同性婚実現のその先に向けて

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2022年11月20日

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

おそかれはやかれ、日本においても同性婚の合法化は実現するだろう。それが のぞむべきゴールなのか、むかうべき方向なのかということについては、賛否がわかれるとおもう。「賛」のなかにも「否」のなかにも、さまざまな意見があることだろう。
たとえばわたしは「否」の立場をとっているが、それは別に異性と結婚したいとおもうひとと同性と結婚したいひとのあいだに不平等があってもいいと思っているからではない。しかしいずれにしても、同性婚は法律でみとめられるようになるだろう。どんなにわたしが反対しようと。

であれば、同性婚の実現に反対の立場をとっているわたしがしなければいけないのは、もちろん反対意見をことあるごとに表明していくことでもあるいっぽうで、同性婚が実現してしまったときに なにがおこるのかについて、きちんとかんがえ、共有し、それらがおこるまえに どのような準備が必要なのかをかんがえ、その準備に ちからを そそぐことだろうとおもう。

同性婚が実現してしまったら、なにが おきてしまうのか

人権の観点やら平等の観点からは、同性婚はとてもいいもののようにおもえる。しかし(1)同性婚があくまで現存の婚姻制度への参入である以上、同性婚もまた、現存の婚姻制度において存在する問題をふくむようになるだろう。
また、(2)同性間であるからこそ うまれる問題もあるだろう。
更に、(3)同性婚をおしすすめることは、クィア運動にとっても大きな損失をうむだろう。
これらが意味するのは、同性婚の実現にむけたうごきは、クィアの実生活や人生、ひいては生存に、すくなからぬ悪影響をおよぼすだろうと予想されるということだ。

以下でこの三点についてみていくが、わたしはもうこれらの観点から同性婚推進派と議論を交わすつもりはない。
ここでわたしが かたることは、同性婚が実現してしまわない いまのうちに こういう問題がおこることを予想し、同性婚実現やそのための運動によっておびやかされるクィアの実生活や人生、ひいては生存を、どうやってすこしでも まもることができるか、という観点からかたられることだ。

婚姻制度にはどんな問題があるか

婚姻制度は、婚姻関係にある二者にたいして おおきなメリットとデメリットをもっている。そしてそれは、どちらも不当なものだ。
メリットがあるということは、婚姻関係をむすばないひとから、おなじようなメリットをうばっていることと同義である。言い換えれば、これらのメリットを保持したいのであれば、離婚をふみとどまらなければならないということでもある。
更に、デメリットがあるということは、メリットをエサにして、ひとびとをくるしめているということである。

婚姻制度にはさまざまな側面があるが、同性婚の議論において賛成派がよくかたる「婚姻制度のメリット」にフォーカスすると、(A)病院の面会権、(B)医療上の同意権、(C)配偶者関連ビザの発給、(D)相続権、(E)共同親権、(F)セーフティネット、(G)健康保険や厚生年金など福利厚生における扶養権などがある。これらには純粋に「メリット」といえるものと、「メリットでもありデメリットでもある」ようなものとがあるが、順番にみていきたい。

