「セックスワークは生き延びるための手段」と思いたかったのは自分ではないのか

(※お前の心境の変化なんか読んでも何の役にも立たないよ、という人は、すみません、多分ほんとうに役に立たないので、もっと大切なことのために時間を使って下さい。)

セックスワークについてはこのブログでも他の場所でも(現代思想とかYouTubeとか)折に触れて言及しているので、私の発信したものをいくつも目や耳にしてくれている人であればセックスワークが私にとって重要なトピックであるということはご存知かと思います。

現実にセックスワーカーへの偏見がはびこっている世の中で、セックスワーカーの尊厳や権利(労働者としてのそれ、女性やセクシュアルマイノリティとしてのそれも含め)を尊重する社会にしていくために少しでも役立つことがあればと思って発言してきましたが、その中には「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という物言いが多く含まれていました。

それは「セックスワーカーはセックスが好きなんだ」とか「他の仕事ができないからセックスワークをしてるんだ」、あるいは「堕ちるところまで堕ちた結果セックスワークをしてるんだ」、「セックスワーカーには金を払えば何をしてもいい」というような、セックスワーカーの生活や尊厳を直視しないことによる偏見に満ちた考えが世間に広まっていることへのカウンターパンチというか、「労働だよ?仕事だよ?」という反論めいたものとして「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という主張をしてきたところがあります。

実際そういう話をした時に「じゃあ仕方ないか」と納得する人がいたことは、少しばかりの違和感を私に残しながらも、この物言いがある程度偏見の払拭に少しは効果を持っているのだという感覚を私にもたらしました。

じゃあその時感じる違和感って何だったのかというと、「なぜこの人に納得してもらって『仕方ない』と(許可や承認めいた)発言を引き出さないといけないんだろう」というものでした。でも私は、その違和感に気づかないふりをして、あるいは意識的に「必要悪」のように一人で納得して、「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」と言い続けてきた気がします。

自分の感覚をごまかして、自分がやってることが正しいかのように言い聞かせる必要があったのだと思います。

椎名こゆりさん @koyulic7 が昨年末に出した「わたしにだって言わせない」というブログ記事を拝見したのは、確か年明け間近のことでした。

椎名さんは、「この仕事を始めるときに、生きるため性風俗店で働くか、それとも貞操(?)を守って死ぬか、と天秤にかけた覚えとかね、ないんです」と書いていました。そして、以下のように続きます。(どこが欠けてもいけないと思うので長く引用します)

時間をかけてあらゆる方向に考えを巡らせ、やっぱりこうするしかないのだ、もはやわたしにはセックスワーク(そんな言葉もまだ知りません)しかないのだ、という熟慮の末の選択でもなければ、場当たり的で半ばヤケのような勢い任せの選択でもない。どっちでもない。自分の意思によるものだったことも確かですし、追い込まれていたことも確かです。どちらかに振り分けられるようなものではないんです。

その結果、なんとかやれないこともなく、他に検討した方法よりもその時の自分にとっていくらか総合的なメリットがありそうに見え、他人の足手まといにもなることもおそらくは少ないだろう、と結論付いたので、「もう少し頑張ってみよう」を一日ずつ一晩ずつ重ねるうちに気付けばそれなりの年月が流れた、というのが正直なところです。そして今となっては(この「今となっては」は省略できない)仕事にも馴染み、多少の(多少です。キャリアが長いと「天職と感じて誇らしげに働いている」ようなイメージを持つ人もおられるようですが、必ずしもそのような歌舞伎町の女王状態ではありません)愛着や「慣れ親しみ」のようなものはいくらか生まれており、また日々積み重ねてきたスキルやノウハウを捨てる気持ちにもなれず、他にもここでは説明したくないさまざまな理由によって、続けています。

椎名さんはセックスワークで稼いだお金を実際に生活費に充てていて、だからセックスワークは生き延びるための手段ではないとは言えないとしつつも、職業として選択する時の複雑さ、整理のつかなさ、そしてその選択の理由についての語りを要求されることや、語らぬセックスワーカーについて勝手に理由を決めつけることの不当さを教えてくれています。そして、「彼女は生きるために、セックスワークを選んだ。」と自身のことを書かれた時には「そのことがわたしが尊重されるべき理由であっちゃいけないんですよって言いたい」という気持ちになったと語り、勝手に理由を決めつけられたのは「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう、と思われていたのかもしれません」と説明しています。

「セックスワーカーを『生きるためにその道を選んだのだから』と他人が定義することは、危ないことだと思う」——この部分まで読んだとき、これは正に自分がしていることではないかと、怖くなりました。私はセックスワーカーではないし、過去にそうだった経験もない。なのに「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」という物言いをしてきた。怖くなって、すぐに脳内自己弁護に走りました。「でも世の中の偏見に対抗するにはこうしないと」「偏見に満ちた人に少しでもセックスワーカーを尊重してもらうにはこの言い方しか」などなど、私の頭の中の弁護士が私を弁護し始めました。

そうしているうちに、楽になれるはずだと思っていました。実際は、もっと苦しくなっただけでした。

ここで公に語ることは私以外の人のプライバシーを侵害することになるため詳細は伏せますが、私には身近に元セックスワーカーがいます。古い時代の話です。5、60年前の話なんじゃないかな。その人(Aさんとします)がセックスワークをしていなければ、もしかしたら今私は生きていなかったか、より不運な境遇に生きているか、あるいは生まれてすらいなかったかもしれません。自己弁護の結果自分が苦しくなったのは、Aさんのことが頭から離れなかったからだと思います。

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今言った通り、Aさんがセックスワークに従事していたことで実際にAさんは生き延びたし、まわりまわって私もこうして生まれ、生き延びることができています。だから、セックスワークの生き延びる手段としての側面を否定することは出来ません。貧困から抜け出すべく必死に働き生きて私にあらゆる機会を作ってくれた母に感謝しているのと似たような感じで、Aさんにも(セックスワークだからではなく、生き延びてくれたことを)感謝しています。それがいつしか——きっと私の中にあるセックスワークへの偏見(「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう」)なのだと思います——Aさんがセックスワークをしていた理由を「生き延びるためだから」と勝手に決めつけるようになっていました。

椎名さんは、「一体またどうして、なんだって風俗なんかを、という質問に何度も何度も何度もさらされるうちに、まるで説明責任があるかのような気分にいつの間にかなる日もあ」ったと言います。私は、Aさんがセックスワークをしていた事実を恥ずべきものとは思っていないという自分のポージング(姿勢作り)のために、Aさんの本当の理由や経緯を尊重せず、また「恥ずべきものとは思っていない」くせに——実際にはそう思う部分があったのだと思います——言い訳するかのように、勝手に説明責任を感じて「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」と言い続けてきた気がします。

椎名さんの記事を読んで、「セックスワークは生き延びるための手段」と思いたかったのは自分であることに気付かされました。

自分がAさんのことを恥じていたのではないか、自分が「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう」という偏見をセックスワークに対して持っていたのではないか——頭の中の弁護士はぐうの音も出ませんでした。墨で書かれた「有罪」の半紙が脳内裁判所の風になびきました。

数多くある職業の中で特にセックスワークばかりが「なぜその職業を選んだのか」を問われ語られること自体が、セックスワークを他の労働のあり方とは別の、理由がなければすべきではないようなものとする社会通念の現れなのでしょう。それを頭ではわかっていながらも、それは興味本位で「セックスが好きだから」とか「薬物中毒だから」とか「父親に虐待を受けてたから」という回答を引き出したくて「なぜ」と問うたり邪推したりすることが問題なのであって、他の職業と同様に「生活のため」とかだったら問題ないと思っていました。でも、それは自分に都合のいい、間違った解釈でした。

ひとつには、他の職業もまた「生活のため」とは言えど、単純にその動機のみによって選択されたり継続されたりしているわけではありません。椎名さんがセックスワークを選んだ時のように、「熟慮の末の選択でもなければ、場当たり的で半ばヤケのような勢い任せの選択でもない」選び方だったり、やってみたら「なんとかやれないこともなく」「気付けばそれなりの年月が流れ」ており「愛着」が生まれたり生活のリズムが定着したりして継続している——そういうことって、職種に関係なくよくあるパターンです。

もうひとつは、こうして単純なひとつの動機によって選ばれるわけではないにも関わらず、幾多ある職業の中でセックスワークだけが「なぜ」と問われること、勝手に「なぜ」かを決めつけられること、何かしらの明確な「なぜ」があると想定されていること自体が、そもそもおかしいというものです。その中身が「セックスが好きだから」でも「生活のため」でも、セックスワーカーのことを勝手に決めつけている点では同じことなのに、私はそれに気づいていませんでした。

私は「セックスワークは生き延びるための手段なんだ」と言うことで、(セックスワーカーのことを勝手に決めつけてまで)(しかも大義名分でごまかして自己正当化してまで)何を守りたかったのだろうか。きっとそれは、世の中のセックスワーカーでもAさんでもなく、Aさんやひいては世の中の女性に対して抱いている私自身の(ものすごく認めたくはないが無意識的に持っていると認めざるをえない)女性差別的な偏見と内面化した規範——つまり好んでセックスワークする女性などいない、いたとしたらその女性はセックスワークに従事していることを正当化出来ない、という信心——を守りたかったのだろうと思います。情状酌量の余地もありません。

セックスワークと私自身の関係というのは決して強固な当事者性に支えられるものでは全くなく、あるいは断絶しているのでもなくて、ぐにゃっと曲がっていて、なんというか、伸ばして絡まって指にまとわりつく風船ガムのように、気をつけていないと切れてしまうけれど、思い通りの形にまとめることもできない、捨て去ろうとしても離すことが出来ないものだと感じています。だから人と話していても機会があればセックスワークについて言及したり、文章を書いたり動画を作る時もセックスワークに触れたりと、私自身からセックスワークを無関係のものとして切り離すことのないようにしようとしています。でも、それが私のあらゆる発言を正当化するわけじゃない。私がこれまで「セックスワークは生き延びるための手段」と主張する度に、私は女性差別やセックスワークへの侮蔑を再生産していました。

セックスワークを自分から切り離して考えることはできないから、きっとこれからも私は折にふれてセックスワークについて発言していくことと思います。でもそれなら、今回気づかせてもらった自分の暴力性、差別性にフタをして気づかなかったことにするんじゃなくて、ちゃんと直視しないといけない——そう思って、ブログに書くことにしました。自分の悪いところについてこうして公に書くのはつらいけど、書いて、ちゃんと自分のことを振り返ろうと思ったから、あるいは、その責任があると思ったからです。

あとがき、的な

自分の立場性を無視して客観性を装いつつ俯瞰的に物を言うことの問題性が学問の分野で指摘されるようになってから数十年、いまはむしろ書き手や語り手が自分を社会の一部として考えや見方に偏りのある一個人であることを認識し、自分の感情や考えについてもきちんと含めて語ることが誠実な姿勢だと思われるようになって来ています。

でもこの風潮には、前から少し疑問がありました。というのも、書き手や語り手になりやすい立場の人(男性、民族マジョリティ、健常者、異性愛者、シスジェンダーなど)が書いたり語る内容に自分語りが増え、その結果マイノリティ研究や社会運動において語られる話でもマジョリティが主人公のように存在しているというケースがいくつか目につく印象があったからです。しかもその話をマイノリティが読んだり聞いたりするというのは、マジョリティによるマイノリティの時間の収奪のように感じられます。

だから、私は客観性を装うことも避けなければと思いつつ、同時に自分語りにならないようにするにはどうバランスを取ればいいのかと、ここ数年ものを書くときに考えていました。

今日は、そのルールを崩しました。私の心境の変化なんて語られてもしょうがないだろうなと思いましたし、セックスワーカーの尊厳や権利、安全を拡大するために活動したり発言したり身近な仲間と関係を作っている人たちに私の自分語りを読ませたいとは思っていません。でも、正直に言うと、自分のために書きました。2016年への年の変わり目に、私はこういう問題に気づかせてもらえたんだということを書き留めておくために。

