「永遠の愛を誓いません」と言える特権

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

Facebook と Twitter をダラダラと眺めていたら、ニューヨーク・タイムズ紙の『Gay Couples, Choosing to Say ‘I Don’t’』、つまり(誓いますかという問いかけに対し)「誓いません」と言うことを選択する同性カップルたち、というタイトルの記事を見つけた。婚姻制度に反対している私は当然のごとくまずタイトルに目を奪われたし、他の同じような考えの人たちも反婚の意見が主流派メディアでようやく紹介され始めたことを喜ばしく思いながら Facebook や Twitter でリンクをシェアしているようだった。すげえじゃんと思って記事を読んでみると、とてもがっかりすることになった。その理由とは、記事のエリート主義的な物言いだった(大変予想外)。

誰の現実か

記事は、レズビアンやゲイ、トランスジェンダーの人たちの色々な反婚の声を捉えているし、私自身同意するものがたくさんあった。説得力もあるし、現実に即した話をしていると感じた。しかし、その現実って誰の現実なのだろうかとも思った。

記事で紹介されている「声」は、以下のような人たちの声だ。レストラン所有者 (Brian Blatz と Dan Davis)、ニューヨークのアーティスト (Sean Fader)、ブルックリン在住のカップル (Stephanie Schroeder と Lisa Haas)、現もしくは元大学教授 (Jack Halberstam とそのパートナー、 Catharine Stimpson、 John D’Emilio、 Mary Bernstein)、引退した高齢者 (Jim Oleson)、映画製作者 (John Waters)、シンガー・ソングライター (Erin McKeown)、イーストヴィレッジ在住者 (John Carroll)、ニューヨーク医大の学生 (Eric Routen)、そしてプロフィールの明かされていない2名。

ブルックリンのカップルと芸術関係者以外、記事中で引用されていたり言及されている人たちはクィア人口全体のうち裕福な側にいる人たちだ。Queers for Economic Justice のような団体が労働者階級やホームレスの人々と深いつながりを持って行ってきた膨大な活動を念頭にこの記事を読むと、記事が社会経済的な驚くべき偏りを持っていることがわかる。

私は必要ないけど、あなたは必要かもね

記事中私が最も衝撃を受けたのは、おそらく、婚姻制度を必要としている人々に対する共感、あるいは関心が、インタビューを受けた人たちからも編集者からも感じられないということだった。

John D’Emilio は結婚する「必要性が感じられない “sees no need”」と言う。Brian Blatz と Dan Davis は、結婚する「意義がよく分からない “little point in marrying”」と言う。Jack Halberstam は「結婚せよという圧力を感じない “I don’t feel the pressure”」と言うし、Mary Bernstein と Nancy Naples は「結婚することに明確なメリットが見えない “see little tangible benefit in marrying”」と言う。

家族の中、地域の中、友人関係の中で結婚と離婚を何度も見てきた私は、人々が様々な理由で結婚を選ぶということ、そして彼ら彼女らの頭の中では膨大な量のリスク管理が行われていることを実感を持って知っている。そして多くの人にとっては、結婚にはそれなりの「必要性」「メリット」「意義」があるのだし、それは Mary Bernstein が記事中引用で言っているような「(結婚したいと思う人は)外部からの承認を求めている」というだけのことではなく、もっと複雑なことなのだ。

婚姻制度は、出入国管理や医療保険制度、社会保障制度などなど他の社会制度との共犯関係において、結婚することの「必要性」「メリット」「意義」を作り出すために存在している。結婚とは、政府主導のもとマイノリティーを対象として売り出されているパッケージ商品であり、それは政府の他の制度の欠陥や失敗を覆い隠し、維持し、それらの欠陥制度の根本的変革(それには大層お金がかかる)を阻止する機能を持っている。

記事で Stephanie Schroeder は、「誰かの婚姻する権利を否定したいわけではない」と言っているが、そもそも婚姻とは、単なる個人的選択の問題ではないし、これまでもそうではなかった。Catharine Stimpson の言う「選択があるということは、それを選択しなければならないということではない」という言葉とは反対に、実際、結婚する選択肢があることは私たちや私たちの周囲の人間に結婚しなければいけないというプレッシャーを与えている。

要するに、もろもろの社会制度によって重層的に疎外・周縁化(「普通ではない」とされて異端視されたり権利を奪われたりすること)されている度合いが高ければ高いほど、その人は結婚に「意義」を見出しやすくなるだろう。婚姻制度においては、最も特権を持っているのは既婚者でも異性愛者でもなく、結婚しても離婚しても特に大きなメリットもデメリットもなく、よって好きな時に結婚も離婚も選択できる人たちである

インタビューをされている人たちは結婚する「必要性」「メリット」「意義」「圧力」を感じないと言っているが、それ自体が特権、つまり「永遠の愛を誓いません」と言える特権である。理解できないのは、この人たちは平等とか解放とかそういうことを支持しているだろうに、この特権に関して一切恥じていたり謙虚になろうとしている様子がうかがえないことだ。

John Waters は記事内引用で、「同性愛者であることのメリットってのは、結婚しないで済むということだと前から思ってた」と言っている。私も婚姻に関してはある程度この意見に同意するが、しかしその結婚しないで済むという特権を大切にしたり守るのではなく、この考え方を実際に推し進めて、現在その特権を持っていない人たちも同じ特権(それは特権ではなく権利になるが)を手に入れられるよう配分しなければならないだろう。

繰り返すが、婚姻は個人的選択の問題ではない。婚姻制度、あるいは少なくとも現在私たちが知っている形での婚姻制度は、撤廃しなくてはならない。その意味はつまり、結婚する「必要性」「メリット」「意義」を作り出している現在の社会制度全体を撤廃することによって、婚姻が何の意味もなさなくなるようにするということだ。

クィア的反婚運動 対 LGBT的代替婚姻制度

もう1つ気づいたことがある。それは、上で述べたように記事中で紹介されている「声」が他の現実——つまり結婚する人たち、結婚することが可能な人たちの現実——を無視しているだけではなく、記事の全体的な論調から、フェミニズムの歴史を簡素化し、既婚者・離婚者を含むフェミニスト女性たちがフェミニズムにおいて担ってきた役割を消去しているような印象を受けたことだ。

Mary Bernstein は記事内引用で、以下のように述べている。

「60年代、70年代、80年代においては、LGBTの人たちは結婚なんかよりもうまくやれる、(慣習的な家族のあり方から外れたとき)恋愛関係はもっと平等なものにできる、というような感触があった」

私たちのクィア的反婚運動は、「非LGBTの人たちの異性間婚姻は慣習的で、LGBTの人たちよりも平等さに欠けている」という意識のもとに成り立っているのだろうか?

