媒体で書評が発表されたことを、嬉しく思う。電車を乗り継ぎ、群馬の自宅に到着するや否や、さっそく著者に吉仲さんの書評について知らせたところ、喜びの声を聞くことができた。

今回の吉仲さんの書評の結びでは、この本が「黙殺」されてはならないという主張があり、まったくその通りだという読者目線での同意と、そのように言っていただけたことへのプロジェクト参加者目線での喜びがある。また、クィア学会の学会誌ということもあり、性的指向に大きく関連する第四章に大きな比重が置かれるかと思ったが、そうではなく、全体としての議論、意義、改善点などについてまんべんなく言及されていて、その点もありがたいと思った。

吉仲さんは、本書の「反フェミニズム側」に関する「資料」としての有用性が高いことを評価していて、私自身それについては強く同意する。根気づよくフィールド調査に明け暮れた著者たちの努力の賜物だと思っている。一方で、吉仲さんはさらに、前半の章で「フェミニズム側」の多様性の描写が少ないこと、そして「フェミニズム/反フェミニズム」の境界について更なる分析が求められることも指摘している。

「フェミニズム/反フェミニズム」の境界については、まさに私が関わった第四章での都城市のフィールド調査が思い出され、吉仲さんがこの点に注目してくれたことを嬉しく思った。たとえば、内村仁子(よしこ)さんは「フェミニズム側」なのか「反フェミニズム側」なのか、非常に難しい判断だろうと思う。こうした例は内村さんに限らず、本書のあらゆるところに散見される。この問題について本書が掘り下げて分析したかと言えば、確かにそうとは言えず、むしろ現象として、フィールド調査から見えたものをそのまま描写している。

私自身がこの問題について掘り下げるとしたら、どのようにするだろうか、と考えたが、おそらくそれは結果的に、「フェミニズム側」と「反フェミニスト側」がしっかり峻別できるのだというという思い込み自体を分析することになるだろうと思う。「フェミニズム側」にも「反フェミニズム側」にも明確に振り分けられない○○さんはいったいどういう人だろうか、という分析ではなく、そもそも私たちがしばしば前提としがちな「フェミニズム側」という仲間意識自体を疑ってみることから始めなければいけないように感じているということだ。

この点において、「フェミニズムの多様性」描写が乏しいというご指摘については、都城市のフィールド調査に同行し、第四章の加筆をした者として、少し違和感を感じているところだ。というのも、第四章で出ているだけでも、池江美知子さん、長倉スミさん、たもつゆかりさん、シエスタのメンバーたち、条例づくりの懇話会委員たちに加え、地元の宮崎日日新聞、他市から訪問した尾辻かな子さんといった、かなり多くの人たちが「性的指向」という言葉を条例に入れるため、そして削除させないために、動いていた。私はその状況を実際にフィールド調査で知り、地方の「運動系」フェミニストの存在と重要性を認識することになった。宇部、千葉の章でも、同様に「運動系」フェミニストの存在が言及されている。

「フェミニズム側」と言ったとき、たしかにそこには一枚岩的なものを想像してしまうことがある。だからその内部の多様性をよりきちんと見よう、というのは、まったくもってその通りだと思うのだが、「内部の多様性」が「アカデミア系フェミニスト」の内部の多様性だったり、「行政系フェミニスト」の内部の多様性であっては、それは不十分なものになるだろう。もちろん、「運動系フェミニスト」の内部の多様性だけでも不十分である。そもそも、これらの分類がつねにきれいに当てはまる場合だけでもないだろう。

本書については、私は、「運動系フェミニスト」の地方での動きが細かく描写されていると思っている。それはそれで不十分なのだろうが、しかしフェミニスト運動家の存在と、かのじょらかれらが担ってきた役割に目を向けることは、現在のフェミニズムにとって特に重要な課題だろうと思っている。私自身、女性運動の歴史とフェミニズム理論の歴史であれば、いずれにしても詳しいとは言えないが、まだ後者の方が知っていることが多い。クィア運動の歴史とクィア理論の歴史についても、同様である。(それはつまり、運動と相互に関連し合っている理論についても、不十分な理解しかできていないということでもある。)自らのそのような偏りを反省するに至ったのも、本書のプロジェクトに参加したからという理由が大きい。だからこそ、「運動系」の地方フェミニストの存在を含めて描写した本書は、吉仲さんの指摘とは反対に、フェミニズムの多様性について考えるための重要なきっかけとなるものだと個人的に私は思っている。

婚姻制度は官製の弱者ビジネスです(松沢さんへの応答)

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

先日開催された『差別撤廃 東京大行進』というイベントに参加した @rinda0818 さんのツイートについて、私を含め多数の人がツイッター上で意見を交わしました。 @crowserpent さんが「反差別運動と婚姻制度の差別性をめぐって」というタイトルで Togetter というサイトにその記録をつけてくださったので、今回の一連の議論の中身を知らない人は、まずそちらに目を通してもらえたらと思います。

次に、この議論について松沢呉一(くれいち)さんという人が Facebook 上で意見を公開しています。松沢さんの今回の一般公開の投稿において、私の立場は「結婚という制度を批判する人たち」とひとくくりにされ、批判を受けていますが、松沢さんによる今回の議論の解釈は私と大きく異なっており、私個人の考えについては誤解もあると感じているところです。加えて、婚姻制度についての意見も松沢さんと私では全く違うので、それも含めて、応答しておきたいと思います。

1. 発端となった @rinda0818 さんのツイートの解釈について

このツイートは、松沢さんが言うような「おかしさを指摘しただけ」のものではなく、「人間として」「まっとう」かどうかを問うツイートです。ここでは2つの事例が出されていて、1つは(A)「結婚する直前のひとに対して、結婚が依拠する制度の差別性を指摘すること」、もう1つは(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」です。 @rinda0818 さんは同ツイートで更に「おいらにとっての東京大行進は、結婚式と同じ」と述べているので、この2つの事例は、次の2つの事例を自動的に同一のものとして提示しています: (A’)「東京大行進で行進する直前のひとに対して、東京大行進の差別性を指摘すること」、そして(B’)「東京大行進で行進しているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」。

その上で @rinda0818 さんが問うているのは、「AとA’」を行為するひとと「BとB’」を行為するひとを比較したときに、「人間としてどっちがまっとうなのか」です。「AとA’」の「おかしさを指摘しただけ」ではなく、「AとA’」対「BとB’」の比較をした上でそのどちらかをより「人間として」「まっとう」だと言うことができるという前提で、問いを投げかけています。これはレトリカルな問いですので、「BとB’」の方が「人間として」「まっとう」であるという主張として機能しています。

【私の解釈その1】
私はこの主張を、「結婚に『おめでとう』と言えない人を『人間として』『まっとう』じゃないのだと示唆する発言」であると解釈しました。この解釈が間違えているとすれば、唯一以下のような場合のみです。それは、(not-B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ばないこと」を、(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」と同等に「人間として」「まっとう」であると @rinda0818 さんが思っていた場合です。つまり、「おめでとうと言うか言わないかの点では二択(にたく)だが、おめでとうと言おうが、決してその言葉を発さず黙り込もうが、この2つの選択肢はどちらを選んでも全くもって同等に『人間として』『まっとう』である」と、 @rinda0818 さんが思っていた場合です。もし本当にそういう考えがベースにあったといういうのであれば、そもそも @rinda0818 さんは「おめでとうと言わない(でも差別性も指摘しない)」という選択肢については話していなかったということですから、私のこの解釈は取り消しても構いません。

【私の解釈その2】
「その1」での私の解釈は、 @rinda0818 さんが(not-B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ばないこと」と(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」とを比較して、Bの方が「人間として」「まっとう」だと主張しているというものでした(そもそもそんな比較はしていないという可能性については、上述のとおりです)。

「その2」はそれとは関係なく、上で既に「レトリカルな問い」であり主張として機能していると言ったとおり、(A)「結婚する直前のひとに対して、結婚が依拠する制度の差別性を指摘すること」及び(A’)「東京大行進で行進する直前のひとに対して、東京大行進の差別性を指摘すること」よりも、(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」及び(B’)「東京大行進で行進しているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」のほうが「人間として」「まっとう」であるという主張だ、という解釈です。松沢さん自身も @rinda0818 さんのツイートを「『結婚制度は差別で[…]である』などと言ってのけることのおかしさを指摘した」と思っているようなので、おそらく松沢さんも私と同様に当該ツイートの問いがレトリカルに主張として機能していると考えていると推察します。

ただし、主張の中身に対する評価は、松沢さんのそれと私のそれでは、大きく違います。私がツイートした内容を引用します。(Togetter をいま見てみたら以下のツイートは漏れていたので、松沢さんはご覧になっていないかもしれません。)

[…]婚姻を直前に控えた人に「婚姻制度は差別だ」という主旨のことを言うというのは、必ずしもいつでも不当だとは思わない。状況や人間関係、相手の主張する言説などによって、ミクロレベルの判断があるはず。ただ単に「今度結婚するの」と言われたというそれだけで「婚姻制度は差別」とだけ返答したら、それは感じ悪いだろうし、婚姻制度を利用する必要性が現実的にこの社会に存在するという認識が甘すぎると思う。でも「人間として」「まっとう」ではない、と評価されるほどのことなのか? というか「人間として」「まっとう」かどうかなんて余計なお世話だし、それこそ印象操作だわ。切実な思いで、相手に「婚姻制度は差別だと思う」と伝えることだってある。 – URL1 / URL2 / URL3

つまり、「AとA’」対「BとB’」の比較においても、「BとB’」の方が「人間として」「まっとう」であるということをレトリカルに主張する @rinda0818 さんのツイートは、私にとって批判対象です。婚姻制度の差別性を指摘するひとや東京大行進の差別性を指摘するひとにも、様々な思いがあります。それなのに、肯定的な祝いの言葉を叫ぶひとと比較して、「人間として」「まっとう」でないと主張している。私はこの @rinda0818 さんの主張を、不当な決め付けであり他者の問題意識の矮小化であり、信条を人間性に還元する暴力的な言説であると考えます。

【私の解釈その3】

また、 @rinda0818 さんのツイートは、東京大行進を支持する立場を明確に表明しているひとによるツイートであるということに加え、上述の通りレトリカルに(A’)「東京大行進で行進する直前のひとに対して、東京大行進の差別性を指摘すること」よりも(B’)「東京大行進で行進しているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」のほうが「人間として」「まっとう」であるという主張をしていることから、以下の通り、印象操作を目的としたもののように解釈できます。

[…]あの元発言は、婚姻直前のいち個人に「婚姻制度は差別だ」と言ったら傷つくよって話ではなくて、大行進を肯定したいとか、「人間として」「まっとう」でない人が大行進批判をしてるんだ、っていう印象操作のために結婚の話出しただけでしょ?っていう。で、その結婚の話の出し方が、完全に反婚姻制度の運動や抵抗(とその歴史)をバカにしたものだったし、同性婚が認められてない現状においてLGBTを取り込んでいた大行進を肯定するためのネタとしてはとても不適切だった、ということが問題なわけで。 – URL1 / URL2

しかもこの印象操作は、「例の行進に賛同なり肯定なりすべきだ」という主張のために駆りだされたもので、反婚姻制度の運動をしてきた人たちに対する愚弄だと思う。婚姻制度の問題は、切迫していないとでも? 婚姻制度が肯定されたり、反婚の主張が愚弄されたりしても、具体的な差別被害が増えることなどないと思っているのか。そんな人に、「人間として」「まっとう」かどうかなんて、ジャッジされたくない。 – URL1 / URL2

※「同性婚が認められてない現状においてLGBTを取り込んでいた大行進」という部分について、 Togetter で2つめに出ている私のツイートに私は「同性婚支持者じゃない」と書いてあるので、混乱するかもしれませんが、後述します。

たとえば、誰かが以下のように主張したとします。「そもそもあれはレトリカルな問いではない。どちらが『人間として』『まっとうなのか』について @rinda0818 さんは純粋に読み手の意見を聞きたかっただけで、誘導しようとも思ってないし印象操作しようなんて思ってない。A’がB’より『人間として』『まっとう』である可能性は、B’がA’より『人間として』『まっとう』である可能性と同じくらい存在すると @rinda0818 さんは思っていた。」と。
 正直、こんな主張をして @rinda0818 さんを擁護するくらいなら黙ってるほうがマシなんじゃないかと思うのだけれども、万が一(それこそ本当に 1/10,000 = 0.01% くらいの確率で) @rinda0818 さんが本当にそのように思っていたとしたら、私の批判はすこし強すぎただろうなと思います。あまりにもレトリカルに見える文章を書いた @rinda0818 さんには今後ものすごく気をつけてものを書いてほしいなと思いますけれども。