『現代思想』2015年10月号(本日9/28発売)に文章が掲載されました。

先月の頭に青土社より「LGBT特集」を組むとのことで原稿執筆依頼を受け、これまでこのブログなどで書いてきた同性婚関連の議論をまとめた文章を書きました。

内容に即したタイトルを真面目に考えてとりあえず仮に「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流『LGBT』運動と同性婚推進運動の欺瞞」としておいて、 Facebook でタイトルを書いたら「喧嘩売ってるね!」と言われたので、ビビってたんだけど青土社の人は全然タイトルに注文をつけず、気づいたらそのまま印刷されていました。でもさっき実物が届いて他の人の文章をパラパラと読んでみたら、タイトルは無難でも内容は私より喧嘩売ってる人もいたので、まぁいいよね。

以下、冒頭部分のみ公開します。

 同性愛者権利運動にとって、あるいは自らその名を裏切るかのようにBとTを暗に、そして時に明確に排除する「LGBT運動」にとって、同性婚は不可欠な目標としてその思想的、政治的な視界の中心的な位置を占めてきたと言えるだろう。しかしこの政治的傾向——米国で同性婚推進を掲げる大手団体がエイズ危機のあと1990年代半ばから頭角をあらわし、2013年には同性愛者に関する社会運動体として最も多くの資金を諸基金から受け取るようになっていたことに象徴される現在のこの政治的流行——には、たった20年の歴史しかない。
 振り返れば、1966年のコンプトンズ・カフェテリアの反乱、1969年のストーンウォール・インの反乱と、それまで同性愛者やトランスジェンダー を抑圧していた警察権力への抵抗が始まり、のちにエイズ危機を迎えることで社会的に望ましくないとされる者 を明確に差別する政府や各種機関への抵抗と政治的要求 が強まったあと、私たちがこの20年間で観測したものは、性に関する社会運動の急速な主流化と保守化、そして資本主義によるその取り込みであった。この現実的な歴史を直視し、その内部に同性婚推進運動を位置づけることで見えてくるのは、排除と忘却に支えられた、グロテスクな世間体政治 respectability politics に陥った今日(こんにち)の「LGBT運動」の姿である。

他の人のタイトルを見るには、『現代思想』を出版する青土社の詳細ページへどうぞ。そこから購入もできます。

追記

後日、全文をこちらに掲載しました。

同性カップルとゲイ売春:「せっかくLGBTの認知度が上がってきてるんだから、印象悪くしないでよ」

同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

2015年6月26日、米国最高裁判所で争われていた Obergefell v. Hodges の裁判において、「すべての州に、同性カップルへの婚姻ライセンスを発行すること、そして他の管轄区において有効に遂行された同性婚を認知することを要求する」判決が出された。これをきっかけに、私たちは多くの友人が Facebook や Twitter のプロフィール写真を薄い——あるいは薄っぺらい——レインボーに染めるのを見たし、米国のニュースサイトでは歓喜するレズビアン女性とゲイ男性の姿が写真に収められていた。

一方日本では、渋谷区が2015年3月31日に「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」を可決し、翌日4月1日の施行となった。これは、任意後見契約や準婚姻契約書などの公正証書を(多くの場合行政書士に依頼して)作成、渋谷区に提出することで、渋谷区が当該同性カップルがカップルであることを証明する証明書を発行するというものだ。米国最高裁判所の判決の約1ヶ月後、7月29日には、世田谷区が(条例ではなく)要綱という形で、11月以降の実施をめどに、同性カップルがカップルであることを宣誓したことを示す宣誓受領証を区長名義で発行するとしている。どちらも法的な拘束力は持たず、他の自治体によって認知される性質のものでもないが、やはり多くの当事者やその友人たちに歓迎される動きとしてメディアを賑わせたことは間違いない。淀川区の「LGBT支援宣言」は日本の自治体で初めての動きとして歴史的な意味があったが、主流マスメディアに同性カップルの行政的な認知についてのトピックを扱わせたという点では渋谷区もまたターニングポイントを作ったと言えるだろう。一方で、淀川区の「LGBT支援宣言」の中心人物である榊区長が生活保護受給者への不当な扱いを支持していることや、渋谷区の条例の中心人物である長谷部区議がナイキパークの立役者でありホームレス排除に積極的であることなども、ネットでは議論になっていた。

米国においても、日本においても、同性パートナーの社会的な地位は(未だ日本では法的な保護に至らないとはいえ)改善に向かっていると言えるだろう。

そんな中、7月27日に男性向け男性風俗店の店長が、16歳を従業員として雇い使用していたとして児童福祉法違反(児童淫行)の容疑で逮捕された。この風俗店は大手チェーン店で、おそらく日本でも最大規模のものだと思われる。これまでほぼ黙認されてきたゲイ男性向けの風俗産業の、それも最大手がこういった事態になったことで、少し不穏な印象はあったが、この事件ひとつをとって何か新たな動きを感知するのは早計だと思い、このとき私はあまり注目してはいなかった。

そして、8月25日、米国の最大手男性風俗サイト Rentboy.com の CEO 及び6名の従業員が売春斡旋等の罪で逮捕されたというニュースが飛び込んできた。ちなみにこれは、アムネスティが売買春の非犯罪化を提言したことが話題になったばかりの出来事だったこともあり、米国のクィアコミュニティには衝撃を受けた者も多い。 Rentboy.com は個人のセックスワーカーが自分の宣伝を掲載するサイトとして利用されており、「Rentboy.com によって商売が安全にできたんだ」と証言するセックスワーカーもいる。また、プライドパレードにフロートを出すなど、ゲイコミュニティーとのつながりもある企業だった。

そして翌日8月26日、日本のある男性議員がゲイ向け出会い系サイトで出会った19歳男性に金銭を支払って性的関わりを継続的に持ったことが報道された。報道されている通り、日本の法律において男性同士の売春は罪として規定されておらず、今回のケースも相手が18歳以上であることから法的問題は無い。しかし、この議員は名指しで公に性的プライバシーを暴かれ、真偽はわからないにせよ、性的指向も暴露されてしまった。報道されている本人と相手との LINE メッセージアプリでの会話を見るに、(それがロールプレイで無い限り)デートDVの加害があった可能性が高いように感じられるが、それは別の観点で批判されるべきことだ。

まとめると2015年になってから以下のようなことが起きている。

  • 3/31 渋谷区条例可決、翌日施行
  • 6/26 米国最高裁判所、同性カップルへの婚姻の権利を全国的に認める
  • 7/27 日本の男性向け男性風俗店店長が児童淫行の容疑で逮捕
  • 7/29 世田谷区要綱提出、11月実施予定
  • 8/25 米国最大手男性風俗サイト CEO 及び従業員が売春斡旋等の容疑で逮捕
  • 8/26 日本のある男性議員が19歳男性を買春していたことが報じられる

Respectability politics という言葉がある。 respectability とは「社会的に受け入れられる、きちんとした状態」、つまり世間体が良いことを指す。 politics は政治だ。つまり、ある特定の人々に対する差別に対抗する中で、そこで差別されている人々がいかに「まっとうな人間」かどうかを説明する形で、世の中に差別解消を訴える、そういった政治活動のやり方を respectability politics と言う。「世間体政治」とでも訳せるか。

Rentboy.com のニュースを見て、米国における LGBT 運動が持つ respectability politics という側面の危険さを改めて恐ろしく感じていたところに、上記男性議員のニュースが入ってきた。「世間体の良い LGBT だけが生き残る世界」になりつつあるんだ、という、うんと前から気付いていたことだけれど、改めて現実として、現在進行形の、もう始まってしまったこととして目の前に見せつけられて、私は寒気がした。(8/28午前1時追記:誤読されているのを2回ツイッターで見たので追加説明をしますが、ここで私は、LGBT の中でも同性カップルという愛とかで表現できる世間体の良い者ばかりが取り上げられ、受け入れられていく一方で、売春に従事するクィアや買春をするクィアなどに代表されるような世間体の悪い者の存在は依然として同性愛嫌悪やトランス嫌悪、女性嫌悪のターゲットとして温存されているという現状と、その現状を作るに至った背景にある LGBT 運動自体の『世間体政治』のやり口の責任を問うています。)

その寒気は、そして、すぐに灼熱の業火に吹き飛ばされた。全国LGBT活動者の会(カラフル連絡網)の呼びかけ人であり、同性愛者当事者でもあり、「いのち リスペクト。ホワイトリボン・キャンペーン」を立ち上げ、自殺対策において政府に「性的マイノリティ」も対象に含めるなど求めてきたロビイストでもある明智カイトさんが、ゲイ疑惑の****議員:ぜひ、同性愛者など性的マイノリティのいじめ対策、自殺対策に取り組んでくださいという文章を公開したことが理由だ(名前の部分は伏せてあります)。

そもそもタイトルに使われている「ゲイ疑惑」という言葉、これまでにどれだけの当事者やその友人たちがこれに反対してきたことか。性的マイノリティであることは「疑惑」を持たれるようなことではない、という主張を、私たちはどれだけ繰り返してきたことか。そして、様々な形で「疑惑」を持たれた当事者や非当事者がどれだけ社会的制裁を被ってきたことか。それを、 LGBT 運動に携わる者が繰り返すことに、私は正直驚いた。

そして、最初にこの件を報道したメディアが行ったことは明確な「アウティング」であるにもかかわらず、そこを一切批判することなく、「真偽のほどはわかりませんが、今頃この記事によって**議員は『ホモ』『キモイ』『死ね』・・・などとネット上などで激しく叩かれているのではないでしょうか」(名前の部分は伏せてあります)とだけ触れている。実際 Twitter でこの議員の苗字と「ゲイ」という言葉で検索をかけると、今回の件に関するツイートの一番最初のものは、以下の内容だった。

このツイートから明智さんの記事が出るまでに投稿されたツイートのうち、検索に引っかかったのは110件。うち、「キモイ」に準ずる表現があったのは2件、「ホモ」が含まれていたのは7件、「死ね」という表現は0だった。上記ツイートも含め、「ゲイであることとは関係なく」というスタンスのツイートも多く、少なくとも明智さんが当該記事を公開した時点でこの議員が「『ホモ』『キモイ』『死ね』・・・などとネット上などで激しく叩かれている」というのは言い過ぎだし、「のではないでしょうか」と明智さんが仰る通り特に調べてはいないのだろう。もちろん、本人が同性愛者としてもいじめ被害経験者としても当事者である明智さんが、わざわざこの議員の叩かれている様子(それは同時に、すべての同性愛者に対するヘイトスピーチでもある)を好んで見たがるわけはないし、見たくなかったという思いがあればそれも尊重されるべきではある。(8/28午前1時追記:ご本人のツイッターアカウントへのリプライを見ると、当初から少なくない数の同性愛嫌悪的表現が使われていました。圧倒的多数ではないにせよ、「激しく叩かれている」と言えなくもない状況ではあります。)

一方で、しかし、「叩かれているのではないでしょうか」という推測の言葉を書いたあと、明智さんはすぐさま以下のように話す。

そこで今回はLGBTなど性的マイノリティのいじめ対策、自殺対策について取り組んでいる「いのち リスペクト。ホワイトリボン・キャンペーン」の取り組みについてご紹介したいと思います。