女性の権利については、既婚女性の権利もシングル女性の権利も関係なく、多くの女性が、それこそ既婚者かシングルかに関係なく戦ってきた。また、反婚を含むフェミニズムのこれまでの多くの運動は、莫大な人数の既婚女性によって作られたり手助けされてきていることも、私たちは知っている。

非慣習的な家族を取り巻く恋愛関係がより平等になるというのなら、そしてそれが結婚よりも素晴らしいものだとするならば、既婚カップルたちはその枠組みではどういう位置付けになるのだろうか。「外部からの承認を求めて」いたかつてのバカだろうか。それとも社会的な圧力に屈した弱い人間か。あるいは、記事中でインタビューされている人たちとは違い、社会において周縁化されていることによって、結婚する「必要性」「メリット」「意義」が発生してしまったアンラッキーな人たちだろうか。

いや、私たちの運動は、クィアな声と同時に、結婚できるという事実によって人生を大きく左右され得る異性愛者や両性愛者の声をも中心に据えないといけない。そしてそれは、移民、刑務所、貧困、性差別、障害、健康、加齢、税金、労働など私たちの生活に毎日影響を与えているものすべてを含めて、私たちが大規模な社会的変革を求めていくということだ。それは、クィアな人々だけのための運動ではない。シングルの人だけのための運動でもない。市民権と国籍を持った人たちだけのための運動でもない。そして、「誓いません」とドヤ顔で言うのを楽しみにしている人たちのための運動でもない。

この文章は、2013年10月28日に英語ブログ Gimme a queer eye if you have two にアップした『The Privilege To Say ‘I Don’t’』という文章の日本語訳です。

科学の世界は男性優位? 女性のからだを表紙に使ったサイエンス誌に米国下院議員が抗議(ウートピ掲載記事)

サイエンス誌の表紙画像(説明は本文にあり)

昨年、女性型ロボットが家事をしているイラストを表紙にした『人工知能』という学会誌に女性蔑視との批判が相次いだことは記憶に新しい。(参考記事:女性型ロボットがお掃除 「人工知能」表紙イラストが”女性蔑視”と話題に)

当時この問題をツイッターで拡散したとされるスプニツ子さんは「日本の性差別」の問題の大きさを指摘していたが、今度はアメリカ科学振興協会がやらかした。同協会が発行している『サイエンス』誌の表紙が、科学の世界から女性やマイノリティを排除するようなメッセージを持っていると批判を受けているのだ。

科学の「男の子集団」と、顔を消された女性たち

問題の表紙は、ジャカルタでセックスワーカーとして働く3人の女性たちの写真である。3人ともタイトなドレスを着て、ハイヒールを履いている。また、手前の2人の顔はトリミングされ、奥の女性の顔は学会誌タイトル『Science』の「S」で一部隠されている。米国下院議員ジャッキー・スピアーはこれを「首から上のない、性的に強調された有色人種女性の利用」であるとし、同協会に抗議の手紙を書いた。

ウートピに反人身取引運動の問題と代表的な活動家ソマリー・マムについての記事が掲載されました(6/10追記あり)

先日、ソマリー・マムさんが自身の財団を去ったというニュースが出ました。

ソマリー・マムさんといえば、二年前、国際基督教大学で開催されたワークショップにゲストスピーカーとして参加していました。私はこの少し前から anti-trafficking movement (反人身取引運動)の危険性について考えたり読んだりし始めていたので、ブログで他の人にも呼びかけて、ワークショップに参加しました。

その時の感想は Twitter と Facebook に書きました。感想というか怒りの表出だけなのでお恥ずかしいのですが、英語を読まれる方はよかったら Facebook にまとめたものをご覧ください。

日本語ではあまりマムさんの問題や反人身取引運動の問題を語っている人が多くないので(英語圏でもほとんどが賞賛の表明ばかりでしたが)、今回のマムさんの辞職騒動を受けて、何か書いた方がいいのかなと思っていたところ、なんとウートピから記事執筆依頼を頂きました! その時の私の反応は、

ウートピすげえなww ソマリーマムについての記事執筆依頼が来たよwww 異色メディアすぎるwww

というものでしたw (Facebook より)

早速取りかかってみたものの、1,500字程度という依頼なのに、第一稿は驚きの4,002字。削れないんですーToT と泣きついたら「前後編に分けましょう」という素晴らしいご提案を頂き、ほとんど文章をいじらず掲載して頂けました。

というわけで、『セレブな人権活動家ソマリー・マムの辞職騒動』前後編が無事ウートピに掲載されました。

タイトルと見出しは大幅に変更されているので、ちょっと自分でも恥ずかしいくらいゴシップ風なのですが、さっきも書いた通り内容はほぼ私の出した原稿の通りです。

脚注がひとつを残して削除されているので、情報のソースを知りたいという人は、以下のリストをご参照下さい。

追記 2014年6月10日

(この部分、文法エラーが多かったので、更に約19時10分に修正しました)

以前ソマリー・マムさんについて前のブログで書いたとき、「従軍慰安婦は元々売春婦だったから日本は何も悪くない」というネトウヨの論理と何が違うのか、という反応をツイッターで頂きました。当時もブログ上で応答しましたが、それを加筆修正してここでも説明しておきます。

そもそも「慰安婦であったような女性がすべからく完全に自主性を持たずに強制されて慰安婦になった」ということが、あたかも「日本は悪かった」ことの条件であるかのように振る舞う方が、ネトウヨの論理に近いのではないでしょうか。慰安婦の中には、例えば、日本が朝鮮半島の地元経済を壊滅的に痛めつけていなかったら慰安婦にならなかったであろうひとも、たくさんいるでしょう。経済的な必要性から「慰安婦になるしかない」ような状況に、日本によって追いやられた人々が多数いたのです。

前の記事から以下抜粋します。(脚注番号は省略)

反トラフィッキングの活動家や団体は、「プッシュ」要因への対処に時間と金をかけず、「プル」要因を撲滅するためにばかり時間と金をかけています。ぽん引き、ギャング、トラフィッカー、客などは女性を性産業に引き(=プル)入れるので、「プル」要因です。しかしかれらが「プル」するのは、既に何らかの形で「プッシュ」されてきたひとたちです。「プッシュ」要因は、例えば家庭や街、そして刑務所等での暴力だったり、人種・性・階級などの差別だったり、外国人を標的とした法律だったりします。「プッシュ」要因に注目しないことで、反トラフィッキング運動は、社会構造の問題(経済・文化など)を解消することで性産業以外の選択肢を広げようとするのではなく、むしろそういったことには目をつむり、トラフィッカーなどによる「犯罪」の問題に矮小化してしまうのです。

このプッシュ要因とプル要因という枠組みで考えれば、従軍慰安婦にとって、各地域の経済や生活を破綻させるような植民地政策を実施した大日本帝国はプッシュ要因であり、同時に、詐欺や拉致などの方法で従軍慰安婦として彼女らを集めたプル要因でもあったということが分かります。そして、その両方の意味において、「日本は悪かった」のです。

