TAG クィア

翻訳:ジュリア・セラーノによるトランス女性と男性特権についてのツイート群

長いスレッドになります。私は、男性特権について質問されることがよくあります。昨日はインターネット上でいろいろとあったため、特にたくさん質問を受けました。ネット上で起きたことについては直接言及しませんが、このトピック自体についての私がどう考えているか、この機会に書いておこうと思います。

杉田水脈の差別発言と、セクマイの自己肯定感 #ThisIsPRIDE

LGBTやクィア、性的マイノリティについてひどい物言いをするのはなにも政治家や著名人だけじゃなくて、学校の先生から親戚のおじちゃん、近所のうなぎ屋の店主などから私たちは日常的に嫌なことを聞かされている。

そうやって聞かされたことは少しずつ胸の底に沈み重なって、ちょうど川の底がよどんでいるのと同じように、普段は底のほうでおとなしくしているけれど、小さな石でもひょいと投げ入れればいとも簡単にふわぁと広がって、しばらくのあいだ私たちの心が晴れることはない。

あぁそういえば、私みたいな人間はおかしいんだった。

あぁそういえば、私みたいな人間は迷惑なんだった。

あぁそういえば、私みたいな人間は親不孝なんだった。

「LGBTではないフツーのひと」に考えて欲しいと思う10のこと(2018年版)+動画あり

「LGBTではないフツーのひと」って、誰だろう?
「フツー」って、どんなことを指すんだろう。

そんなことを思いつつも、でも、「LGBT」と「フツーのひと」は分けて考えられてしまうことが多くて、日常的にもやっぱり、自分のことを「自分はLGBTではないフツーのひとだ」と思っている人はたくさんいるっていう実感があります。

この文章は、そんな人たちへのお手紙のようなものだと思ってください。

マサキチトセのニュースレター第2号(2018年8月28日)

人の声を勝手に代弁することがいかにダメなことか、ゆるふわな方のブログで以前ゆるっとふわっと書きましたが(舞い散る喪ゲイ『土俵際の南浦和』)、先日は「活動家はLGBTの代表ヅラするな」といったことを主張するゲイ男性が「日本…

伝えかたの模索

私は誰に向けて、誰に伝えたくて書いているんだろう。どんどん堅くなる自分の文体に、ふとそんな疑問が湧きました。2015年のことです。 ちょうど『現代思想』に「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「L…

「脱テンプレ」の魅力

何か新しいことを言わなければいけない、まだ誰も言ってないことを言わないといけない、心の中でくすぶっている言葉にできない思いを抱えたどこかの誰かが「そう! それだ!」って思うようなことを書かなければいけない、そんな風に思って文章を書いてきた気がする。女人禁制なんて女性差別だよねとか、同性愛者を欠陥がある生物と言うのは同性愛者差別だよねとか、バリアフリーって大事だよねとか、そういうことって、あまりにも当然に思えて、私が言わなくても絶対に誰かが先に言ってくれるって思ってしまう。そうして、何も言わずにやり過ごしてしまうことがある。いや、誰かの言葉をツイッターでリツイートしたりくらいはするかもしれない。でも、その程度だ。