クィア音楽第6弾「見送る鳥」

歌詞

「高い金を払って 連れて来たんだから」と
男は恥じらうこともなく 当然みたいな顔で
「妻の帰りが遅い 飯を作らない
夜の生活が不十分だ」と 赤い顔をして怒る

だけど 殴りかかったその手を払って
別れれば帰るしかない
この国を去り どこへ行こうか
女は夢を見る

明日はもう少しマシだろうか
少しは笑えるだろうか
もう少し我慢すれば
いつかマシになるだろうか
空の雲を見上げれば
暗く輝く鳥たちが
門出を祝うかのように
今日も見送りに来ていた

「10万を用立ててはくれないかしら」と
女はこっそり囁いた 海の向こうの息子が
学校に行く手はずを整えたものの
ほんのちょっぴり金が足りない
この子が最後の賭けと

上の息子はここの同じ工場で
100円高い時給をもらう パートタイムで
行ってもいない 学校に通ってる

明日はもう少しマシだろうか
少しは笑えるだろうか
もう少し我慢すれば
いつかマシになるだろうか
空の雲を見上げれば
暗く輝く鳥たちが
門出を祝うかのように
今日も見送りに来ていた

明日はもう少しマシだろうか
少しは笑えるだろうか
もう少し我慢すれば
いつかマシになるだろうか
空の雲を見上げれば
暗く輝く鳥たちが
門出を祝うかのように
今日も見送りに来ていた

Words & music by Masaki C. All instruments are either played by Masaki or programmed in Logic Pro X.

オリジナル曲第5弾「RPG」

歌詞

昔の仲間が集まってる場所は
避けて通るようになってきてて
背伸びをしていた頃の自分にまた
戻りたくはないと思う

選択制の同調 我慢してたわけじゃなくて
本気で同じことを 考えてるような気がしてた

建前の平等 自由とゆう名のRPG
道を外れたら 自分のせいだよねって思い込んだ
命令不在の a dictatorship
罰を恐れて 選ぶ freedom

今日は一緒に戦った仲間たちが
明日になって急に敵になっても
適当な言葉で当たり障りのない
馴れ合いを続けたくはない

拒否する選択肢 用意してれば oh you’re so liberal
その先に何が待ってるのか 本当はみんなわかってる

Fight the fantasy of liberty 自由とゆう名のRPG
Oh 自覚のない 独裁者の声が鳴り響く
賢明な人たちは その賢明さを
噛みしめるために 人を蹴落とす

It’s the fantasy of liberty, you may choose to say no but you cannot afford
to, so long that you forget what you really wanted to do in the first place
As time goes by, you start feeling as if
your obedience were always your choice

建前の平等 自由とゆう名のRPG
Oh 自覚のない 独裁者の声が鳴り響く
Fight the fantasy of liberty 自由とゆう名のRPG

Fantasy of liberty
Fantasy of liberty
Fantasy of liberty
Oh fantasy of liberty

Words & music by Masaki C. All instruments are either played by Masaki or programmed in Logic Pro X.

『サイエンス』誌がジャカルタのトランスジェンダー女性セックスワーカーの顔なし写真を表紙にして批判を受けた件についてウートピで記事を書きました

これまでに4本記事を書かせて頂いているウートピさんに、昨夜ふと目にしたニュースをネタ出ししてみたところ(というか第一稿を全部書いて送りつけた…w)、即掲載してくださいました!(ちょいちょい表現を読みやすく直してくださって、ほんと編集抜きにはライターなんてできねぇな私は、と痛感。)

『“女性”をちょっと生きやすくする オンナ目線のニュースサイト』と言っているだけあって、本当に異色というか何というか。フェミニストメディアは日本では大きなところがないけれど、ウートピがなっちゃうんじゃねえの? くらいの。前回の反人身取引運動の問題点についての記事なんて、絶対どこのメディアもやりたがらないようなトピックなのに、なんと依頼原稿ですからね! 編集のIさんのアンテナが半端ない。

というわけで、今回も売れ線からは外れるトピックですが、掲載して頂けました。わーい。

クリックすると本文が読めます ↓
科学の世界は男性優位? 女性のからだを表紙に使ったサイエンス誌に米国下院議員が抗議

ウートピに反人身取引運動の問題と代表的な活動家ソマリー・マムについての記事が掲載されました(6/10追記あり)

先日、ソマリー・マムさんが自身の財団を去ったというニュースが出ました。

ソマリー・マムさんといえば、二年前、国際基督教大学で開催されたワークショップにゲストスピーカーとして参加していました。私はこの少し前から anti-trafficking movement (反人身取引運動)の危険性について考えたり読んだりし始めていたので、ブログで他の人にも呼びかけて、ワークショップに参加しました。

その時の感想は Twitter と Facebook に書きました。感想というか怒りの表出だけなのでお恥ずかしいのですが、英語を読まれる方はよかったら Facebook にまとめたものをご覧ください。

日本語ではあまりマムさんの問題や反人身取引運動の問題を語っている人が多くないので(英語圏でもほとんどが賞賛の表明ばかりでしたが)、今回のマムさんの辞職騒動を受けて、何か書いた方がいいのかなと思っていたところ、なんとウートピから記事執筆依頼を頂きました! その時の私の反応は、