以下は、松沢さんが Facebook に書いている内容についてです。

次のページにつづく

「ガラが悪い」「品位が無い」「チンピラヤクザ」という批判への違和感

動画を発見してツイート

英語アカウントでも周知:「叫んだりすることが悪いと思うのではなく、この行為が運営によって批判されないどころか正当化されていることが大きな問題だ」という主旨

「ガラが悪い」とか「品位が無い」という反応をTLで見かけて

「チンピラヤクザ」という表現を見て

まとめ「反差別運動への批判と、反差別へのコミットをめぐって」

差別撤廃 東京大行進というイベントについて、様々な議論がツイッター上を中心に行われていますが、私はイベントに参加しませんでした。その経緯も含め、私のこのイベントについての現在のスタンスをツイート連投したところ、 Togetter 上にまとめてくださった方がいます。

http://togetter.com/li/568898

なお、私は「cmasak」というIDの者です。

映画評を書きました 「R/EVOLVE-結婚と平等とピンクマネー」

R/EVOLVE-結婚と平等とピンクマネー

関西クィア映画祭 上映日時
【大阪】 9/14(土) 13:55開演 (13:35開場)
【京都】 10/5(土) オールナイト

詳細はこちらからどうぞ

作品紹介本文

この原稿を依頼され、どんな映画なのか調べてみると、 Lil’Snoopy Fujikawa が出演しているという。私と Lil’Snoopy との最初の出会いは、映画の舞台でもあるシアトルだった。シアトルに用事があり、友人と一緒に自宅に泊めてもらったのだ。とても明るく、でも思慮深く優しい、素敵な人である。ぜひ映画を見てみたいと思い、原稿依頼を受けることにした。本編を見てみると、Lil’Snoopy 演じるラクーンは正に Lil’Snoopy にしか演じられないような素晴らしいキャラクターで、画面に Lil’Snoopy が映るたびに映画内世界がパッと明るくなり、見ているこちらまで楽しくなってしまう。観客のみなさんにも、主人公リンカーンと一緒にラクーンとの出会いを楽しんでもらえたらと思う——

 とうとう同性婚が認められるかもしれないというワシントン州。ある日リンカーンは、7年連れ添った彼氏ルーカスから結婚を申し込まれる。同性婚支援団体マリッジ・イクォリティーでボランティアをしているルーカスは、同性婚が実現すること、そしてリンカーンと結婚することを心から望んでいた。リンカーンもまた、愛し合っているだけで十分だと茶化すものの、すぐに満面の笑顔で「イエス」と答える。
 しかしこの映画は、リンカーンとルーカスの愛を描いたものではない。

 広告会社で写真家として雇われたリンカーンは、同性婚支持に傾く政治の流れを利用するよう大企業に企画をもちかける。その企画とは、マリッジ・イクォリティーに多額の寄付をし、都市部でのイメージアップのためにLGBTフレンドリーな企業像を打ち出そうというものだ。しかしこの企画に乗った企業が選んだモデルは、若くてルックスのいい白人男性2名だった。
 しかしこの映画は、企業がどうやってLGBT市場に取り入るかを描いたものではない。

 リンカーンはある日ラクーンと名乗る奇抜な格好をしたヒッチハイカーを車に乗せる。貨物列車に乗ってきたというラクーンの破天荒さに戸惑いつつも、企業のためではなく再び自分のために写真を撮りたいと思うリンカーンは、被写体としてラクーンを自分の生活に歓迎する。「同性愛者であること以外『普通』のアメリカ人」のためではなく、世界中のあらゆる差別や困難への抵抗と連帯しようとするラクーンの仲間たちと出会い、リンカーンの気持ちはルーカスとすれ違い始める。
 しかしこの映画は、偏狭な主流同性愛者権利獲得運動を盲信していた主人公がマルチイシュー(複数の抑圧への抵抗を、優先順位をつけずに同時に試みるやり方)なクィア運動に目覚める成長物語ではない。

 この映画は、あらゆるしがらみや義務、思い込み、策略、私欲などがなくなったところには普遍的にクィアなものがあるということを示している。ルーカスの「愛」、企業の「イメージアップ」、そして同性愛者権利獲得運動団体の「優先順位」——そういうものは、ルーカスの言葉を借りれば、「普通の人」が考えることだ。「普通の人」は「路上のクィア」の写真を企業のイメージアップに使えると思わないし、「普通の人」はヒッチハイクなんてしない。「普通の人」は川に飛び込まないし、「普通の人」は可処分所得がある。「普通の人」はゴミ収集庫から食べ物を調達しないし、「普通の人」は貨物列車じゃなくアムトラックで長距離を移動する。「普通の人」は同性とセックスなんてしないし、「普通の人」は出生届の性別に何の不満もない。——「普通の人」とは、LもGもBもTもQもそれ以外も、みんなが苦しめられてきた元凶の概念だ。

 誰もが生まれたときから「普通の人」だったわけではない。わたしたちは小さいころ所構わず排泄していたし、食事中に大声でわめいて叱られた。学校に行ったふりをして公園で時間をつぶしたり、こうしろああしろと言う大人に悪態をついた。そのうちに学んできたのだ。「あぁ、従うことは、賢いことなのだ」と。そしてまた、こんな汚い知恵もつける。「従わないで痛い目にあうのは、自業自得なのだ」と。
 米国でエイズパニックが起きたとき、エイズは「同性愛ガン」と呼ばれ、市民の健康の問題としてではなく、特殊なライフスタイルを望み実行する同性愛者どもの「自業自得」として、政府にも地域にも放置された。あの時、同性とセックスするということは、「やめろと言われてるのにやった」「従わなかった」ということだったのだ。なぜなら、再びルーカスの言葉を借りれば、「普通の人はそんなことしない」からだ。
 つまり、ラクーンの生きている世界は特殊な「クィア」文化で、リンカーンやルーカスが生きてきたのが「普通」の文化、という構図は間違えている。ほんの20〜30年前、リンカーンの文化は特殊で、病的で、罪的で、おぞましい文化——つまり奇妙でおかしい「クィア」側に置かれていたのだ。この20〜30年で起きたことは、「クィア」文化のなかから世の中に都合のいい部分だけが取り出され、漂白され、「普通」の側のだいぶ低ランクなところにチョコンと置かれたというだけのことだ。
 こうして「普通」の文化は、金や権力を持つ者たちに都合のいいように構築・再構築されて続けている。であれば、特殊なのは「クィア」ではない。「普通」のほうが、よほど人工的で、不自然だ。もしわたしたちが、しがらみも義務も思い込みも策略も私欲もないところに行くことができたなら、わたしたちの生き方や考え方、物事のとらえ方や抱える思いは、きっと「クィア」なものになるだろう。

 「クィア」を指さして、自分たちはあれとは違うと自分に言い聞かせ、自分たちの「普通」さに安心したい——それは理解できなくもない。いつマリッジ・イクォリティーのスタッフのように「君の仲間の化け物だろ!」と言われるかわからないのだから、怖くてしかたがないだろう。ましてやその「化け物」は、「漂白され得なかったもの」——自分たちが裏切り、「あちら側」に置きざりにしてきたもの——なのだから。

 リンカーンは、その「普通」と「クィア」のあいだを揺れ動いている。「あちら側」に置きざりにしてきたものと、「こちら側」にある愛、仕事、優先順位のあいだで引き裂かれている。しかしこれは、ラクーンに会ったことで初めて感じた戸惑いではない。ラクーンは単に、思い出させてくれただけだろう。カメラで写真を撮り始めたときのリンカーンの情熱を。
 そもそもリンカーンがラクーンのため車を止めたのは、性欲でも愛情でも友情でもなく、ピンク・トライアングルという連帯の象徴を見たからだった。また、過去に撮り溜めた写真には、リンカーンが本当に撮りたかったものがたくさん写っている。人種を白人に限定し、性別を男性に限定した企業とは、求める被写体に大きな違いがあった。ルーカスもまた、リンカーンの過去の写真を見て、複雑な思いを抱え始めるのだ。映画の冒頭に出てくる写真の入った封筒にも、「Queer」(クィア)の文字が書かれていた。

 より「普通」になっていくことを成長——growing up——と呼ぶのなら、この映画はむしろ、その逆——growing down——を描いた物語ということになるだろう。森を探索したり、着たら怒られるような服を着たり、ペンキを手に付けて遊んだり、川に飛び込んだり、靴を履いたままダッシュボードに足を乗せたり、壇上で人が話しているのに大きな声を出したり……ラクーンの影響で、リンカーンはどんどん子どものようになっていく。自由になる金もなく、ありあわせのもので工作したり、義務だからではなく楽しみながら何かをしたり、人の目を意識せずに絵を描くような、そういう子どもになっていく。
 そして「子ども」は、大人より少しだけ、クィアだ。
 「男の子なのにスカートなんか履いて」いたあの頃、「女の子なのにそんな乱暴な遊びをして」いたあの頃、「女の子なのに食器のひとつも片付けやしな」かったあの頃、「男の子同士で気持ち悪く手なんかつないで」いたあの頃——わたしたちは、あの頃、クィアだった。ある程度の分別を教えこまれて、レストランで大声を出さなくなったあの頃だって、そこそこのクィアだったのだ。

 この映画が教えてくれるのは、もちろんそれだけではない。社会運動に携わる者にとっては、いくつもの教訓が込められている。
 政治家と企業がLGBTフレンドリーな素振りを見せたら、まず疑ってかかること(たとえば日本維新の会が同性婚を支持している事実をどう受け止めるのか)。
 自分の所属する団体が莫大な資金を必要としているとしたら、そこにそれだけのお金をかける必要があるのかを再度問うこと(「使われてる」ボランティアが多い団体も注意が必要だ)。また、それだけのお金をかけるために、大切なものを裏切っていないか確認すること。
 手作りで、あるいは低予算でできる活動だからこそ可能なことがあるのかもしれないということ(「あなたは美しい」と日本語で書いた紙を車のワイパーに挟んでおいたら、ストーカー被害だと思われるだろうが)。
 そして、人はなぜ結婚するのか、したいからするのか、更には、みな同じような理由でするのか、そこに経済的状況の違いは関係しているのか、人種的な違いはあるのか、男女で違いはあるのか——そういったことを、再考する必要があるということ。

 また同時に、この映画には1点だけ不満もある。それは、経済的に余裕がないことを「クィア」なことと結びつけ、余裕があることを「普通」の側に結びつけていることだ。「わたしはお金あるけど考え方はクィアです」とか言う人たちのことはどうでもいい。経済的余裕がない人で、同性婚などの主流な運動を信じて協力したり、なけなしの金を寄付したりするクィアがいるということを、少しでもいいから描いて欲しかったと思う。
 貧困層にも「『普通』の結婚がしたい」と思う人はいるし、その中にはクィアがいる。「いつか路上を出て『普通』の屋根がある『普通』のアパートに住みたい」と願うクィアがいる。「普通になりたい」「普通でありたい」という思いの危険性は、映画でも、この映画評でも十分に示されている。だからこそ、そういう思いに込められた葛藤や悲哀についても、深く掘り下げて欲しかったと思ってしまう。ルーカスの最後の言葉に、もしかしたらそういう悲哀が込められているのかもしれないと思えるからこそ、余計に。

マサキチトセ

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同性婚実現のその先に向けて

同性婚実現のその先に向けて

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

おそかれはやかれ、日本においても同性婚の合法化は実現するだろう。それが のぞむべきゴールなのか、むかうべき方向なのかということについては、賛否がわかれるとおもう。「賛」のなかにも「否」のなかにも、さまざまな意見があることだろう。
 たとえばわたしは「否」の立場をとっているが、それは別に異性と結婚したいとおもうひとと同性と結婚したいひとのあいだに不平等があってもいいと思っているからではない。しかしいずれにしても、同性婚は法律でみとめられるようになるだろう。どんなにわたしが反対しようと。

であれば、同性婚の実現に反対の立場をとっているわたしがしなければいけないのは、もちろん反対意見をことあるごとに表明していくことでもあるいっぽうで、同性婚が実現してしまったときに なにがおこるのかについて、きちんとかんがえ、共有し、それらがおこるまえに どのような準備が必要なのかをかんがえ、その準備に ちからを そそぐことだろうとおもう。

同性婚が実現してしまったら、なにが おきてしまうのか

人権の観点やら平等の観点からは、同性婚はとてもいいもののようにおもえる。しかし(1)同性婚があくまで現存の婚姻制度への参入である以上、同性婚もまた、現存の婚姻制度において存在する問題をふくむようになるだろう。
 また、(2)同性間であるからこそ うまれる問題もあるだろう。
 更に、(3)同性婚をおしすすめることは、クィア運動にとっても大きな損失をうむだろう。
 これらが意味するのは、同性婚の実現にむけたうごきは、クィアの実生活や人生、ひいては生存に、すくなからぬ悪影響をおよぼすだろうと予想されるということだ。

以下でこの三点についてみていくが、わたしはもうこれらの観点から同性婚推進派と議論を交わすつもりはない。
 ここでわたしが かたることは、同性婚が実現してしまわない いまのうちに こういう問題がおこることを予想し、同性婚実現やそのための運動によっておびやかされるクィアの実生活や人生、ひいては生存を、どうやってすこしでも まもることができるか、という観点からかたられることだ。

婚姻制度にはどんな問題があるか

婚姻制度は、婚姻関係にある二者にたいして おおきなメリットとデメリットをもっている。そしてそれは、どちらも不当なものだ。
 メリットがあるということは、婚姻関係をむすばないひとから、おなじようなメリットをうばっていることと同義である。言い換えれば、これらのメリットを保持したいのであれば、離婚をふみとどまらなければならないということでもある。
 更に、デメリットがあるということは、メリットをエサにして、ひとびとをくるしめているということである。

婚姻制度にはさまざまな側面があるが、同性婚の議論において賛成派がよくかたる「婚姻制度のメリット」にフォーカスすると、(A)病院の面会権、(B)医療上の同意権、(C)配偶者関連ビザの発給、(D)相続権、(E)共同親権、(F)セーフティネット、(G)健康保険や厚生年金など福利厚生における扶養権などがある。これらには純粋に「メリット」といえるものと、「メリットでもありデメリットでもある」ようなものとがあるが、順番にみていきたい。

