「査読(さどく)」というシステム:その慣習的なやり方と、オルタナティブなやり方

学問など、専門性を重視する業界では、論文を出版することが研究成果を発表する方法として頻繁に採用されています。研究者は同業者の論文を引用したり参照することで、互いとの議論を深めて行きます。また、どの媒体に掲載されたかということによって、読者の多くはその論文の信憑性を推測したりします。なので、水準が低いと思われている媒体に論文が掲載されても、その研究を真剣に取り合わないような人もいたりします。その水準を確保するために、各媒体の編集委員会は「査読(さどく)」というプロセスを行っています。

査読というのは、英語でピア・レビュー peer review (peer 同業者の、review 検証)といい、最も慣習的なやり方は「クローズド・ピア・レビュー」です。

クローズド・ピア・レビュー

クローズド・ピア・レビューでは、まず論文を執筆した人が編集委員会に原稿を提出し、編集委員会がそれを受け取ります。編集委員(あるいは稀に外部の人間)によって、原稿の内容を検証することができるだろうと思われる人を選出し(たいていの場合は同分野の専門家)、無償での検証作業を依頼します。断る人も多いですが、OKとなった人は正式に査読者となり(複数の場合もある)、受け取った原稿(執筆者の氏名や所属、肩書きなどを伏せたもの)を編集委員会の定める締切までに検証します。この結果、修正点なし、もしくは若干修正が必要と評価されたものは、たいていの場合最終的に掲載されることになります。大幅な書き直しが必要と評価されたものは再提出が認められますが、査読者に決定権はなく、あくまで査読者の助言を得て編集委員会が掲載するか否かを決定するので、査読者全員の評価が悪い場合や、再提出後も同じく悪い評価だった場合は、掲載不可となることがあります。そもそも査読者によって却下と評価されたものは、再投稿すら認められない場合もあります。また、査読者が誰だったのかという情報はどこにも明かされず、編集委員会(あるいはその中の一部の人)だけが知っていることになります。

誰が査読したか分からない、というシステムのため、「クローズド」なピア・レビューと呼ばれます。

オルタナティブな査読のやり方

クローズド・ピア・レビューは、完璧ではありません。まだクローズド・ピア・レビューが単にピア・レビューと呼ばれていた時代から、査読者の匿名性が問題視されてきました。これは、査読者が誰だか分からないことで、査読が公平に行われたかどうか、一貫した基準によってなされたかどうかが、外部からは分からないということが大きな問題とされています。また同時に、その情報を唯一握っている編集委員会が適切な査読者を選んだかどうか、きちんと公平にピア・レビューのプロセスを実行したかどうかも、外部の検証に開かれていません。

そこで、オープン・ピア・レビューというものを提唱する人たちが現れました。また、その中でも特にインタラクティブ・ピア・レビュー(相互行為的ピア・レビュー)という方法が近年興味深い例として出て来ています。

オープン・ピア・レビュー

これは、査読者が誰であるかを公開するという方法です。その他は、クローズドと同じプロセスを踏むことになります。これによって、査読者は自分の名前が出る出版物に対する責任が発生します。同時に、その論文に貢献したという記録も残り、業績として(それを認める同業者が多いかどうかは別として)認められます。

これには様々な種類があり、例えば執筆者が査読者に応答することができる仕組みを採用しているところ、原稿を一般公開して他の研究者たちが自由に(しかし記名で)査読するというもの、査読者の名前は一般公開せず執筆者だけに教えるというところなどがあります。中には、研究者たちによる記名のコメントなども含めて出版するところがあったり、査読結果によって掲載の可否が決まるのではなく査読内容も一緒に出版するところがあったり(これだと、査読者が全く同意できないような意見の論文も出版されることになり、査読者の影響力が純粋に併記の査読内容に限定される)、更には研究者の肩書きがなくとも査読に参加できる仕組みが存在しています。

インタラクティブ・ピア・レビュー

インタラクティブ・ピア・レビュー(相互行為的ピア・レビュー)は、オープン・ピア・レビューを更に工夫し、水準の高い論文を執筆者本人だけの力ではなく査読者の協力を得ることで出版しようという意志の感じられる方法です。この方法では、執筆者から送られて来た原稿を編集委員会が独自に選出した査読者に送り査読してもらうというところまでは、クローズドと同じプロセスです。査読者から査読結果が返って来てからに、この方法の特徴があります。

査読結果が返って来ると、それは執筆者と査読者がお互いにコミュニケーションすることが出来るオンラインの場が設けられ、そこで査読者(複数の場合もある)と執筆者によるディスカッションがスタートします。ここでは、査読者はまだ匿名のままです。このディスカッションの結果、「間違いがあるが、執筆者はこれを修正できない、あるいは修正する気がない」と査読者全員が結論づけた場合にのみ(他の理由は許されていない)、この原稿は却下されることになります。そして、査読者全員が「掲載すべき」と結論づけた場合にのみ、この原稿は掲載されることになります。

掲載されることになった場合、査読者の名前は論文と一緒に公開され、そこに査読者によるコメントも付記されます。

参考 How Interactive Peer Review Works

「査読」のかたちは1つではない

このように、査読といっても、いくつかの種類があることが分かります。また、媒体ごとに、独自の方法を模索しているところがたくさんあることも分かります。「クローズドでやってるところの論文しか認めない」というような研究者も世の中にはまだまだたくさんいますが、全く何も模索せず、ただ標準的だからという理由でクローズド・ピア・レビューを採用することは、そのデメリットの存在を認めない、あるいは認めたとしても「必要悪」とする行為であると言えます。

新しい学会だったり、ニッチな分野の媒体であれば、どこか他の媒体と競い合う必要もないのですから、どういう査読の方法が自分たちの媒体の理念に適しているかを検討するくらいはするべきだろうと思っています。その結果クローズドでやろうという結論になったとしても。

翻訳『調査対象者、回答者、参加者の保護について』:卒論を書いている大学生や、独自調査をしようとしている団体は、ぜひ一度読んでください

イギリスの聖アンドリュース大学がホームページで「調査対象者、回答者、参加者の保護について」という文書を学生向けに掲載しています。

LGBT/Q関係で卒業論文を書きたいのでインタビューさせてくれませんか、とかいう連絡は(私にはなぜか全く来たことないけど!)いろんな活動家や活動団体メンバーが日々飽きるほど浴びせされている質問ですし、数年前からそういう状況が増えて来たなと思っていました。でもそんなに怒ってもしょうがないし、まぁいいかと思っていたんですが、最近(名前は出さないけど)なんかもう調査者のことも調査対象者のこともゴミとも思ってないような(風に私には見える)人が調査を奨励して、調査者と調査対象者をつなげる動きとかをしてたり、あと何だか全然信用できないような調査本が出版されたり、ここ1年くらいでそういう最低な状況が目に入るようになってきてて、本当にもう大学はなにやってんの!?

って思ったらどうやら、そもそも IRB ( Internal Review Board 、教員や学生など大学の関係者が調査するときに人権等の観点から事前に審査する学内機関)っていう、少なくとも米国では(1970年代に法律が出来たり委員会が出来たりして、国全体で研究調査の倫理問題の意識が高まった結果)「当然あるべき機関」扱いされているものが、日本の大学にはあっても学部生の卒業論文には適用されてない、ということが分かったのですよ。(学会ごとの倫理ガイドラインがあるところはもっとあるみたい)

ということで、あんまり長くなく、でもポイントを抑えてて、調査を受ける側の権利にフォーカスした文章が見つかったので、とりあえずザックリと翻訳しました。例のごとく、翻訳の質についてのクレームは一切受け付けません(キリッ

聖アンドリュース大学 http://www.st-andrews.ac.uk
「調査対象者、回答者、参加者の保護について」
http://www.st-andrews.ac.uk/intrel/research/ethics/protectingresearchsubjects/

『調査対象者、回答者、参加者の保護について』

倫理審査の全プロセスは多くの意味で、私たちの研究を可能にし、意味のあるものにしてくれる人々の保護と福祉を確保することに関係しています。そのためには、以下の5つの領域が考慮されなければなりません。それは、信頼を重視し、守ること、損害を予測すること、同意を取り付けること、守秘義務と匿名性を守られる権利を確保すること、そして研究・学術的産物における参加者の関与を重くとらえることです。

1)信頼を重視し、守ること:あらゆる調査において、そこに利害の不一致があるときでも、社会調査を行う者は回答者、情報提供者、参加者の利益と権利を最も優先しなければなりません。参加者や調査対象者の利益を完全に保証することが不可能な場合においては、社会調査を行う者はその調査を本当に行うべきなのかどうか真剣に検討し直すべきです。同様に、社会調査を行う者は、自らの調査が他の同業者の調査に与える影響を考慮しなければなりません。もし自らの調査が行われたことによって同様のコミュニティや集団において他の同業者が信頼を獲得することが難しくなる可能性があるのであれば、その場合もまたその調査を本当に行うべきなのかどうか検討し直すべきです。非常に興味深い調査であっても、回答者に損害を与える可能性があり、そもそも行うべきではないものもあります。

