Facebook の性別を男女どちらにもしない方法

Facebook は、登録時に性別を決めてしまうと、それ以降「女性」と「男性」のいずれかしか選べません。日本語で使用しているぶんにはあまり影響はないかもしれませんが、言語を英語に切り替えて使っているとそこら中で she だの he だの her だの his だの表示されるので、私もずっと悩まされていて、いろんなウェブサイトで「どちらにも決めていない状態」に戻せないかと情報を探していたのですが、なかなか成功せず、困っていました。今回がっつり調べてみたら、ある人が作成したスクリプトによって性別を「どちらでもない状態」にすることが出来たので、ご紹介します。

『セクシュアリティと政治がご専門のChalidaporn Songsamphan先生(2009年春特任教授)とポルノグラフィーについて対談しました』

マサキチトセ(CGSスタッフ 以下マ)

ポルノグラフィーについての基本的なスタンスを教えてください。

チャリダポーン教授(以下チ)

そもそもポルノは性的幻想の一つのあり方として捉えられるべき、プライベートな時間に誰しもが楽しむ権利を持っているものと考えます。しかしポルノを事細かく見た時、そこにはポルノ以外の物事との関連性やポルノそのものの多様性が見られ、ポルノ全体についての基本的なスタンスというものは築けません。ある種のポルノと違う種のポルノには、違うスタンスを持つ事があるのです。私たちは理論や説明を一つ打ち出し、そこに類似の全てのケースを矮小化しようとしがちですがそれではうまくいきません。私たちは全ての物事を個別に見る必要があるのです。

『児童ポルノとフェミニズム』

第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)は、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針を採択した。多くの国は既に、成人と児童の権力差から考えて「同意の上」ではあり得ないため、性的搾取や暴力から児童を守るために児童ポルノの生産及び販売を禁止している。しかし今回の方針は監視を強め、実写でない児童ポルノの単純所持をも違法化するものだ。背景には、実際に児童の関与がなくても児童ポルノは人々の児童を見る目を変え、その広範な普及は児童のイメージを極度に性的なものへと至らしめるだろう、という考えがある。即ち、合意の成り立たない行為で児童が実際に受ける身体的・精神的苦痛だけでなく、間接的であれ自体が実際の児童に苦痛をもたらす、ということだ。

米国LGBT家族・友人団体PFLAGと、「クィア」vs「それ以外」という分け方について

PFLAG(ピーフラッグ)というのは「Parents, Family, and Friends of Lesbians and Gays」(レズビアンとゲイの親・家族・友人)の略で、都市を中心に数百の部局(チャプター)と二十数万のメンバーを抱える、この類の団体では米国で(というか世界的に)最も大きなもの。「非友好的な社会で生きていくための支援」「無知や間違った情報に対抗するための教育」「差別を無くし、平等な市民権を獲得するための権利擁護」の3つの理念的柱を掲げて、LGBTの若者に加えて、かれらの家族や友人を受け入れて活動している。と言っても一般的には、子どもからレズビアンやゲイとカミングアウトを受けた親や保護者が電話やメールを通してサポートを受けたり、実際に月例のミーティングに参加するなどする場所という理解が広まっている。それは確かに間違いではないのだけれど、他にも色々やっている事実はあまり知られていない。

黒ピンクの衣装で2016年TRPでプロテストする3人

わたしの〈クィア〉とあなたの〈クィア〉は違う:グローバルでないドメスティックなクィアの不可能性

「グローバル・クィア」あるいは「グローバル・クィア・スタディーズ」が語られるとき、国民国家や地域、宗教の軸における「クィア」概念あるいは「LGBT」概念の翻訳可能性が取り沙汰されるのは当然のことである。しかし「グローバル」と対置されるであろう「ドメスティック」あるいは「ローカル」な「クィア」は、そもそも各国民国家・地域・宗教内部で確立された概念なのかを問うことも必要だろう。

本発表では、クィア・スタディーズの中心的地域である米国における階級・人種・宗教に注目し、そもそも「クィア」概念あるいは「LGBT」概念が必ずしも米国全体に流通していないことを示し、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という枠組みを批判する。また同時に、「翻訳可能性」が言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを考察し、ワークショップでの論点の1つとして提案したい。

「短編小説『さようなら、片岡玉子』(野比玉子・作 村江輝夜・あとがき)」 -ドラえもん二次創作シリーズ第3弾

そうだ、野比という名前にしよう。すっかり灰が長くなった煙草を灰皿に押し付け、玉子は決めた。暑苦しさの抜けた心地良い風が、開け放した窓から入り込む。急に目の前の靄が消え、全てがうまく行く感触を得た玉子は、その昂奮のまま窓から外に駆け出したい気持ちになった。

思いつくことだけは大胆な玉子が、もちろんそれを実行に移すことはない。こんな真夜中に外を走り回れたらどれだけ気分がいいか。そう思いながら、玉子は立ち上がって窓の外を眺めた。暗く輪郭を見せる山の頂が、玉子がこれから目指そうとしているゴールのように思えてきた。山登りの経験は無かったが、頂上に至るまでに相応の苦難が待ち受けていることは分かっていた。

それでも、と玉子は後ろを振り返り玉夫の寝顔に目を遣る。玉子より四つも年下の玉夫は、まだ幼さの残るあどけなさで、口を半開きにして眠っていた。

「わたしが守るからね」

自分の口から出た言葉ながら、映画みたいだと苦笑した。そうだ、映画のようなものなのだ、と玉子は取り出した新しい煙草に火をつけながら窓のふちに腰を置いた。映画のようなドラマチックな展開になることは間違いなかった。いや、と玉子は思い直す。私と玉夫は、これまでの映画のような生活から逃げ出すために「野比」の名を名乗って生きて行くのだ。

野比玉子、野比玉夫、いいじゃないか。二人合わせて「のびのび」だ。タエの生まれた横須賀にある野比一丁目から取った安易な名前だったが、案外、しっくりくるものだ。いい名前なんていうものは、大体後付けで意味が与えられたものなのかもしれない、と玉子は一人納得する。

わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム【再掲載】

「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。