(A)病院の面会権、および(B)医療上の同意権は、その権利自体がだれかにあたえられることは大切なことだろうし、だれもその権利をもたない状況はこのましくないだろう。だからこれらの権利は、「メリット」とかんがえてかまわないとおもう。しかし上述のとおり、「メリット」があるということは、婚姻関係をむすんでいないひとからは、その権利がうばわれているということだ。
 わたしには87才になる祖母がいるが、20年くらい前から10年くらい前まで、ある年上の男性と生活をしていた。親密な関係をむすびはじめたのは30年も40年もまえのことだと母からきいている。ふたりにはそれぞれ配偶者がいたが、どちらも良好な関係をむすんではいなかった。祖母の夫(わたしの祖父)は はげしい暴力をふるう男で、毎日のように皿がわれ、棚がたおされ、祖母はかみのけを ひきづりまわされたという。男性の妻は(そして子どもたちも)男性をのけものにして、ながいあいだ男性をくるしめつづけていた。
 晩年になってようやく生活をともにするようになったふたりだったが、夫と死別した祖母とはちがい、男性はまだ婚姻関係をむすんだままだった。それにもかかわらず祖母は、認知症がはじまっていた男性の世話をし、介護した。そして男性はすこしずつおとろえ、とうとう妻や子どもに会うこともなく、亡くなった。
 入院することはなかったし、男性本人がある程度自分で判断して治療をうけていたから、「病院の面会権」も「医療上の同意権」も関係なかった。けれどもし入院していたり、本人の判断能力がもっとおとろえていたら、病院は男性の妻に連絡していただろう。そしてわたしの祖母は面会を拒絶されていたかもしれない。事実、葬式に祖母が参列することはなかった。祖母にのこったのは、晩年の世話をしたということに対しての、わずかな謝礼金だけだった。
 権利が配偶者にあたえられるということは、配偶者ではないひとからは権利がうばわれているということだ。しかし、面会にきてもらいたいひと、自分のからだがうける医療行為を判断してほしいひとというのは、かならずしも配偶者ではない。わたしの祖母のようなケースは不道徳なものだからしかたないとおもうひとも いるかもしれない。では、離婚が成立していないDV被害者だったらどうか。親におしつけられた結婚相手だったらどうか。父親に認知されていないこどもは。つもりつもった不和の結果、いつか離婚したいとおもうようになっていたにもかかわらず、離婚するまえに病にたおれた人は。あるいは、クローゼットの既婚者と長年親密な関係をむすんできた同性愛者は。
 同性婚をみとめないことは憲法違反であると米国がみとめたのは先月(2013年6月)のことであるが、それよりまえにオバマ政権は同性パートナーの面会権をみとめるようにはたらきかけていた。実際、同性パートナーに面会権をみとめている病院はすでにたくさんある。これはつまり、同性婚が法的に実現することだけが、面会権や同意権の獲得への道だとはかぎらないということだ。
 むしろこの、婚姻関係をむすんでいない同性パートナーにも面会権や同意権をあたえようとするうごきは、患者本人の意思(意思表示できない場合は、事前に表明しておいた意思)によって面会や同意をすることができるひとをえらぶような よりおおきな自由への獲得の道をひらいたかもしれない。しかしそれを同性婚のわくぐみにとりこんで、同性婚実現の方向に利用するということは、今後もひきつづき面会権や同意権を「家族」のわくぐみにとじこめておこうとするような、自由の縮小をめざすことになってしまうのだ。
 同性婚実現へのうごきが活発になるいっぽうで、わたしたちは、婚姻制度からはみでてしまう同性愛者・異性愛者・両性愛者・そのたすべてのひとに、自分で面会者や同意者をえらぶ権利をあたえ、親密な相手に面会者や同意者としてえらばれるチャンスをあたえるような社会をつくるように、はたらきかけないとならないだろう。

つぎに(C)配偶者関連ビザの発給についてだが、まず、配偶者関連のビザの存在がいかに配偶者間のDVに貢献してしまっているかをかんがえないといけない。配偶者関連ビザには「日本人の配偶者等」と「永住者の配偶者等」というビザがあるが、そもそも「日本人の配偶者等」「永住者の配偶者等」というビザの名前からもわかるとおり、このビザをもっているひとよりも、その配偶者は、安定した滞在権(日本国籍による滞在権や、永住権)をもっている。
 さらに、基本的に同居していることが要件とされ、6ヶ月間以上「配偶者としての活動」がない場合は、在留資格を失うことになる。暴力がある場合など事情によっては「短期滞在」や「定住者」に切り替えることが許可される場合もあるが、それはコインをなげて表がでる確率よりひくい。
 「配偶者としての活動」というフレーズの意味は不明瞭だが、(ごくまれに「正当な理由がある」とみとめられる場合をのぞき)別居しているということは「配偶者としての活動をしていない」とみなされ、ビザが失効する。
 このほかにも「家族滞在」というビザがあるが、これもまた、就労ビザ(といっても「教授」とか「報道」とか)や学生ビザなどをもつひとの配偶者や子どもにあたえられるビザであり、配偶者よりも不安定な立場である。さらに家族滞在ビザだと、はたらけないか、申請しても週に28時間までしかはたらけない(世の中だいたい週40時間くらいがフルタイム就労)という制限もある。経済的に自立する道は、さきにブロックされているのだ。
 わたしのしりあいのCさんは、中国からやってきた女性で、ビザは「日本人の配偶者等」だ。夫とも はなしたことがあるが、30才以上年上であろう夫はCさんに仕事をやめてほしいとせまり、その理由は自分よりもおそくかえってくる妻に我慢できないということだった。ふたりの時間がないこと、「たかい金はらってつれてきたのに」(これは夫の実際の言葉)朝食をつくることも夜の生活もないこと(夕飯はCさんがつくっているらしい)、日本語が流暢ではないことなど、Cさんへの不満が爆発していた。
 しかしCさんは中国に前の夫との子どもがおり、毎月子どもに おかねをおくっているという。Cさんにはたらいてほしくないなら、あなたがCさんの子どもに おかねをおくってあげたら?と提案すると、そんな義理はない、そんなことはしたくないという。
 さらに、Cさんから あとで きいたはなしでは、夫はCさんに暴力をふるってもいるという。「本当にやだ。でも日本にいたい。日本で仕事したい。離婚したら中国にかえることになる。かえりたくない」と言っていた。Cさんはいまも、夫の暴力にたえ、就労形態をフルタイムからパートタイムにきりかえて、なんとか毎日をやりすごしている(暴力があることを入管は簡単にみとめないのだから、へたに別居してコインをなげるよりも我慢したほうがマシだという判断だろう)。
 「日本にいたい」とおもうのは、日本人の配偶者だけだろうか。あるいは、日本にいる永住者の配偶者だけだろうか。もちろんそういうひとたちには、滞在権がみとめられるべきだとはおもう。しかし、日本にともだちがたくさんいるひとは? 日本で自分にあった仕事をみつけられたひとは? 自分の出身の国にもどったら生活がくるしいというひとは? がんばって日本語をおぼえて、今後も日本でいきていきたいとねがっている人は?
 そういうひとたちを みないふりして「同性婚の実現は移民にとってもいいことだ」といきまく同性婚推進派は、いますぐそのレトリックをやめるべきだ。日本国籍保持者や永住者のパートナーになっていないひとのためには同性婚など これっぽっちもやくにたたないし、むしろ、配偶者関連ビザで滞在しているひと(同性婚が実現すれば同性愛者もふくまれるようになるだろう)が配偶者からの束縛・支配・暴力をうけつづけるか あるいは帰国するかの二択をせまられるような制度を、温存しようとしているのだから。配偶者関連のビザとは、婚姻制度のメリットでありながら、おおきなデメリットでもあるのだ。
 本人の資格等にもとづかない滞在権は、いまのところ家族関係のものくらいだ。しかし、職場の人間関係や地域の人間関係などにもとづいて なんらかの滞在権を制度化することは可能である(というか「滞在」することに「権利」が必要だという大前提すら、つくられたものだ)。ほかのビザから こういう滞在権にきりかえることができるようになれば、配偶者関連ビザで滞在していても、離婚したり別居したりという当然の自由が制限されることもない。
 同性婚の実現にむけてのうごきが どんどん支持をひろげるなか、わたしたちは、同性愛者も異性愛者も、そのたすべてのひとが、滞在権に「婚姻している」ことが条件としてついてくるような社会をかえて、配偶者による暴力や支配から すべてのひとが自由になれるようなしくみを つくっていかなければならない。

※DVについては、同性婚が実現するのであれば、暴力の当事者が同性同士であるということが今後どのように とりあつかわれていくかということも、かんがえていかなければならない。たとえば、同性婚や同性パートナーシップがそこまで可視化されていない現状では、同性同士の暴力が激しければ、通報されるかもしれない。でもそれが「痴話げんか」とされるようになれば、通報されないかもしれない。警察権力への通報が正しいことだとは必ずしも言えないが、「家庭内のことには口を出さない」という警察の態度は未だに根強く、一般社会においても同様だろう。DVだとうったえても、「同性なら立ち向かえるだろう」と言われる可能性もある。
 そういう事態をふせぐには、いっぽうで、DVにかんする既存の運動にかかわったり応援したりして、警察の「家庭内のことには口を出さない」という態度や一般社会のおもいこみを なくしていくことが大切であろうし、同時に、同性間でも支配・束縛・暴力が存在しうるのだということを、既存の運動の内外で、発信していく必要があるだろう。

つぎに(D)相続権についてだが、民法896条には「相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する」とある。ここで注目すべきは、権利だけでなく「義務」も承継されるとされていることだ。
 ここでいう「義務」とは、つまり債務(借金を返済する義務など)も相続されてしまうということだ。自分が相続の対象であるとしった日から三ヶ月以内に(しかも財産を一切処分していない段階で)相続放棄、あるいは限定承認の申告を家庭裁判所にたいしておこなわないと、自分にすべての財産と債務がふりかかる。相続放棄とはいっさいの財産と債務を相続しないとすることで、限定承認とは「相続した財産ではらえる範囲だけ、債務を相続する」ことだ。
 死亡したひとが どれだけの財産をもっていたのか、どれだけの債務をおっていたのかなど、完全に把握している遺族というのは、おそらくあまりいない。あとになって多額の借金が判明することもある。逆に、あとになって多額の財産が判明することもあるかもしれない。しかしそれは、ギャンブルのようなものだ。三ヶ月以内にすべての財産と債務が判明すればいいが、どこまでしらべれば「すべて」判明したのかもわからない。念のために限定承認の申告をするにしても、「念のため」にするにしては めんどくさすぎる事務処理がまっている(しかも共同相続人全員が同意する必要がある)。
 実際、なにもしなければ自動的に三ヶ月後に成立する、単純承認とよばれる「財産も債務もぜんぶ相続」というケースがほとんどだ。婚姻のメリットであるはずの相続は、突然おおきなデメリットにかわってしまうことだってあるということだ。
 同性婚推進派は相続権についても同性婚のメリットとしてかかげるが、実際どれだけのひとが相続権でとくをするのだろうか。
 だいたいにおいて、金をもっているひとは、おなじようにある程度金をもっているひとと結婚する。片方が死亡すれば、もう片方に財産と債務が相続される。債務があるかないかはわからないので気をつけたほうがいい。でも債務がないとか、すごくすくないとかだったら、ボロ儲け。不安だったら、限定承認にしておけば だいたい大丈夫(税金とられる額がふえるけど)。婚姻とは、財産の保護として機能しているのだ。
 いっぽうで金がないひとは、だいたいにおいて、おなじように金をもっていないひとと結婚する。金がないと財産もほとんどないので、相続するひとが相続するのは、あってもほんのちょっとの財産と、どれだけあるかわからない債務だ。相続にあたって弁護士でもやとって ちゃんと助言をもらいつつ財産と債務の調査ができれば まぁいいかもしれないが、なにしろ金がないので そんなわけにもいかない。そもそも相続がそんな複雑なことであるということも、しらないかもしれない。
 拙稿「生活保護とクィア」で かいたとおり、クィアであることというのは、すくなくとも間接的には、貧困におちいりやすいということと関連している。なのに同性婚が「LGBT」運動の中心として推進されていくのは、非常に不可解なことだ。
 「借金なんてフツーしないし、詭弁じゃない?」とおもうひとも いるかもしれないが、その「フツー」じゃない借金が、ある程度経済的にうごきのある町ならどこにでもあるようなATMみたいな機械によって簡単にできてしまうということは、借金が簡単にできることへの需要があることを意味しているのだ。
 同性婚の実現にむけてのうごきが どんどん支持をひろげるなか、わたしたちは、今後「親族」を拡張していく同性愛者や、すでに「親族」を拡張するすべ(婚姻の権利)をもっている異性愛者たちが、それによって金銭的なトラブルにまきこまれることのないよう、法律や制度のしくみを周知するような運動をしていかなければならないだろう。

つぎに(E)共同親権だが、「同性同士で子どもをつくった場合」という生物的にいまはむずかしい状況は想定しない。かわりに、婚姻関係にあるふたりのうち 片方が子どもをもっているという状況を考えてみたい。
 そういう場合、子と親子関係にないほうが子と「普通養子縁組」をすることで共同親権をてにいれることができる。この場合、片方が子の親権をすでにもっている状況であれば、家庭裁判所の許可は不要である。申請するだけで大丈夫。事実上の養護をしているものがきちんと親権をもつべきであるから、この制度は婚姻制度の「メリット」といえるだろう。
 しかし、婚姻関係をむすんでいない場合でも、「普通養子縁組」をすることはできる。唯一のちがいは、家庭裁判所の許可が必要であるということだ。そのぶん不利になることもあるかもしれないが、この要件は本来人身売買目的の養子縁組をみとめないようにという目的でつくられたものであり、婚姻関係をむすんでいないものへの差別的とりあつかいを明確に目的としているものではない。であれば、共同親権のために同性婚の実現を推進するよりも、家庭裁判所の養子縁組にかかわる部分にはたらきかけて、婚姻関係をむすんでいないが共同親権をもちたいと ねがっている すべてのひとが より容易に養子縁組をすることができるようにするほうが、結果としてものぞましいし、方法としてもけっして とくに むずかしいということはないだろう。
 そもそも家庭裁判所の許可をもらうことが どれだけむずかしいのか、あるいは意外と簡単なのか、同性パートナーの子どもの親権をもちたいと申請したときに許可がおりないということがあるのかというのも、事例がないのでわからない(わたしがしらないだけかもしれないが)。共同親権の問題を本当にきちんとかんがえるためにも、そういった情報収集にくわえ、関連省庁へのはたらきかけが必要となるだろう。