2)損害を予測すること:社会調査を行う者は、自らの調査によって引き起こされる可能性のある事柄について敏感でなくてはならず、可能性のある損害を見極め、防ぐ必要があります。もちろん自らの安全を脅かしてまでそうする必要はありませんが、調査対象者、参加者、また通訳者やリサーチアシスタント、運転手や、データの収集に関わったり補助しているような補佐スタッフなどに対して、自分の調査がどのような影響を及ぼすのかを検討しなければなりません。宗教的マイノリティや民族マイノリティ、その他社会的逸脱行為に関与する集団などが特に不利益を被りやすいような場合においては、データの利用を保留したり、そもそもそのような集団を調査すること自体を控える必要があるかもしれません。更に、身体的なリスクがあるような場合はすべて、リスクを査定するための大学付属機関による承認を得なければなりません。

3)情報を開示した上での同意(インフォームト・コンセント)を取り付けること:インフォームト・コンセントは、根本的な原理です。これは、社会人類学協会によれば、一回で終わるようなプロセスではありません。これは同意という概念自体の指針となる、透明性と開かれたコミュニケーションの精神のことです。「この調査はなぜ行われているのか」「情報提供者や回答者はデータの収集においてどのような役割を担うのか」「この調査プロジェクトの目的は何なのか」という疑問を通ることで、インフォームト・コンセントが可能になるのです。

インフォームト・コンセントを取り付けるということの中心的課題は、回答者となり得る相手に対して調査の内容と目的を明確かつ正確に伝えること、そしてその上で相手の合意を得ることです。文書によって行うことが理想的ですが、全ての社会的・文化的状況において可能なわけではなく、また参加する意志を文書で確認することがその状況にとって最善とは限りません。口承文化の地域においては書かれた文書が意味を持たない(持て余されてしまう)場合もあるでしょうし、政治・社会的状況によっては文書は危険なものとなったり、不適切であったりします。こういった場合は口頭による同意を取り付ける必要があり、その方法は申請書(訳者注:事前に審査機関に提出するもの)で示されていなければなりません。いずれにしても、文書による同意を得ることが目的化してはなりません。あくまでここで目指されるべきことは、調査の目的を参加者に伝え、かれらが自分の関与しようとしている調査がどんなものか理解しているという確証を得ることです。

回答者は調査プロジェクトの範囲と期間について知らされなければいけません。調査によっては、事前に考えを固めることなく、質問のあと即回答を求められるような調査もあります。そういった場合には、回答者はそのあとにそのことについて知らされ、また調査がそのような形式になっている理由を説明されなければなりません。場合によっては調査について伏せた状態で調査することも可能ではありますが、そのためにはより厳しい審査を受ける必要があり、また、調査について開示しないことの目的とその利点をより正確にきちんと説明する必要があります。いずれにせよ、ここで重要なのは回答者に敬意をもって接するということです。回答者を人間として好む必要はありませんし、むしろ、社会や政治的実体のまさに周縁に位置するような人々も含め、どんな種類の集団であろうと、関わり、理解しようとする責任が調査者にはあります。そのように、調査者自身の考えや人々の主流な考え方からはかけ離れた考え方を持っている人に対してでも、敬意と尊重の念を持って接するべきです。それは、調査者が調査について明かさずに調査している場合においても同様です。

そして、音声録音や映像録画装置などのデータ収集装置が使われる場合は、それらの装置が持つ機能について回答者や参加者がきちんと把握している必要があり、またそれらの利用を自由に拒む権利を保証されなければなりません。

4)守秘義務と匿名性を守られる権利:匿名性とは、単に名前を伏せるという意味だけではありません。情報提供者や回答者は、守秘義務と匿名性の条件に調査者を従わせる選択肢を与えられなければなりません。この原理は、信頼を重視し守ることと一体となって機能します。社会調査をする者は、回答者の生活に現れ、そして最終的にはそこを去り、自分の組織へと帰って行きます。一方で回答者は、少なくとも一定の期間は、調査に参加したという事実とともに、そのコミュニティで生活することになります。したがって、社会調査を行う者は、自分たちが回答者たちの生活に対して混乱を引き起こす可能性があることをしているんだという事実に敏感でなければなりません。回答者の信頼を得ることは非常に重要です。そうするためには、名前による認識だけではなく、アイデンティティの複数の側面を頭に入れておく必要があります。多くの場合、回答者が自分の調査への関与を匿名にしてほしいと希望する場合、世界や世の中に自分が認識されてしまう(誰のことだかわかってしまう)ことを心配しているのではなく、最も身近でローカルなコミュニティにおける認識を心配しているのです。名前を伏せることは十分ではありません。かれらのアイデンティティを守り、秘密を守ることには、それ以上の配慮が必要なのです。

この問題は、認識されることだけではありません。守秘義務と匿名性は、回答者のプライバシーの保護、社会的地位の確保、そして違法行為や社会的逸脱行為に関する情報を開示することで不利益を被らないことを保証するために、守られるものなのです。

守秘義務と匿名性を守るためには、更に、データの保管に関する取り決めが必要です。フィールド調査においては特に重要な問題です。回答者に、かれらの個人情報が守られること、匿名という条件でデータに含まれることなどを伝えるということはよいことですが、しかし名前や場所、データがメモなどで揃って残っていたり、それらが安全でないところに置かれていたりなどしたら、そんな約束は意味がなくなってしまいます。調査によってこの問題の重要性は変わりますが、いずれにしても、社会調査を行う者は、データの保管方法についてきちんと検討する必要があります。非常に慎重に扱う必要があるデータの場合は、証言や情報の開示を特定個人と結びつけることが不可能なように、暗号化の手続きなど、更なる注意が必要になります。

5)回答者の関与:調査者は、混乱を起こさないよう敏感になる必要があります。社会調査を行う者は、自分たちが社会的ネットワークや人間関係を破壊したり変化させてしまう可能性があるということに敏感にならなければいけません。フィールドに調査者がいるのは短期間ですが、参加者は関与したことの結果ともっと長い期間つきあわなければならないのです。調査者と回答者の関係は、こういったことがきちんと理解され、調査者が回答者に敬意をもって接することができているときに、もっとも強固なものになります。多くのコミュニティでは、調査者というのは上から降りて来てかれらから奪って行く人たちだと感じられています。奪われるのは、情報、時間であり、そして調査の主体ではなく客体であるという感覚から、尊厳も奪われると感じられています。コミュニティを尊重し、学術的生産物(論文など)における回答者たちの位置づけを尊重することは、社会調査を行う者同士のお互いのためにもなることです。ここで「位置づけ」というのは、つまり回答者こそが学術的生産物の「中心」にいるのだ、ということです。調査が終わり結論が出たあとフィールドに戻って結果を共有することは喜ばれることが多いですし、調査者から調査結果を共有することの申し出をすることが通常望ましいです。

エディタ『Ulysses』で論文を書くためのStyleを作りました

Markdown が使える高機能なテキストエディタの Ulysses というのを買ったんですが( Scrivener が流行ってるのにあえて Ulysses なのは、周囲がみんなプレステ買ってるのにセガサターン買った私の性格的な問題です)、せっかく PDF 書き出しができるのに(しかも command + shift + p で一瞬でプレビューできるのに)整形ができず、やむなく MS Word に書き出して整えなおさないとダメなのかと思ったら1、スタイルシートに似た独自形式の Style を設定すれば PDF に反映されるということがわかりました。

論文って、横40字縦30行みたいな決まりがあるし、参考文献リストは1行目が左に飛び出てたりして、 Markdown 記法だとなかなか難しいところがあるんですが、この Style をいじくりまわしていたら、なんかできちゃったので、シェアしますね。

1. まず Ulysses の「環境設定」から「スタイル」タブを選んで、「リッチテキスト」カテゴリーの中にあるどれか1つをダブルクリック。すると「複製」というボタンで出るので、クリックする。
2. 複製してできたスタイルをダブルクリックして、「〇〇で編集」を選ぶ(〇〇には、自分の Mac にインストールされてるテキストエディタが出てる。違うのが選びたかったら、マウスカーソルをそこに持って行くと右端に「▼」が出てくるので、そこから選ぶ)。
3. ファイルが開かれたら、その中身を全て消して、↓の「スタイルファイル.ULSS」の中身を全部コピー&ペーストして、保存して閉じる。

スタイルファイル.ULSS
新スタイルファイル.ULSS
(引用が複数段落に渡ったときのインデントを修正しました)

これで設定は終了です。あとはどう書くかですが、 Markdown 記法の基本的な使い方を少しだけ変えて使うことになります。

サンプルを用意したので、見て参考にしてください。

Markdown テキストファイル.txt
↑の Markdown を PDF に書きだしたもの(解説つき)

ちなみに横40字縦30字にしたのは、私のブログを読んでるひとはクィア学会(学会誌は横40字縦30字)に投稿する可能性が高いんじゃないかと思ったからです。(ただし脚注は、クィア学会学会誌の規定に沿って手動で作る必要があります。最後まで Markdown で書いてて、一番最後に一括置換するのがいいかもしれません)

その他、今ちょっと見た限りですが、日本社会心理学会、日本社会科教育学会、関東教育学会、日本原子力学会、日本集団精神療法学会、日本南アジア学会、日本ケベック学会、教育思想史学会、日本生命倫理学会、日本宗教学会、宗教倫理学会など多数の学会誌や、「立命館平和研究-立命館大学国際平和ミュージアム紀要-」、「ヴィクトリア朝文化研究」、その他大学や研究機関の多数の機関誌が横40字縦30字での提出を求めています。

