「永遠の愛を誓いません」と言える特権

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2022年11月20日

この記事は古く、私の現在(2016年)の立場を正確には反映していません。同性婚については、『現代思想』という媒体の2015年10月号にこれまでの私の立場をまとめた文章が掲載されています。全文がこちらで読めますので、以下の記事で疑問点を感じた人はぜひ『現代思想』の文章も合わせてご覧の上、ご意見・ご批判などが残った場合のみコメント等お願いします。また、「長くて飛ばし読みしましたが」とか「後半読んでませんが」とか言う人のコメントは反応する価値が無いと思っておりますので予めご了承下さい。

Facebook と Twitter をダラダラと眺めていたら、ニューヨーク・タイムズ紙の『Gay Couples, Choosing to Say 'I Don't'』、つまり(誓いますかという問いかけに対し)「誓いません」と言うことを選択する同性カップルたち、というタイトルの記事を見つけた。婚姻制度に反対している私は当然のごとくまずタイトルに目を奪われたし、他の同じような考えの人たちも反婚の意見が主流派メディアでようやく紹介され始めたことを喜ばしく思いながら Facebook や Twitter でリンクをシェアしているようだった。すげえじゃんと思って記事を読んでみると、とてもがっかりすることになった。その理由とは、記事のエリート主義的な物言いだった(大変予想外)。

誰の現実か

記事は、レズビアンやゲイ、トランスジェンダーの人たちの色々な反婚の声を捉えているし、私自身同意するものがたくさんあった。説得力もあるし、現実に即した話をしていると感じた。しかし、その現実って誰の現実なのだろうかとも思った。

記事で紹介されている「声」は、以下のような人たちの声だ。レストラン所有者 (Brian Blatz と Dan Davis)、ニューヨークのアーティスト (Sean Fader)、ブルックリン在住のカップル (Stephanie Schroeder と Lisa Haas)、現もしくは元大学教授 (Jack Halberstam とそのパートナー、 Catharine Stimpson、 John D'Emilio、 Mary Bernstein)、引退した高齢者 (Jim Oleson)、映画製作者 (John Waters)、シンガー・ソングライター (Erin McKeown)、イーストヴィレッジ在住者 (John Carroll)、ニューヨーク医大の学生 (Eric Routen)、そしてプロフィールの明かされていない2名。

ブルックリンのカップルと芸術関係者以外、記事中で引用されていたり言及されている人たちはクィア人口全体のうち裕福な側にいる人たちだ。Queers for Economic Justice のような団体が労働者階級やホームレスの人々と深いつながりを持って行ってきた膨大な活動を念頭にこの記事を読むと、記事が社会経済的な驚くべき偏りを持っていることがわかる。

私は必要ないけど、あなたは必要かもね

記事中私が最も衝撃を受けたのは、おそらく、婚姻制度を必要としている人々に対する共感、あるいは関心が、インタビューを受けた人たちからも編集者からも感じられないということだった。

John D'Emilio は結婚する「必要性が感じられない "sees no need"」と言う。Brian Blatz と Dan Davis は、結婚する「意義がよく分からない "little point in marrying"」と言う。Jack Halberstam は「結婚せよという圧力を感じない "I don't feel the pressure"」と言うし、Mary Bernstein と Nancy Naples は「結婚することに明確なメリットが見えない "see little tangible benefit in marrying"」と言う。

家族の中、地域の中、友人関係の中で結婚と離婚を何度も見てきた私は、人々が様々な理由で結婚を選ぶということ、そして彼ら彼女らの頭の中では膨大な量のリスク管理が行われていることを実感を持って知っている。そして多くの人にとっては、結婚にはそれなりの「必要性」「メリット」「意義」があるのだし、それは Mary Bernstein が記事中引用で言っているような「(結婚したいと思う人は)外部からの承認を求めている」というだけのことではなく、もっと複雑なことなのだ。

婚姻制度は、出入国管理や医療保険制度、社会保障制度などなど他の社会制度との共犯関係において、結婚することの「必要性」「メリット」「意義」を作り出すために存在している。結婚とは、政府主導のもとマイノリティーを対象として売り出されているパッケージ商品であり、それは政府の他の制度の欠陥や失敗を覆い隠し、維持し、それらの欠陥制度の根本的変革(それには大層お金がかかる)を阻止する機能を持っている。