私の主張は、「プル要因だけを撲滅しようとしても、実際に性産業に従事しているひとには痛手にしかならない」というものです。それは、「プル」要因であるような(つまり、社会構造的に「プッシュ」されてしまったひとを引き入れるような)トラフィッカー、ぽん引き、売春宿所有者、ギャング、客などの存在を擁護するために言っているのではなく、セックスワーカーの権利と尊厳と生活が守られなければいけないから言っているのです。プル要因だけでなく、プッシュ要因も同時に減らさなければならない、そして望むと望まざるとにかかわらず、就労環境が改善されなければいけない、と思っているのです。

プル要因だけに注目するというのは、慰安婦問題についてのネトウヨの論理です。「強烈な強制連行があったなら日本は悪いが、そうでないなら全く責任を問われるいわれはない」という主張だからです。一方で、反人身取引運動もまたプル要因だけに注目しています。どちらも、日常生活の延長にある経済や文化、社会構造などには一切の批判を向けず、(むしろそれらを擁護するのに都合のいい)「とんでもない悪者が悪いことをしているのだ」という考えを根底に持っています。両者の違いは、ネトウヨが「日本はとんでもない悪者ではなかった」という主張に行き着き、反人身取引運動は「とんでもない悪者から少女たちを救おう」という主張に行き着いた、ということくらいでしょう。

群馬県高崎市「群馬の森」に行き、日本に労務動員された朝鮮人を追悼する碑を見てきました

批判回避のためにありとあらゆるミソジニーを免罪しようとしている男が多い昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか(←本文とは関係ない時候の挨拶です)。

群馬県高崎市にある「群馬の森」という県立公園には、「記憶 反省 そして友好」と刻まれた追悼碑があります。これは、かつて日本がその植民地政策によって日本国内の鉱山や工場に労務動員し、事故や過労で亡くなった朝鮮の人々を追悼する目的で建立された碑です。

私はニュースを殆ど読まないし見ないという体たらくなのですが、東京新聞の群馬版のサイトだけは、更新されるとメールで更新情報が届くようにしてあります。(シンプルなページなので、はてなアンテナを使っております。はてサだもの。)そこにあったのが、以下の記事です。

また、検索すると以下の記事も見つかりました。(私の働く Dining Bar FAT CATSバーおっかまん企画を取材してくださった塩田記者の記事でした!)

Facebook (鍵つき)で「群馬にこんな追悼碑があったことは知らなかった。守るべきだと思う。」と書いた通り、恥ずかしながら、群馬県に最初に住んでから約10年(そのうち4年以上海外でしたが)、この追悼碑のことを私は全く知りませんでした。

その後、以下の記事が出ました。

これについては、以下のような反応をしておりました。(一時的にツイッター復活していた時期だったのです。)

また、友人から回って来たメールにて、「撤去を求める請願」が出されているということも知りました。

せっかく群馬にこんな重要なものが存在するのに、撤去されるなんて! という思いから、県庁の担当部署にメールで存続を希望している旨を伝えました。以下、一部を伏せ字、省略したものを転載します。

群馬県庁 ○○○○部○○○○課(担当部署名) ご担当者様

館林に住んでおります、○○(筆者実名)と申します。
県庁職員の皆様には日頃より大変お世話になっております。

先日、群馬県立公園『群馬の森』の追悼碑に関する報道を目にしました。
追悼碑の存在に反発を感じている方が大勢いらっしゃること、
撤去を求める声があがっていることなども、知りました。

これに関し、群馬県に住む者として、気持ちをお伝えできればと思いメールしております。
大変お忙しいことと存じますが、お目を通して頂けたら幸いです。

私は16才まで栃木県佐野市周辺で育ち、その後海外で数年を過ごしたのち、
2004年に群馬県に引っ越して参りました。
群馬には外国から来て生活している人も多く、また
館林市内にもモスクがあるなど、多文化な環境をとても気に入っております。

それまでは引っ越しの多い家庭ではありましたが、
今では家族全員群馬県に骨を埋めるつもりでおります。

そんな中、この追悼碑の存在を知り、
群馬県にそのようなものが存在していること、これまで存在していたということを
知らなかった自分を恥ずかしいと思うと同時に、群馬県を更に好きになりました。
自分が住んでいる地域に誇りを感じたのは、初めての経験でした。

そして、撤去を求める声が上がっているということを知り、
とても悲しい気持ちになりました。

私は20代後半なので、戦争当時のことは分かりません。
追悼碑に反対している人たちには、やむにやまれぬ思いがあるのかもしれません。
ですが、追悼碑に書かれた言葉には嘘はありません。
この言葉は、植民地主義や戦争から多くの痛みを負った人々に寄り添い、
戦争を経てやはり多くの痛みを負った日本人が、それでも自らの責任を振り返るという
とてもとても重みのある言葉です。
そして同時に、「友好」という、未来へ向けての希望も私たちに訴えています。

私は、そんな言葉が書かれた追悼碑のある群馬県に、ずっと住み続けたいと思っています。
どうか撤去せず、追悼碑をそのまま保存してくださいますよう、お願い致します。

○○○○(筆者実名)

このブログをご覧の皆さんにとっては不十分と思われる点や不正確な表現が目に付くかもしれませんが、できるだけ正直な気持ちを率直に伝え、追悼碑の存続を求めている群馬県民もいるのだという点を中心に書きました。お返事を頂くことはないと思いますが、少なくとも県庁職員のどなたかに目を通してもらえたら嬉しいなと思っています。

そんなメールを送ったのが5月13日の火曜日。まさかその二日後に実際に追悼碑を直に見ることができるとは思っていませんでした。

今日(といっても厳密には昨日ですが)、私は FAT CATS 開店準備のため、前橋市に行っていました。地理は私も苦手なので最近知ったのですが、前橋市は高崎市の隣にあります。用事が済んでコストコにでも行ってみようとそちらの方面に移動中、「群馬の森」という標識が目に入りました。

うぉー行きたい追悼碑見たい! と思い、コストコを目前に引き返して渋滞の中「群馬の森」に向かいました。しかし18時半に閉園される「群馬の森」の駐車場は既に入れない状態になっており、ダメもとで雨の中傘をさして歩きで入園を試みました。入り口付近で清掃していた管理の方に閉園時間が迫っていることは分かっているが追悼碑をぜひ一度拝見したい旨伝えると、本当に閉園時間ギリギリだったにも関わらず、快く中に入れてくださいました。(この際もうひとつハートフルなエピソードがあったのですが、それは Facebook で友だち限定で書こうと思います。)

時間がないので急いで公園最奥の追悼碑の場所まで向かい、ようやく見つけた追悼碑は、公園の名前に負けずとてもとても「森」感のあるエリアにひっそりと存在していました。以下、撮影した写真を載せます。