ここで自身の活動の宣伝に話が変わり、その後自殺対策、いじめ対策などにいかに性的マイノリティの子どもの存在の認知が重要かが語られる。

最後の最後に当該議員に「様々な背景を持った子どもや若者たちの命や安全を守り育む存在へと変わって欲しい」と希望を託しているが、こんな白々しい締め方があるだろうか。もしこれまでの彼の発言を踏まえてもこの議員がそんな「存在」に生まれ変われると信じているなら楽観的すぎるし、これまでの発言を踏まえても生まれ変われるほどその「存在」になるためのハードルを低く設定しているのであれば「様々な背景を持った子どもや若者たちの命や安全」が守られることはないだろうし、そもそもアウティングの被害にあっている人をつかまえて、アウティングを非難するどころかアウティングに乗っかって更にタイトル&内容で拡散しておいて、そのニュース性を利用して自分の活動を宣伝しておいて、本気で明智さんがこの議員に協力を求めているなんて1ミリも信用できないではないか。

そして、更に展開は訳のわからないことになる。

ニューヨーク在住のジャーナリスト北丸雄二さんは、これまでも米国の性的マイノリティの話題を日本に紹介するなどしてきた人だ。細かいところに違和感を感じつつも、活動には敬意を表するし、敵対する気もなかった。しかしこのツイートは一体何だろうか。「LGBT」とは、記号ではない。厳密に言えば記号だけれど、それによって指し示される人々がいる。彼の言う「隠れホモ」、つまりクローゼットのゲイ男性は、 LGBT 運動が捨てていい存在ではない。何が「エンカレッジ」だというのか。カミングアウトを奨励する動きが米国の運動において過去存在したことはある。けれどそれは、その時代その現場ごとの文脈において必要性を感じる人が多かったという歴史的状況があったのであって、それについての反省もまたなされてきたし、ましてや今の時代日本において、ましてや特定個人が大規模なアウティングを受けた直後にこんな発言をするのは、一体——正直言葉が見つからないが——どういう了見なのか。更に付け加えれば、「LGBT」という言葉に誰を含めるかは、ある個人(この場合は北丸さん)によってジャッジされるようなものではない。「LGBT」と名のつくイベントや活動においてシスゲイ男性が発言権を握ってきた歴史がある中、「ゲイ・ジャーナリスト」である北丸さんが「LGBT」に何を含めるか決めようとすることは、本人の意図がどうあれ、シス特権や男性特権と結びついてしまう。

本当にひどい状況だ、というのが今の私の感想だ。私個人の感想だから書いても意味はないかもしれないが、2015年にこういうことが起きていたという記録のためにも、ここに記しておく。

最後に、今の状況を端的に示してくれているツイートで締めたい。

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翻訳『セックスワークに関して新しく打ち出した方針について、アムネスティ・インターナショナルがハリウッド芸能人から反発を受けている』(ジョージア・ストレート誌)

ジョージア・ストレート誌(チャーリー・スミス)・2015年7月24日

同意のある成人同士間のセックスの売買を犯罪とすることに反対するという計画を出した、世界有数の人権団体が炎上している。

アムネスティ・インターナショナルはこの計画を「成人同士間の同意のある性的行為——これは強制や嘘、脅迫や暴力を伴う行為を含まない——は国家の介入から守られるべきであるとの人権の理念に基づいている」としている。

同団体は、犯罪化がセックスワーカーにとってのリスクを増大させる例を多数引用している。「バンクーバー及びニューヨーク市における街娼に対する嫌がらせ、暴行、強姦、誘拐、そして殺人のほとんどは、警察に通報されていない」ということを示す二つの研究結果もそれに含まれる。

この新しい方針の計画には「強制売春をさせるための人身取引は国際法上犯罪化されるべきであるという、これまで長きにわたってアムネスティ・インターナショナルが採用してきた立場がこの方針によって変わることはない」とあり、また「商業的性行為に関与している子どもは性的搾取の被害者であると当団体は認識しており、国際人権法に基づき支援、補償、救済を受ける権利を持つと考える」とも書いてある。

この団体の同意のある成人のセックスの売買についての対策(訳者注:この計画のこと)は、400を超える団体及び個人からの抗議文を受けることになった。

署名者にはメリル・ストリープ、ケイト・ウィンスレット、アン・ハサウェイ、アンジェラ・バセット、ケビン・クライン、エマ・トンプソン、リサ・クドロウ、レナ・ダナム、キアラ・セジウィック、そして映画監督のジョナサン・デムなどがいる。

「性取引の非犯罪化は売春宿のオーナーを『ビジネスマン』に変えてしまう。そしてそのビジネスマンたちは、さらに増加する売春への要望に応えるために、東欧やグローバス・サウス(訳者注:南半球の発展途上国の総称)のより貧困な国々を中心に非常に若い女性を人身取引しても免責されるのだ」と、抗議文にはある。

アムネスティ・インターナショナルの計画は「国際人権法に抵触しない限り、セックスワークに法的規制がかかることはあってもよい」としている。

さらにこうもある。「この計画は、ハーム・リダクション(訳者注:ハームとは痛みのこと、リダクションは減らすこと、つまり現状において人々が受けている被害を現実として受け止め、いかにその被害による痛みを減らすかという観点)の理念に基づいている。世に出ている証拠群が全体として示しているのは、セックスワークを犯罪とすることがこうした活動に従事する人々への差別をより強化する方向に働く可能性が高いこと、警察によるものを含め、嫌がらせや暴力に晒される危険性を高める可能性が高いこと、そして正当な法の手続きを受けられなかったり、医療サービスや住居支援、教育、そして移民としての立場などの公的な恩恵から排除されることになる可能性が高いことである。」

この計画は来月南アフリカのダーバンで行われるアムネスティ・インターナショナル理事会で審議される予定だ。

一方、世界保健機構(WHO)は各国に「セックスワークの非犯罪化、そしてセックスワーカーに対する民法や規制の不当な適用を廃絶すること」を呼びかけてきた。

アムネスティ・インターナショナルは、セックスワークが規制されるべきかどうかについて明確な立場を出してはいない。

計画においては、「しかし、ある国家がセックスワークを規制したとして、アムネスティ・インターナショナルは、個人がセックスワークに自らの意志で安全な状況下で従事することができ、セックスワークに従事することを辞めたい場合・時にはそうできることを保証するような規制であるように要請するつもりである」としている。

原文筆者について

Charlie Smith(チャーリー・スミス)
@cmsmithstraight

翻訳について

この文章は、上記原文筆者が執筆し、上記日付にジョーシア・ストレート誌オンライン版に掲載された Amnesty International faces backlash from Hollywood celebrities for proposing new policy on sex work を、マサキチトセが2015年7月27日に日本語に翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。

なお、2014年2月時点でリークされていたアムネスティ・インターナショナルによる関連文書の翻訳を含め、当ブログのセックスワーク関連記事も参考にされたい。

画像について

原文に掲載されていた画像を転載している。
キャプションは「アン・ハサウェイは、アムネスティ・インターナショナルへの抗議文に署名した一人である」。
オリジナルは MINGLE MEDIATV による。

翻訳『同性婚の隠された歴史』(ヤスミン・ネアー)

2015年6月25日・Yasmin Nair

同性婚について、最高裁判所はいつでも、それこそ明日6月26日にでも、その判断を出すだろう。

主流のゲイ男性やレズビアン女性がそこらじゅうで、固唾を飲んで待っていると言っている。 Twitter と Facebook のどちらにおいても、みんながどうなるだろうと気を揉んでいる様子を書いている。

この見せかけだけの気の揉み方は、求婚者からのアプローチに驚いたふりをしてみせるビクトリア朝時代の典型的な女性の姿を思い起こさせる。「なんとまぁ、思いもしませんでした! 私が生きている間に同性婚が実現するなんて! まったく驚きました!」

ここ(訳者注:米国)でも海外でも同性婚に対する文化的及び法的な取り扱いは大きく変化してきており、私たちはやっとこの驚いたふりをやめることになるかもしれない。

それでも、ゲイ男性とレズビアン女性はそこらじゅうでまだ振りを続けている。この文化的な行為は、結婚というものを、数十年の、あるいは実際には数百年に及ぶクィアの存在の歴史の中での自然の帰結であるばかりか、唯一望まれていた結果であるかのように歴史を書き換える行為をも同時に含んでいる。

例えば、ニューヨーク・タイムズ紙にフランク・ブルーニが最近寄せた記事で、彼は「エイズ危機を覚えているか?」と問う。そしてエイズで命を落とす愛する人の病院に行って面会する権利を奪われていた多くの人々について書く。「これは、繰り返し目にするような、怒りを引き起こすテーマである。そして多くの同性愛者と仲間が、もし互いに愛し合う同性の関係が異性愛者の持つのと同じ法的承認を得られていれば、こんなことは起きなかったとして抗議した。」

しかし実態はもっと悲惨であった。エイズが数百万の人々の命を奪ったのは、ホモフォビア、そして皆保険が存在しないことという毒物的な組み合わせが理由だったのだ。治療のための研究も薬品も存在せず、病院の方針もまた無能な公衆衛生と絡み合っていた。エイズを罹患した人々は当時その多くがゲイ男性で、そもそも病院は彼らを追い返し、見殺しにしたのだ。

病院のベッドにたどり着けた人たちは愛する人から引き離されたか? 確かにそうだ。しかし愛する人というのは、恋愛関係上のパートナーだけではない。友人たち、過去の恋人たち、そして生物学的家族や世間一般に理解されている関係の枠を超えたところで複雑で互いをケアしあうような友情のつながりをエイズの時代より前に数十年ものあいだ培ってきた多くの人々もまた、愛する人であった。こうしたケアと仲間意識のあり方が破壊されたことは、現在に至っても未だに私たちが消化しきれていない、エイズが残した遺産のひとつであろう。

だから、違うのだ。ブルーニの視野の狭い歴史観が私たちに信じさせてしまいそうな、恋愛関係上のパートナーである夫たちが死にかけている男性たちのベッド脇から追いやられて待合室にいるという話は、80年代のエイズの中心的な問題ではなかった。人がエイズで死んでいく、それもしばしば残忍だったり人間らしさを奪われた状況下で、ということこそが、もっと大きな問題だったのだ。しかしブルーニの話を信じてしまうならば、エイズから学べる教訓とは、この伝染病の問題はすべて同性婚によって解決されるというものにしかならない。

話はこれでは終わらない。ブルーニは「ロスアンジェルスに1950年に出現した、最も早く生まれた同性愛者の権利団体のひとつ」である Mattachine Society 、そして「サンフランシスコに1955年に出現したレズビアン政治団体 Daughters of Bilitis 」に言及し、「これらの種から、同性婚合法化の花が咲いた。介入してきた厳しい冬には事欠かなかった」と結論づける。

でたらめだ。これらの団体の意識の中には、結婚なんて入っていなかった。彼ら彼女らはゲイ男性とレズビアン女性が存在することを記録に残し、支援し、アウティングされれば生活どころか命すら失うことを意味した時代においてアウティングをされたゲイ男性とレズビアン女性に必要とあらば法的な資源を提供し助けるという目的のもと、茶封筒にニュースレターを隠して送付するなどして真っ暗な匿名性の中で戦っていたのだ。比較的保守的な団体として Mattachine と Daughters of Bilitis はその同化主義的な政治を批判されてきたが、多くのゲイ男性とレズビアン女性にとってしばしば唯一の資源であったことは否定できない。

同性婚の隠された歴史というのは、1990年代半ばに主流派同性愛者団体がのし上がって来るまでのあいだ、 LGBTQ のコミュニティーにおいて同性婚が大きなトピックであったことなど無かったということだ。何が起きたかといえば、エイズ後に政治的なエネルギーを失ったあと、 Human Rights Campaign や古参の National Lesbian and Gay Task Force(現 The National LGBTQ Task Force )などの団体が成長し、その指導者がほぼ全員白人ゲイ男性かレズビアン女性で、時々申し訳程度に有色人種も入るがいずれにしても、規範的(規範に合わせるタイプの)政治が唯一の道であると熱心に信じる人たちであったということである。