(A)病院の面会権、および(B)医療上の同意権は、その権利自体がだれかにあたえられることは大切なことだろうし、だれもその権利をもたない状況はこのましくないだろう。だからこれらの権利は、「メリット」とかんがえてかまわないとおもう。しかし上述のとおり、「メリット」があるということは、婚姻関係をむすんでいないひとからは、その権利がうばわれているということだ。
わたしには87才になる祖母がいるが、20年くらい前から10年くらい前まで、ある年上の男性と生活をしていた。親密な関係をむすびはじめたのは30年も40年もまえのことだと母からきいている。ふたりにはそれぞれ配偶者がいたが、どちらも良好な関係をむすんではいなかった。祖母の夫(わたしの祖父)は はげしい暴力をふるう男で、毎日のように皿がわれ、棚がたおされ、祖母はかみのけを ひきづりまわされたという。男性の妻は(そして子どもたちも)男性をのけものにして、ながいあいだ男性をくるしめつづけていた。
晩年になってようやく生活をともにするようになったふたりだったが、夫と死別した祖母とはちがい、男性はまだ婚姻関係をむすんだままだった。それにもかかわらず祖母は、認知症がはじまっていた男性の世話をし、介護した。そして男性はすこしずつおとろえ、とうとう妻や子どもに会うこともなく、亡くなった。
入院することはなかったし、男性本人がある程度自分で判断して治療をうけていたから、「病院の面会権」も「医療上の同意権」も関係なかった。けれどもし入院していたり、本人の判断能力がもっとおとろえていたら、病院は男性の妻に連絡していただろう。そしてわたしの祖母は面会を拒絶されていたかもしれない。事実、葬式に祖母が参列することはなかった。祖母にのこったのは、晩年の世話をしたということに対しての、わずかな謝礼金だけだった。
権利が配偶者にあたえられるということは、配偶者ではないひとからは権利がうばわれているということだ。しかし、面会にきてもらいたいひと、自分のからだがうける医療行為を判断してほしいひとというのは、かならずしも配偶者ではない。わたしの祖母のようなケースは不道徳なものだからしかたないとおもうひとも いるかもしれない。では、離婚が成立していないDV被害者だったらどうか。親におしつけられた結婚相手だったらどうか。父親に認知されていないこどもは。つもりつもった不和の結果、いつか離婚したいとおもうようになっていたにもかかわらず、離婚するまえに病にたおれた人は。あるいは、クローゼットの既婚者と長年親密な関係をむすんできた同性愛者は。
同性婚をみとめないことは憲法違反であると米国がみとめたのは先月(2013年6月)のことであるが、それよりまえにオバマ政権は同性パートナーの面会権をみとめるようにはたらきかけていた。実際、同性パートナーに面会権をみとめている病院はすでにたくさんある。これはつまり、同性婚が法的に実現することだけが、面会権や同意権の獲得への道だとはかぎらないということだ。
むしろこの、婚姻関係をむすんでいない同性パートナーにも面会権や同意権をあたえようとするうごきは、患者本人の意思(意思表示できない場合は、事前に表明しておいた意思)によって面会や同意をすることができるひとをえらぶような よりおおきな自由への獲得の道をひらいたかもしれない。しかしそれを同性婚のわくぐみにとりこんで、同性婚実現の方向に利用するということは、今後もひきつづき面会権や同意権を「家族」のわくぐみにとじこめておこうとするような、自由の縮小をめざすことになってしまうのだ。
同性婚実現へのうごきが活発になるいっぽうで、わたしたちは、婚姻制度からはみでてしまう同性愛者・異性愛者・両性愛者・そのたすべてのひとに、自分で面会者や同意者をえらぶ権利をあたえ、親密な相手に面会者や同意者としてえらばれるチャンスをあたえるような社会をつくるように、はたらきかけないとならないだろう。

つぎに(C)配偶者関連ビザの発給についてだが、まず、配偶者関連のビザの存在がいかに配偶者間のDVに貢献してしまっているかをかんがえないといけない。配偶者関連ビザには「日本人の配偶者等」と「永住者の配偶者等」というビザがあるが、そもそも「日本人の配偶者等」「永住者の配偶者等」というビザの名前からもわかるとおり、このビザをもっているひとよりも、その配偶者は、安定した滞在権(日本国籍による滞在権や、永住権)をもっている。
さらに、基本的に同居していることが要件とされ、6ヶ月間以上「配偶者としての活動」がない場合は、在留資格を失うことになる。暴力がある場合など事情によっては「短期滞在」や「定住者」に切り替えることが許可される場合もあるが、それはコインをなげて表がでる確率よりひくい。
「配偶者としての活動」というフレーズの意味は不明瞭だが、(ごくまれに「正当な理由がある」とみとめられる場合をのぞき)別居しているということは「配偶者としての活動をしていない」とみなされ、ビザが失効する。
このほかにも「家族滞在」というビザがあるが、これもまた、就労ビザ(といっても「教授」とか「報道」とか)や学生ビザなどをもつひとの配偶者や子どもにあたえられるビザであり、配偶者よりも不安定な立場である。さらに家族滞在ビザだと、はたらけないか、申請しても週に28時間までしかはたらけない(世の中だいたい週40時間くらいがフルタイム就労)という制限もある。経済的に自立する道は、さきにブロックされているのだ。
わたしのしりあいのCさんは、中国からやってきた女性で、ビザは「日本人の配偶者等」だ。夫とも はなしたことがあるが、30才以上年上であろう夫はCさんに仕事をやめてほしいとせまり、その理由は自分よりもおそくかえってくる妻に我慢できないということだった。ふたりの時間がないこと、「たかい金はらってつれてきたのに」(これは夫の実際の言葉)朝食をつくることも夜の生活もないこと(夕飯はCさんがつくっているらしい)、日本語が流暢ではないことなど、Cさんへの不満が爆発していた。
しかしCさんは中国に前の夫との子どもがおり、毎月子どもに おかねをおくっているという。Cさんにはたらいてほしくないなら、あなたがCさんの子どもに おかねをおくってあげたら?と提案すると、そんな義理はない、そんなことはしたくないという。
さらに、Cさんから あとで きいたはなしでは、夫はCさんに暴力をふるってもいるという。「本当にやだ。でも日本にいたい。日本で仕事したい。離婚したら中国にかえることになる。かえりたくない」と言っていた。Cさんはいまも、夫の暴力にたえ、就労形態をフルタイムからパートタイムにきりかえて、なんとか毎日をやりすごしている(暴力があることを入管は簡単にみとめないのだから、へたに別居してコインをなげるよりも我慢したほうがマシだという判断だろう)。
「日本にいたい」とおもうのは、日本人の配偶者だけだろうか。あるいは、日本にいる永住者の配偶者だけだろうか。もちろんそういうひとたちには、滞在権がみとめられるべきだとはおもう。しかし、日本にともだちがたくさんいるひとは? 日本で自分にあった仕事をみつけられたひとは? 自分の出身の国にもどったら生活がくるしいというひとは? がんばって日本語をおぼえて、今後も日本でいきていきたいとねがっている人は?
そういうひとたちを みないふりして「同性婚の実現は移民にとってもいいことだ」といきまく同性婚推進派は、いますぐそのレトリックをやめるべきだ。日本国籍保持者や永住者のパートナーになっていないひとのためには同性婚など これっぽっちもやくにたたないし、むしろ、配偶者関連ビザで滞在しているひと(同性婚が実現すれば同性愛者もふくまれるようになるだろう)が配偶者からの束縛・支配・暴力をうけつづけるか あるいは帰国するかの二択をせまられるような制度を、温存しようとしているのだから。配偶者関連のビザとは、婚姻制度のメリットでありながら、おおきなデメリットでもあるのだ。
本人の資格等にもとづかない滞在権は、いまのところ家族関係のものくらいだ。しかし、職場の人間関係や地域の人間関係などにもとづいて なんらかの滞在権を制度化することは可能である(というか「滞在」することに「権利」が必要だという大前提すら、つくられたものだ)。ほかのビザから こういう滞在権にきりかえることができるようになれば、配偶者関連ビザで滞在していても、離婚したり別居したりという当然の自由が制限されることもない。
同性婚の実現にむけてのうごきが どんどん支持をひろげるなか、わたしたちは、同性愛者も異性愛者も、そのたすべてのひとが、滞在権に「婚姻している」ことが条件としてついてくるような社会をかえて、配偶者による暴力や支配から すべてのひとが自由になれるようなしくみを つくっていかなければならない。