つぎに(F)セーフティネットとしての婚姻の機能だが、そもそも「婚姻しているかしていないか」という個人の選択によって有無がきまるセーフティーネットは、セーフティーネットではない。
 上述のとおり、金のないひとは金のないひとと結婚することがおおいわけで、へたしたら「結婚したらさらに貧乏になった」というケースだってそこらじゅうに ごろごろある(「結婚はビンボーのはじまり!」というスローガンがプライドパレードでつかわれたケースもある)。だれでも貧困が身近になってきたいま(もちろん「ほとんどの人は貧困が身近じゃない」という幻想も一時の流行だったのだが)、クィアだろうがクィアじゃなかろうが、結婚はとてもおおきなリスクをともなう選択だ。結婚がセーフティネットになるのは全員にとってのことではなく、おおくのひとが、結婚しても不安にさいなまれていたり、結婚したからこそ不安が増大したりしている。同性婚が実現してもその事実はかわらないだろう。
 拙稿「生活保護とクィア」にもかいたが、日本をふくめ、世界のながれは急速に新自由主義的(ネオリベ的)になってきており、自己責任論が席巻している。生活保護受給者へのバッシングや、不正受給への異常な注目と他罰的な態度は、メディアのみならず、日常会話のレベルでもすっかり定着した。「結婚したらさらに貧乏になった」というフレーズにピンとこないひとたちも、いまのこの状況においては、そんな楽観的なかんがえをあらためるべきだろう。
 セーフティネットとしての同性婚の実現を期待しているひとたちは、同性婚が実現すれば、すぐに数年以内にそのセーフティネットとしての機能の脆弱さにうちのめされることだろう。そのときのために、そしてすでに結婚をセーフティネットだとおもう幻想にうちのめされている異性婚の既婚者のために、わたしたちは、結婚していてもしていなくても、ひとりでもいきていける社会をつくっていかないとならない。生活保護費の削減や申請ハードルの強化、そしてバッシングなどに対抗し、現在「受給資格あり」とされるひとのうち約80%をしめる「生活保護をうけていないひとたち」(そこにはわたしも、あなたも、いまはいっているかもしれないし、今後はいるかもしれない)が 当然の権利として生活保護をうけられるように、 はたらきかけなければならない。

最後に(G)健康保険や厚生年金など福利厚生における扶養権についてだが、非正規雇用の問題がこれだけさわがれているいま、こうした福利厚生の話をもちだす同性婚推進派は いったい何をかんがえているのか、さっぱりわからない。
 健康保険と厚生年金はまとめて「社会保険」とよばれ、就労先の企業や行政機関によって加入のてつづきがおこなわれ、本人だけでなく扶養している子どもや配偶者、親やきょうだいなども健康保険を利用することができ、さらに、自分の年金料を一定期間以上毎月払うことで、配偶者も将来年金を受け取ることができるようになる制度だ。
 しかしこれは、就労先で週にフルタイムの人の4分の3以上の時間はたらいていないと 加入できない制度だ。また、二ヶ月未満の労働契約の場合は、それ以上はたらいていても社会保険にはいることはできない。社会保険料は就労先と本人で半分ずつの負担のため、企業は節約のために従業員をパートタイムではたらかせたり、二ヶ月できれる労働契約を優先することで労働者をつかいすてにしたり、あるいはフルタイムで社会保険に入れる就労状況であるにもかかわらず、それを労働者に伝えずにいたりする。
 つまり、現在の日本経済において、社会保険に加入しているということ自体が かなり特権的なことであるということだ。
 それは同時に、同性婚が実現し、パートナーがもう片方の扶養にはいることができるようになっても、そもそも非正規雇用だったら、福利厚生における扶養権など発生しないということでもある。
 わたしたちは、同性婚の実現にむけたうごきが どんどん活発になっていくいっぽうで、非正規雇用の問題や労働基準法違反、社会保険の問題について、どんなセクシュアリティであろうと、結婚していようとしていなかろうと、だれも不当なあつかいをうけることのない社会をつくることを めざすべきである。

以上、同性婚推進派がしばしば指摘する「婚姻制度のメリット」について、(i)メリットがあるということは、婚姻制度のそとにいるひとから そのメリットをうばっているということであるということ、(ii)メリットがあるということは、婚姻制度のそとに でたいとおもうひとから、その選択の自由をうばっている(間接的に婚姻を強制している)ということ、そして(iii)メリットだけじゃなくデメリットも結構あるということをみてきた。

※「婚姻制度のそとにいるひと」にはさまざまなひとがいる。婚外恋愛、婚外子、結婚差別(在日、同和地区出身者、外国人、障害者など)などをかんがえれば、そのかずははかりしれない。そのなかに「同性カップル」もはいっているというだけのことだ。

以下ではさらに、同性婚をおしすすめることが どのようにクィア運動にとっての大きな損失となりうるのかを、みてみたいとおもう。

同性婚というアジェンダが運動にあたえる損失

まさか同性婚を推進することが「損失」になどなるわけがない、と いきどおるひとも たくさんいるだろうと おもう。同性婚は万能ではないということ、同性婚によってすくわれないひとが たくさんいることなどは納得できても、同性婚だってひとつの「進歩」なのではないか、第一歩として同性婚をすすめることの何がわるいのか、と。
 しかし今後、米国でそうだったように、同性婚は「LGBT」運動の中心的な課題となるだろうと予想される。そして、すくなくとも数年、ながければ十数年、「LGBT」運動の中心に同性婚は存在しつづけるだろう。
 そこでおこることは、かならずしもいいことばかりではない。むしろ、おおきな迷惑をこうむるひとも存在するのだ。以下に、くわしくみていきたい。

運動には、「リソース」が必要だ。リソースには、ひとが実際に参加するなどしてはらう労力である「人的リソース」、募金・寄付・提供などからゲットして場所の確保や物品の購入につかわれる「金銭的リソース」、人間関係のつながりを運動にやくだてるための「ネットワーク的リソース」、そして一般社会からの注目や支援などの「意識的リソース」などがかんがえられる。どれがかけても、運動はスムーズにすすまなくなる。すべて重要なものだ。過去の運動においては、このリソースの枯渇が衰退をうながしたケースがたくさんある。逆に、運動を衰退させたいとおもうひとや集団は、これらのリソースをうばうことで、目的をはたそうとしたりする。
 同性婚推進派の運動は、同性愛者も異性愛者も賛同者が一定数おり、今後その数はふえる一方だろう。同性婚を積極的にもとめていない同性愛者も(そして同性愛者との連帯を志向する「LGBT」も)、ある程度の支持をしめすだろう。その点で、本格的に運動をはじめるにあたっての「人的リソース」は豊富にあるとかんがえられる。また、一般社会からの「意識的リソース」の一層の拡充にも力をそそぐだろう。また、すでに同性間パートナーシップにかんする団体は存在し、メーリングリストなどをとおしてネットワークがつくられている。問題は「金銭的リソース」だろうが、これも、「意識的リソース」がふえ、本格的に運動がはじまるころには、あつまっていることだろうとおもう。というのも、後述のとおり、同性婚は資本主義と非常に親和性がたかいからだ。

こうして同性婚推進派の運動にリソースが急速にあつまることによって、「LGBT」運動における他の活動のリソースは、枯渇してゆく。ゲイ男性の支援をしている濵中(はまなか)洋平さんは、インタビュー(動画)で、わかくして家をでたゲイ男性の一部が困窮していることを指摘している。ましてや、就職差別がより身近であるトランスジェンダーのひとたちにとって、貧困はおおきな問題となっている。また、高齢化がすすみ独居老人世帯もふえる日本社会で、「LGBT」も高齢化している。非正規雇用の「LGBT」の問題は、いまだに焦点化されていない。
 これはつまり、前半でみたような滞在権の問題、健康保険・年金、生活保護の問題、医療の問題など、「LGBTなどのクィアもそこにいる」というような問題が同性婚の推進によって温存され、維持され、へたしたら強化されるという事態だけではなく、そもそも「LGBTの問題」とされているようなものもまた、同性婚の推進・中心化によって、ないがしろにされ、リソースをうばわれ、進展をおくれさせられてしまうということだ。
 同性婚推進派など主流「LGBT」運動にたずさわるひとたちは、貧困の問題やトランス差別の問題などを指摘されると、それを「足をひっぱられた」とか「邪魔をしないでほしい」とか「後ろ弾(うしろだま)をうたれた」と表現することがある。しかし同性婚推進の運動は、今後その支持を拡大していくなかで、おそらく他の運動の足をひっぱるだろうし、邪魔となるだろう。
 このリソース問題については、同性婚の推進のうごきが活発になるなかで、どれだけ他の活動がリソースを確保していけるかという課題がある。

さらには、同性婚推進派などの主流「LGBT」運動は優先順位についてよくかたるが、同性婚を「第一歩」とし、「まず」同性婚など主流な成果をだしてからトランスジェンダーの就職差別など他の問題に着手するんだという主張は、とてもじゃないが信用出来ない。2009年にコネティカット州の一番おおきなLGBT団体だった Love Makes A Family は、同州で同性婚が法制化されてすぐ、自分たちの目的は果たしたとして、閉鎖した。「Family(家族)」や「Love(愛)」にまつわる団体名をせおった この団体は、家族のなかにあるDVの問題や児童虐待の問題などに着手するのではなく(同性婚をしたひとの支援すらせず)、閉鎖したのだ。
 これに象徴されるように、団体でなくとも、同性婚が実現したとたん個人的に「LGBT」運動からはなれるひとというのは たくさんいるだろう。さんざん「LGBT」のリソースをかきあつめ、注目をあび、ヒロイズムによったあとは、一目散にウェディングプランナーのところにいってしまうのだ。活動を継続するひともいるかもしれないが、他の活動の足をひっぱった事実はきえない。
 だからわたしたちは、活動をはなれてほしくないひとたちと、きちんと人間関係をつくっておく必要がある。また、同性婚推進の運動がいかに不十分であるのか、いかに「LGBT」のほんの一部しかすくわないのかということを、しっかりと発信していく必要があるだろう。

また、同性婚は、結婚ビジネスにとっておおきなビジネスチャンスをあたえる。式場やケータリング業者だけではなく、ジュエリー系、婚活系、そしてディズニーまで、さまざまな企業が、そのイメージアップ戦略やあたらしいマーケット開拓に同性婚を利用するだろう。これが、上述の、同性婚と資本主義の親和性だ。
 すでに企業は、「LGBT」というキーワードを経済用語のようにつかいはじめている。「国内市場5.7兆円」「LGBT市場、狙う企業」「巨大市場『LGBT』」「手つかずの巨大市場」―― 昨年からそんなことばが、経済系メディアのみだしを にぎわせている。プライドパレードにも企業の協賛が入るようになって来た。米国や英国をはじめ欧米諸国のおおくでは、すでにこの「LGBTの商業化」がおきており、プライドの企業中心主義、いわゆる「ゲイタウン」の白人化、中流階級化、ジェントリフィケーションなど、さまざまな問題が指摘されている。
 もちろん、よのなかほとんどのものが企業社会では商品かマーケットかにしか みえないのだろうから、「LGBT」が商品化されたりマーケット化されるのは、不可避のことかもしれない。けれど、大企業のイメージアップ戦略に利用されることは、格差社会に寄与することでもある。また、商品化とマーケット化は、結果的に「うれないものは存在しない、かわないひとは存在しない」という資本主義のルールが「LGBT」運動においても席巻することを意味するだろう。
 協賛というかたちで企業が「LGBT」運動にかかわるのは、なんらかのリターンがあるからだ。それはつまり、企業にとってリターンのおおきい活動については、「金銭的リソース」が企業から投入され、リターンのちいさい活動については投入されない、ということにもなる。
 だからわたしたちは、金をかけないでできる活動、だれかが個人的負担をしいられないでできる活動などを、さらに工夫をこらして、アイディアをつくっていかなければならない。それはかならずしも無償ボランティアをふやそうという話ではない。無償ボランティアだけにたよることは、いきすぎれば搾取につながりかねない。お金をかける必要がないところでどれだけ節約できるか、お金がかかっていない活動であることを肯定的に発信していくコツはなんだろうか——そういったことをかんがえつつ、同時に、適切に謝礼金や時給などをとおして労力に対価をはらっていくことで、精神論で人的リソースをつなぎとめず、健康的なネットワークをつくっていく——そういったことが必要だろう。

さらに、同性婚はいつでも「保守的な政策」に転換する可能性をもっている。これまではどちらかというと「左より」とされる社民党や共産党が「LGBT」運動に肯定的な立場をとってきたが、事実、「日本におけるLGBTの法整備の動き」(明智カイト、遠藤まめた)で紹介されている各党の政治家のうごきや、レインボープライド愛媛による政党アンケートにおいても「同性でも婚姻制度を適用できるようにすべきだ」と回答した唯一の政党が日本維新の会だったことなどをみても、「LGBT」運動の一部の活動が保守的な政党にバックアップされるような場面は今後もふえていくだろう。へたしたら日本維新の会からゲイ男性の政治家がでることもあるかもしれない。
 とくに同性婚は、非常に保守的なかんがえとの親和性がたかい。拙稿「生活保護とクィア」から抜粋する。

