「脱テンプレ」の魅力

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2022年11月20日

何か新しいことを言わなければいけない、まだ誰も言ってないことを言わないといけない、心の中でくすぶっている言葉にできない思いを抱えたどこかの誰かが「そう! それだ!」って思うようなことを書かなければいけない、そんな風に思って文章を書いてきた気がする。女人禁制なんて女性差別だよねとか、同性愛者を欠陥がある生物と言うのは同性愛者差別だよねとか、バリアフリーって大事だよねとか、そういうことって、あまりにも当然に思えて、私が言わなくても絶対に誰かが先に言ってくれるって思ってしまう。そうして、何も言わずにやり過ごしてしまうことがある。いや、誰かの言葉をツイッターでリツイートしたりくらいはするかもしれない。でも、その程度だ。

普段SNSなどで差別に反対する人に囲まれていると、あたかもそこで共有されている感覚が社会の常識のように思えてくる。誰しもときには失敗するものだから、差別的なことを言われたり言ってしまうこともあるけれど、その裏にあるのは明確な悪意ではなく不注意だったり不勉強だろうなって思える環境。もちろん私たちはSNSを離れてファミレスでご飯を食べたり、学校で授業を受けたり、やりたくない仕事をこなしたり、駅の待合室でボーっとしながら少し離れたおじさん二人の会話を聞いたりもする。でもなんだかそういうところで聞く差別的な言葉は過去の遺物の断末魔のような気がして、「まだそんなこと言ってる人たちっているんだな」「あんな人と職場が一緒だったら嫌だな」「社会はどんどん良くなっているんだから、放っておいて絶滅を待ってればいいや」なんて思ってしまったりする。差別は悪いという前提が共有された社会においても、そんなアンラッキーな出会いだってまだあるよね、というふうに。

だから、差別について何か発信するとき、凡庸なことは言いたくないというか、誰かに「その視点はなかった!」と言われたいというくだらない欲望に火が付いてしまうときがある。そして、本来ならちゃんと反対すべきことに反対することを、怠ってしまう。

でも、ものすごく凡庸に思えても、私たちの生きてる社会を見渡してみれば、そんなベタで基礎的なことすら、全然共有されてなかったりする。

伝統を理由に土俵を女人禁制とする相撲は女性差別をしている、とか、君が代は戦争責任を果たさない天皇を賛美する歌で、強制することは戦争の肯定を押し付ける人権侵害だ、とか、ヘイトスピーチはある属性の人々をひとまとめに攻撃し萎縮させる行為で、悪だ、とか、政府要人と親しい人が得をするのは政治の腐敗で、許されるべきではないことだ、とか、家事が労働とみなされないのは不当で、その多くが女性に押し付けられているのは女性差別だ、とか——そういうことは、現代日本において、全然「ベタ」でも「基礎的」でもない。むしろそういう風に思わない人や、良くないと思いつつなんとなく容認してしまう人こそ、現代の「普通の日本人」の姿ではないか。

そしてそういう社会では、凡庸に思えることを繰り返す人こそが、社会を少しずつ良い方向に変えていく。

先日、朝日新聞の記者が「LGBTは気持ち悪い」という人を取材した文章を公開し、大きく炎上した。記者は「脱テンプレ報道を目指してい」ると言った。現在のLGBTの語られ方や語りの消費のされ方が「お説教」や「かわいそう物語」というテンプレになっているから、ということらしい。これについて、多くの人がこの記事を脱テンプレではない、むしろこれまでの旧態依然とした差別のテンプレに押し戻す報道であると批判した。この批判は的を射ていると思う。記事を読んだが、嫌悪感ばかりが残った。でもその嫌悪感の一部は、そこに自分の姿を見た気がしたからかもしれない。「脱テンプレ」を目指して失敗してしまった記者は、私にとって他者ではなかった。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。