作者別: マサキチトセ

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。趣味はイラストと音楽制作。

2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。

LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。

2013/01/31

第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)は、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針を採択した。多くの国は既に、成人と児童の権力差から考えて「同意の上」ではあり得ないため、性的搾取や暴力から児童を守るために児童ポルノの生産及び販売を禁止している。しかし今回の方針は監視を強め、実写でない児童ポルノの単純所持をも違法化するものだ。背景には、実際に児童の関与がなくても児童ポルノは人々の児童を見る目を変え、その広範な普及は児童のイメージを極度に性的なものへと至らしめるだろう、という考えがある。即ち、合意の成り立たない行為で児童が実際に受ける身体的・精神的苦痛だけでなく、間接的であれ自体が実際の児童に苦痛をもたらす、ということだ。

2013/01/31

PFLAG(ピーフラッグ)というのは「Parents, Family, and Friends of Lesbians and Gays」(レズビアンとゲイの親・家族・友人)の略で、都市を中心に数百の部局(チャプター)と二十数万のメンバーを抱える、この類の団体では米国で(というか世界的に)最も大きなもの。「非友好的な社会で生きていくための支援」「無知や間違った情報に対抗するための教育」「差別を無くし、平等な市民権を獲得するための権利擁護」の3つの理念的柱を掲げて、LGBTの若者に加えて、かれらの家族や友人を受け入れて活動している。と言っても一般的には、子どもからレズビアンやゲイとカミングアウトを受けた親や保護者が電話やメールを通してサポートを受けたり、実際に月例のミーティングに参加するなどする場所という理解が広まっている。それは確かに間違いではないのだけれど、他にも色々やっている事実はあまり知られていない。

2013/01/31

「グローバル・クィア」あるいは「グローバル・クィア・スタディーズ」が語られるとき、国民国家や地域、宗教の軸における「クィア」概念あるいは「LGBT」概念の翻訳可能性が取り沙汰されるのは当然のことである。しかし「グローバル」と対置されるであろう「ドメスティック」あるいは「ローカル」な「クィア」は、そもそも各国民国家・地域・宗教内部で確立された概念なのかを問うことも必要だろう。

本発表では、クィア・スタディーズの中心的地域である米国における階級・人種・宗教に注目し、そもそも「クィア」概念あるいは「LGBT」概念が必ずしも米国全体に流通していないことを示し、グローバライゼーションとクィアの議論にありがちな「米国(あるいは欧米)」対「日本」という枠組みを批判する。また同時に、「翻訳可能性」が言語や国民国家だけではなく階級・人種・地域・宗教をまたいだ問題であることを考察し、ワークショップでの論点の1つとして提案したい。

2012/05/26

そうだ、野比という名前にしよう。すっかり灰が長くなった煙草を灰皿に押し付け、玉子は決めた。暑苦しさの抜けた心地良い風が、開け放した窓から入り込む。急に目の前の靄が消え、全てがうまく行く感触を得た玉子は、その昂奮のまま窓から外に駆け出したい気持ちになった。

思いつくことだけは大胆な玉子が、もちろんそれを実行に移すことはない。こんな真夜中に外を走り回れたらどれだけ気分がいいか。そう思いながら、玉子は立ち上がって窓の外を眺めた。暗く輪郭を見せる山の頂が、玉子がこれから目指そうとしているゴールのように思えてきた。山登りの経験は無かったが、頂上に至るまでに相応の苦難が待ち受けていることは分かっていた。

それでも、と玉子は後ろを振り返り玉夫の寝顔に目を遣る。玉子より四つも年下の玉夫は、まだ幼さの残るあどけなさで、口を半開きにして眠っていた。

「わたしが守るからね」

2011/09/12

「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

2011/09/12

「親にカムアウトしたいけどまだ経済的に独立もしていないし……」、「友達はみんな知ってるけど、会社では絶対にカムアウトなんて出来ない……」、「同級生の数人にはカムアウトしてるけど、信頼出来る人だけ。他の人には絶対に言えない」などなど、カミングアウトにまつわるエピソードはボクたちのコミュニティに溢れている。それに対して老婆心を働かせたゲイやレズビアン、バイがこう言う。「誰彼構わず言う必要はない。自分がいいと思った相手に、いいと思ったときにだけカムアウトすればいいんじゃない? 人それぞれ事情があるしね」と。

もちろん老婆たちは本当に相手のことを思って言っているのだろう。しかしここで語られる「事情」とは何だろう。保守的な町に住んでいること? フォビアに満ちた職場で働いていること? 学校という閉塞的な場所で生きていること? 長男であること? 既婚者主婦であること? その事情を無視してカムアウトしたらどうなるだろうか。親から見放されたり、解雇されたり、いじめを受けたり、町を追い出されたり、離婚されたりする? 確かにその可能性はあるし、それを恐れてカムアウトしない人を蔑んだり「度胸がない」と見下したりすることはバカなことだと思う。だから当然「カムアウトしなさい」とか「カムアウトできないなんて、自分に自信がなさすぎる」とか「もっとみんながカムアウトすれば世界は変わるのに、しない人がいるからダメなんだ」とか、そういう、「事情」に思慮を働かせられない人の発言には辟易する。その点ではボクも老婆と同じ意見だ。

しかしボクが言いたいのは、「事情があるのだから仕方ないよね」ということではない。むしろこの記事でボクが批判の対象としているのは、正にそういう「しょうがないよ」みたいな上から目線の同情的な発言だ。

2011/05/03

オサマ・ビン・ラディンが殺されてまもなく、英語圏で以下の引用文が一気に広がり、5月2日の夜(米国)にはわたしの Facebook のニュースフィード(ツイッターで言うタイムライン)にも既に数個同じものが流れていた。英語ブログでこのことについて書いたらいきなり普段の数倍のアクセスがあったので、この引用文への関心が高い様子が分かると思う。日本語話者のツイッターアカウントにも流れ始めていたので、日本語ブログででも書いておこうと思います。