記事で Stephanie Schroeder は、「誰かの婚姻する権利を否定したいわけではない」と言っているが、そもそも婚姻とは、単なる個人的選択の問題ではないし、これまでもそうではなかった。Catharine Stimpson の言う「選択があるということは、それを選択しなければならないということではない」という言葉とは反対に、実際、結婚する選択肢があることは私たちや私たちの周囲の人間に結婚しなければいけないというプレッシャーを与えている。

要するに、もろもろの社会制度によって重層的に疎外・周縁化(「普通ではない」とされて異端視されたり権利を奪われたりすること)されている度合いが高ければ高いほど、その人は結婚に「意義」を見出しやすくなるだろう。婚姻制度においては、最も特権を持っているのは既婚者でも異性愛者でもなく、結婚しても離婚しても特に大きなメリットもデメリットもなく、よって好きな時に結婚も離婚も選択できる人たちである

インタビューをされている人たちは結婚する「必要性」「メリット」「意義」「圧力」を感じないと言っているが、それ自体が特権、つまり「永遠の愛を誓いません」と言える特権である。理解できないのは、この人たちは平等とか解放とかそういうことを支持しているだろうに、この特権に関して一切恥じていたり謙虚になろうとしている様子がうかがえないことだ。

John Waters は記事内引用で、「同性愛者であることのメリットってのは、結婚しないで済むということだと前から思ってた」と言っている。私も婚姻に関してはある程度この意見に同意するが、しかしその結婚しないで済むという特権を大切にしたり守るのではなく、この考え方を実際に推し進めて、現在その特権を持っていない人たちも同じ特権(それは特権ではなく権利になるが)を手に入れられるよう配分しなければならないだろう。

繰り返すが、婚姻は個人的選択の問題ではない。婚姻制度、あるいは少なくとも現在私たちが知っている形での婚姻制度は、撤廃しなくてはならない。その意味はつまり、結婚する「必要性」「メリット」「意義」を作り出している現在の社会制度全体を撤廃することによって、婚姻が何の意味もなさなくなるようにするということだ。

クィア的反婚運動 対 LGBT的代替婚姻制度

もう1つ気づいたことがある。それは、上で述べたように記事中で紹介されている「声」が他の現実——つまり結婚する人たち、結婚することが可能な人たちの現実——を無視しているだけではなく、記事の全体的な論調から、フェミニズムの歴史を簡素化し、既婚者・離婚者を含むフェミニスト女性たちがフェミニズムにおいて担ってきた役割を消去しているような印象を受けたことだ。

Mary Bernstein は記事内引用で、以下のように述べている。

「60年代、70年代、80年代においては、LGBTの人たちは結婚なんかよりもうまくやれる、(慣習的な家族のあり方から外れたとき)恋愛関係はもっと平等なものにできる、というような感触があった」

私たちのクィア的反婚運動は、「非LGBTの人たちの異性間婚姻は慣習的で、LGBTの人たちよりも平等さに欠けている」という意識のもとに成り立っているのだろうか?

女性の権利については、既婚女性の権利もシングル女性の権利も関係なく、多くの女性が、それこそ既婚者かシングルかに関係なく戦ってきた。また、反婚を含むフェミニズムのこれまでの多くの運動は、莫大な人数の既婚女性によって作られたり手助けされてきていることも、私たちは知っている。

非慣習的な家族を取り巻く恋愛関係がより平等になるというのなら、そしてそれが結婚よりも素晴らしいものだとするならば、既婚カップルたちはその枠組みではどういう位置付けになるのだろうか。「外部からの承認を求めて」いたかつてのバカだろうか。それとも社会的な圧力に屈した弱い人間か。あるいは、記事中でインタビューされている人たちとは違い、社会において周縁化されていることによって、結婚する「必要性」「メリット」「意義」が発生してしまったアンラッキーな人たちだろうか。

いや、私たちの運動は、クィアな声と同時に、結婚できるという事実によって人生を大きく左右され得る異性愛者や両性愛者の声をも中心に据えないといけない。そしてそれは、移民、刑務所、貧困、性差別、障害、健康、加齢、税金、労働など私たちの生活に毎日影響を与えているものすべてを含めて、私たちが大規模な社会的変革を求めていくということだ。それは、クィアな人々だけのための運動ではない。シングルの人だけのための運動でもない。市民権と国籍を持った人たちだけのための運動でもない。そして、「誓いません」とドヤ顔で言うのを楽しみにしている人たちのための運動でもない。

この文章は、2013年10月28日に英語ブログ Gimme a queer eye if you have two にアップした『The Privilege To Say 'I Don't'』という文章の日本語訳です。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。