同性愛について考える3つのこと

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2022年11月20日

『ポーチ』というサイトに、「同性愛について理解を深める3つのこと」という記事が掲載されています。深める「ための」3つのこと、ではないのか? という疑問はさておき、「同性愛」というものについて、インタビューしてる人にしても、されている人にしても、私が考えているものとはいくつもの点で異なっているので、メモがてら、書いておきたいと思います。

せっかく「3つのこと」とまとめられているので、私もまねして「3つ」のことについて書こうと思いますが、元記事の「2 『典型的な性イメージ』がもたらす問題」については突っ込みどころがないので、必ずしも番号は対応していません。

1 「同性愛者の割合」は「3〜5%」なのか?

この記事の書き手によると、「なんと、同性愛者の割合は3〜5%。つまりだいたい25人に1人の割合。クラスに1人くらいはいる割合」とのことです。統計が紹介されているわけでもないので何とも言えませんが、実際には統計として2-3%というものから、10%を超えるものまであります。

ただしこういった統計というのは、「同性愛者である」という自己認識があること、それを統計を取っている相手に知られてもかまわないと思えること、などの条件が揃っているひとの割合しか出せないわけで、たとえば同性と恋愛関係を持っているけれど自分を「同性愛者」という言葉では認識してない(したくない)というひとはカウントされていません。

また、この記事では特にどこの話をしているか書かれていませんが、ほとんどの統計は「米国では」「英国では」など、欧米諸国の国内統計です。一方、「東北では」とか「四国では」どころか、「日本では」という統計すら、大規模の統計は取られていません。これがなぜ問題になるかというと、そもそも「同性愛者」(あるいは homosexual, gay, lesbian, same-sex attraction など、統計を取るときに使われる言葉)という言葉が普及しているか否か、他に使える言葉が存在しているかどうかなどによって、人々が自分のことや他人のことを認識するときに使う言葉が変わってくるからです。

更に、「同性愛者の割合」という表現からは、そもそも世の中には同性愛者とそうでない人々がいて、それぞれが混じって生きている、という前提がうかがえます。しかし、実際には、どういう人間を「同性愛者」と呼ぶのかは日々刻々と変わっています。それは、私たちを含めて、人々(メディア含め)が「同性愛」や「同性愛者」という言葉を使う場面や、その言葉を言いよどんだり、あえて口にしなかったりする瞬間などの積み重ねによって、少しずつ、変容していくものです。「同性愛者」というのは、そのように、人々が日々の言語使用の積み重ねによって「こういうひとを『同性愛者』と呼ぶんだよね」とある程度の共通理解を持っているような人のことを指すのです。同性愛者が先に存在していて、それに「同性愛者」という名前をつけたのではなく、そもそも多様で名前のつけがたい性のありかたの中に、1つの基準を設けて、あちらは同性愛者、こちらは異性愛者と、人々を分断しようとする動きを作った人々が、19世紀後半あたりに米国を中心にいた、という歴史があります。つまり、「同性愛者」という言葉は、ある種のひとびとを「同性愛者」という名前で呼ぶことで、あたかも全然違う人種であるかのように表現し、治療の対象としようとしたり、処罰の対象としようとしたり、差別の対象としようとしたひとたちの、言語使用の積み重ねによって形成されてきたのです。

2 同性愛は、自然に反しているのか?

インタビュー中で、「同性愛は歴史的にどの時代にもあったし、動物の世界でも同性愛はある」と書かれています。

まず、「歴史的にどの時代にもあった」というのは、上で書いたような19世紀後半からの歴史を考えると、にわかには信じがたい主張です。同性間の性的な関わりや、同性間の親密な感情については、私もそれはどの時代にもあっただろうと思います。けれど、それを「同性愛」という言葉で呼ぶことができるかどうかは、また違う問題です。