ウートピすげえなww ソマリーマムについての記事執筆依頼が来たよwww 異色メディアすぎるwww

というものでしたw (Facebook より)

早速取りかかってみたものの、1,500字程度という依頼なのに、第一稿は驚きの4,002字。削れないんですーToT と泣きついたら「前後編に分けましょう」という素晴らしいご提案を頂き、ほとんど文章をいじらず掲載して頂けました。

というわけで、『セレブな人権活動家ソマリー・マムの辞職騒動』前後編が無事ウートピに掲載されました。

タイトルと見出しは大幅に変更されているので、ちょっと自分でも恥ずかしいくらいゴシップ風なのですが、さっきも書いた通り内容はほぼ私の出した原稿の通りです。

脚注がひとつを残して削除されているので、情報のソースを知りたいという人は、以下のリストをご参照下さい。

追記 2014年6月10日

(この部分、文法エラーが多かったので、更に約19時10分に修正しました)

以前ソマリー・マムさんについて前のブログで書いたとき、「従軍慰安婦は元々売春婦だったから日本は何も悪くない」というネトウヨの論理と何が違うのか、という反応をツイッターで頂きました。当時もブログ上で応答しましたが、それを加筆修正してここでも説明しておきます。

そもそも「慰安婦であったような女性がすべからく完全に自主性を持たずに強制されて慰安婦になった」ということが、あたかも「日本は悪かった」ことの条件であるかのように振る舞う方が、ネトウヨの論理に近いのではないでしょうか。慰安婦の中には、例えば、日本が朝鮮半島の地元経済を壊滅的に痛めつけていなかったら慰安婦にならなかったであろうひとも、たくさんいるでしょう。経済的な必要性から「慰安婦になるしかない」ような状況に、日本によって追いやられた人々が多数いたのです。

前の記事から以下抜粋します。(脚注番号は省略)

反トラフィッキングの活動家や団体は、「プッシュ」要因への対処に時間と金をかけず、「プル」要因を撲滅するためにばかり時間と金をかけています。ぽん引き、ギャング、トラフィッカー、客などは女性を性産業に引き(=プル)入れるので、「プル」要因です。しかしかれらが「プル」するのは、既に何らかの形で「プッシュ」されてきたひとたちです。「プッシュ」要因は、例えば家庭や街、そして刑務所等での暴力だったり、人種・性・階級などの差別だったり、外国人を標的とした法律だったりします。「プッシュ」要因に注目しないことで、反トラフィッキング運動は、社会構造の問題(経済・文化など)を解消することで性産業以外の選択肢を広げようとするのではなく、むしろそういったことには目をつむり、トラフィッカーなどによる「犯罪」の問題に矮小化してしまうのです。

このプッシュ要因とプル要因という枠組みで考えれば、従軍慰安婦にとって、各地域の経済や生活を破綻させるような植民地政策を実施した大日本帝国はプッシュ要因であり、同時に、詐欺や拉致などの方法で従軍慰安婦として彼女らを集めたプル要因でもあったということが分かります。そして、その両方の意味において、「日本は悪かった」のです。

私の主張は、「プル要因だけを撲滅しようとしても、実際に性産業に従事しているひとには痛手にしかならない」というものです。それは、「プル」要因であるような(つまり、社会構造的に「プッシュ」されてしまったひとを引き入れるような)トラフィッカー、ぽん引き、売春宿所有者、ギャング、客などの存在を擁護するために言っているのではなく、セックスワーカーの権利と尊厳と生活が守られなければいけないから言っているのです。プル要因だけでなく、プッシュ要因も同時に減らさなければならない、そして望むと望まざるとにかかわらず、就労環境が改善されなければいけない、と思っているのです。

プル要因だけに注目するというのは、慰安婦問題についてのネトウヨの論理です。「強烈な強制連行があったなら日本は悪いが、そうでないなら全く責任を問われるいわれはない」という主張だからです。一方で、反人身取引運動もまたプル要因だけに注目しています。どちらも、日常生活の延長にある経済や文化、社会構造などには一切の批判を向けず、(むしろそれらを擁護するのに都合のいい)「とんでもない悪者が悪いことをしているのだ」という考えを根底に持っています。両者の違いは、ネトウヨが「日本はとんでもない悪者ではなかった」という主張に行き着き、反人身取引運動は「とんでもない悪者から少女たちを救おう」という主張に行き着いた、ということくらいでしょう。

追記 2014年6月10日 その2

日記ブログの方で書いたんですが、思ったよりもツイッターなどで紹介してくれる人が多いので、こちらでも紹介しておきます。

反人身取引運動(はんじんしんとりひきうんどう)はニーズにこたえているのか

6/20群馬県館林市でダイニングバー開店のお知らせと、資料提供のお願い

皆様こんにちは。日頃は大変お世話になっております。マサキチトセと申します。

このたび6月20日に群馬県館林市にダイニングバー、 FAT CATS を開店することとなりましたので、皆様にご報告さし上げます。

フェミニズムやLGBT、クィア関係、福祉、その他様々な情報を提供する場として、コミュニティースペースのように気軽にご来店頂けるバーを目指しております。

近隣にお越しの際はぜひお立ち寄り下さい!

