翻訳『結婚は私たちを決して自由にはしない』(ディーン・スペード、クレイグ・ウィルス)

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2022年11月20日

2013年9月6日・Dean Spade & Craig Willse

近年、同性間の婚姻を認める州法が可決するたびに、同性間の婚姻の法的認知を肯定する裁判所判断が出されるたびに、政治家が同性間の婚姻を肯定的に語るたびに、革新を志向する("progressive")人々の多くは結婚を称揚してきた。一方同時に、多くのクィア活動家や学者は同性婚推進運動を厳しく批判してきた。結婚を擁護する者は時にこれらの批判があることを認め、このようなことを言う。「結婚は万人のためのものではないし、万能でもないけれど、それでも必要だ」と。

これはどういうことだろう。同性婚推進は革新的な運動なのだろうか? それは、人種や経済的正義、脱植民地主義、フェミニスト解放の左派の政治的プロジェクトと、矛盾なく存在しているのだろうか?

答えは否だ。同性婚推進は偉業をなした。つまり、同性愛嫌悪に反対することを、結婚に賛成することと同義としてしまった。結婚を通して家族とジェンダーを国家が規制するという、人種的・植民地的・家父長的なやり方に対しての批判的な思索や運動の数百年の歴史をかき消してしまった。私たちが初めに目を向けなければならないのは、結婚のそのような解釈である。

1. 結婚とは何なのか

市民の結婚とは、セクシュアリティと家族形成について望ましいあり方を設定し、そのあり方を優遇することによって政府がセクシュアリティと家族形成を規制するために使われる、社会支配のツールである(例えば米国では、100を超える優遇措置がある)。結婚が優遇されている一方で、他の家族形成の形、他の恋愛関係や性的振る舞い("sexual behavior")のあり方については、同様の優遇措置を受けられない上に、烙印を押され犯罪化されている。端的に言って、人々は、結婚するかどうかによって罰せられるか優遇されるかという状況にあるのだ。合法的婚姻というもの自体が、健康保険などの資源や合法的移民への道という生活に必須のものへのアクセスが結婚するか否かに深く結びつけられているという強制的規制であるのだから、同性婚推進を「婚姻の自由」や「平等」のための戦いととらえるのは馬鹿げている。この制度において、解放的だったり平等的なものはひとつとして無い。

ゲイル・ルービン(Gayle Rubin)は1984年の有名な論文『Thinking Sex』において、性的行為("sexual practices")を階層的にランク付けする制度というものが、その支配活動を維持する一環として自らを変容させることを解説している。また、ルービンはセクシュアリティが普通で自然と思われている行為群(「特権圏("charmed circle")」と呼ばれるもの)と、悪でアブノーマルと思われている行為群(「外側限界("outer limits")」)に分断されていると解説する。

行為はこの外側限界から特権圏に移動することができるし、また実際に移動するケースがある。婚姻関係にないカップルの同棲や、あるいは1対1の婚姻関係にある同性愛ももしかしたら、強く烙印を押された状況から受容可能と思われるものに移行することができる。こういった移行はしかし、性的振る舞いのランク付けを廃止するには至らない。つまり、これらの移行は、そもそもの特権圏と外側限界の存在を脅かすことはないということである。ある行為が受容可能なものに移行したところで、自由と平等は達成されないのだ。代わりに、それらの移行によって、善良で健康で普通と思われているものと、悪で不健康で烙印を押されていて犯罪とされているものの間の境界線は、むしろ強化されてしまう。社会が突然にも承認し出した少数の人々のために境界線が動いて配慮をし、そうすることでこの制度は修正されるものの維持されるのだ。法的な婚姻制度は、その帰結として存在する刑事処分制度——淫行や客引き、猥褻行為などに対する法律などがある——と組み合わさって、どの性的行為と振る舞いが受容可能かつ優遇対象となり、どれが軽蔑や処罰に価するかの境界を作り出し強要している("enforce")。