※DVについては、同性婚が実現するのであれば、暴力の当事者が同性同士であるということが今後どのように とりあつかわれていくかということも、かんがえていかなければならない。たとえば、同性婚や同性パートナーシップがそこまで可視化されていない現状では、同性同士の暴力が激しければ、通報されるかもしれない。でもそれが「痴話げんか」とされるようになれば、通報されないかもしれない。警察権力への通報が正しいことだとは必ずしも言えないが、「家庭内のことには口を出さない」という警察の態度は未だに根強く、一般社会においても同様だろう。DVだとうったえても、「同性なら立ち向かえるだろう」と言われる可能性もある。
そういう事態をふせぐには、いっぽうで、DVにかんする既存の運動にかかわったり応援したりして、警察の「家庭内のことには口を出さない」という態度や一般社会のおもいこみを なくしていくことが大切であろうし、同時に、同性間でも支配・束縛・暴力が存在しうるのだということを、既存の運動の内外で、発信していく必要があるだろう。

つぎに(D)相続権についてだが、民法896条には「相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する」とある。ここで注目すべきは、権利だけでなく「義務」も承継されるとされていることだ。
ここでいう「義務」とは、つまり債務(借金を返済する義務など)も相続されてしまうということだ。自分が相続の対象であるとしった日から三ヶ月以内に(しかも財産を一切処分していない段階で)相続放棄、あるいは限定承認の申告を家庭裁判所にたいしておこなわないと、自分にすべての財産と債務がふりかかる。相続放棄とはいっさいの財産と債務を相続しないとすることで、限定承認とは「相続した財産ではらえる範囲だけ、債務を相続する」ことだ。
死亡したひとが どれだけの財産をもっていたのか、どれだけの債務をおっていたのかなど、完全に把握している遺族というのは、おそらくあまりいない。あとになって多額の借金が判明することもある。逆に、あとになって多額の財産が判明することもあるかもしれない。しかしそれは、ギャンブルのようなものだ。三ヶ月以内にすべての財産と債務が判明すればいいが、どこまでしらべれば「すべて」判明したのかもわからない。念のために限定承認の申告をするにしても、「念のため」にするにしては めんどくさすぎる事務処理がまっている(しかも共同相続人全員が同意する必要がある)。
実際、なにもしなければ自動的に三ヶ月後に成立する、単純承認とよばれる「財産も債務もぜんぶ相続」というケースがほとんどだ。婚姻のメリットであるはずの相続は、突然おおきなデメリットにかわってしまうことだってあるということだ。
同性婚推進派は相続権についても同性婚のメリットとしてかかげるが、実際どれだけのひとが相続権でとくをするのだろうか。
だいたいにおいて、金をもっているひとは、おなじようにある程度金をもっているひとと結婚する。片方が死亡すれば、もう片方に財産と債務が相続される。債務があるかないかはわからないので気をつけたほうがいい。でも債務がないとか、すごくすくないとかだったら、ボロ儲け。不安だったら、限定承認にしておけば だいたい大丈夫(税金とられる額がふえるけど)。婚姻とは、財産の保護として機能しているのだ。
いっぽうで金がないひとは、だいたいにおいて、おなじように金をもっていないひとと結婚する。金がないと財産もほとんどないので、相続するひとが相続するのは、あってもほんのちょっとの財産と、どれだけあるかわからない債務だ。相続にあたって弁護士でもやとって ちゃんと助言をもらいつつ財産と債務の調査ができれば まぁいいかもしれないが、なにしろ金がないので そんなわけにもいかない。そもそも相続がそんな複雑なことであるということも、しらないかもしれない。
拙稿「生活保護とクィア」で かいたとおり、クィアであることというのは、すくなくとも間接的には、貧困におちいりやすいということと関連している。なのに同性婚が「LGBT」運動の中心として推進されていくのは、非常に不可解なことだ。
「借金なんてフツーしないし、詭弁じゃない?」とおもうひとも いるかもしれないが、その「フツー」じゃない借金が、ある程度経済的にうごきのある町ならどこにでもあるようなATMみたいな機械によって簡単にできてしまうということは、借金が簡単にできることへの需要があることを意味しているのだ。
同性婚の実現にむけてのうごきが どんどん支持をひろげるなか、わたしたちは、今後「親族」を拡張していく同性愛者や、すでに「親族」を拡張するすべ(婚姻の権利)をもっている異性愛者たちが、それによって金銭的なトラブルにまきこまれることのないよう、法律や制度のしくみを周知するような運動をしていかなければならないだろう。