たとえば「自助」の観点から同性婚を認め、「生活困難者の同性愛者は結婚して扶養してもらえばいい」という風潮をつくろうとする議員は、今後出てくるでしょう。その議員を、わたしたちクィアは応援するでしょうか。応援すべきでしょうか。あるいは、「そんな目的ではなく、同性愛者の権利の観点から同性婚を認めてください」と働きかけるべきでしょうか。

どのような観点から実現したとしても、政府が社会保障を削ろうとしつづける限り、同性婚はそのような汚い目的のために利用されることでしょう。その結果、わたしたちクィアの一部は苦しめられることになるかもしれません。そのとき、同性婚の実現を求めたクィアたちは、自分たちの運動を振り返って、誇らしさを感じることができるでしょうか。

「家族」の規範を維持し、強化するような同性婚を、保守派の議員が利用しない手はない。ほんのちょっとだけ自分の同性愛嫌悪を我慢して同性婚をみとめれば、生活保護をうけようとするひとの「扶養義務者」がふえるし、右よりのひとの支持をえるために家族の大切さをうたっても時々同性婚の話もまぜることで左よりのひとの支持もえられるかもしれない。こんなおいしい話はない。
 しかし、それに何の問題があるのか、とおもうひともいるかもしれない。
 まず、同性婚が「保守的な政策」として保守的な党や政治家から提議されれば、同性愛者のおおく、そして同性愛者との連帯を志向する「LGBT」界隈の票は、その保守的な党にながれることになる。いまのところは日本維新の会だけが「LGBT」の保守へのとりこみに目をつけているようだが、自民党がそのようにうごきだすのも時間の問題だ。事実、牧島かれん、馳浩、福田峰之、橋本がくの四名が、セクシュアル・マイノリティに協力的になりつつある自民党議員として東洋経済オンラインで紹介されている
 しかしこの四名は、拙稿「生活保護とクィア」でも紹介したとおり、全員が生活保護のしめあげを政策にかかげている。また、軍事力の拡大、防衛の強化などをかかげていることも共通している。
 政治家は、「LGBT」の一部のためにやくだつことをしているからといって、そのことしかしないわけではない。政治家自身がマルチイシューでうごいているのに、はたらきかける社会運動側がシングルイシューでかんがえていては、きづいたら足元をすくわれていたということにもなりかねない。
 具体的には、憲法の問題、軍隊の問題、原発の問題、外国人排斥の問題、ネオリベ経済の問題、福祉カットの問題、沖縄の問題、在日コリアン差別の問題など、わたしたちクィアやLGBTの生活にとっても非常におおきな問題を無視することで、同性婚推進の運動がすすんでしまうかもしれないということだ。そして、保守派の政治家との協力体制ができてしまえば、あとはもう、「無視」どころではない、積極的に憲法改正、軍隊の設置、原発推進、外国人排斥、ネオリベ賛成、福祉カット、沖縄の米軍基地拡大、在日コリアン差別に加担することになるだろう。「LGBT」の票を保守派の議員にあつめるということは、そういうことだ。

さらに、これまで「LGBT」運動に協力してきた左よりの政治家や活動家を きりすて、「左翼から恩恵はうけたけど、うちらは自分たちのことしか かんがえないでやっていくね」というスタンスをとることにもなる。保守の既存の団体やネットワークをつかって、これまでの運動の成果をえることができただろうか。「LGBT」運動の歴史として、さまざまな左よりの活動家や政治家が「LGBT」と連帯してきたことを、わすれてしまっていいのだろうか。また、そこで ひきさかれるダブルマイノリティ(「LGBT」であり、かつ他の社会的抑圧をうけているひと)の存在は、無視することにするのだろうか。そういったことも、とわれるようになるだろう。

同性婚を推進する運動が支持をえて拡大していくなかで、わたしたちは、あらゆる差別に抵抗するひとたちと、これまでよりもさらに連帯することが必要となるだろう。そうすることで、憲法の問題、軍隊の問題、原発の問題、外国人排斥の問題、ネオリベ経済の問題、福祉カットの問題、沖縄の問題、在日コリアン差別の問題など、同性婚を推進するあまり保守派の政治家と結託しかねない活動家たちがないがしろにするであろう問題を、あらゆる差別に抵抗するひとたちと連帯しながら、解決しようとうごかなければならない。

同性婚が実現すれば、婚姻制度をなかから改革できるのか

同性婚が実現すれば、婚姻制度の意味もまた変化し、「結婚」というものを改革することができる——そんな主張もときどき目にする。そんなことはできないし、する気もないだろうとおもう。そもそも同性婚を推進しようとしているひとたちが婚姻制度の変革を求めてきたという歴史がない。この「なかから改革」という主張は、婚姻制度自体を批判する立場から同性婚推進の運動にも批判がむけられたときに、いいわけのようにでてきたことしかないのだ。「同性婚をみとめさせることで、婚姻制度を改革するぞ!」といっているひとなど、どこにもいない。
 そもそも婚姻制度においては、わたしたちは夫婦別姓選択制も実現できていない。婚外子差別も未だにある。離婚のあと再婚するには、女性には六ヶ月の待機期間がある。フェミニストには婚姻関係をむすんでいる女性がたくさんいるが、彼女たちは「なかから改革」できているだろうか。もちろん、そういったこころみもあるだろうし、これまでも一定の効果というのはあったのかもしれない。しかしそれは、彼女たちがフェミニストであり、婚姻制度を改革しようというおもいがあったからであって、けっして女性が婚姻制度に参入しているからではない。単に婚姻制度に同性カップルが参入したところで、何もかわらないだろう。
 何かをかえるのであれば、そしてそのために同性婚が有効であるとするならば、同性婚をもとめるひとたちが きちんと立場を表明すべきである。婚姻制度をどう変革するのか、どう変革したいのかを明確にし、そのための運動をするべきである。同性婚がメイントピックでないところでも、婚姻制度の改革をもとめる運動をするべきである。
 もし同性婚を実現するためだけに、そして同化主義的・保守的・婚姻制度温存派という批判的指摘をかわすためだけに「なかから改革」などといっているのであれば、ひきつづき同化主義的・保守的・婚姻制度温存派という批判的指摘をうけつづけることになるだろう。

まとめ

この文章では、(1)同性婚があくまで現存の婚姻制度への参入である限り、同性婚もまた、現存の婚姻制度において存在する問題をふくむようになるだろう、ということ。(2)同性間であるからこそ うまれる問題もあるだろう、ということ。そして(3)同性婚をおしすすめることは、クィア運動にとっても大きな損失をうむだろう、ということを、できるだけくわしく説明したつもりだ。
 反発もあるだろう。しかし、反発するのであれば、ぜひ、この文章をすみずみまでよんでから、具体的な批判をしてほしい。もし、わたしがこの文章でかいたようなことが すべて反駁されることがあれば、わたしはよろこんで自分の事実誤認や予想のまちがいをみとめ、同性婚の推進を応援したいとおもう。

※ちなみにわたしは2013年7月22日以降ツイッターでは議論をしないことにしたので、レスポンスはコメント欄にお願いします。

追記

以下のツイートをみつけました。

本文の最後のほうで左だの右だのの話をしたので、そんなかんじになっちゃってるとおもうのですが、わたしは「真にリベラルな活動」という思想重視のものを支持しません。実際にくるしむひとがいないのであれば、リベラルだろうが保守だろうが、すきにしたらいいのではないかと おもいます。むしろ、保守的なかんがえかたでも、それによってくるしむひとがいなくて、逆にすくわれるひとがいるようなものであれば、わたしは躊躇なく支持します。
 だからたとえばわたしがかいたような問題点がすべてクリアされるのであれば、まぁ、すきではないですけど、「家族の価値」をうたうような活動の一環として同性婚が推進されても、反対はしません。

米国最高裁判所の決議に戸惑う有色人種のクィアの存在

以下は、2013年6月25日に mixi ページで書いた文章です。 mixi ページを非公開としたので、こちらに転載します(一部加筆あり)。


Protest sign from Dyke March NYC. Source: LINK
Protest sign from Dyke March NYC. Source: LINK

DOMA(Defense of Marriage Act、「結婚保護法」)と呼ばれる米国連邦法(連邦法とは、州法ではなく米国全体の法律)が、「違憲である」と、今日(25日)米国最高裁判所で決定されました。

これによって、これまで国全体として婚姻関係にあるカップルに与えられる権利(配偶者が配偶者としてビザ申請する権利とか)は異性婚カップルのみに与えられていたけれど、同性婚が認められている州で結婚した同性婚カップルにも与えられるようになります。同時に、州をまたいで「婚姻関係」を認められるようにも、なるようです。

ただ、同性婚がどの州でもできるようになったというわけではないですし、ビザ申請に関しても詳しいことはわかっていません。でもいずれにしても、これによって助かるひともたくさんいるでしょう。

同性婚に関しては、いくつかの点で反対意見がLGBTQの中からも出ています。

1つには、「資源を使い過ぎ」というものがあります。これまで同性婚を認めさせるために、ものすごい人数の労力と、ものすごく莫大なお金が費やされてきました。同性婚より重要な問題があるという批判を受けると、同性婚支持者はしばしば「同性婚は、最初の一歩だよ。同性婚をまず実現して、それから、他のことに広げて行くんだ」と主張します。これに対して反対派、特に有色人種のLGBTQなんかは、2つ、思っていることがあります。1つは「ほんとかよ? 同性婚が実現したらこいつらさっさと結婚して活動から引退したりすんじゃねーの?」というもの。もう1つは「なんで『まず』同性婚なんだよ。『まずホームレスLGBTQの支援』でもいいじゃん。自分が同性婚好きなだけでしょ。資源こっちにまわせよ」というもの。

もう1つの反対意見は(と言っても、だいたい同じ人がどちらの理由においても反対意見を持ってるんですが)、「結婚制度は、そもそも良くない」というものです。異性間だろうと同性間だろうと、結婚制度は良くない、と。結婚することが大きなメリットがある一方で、たとえば離婚することだったり、既婚者の子どもを産むことだったりしたとき、つまり「結婚制度」に守られない「身分」になったときに大きな大きなデメリットがあるというのは、たしかに不平等な仕組みです。

わたしは DOMA には反対ですが(異性婚を守るという目的/機能があるという理由で)、同時に同性婚にも反対しています。

そんな中、この最高裁判所決議です。

何が象徴的だったかって、この前日(24日)、最高裁判所は VRA (Voting Rights Act of 1965、「投票権法」)という連邦法も「違憲」で無効であるとしました。これは、あらゆる手段を用いて各州が黒人の投票を妨げるような州法を通そうとするので、投票に関する州法を改定する場合は、司法省に事前にOKをもらわないといけないよ、とした法律です。これによってものすごい数の州法案が「アウト」を食らってきました。その連邦法が、違憲であり無効であるとされたのです。州は勝手に投票に関する州法を改定できるようになったということで、これはつまり、人種などによる投票の格差が生まれうる余地を与えてしまったということです。 redistrict (選挙区の設定し直し)をしたがっている政治家や役人はいっぱいいて、それは、そうすることで黒人のコミュニティを区分けによって分断し、1つの区内にいる黒人の数を減らすことで、黒人の票が有色人種の政治家や米国民主党候補の当選に結びつかないようにできる、というメリットがあるわけです。こうすることで、黒人の有権者の意思は、政治に反映されづらくなります。

既にツイッターではこの DOMA と VRA について、様々な意見が出ています。以下に引用して、終わりにします。

i think the repeal of doma was a very nice way to distract everyone from fucking your voting rights lol (DOMAの違憲判決は、投票権をぶちこわしたことから人々の目を背ける上手な方法だったと思う) @hegelexercise

Hopefully Gay Americans will join African and Minority Americans in fighting yesterday’s terrible decision. #Section4 (ゲイのアメリカ人が、黒人や他のマイノリティのアメリカ人と一緒に、昨日の酷い判決に対して戦ってくれたらいいな) @vegasjessie

RT @TheDailyEdge BREAKING: Supreme Court rules that gays can marry as long as blacks can’t vote #DOMA #VRA (速報:最高裁判所が、黒人が投票できなくなる条件で、ゲイたちが結婚してもいいって決めた) @crommunist

And now that #DOMA is struck down, the #LGBt orgs will come back for us #trans folk and our rights, right? RIGHT?! #equality (DOMA が違憲になったんだから、LGBT団体は私たちトランスのところに、私たちの権利のために戻ってきてくれるんだよね。でしょ? で しょ?) @iamameliajune

The SCOTUS decisions this week remind me that justice is halting and uneven. While we celebrate one thing, we must fight in another.(最高裁判所の今週の決議は、正義がのんびりと不平等であることを思い出させてくれる。1つのことを祝っても、また別のことで戦わなければならない) @chrismacden

While I’m happy with today’s SCOTUS rulings on marriage, I’m still seething about the voting rights, harassment and other issues. 🙁 (今日の最高裁判所の結婚に関する決定は嬉しいけど、投票権の問題とかハラスメントとか他のことで、すごくやな気分になってる) @theredgrrl

So, if I understand everything coming out of SCOTUS, two black men can get married, but they might have trouble voting. #DOMA (えっと、最高裁判所から出てきてるものを全部理解するとすると、2人の黒人男性は結婚できるけど、投票するのが難しくなるかもね、ってことだね) @davidlubar

Profoundly American, neoliberal moment: decision to disenfranchise voters followed by support for “marriage equality.” Make the connections! (とってもアメリカンで、ネオリベな瞬間だ:投票者の参政権を剥奪して、直後に「婚姻の平等」を支持する。関連性を考えてみて!) @nairyasmin