結婚についての社会的思い込みというのは、同性婚推進においても再現されているが、結婚というものは愛に関するもの、老人や子供の世話に関するもの、素晴らしい人生を共に過ごすことに関するものである、もっと言えば幸せな個人の人生及び健康的な文明の礎である、というものだ。フェミニスト運動、反人種差別運動、反植民地主義運動はこれに反対し、結婚を、性と家族の規範を暴力的に強制する制度と見なしてきた。これらの運動から、私たちは結婚というものを、性差別的で異性愛中心的家父長制に基づく恋愛神話のサテンリボンで包まれた、ある種の技術——社会支配のための、搾取のための、そして財産略取のための技術——であると理解している。

結婚は反黒人の人種差別の道具である

米国建国以来、家族形成の規制は反黒人の人種差別と暴力においてとても重要であった。子供が生まれた瞬間に奴隷となること、黒人が人間ではなく所有物であることを確認する意味でも、奴隷の家族的つながりを否定することは奴隷制にとって必要不可欠であった。解放後、政府は黒人の支配に大急ぎで着手し、新たに自由になった黒人同士の結婚を強要した上で、囚人貸出制度(訳者注:民間企業が州に料金を払うことで、受刑者に無償労働させることができる制度)に黒人を再度取り込むために、不倫を理由に彼らを犯罪者化した。ブラウン対教育委員会("Brown v. Board of Education")裁判では公的で法的な分離政策に意義が申し立てられたが、この裁判のあとは、黒人の子供を様々なプログラムやサービスから排除するために嫡出に関する法律が好まれて用いられるようになった。結婚している家族とその子供が最も優れているという考え方は、当時も今も、反黒人の人種差別にとって重要な道具である。

Moynihan Report が最も有名であるが、黒人の家族はこれまで学術研究や社会政策において、婚姻率を根拠に、病的あるいは犯罪的であると描かれてきた。反貧困者・反黒人の言説及び政策立案においては、貧困は、黒人の人口における結婚の少なさの帰結であると位置付けられる。クリントンの福祉プログラム解体によって黒人家族は特に大打撃を受けたが、結婚していない親の存在が貧困の原因であるという露骨な言説によって正当化された。ジョージ・W・ブッシュ大統領やバラック・オバマ大統領の政権下では、時に現金をちらつかせて低収入の女性を結婚させようとする「健康結婚推進("Health Marriage Promotion")」政策が用いられてきた。残酷な介入や「優しい無視("benign neglect")」を正当化するために人種差別的で性差別的な結婚家族規範を押し付けることで黒人を悪魔扱いし、管理し、支配するという構図は、米国において長い歴史を持ち、かつ現在でも横行している。

結婚は植民地主義の道具である

植民地化において、しばしば侵略は、植民される側の人々を後退したジェンダーや家族制度から救うことであると見なされる。これは、この文章が書かれている土地(ワシントンD.C.及びワシントン州)からアフガニスタンに至るまで、散見される。ジェンダー、セクシュアリティ、家族構造に関するヨーロッパ的な規範を先住の人々に強制し、それに準じないことをもって罰するというやり口は、北米における合衆国の定住植民地主義の重要な手法であり続けてきた。結婚は、先住の人々を消し去るために行われた土地の横奪や民族浄化における、重要な道具である。合衆国は、西側への植民を促すために、西側への移動であれば男性植民者に対して160エーカーの土地を約束し、更に結婚し妻と一緒に移動した場合には追加の160エーカーの土地を約束した。同時に、先住の人々が共同で生活していた共同住居を焼き払い、共同的土地所有のやり方を潰し、男性個人による土地所有のあり方を押し付けることを通して、合衆国は先住の人々の伝統的な共同の生活スタイルを犯罪化した。ジェンダーや家族の制度の管理とは、これまでも、そして現在でも、強制移住や植民地化にとって重要である。「文明化のミッション」の一環として寮制学校においてジェンダーの規範を強制し、現存するものも含めあらゆる方法で先住民族のコミュニティーから子どもたちを切り離すことは、合衆国における民族場が及び植民の重要な道具であった。