つぎに(E)共同親権だが、「同性同士で子どもをつくった場合」という生物的にいまはむずかしい状況は想定しない。かわりに、婚姻関係にあるふたりのうち 片方が子どもをもっているという状況を考えてみたい。
そういう場合、子と親子関係にないほうが子と「普通養子縁組」をすることで共同親権をてにいれることができる。この場合、片方が子の親権をすでにもっている状況であれば、家庭裁判所の許可は不要である。申請するだけで大丈夫。事実上の養護をしているものがきちんと親権をもつべきであるから、この制度は婚姻制度の「メリット」といえるだろう。
しかし、婚姻関係をむすんでいない場合でも、「普通養子縁組」をすることはできる。唯一のちがいは、家庭裁判所の許可が必要であるということだ。そのぶん不利になることもあるかもしれないが、この要件は本来人身売買目的の養子縁組をみとめないようにという目的でつくられたものであり、婚姻関係をむすんでいないものへの差別的とりあつかいを明確に目的としているものではない。であれば、共同親権のために同性婚の実現を推進するよりも、家庭裁判所の養子縁組にかかわる部分にはたらきかけて、婚姻関係をむすんでいないが共同親権をもちたいと ねがっている すべてのひとが より容易に養子縁組をすることができるようにするほうが、結果としてものぞましいし、方法としてもけっして とくに むずかしいということはないだろう。
そもそも家庭裁判所の許可をもらうことが どれだけむずかしいのか、あるいは意外と簡単なのか、同性パートナーの子どもの親権をもちたいと申請したときに許可がおりないということがあるのかというのも、事例がないのでわからない(わたしがしらないだけかもしれないが)。共同親権の問題を本当にきちんとかんがえるためにも、そういった情報収集にくわえ、関連省庁へのはたらきかけが必要となるだろう。

つぎに(F)セーフティネットとしての婚姻の機能だが、そもそも「婚姻しているかしていないか」という個人の選択によって有無がきまるセーフティーネットは、セーフティーネットではない。
上述のとおり、金のないひとは金のないひとと結婚することがおおいわけで、へたしたら「結婚したらさらに貧乏になった」というケースだってそこらじゅうに ごろごろある(「結婚はビンボーのはじまり!」というスローガンがプライドパレードでつかわれたケースもある)。だれでも貧困が身近になってきたいま(もちろん「ほとんどの人は貧困が身近じゃない」という幻想も一時の流行だったのだが)、クィアだろうがクィアじゃなかろうが、結婚はとてもおおきなリスクをともなう選択だ。結婚がセーフティネットになるのは全員にとってのことではなく、おおくのひとが、結婚しても不安にさいなまれていたり、結婚したからこそ不安が増大したりしている。同性婚が実現してもその事実はかわらないだろう。
拙稿「生活保護とクィア」にもかいたが、日本をふくめ、世界のながれは急速に新自由主義的(ネオリベ的)になってきており、自己責任論が席巻している。生活保護受給者へのバッシングや、不正受給への異常な注目と他罰的な態度は、メディアのみならず、日常会話のレベルでもすっかり定着した。「結婚したらさらに貧乏になった」というフレーズにピンとこないひとたちも、いまのこの状況においては、そんな楽観的なかんがえをあらためるべきだろう。
セーフティネットとしての同性婚の実現を期待しているひとたちは、同性婚が実現すれば、すぐに数年以内にそのセーフティネットとしての機能の脆弱さにうちのめされることだろう。そのときのために、そしてすでに結婚をセーフティネットだとおもう幻想にうちのめされている異性婚の既婚者のために、わたしたちは、結婚していてもしていなくても、ひとりでもいきていける社会をつくっていかないとならない。生活保護費の削減や申請ハードルの強化、そしてバッシングなどに対抗し、現在「受給資格あり」とされるひとのうち約80%をしめる「生活保護をうけていないひとたち」(そこにはわたしも、あなたも、いまはいっているかもしれないし、今後はいるかもしれない)が 当然の権利として生活保護をうけられるように、 はたらきかけなければならない。