As a queer woman of color, feeling the contradictions. #doma, voting rights act, #istandwithwendy. #JustUsorJustice (有色人種であるクィアな女性としては、すごく矛盾してるなって感じる) @justfundqueers

2013.9.15 関連最新記事

同性婚実現のその先に向けて

生活保護とクィア(シノドス掲載記事)

生活保護改正

「生活保護」とは、すべての人が「健康で文化的な生活の最低水準を維持する」という理念にもとづき、それを実現するためにつくられた制度です。

生活するために必要な服や食べ物にかかるお金、光熱費、義務教育を受けるためのお金、家賃など住む場所にかかるお金、病院にかかるときにかかるお金、介護にかかるお金などなど、わたしたちは、いつもつねに自力で用意することができるとは限りません。近年の就職難で仕事を失うという経験は、誰にとっても身近なものとなりました。リストラにあったとき、契約を更新されなかったとき、派遣を解除されると同時に雇用関係も切られたとき、わたしたちが自分の「健康で文化的な生活の最低水準を維持する」ためのお金を自力で調達するのは非常に難しくなります。

ある程度の給料の仕事がすぐに見つかればいいでしょう。しかしそうなるとは限りません。また、病気になったりケガをしたとき、ストレスやメンタルヘルスの問題を抱えて仕事することが難しくなったとき、生活費が調達できなくなることもありえます。そうでなくとも、たとえば自分ができる限り働いて、それでも「健康で文化的な生活の最低水準」を送るには給料が少なすぎるとき、一体どうしたらいいのでしょうか。そういうときのために、生活保護の制度があります。

しかし、すべての人に与えられるとされる「健康で文化的な生活の最低水準を維持する権利」は、事実上、生まれもって持っている権利としてではなく、国や自治体によってその都度、「与え」られたり「与え」られなかったりするものとして、運用されています。「水際作戦」という言葉があります。岩永理恵さんが「生活保護法改正案への反対意見」https://synodos.jp/welfare/4071 で詳しく説明していますが、これは、生活保護を申請する窓口において職員が、さまざまな方法を用いて申請の受け取りを拒否する行政のやりかたのことを指します。

こうした実態がありながら、ある時期からメディアは、生活保護が受けられず困っている人の話をおろそかにしてきました。この背景には、自民党の議員に目をつけられた芸能人の母親の生活保護問題がきっかけとなり、生活保護受給者バッシングの世論が作り出されたことがあります。

しかしこのバッシングに非常に不合理なものが多数含まれていることは、「生活保護基準引き下げのどこが問題? STOP!生活保護基準引き下げ」https://synodos.jp/faq/601 で指摘されている通りです。そんななか、自民党安倍政権が正にこのバッシングの流れを利用することで生活保護法改正案を閣議決定したのが、5月17日のことです。この改正案の内容は、大西連さんの「生活保護法改正法案、その問題点」https://synodos.jp/welfare/3984 にて詳しく説明されています。これは、水際作戦を合法化することによって、もともと非常に高い申請のハードルをさらに引き上げようとするものです。

貧困とクィア

さて、このような生活保護制度、あるいは生活保護論(バッシング)は、クィアにとって何を意味するのでしょう。

「クィア」という言葉は、もともと「奇妙な」という意味が転じて「変態」「性的に倒錯している」といった意味で使われ出した英語の “queer” を、日本語風に読んだものです。 “queer” は、とくに男性同性愛者に対しての非常に強い侮蔑語で、言われたときのショック度で言えば日本語の「キモいホモ野郎」と同じくらいにはショックな言葉です。しかしあるときから、この言葉をあえて自称のために使う人たちが現れました。その背景には、1980年代米国のエイズパニックがあります。

当時エイズは “gay cancer” (ゲイのガン)と呼ばれ、政府が責任を持つべき公衆衛生上の問題ではなく、ゲイ男性のライフスタイルの問題・自己責任の問題であるとされていました。周りで毎日のように死者が出ているのに何もしてくれない政府に対し、HIV感染の危険が高かったゲイ男性や黒人、貧困層の人々や売春に従事している人々たちが、エイズ運動を起こします。エイズ運動は、「レズビアン」や「ゲイ」といった個々の集団ではなく、人種、階級、職業をまたいだ連帯を可能にしました。この結果、すでに多くが命を失ったあとですが、1987年にようやくレーガン政権がこの問題に着手し始めることになります。

「性に関して少数派の位置に置かれていることで、国や地域、家族、友人などから見殺しにされるのはおかしい」―― そういう思いが、米国の性的マイノリティを中心として広がって行きました。そんななかで、性に関する規範がときには人を殺してしまうということに意義を申し立てる態度として、「クィア」という言葉が使われるようになります。「変態」で何が悪い、「変態」なら何もかも自己責任なのか ――「クィア」という言葉には、政府を始め、社会に対するそのような強い抵抗意識・異議申し立ての思いが込められています。

「LGBT」という言葉が、日本でも性的マイノリティの運動の場やメディアで頻繁に使われるようになりましたが、「クィア」は性に関する規範によって排除されていたり、排除される可能性がつねに身近にある人々を指す、より大きな意味の言葉です。ここにはもちろんレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの人々が多数含まれますが、これらのアイデンティティを持たない人々もまた、クィアでありえます。

一方で「LGBT」という言葉は、徐々に経済的な意味を持ち始めています。「国内市場5.7兆円」「LGBT市場、狙う企業」「巨大市場『LGBT』」「手つかずの巨大市場」―― 昨年からそんな言葉が、経済系メディアの見出しを賑わせています。性的マイノリティをテーマにしたパレード(俗に「プライド」と呼ばれます)にも企業の協賛が入るようになって来ました。米国や英国を始め欧米諸国の多くでは、すでにこの「LGBTの商業化」が起きており、プライドの企業中心主義、いわゆる「ゲイタウン」の白人化、中流階級化、ジェントリフィケーションなど、さまざまな問題が指摘されています。

こういった最近のメディアでの「LGBT」の取り扱われ方を見て、「クィアは経済的に余裕があるんだろう」と考えるかもしれません。しかし、そもそも人口の15.7%(2007年)が貧困状態にあるという現実があります(正確には「相対的貧困」という状態です)。貧困状態にある15.7%のなかにクィアが入っていないということは、考えにくいことです。「LGBT市場がある」ということと「クィアには貧困が多い」ということは同時に存在することであり、同時に考えなくてはならない問題です。

クィアのなかには、異性との婚姻関係を結んでいる者もいますが、多くの場合、婚姻制度を利用していません。国が調べる「世帯」の種類では、「単身」「母子家庭」「父子家庭」「高齢単身」「その他」にあてはまることが多いでしょう。2007年の単身者の貧困率は、男性で25%弱、女性で35%弱です。「母子家庭」になると55%を超えます。父子家庭では30%弱です。「高齢単身」世帯は男性が40%弱、女性が50%強となっています。「その他」の世帯でも、男女ともに20%を超えています。全体の貧困率が15.7%であることからも、婚姻関係を結んでいない世帯は、それだけで貧困に陥る割合が高いということがわかります。また、男女の数値を比較すると、行政に「女性」と区分されている人は、「男性」と区分されている人よりも貧困に陥る確率が高いこともわかります。

クィアであることと婚姻関係を結びづらいことは関連しており、婚姻関係を結んでいない世帯が貧困に陥る確率が高いということは、クィアであることが(少なくとも間接的に)貧困に陥ることと関連していることを意味します。また、クィアであり、かつ行政に「女性」と区分されている人は、そのなかでもさらに、貧困に陥る確率が高いことになります。

また、クィアには日本国籍を持たない者も多数います。生活保護を受けている外国人世帯のうち、単身世帯はその60%を超えています。生活保護を受けている全世帯の約55%が単身世帯ですから、「単身で暮らしている」ことだけでなく、「外国人である」ということがさらに貧困を身近なものにしていることがわかります。さらに、生活保護の対象は「日本国籍保持者」(大分地方裁判所)や「一定範囲の外国人」(福岡高等裁判所)に限定されるとする判例があり、すべての外国人が生活保護を受けられるわけではありません。

【クィアx貧困】貧困をなくすためのクィアの会が2013年4月21日に発足しました

このブログでも以前お知らせした通り、久喜市にて、「貧困をなくすためのクィアの会」という新しいクィア団体が発足しました。

第1回ミーティング/立ち上げイベントのご報告はこちらから読むことが出来ます

イベントで話し合われた内容をもとに、貧Qの「理念と活動」をあらわした趣意文が完成しました。以下に全文を転載します。

貧困をなくすためのクィアの会(以下「貧Q」)は、貧困とクィアの問題を切り離して考えるのではなく、互いに重なり合う問題群であるとの認識のもと、「人々を貧困に追いやる社会構造に反対」し、「経済的に大変な思いをしている人たちの生活を少しでもマシにする」ために、「群馬県と栃木県と埼玉県と茨城県の真ん中あたり」を活動拠点として2013年4月21日に立ち上げられたクィア団体です。

「LGBT」ではなく「クィア」という言葉を使用している背景には、主流になりつつある「LGBT」という枠組みが市場原理と結びつき、ある特定の表象ばかりが注目されてゆく中、そこからこぼれ落ちる存在に目を向けることが重要であるとの認識があります。

また貧Qは、「貧困」が、ただ存在しているものではなく、不当につくられ、維持され、また一方的に「貧困」と(しばしば不当に)名指しされている状況であると認識し、「貧困をなくす」ためには単に経済的に大変な思いをしている人たちの生活を少しマシにするだけではなく、「貧困」をつくりだし、維持している社会構造と、その社会構造の存在によって得をしている特権者の利益を切り崩すことが必要であると考えます。また、「貧困」状態にある人の生活が必ずしも「貧困」という1つの尺度でのみ説明可能なものであるとは考えず、同時に、そのような人々の生活が常に困難にみまわれているという前提にも反対します。そのような立場から、貧Qでは、「クィア」の中の多様性のみならず、「貧困」の中の多様性にも目を向けることを重要課題とします。

以上のような考えから、貧Qでは、「貧しいLGBTに対する支援」という枠組みを前提とせず、多様な性のありかた、生き方、「貧困」状態にある人々の多様なありかた、生き方、そしてそれらの重なり合う部分に目を向け、耳を傾けながら、具体的な支援行動と社会構造への批判的言論の両方を活動の両輪として活動を展開します。また、それらの活動において、支援者/要支援者の枠組みを疑い続け、性の問題、経済的な問題に直面している者同士の連携・連帯の実現に努めます。

貧Qの活動にご関心のあるかたは、こちらからメールニュースにご登録ください

翻訳『なぜ北朝鮮は核兵器を必要とするのか』(文:スティーブン・ゴーワンズ、翻訳:マサキチトセ)

訳者より:この文章は Stephen Gowans が2013年2月16日に自らのブログに投稿した文章を、私、マサキチトセが和訳したものです。原文はここをクリックすると読むことが出来ます。

訳者はこの文章におけるすべての論点に同意するわけではなく、また、ここに書かれていない論点の重要性を矮小化する意図もありません。この文章の大きな問題として、第二次世界大戦のあと日本が米国に主導された反共産主義的な動きに仲間入りし、戦争責任を果たすこともせず、植民地支配時代の清算を経ずに戦前の支配層を戦後ものさばらせてきたこと、そして東アジアにおける米国にとっての便利な基地用地として沖縄を中心として領土を提供し、(この文章でも指摘されているように)備蓄庫として、また戦場として米国にその領土を提供してきた韓国とともに、北朝鮮(そして中国、ロシア)への米国による反共産主義的かつ軍事主義的な介入に協力してきたことなど、日本の責任がほとんど触れられていないことがあります。しかし一方で、韓国の責任は厳しく追及されています。

こういった問題をはらんでいる文章を翻訳し、世に出すということは、それ自体が政治的な行為であります。生まれたときから日本国籍を持ち、親世代も祖父母も自分たちが日本国籍を持っていることに全くの疑問を抱かずに生きることができたような人間が、そのような政治的な行為を行うことには、暴力が必然的につきまとうでしょう。今後も継続して日本の帝国主義の責任、戦争責任、戦後責任について学び、共有し、思考を継続していくことを自らに課し、今回この文章を翻訳することにした意味と自分の責任についても考えてゆきたいと思います。

また、なぜ日本語や朝鮮語で書かれた文章を紹介するのではなく英語の文章なのか、という問題もあるかと思いますが、朝鮮語は私が理解力を持たないということ、また、日本語に関しては、漢字がたくさん使われている歴史に関する文章が個人的に苦手だということが理由です。日本の歴史について学ぶときに「漢字が多いと読むのがつらい」というのは大きな障壁となると思いますが、これも今後の課題とさせてください。

以下、翻訳文となります(注釈は訳していません)。誤字・脱字、誤訳についてお気づきの点がありましたらコメント欄等でご指摘ください。また、プロの翻訳家ではないので、あまり正確さを期待しないで下さい。

2013/4/18追記:「朝鮮民主主義人民共和国を旅行中に朝鮮人に話をきく」という記事(翻訳)も見つけました。あわせてどうぞ。


『なぜ北朝鮮は核兵器を必要とするのか』

3度目となる北朝鮮の今回の核実験は、歓迎されるべきか、嘆かれるべきか、あるいは非難されるべきだろうか。それは、あなたの視点次第だ。他国の支配や介入を受けることのない内政を可能とするべきだと信じるのであれば、そして、その権利を、米国と米国に追従するソウルの政府が南の朝鮮人から奪っており、北の朝鮮人のそれも奪おうと企んでいると信じ、更に、米軍の征服を阻止するために核兵器を建造することが北の朝鮮人が自国の統治権を維持する最も有効な方法だと信じるのであれば、今回の核実験は歓迎されるべきものであろう。