何かわからないことがあったら、私が分かる範囲では答えられると思うので、コメント欄に質問してください。

※ 横40字縦30行以外のフォーマットを用意して欲しい、とかいう要望には、おそらく応えられません。ものすごく仲の良い友だちだったら、やってあげるかもしれませんけれども。

追記

Scrivener と違って Ulysses には Research にあたる部分がないということが弱点なんですが、原稿と同じフォルダに「# Research Box」という別のシートを作って、そこで番号なしリストを作り、第一階層にタイトルとか著者名を書いておいて、次の行に第二階層で PDF をドラッグ&ドロップで載せる、という方法で、 Scrivener の Research と同じような( Scrivener 使ったこと無いからわからないけど)ことができることがわかりました。

こんな感じ↓

スクリーンショット 2014-02-10 PM10.34.43

PDF は画像扱いになって、 IMG と表示されます。ここをダブルクリックすると、黒いシートみたいなやつが出てきます。

PDFの1ページ目がちっちゃく表示されており、ここでページをめくることもできます。ページをダブルクリックすると、 PDF が普通に開きます。

ここで黒いシートの何もないところをドラッグしてその場所から動かすと、フローティングウィンドウになります。他のウィンドウのように右下の端っこを使って大きさを変えることもできますし、左上の「×」の隣の「+」をクリックして大きくすることもできます。

複数開くこともできますので、 PDF を開きながら↓みたいに作業できます。フローティングウィンドウなので、文字を打つ画面に戻っても PDF は常にトップに表示されます。

スクリーンショット 2014-02-10 PM10.41.08
(クリックすると大きい画像に飛びます)

さすがにこのウィンドウにウェブサイトを表示させることはできないのですが、 Mac ならウェブサイトを見ている時にプリントダイアログを出して左下の「PDF」→「PDFとして保存…」で保存すれば PDF になるので、特に問題はないと思います。

ちなみに、この方法で添付した画像や PDF は Ulysses のデータベース内に保存されるので、元のファイルは消してしまって OK です。

更に追記

↑では番号なしリストでやってましたが、見出し「## 」にするとリストが俯瞰できるのでいいかもしれません。

こんな風に↓

スクリーンショット 2014-02-10 PM10.55.31

こうすると、右上のリスト風のアイコンをクリックすると(あるいは command + 8 を押すと)出てくる見出しリストに一覧が出るようになります。

こんな風に↓

スクリーンショット 2014-02-10 PM10.56.23

こうしておくと、探すのが楽になっていいかもしれません。


  1. ちなみに、 Word の設定をどんな風にしていたとしても、 Ulysses からインポートすると確実に「環境設定」→「体裁」→「文字間隔の調整」→「間隔を詰めない」が無効になり、「句読点のみを詰める」にチェックが入ってしまいます。 Ulysses のデベロッパーに連絡してありますが、 Word の仕様なのかもしれないし、解決しなそう。というわけで、 Ulysses のみで文字数と行数をうまいこと指定できないかなあと思ったのです。 

LAタイムズの小児性愛についての記事を翻訳しました

小児性愛(ペドフィリア)については様々な立場があると思います。それぞれの経験や知識から、極端ではないにせよ、何らかの強い思いがある人もたくさんいると思います。しかし一方で、小児性愛についての「LGBT」系の立場の言説が非常に少ないということに、私は不安を感じています。「LGBT」系の政治は、小児性愛を含め、その他の「性的嗜好」(と現在呼ばれるもの)から「性的指向」を区別し、後者に関する社会的言説を改善するために進められて来たという側面があります(Tもまた、内部で差別されているのですが)。いいかえると、性的「指向」は、社会的地位などの向上を認めるべき性的欲望のかたちのことを指す名前として機能しており、「嗜好」に区別される欲望は個人的な領域に押し込められてきました。

「LGBT」のことに限らず、「クィア」のこと、「LGBTQ」のこと、「セクシュアル・マイノリティ」のことなどについて語られるときも、小児性愛について忘却されていたり、むしろ意識的に排除されているケースが多いと感じています。しかし性的欲望に関する社会的序列は、「成人した、障害のない、極端な体型ではない、人種ごとに理想化された美の基準に近い、ある程度清潔な、性別がシンプルにわかりやすいタイプの、異性」に対する欲望を中心としています。

私は「クィア」という言葉を必ずしも「LGBT」などの「性的指向と性自認の組み合わせ」に限定した言葉だとは思っていません。「クィア」は、性的な欲望やアイデンティティについて社会にどのような言説が存在するのか(過去・現在・未来にわたって)について包括的に考えるような態度だと思いますし、そこから意図的に排除すべき性的現象・欲望・行為・意志・言説などはないと思っています。当然、小児性愛もまた、クィアという言葉の射程内に入っているはずです。

また一方で、フェミニストやクィア系の活動や言論に対し、「でもロリコンは差別するんだろう」という対抗言説が出されることが頻繁にありますが、フェミニズムもクィア運動も多様ですし、私のこれまで出会って来たフェミニストやクィア系活動家に「ロリコン」を「ロリコンだから」という理由で差別すべきだと考えているような人は、いません。フェミニスト同士、クィア系活動家同士、また理論家同士などでも、「性的指向」と「性的嗜好」を区別して後者を個人的な領域に押し込めることへの批判は出されています。そういったことを理解してもらう必要性も、高まっているように思えます。

ちょうど関連記事を見つけたので、1年前のものですが、翻訳しました。全面的に記事の内容に賛同するわけではありません(特に「生まれつきだから指向だ!」という主張は嫌いで、「生まれつきかどうかは関係ない、差別するな」という方向を私は採用しています)。ですが、考えるきっかけになる材料がいくつもあると思うので、ここに掲載します。

オリジナル記事(英語)
http://articles.latimes.com/……

『小児性愛(ペドフィリア)について多くの研究者がこれまでとは違う見解を持つようになっている』
——小児性愛はかつて、人生の早い段階での心理的な影響に端を発するものと思われていた。現在、多くの専門家は小児性愛を、変わることのない根深い性質であると考えている。——

2013年1月14日 アラン・ザレンボ(ロサンゼルス・タイムズ)

ポール・クリスティアーノは少年のとき、女の子に大変興味を持っていた。体育の授業での彼女らの踊りや、ひょろひょろとした弱々しい体が転ぶのを楽しんで見ていた。

思春期を迎え、他の男子たちが同級生に関心を持ち始めても、7歳から11歳の子に関心がある自分に戸惑っていた。

大人になっても、ポールの欲望は時間が止まっているかのように、変わらなかった。シカゴ郊外で安定した家庭生活を送ってはいたが、自分を刑務所に送ってしまうかもしれない欲望にひどく悩まされていた。

「こういう気持ちがあることで、私はモンスターになることを運命付けられていたんだ。非常に怖かった」とポールは語る。

1999年にポールは、児童ポルノを購入しているところで逮捕された。現在は36歳。彼はこれまで一度も子どもに性的な行為をしたことはないと言う。しかし州が命じた5年に及ぶセラピーの結果もむなしく、子どもへの性的関心は消えていない。

「あの人たちは、簡単にこの欲望を消せると思っている。私が恥を感じ、そんな欲望の存在を私が否定するようにしむけることができると思っている。でもこの欲望は、その辺にいる人の異性愛と同じくらい本質的な(訳者注:その者に固有のものであり、変更不可能であることが含意されている)ものなんだ」とポールは語る。

研究者らもまた、実験の結果同じ結論に至り始めている。

性的逸脱の多くがそうであるように、小児性愛はかつて、人生の早い段階での心理的影響に端を発するものであると思われて来た。しかし現在は、多くの専門家がそれを、異性愛や同性愛と同様に変更不可能な性的指向であると考えている。小児性愛は根深い性質であり、その多くは男性のものであるが、思春期に明確に現れはじめ、その後変わることはない。

最も適切な推定によれば、男性の1パーセントから5パーセントが小児性愛である。ここで言う小児性愛とは、主要な性的関心が思春期前の子どもに向いているということを意味する。

全ての小児性愛者が子どもに性的な行為をはたらくわけではない。また、子どもに性的な行為をはたらいた全ての人が小児性愛者でもない。調査によれば、子どもに性的なこういをはたらいた人のうち半分は、被害者に性的な関心を持っていなかったという。彼らは人格障害を患っていたり、暴力的傾向があったりしており、また、被害者の多くは家族だった。

一方、小児性愛者というのは恋愛対象として子どもを見ている傾向が強く、家族や近親ではない相手を探すことが多い。たとえば、よくニュースの見出しに出るようなカトリックの聖職者、スポーツのコーチ、ボーイスカウトのリーダーなどの常習的な加害者がいる。

しかしその他の小児性愛者は「なんとか欲望を抑えようとしている、善人」だと、ジョンズ・ホプキンズ性行動相談ユニットの精神科医師フレッド・ベルリンは言う。「彼らは行為に至らないように必死に戦い、悩んでいる。私たちはこういった人たちに対して何もしてやれていない。むしろ彼らを地下に潜らせてしまっている」

犯罪者についての調査

トロントの「精神の健康と依存症」センターでは、子どもに最も関心を寄せる男性について調査するためにファロメトリーという手法を用いている。起訴された性的犯罪者についてここでなされた研究からも、小児性愛についての新たな発見が浮き上がって来ている。