最後に(G)健康保険や厚生年金など福利厚生における扶養権についてだが、非正規雇用の問題がこれだけさわがれているいま、こうした福利厚生の話をもちだす同性婚推進派は いったい何をかんがえているのか、さっぱりわからない。
健康保険と厚生年金はまとめて「社会保険」とよばれ、就労先の企業や行政機関によって加入のてつづきがおこなわれ、本人だけでなく扶養している子どもや配偶者、親やきょうだいなども健康保険を利用することができ、さらに、自分の年金料を一定期間以上毎月払うことで、配偶者も将来年金を受け取ることができるようになる制度だ。
しかしこれは、就労先で週にフルタイムの人の4分の3以上の時間はたらいていないと 加入できない制度だ。また、二ヶ月未満の労働契約の場合は、それ以上はたらいていても社会保険にはいることはできない。社会保険料は就労先と本人で半分ずつの負担のため、企業は節約のために従業員をパートタイムではたらかせたり、二ヶ月できれる労働契約を優先することで労働者をつかいすてにしたり、あるいはフルタイムで社会保険に入れる就労状況であるにもかかわらず、それを労働者に伝えずにいたりする。
つまり、現在の日本経済において、社会保険に加入しているということ自体が かなり特権的なことであるということだ。
それは同時に、同性婚が実現し、パートナーがもう片方の扶養にはいることができるようになっても、そもそも非正規雇用だったら、福利厚生における扶養権など発生しないということでもある。
わたしたちは、同性婚の実現にむけたうごきが どんどん活発になっていくいっぽうで、非正規雇用の問題や労働基準法違反、社会保険の問題について、どんなセクシュアリティであろうと、結婚していようとしていなかろうと、だれも不当なあつかいをうけることのない社会をつくることを めざすべきである。

以上、同性婚推進派がしばしば指摘する「婚姻制度のメリット」について、(i)メリットがあるということは、婚姻制度のそとにいるひとから そのメリットをうばっているということであるということ、(ii)メリットがあるということは、婚姻制度のそとに でたいとおもうひとから、その選択の自由をうばっている(間接的に婚姻を強制している)ということ、そして(iii)メリットだけじゃなくデメリットも結構あるということをみてきた。

※「婚姻制度のそとにいるひと」にはさまざまなひとがいる。婚外恋愛、婚外子、結婚差別(在日、同和地区出身者、外国人、障害者など)などをかんがえれば、そのかずははかりしれない。そのなかに「同性カップル」もはいっているというだけのことだ。

以下ではさらに、同性婚をおしすすめることが どのようにクィア運動にとっての大きな損失となりうるのかを、みてみたいとおもう。

同性婚というアジェンダが運動にあたえる損失

まさか同性婚を推進することが「損失」になどなるわけがない、と いきどおるひとも たくさんいるだろうと おもう。同性婚は万能ではないということ、同性婚によってすくわれないひとが たくさんいることなどは納得できても、同性婚だってひとつの「進歩」なのではないか、第一歩として同性婚をすすめることの何がわるいのか、と。
しかし今後、米国でそうだったように、同性婚は「LGBT」運動の中心的な課題となるだろうと予想される。そして、すくなくとも数年、ながければ十数年、「LGBT」運動の中心に同性婚は存在しつづけるだろう。
そこでおこることは、かならずしもいいことばかりではない。むしろ、おおきな迷惑をこうむるひとも存在するのだ。以下に、くわしくみていきたい。

運動には、「リソース」が必要だ。リソースには、ひとが実際に参加するなどしてはらう労力である「人的リソース」、募金・寄付・提供などからゲットして場所の確保や物品の購入につかわれる「金銭的リソース」、人間関係のつながりを運動にやくだてるための「ネットワーク的リソース」、そして一般社会からの注目や支援などの「意識的リソース」などがかんがえられる。どれがかけても、運動はスムーズにすすまなくなる。すべて重要なものだ。過去の運動においては、このリソースの枯渇が衰退をうながしたケースがたくさんある。逆に、運動を衰退させたいとおもうひとや集団は、これらのリソースをうばうことで、目的をはたそうとしたりする。
同性婚推進派の運動は、同性愛者も異性愛者も賛同者が一定数おり、今後その数はふえる一方だろう。同性婚を積極的にもとめていない同性愛者も(そして同性愛者との連帯を志向する「LGBT」も)、ある程度の支持をしめすだろう。その点で、本格的に運動をはじめるにあたっての「人的リソース」は豊富にあるとかんがえられる。また、一般社会からの「意識的リソース」の一層の拡充にも力をそそぐだろう。また、すでに同性間パートナーシップにかんする団体は存在し、メーリングリストなどをとおしてネットワークがつくられている。問題は「金銭的リソース」だろうが、これも、「意識的リソース」がふえ、本格的に運動がはじまるころには、あつまっていることだろうとおもう。というのも、後述のとおり、同性婚は資本主義と非常に親和性がたかいからだ。