もしあなたがリベラルなら、平壌が完全に永久に検証可能な形でその核兵器計画を白紙にする代わりに、 DPRK (朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮の正式名称)に対して米国は安全を保証するべきだと考えるかもしれない。もしそうなら、そのようなあなたの立場について、3つの問題を考える必要がある。

  • 米国の高官らによる熱のこもったレトリックとは裏腹に、米国は北朝鮮によって脅(おびや)かされてなどはいない。北朝鮮の核兵器による軍事力の脅威は、単なる防衛的な意味しか持っていない。核兵器による先制攻撃が米国による圧倒的な核の報復攻撃を引き起こすことに、 DPRK の統治者らが気づいていないということはない。報復攻撃は、ビル・クリントン大統領(当時)が警告したように、「私たちが知っているような形での彼らの国が、終焉を迎えることを意味する」。北朝鮮の先制攻撃が自殺行為であること(そして北朝鮮の統治者らにそれが充分理解されていること)は、つまり、平壌が核兵器を保有していようが保有していなかろうが、米国の国防にはほとんど影響がないということだ。では、ワシントンが安全の本質的保証を行う動機は、何かあるだろうか。米国が国防の観点から検討して保証を行うことはありえない。その理由は、核武装した北朝鮮は、核放棄した北朝鮮と同程度の脅威——ほぼゼロ——しか米国に対して持たないからだ。
  • 朝鮮半島において共産主義と反帝国主義のあらゆる表出を排除するために1945年からワシントンがどれだけの血と金を注いできたかという現実を考えると、安全の保証というものがどれだけ信用に値するものか疑問である。もし米国が安全の本質的な保証をすることができると主張するのであれば、米国の方針が朝鮮において共産党を抹殺しようとしてきた立場から一変して緊張緩和の立場に抜本的な質的変更を行ったことの背景になにがあったのか、説明しなければならないだろう。
  • なぜ北朝鮮だけが核放棄する義務を負うのか。米国もそうすべきではないのか。

保守的な見方(これについて長く話すつもりはないが)は、北朝鮮が行うことは、降伏することを除いて、すべてが非難に値する、という非常にシンプルなものだ。

あるいは、あなたは、核の拡散防止に逆行するという点、そして核兵器保有国の数が増えるほど戦争が起こる可能性が上がるという考えから、平壌の今回の核実験を嘆くかもしれない。しかしこの考えは、検証されることで、ボロボロに崩れさる。イラクから大量破壊兵器が無くなったことは、同国への米国からの介入の可能性を減らすどころか、増やしてしまった。リビアの統治者ムアンマル・カダフィが自らの大量破壊兵器を放棄したことは、 NATO によるリビアへの攻撃を阻止するどころか、攻撃しやすい状況を作ってしまった。自国の市場・天然資源・投資機会に米国の支配階級がアクセスすることを拒否し、自国の発展のためにそれらを利用しようとする国が武装解除すると、それは侵略戦争されるリスクを軽減するのではなく、侵略戦争されることを実現してしまうのだ。

ラディカルな見方では、資本主義の隆盛以降の侵略戦争の要因は、利益追求である。この衝動は、企業支配化された社会の商品・サービス・資本を世界中追いかけ、現地の人々の望みや、利益、発展上の必要性、そして福祉を全く無視した形で、すべての地域に定住し、巣を作り、コネクションを作る。貿易や出資契約を通した資本の侵入をその領土が自ら受け入れない場合、米国の支配階級の利益追求を第一に優先し支援する世界経済体制の最後の手段としての執行者ペンタゴンによって、閉じた扉が叩き割られることになる。

背景

北朝鮮は長い間、敵意に満ちた、挑発的な、何をするか分からない国として西洋のメディアによって謂れのない中傷と非難を浴びてきたため、 DPRK が賞賛に値する何かを象徴しているという事実を見るために必要な冷静な理解を阻害する罵倒の霧の中をかきわけることは、困難である。この「賞賛に値する何か」とは、第二次世界大戦の終戦及び日本の植民地支配時代から続く多くの朝鮮人の経験に端を発する、抑圧と他国の支配に対する闘争の伝統である。朝鮮人の、朝鮮人によって、朝鮮人のために作られた国家政府であり、1945年9月に米軍が仁川(インチョン)に到着したときに既に存在していた、朝鮮人民共和国(訳者注:6日間存在した臨時政府)の存在に、この伝統を見いだすことができる。この新政府は、日本の植民地支配への抵抗を先導し、地主や資本家による搾取を緩和することを約束したことで多数派の支援を得た左翼によって構成されていた。1948年まで北部を支配していたソビエト連邦はその支配領土内で朝鮮人民共和国政府と協力して動いていたが、南部において米国は朝鮮人民共和国政府を制圧し、自らの支配領土において左翼勢力を抹殺しようとし、抑圧および日本人への協力から朝鮮人に嫌われていた保守派を支援した。1948年までには、この半島は日本の支配から朝鮮を解放するために戦うゲリラや活動家によって先導される北の政府と、米国が就任し、植民地支配への協力者という汚名を帯びた保守派に支えられた反共産主義者によって先導される南の政府に、分割されてしまっていた。その後65年間、これらの政権同士の争いは本質的に何も変わっていない。韓国大統領になる朴槿恵(パク・クネ)は、1961年に軍事クーデターによって権力を得た元大統領である朴正煕(パク・チョンヒ)の娘である。朴正煕はかつて日本帝国軍にいた。北朝鮮の現統治者である金正恩(キム・ジョンウン)の祖父、金日成(キム・イルソン)は、協力的だったパクとは対照的に、日本人に奉仕するのではなく、ゲリラの重要なリーダーとして日本人を相手に戦った。北が象徴するのは、政治的にも経済的にも他国の支配に抵抗した伝統であり、一方で南が象徴するのは、他国の覇権に対する服従と協力の伝統である。韓国には他国の軍隊が配備されているが、北朝鮮には一切無いということも、象徴的である。北朝鮮の軍隊は国外で戦闘したことがないが、韓国の軍隊は、米国人から支払われる傭兵代金(訳者注:適切な専門用語があるかもしれませんが、不勉強にて知りません)の投入と引き換えに、ベトナムでの忌むべき軍事活動に従事し、更にのちにイラクでも戦闘している。民間人の制圧においても、右翼的な思想に基づく韓国の権威主義は長期に渡って継続されており、典型的なものは、悪意に満ちた反共産主義の国家保安法である。この法は、北朝鮮に好意的な発言を公に発表した者に厳しい処罰を与えるものである。また、韓国の警察国家は北朝鮮に好意的なウェブサイトへのアクセスをブロックし、ノーム・チョムスキーの著書や、異端の(だが資本主義には賛成している)経済学者、張夏准(チャン・ハジュン)の著書などを含む書物を発禁し、北に渡る者を投獄している。

圧力

朝鮮戦争以来、米国と韓国は継続的に北朝鮮に対して政府破壊行為やスパイ活動、プロパガンダ、経済的攻撃、核攻撃の脅迫や軍事侵攻を通して、圧力をかけてきた。低強度紛争は、その最終的な目的を、北朝鮮政府の崩壊としている。絶え間ない軍事的圧力は、平壌に過酷に莫大な防衛費を維持することを強いている(“Songun” [先軍政治] という正式な方針となっている)。莫大な防衛費は、市民経済から重大な資源を奪い取り、経済発展を遅らせてしまう。同時に、貿易制裁・経済制裁は同国の経済に更なる痛手を負わせている。経済混乱は食料の供給を阻害し、多くの北朝鮮人の生活を過酷なものにし、人民に不満の種を撒いている。人々の不満は更に、政治的な反対派を生み出し、それを制圧・抑制するために市民権や政治的自由の制限が執行されることになる。こういった状況を受けて、ワシントンは不誠実にも、平壌の軍事費を、北朝鮮人は「飢餓状態にある」のに、と強く非難する。また、平壌の核兵器計画を(米国による軍事脅威に対する防衛ではなく)「挑発」だとして非難した。更に不誠実なことに、同国の経済的危機を(制裁や締め付けではなく)国有や中心計画の内在的な弱点のせいであるとしている。また、(実質的には米国の圧力に帰せられるような)反政府的な動きに対する制圧的なやり方について、 DPRK を強く非難してもいる。つまり別の言い方をすれば、ワシントンが DPRK を悪魔化し信用を失墜させるために強調している北朝鮮の遺憾な特色というものは、米国の対北朝鮮政策の結果であり、根拠ではないということだ。 DPRK の核兵器計画、経済危機、抑圧などがあって、それに対して米国の政策があるという見方は、因果関係を逆にとらえている。

米国対外政策

米国の対外政策は、他国の市場・天然資源・投資機会へのアクセスを確保・保護すること、そして社会福祉や国内の開発計画などがそのアクセスを阻害・制限したり、重荷になったりするのを避けるため、共産主義者や国家主義者たちによるコントロールを排除することを目的としている。

一般的な法則として、第三世界の各政府に対するアメリカ政府の態度は[…]それらの国が自国においてどれだけアメリカの自由経済主義を支持しているか、今後支持する可能性がどの程度あるかに、大きく左右される[…]この視点では、私的所有や民間企業を廃止することを正に主目的とする政府が実権を握ることが至上の悪とされることは明らかである[…]これらの政府が大いに腹立たしい理由は、かれらの行為が外資の利権や企業に大きな影響力を持ってしまうことや、将来資本主義を植え付けることを不可能にしてしまうことのみならず、世界的制度としての資本主義事業から抜け出す国がひとつでもあれば、それはその事業の弱体化を示してしまうのであり、更なる異議の発生や撤退を促してしまうからである。1

北朝鮮は、ここで言う「至上の悪」に手を染める少数の国のひとつである。軍事圧力や経済攻撃に邪魔されずに平和的に発展することを許されてしまったら、同国は他国にとってのいい前例となり、あとに続く国も出てきてしまうかもしれない。米国支配階級からしたら、米国の対北朝鮮政策の最大の目的は、 DPRK の終焉でなければならない。ニューヨーク・タイムズ紙に米国の対北朝鮮政策の目的について聞かれ、当時の軍備管理担当の国務次官ジョン・ボルトンは「本棚に向かって一歩近づき、一冊の書物を取り出し、机に投げ出した。それは『The End of North Korea』(訳者注:『北朝鮮の終末』)という本だった。」「『それが』と彼が続けた。『私たちの政策だ』」。2

更に、利益追求の目標や、他国がまねしたくなるような国として北朝鮮が頭角を現さないように経済的・政治的・社会的に機能しない状態にするということに加えて、ワシントンは、米国の完全な世界征服のふたつの大きな障害である中国とロシアに圧力をかけるための前線基地に都合のいい近距離の戦略的な場所へのアクセスを半島において確保するために躍起になっている。

核戦争の脅威

朝鮮戦争60周年に公開されたものなど、機密扱いを解かれたものを含む米国の政府書類によると、「1950年代のペンタゴンから現在のオバマ政権に至るまで、米国は北朝鮮に対する核兵器の使用を検討し、計画し、脅迫してきた。」3 これらの書類は、米国政府高官の公的声明とあわせて、北朝鮮に対する米国の核威嚇の継続的なパターンを示している。

  • 米国は早くも1950年に朝鮮半島に核兵器を持ち込んでいた。4
  • 朝鮮戦争中、米国大統領ハリー・トゥルーマンは核兵器の使用を積極的に検討していることを表明し、米国空軍の爆撃機は平壌の上空で核演習を行った。また、米国の総司令官ダグラス・マッカーサーは30から50の原子爆弾を朝鮮半島の北側の地峡に落とすことで中国の介入を阻止する計画を立てていた。5
  • 1960年代後半、核を装備した米国の戦闘機は15分で北朝鮮を爆撃できる場所に配備されていた。6
  • 1975年、国防長官ジェームス・シュレシンジャーは、韓国において米国の核兵器が配備されていることを初めて明かした。シュレシンジャーは、「(米国の)反応を試すのは、懸命ではない」と北朝鮮人に対して警告した。7
  • 1993年2月、米国戦略軍の総司令官リー・バトラーは、北朝鮮内の旧ソ連(を含む、複数のターゲット)を再度水素爆弾による爆撃のターゲットとしていることを明かした。1ヶ月後、北朝鮮は核拡散防止条約から手を引いた。8
  • 1993年7月22日、米国大統領ビル・クリントンは、もし北朝鮮が核兵器を開発し使用した場合、「我々は即時、圧倒的な報復をする。それは、私たちの知る形での彼らの国の終焉を意味するだろう」と発言した。9
  • 1995年、米国統合参謀本部議長であり、のちに国務長官となるコリン・パウエルが、米国は北朝鮮を「練炭」にしてしまう手段を持っていると北朝鮮人に警告した。10
  • 2006年10月9日の北朝鮮発の核実験をうけ、国務長官コンドリーザ・ライスは「米国は全力を出す意志と能力を持っている——日本に対する戦争抑止と安全上の責務を果たすための全力を」と北朝鮮に再度警告した。11
  • 2010年4月、米国国防長官レオン・パネッタは北朝鮮に対する米国の核攻撃を可能性から排除することを拒否し、「すべての選択肢が出そろっている」と述べた。12
  • 2013年2月13日、パネッタは北朝鮮を「米国、地域的安定、そして世界の安全に対する脅威」と表現し、更に「間違いなく、朝鮮共和国(訳者注:韓国のこと)と周辺の我々の同盟国に対する防衛上の責務を果たすために必要な手段をすべて採ります」と加えた。13