追悼碑に向かう園内の小径の右側の写真

↑とても「森」感のある小径の右側。

追悼碑に向かう園内の小径の左側の写真

↑小径の左側。

追悼碑に向かう園内の小径

↑小径正面。まっすぐ進むと左側に追悼碑があるよと管理の方に教えて頂きました。

追悼碑目前の小径

↑そのまま進むと、少し開けた場所に出ました。

小径を挟んで追悼碑の反対側の様子

↑開けた場所で右側に視線をやると、ベンチがいくつも並び、休憩所のようになっています。

小径から追悼碑のあたりを見た様子

↑そのまま左側に目線をやると、追悼碑が見えてきました。

追悼碑の隣に別の碑が立っている様子

↑追悼碑に近づくと、何やら碑がふたつ並んでいるように見えます。

追悼碑と別の碑に近づいた様子

↑更に近づくと、朝鮮人追悼碑とは別に、少し離れた隣に別の碑が建っていました。ちなみにこの周辺には、小径を挟んで反対側の休憩用ベンチのほかには何も無く、ただただ「森!」という感じのエリアでした。管理の方曰く、入り口からここに到着するまでに「2キロはある」とのことでしたが、途中美術館のような建物の職員用駐車場と思しき場所を通りすぎてからは、小径のほかはただただ「森!」でした。1キロ半くらい森の中を進んだ感じだと思います。

この時点で、「もうひとつの碑はいったい何なんだ!?」という疑問が湧き、まず先に右側の碑を見てみることにしました。

追悼碑の右側に並んで建てられたもうひとつの碑

↑左下に見えるメッセージに「愛の光」と書いてあるので、もしかしたらなにか宗教的な碑なのかなと勝手に思ったのですが、実際には全く違っていました。

「愛の光」と書かれたメッセージにクローズアップした様子

↑なんと、平成11年に設立二十周年を迎えた群馬県アイバンクが献眼者(角膜提供者、ドナー)への感謝の意を込めて建てた顕彰碑とのことです。(「顕彰」という言葉を知らなかったので検索したら、「功績や善行などを称えるために立てられる石碑などのこと」とありました。また、必ずしも著名でない功績に対してのものであることが多いそうです。)

「献眼顕彰碑」と書かれた石碑の近影

↑「献眼顕彰碑」とありますね。

↓献眼者の名前が彫られていました。

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその一

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその二

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその三

というわけで、朝鮮人追悼碑を直に見に来たはずでしたが、思いがけず群馬における医療史とも出会うことができました。平成11年の20年前といったら、35年前、つまり1979年に群馬県アイバンクが設立されたことになります。私が生まれる6年前のことです。全国のアイバンクと比較して早いのか遅いのかは知りませんが、「アイバンク」というものの存在を知らずに私がセガサターンなんかで遊んでいた頃、とっくにアイバンクが存在していて、しかもこれだけの献眼者がいたということに、歴史に対しての自分のちっぽけさと、無知を恥じる気持ちと、そして同時に歴史というものの重みを感じました。

時間がないのでそういう思いにふけっている余裕もなく、今回のメイン目的、朝鮮人追悼碑に目を移しました。

追悼碑を正面から見た様子。ちなみに小径方面は正面ではなく、顕彰碑の方向を向いていた。

↑朝鮮人追悼碑を正面から見た様子です。追悼碑は小径の方角ではなく、顕彰碑の方向に正面を向けて建てられていました。小径に立って追悼碑を見ると、追悼碑の右側が目に入るような配置になっています。

追悼碑に近づいて正面を見た様子。正面側には「記憶 反省 そして友好」の文字。朝鮮語と英語も併記されている。

「記憶 反省 そして友好」という部分の近影

↑追悼碑に近づいてみました。正面には「記憶 反省 そして友好」の文字が刻まれており、朝鮮語と英語も併記されています。

追悼碑を裏側から見た様子。ここにもプレートがつけられ、メッセージが書かれている。

追悼碑裏側のプレートに書かれたメッセージ。画質が悪く文字は読み取れない

↑裏側にまわってみました。中央にプレートがつけられており、そこにもメッセージが刻まれています。残念ながら、陽が落ちてきている雨の中撮影した写真は画質が良くなく、文字が読み取れません。急いでいたのでこの場で読むことはできなかったのですが、たむたむ(多夢・太夢)ホームページこの碑文の内容が掲載されていたのを読むことができました。以下に引用します。

碑文
20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地にして支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えた今、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。
2004年4月21日
「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を 建てる会

また、同ホームページの情報によると、

2004年2月、建てる会が小寺弘之知事(当時)に「県立公園施設設置許可書」を申請。県は翌3月、「政治的行事および管理を行わない」などを条件に許可した。
碑文の内容は、戦後50年となった1995年の「村山談話」の範囲内にとどめるよう、「強制連行」の表現を除くなど文言をすりあわせた。

建立後の維持管理は同団体が行うこととなっており、追悼碑建立のための県費支出は行っていない。

とのことです。つまり、当時の内閣総理大臣が「閣議決定に基づき発表した声明」(Wikipedia – 「村山内閣総理大臣談話『戦後50周年の終戦記念日にあたって』」、アクセス2014.5.16)の範囲内にとどまる内容の碑文となるよう、当時の群馬県が既に介入し、建てる会と県の双方の合意に基づいた文であるということです。

追悼碑から小径の方向を向いた様子

↑追悼碑の裏側をまわり、小径の方角を向いてみました。左右に伸びる小径の向こう側に、休憩ベンチが並んでいるのが見えます。撮影時は気がつきませんでしたが、その奥に少し開けたエリアがありますね。更に奥に行くと通り抜けられるのかどうか分かりませんが、いずれにしても、その場にいた限りでは、公園内かなり奥の孤立したエリアに追悼碑と顕彰碑がひっそりと立っているという印象を受けました。

写真は以上になります。

この追悼碑についてインターネットで検索すると、碑の存在や碑文などに抗議する内容の文章ばかりがヒットします。「群馬の恥」とまで書いている人もいました。新聞記事にもありましたが、抗議の声はここ数年で百件を超えているそうです。管理の方も、抗議の声があがっているという事実は認識しているとのことでした。(時間もなかったので質問はできなかったのですが、「抗議の声があがっているそうですね」と言うと「えぇそうなんです」とだけお答え頂けました。)

私は上でも書いた通り、自分の身近なところ(と言っても高崎には数回しか行ったことありませんが……)にこういった追悼碑が存在しているということをとても嬉しく感じましたし、撤去を求める声には明確に反対です。県庁にメールをするということが適切な方法であったとは断言できませんが、群馬在住、群馬勤務、群馬通学、群馬出身などなど、群馬にゆかりのある人には、ぜひ追悼碑の存続を望む声をあげて欲しいと思っています。