こうして同性婚推進派の運動にリソースが急速にあつまることによって、「LGBT」運動における他の活動のリソースは、枯渇してゆく。ゲイ男性の支援をしている濵中(はまなか)洋平さんは、インタビュー(動画)で、わかくして家をでたゲイ男性の一部が困窮していることを指摘している。ましてや、就職差別がより身近であるトランスジェンダーのひとたちにとって、貧困はおおきな問題となっている。また、高齢化がすすみ独居老人世帯もふえる日本社会で、「LGBT」も高齢化している。非正規雇用の「LGBT」の問題は、いまだに焦点化されていない。
これはつまり、前半でみたような滞在権の問題、健康保険・年金、生活保護の問題、医療の問題など、「LGBTなどのクィアもそこにいる」というような問題が同性婚の推進によって温存され、維持され、へたしたら強化されるという事態だけではなく、そもそも「LGBTの問題」とされているようなものもまた、同性婚の推進・中心化によって、ないがしろにされ、リソースをうばわれ、進展をおくれさせられてしまうということだ。
同性婚推進派など主流「LGBT」運動にたずさわるひとたちは、貧困の問題やトランス差別の問題などを指摘されると、それを「足をひっぱられた」とか「邪魔をしないでほしい」とか「後ろ弾(うしろだま)をうたれた」と表現することがある。しかし同性婚推進の運動は、今後その支持を拡大していくなかで、おそらく他の運動の足をひっぱるだろうし、邪魔となるだろう。
このリソース問題については、同性婚の推進のうごきが活発になるなかで、どれだけ他の活動がリソースを確保していけるかという課題がある。

さらには、同性婚推進派などの主流「LGBT」運動は優先順位についてよくかたるが、同性婚を「第一歩」とし、「まず」同性婚など主流な成果をだしてからトランスジェンダーの就職差別など他の問題に着手するんだという主張は、とてもじゃないが信用出来ない。2009年にコネティカット州の一番おおきなLGBT団体だった Love Makes A Family は、同州で同性婚が法制化されてすぐ、自分たちの目的は果たしたとして、閉鎖した。「Family(家族)」や「Love(愛)」にまつわる団体名をせおった この団体は、家族のなかにあるDVの問題や児童虐待の問題などに着手するのではなく(同性婚をしたひとの支援すらせず)、閉鎖したのだ。
これに象徴されるように、団体でなくとも、同性婚が実現したとたん個人的に「LGBT」運動からはなれるひとというのは たくさんいるだろう。さんざん「LGBT」のリソースをかきあつめ、注目をあび、ヒロイズムによったあとは、一目散にウェディングプランナーのところにいってしまうのだ。活動を継続するひともいるかもしれないが、他の活動の足をひっぱった事実はきえない。
だからわたしたちは、活動をはなれてほしくないひとたちと、きちんと人間関係をつくっておく必要がある。また、同性婚推進の運動がいかに不十分であるのか、いかに「LGBT」のほんの一部しかすくわないのかということを、しっかりと発信していく必要があるだろう。

また、同性婚は、結婚ビジネスにとっておおきなビジネスチャンスをあたえる。式場やケータリング業者だけではなく、ジュエリー系、婚活系、そしてディズニーまで、さまざまな企業が、そのイメージアップ戦略やあたらしいマーケット開拓に同性婚を利用するだろう。これが、上述の、同性婚と資本主義の親和性だ。
すでに企業は、「LGBT」というキーワードを経済用語のようにつかいはじめている。「国内市場5.7兆円」「LGBT市場、狙う企業」「巨大市場『LGBT』」「手つかずの巨大市場」―― 昨年からそんなことばが、経済系メディアのみだしを にぎわせている。プライドパレードにも企業の協賛が入るようになって来た。米国や英国をはじめ欧米諸国のおおくでは、すでにこの「LGBTの商業化」がおきており、プライドの企業中心主義、いわゆる「ゲイタウン」の白人化、中流階級化、ジェントリフィケーションなど、さまざまな問題が指摘されている。
もちろん、よのなかほとんどのものが企業社会では商品かマーケットかにしか みえないのだろうから、「LGBT」が商品化されたりマーケット化されるのは、不可避のことかもしれない。けれど、大企業のイメージアップ戦略に利用されることは、格差社会に寄与することでもある。また、商品化とマーケット化は、結果的に「うれないものは存在しない、かわないひとは存在しない」という資本主義のルールが「LGBT」運動においても席巻することを意味するだろう。
協賛というかたちで企業が「LGBT」運動にかかわるのは、なんらかのリターンがあるからだ。それはつまり、企業にとってリターンのおおきい活動については、「金銭的リソース」が企業から投入され、リターンのちいさい活動については投入されない、ということにもなる。
だからわたしたちは、金をかけないでできる活動、だれかが個人的負担をしいられないでできる活動などを、さらに工夫をこらして、アイディアをつくっていかなければならない。それはかならずしも無償ボランティアをふやそうという話ではない。無償ボランティアだけにたよることは、いきすぎれば搾取につながりかねない。お金をかける必要がないところでどれだけ節約できるか、お金がかかっていない活動であることを肯定的に発信していくコツはなんだろうか——そういったことをかんがえつつ、同時に、適切に謝礼金や時給などをとおして労力に対価をはらっていくことで、精神論で人的リソースをつなぎとめず、健康的なネットワークをつくっていく——そういったことが必要だろう。