結婚は外国人嫌悪と移民取り締まりの道具である

建国当初から、合衆国の移民法は受け入れる移民——常に国外追放の危機にさらしたまま——を制限し、他の移民を「望まれない者」とすることで、どちらの移民をも労働搾取しやすく、追放可能な状態に置くための機構を常に配備してきた。貧困な人々や、烙印を押された罹患者、そして有色人種を中に入れないようにするということは、喫緊の国家的優先事項であった。結婚はこうした支配にとって重要な調整弁であり続けてきた。例えば、アジア人商人の妻の移民を許可する一方で、アジア人女性自身の移民流入を退けることで合衆国内でアジア人労働者が子どもを生まないようにしようとした1875年のページ法がある。結婚とは、婚姻関係に基づく家族関係を数少ない移民方法としておくなど、米国の移民支配における深刻に不正義な道具であり続けている。こういった仕組みから生まれる影響のひとつは、自分の移民状況が暴力的で痛みを伴う性的及び家族関係に依存しているとき、その関係にい続けなければならなくなってしまうということである。

結婚はジェンダー化された社会支配の道具である

結婚は社会支配及び労働搾取の道具であるということを、フェミニストは長きにわたって認識してきた。だからこそフェミニストは、恋愛や結婚、育児、介護について、それらが女性に無償労働を押し付けることや性暴力を作り出すことを暴くことで、いくつもの神話を解体すべく動いてきたのだ。さらに、婚姻関係から離脱しやすくするために法律を変えるよう運動したり、女性や子どもを暴力的な家庭関係に閉じ込めるような、移民や健康保険などの生命に関わる重要なことと婚姻状況とのつながりを切り離すべく運動してきた。

結婚は私財の保存及び不均衡な分配に関するものである

結婚はつねに、何が(どの女が、どの奴隷が、どの子どもが)誰の所有物であるのか、誰がその所有物を受け取るのかに関するものであった。相続、労働者の保障、保険金受給、税金、死亡に関する損害賠償などの、結婚と関連するすべての特典は、富を富裕層の手に保存するような特典である。所有物を持たない人々は結婚する割合も低く、婚姻法を使って守る対象がそもそも少ない。貧困をどうにかするのではなく貧困のままにしておくことで富裕層が自らの富を守るために彼ら彼女らをもっと効率的に利用することができるようにできているような所有の制度自体の解体に、経済的正義のための運動は関わっている。

こんにちの同性婚推進者は法廷やメディアで、結婚は社会の基盤であり、子どもは婚姻関係にある両親を持つ権利があるし、結婚は人間が結びうる最も重要な人間関係である、と主張する。これらは、生きるために必要なものを不均衡に分配し、端に追いやられた人々を支配することに一役を担ってきた法的な結婚というものを解体するべく、これまでフェミニスト運動、反人種主義運動、反植民地運動などが何百年と主張してきたことと、全くの反対の主張である。

同性婚推進運動への批判に対する昨今のよくある反論について

結婚したくなければしなければいい

同性婚は、私たちのうち結婚したい人はすればよいし、したくなければ黙って結婚式のプランを立てさせてくれよ、という「選択」の枠組みで語られてきた。しかしこの選択は、法律や文化的な制度の中ですでに構築された限定的な選択肢の中での選択である。強制的な制度というものは、賞罰を配分している。つまり結婚は、それに参加しない者を罰しているのだ。結婚が個人的な選択であると主張することは、この事実を隠蔽している。結婚は、政府がある種の関係性、家族構成、性的振る舞いを選んで、それを最も適した標準であると定め、それに褒賞を与え、一方で他の者が烙印を押されたり犯罪化されるようなシステムの一部である。結婚やそれに似た関係を結ばずに一生を終える人もたくさんいる。(同性婚の)推進者が結婚したい人は結婚を許されるべきだと反論するとき、結婚制度を通して受け入れられる存在にならない人たちが結婚制度の存在によって受ける損害というのは、消去されるか、正当化されている。するかしないか個人が選択するものとしてのみ結婚を考えるとき、私たちは意味のある抵抗や変革の可能性を手放すことになるのだ。ウェディングギフトの代わりに寄付してくれだとか、女性を「best man(花婿の介添人)」に選んだりだとかの、勝手に個人がやれる見かけばかりのことくらいしか、政治的な行動は想像できなくなる。賞罰制度としての結婚を解体することには、一切寄与しないような行動だ。究極に言って、結婚は選択肢メニューから個人が自由に選ぶようなものではなく、支配に関するものである。

でも結婚は愛に関することであって、愛は革命的なことだ!