調査では、成人と子ども、男性と女性など、様々な組み合わせの性的行為が描写された視覚的・聴覚的刺激物を、ひとりで部屋に座っている男性に見せたり聞かせたりする。この男性の陰茎には装置が取り付けられ、血液の流れがモニターされる。

成人に関心を持つ男性と同じように、小児性愛者もまた、どちらかの性に偏って強く関心を持っていることがわかった。多くの場合、対象は女性であった。

小児性愛の原因を究明するために、研究者らは、加害者が子ども時代に受けた虐待が主たる原因であるという普及した考え方を、ほぼ棄却することにした。調査によれば、虐待の被害経験があっても大人になったときに加害者になることは少なく、加害者のうち3分の1が被害経験があると語っただけだと言う。

トロントのセンターでは更に、小児性愛が生物学的な原因を持つ可能性を示唆するいくつかの関連性を発見した。

納得しうる発見のうちのひとつは、小児性愛者の30%(これは一般の3倍の割合)が左利きもしくは両利きであったというものだ。右利き・左利きというのは遺伝的な原因と子宮内環境のどちらの影響も受けて決まることから、科学者たちはこのつながりを、小児性愛者が生まれつき何か異なる性質を持っているという可能性を強く示唆していると考えている。

「唯一可能な説明は、生理学的なものです」と、調査リーダーのジェイムズ・カンターは語る。

研究者らは更に、小児性愛者は非小児性愛者よりも平均しておよそ1インチ背が低く、IQもまた10低いということも発見した。これは、出生前や小児期の発達上の問題と一致している。

2008年の調査でカンターの研究チームは、65名の小児性愛者の脳をMRIで調べた。性犯罪を犯したことはないが他の犯罪を犯したことのある人たちと比較した時、彼らの脳には白質(脳の接続回路)が少ないことも分かった。

これは、カンターのいう「クロス・ワイヤリング」という現象についても示唆的である。これは、魅力的な女性の近くにいるときに多くの男性が経験する神経反応が、子どもを見た時にも開始するという現象である。

脳の関与に関する更なる証拠は、抑制機能に影響を及ぼす脳腫瘍や神経系の疾患にかかっている男性について分かっている様々な例からも提示されている。

あるケースでは、バージニア州の40歳の教員が、それまで性的逸脱がなかったにもかかわらず、突然児童ポルノに興味を持ち始め、思春期前の義理の娘に性的行為をはたらいた罪で逮捕されている。

彼の判決の前夜、彼はひどい頭痛のため緊急治療室に行っている。そのときのMRIには、前頭葉の右側を圧迫している腫瘍が写っていた。

彼の担当医であるラッセル・スワードロウ医師によると、この腫瘍が取り除かれたことで、彼の強い関心は薄れたという。1年後彼はまた子どもに性的な関心を持つようになり、腫瘍を見ると、肥大していたことがわかった。

スワードロウ医師らは、この男性の子どもへの関心はむしろ昔からあったが、腫瘍ができたことでそれを自らの意志で抑制することができなくなったのだろうと話す。

なぜ一切法律を破ることのない小児性愛者がいるのかという疑問には、強い衝動の抑制がキーワードかもしれない。

欲望に対抗する

臨床医の多くは、小児性愛者の性的指向を変えることが不可能であると既に考えており、許されない欲望をどう抑制するかを指導することの方が好ましいと考えている。

専門家によると、成人にも強い関心を持っている小児性愛者は合法に性的欲望の一部を満たすことが可能であるため、継続してトラブルを避けることができる可能性が最も高い。そうでない場合は、性的衝動を抑えるホルモン注射が推奨されている。

しかしほとんどの小児性愛者は、逮捕されるまで誰にも気づかれない。

そういった状況を打破するために、ドイツの性研究者らは、2005年に変わったメディアキャンペーンを行った。

「あなたの性的欲望が罪なのではありません。でもあなたは、どういう性的行動をとるかについて責任があるのです」——こんな広告看板を出し、ベルリン性科学・性医療研究所への相談を募った。「対処法はあるのです!犯罪者にならないで!」

これはプロジェクト・ダンケルフェルド(英語でダーク・フィールド)と呼ばれ、紙面、テレビ、ネットの広告に反応した男性は1700名を越えた。8月には、衝動をコントロールする方法を指導する1年間のプログラムを終えた人々が80人になった。ホルモン注射を受けた者もいる。リスク要素の分析によると、予約待ちの人々と比べ、治療を受けた人々は子どもに性的行為をする可能性が低いと考えられている。

ドイツの研究者らは患者との守秘義務を約束している。研究所で査定された人々のうち半数が、既に子どもへの性的行為の経験がある。

このプログラムは多くの研究者に賞賛されたが、しかし子どもが傷つけられた可能性や傷つけられる可能性があることを知った臨床医や他の人々に当局への報告を義務づけている米国などの国では、同じプログラムは実施できない。

また、小児性愛を日陰から出そうとする草の根の動きもある。ブリティッシュ・コロンビアの心理学者アントン・シュヴァイコファーは最近、自身の患者の一人をヴァーチュアス・ペドファイルズ(Virtuous Pedophiles)に紹介したという。この団体は、欲望を行動に移したことがなく、これからもしたくないと思っている男性たちのためのオンラインの支援団体だ。

「問題を起こしたくない、その一心です」とその患者は語る。この工場労働者は、匿名であることを条件に取材に応じてくれた。「誰のことも傷つけたくないのです」

恥ずべき秘密を持つことは、多くの小児性愛者にとって、人生の重要な側面であり続ける。

10代の後半、クリスティアーノは体育を教えることになり、合計で何百もの女子を指導した。彼は職場で一切食べ物を食べず空腹状態にしておくことで、性的な感情から気をそらすことにしていたという。

「一切手は滑らなかった」と彼は言う。「素敵だな、可愛いなと思う学生はいた。自分の理想の世界だったら、彼女らをさらって、以後幸せに生きる、なんてことが可能な環境だった」

しかしこの世界においては、彼は3度も自殺を試みている。

1999年、ポルノを注文したとき、連邦おとり捜査にかかってしまった。刑務所に行くことはなかったが、イリノイの性犯罪者リストに永遠に名前が載ってしまった。

有望なダンスの振り付け師としてシカゴのメディアで賞賛されていたクリスティアーノは現在、失業手当、両親からの支援、そして低賃金の複数の仕事で生きている。罪があるため、これまで何度もアパートや仕事を失って来た。

「ペドゴミ野郎 PEDO PIECE OF GARBAGE」という言葉が、ある活動団体が彼のケースをオンラインに掲載したあとに彼に届いてメールに書いてあった。

彼の母、ジェニファー・クリスティアーノは、記憶の限りずっと前から彼は他の男の子と違っていたと言う。ちょっと変で、独創的で、演技(訳者注:ダンスのことだろうと思われる)をするのが好きで、クラスの女の子たちを熱愛していたのだそうだ。

「どんな思いか、言葉ではあらわせません」と彼女は語る。「あの子は私の唯一の子どもです。そして彼は一生本当に幸せにはなれない。彼は一生、本当に愛する人、彼のことを愛してくれる人と、一緒になることが出来ないんです」

alan.zarembo@latimes.com

(訳者 マサキチトセ masaki@gimmeaqueereye.org)

アムネスティ・インターナショナルのセックスワークに関する文書を日本語訳しました

この文章は、アムネスティ・インターナショナルからリークされ、インターネットにアップロードされている文書を、マサキチトセが日本語に翻訳したものです。

翻訳の質は非常に悪く、日本語の文法や慣習的な言い回しに適切に変換できていないところもあります。また、訳者の力不足で必ずしも意味が明確に読み取れない部分があり、「訳者注」をつける、あるいは英語のオリジナルのフレーズや単語を付記してある部分があります。

論文や、公開の文章等に引用することは控えてください。また、リークされた文書ですので、オリジナルが今後インターネットに残らない可能性もあります。更に、強い要求を受けた場合、この日本語訳をサーバから削除する可能性もあります。あらかじめご了承ください。

以下の画像、もしくはここをクリックすると、日本語訳のPDFファイルが開きます。

オリジナルの文書(英語)
http://www.scribd.com/doc/202126121/Amnesty-Prostitution-Policy-document
これは、以下のサイト経由で見つけたものです。
http://abolishprostitutionnow.wordpress.com/2014/01/30/template-organisational-letter/

社会運動の優先順位——金明秀(きむ・みょんす)さんへの返答として

「差別・ヘイトスピーチの定義付けと、それらに含まれない発言の暴力性について」 http://togetter.com/li/610794 にまとめられている冒頭のツイートに端を発して、金明秀さん @han_org が主張されたことに対して返答します。

黒字が金さんのご主張、赤字が私からの返答となります。なお、黒字部分については https://twitter.com/cmasak/status/418605513283092480 において金さんに事前に確認を試みましたが、現段階ではご返答を頂けていないため、あくまで私が思う金さんの主張ということになります。