同性婚の隠された歴史がいつかやっとのことで書かれたとき、それは、少数の富裕者に人質に取られていたような(訳者注:交渉のカードに使われたという意味か?)資源をろくに持たないコミュニティーに押し付けられたことを暴くだろう。90年代半ば以降、オープンなゲイ男性やレズビアン女性が増えたが、彼ら彼女らは主に白人で、権力と富を持っていたし、自らの野心が他の皆の野心と平等に見られかつ満たされ、自らの富が家族の中に継承され、すでに注意深く増やしてきた経済的な利益を今後も増やし続けられる方法を渇望していた。

同性婚の隠された歴史は、それが「平等」とは一切関係ないものであり、少数のゲイ男性とレズビアン女性が自らの富にしがみついていられることを実現するためのものであったということである。

最も適した例は、ブルーニや他の人々が勇敢なヒロインとして描く Edith Windsor だ。 Human Rights Campaign や他の団体・人々は、彼女について神話を作り上げた。その神話とは、彼女がニューヨークの寒くて隙間風の入るような空っぽの屋根裏部屋でドアの外の狼の鳴き声を聞きながら寒さに耐えるためマッチを何度もすり続けている小さな老女である、というものだった。

実際には、 Windsor は金持ちなんてものではない。私がザッと計算したところ、彼女は1千万ドル(訳者注:日本円で約10億円)ほどの富を持っている。この額が少額に感じられるようなニューヨークの富裕層と比べれば貧しいと言えるのかもしれないが、 DOMA (訳者注: Defense of Marriage Act =結婚を異性間だけに限定する法)制定によって何らかの影響があるほどの不動産を持っている自分を想像するのが好きな、実際には彼女よりも全然少ない富しか持っていないのに幻覚を見ているゲイ男性とレズビアン男性と比べれば、 Windsor ははるかに快適な生活を送っている。私たちはきちんと目を向けなければならない。 Windsor は税金を払えないから払わなかったのではなく、払うことを拒否したのだ。

同性婚の隠された歴史は、 Edith Windsor が救いのない被害者であるという神話を維持することに、左翼メディアも主流メディアも喜んで共謀したということだ。ニューヨーク・タイムズ紙が Windsor を取り上げたこの記事も一つの例である。タイムズ紙はたいていの場合、人々の純資産を公開することを重要視している新聞だ。富裕層向けの新聞であり、富裕層は他の富裕層仲間について知ることを好むのだから。さらに、今回の件は税金および税に関する裁判がストーリーの中心である。だからタイムズ紙が Windsor の資産を調べ暴くことは絶対に必要なことであった。しかしタイムズ紙は、この問題については全く口を閉ざしている。

そもそも、この裁判がアピールしようとしている対象であるアメリカ人が Edith Windsor のことを税金で苦しんでいる人ではないと知ったとしたら、彼女への共感ははるかに少なかっただろうし、「見てこんな可哀想な小さなご老人の女性が大変なことに」というやり口を使うことで(訳者注:本当の裁判所ではなく)大衆の意見に判断を委ねるような戦い方をしたこの裁判は、敗北していたことだろう。だからタイムズ紙はジャーナリズムの矜持など持っている振りすらせず捨て去って、最低限の事実のみ報道したのだ。すでに公に記録されている彼女の不払い税額だけは報道せざるを得なかったが、彼女の純資産など下世話なことは忠実に沈黙を守ったのだ。

同性婚の隠された歴史は、同性婚推進運動の本当の目的を隠す動きが、同時にクィアの直面する他の問題が無視される状況を作ってきたということだ。同性婚に批判的だとうそぶく人々からすら聞かれる主張に、同性婚は正しい優先順位ではないが、同性婚によって他の問題にも必要なだけの注目が向けられるようになる、なぜなら(好んでこの表現を使う人が結構いるのだが)「波が上がればすべての船が昇る」からだ、というものがある。

くだらない嘘をつくんじゃない。波は上がっていない。同性婚はむしろ、タイタニック号を沈没させた氷山みたいなものであることが明らかになっている。メイン州の同性婚の戦いについての記事で Ryan Conrad が言っている通り、HIV/エイズ関連や若者関連の運動をしている団体はかなり厳しい状況にあるし、すでに閉鎖しているものもあるのだ。

端的に言って、同性婚の隠された歴史とは、がつがつして強欲で完全に自己中心的なゲイ男性とレズビアン女性によって実行されたこのがつがつして強欲で完全に自己中心的な運動という本当の歴史が、フランク・ブルーニや、フランク・リッチやリンダ・ハーシュマンなどの愛想のいい異性愛者アライ(訳者注:一緒に戦う仲間、という意味)などによって、構造的に消去されているということだ。同性婚の隠された歴史と言った時、私たちの性生活がもっと面白いものになることを同性婚が邪魔するかもしれないということを騒いでいるのではない。同性婚の勝利が、個人間の性愛関係だけが経済的保障や健康保険へのアクセスを実現するようなネオリベラルな社会を固定化してしまうということなのだ。同性婚はやっと叶った夢である、という話をするのが好きな人たちがたくさんいる。現実には、同性婚は悪夢でしかないし、ネオリベラリズムにとって最も利用しやすい道具である。

原文の筆者について

Yasmin Nair(ヤスミン・ネアー)
http://yasminnair.net/

翻訳について

この文章は、上記原文筆者が上記日付に本人のウェブサイトに掲載したブログ記事 The Secret History of Gay Marriage を、マサキチトセが2015年7月21日に日本語に翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。

翻訳『同性婚の代償』(ティモシー・ステュワート-ウィンター)

2015年6月26日・ティモシー・ステュワート-ウィンター

画像:ストーンウォールの反乱の1ヶ月後、1969年7月27日に同性愛者の権利を支援する人々がマンハッタンで抗議デモをしている様子。(フレッド・W・マクダーラ/ゲッティ・イメージス)

米国全土での同性婚の権利を認めた最高裁判所決定は、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーのアメリカ人にとって喜ばしい瞬間をもたらした。私たちの平等な尊厳、そして異性愛カップルが享受するのと同じ法的保護を得る権利が認められたことは、公民権の歴史における画期的な出来事である。しかしこれはまた、第二次世界大戦後に始まった同性愛者の自由を求める運動にとって、最後の歌声になるかもしれない。

過去10年間にこの運動が得た二つの大きな勝利、つまりオープンに軍隊に務める権利と、婚姻する権利が実現したと同時に、女性の同一賃金や妊娠・出産に関する選択、住居や学校の分離状況、マイノリティに対する警察暴力、及び十分な賃金と、皆にとっての職と退職の保障といった、公民権の他の領域において、改善がストップしてしまったり、あるいは逆行してしまったということは、とても不運なことであった。

性的指向や性自認を理由とした雇用及び住居差別の禁止という、最も同性愛者に幅広く適用されるであろう公民権の法律が未だに私たちを避け続けている(訳者注:成立する様子がない)のは、偶然ではない。反差別法は単にそれを施行しなければならない政府にとって甚大なコストを生み出すだけでなく、それを遵守しなければならない企業にも甚大なコストを生み出す。一方で、軍隊や婚姻制度に同性愛者を入れることは、コストを生み出しはしない。実際、米国内の大きな航空会社、銀行、保険会社や製造業者を含め、379の企業が、結婚に関する法律の不平等によって面倒な規制や財政困難が引き起こされており優秀な人材の確保の邪魔をしているとして、同性婚を支持する文書を出している。

2003年にマサチューセッツ州が同性婚を米国で初めて合法化した時、国内の多くの地域でそのような人の繋がり方を禁止する住民投票という形のバックラッシュが席巻した。これを受け、結婚に興味を持っていなかったレズビアン女性とゲイ男性の多くも、同性婚に関する疑義を一度棚上げにした。

しかしこうして目的を一致させたことには、代償が伴った。婚姻の平等運動を牽引した推進団体 Freedom to Marry は、2013年時点で、同性愛者に関する社会運動体として最も多くの資金を諸基金から受け取っていた。こうして結婚の戦いに注ぎ込まれた労力と資金の数割でも、トランスジェンダーの人々やホームレスのティーンエージャー、雇用差別の被害者、レズビアンやゲイの難民や難民申請者、孤立した高齢の同性愛者、そして私たちコミュニティにいる他の弱者たちのために使われるようなことはあるだろうか? 2011年にニューヨーク州が同性婚を合法化した頃、同州は、同性愛者やトランスジェンダーの割合が一般人口よりも高いホームレスの若者に向けての福祉サービスの資金を削減していた。

第二次世界大戦以降始まった同性愛者の権利運動は、社会の端っこから始まった。その最も大きな声は、社会慣習をひっくり返そうとしていたのであって、参加しようとしていたのではない。この運動がある日結婚に関して一致団結するなんてことは、避けられないことでは全くなかったのだ。

全国的な同性愛雑誌 ONE は、出版が開始された1953年に、同性愛者がいつか結婚することを許されるかもしれないという考えを退けていた。「私たちのような反乱者は、自由を求めるのだ!」と、ある記事には書かれている。「実際、私たちは(それがいかに秘匿されている形であったとしても)異性愛者よりも多くの自由を持っているのであって、何か変化を起こすことは、世間体と引き換えにその自由の一部を受け渡すことである」

もちろんここで書かれている自由とは、壊れやすいものであった。翌年にはロスアンジェルスの郵便局長がこの雑誌を卑猥なものとみなして、配達拒否するということが起きた。最高裁判所は雑誌側の主張を認めたが、1950年代から1960年代にかけて多数の同性愛者関連の出版社や企業、バーが閉店を余儀なくされた。

1969年にマンハッタンでゲイバーでの警察の強制捜査に対抗して起きたストーンウォールの反乱のあと、フェミニストやラディカルな黒人の要請に応える形で急速に運動が成立した。1972年には、ある活動家がレズビアン系の新聞で、彼女とその仲間は「銃を持った革命家、あるいはホワイトハウスやチェイス・マンハッタン銀行を爆破するような爆弾脅迫グループよりもさらに恐ろしい、社会にとっての最も大きな脅威である」と書いている。

当時、カミングアウトすることはそれ自体がラディカルな行為であった。性的なアイデンティティが暴露された人は、それに応じた大きな代償を払うことになった。1975年、ヴェトナム戦争の退役軍人オリバー・W・シプルは、ジェラルド・R・フォード大統領の暗殺を未然に防いだが、彼が同性愛者だと報道関係者が知った時、彼の人生は破壊されてしまった。テニスのチャンピオンであるビリー・ジーン・キングが1981年にレズビアンだとアウティングされた時には、彼女は商業スポンサーの多くを失った。

1980年代のエイズ危機は、同性愛者のコミュニティーを打ちのめしたが、同時にそれはコミュニティーを蜂起させることにもなった。

活動家たちは、静脈注射を使う薬物使用者、セックスワーカー、ホームレスなど、この伝染病の被害を受けている他の人々との連帯を見出すことで、薬品研究と承認のための連邦資金を要求し、レーガン政権による社会的セーフティーネットの削減に抗議するようになった。1991年には、活動家団体 Act Up が米国医師会の会議でデモを行い、皆保険を要求した。エイズ危機が子の養育権、病院の面会や末期治療の問題を通して明らかにしたのは、同性愛者の結婚からの排除がどれだけ影響を及ぼしているかということだった。

エイズによって同性愛者に対する恐怖が再燃した一方で、エイズは彼ら彼女らを政治的主流に駆り立てることにもなった。エイズ関連の支援団体は当時大きくなりつつあった非営利セクターの一部を担っていた。医薬品の進歩によってエイズが米国において死を意味しなくなってからの20年間で、同性愛者の権利運動はその要求を推し進めるために、政府、そして企業までもと協力体制をどんどん作り上げてきた。