Dining Bar FAT CATS
374-0024 群馬県館林市本町4-1-8
TEL 050-5875-4064
Email contact@barfatcats.com
WEB http://barfatcats.com

FAT CATS のスタッフは、2010年より「屋外おかまバー おっかまん」と称して毎月第3土曜日の地域商店街イベント「館林夜市」に参加して参りました。地域コミュニティと繋がりながらジェンダーやセクシュアリティに関する活動をすることの大切さをこの4年間を通して学び、また実践する機会を頂戴して来たと思っております。

福祉やセクシュアリティ、シングルマザーなどに関する資料を時々ご提供したり、地元の支援団体などに寄付するため、全ての利益を貯金してもきました。2011年には、お仕事がない人への無料けんちん汁企画、聴覚障害のある方とそのご家族を招待しての無料食べ放題・飲み放題企画も行い、望ましい社会の公平性や正義にかんして私たちのできることをやってまいりました。

近隣のうなぎ屋のおじちゃんから、都内在住のクィア活動家、群馬県内のLGBT学生まであらゆるバックグラウンドのお客様が集まり食事とお酒を楽しめる場所として、「LGBTの場」ではない、「LGBTQがいないことにされない場」を、毎月1回ではありますが、作ることができたとスタッフ一同自負しております。

また、必ずしも「フェミニスト」を自称しない地域コミュニティの方々が、女性の尊厳や権利について積極的に発言、活動されていることも学ばせて頂きました。

このたび実際の店舗としてバーをオープンするにあたり、これまで限られた時間にテント内で行って来たことを更に拡大することができるようになり、スタッフ一同現在準備に奔走しております。

入り口、そして性別関係なくご利用頂けるトイレにはボードを設置し、様々な資料を掲示する予定です。トピックとしては、健康保険や福祉、性暴力、セクシュアリティ、性自認、最近の法改正、求人情報、相談ホットラインの番号、関連するデータベース、クィアイベントやその他のイベント、シングルマザー、DV、性感染症、HIV/エイズ、自傷行為、医療サービス、精神疾患、クィアと聴覚障害、移民と難民の権利、労働者の権利、セックスワーク、その他諸々を想定しています。

また、トイレには何らかの棚を設置し、フライヤーやチケット、福祉関連の申込用紙、パンフレット、その他各種案内などを置き、お客様にお持ち帰り頂けるようにしようと思っています。トイレ内にはさらに綿棒や生理用品、もしかしたらコンドームも置くことになるかもしれません。詳細はいまスタッフで話し合っているところです。

スタッフは色々な分野においてある程度の知識を備えています。労働問題や保険問題について非常に詳しいスタッフ、シングルマザー当事者として、女性が働くことの現実や困難を知っているスタッフ、ジェンダーとセクシュアリティを専門的に勉強したスタッフ、また、日英両方で情報を提供できるスタッフも2名おります。

紙の資料だけではなく、お客様との会話を通して口頭で何かお役に立てる情報をご提供できればと、スタッフ一同、健康保険や生活保護など様々な問題について今後も勉強を続けてゆく予定です。能力的にも、そして法的にも私たちは法律相談はできませんが、日々の生活でお困りのことがあったら、基本的な情報だけでもご提供し、ご自身で解決の道を選ぶまでのお手伝いができればと思っています。

店内のバリアフリー状況ですが、トイレは全面的に改装し、車いすをご利用される場合もされない場合も、誰でも使いやすいくらいに大きなトイレにする予定です。入り口にはなだらかなスロープをつけることにしました。店内もキッチンとステージ以外は段差はありません。もし移動などに関してスタッフがお手伝いできることがあれば、喜んでお手伝いさせて頂きます。

また、毎月第3土曜の『おっかまん』も、継続してやらせて頂く予定です。おっかまんで得た利益も、継続して貯金して、将来の寄付に備えます。

更に、来年には新しいプロジェクトも計画しています。2015年の何月になるかはまだわかりませんが、バーとしてではなく、完全にコミュニティスペースとして毎週日曜の午後にお店を開放しようと考えています。そこでは200〜300円(価格は未定)をお支払い頂き、アイスティーやオレンジジュース、コーヒーなどのソフトドリンク飲み放題サービスをご提供します。

その際、トイレや入り口付近の資料に加え、本など閲覧専用の資料を店内に置き、ご自由に読んで頂けるように致します。飲み放題ですので、一杯目のご注文の際に代金をお支払い頂くだけで閉店までお楽しみいただけます。無線LANと数台のノートパソコン(タブレットになるかもしれません)もご用意し、例えばご自宅でパソコンやインターネットがご利用できない、あるいはご利用するのが難しい状況の方にも、FacebookだったりSkypeだったり、あるいは就職や転職に向けてエクセルの練習だったりと、ご自由にご活用頂ければと思っています。