※2014.1.4追記:上の Togetter まとめの冒頭にて私がるまたんさんの発言を画像にて引用していますが、これについては不適切な例示であったことを謝罪します。るまたんさんは「変更不可能(または困難)な属性」と言っていますが、私はそれを拡大解釈、あるいは他の人の発言と混同していました。他の人の発言とは、例えば『「死ね」はヘイトスピーチか』という文章で、「自ら能動的に変えることが不可能な、あるいは困難な特質」と両者が併記された引用をしつつ、地の文では一貫して「不可能」が基準とされていることや、こちらのツイートで、「ヘイトスピーチの定義」が「『変更不可能な属性』に対し憎悪、差別を扇動する言葉」とされていることなどです。これらの発言とるまさんさんの発言を混同したことは私の誤りです。

被差別属性の腑分けと優先順位について

  1. 先天的・後天的属性は、どちらも差別の根拠としては認められない。
    これには同意します。
  2. しかし先天的属性に注目を集めることは以下の点で正当化しうる。
    • (a) 先天的属性に基づいた差別、特に在日外国人差別を直感的に理解してもらいやすい
      直感的に理解してもらいにくい差別を受けている人々のことは後回しで構わない、というのは、そういう人たちが自らそのように「お先にどうぞ」と言っているのですか? そうでないなら、どうして、先天的属性とされている民族マイノリティである金さんが(つまり、先天的属性に注目を集めることで被差別の状況を理解してもらいやすくなるであろう金さんが)他人のことについて「構わない」という判断ができるのでしょうか?
    • (b) そもそも有力な言説ではないので杞憂だ
    • (c) 後天的被差別属性を持つマイノリティを排除するためではなく、「現に生じている被害を可能な限り速やかに食い止めるために争点を限定して国会を通すことを優先」するという、「一つの合理的なスタンス」である
      有力な言説ではないのであれば、「現に生じている被害を可能な限り速やかに食い止める」こともできないのではないでしょうか。また、後天的被差別属性を持つマイノリティの身に「現に生じている被害」を(少なくとも短期的には)放置することを、誰がどうやって「合理的」であると判断できるのですか?
  3. 後天的被差別属性を持つ人についても、先天的被差別属性に関するヘイトスピーチ規制の法制化が実現したあとであれば、拡大的に対応していける
    その順番でも構わないという判断は、その順番で運動を進めることで比較的デメリットを被る人たち(後天的被差別属性を持つマイノリティ)によるべきです。後天的被差別属性を持つマイノリティからそのような表明が(少なくともある程度)出ているわけではない状況で、勝手に優先順位を設定することは、マイノリティ同士の連帯を分断する機能すら持ち得ます。

法規制について

  1. 問題はあれど、セクハラやGIDに関する法制化は結果的に大きなメリットをもたらした。法の救済対象から排除された人も、少なからず恩恵を受けている。
    男女雇用機会均等法、および性同一性障害者の性別の取扱の特例に関する法律(いわゆる「特例法」)について、そこから排除されたり、対象とならなかったためにデメリットを被っている人たち、あるいは法制化にともなう社会的言説の変化によって割を食った人たちが、過去を振り返って事後的にそのような評価をすることはあるでしょう。しかしそれは、(A)ジェンダー表現やアイデンティティの点で差別を受けているわけではない人や、セクハラを受けやすい「女性」や「性的少数者」でもない人によって代弁されるべき主張ではありませんし、当事者であっても評価は丁寧に、どのようなメリットが誰にあり、どのようなデメリットが誰にあるのかなどちゃんと論じるべきです。また、(B)事後的なポジティブな評価が可能だということが必ずしも事前の正当化も可能であるということにはなりません。
  2. 法は修正が可能。100点中60点のものでも、まずは「成案を優先すべき」。
    残りの40点の側に追いやられるマイノリティについては後回しで構わないという判断は、恣意的なものです。これを合理的に(少なくとも事前に)正当化する論理があるなら、誰もそれを示すことができていません。
  3. ただし成案はほぼ無理だろう。何年後になるか分からないが準備を進めているのが現状。メリットと弊害を両方見ながら60点を目指し、具体的な被害の解消を目指す。
    メリットと弊害を両方見ながら妥協点を探すことは重要なことです。しかし、60点の側と40点の側に恣意的に分け、前者を「具体的な被害」や「現に生じている被害」を受けている人たちとして強調することは、後者に追いやられ、後回しにされるマイノリティの被差別の状況を軽んじ、矮小化する効果を持ちます。メリットと弊害を両方見ながら妥協点を探すことは、マイノリティの分断をしないと不可能なことなのでしょうか? 様々なマイノリティの声が(批判や反対意見を含め)集まることで、それを目指す、という方法もあるはずです。また、成案がほぼ無理なのであれば、成案するまでのあいだずっと何年も何十年も「40点の側」のマイノリティは後回しにされ続けることになります。繰り返しになりますが、それを事前に正当化する論理は、誰からも示されていません。むしろ、成案が短期的には不可能であるからこそ(=成案を求める運動がシンボリックな機能を多く持つからこそ)、国会を通すことだけを最優先してマイノリティ同士を何年も何十年も分断し続けるのではなく、マイノリティ同士の連帯を模索するべきだと私は思っています。今年にも成案しそうなのであれば、私も「成案してから拡大してゆく」という方針に全く反対というわけではありません。今年であれば安倍政権なので、叩き台としてもろくなものが出来るとは思えませんが。
  4. 運動にゴールがないと長続きしない。
    世の中には様々な社会運動があり、ピアサポートや相談事業、啓蒙、支援など、多くの運動が、短期的なゴールを持っていません。長期的なビジョンはあるでしょうけれど、対症療法的な運動もたくさんあります。そしてそれらは、法律の成立や改正、行政制度の改革などの分かりやすい変化と伴って、私たちマイノリティの生活に大きく貢献しています。逆に、法律や行政などの改革を狙う運動が、マイノリティの生活を脅かしている例すらあります(現在世界的に見ても最も顕著な例は、セックスワーカーが苦しめられている反人身売買の運動です)。ゴールを設定してそのために合理的に動くことは、運動の担い手にとっては確かに有効な局面があるでしょうし、それが全くない運動は破綻しやすいかもしれませんが、全ての社会運動が明確なゴールを設定して、そのゴールのために不必要なことを削ぎ落とすべきだと考えるのは、とても危険な考え方だと私は思っています。
  5. 批判はいいが、反対はよくない。
    「ヘイトスピーチ」規制法を成立させることに反対してはいけないということでしょうか? 全員が賛成したうえで、規制法ありきの建設的な批判のみ発するのならOKと?