最近になるまで、同性愛者の勝利というものはローカルな、あるいは州のレベルに留まっており、連邦政府は遅れを取っていた。活動家に背中を押され、オバマ大統領がこの流れを変えた。ビル・クリントン政権の名残である軍隊内でのオープンな同性愛者の禁止を撤廃しようとする民主党議員に、彼も参加した。婚姻保護法(原文:”Defense of Marriage Act”)(これもまたクリントン時代の名残である)の中のある重要な条項について最高裁判所は二年前に無効としているが、それ以前にオバマ政権の司法省はこの条項を擁護することを拒否していた。

このゲイ・プライド・マンス(同性愛プライド月間)は長期にわたって人々の記憶に残るだろう。私たちの多くは、この日を待たずして亡くなった友人や恋人たちに思いを馳せている。ケーキは食べられ、花がちりばめられる。ほうきが飛び越えられ、グラスは叩き割られる。私たちみんなが他のどんな問題をも差し置いて結婚を優先することを選択はしなかっただろうが、この権利を欲しがる声が広範にわたっていたことは誰も否定できないだろう。

多少のバックラッシュは出てくるだろう。地域の聖職者が抵抗したり、あるいは宗教的自由に関する法律によって企業が従わないで済むように企てたり。

しかし宗教的右翼よりもさらに大きな危険は、私たちが新たに発見した強大な影響力が、他の人々の困難を見る私たちの目を濁らせてしまうというリスクである。現在、かつてない数の同性愛者が、インサイダーである。米国の最も価値の高い企業の一つであるアップルもゲイ男性が率いている。ウィスコンシン州の民主党員でありレズビアンのタミー・ボルドウィンは、2012年に上院に当選している。主要な共和党員、リバタリアン、資本家、CEOなどが名前を出し、時間とお金を同性婚推進のために費やしている。

しかしそれよりももっと多い同性愛のあるいはトランスジェンダーのアメリカ人は、永続的にアウトサイダーだ。反同性愛のレトリックをさらに強化する教会もあり、家族による拒絶や若者のホームレス化に寄与している。トランスジェンダーのアメリカ人に対する暴力は増加している。刑務所にいる同性愛者は依然として強姦や虐待にさらされている。黒人の若者のあいだでは H.I.V. の感染率が上昇している。

1920年に憲法修正第19条が公式に承認されたあとにフェミニストが学んだ通り、一つの方針の追求のためにほとんどの力を注いでしまう社会運動というのは、決定的な勝利を収めたあと、勢いをなくし停滞する。

同性愛者はいま、結婚する権利を求める戦いに注いだのと同じだけの資源と労力を、差別からの保護を求める戦いに注ぐべきである。私たちの戦いは警察の嫌がらせへの反撃から始まったのだということ、そして「黒人の命だって大切だ」(原文:”Black Lives Matter”、訳者注:黒人をターゲットとした警察による殺害が相次ぐ米国で、抗議する人々が現在このスローガンを用いている)というのは自分たちの運動でもあるということを、私たちは頭に入れておかないといけない。同性婚を合法化した、最初ではなく、20番目の国にふさわしく、アメリカは海外において平等を説く際には偉そうにせず、転向者の心持ちで臨まなければならない。

同性愛者の運動は、家族の価値を認めることを主張してきた。そこには、片親の家族、養子のいる家族、その他もろもろのあらゆる形が含まれるのだ。他のこと、この家族肯定的な社会の転向の中では見失われるリスクの高いことも、主張してきた。それは、親密さ、家族生活、そしてケアは常に一つのパッケージに包まれているわけではないこと、結婚が子供や財産や健康を守るための唯一の方法であってはならないということ、家族を持つことが完全な市民権を持つための要件になってはいけないこと、そして慣習的な世間体が社会受容への唯一の道になってはいけないということだ。

私が教える学部生の多くは、同性婚が考えることもできなかった時代というのを覚えていない。しかしこんにち生きているアメリカ人にとって、同性愛者であるとカミングアウトすることは将来結婚しないということを意味していた。そしてカムアウトすることを選んだ私たちは、排除されている人々に共感するという以外の選択肢に乏しかったも意味していた。どう考えても、私たちは結婚するタイプではなかった(訳者注:原文は “the marrying kind” で、英語表現としてセクシュアリティを問わず結婚に合わないと感じる人やそう言われてる人などを指す言葉)。そしてそれが、私たちが特別な存在であった理由の一つだった。

私たちの中には、結婚が社会の端っこから抜け出すチケットだと感じる人もいるだろう。しかし、最高裁判所が認めたからといって先走って勝利を宣言して、そこから排除されている人々や、基本的な承認への要求すらままならない世界中の人々のことを無視するとしたら、それは悲劇だ。私たちの歴史を忘れること、同性愛者であるということが何を意味してきたのかを忘れることは、払うには高すぎる代償である。

原文の筆者について

ティモシー・ステュワート-ウィンター
ラトガーズ大学ニューアーク校歴史学部助教授。 “Queer Cloud: Chicago and the Rise of Gay Politics” の著者。

翻訳について

この文章は、上記原文筆者が英語で書き、上記の日付に ニューヨーク・タイムズ紙で公開された文章を、2015年7月20日にマサキチトセが翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。

翻訳『結婚は私たちを決して自由にはしない』(ディーン・スペード、クレイグ・ウィルス)

2013年9月6日・Dean Spade & Craig Willse

近年、同性間の婚姻を認める州法が可決するたびに、同性間の婚姻の法的認知を肯定する裁判所判断が出されるたびに、政治家が同性間の婚姻を肯定的に語るたびに、革新を志向する(”progressive”)人々の多くは結婚を称揚してきた。一方同時に、多くのクィア活動家や学者は同性婚推進運動を厳しく批判してきた。結婚を擁護する者は時にこれらの批判があることを認め、このようなことを言う。「結婚は万人のためのものではないし、万能でもないけれど、それでも必要だ」と。

これはどういうことだろう。同性婚推進は革新的な運動なのだろうか? それは、人種や経済的正義、脱植民地主義、フェミニスト解放の左派の政治的プロジェクトと、矛盾なく存在しているのだろうか?

答えは否だ。同性婚推進は偉業をなした。つまり、同性愛嫌悪に反対することを、結婚に賛成することと同義としてしまった。結婚を通して家族とジェンダーを国家が規制するという、人種的・植民地的・家父長的なやり方に対しての批判的な思索や運動の数百年の歴史をかき消してしまった。私たちが初めに目を向けなければならないのは、結婚のそのような解釈である。

1. 結婚とは何なのか

市民の結婚とは、セクシュアリティと家族形成について望ましいあり方を設定し、そのあり方を優遇することによって政府がセクシュアリティと家族形成を規制するために使われる、社会支配のツールである(例えば米国では、100を超える優遇措置がある)。結婚が優遇されている一方で、他の家族形成の形、他の恋愛関係や性的振る舞い(”sexual behavior”)のあり方については、同様の優遇措置を受けられない上に、烙印を押され犯罪化されている。端的に言って、人々は、結婚するかどうかによって罰せられるか優遇されるかという状況にあるのだ。合法的婚姻というもの自体が、健康保険などの資源や合法的移民への道という生活に必須のものへのアクセスが結婚するか否かに深く結びつけられているという強制的規制であるのだから、同性婚推進を「婚姻の自由」や「平等」のための戦いととらえるのは馬鹿げている。この制度において、解放的だったり平等的なものはひとつとして無い。

ゲイル・ルービン(Gayle Rubin)は1984年の有名な論文『Thinking Sex』において、性的行為(”sexual practices”)を階層的にランク付けする制度というものが、その支配活動を維持する一環として自らを変容させることを解説している。また、ルービンはセクシュアリティが普通で自然と思われている行為群(「特権圏(”charmed circle”)」と呼ばれるもの)と、悪でアブノーマルと思われている行為群(「外側限界(”outer limits”)」)に分断されていると解説する。

行為はこの外側限界から特権圏に移動することができるし、また実際に移動するケースがある。婚姻関係にないカップルの同棲や、あるいは1対1の婚姻関係にある同性愛ももしかしたら、強く烙印を押された状況から受容可能と思われるものに移行することができる。こういった移行はしかし、性的振る舞いのランク付けを廃止するには至らない。つまり、これらの移行は、そもそもの特権圏と外側限界の存在を脅かすことはないということである。ある行為が受容可能なものに移行したところで、自由と平等は達成されないのだ。代わりに、それらの移行によって、善良で健康で普通と思われているものと、悪で不健康で烙印を押されていて犯罪とされているものの間の境界線は、むしろ強化されてしまう。社会が突然にも承認し出した少数の人々のために境界線が動いて配慮をし、そうすることでこの制度は修正されるものの維持されるのだ。法的な婚姻制度は、その帰結として存在する刑事処分制度——淫行や客引き、猥褻行為などに対する法律などがある——と組み合わさって、どの性的行為と振る舞いが受容可能かつ優遇対象となり、どれが軽蔑や処罰に価するかの境界を作り出し強要している(”enforce”)。

結婚についての社会的思い込みというのは、同性婚推進においても再現されているが、結婚というものは愛に関するもの、老人や子供の世話に関するもの、素晴らしい人生を共に過ごすことに関するものである、もっと言えば幸せな個人の人生及び健康的な文明の礎である、というものだ。フェミニスト運動、反人種差別運動、反植民地主義運動はこれに反対し、結婚を、性と家族の規範を暴力的に強制する制度と見なしてきた。これらの運動から、私たちは結婚というものを、性差別的で異性愛中心的家父長制に基づく恋愛神話のサテンリボンで包まれた、ある種の技術——社会支配のための、搾取のための、そして財産略取のための技術——であると理解している。

結婚は反黒人の人種差別の道具である

米国建国以来、家族形成の規制は反黒人の人種差別と暴力においてとても重要であった。子供が生まれた瞬間に奴隷となること、黒人が人間ではなく所有物であることを確認する意味でも、奴隷の家族的つながりを否定することは奴隷制にとって必要不可欠であった。解放後、政府は黒人の支配に大急ぎで着手し、新たに自由になった黒人同士の結婚を強要した上で、囚人貸出制度(訳者注:民間企業が州に料金を払うことで、受刑者に無償労働させることができる制度)に黒人を再度取り込むために、不倫を理由に彼らを犯罪者化した。ブラウン対教育委員会(”Brown v. Board of Education”)裁判では公的で法的な分離政策に意義が申し立てられたが、この裁判のあとは、黒人の子供を様々なプログラムやサービスから排除するために嫡出に関する法律が好まれて用いられるようになった。結婚している家族とその子供が最も優れているという考え方は、当時も今も、反黒人の人種差別にとって重要な道具である。

Moynihan Report が最も有名であるが、黒人の家族はこれまで学術研究や社会政策において、婚姻率を根拠に、病的あるいは犯罪的であると描かれてきた。反貧困者・反黒人の言説及び政策立案においては、貧困は、黒人の人口における結婚の少なさの帰結であると位置付けられる。クリントンの福祉プログラム解体によって黒人家族は特に大打撃を受けたが、結婚していない親の存在が貧困の原因であるという露骨な言説によって正当化された。ジョージ・W・ブッシュ大統領やバラック・オバマ大統領の政権下では、時に現金をちらつかせて低収入の女性を結婚させようとする「健康結婚推進(”Health Marriage Promotion”)」政策が用いられてきた。残酷な介入や「優しい無視(”benign neglect”)」を正当化するために人種差別的で性差別的な結婚家族規範を押し付けることで黒人を悪魔扱いし、管理し、支配するという構図は、米国において長い歴史を持ち、かつ現在でも横行している。