もし需要があれば、日曜日にはスタッフがパソコン教室や英会話教室を開くかもしれません。また、無料のワークショップを開催し、例えば外国人労働者の皆さんに給与明細書の読み方を知ってもらったり、パートタイムで働く人たちにパートタイム労働者の権利について知ってもらうなど、色々な企画ができるだろうと予想しています。

大変長文となり恐縮ですが、上で申しました通り、 FAT CATS ではチラシやパンフレット、書籍など、様々な資料を店内に置く予定です。

そこで、皆さんが関わっているご活動や、支援している団体などの資料、大切な情報が載っている冊子や本、チラシ、案内、またご著書などをぜひ FAT CATS までお送り頂けたら、スタッフ一同大変嬉しく思います。

以下の住所までどうぞ宜しくお願い致します。

374-0024 群馬県館林市本町4-1-8
Dining Bar FAT CATS 宛

FAT CATS のホームページ http://barfatcats.com では、漢字かな交じり文の日本語に加え、ひらがな・romaji・English・Portugués・Español・中文でお店のご案内をしております。(2014.4.9現在、 Portugués・Español・中文は更新作業中です) リンクがうまく辿れない場合は、グーグル検索などで “bar fat cats 館林” と検索して頂ければホームページにアクセスできるかと思います。

また、 http://www.facebook.com/barfatcats にて Facebook 発信もしてます。これも、 Facebook で “Dining Bar FAT CATS” と検索して頂いてもご覧いただけます。

更に @barfatcats でツイッターもやっております。これも “barfatcats” でツイッター上を検索して頂いてもご覧いただけます。

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群馬県高崎市「群馬の森」に行き、日本に労務動員された朝鮮人を追悼する碑を見てきました

批判回避のためにありとあらゆるミソジニーを免罪しようとしている男が多い昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか(←本文とは関係ない時候の挨拶です)。

群馬県高崎市にある「群馬の森」という県立公園には、「記憶 反省 そして友好」と刻まれた追悼碑があります。これは、かつて日本がその植民地政策によって日本国内の鉱山や工場に労務動員し、事故や過労で亡くなった朝鮮の人々を追悼する目的で建立された碑です。

私はニュースを殆ど読まないし見ないという体たらくなのですが、東京新聞の群馬版のサイトだけは、更新されるとメールで更新情報が届くようにしてあります。(シンプルなページなので、はてなアンテナを使っております。はてサだもの。)そこにあったのが、以下の記事です。

また、検索すると以下の記事も見つかりました。(私の働く Dining Bar FAT CATSバーおっかまん企画を取材してくださった塩田記者の記事でした!)

Facebook (鍵つき)で「群馬にこんな追悼碑があったことは知らなかった。守るべきだと思う。」と書いた通り、恥ずかしながら、群馬県に最初に住んでから約10年(そのうち4年以上海外でしたが)、この追悼碑のことを私は全く知りませんでした。

その後、以下の記事が出ました。

これについては、以下のような反応をしておりました。(一時的にツイッター復活していた時期だったのです。)

また、友人から回って来たメールにて、「撤去を求める請願」が出されているということも知りました。

せっかく群馬にこんな重要なものが存在するのに、撤去されるなんて! という思いから、県庁の担当部署にメールで存続を希望している旨を伝えました。以下、一部を伏せ字、省略したものを転載します。

群馬県庁 ○○○○部○○○○課(担当部署名) ご担当者様

館林に住んでおります、○○(筆者実名)と申します。
県庁職員の皆様には日頃より大変お世話になっております。

先日、群馬県立公園『群馬の森』の追悼碑に関する報道を目にしました。
追悼碑の存在に反発を感じている方が大勢いらっしゃること、
撤去を求める声があがっていることなども、知りました。

これに関し、群馬県に住む者として、気持ちをお伝えできればと思いメールしております。
大変お忙しいことと存じますが、お目を通して頂けたら幸いです。

私は16才まで栃木県佐野市周辺で育ち、その後海外で数年を過ごしたのち、
2004年に群馬県に引っ越して参りました。
群馬には外国から来て生活している人も多く、また
館林市内にもモスクがあるなど、多文化な環境をとても気に入っております。

それまでは引っ越しの多い家庭ではありましたが、
今では家族全員群馬県に骨を埋めるつもりでおります。

そんな中、この追悼碑の存在を知り、
群馬県にそのようなものが存在していること、これまで存在していたということを
知らなかった自分を恥ずかしいと思うと同時に、群馬県を更に好きになりました。
自分が住んでいる地域に誇りを感じたのは、初めての経験でした。

そして、撤去を求める声が上がっているということを知り、
とても悲しい気持ちになりました。

私は20代後半なので、戦争当時のことは分かりません。
追悼碑に反対している人たちには、やむにやまれぬ思いがあるのかもしれません。
ですが、追悼碑に書かれた言葉には嘘はありません。
この言葉は、植民地主義や戦争から多くの痛みを負った人々に寄り添い、
戦争を経てやはり多くの痛みを負った日本人が、それでも自らの責任を振り返るという
とてもとても重みのある言葉です。
そして同時に、「友好」という、未来へ向けての希望も私たちに訴えています。