上で言った通り、結婚は白人、富裕層、植民者の利益のために人々や所有物を支配することに関わるものである。愛にまつわる消費者駆動の神話の隠れ蓑に隠れながら、実態はそうである。米国のポップカルチャーには、フェミニストが長く分析し、解体しようとしてきたセックス及びロマンスに関する神話が多数浸透している。私たちは、人は結婚していなければ(その人が女性であれば特に)空っぽで意味のない人生を送るのだと教え込まれている。女性は結婚できるかどうかということに欠乏感を感じるように奨励されている(つまり、この人だという人を見つけて、自分と早く結婚することに納得させなければ、空虚な人生を送るのだと思わされている)。この方程式によれば、女性は人種差別的で女性差別的な規範にのっとっている度合いによって価値判断され、男性もまた富を基準に物扱いされランク付けされることになる。こういった神話はダイエット産業や娯楽産業の多くを動かしており、さらにもちろん、ある特定の日に可能な限り金持ちに見えること、細く見えること、そして規範にのっとっていると見えることを恐怖を感じながら目指す人々を収入源とする巨大なウェディング産業(米国では400億ドル=日本円の約4兆円)も動かしている。愛やロマンス、結婚について女性が経験するよう仕組まれている欠乏感や不安というものを、フェミニストは、女性を搾取的で暴力的な性的関係や家族役割に押し込める一種の強制であると認識してきた。結婚と育児が女性の意味ある人生に不可欠であるかのようなメッセージを出すメディアというものは、暴力や無償家庭内労働から女性を解放しようとするフェミニストの運動への保守派のバックラッシュの一部でもある。

これは、人が恋愛関係やその他の関係において愛を一切経験しないという意味ではない。ここでは、事実として、人々の愛を認識し支援したいと政府が思っているから結婚制度があるのではなく、人々と資源を支配するためにあるのだという話をしている。同性婚の推進運動は、結婚とは愛に関するもので、家族の作り方として最善のものであるという保守的な神話を強化しているのだ。

でも私がこのやり方(同性婚)で愛を表現したいと思っているときに、私にクィアとしてどうあるべきかを指示するのはやめて!

同性婚推進運動への批判に対して多く出てくる反応の1つは、すでに結婚していたり結婚したいと思っている人たちによる防御反応である。彼ら彼女らはしばしば、批判者によって個人的に批判されたと感じたと主張する。この反応というのは、構造的な批評を個人の心象の問題に矮小化しており、左翼側の誰から向けられてもとても残念な思いのするものだ! 誰もが抑圧的な諸制度に組み込まれて生きており、むしろそれら諸制度からの恩恵すら生きているのだということを、私たちはすでに認識できるようになっているのではないのか? 自らの特権を認識するのがつらいからといって、自分の組み込まれている制度に対する批判を、不快感を解消するために黙らせたり、むしろその批判によって傷ついたかのように振る舞うことはしてはならないということを、すでに知っているのではないのか? いや、確かに私たちはいつもうまくできているわけではないけれど、頑張ろうではないか。結婚する方向に社会全体が応援しているというのに、結婚している人や結婚したがっている人が批判を受けた被害者面をするのは、わけのわからない話だ。