結婚は植民地主義の道具である

植民地化において、しばしば侵略は、植民される側の人々を後退したジェンダーや家族制度から救うことであると見なされる。これは、この文章が書かれている土地(ワシントンD.C.及びワシントン州)からアフガニスタンに至るまで、散見される。ジェンダー、セクシュアリティ、家族構造に関するヨーロッパ的な規範を先住の人々に強制し、それに準じないことをもって罰するというやり口は、北米における合衆国の定住植民地主義の重要な手法であり続けてきた。結婚は、先住の人々を消し去るために行われた土地の横奪や民族浄化における、重要な道具である。合衆国は、西側への植民を促すために、西側への移動であれば男性植民者に対して160エーカーの土地を約束し、更に結婚し妻と一緒に移動した場合には追加の160エーカーの土地を約束した。同時に、先住の人々が共同で生活していた共同住居を焼き払い、共同的土地所有のやり方を潰し、男性個人による土地所有のあり方を押し付けることを通して、合衆国は先住の人々の伝統的な共同の生活スタイルを犯罪化した。ジェンダーや家族の制度の管理とは、これまでも、そして現在でも、強制移住や植民地化にとって重要である。「文明化のミッション」の一環として寮制学校においてジェンダーの規範を強制し、現存するものも含めあらゆる方法で先住民族のコミュニティーから子どもたちを切り離すことは、合衆国における民族場が及び植民の重要な道具であった。

結婚は外国人嫌悪と移民取り締まりの道具である

建国当初から、合衆国の移民法は受け入れる移民——常に国外追放の危機にさらしたまま——を制限し、他の移民を「望まれない者」とすることで、どちらの移民をも労働搾取しやすく、追放可能な状態に置くための機構を常に配備してきた。貧困な人々や、烙印を押された罹患者、そして有色人種を中に入れないようにするということは、喫緊の国家的優先事項であった。結婚はこうした支配にとって重要な調整弁であり続けてきた。例えば、アジア人商人の妻の移民を許可する一方で、アジア人女性自身の移民流入を退けることで合衆国内でアジア人労働者が子どもを生まないようにしようとした1875年のページ法がある。結婚とは、婚姻関係に基づく家族関係を数少ない移民方法としておくなど、米国の移民支配における深刻に不正義な道具であり続けている。こういった仕組みから生まれる影響のひとつは、自分の移民状況が暴力的で痛みを伴う性的及び家族関係に依存しているとき、その関係にい続けなければならなくなってしまうということである。

結婚はジェンダー化された社会支配の道具である

結婚は社会支配及び労働搾取の道具であるということを、フェミニストは長きにわたって認識してきた。だからこそフェミニストは、恋愛や結婚、育児、介護について、それらが女性に無償労働を押し付けることや性暴力を作り出すことを暴くことで、いくつもの神話を解体すべく動いてきたのだ。さらに、婚姻関係から離脱しやすくするために法律を変えるよう運動したり、女性や子どもを暴力的な家庭関係に閉じ込めるような、移民や健康保険などの生命に関わる重要なことと婚姻状況とのつながりを切り離すべく運動してきた。

結婚は私財の保存及び不均衡な分配に関するものである

結婚はつねに、何が(どの女が、どの奴隷が、どの子どもが)誰の所有物であるのか、誰がその所有物を受け取るのかに関するものであった。相続、労働者の保障、保険金受給、税金、死亡に関する損害賠償などの、結婚と関連するすべての特典は、富を富裕層の手に保存するような特典である。所有物を持たない人々は結婚する割合も低く、婚姻法を使って守る対象がそもそも少ない。貧困をどうにかするのではなく貧困のままにしておくことで富裕層が自らの富を守るために彼ら彼女らをもっと効率的に利用することができるようにできているような所有の制度自体の解体に、経済的正義のための運動は関わっている。

こんにちの同性婚推進者は法廷やメディアで、結婚は社会の基盤であり、子どもは婚姻関係にある両親を持つ権利があるし、結婚は人間が結びうる最も重要な人間関係である、と主張する。これらは、生きるために必要なものを不均衡に分配し、端に追いやられた人々を支配することに一役を担ってきた法的な結婚というものを解体するべく、これまでフェミニスト運動、反人種主義運動、反植民地運動などが何百年と主張してきたことと、全くの反対の主張である。

同性婚推進運動への批判に対する昨今のよくある反論について

結婚したくなければしなければいい

同性婚は、私たちのうち結婚したい人はすればよいし、したくなければ黙って結婚式のプランを立てさせてくれよ、という「選択」の枠組みで語られてきた。しかしこの選択は、法律や文化的な制度の中ですでに構築された限定的な選択肢の中での選択である。強制的な制度というものは、賞罰を配分している。つまり結婚は、それに参加しない者を罰しているのだ。結婚が個人的な選択であると主張することは、この事実を隠蔽している。結婚は、政府がある種の関係性、家族構成、性的振る舞いを選んで、それを最も適した標準であると定め、それに褒賞を与え、一方で他の者が烙印を押されたり犯罪化されるようなシステムの一部である。結婚やそれに似た関係を結ばずに一生を終える人もたくさんいる。(同性婚の)推進者が結婚したい人は結婚を許されるべきだと反論するとき、結婚制度を通して受け入れられる存在にならない人たちが結婚制度の存在によって受ける損害というのは、消去されるか、正当化されている。するかしないか個人が選択するものとしてのみ結婚を考えるとき、私たちは意味のある抵抗や変革の可能性を手放すことになるのだ。ウェディングギフトの代わりに寄付してくれだとか、女性を「best man(花婿の介添人)」に選んだりだとかの、勝手に個人がやれる見かけばかりのことくらいしか、政治的な行動は想像できなくなる。賞罰制度としての結婚を解体することには、一切寄与しないような行動だ。究極に言って、結婚は選択肢メニューから個人が自由に選ぶようなものではなく、支配に関するものである。

でも結婚は愛に関することであって、愛は革命的なことだ!

上で言った通り、結婚は白人、富裕層、植民者の利益のために人々や所有物を支配することに関わるものである。愛にまつわる消費者駆動の神話の隠れ蓑に隠れながら、実態はそうである。米国のポップカルチャーには、フェミニストが長く分析し、解体しようとしてきたセックス及びロマンスに関する神話が多数浸透している。私たちは、人は結婚していなければ(その人が女性であれば特に)空っぽで意味のない人生を送るのだと教え込まれている。女性は結婚できるかどうかということに欠乏感を感じるように奨励されている(つまり、この人だという人を見つけて、自分と早く結婚することに納得させなければ、空虚な人生を送るのだと思わされている)。この方程式によれば、女性は人種差別的で女性差別的な規範にのっとっている度合いによって価値判断され、男性もまた富を基準に物扱いされランク付けされることになる。こういった神話はダイエット産業や娯楽産業の多くを動かしており、さらにもちろん、ある特定の日に可能な限り金持ちに見えること、細く見えること、そして規範にのっとっていると見えることを恐怖を感じながら目指す人々を収入源とする巨大なウェディング産業(米国では400億ドル=日本円の約4兆円)も動かしている。愛やロマンス、結婚について女性が経験するよう仕組まれている欠乏感や不安というものを、フェミニストは、女性を搾取的で暴力的な性的関係や家族役割に押し込める一種の強制であると認識してきた。結婚と育児が女性の意味ある人生に不可欠であるかのようなメッセージを出すメディアというものは、暴力や無償家庭内労働から女性を解放しようとするフェミニストの運動への保守派のバックラッシュの一部でもある。

これは、人が恋愛関係やその他の関係において愛を一切経験しないという意味ではない。ここでは、事実として、人々の愛を認識し支援したいと政府が思っているから結婚制度があるのではなく、人々と資源を支配するためにあるのだという話をしている。同性婚の推進運動は、結婚とは愛に関するもので、家族の作り方として最善のものであるという保守的な神話を強化しているのだ。

でも私がこのやり方(同性婚)で愛を表現したいと思っているときに、私にクィアとしてどうあるべきかを指示するのはやめて!

同性婚推進運動への批判に対して多く出てくる反応の1つは、すでに結婚していたり結婚したいと思っている人たちによる防御反応である。彼ら彼女らはしばしば、批判者によって個人的に批判されたと感じたと主張する。この反応というのは、構造的な批評を個人の心象の問題に矮小化しており、左翼側の誰から向けられてもとても残念な思いのするものだ! 誰もが抑圧的な諸制度に組み込まれて生きており、むしろそれら諸制度からの恩恵すら生きているのだということを、私たちはすでに認識できるようになっているのではないのか? 自らの特権を認識するのがつらいからといって、自分の組み込まれている制度に対する批判を、不快感を解消するために黙らせたり、むしろその批判によって傷ついたかのように振る舞うことはしてはならないということを、すでに知っているのではないのか? いや、確かに私たちはいつもうまくできているわけではないけれど、頑張ろうではないか。結婚する方向に社会全体が応援しているというのに、結婚している人や結婚したがっている人が批判を受けた被害者面をするのは、わけのわからない話だ。

結婚の批判をする人というのは、同化する人を批判する単なる個人の反同化主義者ではない。結婚の批評というのは、ある種のクィア文化を他のクィア文化よりも優遇して推進しようというものではない。それは、物質的な配分に関することなのだ。人は、好きなパーティを開き、好きなデートができるようでなければならない。重要なのは、そんなことを通して移民や健康保険に関する褒賞が得られるようではいけないということだ。結婚の批評が単に同化に関するものに矮小化されるとき、人種や経済的正義、脱植民地分析に関するものは外部に置かれたままだ。だからこそ、この矮小化を伴う反論がよく持ち出されるのかもしれない。誤解しないでほしい。反同化的議論は重要である。私たちは結婚したいのではなくただファックしたいのだ——あるとき、ある場所で、ある人々にとっては生存のため、オルタナティブを生み出すためにクィアカウンターカルチャーが重要なツールになるという点で、それは意義のあるものである。しかし結婚の批評というものは、かっこいいラディカルなクィアカウンターカルチャーになってはならない。反同化的議論だけでは、あたかも諸制度から自分だけ抜けたり入ったりできるかのような前提があり、「選択の枠組み」を実体化させてしまうリスクがある。実際には、私たちはみんな異性愛中心的家父長制、植民地主義、白人至上主義、資本主義の中に組み込まれて生きている。問題は、これらの制度を解体しながら、これらの制度の中でどう生き延びるかというものになる。ゴールは、誰もが性やジェンダー、家族規範にどれだけのっとっているかとは無関係に、必要なものを得られる世界を作ることだ。結婚の批判者を文句ばっかり言ってるクィアとして済ませてしまうことは、運動の戦略に関する重要な対話を黙らせてしまう危険な行為だ。

でもそれで(同性婚で)人々は健康保険が使えたり移民できたりするではないか

なぜ健康保険や移民のために結婚しなければならないのか? 同性婚の推進運動は、人々に生存に関する資源を与える方法として宣伝されているが、書類の揃っていない(訳者注:undocumented、かつては illegal 不法と呼ばれた)移民のクィアのほとんどには米国市民のパートナーがいないし、保険に入っていない、職のないクィアのほとんどには、健康保険付きの仕事を持っているパートナーはいない。人々はたいてい同じ階級同士で恋愛関係を結びがちだから、パートナーを見つけることで移民や健康保険のクライシスから抜け出すなんてことはできないし、そんな強制行為を私たちの運動が奨励するなんてもってのほかである。同性婚の推進運動は、これらの問題を解決するための戦略なんかではない。よく言っても、最も特権を持った人々がこういった必要な資源を手にいれるのを手助けするだけで、最悪の環境にいる人にとっては何も変わりはしないのだ。