もちろん、追悼碑が存続すればそれでいいというわけではありません。日本が戦前、戦中、戦後行って来た植民地政策や植民地主義的な外交、国内の旧植民地出身者への差別的待遇など、過去から現在に至るまでたくさんの問題を作り出して来たのが日本という国です。在日コリアンなどに対する差別的な言葉のパターンがインターネットのみならず日常生活の場にまで浸食してきており、より気軽に反在日コリアンの言葉を人前で語れるようになった現代の日本社会の文化的問題に加え(注)、朝鮮学校の無償化除外や、雪害時の除雪作業からの朝鮮学校近隣の対象除外、また DPRK (朝鮮民主主義人民共和国)に対する経済制裁や、終戦後すぐに行われた日本国籍の一方的剥奪、1982年までの国民年金からの排除など、日本政府による制度的な差別・問題行動は多岐にわたります。

(注:もちろん、もっと時代をさかのぼれば、今よりも気軽に、当然のように朝鮮人や他の外国人に対する差別的な言葉が一般的に広く使用されていた時代や場所もありますが、2005年あたりからある種の差別的レトリックのパターンが急速に広まったことは事実かと思います。)

そういった中で、追悼碑だけを存続させることが目的化してはならないと私は思っています。しかし一方で、この追悼碑すら守ることができない社会になることは、断じて食い止めなければならないとも思っています。

もちろん、私が実物を見に行くほどにこの追悼碑を気にかけている理由には、これが私が住む群馬県内のものだからというものもあると思います。他にもっと優先的に守るべきものがあるだろう、というご指摘は甘んじて受けますし、真剣に検討します。一方で、ローカルなものの大切さというものをここ数年で学んで来た私には、やはりこの追悼碑の問題は大きなものではあります。

大局をとらえつつ、大言壮語に陥ることなくローカルな視点を持ち行動すること、そしてローカルなものを注視しながらも、大局を見失わない、という——同じことを逆に言っているだけですが——バランスを保ちつつ、そして同時に周りの人を大切にしながら、動ける範囲で動いて行きたいなと思っています。(途中から所信表明みたいになってしまった……)

上から目線の男の解説にうんざり! あなたの身近に必ずいる「マンスプレイニング系男子」とは?(ウートピ掲載記事)

「男の根拠の無い上から目線にイラッ」――そんな女性の気持ちを表現したある言葉が、2008年インターネット上に登場しました。その言葉は「マンスプレイニング」――「マン」(男)と「エクスプレイニング」(解説)をかけあわせた造語です。

その意味は「相手が女性だということを根拠に、相手は自分よりも今語られているトピックについて無知だろうと思い込んで、男性が女性に解説をし出すこと」(英語版 Wikipedia より、筆者訳)。「マンスプレイニング」は Twitter や Tumblr のハッシュタグとして急速に広まり、日本でも「英辞郎」に収録されました。

身近にいる「マンスプレイニング系男子」

マンスプレイニングにはどんなものがあるのでしょう。いくつか事例をご紹介します。

「LGBT」の反義語は「異性愛者」ではありません

少年ブレンダさんによる性の多様性のマトリクス。縦の軸が上に行くほど「規範に伝統的」、下に行くほど「規範に自由」となっており、横の軸が左に行くほど「性別が変わらない」、右に行くほど「性別が変わる」となっている。左上のゾーンがシスジェンダー、右下のゾーンがトランスジェンダー、右上が性同一性障害(性別二元論のトランスジェンダー)、左下のゾーンが性別違和(ジェンダーロールなんかイヤです)、そして中央がXのゾーン(FtX、MtXなどなど……)。全てのゾーンに渡って、ピンクの三角形やオレンジの丸、青いクローバーや藍色の四角形などが散らばっており、これらは同性愛、両性愛、異性愛などの性的指向を指している。

「LGBT」という言葉がずいぶん普及してきています。テレビでもラジオでも雑誌でもウェブメディアでも「LGBT」という言葉はそこら中に出てきます。しかし、正に「LGBT」の権利や尊厳について語るコメンテーターやライターが、「LGBT」の反義語として「異性愛者」という言葉を使いまくっていることに、とても強い違和感を感じます。

「LGBT」という言葉を使っているのに、「私たち異性愛者は…」とか「Aさんは異性愛者ですが、LGBTの友人が…」とかのコメントやナレーションが流れるテレビ番組なんか見ていると、本当に、どういうつもりなのかと思います。

トランスは無視?

1つめの問題は、「LGBT」という言葉を使っていながら、実質そこで想定されているのは同性愛者のみ、というケースが多いことです。たとえば、トランスジェンダーで異性愛の人というのは、想定されていないか、あるいは「同性愛の亜種」のような位置づけなのでしょう(※)。

※:一方で、「性同一性障害」という言葉が使われるときは、同性愛者を「性同一性障害の亜種」のように勘違いしたコメンテーターが時々いるという、悲しい現状がありますね。

ある集合が、別の集合と一切重なり合わないとき、それを「これらの集合は相互排他的だ」と言います。つまり、どちらか片方であれば、もう片方「でも」あるということがあり得ない状況です。たとえば、以下のような感じです。

  • 「日本国籍保持者」と「外国籍保持者」は、複数の国籍を持つことが可能なため相互排他的ではありません
  • 「みかん」と「りんご」は、みかんだったらりんごではなく、りんごだったらみかんではないので相互排他的です

「LGBT」と「異性愛者」がもし相互排他的だとすると、こんな感じになります。

「LGBT」と「異性愛者」が相互排他的関係にある図。円グラフで、その8割近くが「異性愛者」、残り約2割が「LGBT」、その他には何も項目はなく、「LGBTかつ異性愛者」という部分もない。

でも実際には、「LGBT」と「異性愛者」は相互排他的ではありません

「LGBTではない人」を「異性愛者」と呼ぶのは、間違いです。この「LGBT」という枠組みに乗っかるのなら、きちんと乗っかって、「LGBではない人」を「異性愛者」と呼ぶべきなはずです。「Tではない人」には、「シスジェンダー」という名前が既に存在しています。「LGBTではない人」は、「シスジェンダーの異性愛者」です。

ブレンダのちょっと風変わりなLGBT講座シリーズで、少年ブレンダさんがこんな画像を作っています。

少年ブレンダさんによる性の多様性のマトリクス。縦の軸が上に行くほど「規範に伝統的」、下に行くほど「規範に自由」となっており、横の軸が左に行くほど「性別が変わらない」、右に行くほど「性別が変わる」となっている。左上のゾーンがシスジェンダー、右下のゾーンがトランスジェンダー、右上が性同一性障害(性別二元論のトランスジェンダー)、左下のゾーンが性別違和(ジェンダーロールなんかイヤです)、そして中央がXのゾーン(FtX、MtXなどなど……)。全てのゾーンに渡って、ピンクの三角形やオレンジの丸、青いクローバーや藍色の四角形などが散らばっており、これらは同性愛、両性愛、異性愛などの性的指向を指している。

