婚姻制度は官製の弱者ビジネスです(松沢さんへの応答)

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2022年11月20日

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

先日開催された『差別撤廃 東京大行進』というイベントに参加した @rinda0818 さんのツイートについて、私を含め多数の人がツイッター上で意見を交わしました。 @crowserpent さんが「反差別運動と婚姻制度の差別性をめぐって」というタイトルで Togetter というサイトにその記録をつけてくださったので、今回の一連の議論の中身を知らない人は、まずそちらに目を通してもらえたらと思います。

次に、この議論について松沢呉一(くれいち)さんという人が Facebook 上で意見を公開しています。松沢さんの今回の一般公開の投稿において、私の立場は「結婚という制度を批判する人たち」とひとくくりにされ、批判を受けていますが、松沢さんによる今回の議論の解釈は私と大きく異なっており、私個人の考えについては誤解もあると感じているところです。加えて、婚姻制度についての意見も松沢さんと私では全く違うので、それも含めて、応答しておきたいと思います。

1. 発端となった @rinda0818 さんのツイートの解釈について

このツイートは、松沢さんが言うような「おかしさを指摘しただけ」のものではなく、「人間として」「まっとう」かどうかを問うツイートです。ここでは2つの事例が出されていて、1つは(A)「結婚する直前のひとに対して、結婚が依拠する制度の差別性を指摘すること」、もう1つは(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」です。 @rinda0818 さんは同ツイートで更に「おいらにとっての東京大行進は、結婚式と同じ」と述べているので、この2つの事例は、次の2つの事例を自動的に同一のものとして提示しています: (A')「東京大行進で行進する直前のひとに対して、東京大行進の差別性を指摘すること」、そして(B')「東京大行進で行進しているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」。

その上で @rinda0818 さんが問うているのは、「AとA'」を行為するひとと「BとB'」を行為するひとを比較したときに、「人間としてどっちがまっとうなのか」です。「AとA'」の「おかしさを指摘しただけ」ではなく、「AとA'」対「BとB'」の比較をした上でそのどちらかをより「人間として」「まっとう」だと言うことができるという前提で、問いを投げかけています。これはレトリカルな問いですので、「BとB'」の方が「人間として」「まっとう」であるという主張として機能しています。

【私の解釈その1】
私はこの主張を、「結婚に『おめでとう』と言えない人を『人間として』『まっとう』じゃないのだと示唆する発言」であると解釈しました。この解釈が間違えているとすれば、唯一以下のような場合のみです。それは、(not-B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ばないこと」を、(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」と同等に「人間として」「まっとう」であると @rinda0818 さんが思っていた場合です。つまり、「おめでとうと言うか言わないかの点では二択(にたく)だが、おめでとうと言おうが、決してその言葉を発さず黙り込もうが、この2つの選択肢はどちらを選んでも全くもって同等に『人間として』『まっとう』である」と、 @rinda0818 さんが思っていた場合です。もし本当にそういう考えがベースにあったといういうのであれば、そもそも @rinda0818 さんは「おめでとうと言わない(でも差別性も指摘しない)」という選択肢については話していなかったということですから、私のこの解釈は取り消しても構いません。

【私の解釈その2】
「その1」での私の解釈は、 @rinda0818 さんが(not-B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ばないこと」と(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」とを比較して、Bの方が「人間として」「まっとう」だと主張しているというものでした(そもそもそんな比較はしていないという可能性については、上述のとおりです)。

「その2」はそれとは関係なく、上で既に「レトリカルな問い」であり主張として機能していると言ったとおり、(A)「結婚する直前のひとに対して、結婚が依拠する制度の差別性を指摘すること」及び(A')「東京大行進で行進する直前のひとに対して、東京大行進の差別性を指摘すること」よりも、(B)「結婚式を挙げているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」及び(B')「東京大行進で行進しているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」のほうが「人間として」「まっとう」であるという主張だ、という解釈です。松沢さん自身も @rinda0818 さんのツイートを「『結婚制度は差別で[…]である』などと言ってのけることのおかしさを指摘した」と思っているようなので、おそらく松沢さんも私と同様に当該ツイートの問いがレトリカルに主張として機能していると考えていると推察します。

ただし、主張の中身に対する評価は、松沢さんのそれと私のそれでは、大きく違います。私がツイートした内容を引用します。(Togetter をいま見てみたら以下のツイートは漏れていたので、松沢さんはご覧になっていないかもしれません。)

