世界一簡単なポリティカルコレクトネスの解説

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2022年11月20日

ポリティカルコレクトネス(以下、PC)に関して、それに反対する側にも支持する側にも同意できない部分があリます。これまで少しずつツイートでも書いてきましたが、改めて書きます。連投ツイートで出す予定だったので、140字で区切れてますw

まず、差別を肯定する、あるいは条件付きで許容するような人たちがいます(以下、差別主義者)。一方で、差別を否定する、あるいは条件付きで非難するような人たちがいます(以下、反差別主義者)。PCに反対する人には前者が多いですが、後者にも反対する人たちがおり、必ずしも一致しません。

よくある誤解として、「反差別主義者の目的はPCの徹底された社会の実現にちがいない」というものがあります。一つ、反差別主義者の全てがPCを支持しているわけではないという指摘ができますが、それよりも重要な点として、反差別主義者の多くは「PCの徹底された社会」を望んでいません。

「PCの徹底された社会」なんて、どれだけ息苦しくて窮屈な社会だろう——差別主義者がよくいうセリフですが、反差別主義者にとっても「PCの徹底された社会」なんて息苦しくて窮屈な社会です。当たり前です。私たちは同じ社会に住んでいるのですから。

反差別主義者が望んでいるのは、「差別のない社会」の実現です。「PCの徹底された社会」ではありません。PCが徹底されているということ自体が、差別が存在していることの証拠なのですから。「PCの徹底された社会」の実現に向けて努力することは、むしろ差別の温存に繋がってしまう。

そんなことを反差別主義者が望むわけがありません。しかし一方で、日々の日常生活や、フィクションからニュースまであらゆるメディアコンテンツには、差別を前提とし、差別を援用した発言やメッセージがあふれています。それら発言やメッセージは、ひるがえって差別の維持と強化に貢献します。

このように、ある人々についての否定的な言説が循環することで構造が維持・強化されている状態を「差別」と呼びます。この状況では、循環する言説に沿って発言したり、それを擁護することは、差別の構造の維持と強化に加担することになります。「差別的言動」とは、このような発言や行動を指します。

これが何を意味するかと言うと、もし差別の構造が存在しなければ、いかなる発言も行動も「差別的言動」にはなり得ないということです。つまり、差別がなければ、PCの精神に基づいて制限される言動など無くなってしまうのです。これが、反差別主義者が求める社会の姿です。

誰もがどんな暴言を吐いても、それは単なる個人間の暴言に過ぎない——そういう社会が、反差別主義者の望む社会です。「ホモ」だの「チョン」だの「ヤリマン」だの言っても、それが単なる暴言——あるいは冗談——にしかならない社会。発言の対象の人を傷つける暴言ではあっても。

それらの発言が完全に個別のものとなり、社会にある差別の構造に依拠もせず(そんな構造はすでに消えているはずという前提なので、依拠しようがない)、また差別の構造を維持・強化しない(そんな構造はすでに消えt以下略)、そういう状況を、反差別主義者は望んでいます。

つまり、反差別主義者が撲滅しようとしているのは、人々が自由に発言する権利ではなく、社会にある差別の構造そのものです。構造には法律、条例、医療倫理、教育ガイドラインなどの制度的なものと、ある社会の内部で広く共有されている態度、価値観、信条、行動指針、慣習などの「文化意識」があります。

それらの制度および文化意識を変容させ、差別をなくすこと。これが反差別主義者の実現したいことです。その方法は、とんでもなくたくさんあり、どれが効率的/効果的でどれが非効率/非効果的/逆効果かは事前に判断できるものではありません。

法律の改正を求める方法もあるでしょうし、法律は変えずとも運用のあり方の改善を求めることもあるでしょう。裁判を起こす方法もあるでしょう。あるいは、一企業の中で「女子社員」に求められていたお茶汲みの廃止を求めるなどの、規模は小さくともその場の人々にとって重要な取り組みもあります。

そういった多種多様な方法論のうち、社会構造自体の変容ではなく、あるいはそれと同時並行して、人々の言動と社会構造のあいだにおける循環そのものを断ち切ろうとする試みも考えられます。つまり、社会構造に依拠し、社会構造を維持・強化するような差別的言動を減らす、という方法です。

社会構造の維持・強化をしていた差別的言動が減るのですから、社会構造は新しい頭の供給が間に合わないアンパンマン状態です。その隙にバイキンマンが連続で攻撃を仕掛ければ、アンパンマンは再起不能になるでしょう。(このたとえ話では、アンパンマンが悪者です)

つまり、反差別主義者のうち、社会構造自体を変容させようとする人たちはバイキンマン役を、そして人々の言動と社会構造のあいだにおける循環そのものを断ち切ろうとする人たちは新しい頭の供給源であるジャムおじさんとバタコさんの行く手を阻む役を担うわけです。