ある時代では、同性間の親密な感情は、権力のある男が若い男を愛でること、そこで生まれる関係性を意味していました。またある時代では、同性間の性的な関わりは、だれもが行いうる誘惑であり、その誘惑に負けることは罪であると考えられていました。どちらも、「同性愛」あるいは "homosexuality" どちらの言葉でも、的確に表すことのできない関係性です。

また、動物についても、メス同士、オス同士の複数の動物が性的な行為を一緒に行うことは、確かに観察されています。しかしそこで生じる関係性、感情などについて動物に聞いてみることができない以上、それを安易に人間の(現代の)「同性愛」という枠に入れて、同じように扱ってしまうことは、単純すぎる発想です。そもそも交尾自体が、人間の言う「性交」や「性行為」にあたると考えることは、安易です。

3 「性」はグラデーションである?

元記事にある画像を見ながら読んで頂きたいのですが、こういう「グラデーション」論は、結構よく使われる同性愛擁護論です。

しかし、一番左端を見て下さい。「100%男」と書いてあります。一番右端を見て下さい。「100%女」と書いてあります。自分を含め、周りのひとたちのことなどを思い浮かべて、想像してみて下さい。だれが、「100%女」でしょうか。もう、これ以上「女」な人間などありえない、という人は、いますか。あるいは、だれが、「100%男」でしょうか。もう、これ以上「男」な人間などありえない、という人は、いますか。誰を思い浮かべても、それ以上「男」っぽい、それ以上「女」っぽい人というのは、想定できるのではないでしょうか。あるいは、「2人とも100%男って感じだけど、ちょっと違うタイプの男だよな」という2人を思い浮かべることは不可能でしょうか。つまり、この「グラデーション」論は、なにかしら、男はこうだ、女はこうだ、という「両極」を前提としています。そしてそれは、実際には存在し得ないような、頭の中で想像する(けど、結果コンガラがっちゃって明確には想像できないような)イメージでしかないのです。

この「グラデーション」論の次の問題は、「常に合計が100%」であることを前提としている点です。つまり、例えば「恋愛対象」で言えば、「性別関係なく、複数の相手と活発に関係を結んでいる」ようなひとも、「女性にも男性にも関心はあるが、一切性的な、あるいは恋愛的な活動をしていない」ようなひとも、どちらも「50%女、50%男」という位置に配置されることになってしまいます。

また、グラデーションであることによって、例えば「10%右に近づくと、10%左から離れる」ことが前提とされています。つまり、男側に近づいた分、女側からは離れる、女側に近づいた分、男側からは離れる、ということが、当然視されていることが問題です。そもそも選択肢は女と男の2つしかないのでしょうか。あるいは、どちらにも同時に近づくことは不可能なのでしょうか。

これは、「女」と「男」のあいだのグラデーションを主張し、例えば「自己認識」のグラデーションにおいてはトランスジェンダーのありかたを表現できているような錯覚を起こさせるこの「グラデーション」論が、実際には、性別とは男と女のことであり、それ以外の選択肢はありえない(あるとしても、部分的に男であり、残りが女、あるいは部分的に女であり、残りは男である。他の要素はない)ということをも同時に主張してしまっていることを意味します。


以上、ずいぶん考え方が違うなぁと思ったところを列挙しましたが、

「性のあり方に関して、特に疑問を持ったことがないままに過ごせている人は、自分が『異性愛者』であり、性別越境を望まない人(シスジェンダー)であると認識して欲しい」

という主張には私も頷けますし、こういったポピュラーメディアに性に関する記事が載ること自体は、ある程度、歓迎すべき事態だとは思っています。

ABOUTこの記事をかいた人

1985年5月26日生まれ。栃木県足利市出身、ニュージーランドとアメリカを経て現在は群馬県館林市在住。2011年にシカゴ大学大学院社会科学修士課程を中退。以降ジェンダー・セクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をしています。 LGBT運動と排外主義のかかわり、資本主義とLGBT、貧困二世・三世のLGBT/クィア、性的欲望に関する社会的言説の歴史、セックスワーカーの権利と尊厳などに特に関心があります。