大きな問題(注) レズビアンとゲイの公的な解決法 他のクィアな政治的アプローチ
クィアやトランスの人々、貧困者、有色人種、移民がまともな健康保険に入れていないこと 同性婚を合法化して、仕事を通した健康保険の適用をパートナーとシェアできるようにする MedicaidやMedicareの運動、皆保険を勝ち取る、トランスジェンダーの健康保険適用、国家によって収容されてる人々の医療ネグレクトに抗議する
不公平で懲罰的な移民制度 同性婚を合法化して、国際カップルの米国市民でない方が在留権を得られるようにする 有色人種を犯罪化し、労働者を搾取し、米国とグローバルサウスの過激な格差を維持するために使われている移民政策に対抗する。現在収容されている人々を支援する。人種プロファイリングや国外追放を増加させている「安全コミュニティ」を含む連邦プログラムに対してローカル及び全国的に反対運動をする。
クィアな家族が国家や非クィアな人々によって法的に介入されたり離散させられたりすること 同性婚を合法化して、同性の両親が合法なものになるルートを作る。性的指向を理由とする養子に関する差別を禁止する法律を通す 家族法や子どもの福祉に関する制度によって標的にされている他の人々(貧困の家族、収監されている親、先住民の家族、有色人種の家族、障害を持つ家族)と手を取り合って、一緒にコミュニティや家族の自己決定、及び家族やコミュニティ内部で子どもを育てる権利を勝ち取る
病院の面会や相続の場面において、制度が異性間結婚の外部にある家族的つながりを認識しない 同性婚を合法化することで、法の名の下に同性パートナーを公的に認める 異性や同性だけでなく、様々な家族構成を認識するよう病院の面会についての方針を変える。相続を撤廃し、富の根本的な再分配をし、貧困を終わらせる。

資源へのアクセスが最もある人々を優先するのは、運動にとって非倫理的な行為だ。ホモフォビアやトランスフォビアが最も深刻に現れるとき、そのターゲットになりやす人々を、私たちは優先すべきなのだ。それは、これらの問題に現実的な解決を施すために資源を投入すること、つまり移民施策に抗い、すべての人への健康保険を求めること、そしてホモフォビアやトランスフォビアについて特化した視点をこれらの運動に提供することを意味する。同性婚を合法化することは、少数の特権者がそれによって恩恵を受けるからという理由で、これからも残虐に人々を痛めつける諸制度の上に「平等」というスタンプを押すだけに過ぎない。

これらの制度を変革する現実的アプローチの1つは、なぜ移民や健康保険へのアクセスが結婚状況と結びつけられているのか、移民投獄や国外追放によってクィアやトランスの人々がどれだけ影響を受けているか、そしてどのようにホモフォビアとトランスフォビアが健康を害したり健康保険へのアクセスを阻止しているのかを問うことである。移民施作の拡大をやめさせ、国境の軍事化や収容、追放をやめさせ、健康保険の受益者が私たち皆から吸い上げるのをやめさせよう、という運動はすでに大きな動きを持っている。クィアやトランスの移民及び健康保険に関する問題を扱う現実的な道であるにもかかわらず、巨大で最も資金のある同性愛者団体は、これらの戦いを自らの中心に据えてはいない。なぜなら、ほぼすべての資金を結婚のために投入してきてしまったからだ(残りは軍隊刑事処分制度に投入された)。一方で、左翼側の異性愛者たちは、クィアな人々が直面する重要な問題を同性婚が解決すると聞かされて、同性婚に賛成しなければホモフォビックだと思われると信じてしまっている。

でもクィアは結婚を変革することになる

こういったことを言うとき、たいていその人は二人の女性や二人の男性が婚姻関係になることで慣習的な「夫」と「妻」の役割が変わるだろうという話をしている。問題は、これが対してろくな変化ももたらさないということを、悲しいことに、私たちがすでに知っているということだ。私たちは、異性愛の関係と同等に(約30%)クィアな関係においてもDVが起きることを知っている。

女性やクィアや有色人種を、かつて彼ら彼女らが排除されていた場所(警察や軍隊など)に追加したところで、彼ら彼女らの役割や、彼ら彼女らに頼ることになった制度そのものが変わることはない、ということを私たちは知っている。結婚に同性カップルを追加すれば「結婚が変わる」という主張は、人々を痛めつけるような人種主義的で植民地的な結婚の構造がしっかり安泰に残るという問題を無視したまま何か文化的な変化が起きると期待するものであり、それどころか、同性婚推進運動がすでに大きな文化的変化を起こしていること、つまりフェミニストや反人種主義の結婚批評に猛反撃を食らわし、結婚をロマンティックな神話として再度価値付けたことを、無視している。

さらに、この同性婚推進の議論は、結婚を文化の領域にのみ位置付けている。もちろん、文化と経済は複雑な形で絡み合っており、ジェンダーや性に関する文化的規範を変えることは無意味ではない。文化的規範を変えることはしばしば、それによって社会の中での位置付けが変わった人にとっては、経済的な褒賞や機会を生み出す。同性婚の合法化によって象徴的には「結婚の意味」が変わるかもしれないが、しかし結婚制度による賞罰の配分を通して生み出される被害は、それによって取り消されるようなことは決してない。褒賞が、単にもう少し多くの人に与えられるようになるだけだ。つまり、共有する所有物、共有する健康保険、そして共有する移民状況を持つ同性カップルは、何か得るものがあるかもしれないが、貧困にあったり、失業していたり、書類が揃っていない移民だったり、保険に入っていないクィア(その数はどんどん増えている)にとっては、何も違いは生まれない。むしろ、結婚を包括的で正しいものだと宣伝することで、排除されている人々への罰が正当性を持ってしまうことになる。独り身で健康保険がないのは自分のせいだ、と!

同性婚推進運動が同性愛者を超性的あるいは病的なステレオタイプではなく、家族の一員や親、普通のカップルに見えるように手助けしたおかげで、同性婚推進運動は同性愛者についての一般的な見方を向上させたと主張する人もいる。同性婚推進運動によって勝ち取られたこの限定的で新しい受容のありかたの問題は、クィアな人々を普通のカップルとして描くこと、そうでない人に押された烙印を強化することに、それが依存しているということだ。クィア政治は、性やジェンダーの上下階層の解体に関するもののはずだ。一方同性婚の動きは、規範にのっとることのできる人だけを特権圏に入れることに躍起になっている。カップルの権利という枠組みでは、性犯罪者登録制度性人身取引に関する法律、その他様々な方法によって現在まさに拡張しているクィア及びトランスの人々の犯罪化に対抗できないばかりか、むしろそれとうまく同調する形になってしまう。クィアな人々を飼いならされた普通のカップルの集団であるように描くような、新たな不正確なステレオタイプを発明することは、もし私たちのゴールが性やジェンダーの強制や暴力の制度による被害を減らすことであるならば、大変ひどい戦略である。

でもあなたたちの言っているものは勝ち取れないもので、私たちは少しずつ改善していく必要があるし、同性婚は平等への一歩なんだ

この主張には、ネオリベラリズムや資本主義、そして人種差別的な犯罪対策及び収監制度には一切のオルタナティブが無いというのが前提にあり、胸が締め付けられるほどに保守的な主張である。私たちはオルタナティブを想像することを厳しく禁じられており、すでに酷い状況にある諸制度に少しずつ人を入れるためにいじくりまわすことだけを許されている。同性婚を合法化することは、私たちクィアが直面する被害や暴力を減らすために必要としているものへの一歩ではない。実際にはそれは、被害が悪化している現実の横で、あたかもその被害が公的に解決したかのように宣言される瞬間でしかない。「権利を持つに値する人」と「権利を持つに値しない人」は更に引き離されて、結婚制度とその神話は反ホモフォビアの名の下に名誉回復を果たすのだ。

同性婚推進運動は、結婚を祝福し、推進し、結婚制度によって罰せられる人々すべてを廃棄し、そして、彼ら彼女らから私たちへの連帯は一切期待できないにもかかわらず、彼ら彼女らのウェディングの邪魔はするなと言う。

内包に抗して

同性婚推進運動は、同性愛者が軍隊に入れるようにする戦いなど、暴力的な国家装置への内包を求める他のあらゆる政治的戦略と同様に、害のあるものであったし、今でもそうである。こういった内包の戦略は、内包を求める先のものに価値や正当性を与えてしまうのだ。同性婚推進運動は、少しずつ結婚を解体し、重要な必要資源へのアクセスと婚姻状況を切り離すための私たちの運動をひっくり返すために、右翼による家族の価値のレトリックや方針と手を取り合った。社会福祉プログラムを攻撃し、低所得の有色人種の母たちを最も痛めつけるような、ロマンス、子ども、家族、及びケアについての保守的な結婚肯定的な考え方と手を取り合った。左翼的批評から結婚を救出することによって、私たちの運動の歴史が教えてくれた家族とジェンダーの国家的支配についての知見を、左翼側にいる異性愛者及び同性愛者に忘れさせた。

内包の議論は更に、推進派が「私たちは内包されるに値する人間だ」という物語を生産するにあたって、自らの支援者を分断することを必要とさせる。これは、1対1の関係を結ぶこと、上流階級であること、税金を払っていること、そして従順な消費者であることを満たした同性愛者のイメージの世界を生産することを意味してきた。こういうストーリーは、結婚できないことで失うものがある人にフォーカスが当てられてきた(アメリカが望むべきヨーロッパからの移民、大きなウェディングを開いて我々の経済をよくしてくれるカップル、死ぬときに継がせる財産のある人々)。こうしたクィアライフ及びクィアな人々のイメージをアメリカの人種的、階級的、モラル的規範を満たす「権利を持つに値する」カップルとして宣伝することは、特権圏からはじき出されているすべての人々(特に貧困、性取引への参加、ホームレスであることなどを理由に犯罪化されているクィア及びトランスの人々、法的な結婚から褒賞を得ることのないすべての人々)に対する容赦ない悪魔化に参加することである。

私たちは、同性婚推進運動は草の根運動だと聞かされてきた。しかしそれは実態とは異なる。米国内で起きている他のあらゆる反ホモフォビア及び反トランスフォビアの草の根運動を蹴散らして一般社会の注目を奪い切った同性婚推進運動の巨大な機構は、てっぺんからやってきたのだ。同性婚推進運動の資金を出しているような、潤沢な資金のある同性愛者権利団体や、少数の金のある基金及び資金提供者は、とても少ない。1ゲイパーセントだ(原文:”the gay 1%”)。この運動の問題設定は、閉ざされたドアの背後で作られ、残りのクィアとトランスの99%は、自分たちの生活や要求がメディア企業やエリート同性愛者によって枠組み付けられてしまうので、作られた戦略に対して事後に反応することしかできない。仕方がないと受け入れた人もいれば、口答えをした者もいる。しかしいずれにしても、私たちの意見は何も反映されないのだ。もし同性婚推進運動に何かいいところがあるとすれば、それはおそらく、社会貢献活動というものが運動を形作る力を描き出していることだろう。私たちは、ストーンウォールやコンプトンズ・カフェテリアでのストリートで始まったとされる警察暴力への反乱が、警察による起訴の推進や警察との協力に変わり果てたのを見てきた。1960〜70年代に始まった反戦及び脱植民地の抵抗のラディカルな政治の中でそれ故に生まれた運動が、米国軍に入隊する権利にフォーカスするものになってしまったのを見てきた。そしてまた、性や家族規範の政府による規制についてのクィア、フェミニスト、反レイシズム、及び脱植民地的な批評が影を潜め、一方で法のもとでの結婚の要求に変貌するのを見てきた。こんな短い期間で、国家暴力の制度が自由と平等の場としてリブランディングされるのを見るのは、驚くべき経験だ。同性婚の戦いが近い将来終結し、財産や(合法的)移民状況、及び健康保険を持たないクィアやトランスの人々にとっての状況が残虐なものであり続ける中、結婚を答えとして見てこなかったクィア及びトランスの運動を中心に据える人種及び経済的正義を支援し、拡張していくことは、きわめて重要なことである。

原文の筆者について

ディーン・スペード(Dean Spade)はシアトル大学法科大学院の准教授であり、現在コロンビア法科大学院の Engaging Tradition Project のフェローである。2002年にトランス、インターセックス、及びジェンダーの規範から外れた(原文:”gender non-conforming”)低所得者や有色人種の人々に無料で法的手助けをし、人種及び経済的正義に根ざしたトランスの抵抗運動をつくるための非営利集団 Sylvia Rivera Law Project を立ち上げた。『Normal Life: Administrative Violence, Critical Trans Politics and the Limits of Law』の著者。