結婚の批判をする人というのは、同化する人を批判する単なる個人の反同化主義者ではない。結婚の批評というのは、ある種のクィア文化を他のクィア文化よりも優遇して推進しようというものではない。それは、物質的な配分に関することなのだ。人は、好きなパーティを開き、好きなデートができるようでなければならない。重要なのは、そんなことを通して移民や健康保険に関する褒賞が得られるようではいけないということだ。結婚の批評が単に同化に関するものに矮小化されるとき、人種や経済的正義、脱植民地分析に関するものは外部に置かれたままだ。だからこそ、この矮小化を伴う反論がよく持ち出されるのかもしれない。誤解しないでほしい。反同化的議論は重要である。私たちは結婚したいのではなくただファックしたいのだ——あるとき、ある場所で、ある人々にとっては生存のため、オルタナティブを生み出すためにクィアカウンターカルチャーが重要なツールになるという点で、それは意義のあるものである。しかし結婚の批評というものは、かっこいいラディカルなクィアカウンターカルチャーになってはならない。反同化的議論だけでは、あたかも諸制度から自分だけ抜けたり入ったりできるかのような前提があり、「選択の枠組み」を実体化させてしまうリスクがある。実際には、私たちはみんな異性愛中心的家父長制、植民地主義、白人至上主義、資本主義の中に組み込まれて生きている。問題は、これらの制度を解体しながら、これらの制度の中でどう生き延びるかというものになる。ゴールは、誰もが性やジェンダー、家族規範にどれだけのっとっているかとは無関係に、必要なものを得られる世界を作ることだ。結婚の批判者を文句ばっかり言ってるクィアとして済ませてしまうことは、運動の戦略に関する重要な対話を黙らせてしまう危険な行為だ。

でもそれで(同性婚で)人々は健康保険が使えたり移民できたりするではないか

なぜ健康保険や移民のために結婚しなければならないのか? 同性婚の推進運動は、人々に生存に関する資源を与える方法として宣伝されているが、書類の揃っていない(訳者注:undocumented、かつては illegal 不法と呼ばれた)移民のクィアのほとんどには米国市民のパートナーがいないし、保険に入っていない、職のないクィアのほとんどには、健康保険付きの仕事を持っているパートナーはいない。人々はたいてい同じ階級同士で恋愛関係を結びがちだから、パートナーを見つけることで移民や健康保険のクライシスから抜け出すなんてことはできないし、そんな強制行為を私たちの運動が奨励するなんてもってのほかである。同性婚の推進運動は、これらの問題を解決するための戦略なんかではない。よく言っても、最も特権を持った人々がこういった必要な資源を手にいれるのを手助けするだけで、最悪の環境にいる人にとっては何も変わりはしないのだ。

大きな問題(注) レズビアンとゲイの公的な解決法 他のクィアな政治的アプローチ
クィアやトランスの人々、貧困者、有色人種、移民がまともな健康保険に入れていないこと 同性婚を合法化して、仕事を通した健康保険の適用をパートナーとシェアできるようにする MedicaidやMedicareの運動、皆保険を勝ち取る、トランスジェンダーの健康保険適用、国家によって収容されてる人々の医療ネグレクトに抗議する
不公平で懲罰的な移民制度 同性婚を合法化して、国際カップルの米国市民でない方が在留権を得られるようにする 有色人種を犯罪化し、労働者を搾取し、米国とグローバルサウスの過激な格差を維持するために使われている移民政策に対抗する。現在収容されている人々を支援する。人種プロファイリングや国外追放を増加させている「安全コミュニティ」を含む連邦プログラムに対してローカル及び全国的に反対運動をする。
クィアな家族が国家や非クィアな人々によって法的に介入されたり離散させられたりすること 同性婚を合法化して、同性の両親が合法なものになるルートを作る。性的指向を理由とする養子に関する差別を禁止する法律を通す 家族法や子どもの福祉に関する制度によって標的にされている他の人々(貧困の家族、収監されている親、先住民の家族、有色人種の家族、障害を持つ家族)と手を取り合って、一緒にコミュニティや家族の自己決定、及び家族やコミュニティ内部で子どもを育てる権利を勝ち取る
病院の面会や相続の場面において、制度が異性間結婚の外部にある家族的つながりを認識しない 同性婚を合法化することで、法の名の下に同性パートナーを公的に認める 異性や同性だけでなく、様々な家族構成を認識するよう病院の面会についての方針を変える。相続を撤廃し、富の根本的な再分配をし、貧困を終わらせる。