マサキチトセの主張の解釈について

  1. 「ヘイトスピーチ以外の言語行為の悪質性」と「ヘイトスピーチ」では、前者は既に法で禁じられている。だから後者を法的な問題とすべく動いているのだから、後者だけでなく前者もというマサキの主張は逆転している。
    現状認識が金さんと私では異なっているようです。現にネットの様々な場所で、「ヘイトスピーチでない悪質な言語行為は、ヘイトスピーチでないからOKだ」という主張がされています。今回の私の最初のツイートは、そのような文脈に乗っています。一方で、そもそも、悪質な言語行為を既に禁じられている法律が望ましい運用をされているかどうか、疑問です。追記2014.1.5:例としては、「『死ね』はヘイトスピーチではない」?にまとめられている VENOMIST666 さんの発言群です。念のために先に言っておきますが、ここでの具体例としての「ヘサヨ死ね」がヘイトスピーチにあたるかどうかとは別のレベルの問題として、「ヘイトスピーチ」でない「暴言」を言うことが(法的にダメかどうかは裁判所に判断させるとして)本人の行動指針としてはOKらしいこと、特に「ヘイトスピーチでないから」ということを強調していることが、問題です。この他にも数件、違う人からの同様の発言をFacebookで見た記憶がありますが、探し出せなかったので、「様々な場所で」の部分は(どうしても私のことが信用できなければ)読み飛ばして頂いて結構です。
    また、このツイートこのツイートでは、私が、木野さんという人の発言を「後天的な要素に対しては攻撃してよい」と曲解したことになっていますが、木野さんの文章には、明確に「『ヘイトスピーチには該当しないが、許されない暴言』など、いくらでも考えられる」と書いてあります(「後天的な要素に対して」の「攻撃」も含んでのご発言と思います)。それは私も読んでいて、その通りだと同意しています。そもそも私は、木野さんの文章を「ヘイトスピーチでない悪質な言語行為は、ヘイトスピーチでないからOKだ」という主張の例として出していません。また、私が批判している「ヘイトスピーチでない悪質な言語行為は、ヘイトスピーチでないからOKだ」という主張は、「後天的な要素に対しては攻撃してよい」という(私が批判している対象だと金さんが考えている)主張とは異なります。後者のような考えはもちろんダメですが、そのような発言が昨今の反レイシズム運動の中で出されているとはさすがに思いませんし、ゆえに、私もそんな藁人形を批判してはいません。私が批判しているメインのことは「ヘイトスピーチの定義を限定的にすること」であり、それと相まって「ヘイトスピーチでない悪質な言語行為は、ヘイトスピーチでないからOKだ」という主張があることによって、ヘイトスピーチを受けていてもそれをヘイトスピーチと認められず、具体的な被害を看過されてしまうマイノリティの存在を容認してしまうことです。
  2. ヘイトスピーチなどの国家的規制に恐怖を感じるのは、日本国籍を持っていて、自分はヘイトスピーチの被害を受けていないマサキの特権である。
    ヘイトスピーチの問題を国籍や民族の問題だけに限定しないでください。確かに現在の日本語における言説は、強烈に民族差別的なものに傾いています。しかしだからといって、生活保護受給者への差別的な取扱いを見ても分かる通り、他の差別がなくなったわけでも、緩やかになったわけでもありません。また、民族差別や国籍による差別もまた、私の身の回りで日々大きな問題として存在しています。私は日本国籍保持者でかつ「日本人」として認識されている時点で大きな特権を持っていますが、金さんもまた、他の様々な点で特権を持っています。自らがマジョリティであるような差別について矮小化したり、自分とは異なる種類のマイノリティの声を勝手に代弁したり、優先順位を勝手に正当化するのはやめてください。私は、民族差別や国籍による差別への対処を後回しにしろと言っているのではありません。他の差別への対処を後回しにする権利は誰にもないという話をしているのです。追記2014.1.5:↑この部分について、このツイートで金さんは「朝鮮人だけが被害者面するなよ、ということだ」とまとめています。しかし、差別被害を受けているマイノリティはまぎれもなく「被害者」であり、「被害者面」をする権利が全てのマイノリティにあります(「被害者ではない!被害者扱いするな!」と言う権利も当然ありますが、それは別の話として)。私が問題としているのは、国籍や民族以外の点で具体的な差別被害を受けているマイノリティの被害を、国籍や民族の点で具体的な差別被害を受けているマイノリティの被害と比較したり、矮小化することです。私の話しているような内容は「抽象的」「空論」だという指摘もありました。確かに在日コリアンに対する差別は、行動保守がネット利用に積極的なこともあり、そこら中に散見されるものです。しかし、国籍・民族マイノリティ以外のマイノリティや複合差別のマイノリティもまた「具体的な被害」を受けているということは、紛れもない事実です。全てのマイノリティが「被害者面」する権利を持っているのではないでしょうか。
  3. ①セクマイを運動から排除するな ②法規制には恐怖 ③だから法規制の運動に反対 というマサキの主張は矛盾している。
    この3つの流れは、私の主張していることではありません。順番に説明しますが、まず「セクマイを運動から排除するな」という主張はしていません。そもそも昨今の反レイシズム運動において「セクマイ」は排除されていません。むしろ積極的に利用されていると認識しています。それは、具体的な「セクマイ」属性の人間が参加しているという事実があり、それがとりあえず歓迎されているということです。一方私が主張したのは、「ヘイトスピーチ」の定義から後天的被差別属性を排除するなということです。これらは全く異なるレベルの話ですので、混同しないでください。金さんはこれまでも私が何かを主張すると勝手に「セクマイの話」にしたがる傾向がありましたが、私がクィア系の言論をやっているからといって常に「セクマイ」の話をしていると決めつけるのは、あまりいい気分ではありません。また、運動に「セクマイ」属性の人間が参加していることと、視点としての「クィア」が含まれているかどうかは、これもまた全く別のレベルの話となります(「生活保護とクィア」 http://synodos.jp/society/4252という記事で、クィアという言葉の歴史に軽く触れています。そちらも参考にしてください)。次に、法規制に恐怖を感じるということですが、これは私の主張です。しかし、「だから」というような短絡的な論理で現在はじまっている法規制の運動に反対しているわけではありません。つまり、2つめの主張だけが私の発言を正確にあらわしていることになります。

    それでも、後天的被差別属性を「ヘイトスピーチ」の定義から排除するなという私の主張は、ヘイトスピーチ規制法の成立を求める運動に賛同しないという私の立場とは矛盾しているじゃないか、と思われるかもしれません。もしそう思うのであれば、やはり、金さんの社会運動観は法的なものや行政的なものに偏っているということなのではないかと思います。「ヘイトスピーチ」の法制化の動きは、それの担い手の意図とは別に、単なる法制化だけではなく、「ヘイトスピーチ」という概念を世に広める働きもしています。ある言語行為がヘイトスピーチであるということは、それが違法だろうが合法だろうが、事実として認定可能です。もちろん、強烈なヘイトスピーチはマイノリティの心身や生活を脅かし、到底許されるものではありません。しかし同時に、合法だろうが違法だろうがヘイトスピーチは容認しない、という社会を作ることも可能であり、私はそのような社会を作って行きたいと考えています(それこそが民族差別の「後回し」化だと思われるかもしれませんが、私が求めているのは後回しではなくマイノリティの連帯です)。そしてそういった社会の形成において、「ヘイトスピーチ」が限定的なマイノリティしか対象としない概念として世に広まることは、非常に危険でもあります。「それは自己責任だからヘイトスピーチじゃないでしょ」と言われ続けるマイノリティが生まれることになります。つまり、現在先天的被差別属性に限定してヘイトスピーチの定義を流布させようとしている人たちは、その優先順位の設定において、法的にだけでなく、社会文化的にもそのようなマイノリティの尊厳を後回しにしていることになります。私は、法規制に「セクマイを入れてくれ」なんて言っていません。そもそもいわゆる「セクマイ」の最近流行の言説は「Born This Way」ですし(私はこれが大嫌いですが)、規制を求める運動においても先天的属性として「性的指向」や「性別」を含んだ定義を使っている人が多いです。含めるべきだと私が主張しているのは、「後天的被差別属性」を「ヘイトスピーチ(という言葉・概念)」に、です。
  4. 周到にヘイトクライムに対抗する方法を考えようという動きを、安易に行おうとしているとマサキは決めつけている。
    周到に行おうとしているように見えないというのが正直な感想です。ヘイトスピーチの問題の根幹に「先天的被差別属性かどうか」という基準があるという(私からしたら間違っている)主張を得意げに表明し、他者の意見を排除するような人ばかりが目立つ現状があります。周到に行うためには、そのような態度こそ足かせになるのではないでしょうか。

追記

金さんから、以下のようなレスポンスを頂戴しました。「ぼくは間違っていたなと思うところが何一つなかった」という発言、そして数年前にツイッターで出会って以来の一貫した上から目線には、正直感銘を受けました。今後も他人を見下して生きて行くのでしょう。金さんの話の通じなさには脱力させられっぱなしですし、金さんと個人間での連帯というのは不可能だと思いますが、私は今後も身の回りにいる様々な民族の、様々なセクシュアリティの、様々な障害を持ち、様々な経済的状況にいる、様々な性別の人たちとの連帯を模索し続けます。

更に追記

以下、更に金さんは恐らく私からの応答について書いていらっしゃいます。「前件否認」とありますが、現在「ヘイトスピーチは先天的被差別属性に基づくものに限る。それ以外はヘイトスピーチではない」という非常に強い主張をしている人が複数いて、そのような言説が昨今の反レイシズム運動において少しずつ覇権的になってきているという事実こそが、金さんによって否認されているかのように見えます。先天的被差別属性に基づく悪質な言語使用(A)をヘイトスピーチ(B)と呼ぶことは、「AがBに含まれる」という弱い主張でしょうから、問題はないと私も思います。ただ、現状で「BはAに限る」という主張が出てきており、覇権的になりつつあるという事実があります。そして、それは端的に誤りであると私は考えているし、それを正当化する論理は誰からも出されていないと認識しています。

また「『在特会のような歪んだ主張』に直接さらされていないと、その深刻さは理解されないようです」という主張は、深刻なヘイトスピーチは在特会がしているような民族的ヘイトスピーチのみである、あるいは最も抜きん出て深刻なのはそれだけである、という前提があるように思われます。民族的ヘイトスピーチが現在の日本語の言語空間において深刻なことはまぎれもない事実ですが、他のどんなヘイトスピーチよりも深刻であり、他にどんなヘイトスピーチを受けていても民族的ヘイトスピーチを受けたことがなければヘイトスピーチの問題について理解することなどできないというのは、断定するには強すぎる主張です。

また、

人種・民族的マイノリティの差別に固有の要素を告発するための訴えが、別のマイノリティの差別を告発するための役に立たないからといって、「われわれの問題を後回しにするのか」というのは、端的にいって、間違ってる

という発言には、正直とても驚きました。「新たな発見」です。「感銘」を受けました。「ヘイトスピーチ」の話をしていると思っていたのですが、まさか、まさか「民族的ヘイトスピーチ」だけの話をしていただなんて! 「ヘイトスピーチ」を先天的被差別属性に限定しようとしてる人たちは、「ヘイトスピーチ」という概念自体の定義を先天的被差別属性に限定しようとしています。そういった限定的な意味を持つものとして「ヘイトスピーチ」概念を広めようとしているからこそ、問題だと私は思ったのです。「民族的ヘイトスピーチ」に焦点を当てて、「ヘイトスピーチ」という、より大きなカテゴリーの話ではないということを明確にしながら「民族的ヘイトスピーチ」を問題化したり、それについて語ることには、私は問題を感じません。

「民族的ヘイトスピーチ」というヘイトスピーチの1つの形にのみ限定して運動している人に対して、「他のヘイトスピーチは後回しにするのか」なんて言う発想は、私にもありません。いわゆる「カウンター」的な反レイシズム運動は、「反差別」や「反ヘイトスピーチ」を標榜しているわけで、まさか「ヘイトスピーチ」と言った時に「民族的ヘイトスピーチ」の話だけをしているだなんて、思ってもいませんでした。であれば今すぐに「反差別」や「反ヘイトスピーチ」という言葉を取り下げて欲しいですし、「セクマイ」だの「LGBT」だのを多様性を構成・担保するために利用するのもいい加減にして欲しいです。