さらに、同性婚はいつでも「保守的な政策」に転換する可能性をもっている。これまではどちらかというと「左より」とされる社民党や共産党が「LGBT」運動に肯定的な立場をとってきたが、事実、「日本におけるLGBTの法整備の動き」(明智カイト、遠藤まめた)で紹介されている各党の政治家のうごきや、レインボープライド愛媛による政党アンケートにおいても「同性でも婚姻制度を適用できるようにすべきだ」と回答した唯一の政党が日本維新の会だったことなどをみても、「LGBT」運動の一部の活動が保守的な政党にバックアップされるような場面は今後もふえていくだろう。へたしたら日本維新の会からゲイ男性の政治家がでることもあるかもしれない。
とくに同性婚は、非常に保守的なかんがえとの親和性がたかい。拙稿「生活保護とクィア」から抜粋する。

たとえば「自助」の観点から同性婚を認め、「生活困難者の同性愛者は結婚して扶養してもらえばいい」という風潮をつくろうとする議員は、今後出てくるでしょう。その議員を、わたしたちクィアは応援するでしょうか。応援すべきでしょうか。あるいは、「そんな目的ではなく、同性愛者の権利の観点から同性婚を認めてください」と働きかけるべきでしょうか。

どのような観点から実現したとしても、政府が社会保障を削ろうとしつづける限り、同性婚はそのような汚い目的のために利用されることでしょう。その結果、わたしたちクィアの一部は苦しめられることになるかもしれません。そのとき、同性婚の実現を求めたクィアたちは、自分たちの運動を振り返って、誇らしさを感じることができるでしょうか。

「家族」の規範を維持し、強化するような同性婚を、保守派の議員が利用しない手はない。ほんのちょっとだけ自分の同性愛嫌悪を我慢して同性婚をみとめれば、生活保護をうけようとするひとの「扶養義務者」がふえるし、右よりのひとの支持をえるために家族の大切さをうたっても時々同性婚の話もまぜることで左よりのひとの支持もえられるかもしれない。こんなおいしい話はない。
しかし、それに何の問題があるのか、とおもうひともいるかもしれない。
まず、同性婚が「保守的な政策」として保守的な党や政治家から提議されれば、同性愛者のおおく、そして同性愛者との連帯を志向する「LGBT」界隈の票は、その保守的な党にながれることになる。いまのところは日本維新の会だけが「LGBT」の保守へのとりこみに目をつけているようだが、自民党がそのようにうごきだすのも時間の問題だ。事実、牧島かれん、馳浩、福田峰之、橋本がくの四名が、セクシュアル・マイノリティに協力的になりつつある自民党議員として東洋経済オンラインで紹介されている
しかしこの四名は、拙稿「生活保護とクィア」でも紹介したとおり、全員が生活保護のしめあげを政策にかかげている。また、軍事力の拡大、防衛の強化などをかかげていることも共通している。
政治家は、「LGBT」の一部のためにやくだつことをしているからといって、そのことしかしないわけではない。政治家自身がマルチイシューでうごいているのに、はたらきかける社会運動側がシングルイシューでかんがえていては、きづいたら足元をすくわれていたということにもなりかねない。
具体的には、憲法の問題、軍隊の問題、原発の問題、外国人排斥の問題、ネオリベ経済の問題、福祉カットの問題、沖縄の問題、在日コリアン差別の問題など、わたしたちクィアやLGBTの生活にとっても非常におおきな問題を無視することで、同性婚推進の運動がすすんでしまうかもしれないということだ。そして、保守派の政治家との協力体制ができてしまえば、あとはもう、「無視」どころではない、積極的に憲法改正、軍隊の設置、原発推進、外国人排斥、ネオリベ賛成、福祉カット、沖縄の米軍基地拡大、在日コリアン差別に加担することになるだろう。「LGBT」の票を保守派の議員にあつめるということは、そういうことだ。