クレイグ・ウィルス(Craig Willse)は、ジョージ・メーソン大学のカルチュラル・スタディーズの助教授で、 Students Against Israeli Apartheid (訳者注:「イスラエルのアパルトヘイトに反対する学生団体」のこと)のアドバイザー教員である。『Beyond Biopolitics: Essays on the Governance of Life and Death』の著者。現在ネオリベラリズム状況下における人種化された住居不安の取り扱いについての本を執筆中。

Basichis, Lee and Spade. “Building an Abolitionist Trans & Queer Movement with Everything We’ve Got, in Captive Genders: Trans Embodiment and the Prison Industrial Complex.” (eds. Stanley and Smith) からの図の抜粋。

翻訳について

この文章は、上記原文筆者によって英語で書かれ Organizing Upgrade サイトに上記の日に掲載された文章を、2015年7月20日にマサキチトセが翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。

5/24対談イベント『わたしたちのピンクウォッシング』に出演します

24日(日)に東京のイベントで対談します。
対談相手は「フェミニズムとレズビアン・アートの会」のJanisさん。

テーマの「ピンクウォッシング」は、変な言い方だけど、LGBTに関する最先端の議論の1つ。「うちの国はLGBTに優しいよ」というアピールを国家がすることでウヤムヤにされる国家の悪事について、今もなおパレスチナ人を虐殺しながら「中東で唯一LGBTに優しい国」と自称するイスラエルの問題を通して、考える、というようなイベントです。

イスラエルのピンクウォッシングの議論をそのまま他国に当てはめることはできませんが、例えばA級戦犯を祀った靖国神社に首相が参拝する、朝鮮学校の生徒にだけ高校無償化を適用しない、外国人収容所で虐待や死亡事件を起こす、戦争における自国の加害を矮小化して他国民や自国民の被害を過小評価する、メディアに介入して報道操作をする、などなど、日本も現在進行形で相当に悪事をはたらいているわけで、その日本の観光局が一方で「LGBT観光客」にアピールしてるなんてことも、ピンクウォッシングと無関係ではないわけです。
(観光局の動きについての報道はこちら

また一方で、イスラエルの暴力について、そもそも日本は無縁ではありません。いま正に日米同盟が話題になってますが、そもそも戦後ずっと日本は米国の軍事行動に協力してきており、イスラエルへの武器や資金の供与は米国の軍事行動のうちかなり重要なポイントです(他の国への供与ですら、バレないようにイスラエルを通して代わりにやってもらってた時期がある)。安倍政権はイスラエルとの関係も(恐らく軍需産業を中心に)力を入れようとしていて、ピンクウォッシングの問題は、日本人の責任問題としても語られるべきものとなっています。

イスラエルとパレスチナのことは遠い世界のことではなく、いま正に私たちの生活と並行して、関連して、起こっている出来事です。

私も中東情勢については無知なところがたくさんありますが、イベントをきっかけに皆さんとこの問題について考えることができたらと思っています。よかったら来てね。

詳細(こちらより)

マサキチトセ×Janis対談イベント「わたしたちのピンクウォシング」
2015/5/24(日) 午後4時30分~6時30分
場所:community center akta http://www.akta.jp/
東京都新宿区新宿2-15-13第二中江ビル301
地下鉄新宿三丁目駅・新宿御苑駅から徒歩5分くらい、JR新宿駅から徒歩10-15分

「ピンクウォッシング」とは、中東 で唯一ゲイ・フレンドリーな国だとして自らを宣伝するイスラエルのプロパガンダの手法は大きな欺瞞であると批判する用語です。なぜ批判されるかというと、 その宣伝がパレスチナ (をはじめ国内外) で起きている甚大な人権侵害をごまかす (ピンクに塗って覆い隠す) 効果を持っているからです。

LGBTQは、個々人として、集団として、政府やナショナリズムや資本とどんな関係を結んでいるのでしょう。LGBT活動家の動きは、国内や海外の政治的状況とどう関わっているのでしょう。東京だけでなく北米や西欧各地の具体的な事例を紹介・共有します。

そこからわたしたちがどのような選択肢を作り出せるのか、ともに考えましょう。

*対談者
マサキチトセ (ダイニングバーFAT CATS共同経営者、貧Qメンバー) [blog]
Janis (フェミニズムとレズビアン・アートの会)

*今回も後半は質疑応答の時間になります。
*ぜひ最初から最後まで通してご参加ください。

画像元

http://www.logsoku.com/r/2ch.net/sisou/1408860114/
http://www.timesofisrael.com/same-sex-union-ministerial-debate-postponed-by-pm/

バービー人形とラミリー人形と「標準」の罠

先日 Facebook で以下のの画像を見つけ、シェアした。

決して平均的でないプロポーションで、「女性はこうあるべき」「魅力的な女性はこういうものだ」という社会通念に寄与してきたバービー人形に対抗して、 Nickolay Lamm さんというアーティストが実際のアメリカの十代女性の平均的なプロポーションを再現して作ったのが、ラミリー人形。私も「いいね」と思っていたし、今でも一定の効果はあると思うのだけれど、ラミリー人形が全く問題がないとは言えないような気がしてきたので、ここに書いておく。

They Gave Each Kid A Barbie And A Doll With Real Proportions. What They Say Next Really Says It All.」(子どもたちにそれぞれバービー人形と、リアルなプロポーションの人形を与えてみた。子どもたちの感想が全てを物語っている)というタイトルの記事が、 Upworthy サイトに掲載されている。

記事中には、 “real” (本当の、現実の)、 “realistic” (リアルな、現実的な)という言葉が使われており、子どもたちもラミリー人形がリアルだという感想を持ったようだ。その上で、ラミリー人形は「パソコンの仕事をしてそう」「先生をやってそう」「水泳選手みたい」などの印象があり、バービー人形には「何も仕事してなさそう」「モデル」「ファッションスター」などの印象があると、子どもたちは言っている。

よくテレビや雑誌で、「標準体重」と「理想体重」(あるいは美容体重)というふたつの基準が別に出されることがある。この図式に当てはめれば、ラミリー人形は「標準」の体型、バービー人形は「理想」の体型ということになるだろう。

でも私たちは、「標準」にも「理想」にも、どちらにも苦しめられていないだろうか。「理想」じゃなくて「標準」が普通だよ、と言われたところで、いますでに自分の体と世の中の想定する「あるべき身体の形」とのギャップに苦しんでいる人たちの多くは、やはりその「標準」とのギャップに苦しみ続けるのではないだろうか。

バービーは非常に痩せている。胸やヒップのサイズを考えると、本当に珍しい体型だろうと思う。けれど、だから「何も仕事してなさそう」というのは、ずいぶん大きな論理の飛躍があるだろう。バービーほど胸やヒップが大きくなくとも、同じくらいのウェストの女性はたくさんいる。中には摂食障害のひとも含まれているかもしれない。彼女たちは痩せていることにコンプレックスを感じているかもしれない。あるいは痩せている自分を好きかもしれない。もしくは、そんな自信と自己嫌悪の狭間でいつも揺れているかもしれない。職場の固い椅子が骨に当たらないようにクッションを持参して出勤しているかもしれない。「何も仕事してなさそう」だなんて、本当に大きなお世話だし、痩せている人に対しても、本当に仕事してない人に対しても、侮蔑にまみれた偏見だ。子ども自身が個人的にそう思うのは構わないけれど、この発言をあたかもラミリー人形の素晴らしさの証のように表に出す大人の感覚は、批判に値すると思う。

一方、肥満とされる人たちは、そもそもバービー人形と自分のギャップではなく、ラミリー人形のような「標準」とされる体型と自分の体型のギャップに苦しめられているのだ。「パソコンの仕事をしてそう」「先生をやってそう」「水泳選手みたい」な「標準」的な体型ではない肥満のひとたちもまた、仕事ができなさそう、頭が悪そう、自己管理ができてない、と責められて生きている。そもそも子どもたちに「どんな仕事をしているように見える?」と大人がわざわざ仕事に関して聞いているあたり、肥満や拒食症などを能力査定に含めて考慮するという昨今の自己責任論的な企業社会の状況を反映しているように感じる。

でも実際は、痩せているにせよ太っているにせよ、それは個人の責任の範囲だけの問題ではないことがわかっている。摂食障害と社会の関係や、肥満と貧困の関係などは、調べればたくさんいろんな調査結果が出てくるのだ。

ラミリー人形が多くの子どもたちに良い影響を与えるというのは否定できないけれど、ラミリーが普通でバービーはおかしい、ということになってしまっては、それもまた「あるべき体型のあり方」を再設定しているだけだ。その時、実際に平均的な体をしている人は救われるだろう。でも同時にバービー寄りの人たちは切り捨てられ、肥満の人は「やっぱりあんたたちは結局デブよ」というメッセージを受け取る。本当に必要なのは、どんな体型であっても「お前の体型はおかしい」と言われたりせず、またそれによって偏見や異なる待遇を受けない社会だろう。

夜に働く人を排除しない社会運動・アカデミアがいいよね

世の中の多くのシンポジウムだのワークショップだの読書会だのは、たいてい土曜の夕方とか、平日の夕方以降に開催されてる。開催する側としても「開催する曜日と時間帯はどうするか」を考えるにあたってできるだけ多くの人が参加できるようにしたいと思っているだろうと思うのだけれど、その「多くの人」の母数にそもそも入っていない人っているよねと思うの。

夜の仕事は(種類がいろいろあるのでまちまちだけど)たいてい午後8時くらいには始まるので、出勤準備を考えたら午後6時前にはもう他のことはできなくなる。場合によっては化粧やヘアメイクも必要だから更に早まることもある。

終わるのは12時以降、へたしたら午前3時とかなので、それから動けても何も開催されてない。この時間には移動手段も限られてる。夜の仕事はたいてい土曜が休みではないので、土曜も同じサイクルになる。

となると、どこかに出かけて2時間3時間過ごすことができるのは、出勤日の午後5時くらいまでと、休みの日の午後以降。家族がいれば(ましてやシングルマザーなら)休みの日に出かけるのはさらに難しくなるだろう。いずれにしても睡眠のサイクルを崩して参加することになる。

マイノリティーに関する(ましてや労働者や女性に関する)シンポジウムやワークショップを開催するのなら、平日の朝から夕方まで働くというのがスタンダードだという社会を追従せず、もっと工夫が必要だと思う。

イベントで登壇する大学の常勤の先生とかNPOの偉い人とかにとっては問題ないのだろうと思うけど、バイトしてる院生とか、長距離移動ばかりの非常勤講師とか、アカデミアの中だって「その時間は行けねえよ」と思ってる人たちはたくさんいるだろうと思う。ましてやアカデミアの外にいる人たち、特に残業前提の職場にいたり夜勤だったり昼夜交代制だったり、水商売やセックスワークの仕事をしてる人たちにとっては、それこそ「笑っちゃうほど全く行けるわけのない時間帯」のイベントが数え切れないほどある。マジで。

私個人的には、日曜の午後1時くらいからのイベントなら行ける。行けない時もあるけど。みんなそれぞれ違うと思うけどさ。

イベントのターゲットが誰なのか、誰に来て欲しいのかというのはイベントごとに違うだろうけど、こうも「笑っちゃうほど全く行けるわけのない時間帯」のイベントばかりだと、ちょっとおかしくない?ダメじゃない?と思えてくる。個々のイベントがどうというより、傾向として、平日昼間働いてる人をターゲットにしたイベントが多すぎじゃない?

(更に、子育てしてる人が行けるイベント少ないよね。)

私が関わってきたイベントにも、そういう点において不十分なものがたくさんあった。どうしたらいいのか、どうやっても正解なんてないと思うけど、少しでも「スタンダード」から外れる人が参加しやすいイベント作りを心がけたいなと思う。

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