私は、そんな言葉が書かれた追悼碑のある群馬県に、ずっと住み続けたいと思っています。
どうか撤去せず、追悼碑をそのまま保存してくださいますよう、お願い致します。

○○○○(筆者実名)

このブログをご覧の皆さんにとっては不十分と思われる点や不正確な表現が目に付くかもしれませんが、できるだけ正直な気持ちを率直に伝え、追悼碑の存続を求めている群馬県民もいるのだという点を中心に書きました。お返事を頂くことはないと思いますが、少なくとも県庁職員のどなたかに目を通してもらえたら嬉しいなと思っています。

そんなメールを送ったのが5月13日の火曜日。まさかその二日後に実際に追悼碑を直に見ることができるとは思っていませんでした。

今日(といっても厳密には昨日ですが)、私は FAT CATS 開店準備のため、前橋市に行っていました。地理は私も苦手なので最近知ったのですが、前橋市は高崎市の隣にあります。用事が済んでコストコにでも行ってみようとそちらの方面に移動中、「群馬の森」という標識が目に入りました。

うぉー行きたい追悼碑見たい! と思い、コストコを目前に引き返して渋滞の中「群馬の森」に向かいました。しかし18時半に閉園される「群馬の森」の駐車場は既に入れない状態になっており、ダメもとで雨の中傘をさして歩きで入園を試みました。入り口付近で清掃していた管理の方に閉園時間が迫っていることは分かっているが追悼碑をぜひ一度拝見したい旨伝えると、本当に閉園時間ギリギリだったにも関わらず、快く中に入れてくださいました。(この際もうひとつハートフルなエピソードがあったのですが、それは Facebook で友だち限定で書こうと思います。)

時間がないので急いで公園最奥の追悼碑の場所まで向かい、ようやく見つけた追悼碑は、公園の名前に負けずとてもとても「森」感のあるエリアにひっそりと存在していました。以下、撮影した写真を載せます。

追悼碑に向かう園内の小径の右側の写真

↑とても「森」感のある小径の右側。

追悼碑に向かう園内の小径の左側の写真

↑小径の左側。

追悼碑に向かう園内の小径

↑小径正面。まっすぐ進むと左側に追悼碑があるよと管理の方に教えて頂きました。

追悼碑目前の小径

↑そのまま進むと、少し開けた場所に出ました。

小径を挟んで追悼碑の反対側の様子

↑開けた場所で右側に視線をやると、ベンチがいくつも並び、休憩所のようになっています。

小径から追悼碑のあたりを見た様子

↑そのまま左側に目線をやると、追悼碑が見えてきました。

追悼碑の隣に別の碑が立っている様子

↑追悼碑に近づくと、何やら碑がふたつ並んでいるように見えます。

追悼碑と別の碑に近づいた様子

↑更に近づくと、朝鮮人追悼碑とは別に、少し離れた隣に別の碑が建っていました。ちなみにこの周辺には、小径を挟んで反対側の休憩用ベンチのほかには何も無く、ただただ「森!」という感じのエリアでした。管理の方曰く、入り口からここに到着するまでに「2キロはある」とのことでしたが、途中美術館のような建物の職員用駐車場と思しき場所を通りすぎてからは、小径のほかはただただ「森!」でした。1キロ半くらい森の中を進んだ感じだと思います。

この時点で、「もうひとつの碑はいったい何なんだ!?」という疑問が湧き、まず先に右側の碑を見てみることにしました。

追悼碑の右側に並んで建てられたもうひとつの碑

↑左下に見えるメッセージに「愛の光」と書いてあるので、もしかしたらなにか宗教的な碑なのかなと勝手に思ったのですが、実際には全く違っていました。

「愛の光」と書かれたメッセージにクローズアップした様子

↑なんと、平成11年に設立二十周年を迎えた群馬県アイバンクが献眼者(角膜提供者、ドナー)への感謝の意を込めて建てた顕彰碑とのことです。(「顕彰」という言葉を知らなかったので検索したら、「功績や善行などを称えるために立てられる石碑などのこと」とありました。また、必ずしも著名でない功績に対してのものであることが多いそうです。)

「献眼顕彰碑」と書かれた石碑の近影

↑「献眼顕彰碑」とありますね。

↓献眼者の名前が彫られていました。

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその一

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその二

「献眼者ご芳名」と書かれた、角膜提供者のリストその三

というわけで、朝鮮人追悼碑を直に見に来たはずでしたが、思いがけず群馬における医療史とも出会うことができました。平成11年の20年前といったら、35年前、つまり1979年に群馬県アイバンクが設立されたことになります。私が生まれる6年前のことです。全国のアイバンクと比較して早いのか遅いのかは知りませんが、「アイバンク」というものの存在を知らずに私がセガサターンなんかで遊んでいた頃、とっくにアイバンクが存在していて、しかもこれだけの献眼者がいたということに、歴史に対しての自分のちっぽけさと、無知を恥じる気持ちと、そして同時に歴史というものの重みを感じました。