ここでは、ピンクの三角形やオレンジの丸、緑の四角などが、同性愛、異性愛、両性愛などの性的指向を表しています。つまり、世の中が「LGBT」をセクシュアリティや性的指向を中心に考えているということに対抗して(かどうかは知りませんがw)、性自認や性別違和を中心に性の多様性を図に表してみたものです。

もし世の中のほとんどの人が性をこのように理解し、このような枠組みで「LGBT」が解釈され普及していたら——つまり性自認や性別違和を第一の基準にし、その上で「その中には色んな性的指向の人がいる」と解釈され、「LGBTではない人は「シスジェンダーの人」と呼ばれ、異性愛かどうかは横に置いておかれるような社会的認知の普及の仕方だったら——同性愛者は苛立ちを覚えるのではないでしょうか。その苛立ちは、「LGBT」と「異性愛者」を反義語のように使っている人たちがトランスジェンダーの人たちに日々与えている苛立ちと似ているかもしれません。

2 「LGBT」でも「異性愛者」でもない人

また、「LGBTではない人」を「シスジェンダーの異性愛者」と正確に言ったところで、すべての問題が解決するわけではありません。「正確に」というのは、現在普及している「LGBT」の枠組みに乗っかるならば正確だ、という意味に過ぎません。

パンセクシュアル、Xジェンダー、アセクシュアル、オムニセクシュアル、デミセクシュアルなどなどがあることを知っている人もいるかと思います。

また、「性別の組み合わせ」によって成立している異性愛、同性愛、両性愛というカテゴリー分け自体が、人それぞれの性のあり方を正確に描写できているとは限りません。自分の性的欲望や恋愛感情にとって、相手の性別が最も基本的な基準(最初にふるいをかける基準)になるというのは、世の中の人みんな全員そうではありません。

たとえば「絶対に色黒の人じゃないと無理。性別は出来れば男性がいいけど、色白の男性より色黒の女性の方がまだマシ。色白の人との恋愛なんて考えられない」という欲望のあり方は、異性愛、同性愛の枠組みではとらえられませんし、「あなたは両性愛者なんですね」と言われたとしても、「いや、女と男どっちもイケるって話じゃなくて、色黒しかイケないって話なんですけど……」と思うかもしれません。

ひとのセクシュアリティや性的指向は「LGB」だけでは表せません。また、上の少年ブレンダさんの図を見ても分かる通り「T」だって、とても複雑なものをとりあえずひとくくりにしているだけです。

だから、「LGBT」という言葉は、ひとの性のあり方を正確に描写できる言葉ではないのです。

でも、私も「LGBTQ」という言葉を使いますし、多くの人も「LGBT」という言葉を使っています。それは、世の中が人を「LGBT」と「シスジェンダーの異性愛者」に分けて、「LGBT」の方を差別して来た歴史があるからです。その歴史がなければ、「LGBT」と自分たちをくくる必要もありませんでしたし、そもそも名前をつける理由すらなかったでしょう。

性に関して私たちに名前が付けられているのは、差別者が私たちを差別するためにカテゴライズする必要があったからです。「同性愛者」も「オカマ」も「レズ」も「ホモ」も、罵倒語として存在して来た歴史があります。そういった言葉をあえて自称に使ったり、違う言葉に置き換えたり(「ビアン」「ゲイ」など)することを通して、私たちは今のところ「LGBT」というくくりかたに落ち着いているだけです。

「LGBT」は、性に関して差別を受けてきた歴史を持つ私たちのことを指す便利な言葉ではあります。だけれども、その言葉がいつも私たち一人一人の性のあり方を正確に描写するわけではないということは、頭に入れておくべきなのではないかと思います。

『生物学的性→性自認→性的指向』という順番について

性別について、今となってはある程度の認知度を獲得しつつある「LGBT」を説明する際に、私たちは「生物学的性」「性自認」「性的指向」という概念をよく使います。

世の中一般的には、まずベースに生物学的性があって、それを根拠に生物学的性と同一とされる性自認が発達して、そしてその性自認の反対の性(異性)に性的関心を持つようになる、という論理構造が幅を利かせているわけです。この「生物学的性→性自認→性的指向」という順番、そして左のものが右のものの根拠になり、人はまっすぐにシスジェンダーかつ異性愛に導かれるはずだ、という考えは、私たちが人の性別を解釈するときに大きな偏りを生み出します。

「体が男なら心も男、そして性的対象は女」、「体が女なら心も女、そして性的対象は男」というのが当然のこととされ、疑問視もされず、それにあてはまらない人に出会った時にはただただ理解不能に陥る人が続出、という状況は、少しずつ変わってきているものの、いまだに社会全体の多くの場において支配的です。(例えば、性同一性障害の認知度が高まった現代日本でも、トランスかつレズビアンの人に出会った時に「心が女なのに恋人が女!?どういうこと!?」と驚く人というのは未だにたくさんいます。)

この論理構造を「異性愛マトリクス」と呼んだりします。

異性愛マトリクスの問題点のひとつは、根拠のない因果関係を前提としていることです。つまり、生物学的性が性自認の根拠であると決めつけていること、性自認が性的指向の根拠であると決めつけていることです。レズビアンだっているし、バイだっているし、ゲイもいるし、体が女で性自認が男で性的対象が男(いわゆる「FTMゲイ」)だっているよね!なに無視してんの!って話です。これについては、恐らくほとんどのLGBT当事者や支援者やそのあいだや周辺にいる人たちにも、問題点が明らかだと思います。

しかし、異性愛マトリクスにはもうひとつ大きな問題点があります。それは、「生物学的性→性自認→性的指向」という流れにおいて、左に行けば行くほどより根幹的な、より基礎的な、より決定的な分岐点になり、右に行けば行くほどより後発的な、付随的な、補足的な分岐点(異性愛マトリクスにおいては分岐はせずまっすぐに進んで行くわけですが)になる、という思い込みです。つまり、体の生物学的性が最初に決まり、それが決定してしまえばあとは自動的に決まってしまうのだ、という、生物学的性を性のすべての根幹とする発想です。

この2つめの問題点については、「LGBT」関連の場においても、あまり議論されることがありません。それどころか、以下の画像に表れているように、むしろ前提として受け入れられてしまっている場合すらあります。

1つめの画像は、ツイッター上に「学生時代のゼミ発表資料」としてアップロードされていたものです。学生時代のものだそうなので、出典URLを示すことが適切かどうか分かりません。HTMLソースを開くとIDと投稿番号が見れるようにはしてありますので、投稿者に害を与えるつもりではなく単に「マサキが勝手に捏造したものではない」ことを確認したいだけだという人は、ソースを見て考えればツイートにたどり着けるでしょう。