[…]婚姻を直前に控えた人に「婚姻制度は差別だ」という主旨のことを言うというのは、必ずしもいつでも不当だとは思わない。状況や人間関係、相手の主張する言説などによって、ミクロレベルの判断があるはず。ただ単に「今度結婚するの」と言われたというそれだけで「婚姻制度は差別」とだけ返答したら、それは感じ悪いだろうし、婚姻制度を利用する必要性が現実的にこの社会に存在するという認識が甘すぎると思う。でも「人間として」「まっとう」ではない、と評価されるほどのことなのか? というか「人間として」「まっとう」かどうかなんて余計なお世話だし、それこそ印象操作だわ。切実な思いで、相手に「婚姻制度は差別だと思う」と伝えることだってある。 - URL1 / URL2 / URL3

つまり、「AとA'」対「BとB'」の比較においても、「BとB'」の方が「人間として」「まっとう」であるということをレトリカルに主張する @rinda0818 さんのツイートは、私にとって批判対象です。婚姻制度の差別性を指摘するひとや東京大行進の差別性を指摘するひとにも、様々な思いがあります。それなのに、肯定的な祝いの言葉を叫ぶひとと比較して、「人間として」「まっとう」でないと主張している。私はこの @rinda0818 さんの主張を、不当な決め付けであり他者の問題意識の矮小化であり、信条を人間性に還元する暴力的な言説であると考えます。

【私の解釈その3】

また、 @rinda0818 さんのツイートは、東京大行進を支持する立場を明確に表明しているひとによるツイートであるということに加え、上述の通りレトリカルに(A')「東京大行進で行進する直前のひとに対して、東京大行進の差別性を指摘すること」よりも(B')「東京大行進で行進しているひとに対して、肯定的な祝いの言葉を叫ぶこと」のほうが「人間として」「まっとう」であるという主張をしていることから、以下の通り、印象操作を目的としたもののように解釈できます。

[…]あの元発言は、婚姻直前のいち個人に「婚姻制度は差別だ」と言ったら傷つくよって話ではなくて、大行進を肯定したいとか、「人間として」「まっとう」でない人が大行進批判をしてるんだ、っていう印象操作のために結婚の話出しただけでしょ?っていう。で、その結婚の話の出し方が、完全に反婚姻制度の運動や抵抗(とその歴史)をバカにしたものだったし、同性婚が認められてない現状においてLGBTを取り込んでいた大行進を肯定するためのネタとしてはとても不適切だった、ということが問題なわけで。 - URL1 / URL2

しかもこの印象操作は、「例の行進に賛同なり肯定なりすべきだ」という主張のために駆りだされたもので、反婚姻制度の運動をしてきた人たちに対する愚弄だと思う。婚姻制度の問題は、切迫していないとでも? 婚姻制度が肯定されたり、反婚の主張が愚弄されたりしても、具体的な差別被害が増えることなどないと思っているのか。そんな人に、「人間として」「まっとう」かどうかなんて、ジャッジされたくない。 - URL1 / URL2

※「同性婚が認められてない現状においてLGBTを取り込んでいた大行進」という部分について、 Togetter で2つめに出ている私のツイートに私は「同性婚支持者じゃない」と書いてあるので、混乱するかもしれませんが、後述します。

たとえば、誰かが以下のように主張したとします。「そもそもあれはレトリカルな問いではない。どちらが『人間として』『まっとうなのか』について @rinda0818 さんは純粋に読み手の意見を聞きたかっただけで、誘導しようとも思ってないし印象操作しようなんて思ってない。A'がB'より『人間として』『まっとう』である可能性は、B'がA'より『人間として』『まっとう』である可能性と同じくらい存在すると @rinda0818 さんは思っていた。」と。
正直、こんな主張をして @rinda0818 さんを擁護するくらいなら黙ってるほうがマシなんじゃないかと思うのだけれども、万が一(それこそ本当に 1/10,000 = 0.01% くらいの確率で) @rinda0818 さんが本当にそのように思っていたとしたら、私の批判はすこし強すぎただろうなと思います。あまりにもレトリカルに見える文章を書いた @rinda0818 さんには今後ものすごく気をつけてものを書いてほしいなと思いますけれども。

以下は、松沢さんが Facebook に書いている内容についてです。

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ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。