資源へのアクセスが最もある人々を優先するのは、運動にとって非倫理的な行為だ。ホモフォビアやトランスフォビアが最も深刻に現れるとき、そのターゲットになりやす人々を、私たちは優先すべきなのだ。それは、これらの問題に現実的な解決を施すために資源を投入すること、つまり移民施策に抗い、すべての人への健康保険を求めること、そしてホモフォビアやトランスフォビアについて特化した視点をこれらの運動に提供することを意味する。同性婚を合法化することは、少数の特権者がそれによって恩恵を受けるからという理由で、これからも残虐に人々を痛めつける諸制度の上に「平等」というスタンプを押すだけに過ぎない。

これらの制度を変革する現実的アプローチの1つは、なぜ移民や健康保険へのアクセスが結婚状況と結びつけられているのか、移民投獄や国外追放によってクィアやトランスの人々がどれだけ影響を受けているか、そしてどのようにホモフォビアとトランスフォビアが健康を害したり健康保険へのアクセスを阻止しているのかを問うことである。移民施作の拡大をやめさせ、国境の軍事化や収容、追放をやめさせ、健康保険の受益者が私たち皆から吸い上げるのをやめさせよう、という運動はすでに大きな動きを持っている。クィアやトランスの移民及び健康保険に関する問題を扱う現実的な道であるにもかかわらず、巨大で最も資金のある同性愛者団体は、これらの戦いを自らの中心に据えてはいない。なぜなら、ほぼすべての資金を結婚のために投入してきてしまったからだ(残りは軍隊刑事処分制度に投入された)。一方で、左翼側の異性愛者たちは、クィアな人々が直面する重要な問題を同性婚が解決すると聞かされて、同性婚に賛成しなければホモフォビックだと思われると信じてしまっている。

でもクィアは結婚を変革することになる

こういったことを言うとき、たいていその人は二人の女性や二人の男性が婚姻関係になることで慣習的な「夫」と「妻」の役割が変わるだろうという話をしている。問題は、これが対してろくな変化ももたらさないということを、悲しいことに、私たちがすでに知っているということだ。私たちは、異性愛の関係と同等に(約30%)クィアな関係においてもDVが起きることを知っている。

女性やクィアや有色人種を、かつて彼ら彼女らが排除されていた場所(警察や軍隊など)に追加したところで、彼ら彼女らの役割や、彼ら彼女らに頼ることになった制度そのものが変わることはない、ということを私たちは知っている。結婚に同性カップルを追加すれば「結婚が変わる」という主張は、人々を痛めつけるような人種主義的で植民地的な結婚の構造がしっかり安泰に残るという問題を無視したまま何か文化的な変化が起きると期待するものであり、それどころか、同性婚推進運動がすでに大きな文化的変化を起こしていること、つまりフェミニストや反人種主義の結婚批評に猛反撃を食らわし、結婚をロマンティックな神話として再度価値付けたことを、無視している。

さらに、この同性婚推進の議論は、結婚を文化の領域にのみ位置付けている。もちろん、文化と経済は複雑な形で絡み合っており、ジェンダーや性に関する文化的規範を変えることは無意味ではない。文化的規範を変えることはしばしば、それによって社会の中での位置付けが変わった人にとっては、経済的な褒賞や機会を生み出す。同性婚の合法化によって象徴的には「結婚の意味」が変わるかもしれないが、しかし結婚制度による賞罰の配分を通して生み出される被害は、それによって取り消されるようなことは決してない。褒賞が、単にもう少し多くの人に与えられるようになるだけだ。つまり、共有する所有物、共有する健康保険、そして共有する移民状況を持つ同性カップルは、何か得るものがあるかもしれないが、貧困にあったり、失業していたり、書類が揃っていない移民だったり、保険に入っていないクィア(その数はどんどん増えている)にとっては、何も違いは生まれない。むしろ、結婚を包括的で正しいものだと宣伝することで、排除されている人々への罰が正当性を持ってしまうことになる。独り身で健康保険がないのは自分のせいだ、と!