北朝鮮人が言うように、「朝鮮人ほど直接的に、長期にわたって核の脅威にさらされてきた国は、他にない」。14

1950年代から半世紀以上にわたって、米国は、核戦争の止まることのない策略を通して DPRK を大いに脅迫しながら、韓国を極東最大の核兵器保有庫としてきた。 DPRK の主権、存在する権利、発展する権利を奪うために、米国は躍起になってきた[…]そうすることで、 DPRK の社会主義経済確立と人々の生活の水準の向上に対してとてつもない損害を与えてきたのだ。15

経済攻撃

北朝鮮に対する米国の経済攻撃の幅広さとその激しさは、ふたつの文にまとめることができる。

  • 北朝鮮は「世界で最も制裁を受けた国だ」 ——ジョージ・W・ブッシュ16
  • 「[…]これ以上適用する制裁はほとんどない」——ニューヨーク・タイムズ17

1950年6月に朝鮮戦争が始まって3日後に北朝鮮への輸出を停止した瞬間から、米国は北朝鮮に対して一切やむことのない経済・金融・外交上の制裁体制を維持してきた。以下のものがそれに含まれる。

  • 商品とサービスの輸出制限
  • ほぼすべての対外援助の禁止と、農産物販売の禁止
  • 輸出入銀行の出資禁止
  • 好意的な貿易条件の拒絶
  • 北朝鮮からの輸入の禁止
  • 国際金融機関を通しての借り入れや資金提供の一切の停止
  • 北朝鮮に輸出される食物および医薬品の輸出承認の制限
  • 北朝鮮に輸出される食物および医薬品に対する政府融資の禁止
  • 輸送に関する輸出入取引の禁止
  • 多目的物品(軍用に転用できる民間向け商品)の輸出禁止
  • 銀行商取引の一部禁止18

近年では、北朝鮮の企業と取引のある銀行を米国の銀行システムから除外することによって「財産凍結および金融移動停止のための努力」19がされ、米国による制裁は更に強化されている。意図されているのは、北朝鮮を世界中どの銀行も関わりたくないような のけ者にすることだ。米国の前大統領ジョージ・W・ブッシュは、北朝鮮の経済が崩壊するまでは「可能なすべての金融制裁を用いて北朝鮮を締め付けると決めていた」20。オバマ政権も、ブッシュの方針から依然変わっていない。

ワシントンは更に、マルクス/レーニン主義システムと非市場経済を維持していることで北朝鮮を非難し、そのような国に対する経済制裁には他国も協力すべきだと迫ることで、制裁を更に痛ましいものとしてきた21。これには、すべての国に北朝鮮に対する多目的物品の輸出を控えることを強いる国連安全保障理事会の決議を提案したことも含まれる(1990年代にイラクの健康保険制度を崩壊させることになった制裁体制の焼き直しである)。ワシントンは更に、北朝鮮の石油供給を停止することを中国に迫ることまでした(これは失敗に終わっているが)。22

適切な教訓

バグダットが米国侵略軍の支配下に落ちた日、ジョン・ボルトンはイラン、シリア、北朝鮮に対して「イラクから適切な教訓を得るべし」と警告した23。平壌が教訓を得たことは間違いない。ただ、ボルトンが意味していた形の教訓ではなかったが。北朝鮮人は、ボルトンが望んでいたように、大量破壊兵器を放棄することで平和と安全が手に入るのだとは結論づけなかった。むしろ、イラクに対する米軍の攻撃の本当の教訓を、北朝鮮人はしっかりと学んだのだ。米国がイラク侵攻したのは、サダム・フセインが大量破壊兵器を破棄せよという米国の要求に応じることで、イラク侵攻の準備が整ったあとのことだ。もし彼が隠して持っていると誤って非難されていた大量破壊兵器を実際に持ち続けていたなら、米国人は攻撃をしなかっただろう。

その後リビヤで起きたことは、この教訓をさらに強化するものにしかならなかった。ムアンマル・カダフィは西洋の軍事介入からリビヤを守るために大量破壊兵器の計画を進めていたが、彼を転覆しリビヤにイスラム社会を作ろうとしていたイスラム主義者たち——アルカイダと関係を持つジハード主義者を含む——という内部の脅威にもさらされていた。9/11のあと、米国はアルカイダを壊滅させようと動きだしており、カダフィは自国内のイスラム主義の敵に更に有効な対処をするために、西洋と和解し、アルカイダに対する国際的な闘いの仲間になろうとした。しかしそうすることで、彼は大量破壊兵器を失うこととなった。この条件をカダフィが飲んだとき、彼は政策上の大失敗をおかしたことになる。経済国家主義者(訳者注:「経済ナショナリスト」と呼ばれるほうが一般的か)であるカダフィは、西洋の石油会社や投資家たちの利益よりもリビヤのための経済を優先したため、彼らをいら立たせることとなった。彼の国家主義的な妨害に嫌気がさした NATO は、カダフィの敵であるイスラム主義者たちとつながることで、彼を失脚させ、殺害した。もし彼が大量破壊兵器を放棄していなかったら、カダフィはいまも依然としてリビヤで指導者の地位にいたであろう。「カダフィやサダム・フセインが核を保有していたら、誰がかれらと関わりたいなどと思うか」と、イスラエル軍の計画部隊アミル・エシェル少将は語り、「ありえない」と述べた24

一方的な武装解除ののち、カダフィは西洋の諸首都で歓迎され、世界の指導者たちは彼と商取引を結ぼうとトリポリ(訳者注:リビヤの首都)に急いだ。カダフィのもとを訪れたなかに、韓国の外務大臣と、のちに国連事務総長となる潘基文(パン・ギムン)がいた。彼らはこの「更生した」リビヤの指導者に、北朝鮮人にも核兵器を放棄するよう説得してほしいと主張した25。カダフィがこれに同意したかは不明だが、もし同意したとしても、彼の説得は賢明に無視されたということだろう。北朝鮮の視点からは、カダフィはエサにおびき寄せられ裏切られただけのことだ。 DPRK がリビヤから学んだ教訓は、朝鮮半島の安全を保証する唯一のものは、核兵器に支えられた強い軍隊だ、というものだった26

これは決してバカげた見方でもないし、(他の国の)核縮小に対して大いなる信心を抱いている西洋が拒絶するような見方でもない。たとえば英国は、「核の脅迫や、我々にとって重要な利益に対する攻撃などを防ぐために、他に手だてがないようなものについて」言及することで、自らの核兵器計画を正当化している27。もし英国が核の脅迫や攻撃を防ぐために核兵器を必要としているのであれば、そのような脅迫めいた圧力を長いこと受けてきた北朝鮮人にとっても当然必要なはずだ。実際、英国人よりも北朝鮮人のほうが核兵器をより必要としていると言うこともできる。英国にとっては、核の脅迫も攻撃も、単なる仮説でしかないのだから。

2007年から2011年にかけて米国戦略軍のトップにいたケビン・P・チルトン大将は、2010年にワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ウォルター・ピンカスにこう告げた。「核兵器の65年の歴史のなかで、核を保有した国が征服されたことはなく、征服されそうになったことすらない」28。また一方で、大量破壊兵器を破棄せよという要求に応じた国は、その直後に、核兵器を大量に保有し、破棄する意志すらない国々によって、征服されてしまっている。ピンカスはチルトンの言葉を使い、北朝鮮が征服されることのないほどの核兵器の備えを保有しないように、先制攻撃をするべきであると主張した。核保有国が征服されたことがなく、征服されそうになったことすらないという事実を、「イランや北朝鮮が核の技術を発展させていくなかで、政府(訳者注:米国政府のこと)にいる者は、しっかり熟考しなければならない」とピンカスは書いている29

結論

核兵器は政治的な有用性を持っている。優れた核の備えがあり、弾頭を打ち飛ばす手段を持っている国にとっては、恐怖と威嚇を通して他の非核保有国から政治的譲歩を引き出すために核兵器を使うことができる。米国ほど活発に核兵器の政治的有用性を活用している国はない。外交上の目標を追求するなかで、ワシントンは、1970年から2010年のあいだに他国に対して25回も核攻撃の脅迫を行っており、そのうち1990年と2010年のあいだには14回行っている。このうち6回が、北朝鮮に対してのものだった30。これ以降も米国は北朝鮮に同様の脅迫を行っている。(この期間に米国が他の国に対して出した核の脅迫の記録は、イラクに7件、中国に4件、ソ連に4件、リビヤに2件、イラクに1件、シリアに1件である。これらのすべての国が、 DPRK と同様、脅迫を受けた段階では、共産主義の国であったか、あるいは経済国家主義の統治下にあったことは、象徴的である。)

核兵器は更に、核やその他の軍事的脅威におびやかされている国々にとっても政治的有用性を持っている。核兵器があることで、他の国々が軍隊を出して征服するときのリスクを上昇させ、軍事介入の可能性を小さくすることができる。イラクへの米国軍の介入や NATO によるリビヤへの介入についても、それぞれのターゲットが武装解除することで外部の軍隊が無事に介入できる環境をつくってくれていなかったら実行されなかったであろうということは、間違いないだろう。

北朝鮮が核兵器を備えることは、戦争の可能性を高めることはない——米国とその操り人形である韓国が平壌の共産主義政権を打ち負かす可能性を、下げているのだ。これは、帝国主義的軍事介入に反対する人間や、他国に支配されることなく内政を行う人民の権利を支持する人間、そして抑圧と搾取と他国による支配のシステムである世界的な資本主義制度に対する、実在する完全な代替物であるところのその1つが存続することに関心を持つ人間にとって、むしろこれ(訳者注:北朝鮮が核兵器を備えること)は、歓迎すべきことなのだ。


  1. Ralph Miliband, The State in Capitalist Society, Merlin Press, 2009, p. 62. 
  2. “Absent from the Korea Talks: Bush’s Hard-Liner,” The New York Times, September 2, 2003. 
  3. Charles J. Hanley and Randy Hershaft, “U.S. often weighed N. Korea nuke option”, The Associated Press, October 11, 2010. 
  4. Hanley and Hershaft. 
  5. Hanley and Hershaft. 
  6. Hanley and Hershaft. 
  7. Hanley and Hershaft. 
  8. Bruce Cumings, Korea’s Place in the Sun: A Modern History, W.W. Norton & Company, 2005. p. 488-489. 
  9. William E. Berry Jr., “North Korea’s nuclear program: The Clinton administration’s response,” INSS Occasional Paper 3, March 1995. 
  10. Bruce Cumings, “Latest North Korean provocations stem from missed US opportunities for demilitarization,” Democracy Now!, May 29, 2009. 
  11. Lou Dobbs Tonight, October 18, 2006. 
  12. Hanley and Hershaft. 
  13. Choe Sang-hun, “New leader in South criticizes North Korea,” The New York Times, February 13, 2013. 
  14. “Foreign ministry issues memorandum on N-issue,” Korean Central News Agency, April 21, 2010. 
  15. Korean Central News Agency, February 13, 2013. 
  16. U.S. News & World Report, June 26, 2008; The New York Times, July 6, 2008. 
  17. Neil MacFarquhar and Jane Perlez, “China looms over response to nuclear test by North Korea,” The New York Times, February 12, 2013. 
  18. Dianne E. Rennack, “North Korea: Economic sanctions”, Congressional Research Service, October 17, 2006. http://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/crs/rl31696.pdf 
  19. Mark Landler, “Envoy to coordinate North Korea sanctions”, The New York Times, June 27, 2009. 
  20. The New York Times, September 13, 2006. 
  21. According to Rennack, the following US sanctions have been imposed on North Korea for reasons listed as either “communism”, “non-market economy” or “communism and market disruption”: prohibition on foreign aid; prohibition on Export-Import Bank funding; limits on the exports or goods and services; denial of favorable trade terms. 
  22. The Washington Post, June 24, 2005. 
  23. “U.S. Tells Iran, Syria, N. Korea ‘Learn from Iraq,” Reuters, April 9, 2003. 
  24. Ethan Bronner, “Israel sense bluffing in Iran’s threats of retaliation”, The New York Times, January 26, 2012. 
  25. Chosun Ilbo, February 14, 2005. 
  26. Mark McDonald, “North Korea suggests Libya should have kept nuclear program”, The New York Times, March 24, 2011.
    A February 21, 2013 comment by Pyongyang’s official Korean Central News Agency (“Nuclear test part of DPRK’s substantial countermeasures to defend its sovereignty”) noted that,

    “The tragic consequences in those countries which abandoned halfway their nuclear programs, yielding to the high-handed practices and pressure of the U.S. in recent years, clearly prove that the DPRK was very far-sighted and just when it made the option. They also teach the truth that the U.S. nuclear blackmail should be countered with substantial countermeasures, not with compromise or retreat.”

    An article in the February 22, 2013 issue of Rodong Sinmun, the official newspaper of the Central Committee of North Korea’s ruling Workers Party (“Gone are the days of US nuclear blackmail”) observed that “Had it not been the nuclear deterrence of our own, the U.S. would have already launched a war on the peninsula as it had done in Iraq and Libya and plunged it into a sorry plight as the Balkan at the end of last century and Afghanistan early in this century.” 

  27. http://www.mod.uk/NR/rdonlyres/AC00DD79-76D6-4FE3-91A1-6A56B03C092F/0/DefenceWhitePaper2006_Cm6994.pdf 
  28. Quoted in Walter Pincus, “As missions are added, Stratcom commander keeps focus on deterrence,” The Washington Post, March 30, 2010. 
  29. Pincus. 
  30. Samuel Black, “The changing political utility of nuclear weapons: Nuclear threats from 1970 to 2010,” The Stimson Center, August 2010, http://www.stimson.org/images/uploads/research-pdfs/Nuclear_Final.pdf 
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