時間がないのでそういう思いにふけっている余裕もなく、今回のメイン目的、朝鮮人追悼碑に目を移しました。

追悼碑を正面から見た様子。ちなみに小径方面は正面ではなく、顕彰碑の方向を向いていた。

↑朝鮮人追悼碑を正面から見た様子です。追悼碑は小径の方角ではなく、顕彰碑の方向に正面を向けて建てられていました。小径に立って追悼碑を見ると、追悼碑の右側が目に入るような配置になっています。

追悼碑に近づいて正面を見た様子。正面側には「記憶 反省 そして友好」の文字。朝鮮語と英語も併記されている。

「記憶 反省 そして友好」という部分の近影

↑追悼碑に近づいてみました。正面には「記憶 反省 そして友好」の文字が刻まれており、朝鮮語と英語も併記されています。

追悼碑を裏側から見た様子。ここにもプレートがつけられ、メッセージが書かれている。

追悼碑裏側のプレートに書かれたメッセージ。画質が悪く文字は読み取れない

↑裏側にまわってみました。中央にプレートがつけられており、そこにもメッセージが刻まれています。残念ながら、陽が落ちてきている雨の中撮影した写真は画質が良くなく、文字が読み取れません。急いでいたのでこの場で読むことはできなかったのですが、たむたむ(多夢・太夢)ホームページこの碑文の内容が掲載されていたのを読むことができました。以下に引用します。

碑文
20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地にして支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えた今、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。
2004年4月21日
「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を 建てる会

また、同ホームページの情報によると、

2004年2月、建てる会が小寺弘之知事(当時)に「県立公園施設設置許可書」を申請。県は翌3月、「政治的行事および管理を行わない」などを条件に許可した。
碑文の内容は、戦後50年となった1995年の「村山談話」の範囲内にとどめるよう、「強制連行」の表現を除くなど文言をすりあわせた。

建立後の維持管理は同団体が行うこととなっており、追悼碑建立のための県費支出は行っていない。

とのことです。つまり、当時の内閣総理大臣が「閣議決定に基づき発表した声明」(Wikipedia – 「村山内閣総理大臣談話『戦後50周年の終戦記念日にあたって』」、アクセス2014.5.16)の範囲内にとどまる内容の碑文となるよう、当時の群馬県が既に介入し、建てる会と県の双方の合意に基づいた文であるということです。

追悼碑から小径の方向を向いた様子

↑追悼碑の裏側をまわり、小径の方角を向いてみました。左右に伸びる小径の向こう側に、休憩ベンチが並んでいるのが見えます。撮影時は気がつきませんでしたが、その奥に少し開けたエリアがありますね。更に奥に行くと通り抜けられるのかどうか分かりませんが、いずれにしても、その場にいた限りでは、公園内かなり奥の孤立したエリアに追悼碑と顕彰碑がひっそりと立っているという印象を受けました。

写真は以上になります。

この追悼碑についてインターネットで検索すると、碑の存在や碑文などに抗議する内容の文章ばかりがヒットします。「群馬の恥」とまで書いている人もいました。新聞記事にもありましたが、抗議の声はここ数年で百件を超えているそうです。管理の方も、抗議の声があがっているという事実は認識しているとのことでした。(時間もなかったので質問はできなかったのですが、「抗議の声があがっているそうですね」と言うと「えぇそうなんです」とだけお答え頂けました。)

私は上でも書いた通り、自分の身近なところ(と言っても高崎には数回しか行ったことありませんが……)にこういった追悼碑が存在しているということをとても嬉しく感じましたし、撤去を求める声には明確に反対です。県庁にメールをするということが適切な方法であったとは断言できませんが、群馬在住、群馬勤務、群馬通学、群馬出身などなど、群馬にゆかりのある人には、ぜひ追悼碑の存続を望む声をあげて欲しいと思っています。

もちろん、追悼碑が存続すればそれでいいというわけではありません。日本が戦前、戦中、戦後行って来た植民地政策や植民地主義的な外交、国内の旧植民地出身者への差別的待遇など、過去から現在に至るまでたくさんの問題を作り出して来たのが日本という国です。在日コリアンなどに対する差別的な言葉のパターンがインターネットのみならず日常生活の場にまで浸食してきており、より気軽に反在日コリアンの言葉を人前で語れるようになった現代の日本社会の文化的問題に加え(注)、朝鮮学校の無償化除外や、雪害時の除雪作業からの朝鮮学校近隣の対象除外、また DPRK (朝鮮民主主義人民共和国)に対する経済制裁や、終戦後すぐに行われた日本国籍の一方的剥奪、1982年までの国民年金からの排除など、日本政府による制度的な差別・問題行動は多岐にわたります。

(注:もちろん、もっと時代をさかのぼれば、今よりも気軽に、当然のように朝鮮人や他の外国人に対する差別的な言葉が一般的に広く使用されていた時代や場所もありますが、2005年あたりからある種の差別的レトリックのパターンが急速に広まったことは事実かと思います。)

そういった中で、追悼碑だけを存続させることが目的化してはならないと私は思っています。しかし一方で、この追悼碑すら守ることができない社会になることは、断じて食い止めなければならないとも思っています。