同性婚推進運動が同性愛者を超性的あるいは病的なステレオタイプではなく、家族の一員や親、普通のカップルに見えるように手助けしたおかげで、同性婚推進運動は同性愛者についての一般的な見方を向上させたと主張する人もいる。同性婚推進運動によって勝ち取られたこの限定的で新しい受容のありかたの問題は、クィアな人々を普通のカップルとして描くこと、そうでない人に押された烙印を強化することに、それが依存しているということだ。クィア政治は、性やジェンダーの上下階層の解体に関するもののはずだ。一方同性婚の動きは、規範にのっとることのできる人だけを特権圏に入れることに躍起になっている。カップルの権利という枠組みでは、性犯罪者登録制度性人身取引に関する法律、その他様々な方法によって現在まさに拡張しているクィア及びトランスの人々の犯罪化に対抗できないばかりか、むしろそれとうまく同調する形になってしまう。クィアな人々を飼いならされた普通のカップルの集団であるように描くような、新たな不正確なステレオタイプを発明することは、もし私たちのゴールが性やジェンダーの強制や暴力の制度による被害を減らすことであるならば、大変ひどい戦略である。

でもあなたたちの言っているものは勝ち取れないもので、私たちは少しずつ改善していく必要があるし、同性婚は平等への一歩なんだ

この主張には、ネオリベラリズムや資本主義、そして人種差別的な犯罪対策及び収監制度には一切のオルタナティブが無いというのが前提にあり、胸が締め付けられるほどに保守的な主張である。私たちはオルタナティブを想像することを厳しく禁じられており、すでに酷い状況にある諸制度に少しずつ人を入れるためにいじくりまわすことだけを許されている。同性婚を合法化することは、私たちクィアが直面する被害や暴力を減らすために必要としているものへの一歩ではない。実際にはそれは、被害が悪化している現実の横で、あたかもその被害が公的に解決したかのように宣言される瞬間でしかない。「権利を持つに値する人」と「権利を持つに値しない人」は更に引き離されて、結婚制度とその神話は反ホモフォビアの名の下に名誉回復を果たすのだ。

同性婚推進運動は、結婚を祝福し、推進し、結婚制度によって罰せられる人々すべてを廃棄し、そして、彼ら彼女らから私たちへの連帯は一切期待できないにもかかわらず、彼ら彼女らのウェディングの邪魔はするなと言う。

内包に抗して

同性婚推進運動は、同性愛者が軍隊に入れるようにする戦いなど、暴力的な国家装置への内包を求める他のあらゆる政治的戦略と同様に、害のあるものであったし、今でもそうである。こういった内包の戦略は、内包を求める先のものに価値や正当性を与えてしまうのだ。同性婚推進運動は、少しずつ結婚を解体し、重要な必要資源へのアクセスと婚姻状況を切り離すための私たちの運動をひっくり返すために、右翼による家族の価値のレトリックや方針と手を取り合った。社会福祉プログラムを攻撃し、低所得の有色人種の母たちを最も痛めつけるような、ロマンス、子ども、家族、及びケアについての保守的な結婚肯定的な考え方と手を取り合った。左翼的批評から結婚を救出することによって、私たちの運動の歴史が教えてくれた家族とジェンダーの国家的支配についての知見を、左翼側にいる異性愛者及び同性愛者に忘れさせた。

内包の議論は更に、推進派が「私たちは内包されるに値する人間だ」という物語を生産するにあたって、自らの支援者を分断することを必要とさせる。これは、1対1の関係を結ぶこと、上流階級であること、税金を払っていること、そして従順な消費者であることを満たした同性愛者のイメージの世界を生産することを意味してきた。こういうストーリーは、結婚できないことで失うものがある人にフォーカスが当てられてきた(アメリカが望むべきヨーロッパからの移民、大きなウェディングを開いて我々の経済をよくしてくれるカップル、死ぬときに継がせる財産のある人々)。こうしたクィアライフ及びクィアな人々のイメージをアメリカの人種的、階級的、モラル的規範を満たす「権利を持つに値する」カップルとして宣伝することは、特権圏からはじき出されているすべての人々(特に貧困、性取引への参加、ホームレスであることなどを理由に犯罪化されているクィア及びトランスの人々、法的な結婚から褒賞を得ることのないすべての人々)に対する容赦ない悪魔化に参加することである。