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2つめの画像は、最近ネットのLGBT界隈で話題になった「LGBTの学校生活に関する実態調査(2013) 結果報告書」の中の表です。

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ご覧の通り、どちらの表も左から「生物学的性」「性自認」「性的指向」となっています。これは、生物学的性が性自認の根拠にならないこと、性自認が性的指向の根拠にならないことを示すことで、分岐の多様性を表しています。つまり、異性愛マトリクスの1つめの問題点を指摘していると言えます。

一方で、まさにこの表の書き方が分岐の様子を示しているがゆえに、項目の順番が、根幹的な分岐から付随的な分岐へ、左から右に並んでいるように見えます。人を性に関して分類するときには、まず最初に生物学的性でわける、次に性自認でわける、そして最後に性的指向でわける、という前提がここには見て取れます。あたかも、生物学的性が最も根幹的であるという異性愛マトリクスの前提を踏襲しているように見えます。

表を作った人にはそんなつもりはなかったのかもしれません。それに、もしそういう思い込みがあったとしても、ゼミ発表や報告書の内容の価値が著しく貶められるべきではありません。ただ、「生物学的性」に合った性自認を持て、「生物学的性」に合った性的指向を持て、という社会のプレッシャーに対抗している私たちが、どうしていまだに「生物学的性」の虚構の根幹性を時に受け入れてしまうのか、考えないといけないんじゃないかと思っています。

「LGBT」フレンドリーなら何やってもいいのか?

昨年、大阪市淀川区が出した「LGBT支援宣言」がネットでも話題になった。

それ自体が悪いことではないとは思うものの、私は何となく不安を感じて、この区長の名前を検索してみた。そして見つけたのが、この論文(PDF)。これは、榊正文(さかき・まさふみ)淀川区長が区長に立候補する際の公募論文として提出したもので、大阪市のウェブサイトに掲載されているもの。

注目して欲しいのは、以下の部分。

生活保護受給者の地域での役割

課題は、不正受給の摘発と、就職能力があるにもかかわらず活動しない人の対策です。つまり、本当に困窮している弱者かどうかの見極めです。困難な財政状況下、生活保護より真の弱者保護、働ける人に働いてもらい、消費してもらう社会へ、という考えを推進します。
①生活保護者が、地域社会で、(例;地域ボランティア活動の義務付け等)なんらかの役割を担うように施策を検討します。(時期;24年度上期に府市政と方向を出す)

また、イダ・ヒロユキさんはブログに「大阪市淀川区の異常さ―ー生保攻撃する区長」という記事を書いています。ここに、一部を抜粋します。

[…]淀川区で、生保受給者を脅すような文書が配られました。事実上の締め付けです。

大阪市淀川区役所支援運営課(旧福祉事務所)が、区内生活保護利用者の1月分の保護決定通知書の中に異様な文書が同封されたのです。
「虚偽」の申告をしたら警察に告訴するとし、淀川区から過去1年間で4名の逮捕者をだしていると書いています。裏面は「警察OBを含む不正受給調査専任チームを配置しているとし、生活保護法60条(生活上の義務)、61条の(届出の義務)、63条(費用返還義務)など「義務」ばかりを強調しています。

大生連の家宅捜索はすべて淀川区からの告発によるもので、淀川区は異常な対応を取っています。
橋下・維新が選んだ区長が、こういうことをしてきたということです。

今の社会において、LGBTの尊厳や権利を支持するとあえて宣言することには、意味があると思います。もちろん、もっと言えば「LGBT以外は?」とかも言えるのだけれど、それよりも私個人的には「LGBTの生活保護受給者、想定してる?」という疑問が湧きますし、そもそも「LGBT」じゃなくたって生活保護を受給しているということを理由に無償労働をさせるなんていう発想自体が、「LGBT」とか以前に、アウトでしょう、と。

今後、こういうタイプのやり方は多くの政治家が採用すると思います。それを支持するかどうかは個々のクィアのみなさんの自由ですが、「ちょっとそれはどうなのか」と思うようなところがある政治家に対して「でもLGBTフレンドリーだし」とその責任を免除することは、他のマイノリティを切り捨てることでもあり、更に「LGBT」の一部の人々をも切り捨てることになるんだということは、考えてもらいたいなと思っています。

(画像:淀川区ウェブサイトより)

今一生さんたちから頂いたご指摘について

昨年末、「もし明日あなたがセックスワーカーになったら? 労働環境、相談所など、知っておきたいいくつかのこと」という記事を書きました。これについて、今一生(こんいっしょう)さんよりツイッターにてご指摘を頂きましたので応答致します。(「デブが捗る桜餅」さんという人のツイートも混じります)

まずはじめに拝見したのは、こちらのツイートでした。

このご指摘については、正直なところ、理解に苦しんでいます。というのも、私の元の記事において「風俗」が「東京にだけある」という前提の箇所があるのかと思い、探したのですが、見つからなかったのです。記事内で具体的に挙げている地名は「ワシントン州シアトル」、「日本」、「関西地方」の3つですので、明示的に東京に限定した箇所というわけではないのでしょう。無意識に私が東京中心主義的な人間で、それがどこかの表現にあらわれてしまっているのかもしれません。であれば、該当する箇所を教えて頂けたら幸いです。

また、「webで得られる情報にたどりつくのも大変」だからこそ、記事の最後で『風俗嬢のためのSTD(性感染症)とからだの情報サイト – Girls Health Lab (ガールズ・ヘルス・ラボ)』を紹介したのですが、何か不十分な点、あるいは不適切な点がありましたでしょうか。

記事で私は、経済的な困難によってセックスワークが「現実的な選択肢になるかもしれない」と表現しました。これは、セックスワークが【唯一の】選択肢になるという主張でもなければ、セックスワークが【最も選ばれている】選択肢であるという主張でもありません。私にはこれは、「少女が家出すると風俗に入る」というのと同じ程度に強い主張には思えないのですが、そのように解釈される可能性を意識して書き方をもっと工夫することはできたかもしれません。その点は反省致します。

「書き手に当事者性を大事にする配慮がまったくない」というご指摘、胸に深く刻ませて頂きます。私は自分自身こそセックスワーカーではありませんが、事情があり、かなり身近に元当事者がいます。また、今回のご批判を拝見したのも、ちょうどセックスワーク関係の当事者や支援者と夕飯を食べた直後のことでした。その人たちの顔を思い浮かべ、「当事者性を大事にする配慮がまったくない」と評されるような私は 彼女ら彼らを知らず知らずのうちに大きく傷つけているのではないか、と、ショックと同時に強く反省する気持ちになりました。自分の言動がひとの当事者性を踏みにじっていないか、今後更に気をつけて生きていかないといけないと思わされました。ありがとうございます。