もちろん、私が実物を見に行くほどにこの追悼碑を気にかけている理由には、これが私が住む群馬県内のものだからというものもあると思います。他にもっと優先的に守るべきものがあるだろう、というご指摘は甘んじて受けますし、真剣に検討します。一方で、ローカルなものの大切さというものをここ数年で学んで来た私には、やはりこの追悼碑の問題は大きなものではあります。

大局をとらえつつ、大言壮語に陥ることなくローカルな視点を持ち行動すること、そしてローカルなものを注視しながらも、大局を見失わない、という——同じことを逆に言っているだけですが——バランスを保ちつつ、そして同時に周りの人を大切にしながら、動ける範囲で動いて行きたいなと思っています。(途中から所信表明みたいになってしまった……)

ウートピに記事が掲載されました(三回目)

ウートピの私の記事の第三弾がアップされました。

今回は特に何かひねりがあるわけではなく、直球でフェミというか、「女」と「男」の話しかしておりませんの。その点では不満を感じる人もいるかも。

上から目線の男の解説にうんざり! あなたの身近に必ずいる「マンスプレイニング系男子」とは?

「LGBT」の反義語は「異性愛者」ではありません

「LGBT」という言葉がずいぶん普及してきています。テレビでもラジオでも雑誌でもウェブメディアでも「LGBT」という言葉はそこら中に出てきます。しかし、正に「LGBT」の権利や尊厳について語るコメンテーターやライターが、「LGBT」の反義語として「異性愛者」という言葉を使いまくっていることに、とても強い違和感を感じます。

「LGBT」という言葉を使っているのに、「私たち異性愛者は…」とか「Aさんは異性愛者ですが、LGBTの友人が…」とかのコメントやナレーションが流れるテレビ番組なんか見ていると、本当に、どういうつもりなのかと思います。

トランスは無視?

1つめの問題は、「LGBT」という言葉を使っていながら、実質そこで想定されているのは同性愛者のみ、というケースが多いことです。たとえば、トランスジェンダーで異性愛の人というのは、想定されていないか、あるいは「同性愛の亜種」のような位置づけなのでしょう(※)。

※:一方で、「性同一性障害」という言葉が使われるときは、同性愛者を「性同一性障害の亜種」のように勘違いしたコメンテーターが時々いるという、悲しい現状がありますね。

ある集合が、別の集合と一切重なり合わないとき、それを「これらの集合は相互排他的だ」と言います。つまり、どちらか片方であれば、もう片方「でも」あるということがあり得ない状況です。たとえば、以下のような感じです。

  • 「日本国籍保持者」と「外国籍保持者」は、複数の国籍を持つことが可能なため相互排他的ではありません
  • 「みかん」と「りんご」は、みかんだったらりんごではなく、りんごだったらみかんではないので相互排他的です

「LGBT」と「異性愛者」がもし相互排他的だとすると、こんな感じになります。

「LGBT」と「異性愛者」が相互排他的関係にある図。円グラフで、その8割近くが「異性愛者」、残り約2割が「LGBT」、その他には何も項目はなく、「LGBTかつ異性愛者」という部分もない。

でも実際には、「LGBT」と「異性愛者」は相互排他的ではありません

「LGBTではない人」を「異性愛者」と呼ぶのは、間違いです。この「LGBT」という枠組みに乗っかるのなら、きちんと乗っかって、「LGBではない人」を「異性愛者」と呼ぶべきなはずです。「Tではない人」には、「シスジェンダー」という名前が既に存在しています。「LGBTではない人」は、「シスジェンダーの異性愛者」です。

ブレンダのちょっと風変わりなLGBT講座シリーズで、少年ブレンダさんがこんな画像を作っています。

少年ブレンダさんによる性の多様性のマトリクス。縦の軸が上に行くほど「規範に伝統的」、下に行くほど「規範に自由」となっており、横の軸が左に行くほど「性別が変わらない」、右に行くほど「性別が変わる」となっている。左上のゾーンがシスジェンダー、右下のゾーンがトランスジェンダー、右上が性同一性障害(性別二元論のトランスジェンダー)、左下のゾーンが性別違和(ジェンダーロールなんかイヤです)、そして中央がXのゾーン(FtX、MtXなどなど……)。全てのゾーンに渡って、ピンクの三角形やオレンジの丸、青いクローバーや藍色の四角形などが散らばっており、これらは同性愛、両性愛、異性愛などの性的指向を指している。

ここでは、ピンクの三角形やオレンジの丸、緑の四角などが、同性愛、異性愛、両性愛などの性的指向を表しています。つまり、世の中が「LGBT」をセクシュアリティや性的指向を中心に考えているということに対抗して(かどうかは知りませんがw)、性自認や性別違和を中心に性の多様性を図に表してみたものです。