私たちは、同性婚推進運動は草の根運動だと聞かされてきた。しかしそれは実態とは異なる。米国内で起きている他のあらゆる反ホモフォビア及び反トランスフォビアの草の根運動を蹴散らして一般社会の注目を奪い切った同性婚推進運動の巨大な機構は、てっぺんからやってきたのだ。同性婚推進運動の資金を出しているような、潤沢な資金のある同性愛者権利団体や、少数の金のある基金及び資金提供者は、とても少ない。1ゲイパーセントだ(原文:"the gay 1%")。この運動の問題設定は、閉ざされたドアの背後で作られ、残りのクィアとトランスの99%は、自分たちの生活や要求がメディア企業やエリート同性愛者によって枠組み付けられてしまうので、作られた戦略に対して事後に反応することしかできない。仕方がないと受け入れた人もいれば、口答えをした者もいる。しかしいずれにしても、私たちの意見は何も反映されないのだ。もし同性婚推進運動に何かいいところがあるとすれば、それはおそらく、社会貢献活動というものが運動を形作る力を描き出していることだろう。私たちは、ストーンウォールやコンプトンズ・カフェテリアでのストリートで始まったとされる警察暴力への反乱が、警察による起訴の推進や警察との協力に変わり果てたのを見てきた。1960〜70年代に始まった反戦及び脱植民地の抵抗のラディカルな政治の中でそれ故に生まれた運動が、米国軍に入隊する権利にフォーカスするものになってしまったのを見てきた。そしてまた、性や家族規範の政府による規制についてのクィア、フェミニスト、反レイシズム、及び脱植民地的な批評が影を潜め、一方で法のもとでの結婚の要求に変貌するのを見てきた。こんな短い期間で、国家暴力の制度が自由と平等の場としてリブランディングされるのを見るのは、驚くべき経験だ。同性婚の戦いが近い将来終結し、財産や(合法的)移民状況、及び健康保険を持たないクィアやトランスの人々にとっての状況が残虐なものであり続ける中、結婚を答えとして見てこなかったクィア及びトランスの運動を中心に据える人種及び経済的正義を支援し、拡張していくことは、きわめて重要なことである。

原文の筆者について

ディーン・スペード(Dean Spade)はシアトル大学法科大学院の准教授であり、現在コロンビア法科大学院の Engaging Tradition Project のフェローである。2002年にトランス、インターセックス、及びジェンダーの規範から外れた(原文:"gender non-conforming")低所得者や有色人種の人々に無料で法的手助けをし、人種及び経済的正義に根ざしたトランスの抵抗運動をつくるための非営利集団 Sylvia Rivera Law Project を立ち上げた。『Normal Life: Administrative Violence, Critical Trans Politics and the Limits of Law』の著者。

クレイグ・ウィルス(Craig Willse)は、ジョージ・メーソン大学のカルチュラル・スタディーズの助教授で、 Students Against Israeli Apartheid (訳者注:「イスラエルのアパルトヘイトに反対する学生団体」のこと)のアドバイザー教員である。『Beyond Biopolitics: Essays on the Governance of Life and Death』の著者。現在ネオリベラリズム状況下における人種化された住居不安の取り扱いについての本を執筆中。

Basichis, Lee and Spade. "Building an Abolitionist Trans & Queer Movement with Everything We've Got, in Captive Genders: Trans Embodiment and the Prison Industrial Complex." (eds. Stanley and Smith) からの図の抜粋。

翻訳について

この文章は、上記原文筆者によって英語で書かれ Organizing Upgrade サイトに上記の日に掲載された文章を、2015年7月20日にマサキチトセが翻訳したものである。なお翻訳は推敲を経ておらず、原文との完全一致を保証するものではない。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。