追記 2014.1.4

追記1

るまたんさんの発言を不適切に引用した件について、謝罪します。詳細は、冒頭に追記として書きましたのでそちらをご参照下さい。

追記2

こちらのツイート

で私の主張がまとめられていますが、元の発言はこちらのツイート

であり、「ホームレスへの罵倒、後天的に障害を持った人への罵倒、職業差別的な言動、バイセクシュアルへの罵倒がカバーされないから」批判していると解釈するのは、単なる例示を拡大解釈していると思います。この他にも、いま思いつく限りでは例えば受刑者や元受刑者、犯罪容疑者なども含まれるでしょう。他にもあるかもしれません。

追記3

こちらのツイート


で私の批判の一部として金さんが「ついでに」挙げている事柄は私が主張していることとは全く異なりますので、このブログを読んでくださっている皆さんにはご理解頂きたいです。恐らく他の人の発言と混同しているのでしょうし、私も今回同じ過ちをおかしているので責める気はありませんが、こちらのツイート

で申し上げた通り、「ヘサヨ死ね」という発言がヘイトスピーチにあたるかどうか、私は判断を保留しています。よって、「ヘサヨ死ね」をヘイトスピーチと認定しないとする主張自体を、その理由によって批判しているわけではありません。「ヘサヨ死ね」をヘイトスピーチと認定しない根拠として、「ヘイトスピーチの定義」は「『変更不可能な属性』に対し憎悪、差別を煽動する言葉」だから、という主張をしている人がいるので、批判しているのです。

更に更に追記 2014.1.4 2回目

はてなブックマークコメントにて、以下のようなコメントを頂きました。(引用文ママ)

現在が赤点ならまず及第点を目指すのは普通だと思うな。100点以外は0に等しい、ら結局、やらない言い訳に使われるだろう。

及第点を目指すことそれ自体は、私も現実的だと思います。常に100点だけを目指し、それ以下を認めないような社会運動は、破綻すると私も思います。一方、私がこの記事で問題化しているのは、その及第点——例えば60点——をどのようにして絞るのかということです。例えば数学であれば三角比と二次関数の両方を勉強し、その上でそのどちらもを使うような三角関数というものも勉強します。そこで、バランスよく勉強して60点を取るのと、三角比だけを勉強して60点を取るのでは(三角比だけで6割取れるテストはあんまりないでしょうけれども、例えばの話です)、数学の理解という点ではだいぶ意味が違ってきます。それでも、数学のテストであれば、「数学の理解」に価値を置かず、及第点を確保する戦略として三角比に力を入れるのは個人の自由です。一方、差別に対抗する、ヘイトスピーチに対抗するという局面においては、放置される「二次関数」や、それを踏まえた「三角関数」は、単なる分野ではなく、具体的な人、具体的なマイノリティです。私は、60点をまず獲得することを問題視しているのではなく、一部の分野だけに特化して60点を獲得しよう(他の分野は、まず三角比で成果を出してからでいいや)という判断が恣意的であることを問題視しています。

再度、追記 2014.1.24

ヘイトスピーチあかん!いつデモどこデモ歩き隊というサイトができたようです。カウンター系なのかどうか確証はありませんが、ここでは「ヘイトスピーチ」が「国籍や民族、性や性的指向、思想信仰、容姿など、多数派と異なる文化や属性を持つ人々に対して、憎しみの言葉で差別を扇動すること」と定義されており、意味が大きすぎるために法律などに落とし込む際には再度検討の必要がありそうではあるものの、言葉自体の意味としてはとても納得のいくものです。

不思議なのは、「男組」というカウンター系のグループがこのサイトのリンクをツイートし、「男組は、『ヘイトスピーチあかん!いつデモどこデモ歩き隊』による、1月26日(日) 神戸・三宮反レイシズムデモを全力で支持します!」と表明していることです。「歩き隊」のヘイトスピーチの定義だと、これまでの男組の言動もヘイトスピーチに該当することになりますが、それも含めて、「全力で支持」するということなのでしょうか。であれば今回のこの方向転換は反差別運動にとって好ましいものでありましょうし、今後自らのヘイトスピーチをどのように清算して行くのかが問われると思います。

再々度、追記 2014.1.24

コメントで針男さんが仰っている内容について、私がそれを「そのまま引き受け」たとする主張が出ていますが、私は具体的な内容について判断を保留しています。私の知る範囲の情報では、判断できません。正直、「そんなことはないだろう」と推測するための材料も、私の知る範囲では、存在しません。だからと言って、「そうなんですか。それはひどいですね」などと安易に針男さんの主張を受け入れることもしていません。それは一目瞭然のはずです。

「女も強く輝け」というプレッシャー パンテーンのCMにネットで賛否両論(ウートピ掲載記事)

11月9日に YouTube にアップロードされた動画が注目を集めている。日本でもおなじみP&Gの「パンテーン」がフィリピンで出したCM動画で、再生数は11月26日時点でなんと1,700万回を超えている。

「Labels Against Women」(女性に対するレッテル)と題されたこのCMは、同じことをしていても男性と女性で周囲からの捉えられ方が違うという、一種の性差別を表した内容となっており、物議をかもしている。

まずは動画の内容を紹介しよう。

【翻訳】「ENDA」(雇用差別禁止法)に「T」を入れること:私はトランスジェンダーの女性で、雇用を保障される権利がある

Parker Marrie Molloy(パーカー・マリイ・モロイ)が2013年11月8日に政治系ニュースサイトTPMに寄せた文章を、大雑把にだが翻訳した。内容の細かいところは私と全然意見が違うのだが、社会運動における「現実主義」が必ずしも短期的効果を持たないという事例として重要だと思い、ここに載せる。

本文

木曜の午後、性的指向および性自認を理由とした被雇用者差別を禁止する法案を可決したことで、上院は歴史を作った。驚くべきなのは、恐らくこの法律の後半部分だろう。なぜなら、トランスジェンダーの人々を雇用保護の対象に含むことは法案の死を意味すると考えていた民主党員がいたのは、そう遠くない2007年のことだったからだ。

まず、これまでの経緯を説明したい。連邦レベル(訳者注:米国全体)では、ある種の周縁化された集団に属する労働者への差別を防ぐための法律がいくつもある。たとえば、もしあなたが雇用者だとしたら、労働者の人種や肌の色、宗教、出身国、年齢、性別、市民権の有無、家族状況、障害、軍隊経験、妊娠しているかどうか、妊娠する可能性があるかどうか、そして遺伝的な特徴を理由に、彼ら彼女らを差別することはできない。

しかしこの雇用保護は、ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの人々を含んでいない。つまり、例えばアーカンソー州の男性がソーシャルメディアサイトに彼のパートナーとの写真を投稿したら、彼の雇用主は、彼の仕事外の性生活についての推測だけを理由に、彼を解雇することができるということだ。また、私を雇おうとする人は、正にこの記事を読んで、雇うかどうかを決めることができるということだ。なぜなら私は、トランスジェンダーの女性だから。

これは間違っている。私は、あなた——読者——と同様、自分の性別を自分で選んだりしていない。男性として人前に出ても平気だったらいいのにと思いはするが、それは無理な話だ。やってみたけど無理だったのだ。私の状況は、言ってみたら出生時に男性の性別を指定されてしまった女性、という感じだ。ゲイ男性も、ストレートの男性が女性に魅力を感じることを選んだわけではないのと同様、男性に魅力を感じることを自らの意志で選んだわけではない。自分で全くコントロールのできないことを理由に誰かを差別することは、冷血なことだし、個人的意思でコントロールできない他の様々な状況に関する現存の反差別法とも矛盾してしまう。人種、年齢、肌の色、出身国、性別、障害などは、そのどれも、それにあたる人たちが好き勝手選んだものではない。不平等な差別を防ぐために、法的な雇用保護が存在しているのだ。

私がトランスジェンダーの女性であることは、私が仕事をこなす能力に悪影響を及ぼすだろうか。そんなことはありえない。ではどうして、そんな理由で私の雇用主が私を解雇したり、そもそも雇うことを拒んだりできるようになっているのだろうか。雇用保護を私のような人間をも含むものにしようという法律を作ることに反対する声のうち、私が聞いた最も大きな声は、そんなことをしたら企業の宗教的自由が侵害されてしまうというものだった。私は聞きたい。あなたの宗教的文献のどこに、あなたが他者を差別する力を持つべきだと書いてあるというのか。私はカトリックとして育てられた。聖書は最初から最後まで何度も読んだし、そんな箇所が存在しないことにもかなりの確信がある。私が読んで目にしたのは、隣人を愛し、互いをいつくしましょうというごく一般的な感覚だ。私が学んだのは、誰かが罪を犯しても、そしてたとえ私たちがその罪自体を嫌悪するとしても、その在任を愛すべきであるということだ。私たちを拒絶することを奨励する宗教的な理由なんて本当は無いのだ。