これは、非常に悩んだところなのです。当事者にインタビューをするべきなのではないかと、執筆前も、執筆中も、そして、するべきだったのではないかと執筆後もずっと思っています。一方で、既に当事者たちによる社会運動が始まっており、私がやれること、やるべきことというのは、そういう活動を紹介することだと思い、最終的にあのような記事になったという経緯があります。ですので、冒頭以外(=見出し『「セックスワーク」とは?』以下)は当事者運動の簡単な歴史や紹介に徹底しています。あの記事で最もやりたかったことは、当事者や支援者が当事者主体で活動しているSWEETLYSWASH、そして当事者のための情報サイト『ガールズ・ヘルス・ラボ』の紹介をすることでした。当事者による運動の様子や、その成果、そして当事者たちの声は、これらのリンクを辿って頂ければご覧頂けると思っての判断でした。それはともかくとして、私の記事自体に直接 当事者の声を入れるべきだったかもしれないということは、今でも悩んでいます。

貧困状態にある人々のなかにセックスワークを選択しない人がいることは、ご指摘の通りかと思います。また、セックスワークを「現実的な選択肢」として真剣に検討する人も、貧困状態にあるひと全員ではないでしょう。ですので、ご指摘には同意致します。一方で、セックスワークを「現実的な選択肢」として真剣に検討する人の背景に貧困があるというケースが多いというのも事実です。セックスワークについて確固たる統計情報があるわけではないので「セックスワークに参入する理由の最も多いものが貧困だ」とまでは私は言いませんが、生活実感として、貧困状態にあるひととそうでないひとでは、前者にとってより現実的な選択肢として存在していると言えると思うのです(私の実感が偏っている可能性もあり、それは今後きちんとした統計調査などが実施されて行くなかで反駁される可能性を持っていますが)。

私自身も、「セックスワークがセーフティネットになっている!」と騒ぐような最近目立って来ている論調には、違和感を感じています。といいますのも、その前提に、「セックスワークがセーフティネットになってはいけない!」、つまり「セックスワークは、生計を立てる方法として本来望ましくないものである」という考えがあるように感じられるからです。また、最近よく目にするタイプのセックスワーク論には、セックスワーカーの偏見を助長してしまうのではないかと心配になるようなものもいくつかあります。ですので、今一生さんが私の記事を今回そのような危惧を持ってご覧になったそのお気持ちというのは、むしろ共感致します。また、そういった偏見を助長しかねない表現を私が用いてしまったのかもしれず、その点は反省致します。

今一生さんのお考えに同意致します。私自身がそのようなことをしてしまっていないか、今後より一層気をつけて行きたいと思います。

私にとってセックスワーカーは「他人」とは言えない存在です。具体的な事情をお話しすることはできませんが、今回の記事も含め、私がセックスワークに関する当事者運動とつながりを持っているのも、私が時々SNSやブログでセックスワーカーの尊厳や権利について語るのも、「他人」事ではないセックスワークという問題を私なりに考え、抱えているからです。そこに不備があったり、配慮が足りなかったり、無知だったり、間違ったことをしてしまうことはあるかもしれませんが、決して悪意を持って「他人の飯がうまい」というような気持ちでやっていることではありません。「デブが捗る桜餅」さんには、私がそのような悪意を持っていると写ってしまったわけで、そこには私の表現上の問題があったのだと思います。実際に悪意があるとしか思えないような表現を採用してしまったのかもしれません。今回の私の記事に限らず、これからの私の言動についても、自分が間違っている可能性を常に念頭に置き、まずは間違ったことをしないこと、そして間違ったことをしてしまったら反省し、必要であれば謝罪し、継続して考え続けることを自分に課したいと思います。

今一生さんのお考えに、全く同意致します。本当に大切なご指摘だと思います。私自身、そういった間違いを見るたびに嫌な思いをしてきましたし、私が当事者である問題については具体的に被害を被っていると感じるときもあります。一方で、私の今回の記事が今一生さんにそのような間違いを想起させるものであったことについては、反省致します。

以上です。

ナチヲさんの言いがかりに応答します。

恐らくフェミニストなのではないかと思うんですが、私への批判みたいなものがツイッターにあったので、応答しておきます。

まず、2月22日のやつ。ツイッターなので、下から上に向かって読んでくださいね。

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次に、3月2日のやつ。同じく、下から上に向かって。

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まず2月22日のやつに応答します。

【1】私は「ゲイ」ではない。
【2】おっかまんは「ゲイバー」ではない。
【3】「デブ」を蔑称として使ってるなら自分のフェミニズムを再検討した方がいい。
【4】「ホステス」を蔑称として使ってるなら自分のフェミニズムを再検討した方がいい。
【5】「deltagdeltag 中の人」はマサキチトセではなくミヤマアキラ。このあとのツイートでゲイが「レズを差別」したという例を出していながら、私がデルタGの中の人だと思っているのを見ると、デルタGがそもそもレズビアン系のサイトであることを知らないのだろうなと思う。
【6】同ツイートで「ストレートだが、レズ!て言われて貶された」ことを「レズを差別」したと言っているが、ゲイではない私をゲイと不当に名付ける自分は反省すべきではないのか。
【7】私の性格がどうなのかを決めつけるのは構わないが、それを公開の場で書くのなら何か根拠を示さないと単なる人格攻撃にしかならない。
【8】私が「大人の権利にはうるさいが、子どもの権利はガン無視」しているという主張をするのなら、何か根拠を出して欲しいものだと思う。ただ、私は自分が完璧だとは思わないので、これまでの発言にそう思わせる何かが全くなかったとは言い切れない。なので今後は子どもの権利について自分が忘れてることがないかを気をつけながら発言して行こうと思うけれども。

次に、3月2日のやつに応答します。

【1】ツイッターを全面的に辞めるという話はしていないし、英語アカウントは続けると最初から宣言している。
【2】批判から逃げたかったら、日本語のブログも辞める、あるいは少なくともコメントを受け付けない設定にする。ツイッターを辞めたあとも日本語のブログは更新しており、すべてコメントを受け付ける設定にしてある。
【3】ツイートはしていない今でも Janetter という Twitter クライアントを使って自分のブログやその他の文章の URL が含まれるツイートを一覧できるようにしてあり、誰かが有意義なフィードバック(批判含む)をしてくれたらすぐ分かるようにしている。応答すべき批判があれば、今回のようにブログにて応答する。ツイッターよりスローかもしれないが、数年前まで存在しなかった Twitter を利用して応答しないからというだけで、批判から逃げているというのは、ちょっと意味が分からない。
【4】「アカデミシャン」という言葉の意味が私は正確には理解できていないのだけれど、私はいま学部生でも院生でも研究員でも教員でもないし、学位は「大卒」(学士号)。修士号も博士号も持っていない。調査などをしたり、個人で研究したものを学会で発表することなどはこれからもあるかもしれないが、いわゆる「アカデミア」の業界にいる人間ではない。ましてや「学者」という職業にはない。

以上です。

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