さらに、これまで「LGBT」運動に協力してきた左よりの政治家や活動家を きりすて、「左翼から恩恵はうけたけど、うちらは自分たちのことしか かんがえないでやっていくね」というスタンスをとることにもなる。保守の既存の団体やネットワークをつかって、これまでの運動の成果をえることができただろうか。「LGBT」運動の歴史として、さまざまな左よりの活動家や政治家が「LGBT」と連帯してきたことを、わすれてしまっていいのだろうか。また、そこで ひきさかれるダブルマイノリティ(「LGBT」であり、かつ他の社会的抑圧をうけているひと)の存在は、無視することにするのだろうか。そういったことも、とわれるようになるだろう。

同性婚を推進する運動が支持をえて拡大していくなかで、わたしたちは、あらゆる差別に抵抗するひとたちと、これまでよりもさらに連帯することが必要となるだろう。そうすることで、憲法の問題、軍隊の問題、原発の問題、外国人排斥の問題、ネオリベ経済の問題、福祉カットの問題、沖縄の問題、在日コリアン差別の問題など、同性婚を推進するあまり保守派の政治家と結託しかねない活動家たちがないがしろにするであろう問題を、あらゆる差別に抵抗するひとたちと連帯しながら、解決しようとうごかなければならない。

同性婚が実現すれば、婚姻制度をなかから改革できるのか

同性婚が実現すれば、婚姻制度の意味もまた変化し、「結婚」というものを改革することができる——そんな主張もときどき目にする。そんなことはできないし、する気もないだろうとおもう。そもそも同性婚を推進しようとしているひとたちが婚姻制度の変革を求めてきたという歴史がない。この「なかから改革」という主張は、婚姻制度自体を批判する立場から同性婚推進の運動にも批判がむけられたときに、いいわけのようにでてきたことしかないのだ。「同性婚をみとめさせることで、婚姻制度を改革するぞ!」といっているひとなど、どこにもいない。
そもそも婚姻制度においては、わたしたちは夫婦別姓選択制も実現できていない。婚外子差別も未だにある。離婚のあと再婚するには、女性には六ヶ月の待機期間がある。フェミニストには婚姻関係をむすんでいる女性がたくさんいるが、彼女たちは「なかから改革」できているだろうか。もちろん、そういったこころみもあるだろうし、これまでも一定の効果というのはあったのかもしれない。しかしそれは、彼女たちがフェミニストであり、婚姻制度を改革しようというおもいがあったからであって、けっして女性が婚姻制度に参入しているからではない。単に婚姻制度に同性カップルが参入したところで、何もかわらないだろう。
何かをかえるのであれば、そしてそのために同性婚が有効であるとするならば、同性婚をもとめるひとたちが きちんと立場を表明すべきである。婚姻制度をどう変革するのか、どう変革したいのかを明確にし、そのための運動をするべきである。同性婚がメイントピックでないところでも、婚姻制度の改革をもとめる運動をするべきである。
もし同性婚を実現するためだけに、そして同化主義的・保守的・婚姻制度温存派という批判的指摘をかわすためだけに「なかから改革」などといっているのであれば、ひきつづき同化主義的・保守的・婚姻制度温存派という批判的指摘をうけつづけることになるだろう。

まとめ

この文章では、(1)同性婚があくまで現存の婚姻制度への参入である限り、同性婚もまた、現存の婚姻制度において存在する問題をふくむようになるだろう、ということ。(2)同性間であるからこそ うまれる問題もあるだろう、ということ。そして(3)同性婚をおしすすめることは、クィア運動にとっても大きな損失をうむだろう、ということを、できるだけくわしく説明したつもりだ。
反発もあるだろう。しかし、反発するのであれば、ぜひ、この文章をすみずみまでよんでから、具体的な批判をしてほしい。もし、わたしがこの文章でかいたようなことが すべて反駁されることがあれば、わたしはよろこんで自分の事実誤認や予想のまちがいをみとめ、同性婚の推進を応援したいとおもう。

※ちなみにわたしは2013年7月22日以降ツイッターでは議論をしないことにしたので、レスポンスはコメント欄にお願いします。

追記

以下のツイートをみつけました。

本文の最後のほうで左だの右だのの話をしたので、そんなかんじになっちゃってるとおもうのですが、わたしは「真にリベラルな活動」という思想重視のものを支持しません。実際にくるしむひとがいないのであれば、リベラルだろうが保守だろうが、すきにしたらいいのではないかと おもいます。むしろ、保守的なかんがえかたでも、それによってくるしむひとがいなくて、逆にすくわれるひとがいるようなものであれば、わたしは躊躇なく支持します。
だからたとえばわたしがかいたような問題点がすべてクリアされるのであれば、まぁ、すきではないですけど、「家族の価値」をうたうような活動の一環として同性婚が推進されても、反対はしません。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。