もしあなたの宗教が、異なる人を疎外することをあなたに教えているとしても、あなたの宗教的自由は、私の持つ命や自由や幸福の追求の権利が始まるところで、終わる。私たちが生きている社会はは神権政治ではないし、私たちの法律は1つのスピリチュアルな教派の宗教的見解を根拠としてはいけない。だから、全ての市民を守るために、LGBTの人々を二級市民として扱うのは、もうやめるべきだ。人はすべて平等であるというトーマス・ジェファーソンの信条と合致するような法的なアクションが必要なのだ。

木曜に64対32で上院を可決した反雇用差別法(Employment Non-Discrimination Act [ENDA])は、LGBTの人々を雇用保護の対象にしようとするものだ。法案で示されたところによれば、カトリックであることを理由に雇用主が労働者を解雇できないのと同様に、同性愛者であることを理由に労働者を解雇することはできなくなる。雇用主は、アフリカ系アメリカ人であることを理由に労働者を解雇できないのと同様に、私がトランスジェンダー女性であることを理由に私を解雇することもできなくなる。この法律ができれば、雇用保護に関して、全ての米国の労働者が同等の権利を持つことになるのだ。

今週の前半、上院の多数派を束ねるハリー・リードが上院で ENDA を提案した際には、54名の全ての民主党員と7名の共和党員が、こういった差別を禁止することに賛成した。しかしこの勝利は短命の運命を背負っている。下院議長のジョン・ベイナーは既に、下院でこの法案に応じるつもりはないことを明らかにしている。

トランスジェンダーをこの法案に含めるということがどれだけ重大なことだったかを理解するためにも、法案の歴史を見ることには価値があるだろう。

前回 ENDA が真剣に検討されたのは2007年のことだった。民主党が両院ともを握っている状況だったにもかかわらず、 ENDA の投票は概して象徴的なものでしかなかった。当時の大統領ジョージ・W・ブッシュが、たとえ法案が可決されても大統領の拒否権を発動するという意思を示していたからだ。こうして、この法案が実現する希望は途絶えた。

こうした状況を知っていたのだから、下院での議論を、民主党とLGBT運動体が1つになり、全てのジェンダーマイノリティとセクシュアルマイノリティの権利に関する統一戦線をつくりだす契機とすることもできたのだ。悲しいことに、そうはならなかった。むしろ、それはゲイコミュニティとトランスコミュニティのあいだの断絶を拡大してしまったのだ。

1981年から2013年までマサチューセッツを代表していた元下院議員バーニー・フランクは、LGBT関連の国家的リーダーとして有名になった。1998年には National Stonewall Democrats (全国ストーンウォール民主党員の会)を創立し、2006年には同性愛に関する彼のスタンスが Human RIghts Campaign から「100%」と評価された。2009年には Out Magazine という雑誌の「Power 50(力のある50名)」というリストでトップにランクインしている。フランクが議員時代に同性愛関連の協力な支持者だったことには疑いない。「同性愛関連」というのは、しかし「LGBT関連」といつも同じ意味ではない。特にバーニー・フランクにとっては。

2007年4月、フランク議員は、シェイズ、ボルドウィン、プライスなど他の下院議員とともに ENDA 2007 を提案した。ENDA は13年前にも出されていたが、提案された2007年版の法案は、性自認を理由とする職場の差別に対する保護を含んでいた。それ以前の ENDA の法案はすべて、性的指向のみを保護対象としていたのだ。偶然にも、2007年にこの法案が提案された日は、私の21才の誕生日だった。法案がやっとトランスジェンダーを含むようになったのと、私が大人になったのは同時だった。

だがフランクは、その秋には ENDA を見送ってしまっていた。その理由は、トランスジェンダーの保護を含むことが法案の可決の可能性を下げてしまうという心配だった。そしてフランクは、トランスジェンダーの人々の保護を抜き取った別のバージョンを出してきたのだ。

National Gay and Lesbian Task Force という団体は、他の113の全国的なLGBT団体とともに、フランクの新しい法案に反対する書簡を出した。この書簡の署名に入っていなかったのが、 Human Rights Campaign である。 Human Rights Campaign はトランスジェンダーの保護が抜き取られた法案を支持し続けた団体の1つであった。

下院での投票が迫る中、元下院議員アンソニー・ワイナーは、恐らく彼の議員としての唯一のまじめな行動として、ENDA がトランスジェンダーを含むべきだとする熱のこもったスピーチをした。

「この会の内外で、性的指向が含まれているカテゴリーと同じところに性自認を含むべきかどうかが、まさにいま話し合われているが、私は明確に、『YES』と答える」と述べた。

スピーチでは更に、下院での投票が完全に象徴的な意味しか持たないこと(それは、トランスが含まれようと含まれなかろうと上院では絶対にこの法案は動かないということからも明らかだった)を考えたら、そもそも性自認を含まないようなことをやって何か意味があるだろうかと思案し、そんなことすべきではないという結論を述べた。「もし私たちが象徴的な立場を取るなら、その象徴的立場が意味すべきなのは、私たちが団結しているのだということ、私たちが『GLBT』と言った時に本当にそれを意味してるんだということでなければならない。」

2007年11月7日、ボルドウィンはフランクの法案に修正を加え、性自認に関しても保護を拡大するように努めたが、フランクや下院の上層部からの支持が無いことをうけ、投票前の午後5時8分には修正案を取り下げた。75分後、235対184で法案は下院を通過した。

予想通り、法案は上院にて否決され、委員会を出ることすらなかった。結局、フランク下院議員の現実主義(pragmatism)は法案の最終的な結果を左右するような影響を持たなかった。それどころか、LGBT の権利問題に携わる人々のコミュニティの分断を更に悪化させただけに終わったのだ。

現在、皮肉なことに議会はすっかり態度を逆にし、かつて不動だった上院がトランスジェンダーを含む法案を共和党員からの支持まで得つつ可決する一方で、下院はその法案を恐らく棚上げにするであろうと思われる。たとえ法律にならないにしても、2013年版の法案において上院がトランスジェンダーの包含について確固たる立場を取ったことを私は誇りに思う。これこそが、2007年に実現すべきだった統一戦線だったのだ。6年後の今年、ついにそれを手にすることができた。民主党が私の市民権をただの政治交渉の道具として見ていた時代が終わったことに、ほっとしている。

ENDA、あるいはそれと同じような法的効果を持つ法は、いずれ実現するだろう。それがいつになるかは、分からないが。反雇用差別のポリシーが抱える矛盾はいずれ是正されるだろう。ただし、そのためには私たちは一緒に行動しなければならない。選挙で選ばれた人たちにプレッシャーを与え続けなければならない。そして、連帯の中に居続けなければならないのだ。そうなるまでのあいだ、過半数の州において、私は私であるということだけで合法に解雇されてしまうのだ。

もし明日あなたがセックスワーカーになったら? 労働環境、相談所など、知っておきたいいくつかのこと(ウートピ掲載記事)

12月6日、「改正生活保護法」と「生活困窮者自立支援法」という法案が可決した。大雑把にまとめれば、今までとくらべて生活保護を申請し保護を受けることのハードルは高くなり(改正生活保護法)、「生活保護を受ける前に頑張って働け」と言われるようになる(生活困窮者自立支援法)。

特に女性は6割近くが非正規雇用であり、非正規雇用全体の7割を占めている。シングルファザーの5倍いるとされているシングルマザーの収入は、シングルファザーの約半分しかない。世帯全体の収入で見ても、シングルファザーの年間平均収入が455万円なのに対し、シングルマザーは291万円となっている。

生活保護の運用が更に厳しくなり、雇用がどんどん不安定になっている現代において、もしあなたがどうしてもお金を稼がなくてはいけなくなったとしたら…? そんなとき、現実的な選択肢になるかもしれない「セックスワーク」について知っておくことは大切なことだ。

「セックスワーク」とは?

セックスワークとは、直訳すると「性労働」、つまり性的な行為やサービスを売る産業で働くことだ。これには、いわゆる「風俗」、アダルトビデオなどへの出演、ストリップなどのパフォーマンス、性的交流を目的としたチャットや動画配信なども含まれる。風俗にも、いわゆる「本番」(性器挿入)を含むかどうか、店舗型か出張型かなどのサービス内容の違いに加え、SMプレイやコスプレなど嗜好に合わせた様々な種類があり、更にニューハーフによるサービスに特化したものや、男性客を男性が接客するものもある。

「LGBTではないフツーのひと」に かんがえてほしい10のこと

プライドパレードで手書きのプラカードを持つマサキ。プラカードには "IMMIGRANTS ≠ YOUR HOMOPHOBIC OTHER" とある。

「漢字仮名交じり文」に慣れている人への情報保障のために、「漢字仮名交じり文」に書き換えたものも用意しました。ひらがなの文章を読むのが困難な人は、以下のURLから漢字仮名交じり文バージョンにアクセスしてください。
http://ja.gimmeaqueereye.org/10-things-kanji


「……な10のこと」みたいなの、ハヤリが おわったら つかえないので いまのうちに びんじょーしておこうかと おもいまして。うふ。

「LGBTでわないフツーのひと」とゆー いいかたわ、カギカッコおつけているとーり、しょーじき あまり わたしわ つかいたくない いいかたです。でも、じぶんのことお「LGBTでわないフツーのひと」と おもっているひとに、とくに かんがえてほしいことが いくつか あります。また、いちばん さいごにも かきましたが、じぶんのことお「LGBT」と おもってるひとにも、よんでほしいと おもっています。
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