もうお分かりとは思いますが、後者の役を担うのが、PCの概念です。社会構造を維持・強化するような言動を一旦減らすこと、それがPCの役目です。そうすることで、社会構造自体を弱くすることができる。そうすれば、社会構造自体を変容させることのハードルが少し低くなる。

だから、「PCの徹底された社会」なんていうのは、バイキンマンがいないのにジャムおじさんとバタコさんがパンを作れないように工場を閉鎖してしまうようなものです。バイキンマンという敵がいない悪者アンパンマンは、新しい頭なんて必要ありません。悪事の働き放題です。

つまり、PCをゴールにしてはいけない、PCだけを推し進めても差別は無くならないわけです。でも、じゃあなぜPCを広めようとする反差別主義者が多いのか。差別主義者からしたら、ネットで見る反差別主義者の主張はPCばっかりだという印象でしょう。

もちろん、反差別主義者の多くはPCに全力を注いでいるわけではなく、差別の構造を変容させるための行動をしています。目立つものばかりではないので、多くの人の目に止まりはしないでしょうが。しかし、実際にPCにもそこそこの力を注いでいますし、その理由は以下の通りです。

PCには、もう一つ役目があるのです。それは、社会の差別の構造を維持・強化するような言動によって痛めつけられる人々の、正に今ここでの痛みや困難を減らすという役目です。構造を変容させるといっても、すぐには無理。でも正に今、毎日毎日差別的言動によって痛めつけられている人がいる。

PCの普及に注力することは、これまで説明した通り、PC一辺倒になる危険がある。差別の構造自体を温存してしまう危険性がある。でも、日々の生活における人々の痛みや困難を減らすことは、そもそも反差別主義者が反差別主義者になった時の願いだったはず。構造だけ見てちゃいけない。

そういう反差別主義者の思いと、個人の内面における差別主義自体を非難されたくない差別主義者の思いとの妥協点が、PCです。反差別主義者は、差別主義者に「あなたの言動だけを非難します。頭の中で誰を蔑んでいてもいいです。ただ、公に表現することは控えてください」と提案しているわけです。

反差別主義者にとっては、差別的言動が減ることで構造の維持・強化の力が弱まることに加え、個々の人々が差別的言動に痛めつけられることを減らすことができるというメリットがあります。差別主義者にとっては、NGワードだけ気をつけていれば批判を免れることができるというメリットがあります。

つまりPCとは、差別主義者にとっても、反差別主義者にとっても、とりあえずの共存を実現する妥協点なわけです。差別主義者の敵でもなければ、反差別主義者の味方でもありません。反差別主義者の多くは、PCばかりを推し進めることの危険をすでに承知しています。

その上で「この辺りで手を打ちましょう」と差別主義者に譲歩しているんです。「あなた個人の内面の差別主義については、感知しませんよ」と。「そういったことについては、個人の内面ではなく、社会制度や文化意識という構造自体に働きかけることにするんで、安心してください」と。

一方でまた、この「差別主義者」と「反差別主義者」は、一人の人間の中で共存しているものでもあります。「私もまた、内面に差別主義を持っているかもしれない」——PCは、自分が抱える差別主義を公に表現してしまわないための、抑制の手段でもあるのです。

そして晴れて社会制度や文化意識が変容して差別がなくなった暁には、それまで「差別的言動」だった言葉も行動も何もかもが、PCの対象から外れます。ただの暴言——あるいは冗談——になります。おめでとうございます!

つまり、自由に発言したいと願う人は、社会制度や文化意識から差別をなくす方向に努力するのが最短の道です。反差別主義者である私は、いつか「レズババア」と友人を呼んで、「なんだよデブホモ」と返されて、それでどちらも痛まないような社会を作りたい。

そのためにも、社会制度や文化意識の変容のために活動するし、今は誰のことも「レズババア」と呼ばないし、「デブホモ」って言われたら怒ることにしている。そういうことです。

※ただし、全ての反差別主義者が私と同じようにPCを解釈しているわけではないです。PCをゴールとしているような人もゼロではなく、そういう人には私は同意できません。

追記:あと、「ホモはダメで、ハゲはいいのか」とか言う人いますが、ほぼ大抵の反差別主義者は「どっちもダメだよ何言ってんの?」って返すと思いますよ。世の中の全差別を探し回ってくまなく批判してるわけじゃないから、偏りはそりゃ個人個人あるだろうけど。ハゲ差別をダメだと思うあなたの目にハゲ差別が入った時に、あなたが批判すればいいのでは? 協力を要請されれば可能な限り協力するし。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。