もし世の中のほとんどの人が性をこのように理解し、このような枠組みで「LGBT」が解釈され普及していたら——つまり性自認や性別違和を第一の基準にし、その上で「その中には色んな性的指向の人がいる」と解釈され、「LGBTではない人は「シスジェンダーの人」と呼ばれ、異性愛かどうかは横に置いておかれるような社会的認知の普及の仕方だったら——同性愛者は苛立ちを覚えるのではないでしょうか。その苛立ちは、「LGBT」と「異性愛者」を反義語のように使っている人たちがトランスジェンダーの人たちに日々与えている苛立ちと似ているかもしれません。

2 「LGBT」でも「異性愛者」でもない人

また、「LGBTではない人」を「シスジェンダーの異性愛者」と正確に言ったところで、すべての問題が解決するわけではありません。「正確に」というのは、現在普及している「LGBT」の枠組みに乗っかるならば正確だ、という意味に過ぎません。

パンセクシュアル、Xジェンダー、アセクシュアル、オムニセクシュアル、デミセクシュアルなどなどがあることを知っている人もいるかと思います。

また、「性別の組み合わせ」によって成立している異性愛、同性愛、両性愛というカテゴリー分け自体が、人それぞれの性のあり方を正確に描写できているとは限りません。自分の性的欲望や恋愛感情にとって、相手の性別が最も基本的な基準(最初にふるいをかける基準)になるというのは、世の中の人みんな全員そうではありません。

たとえば「絶対に色黒の人じゃないと無理。性別は出来れば男性がいいけど、色白の女性より色黒の男性の方がまだマシ。色白の人との恋愛なんて考えられない」という欲望のあり方は、異性愛、同性愛の枠組みではとらえられませんし、「あなたは両性愛者なんですね」と言われたとしても、「いや、女と男どっちもイケるって話じゃなくて、色黒しかイケないって話なんですけど……」と思うかもしれません。

ひとのセクシュアリティや性的指向は「LGB」だけでは表せません。また、上の少年ブレンダさんの図を見ても分かる通り「T」だって、とても複雑なものをとりあえずひとくくりにしているだけです。

だから、「LGBT」という言葉は、ひとの性のあり方を正確に描写できる言葉ではないのです。

でも、私も「LGBTQ」という言葉を使いますし、多くの人も「LGBT」という言葉を使っています。それは、世の中が人を「LGBT」と「シスジェンダーの異性愛者」に分けて、「LGBT」の方を差別して来た歴史があるからです。その歴史がなければ、「LGBT」と自分たちをくくる必要もありませんでしたし、そもそも名前をつける理由すらなかったでしょう。

性に関して私たちに名前が付けられているのは、差別者が私たちを差別するためにカテゴライズする必要があったからです。「同性愛者」も「オカマ」も「レズ」も「ホモ」も、罵倒語として存在して来た歴史があります。そういった言葉をあえて自称に使ったり、違う言葉に置き換えたり(「ビアン」「ゲイ」など)することを通して、私たちは今のところ「LGBT」というくくりかたに落ち着いているだけです。

「LGBT」は、性に関して差別を受けてきた歴史を持つ私たちのことを指す便利な言葉ではあります。だけれども、その言葉がいつも私たち一人一人の性のあり方を正確に描写するわけではないということは、頭に入れておくべきなのではないかと思います。

『生物学的性→性自認→性的指向』という順番について

性別について、今となってはある程度の認知度を獲得しつつある「LGBT」を説明する際に、私たちは「生物学的性」「性自認」「性的指向」という概念をよく使います。

世の中一般的には、まずベースに生物学的性があって、それを根拠に生物学的性と同一とされる性自認が発達して、そしてその性自認の反対の性(異性)に性的関心を持つようになる、という論理構造が幅を利かせているわけです。この「生物学的性→性自認→性的指向」という順番、そして左のものが右のものの根拠になり、人はまっすぐにシスジェンダーかつ異性愛に導かれるはずだ、という考えは、私たちが人の性別を解釈するときに大きな偏りを生み出します。

「体が男なら心も男、そして性的対象は女」、「体が女なら心も女、そして性的対象は男」というのが当然のこととされ、疑問視もされず、それにあてはまらない人に出会った時にはただただ理解不能に陥る人が続出、という状況は、少しずつ変わってきているものの、いまだに社会全体の多くの場において支配的です。(例えば、性同一性障害の認知度が高まった現代日本でも、トランスかつレズビアンの人に出会った時に「心が女なのに恋人が女!?どういうこと!?」と驚く人というのは未だにたくさんいます。)

この論理構造を「異性愛マトリクス」と呼んだりします。

異性愛マトリクスの問題点のひとつは、根拠のない因果関係を前提としていることです。つまり、生物学的性が性自認の根拠であると決めつけていること、性自認が性的指向の根拠であると決めつけていることです。レズビアンだっているし、バイだっているし、ゲイもいるし、体が女で性自認が男で性的対象が男(いわゆる「FTMゲイ」)だっているよね!なに無視してんの!って話です。これについては、恐らくほとんどのLGBT当事者や支援者やそのあいだや周辺にいる人たちにも、問題点が明らかだと思います。

しかし、異性愛マトリクスにはもうひとつ大きな問題点があります。それは、「生物学的性→性自認→性的指向」という流れにおいて、左に行けば行くほどより根幹的な、より基礎的な、より決定的な分岐点になり、右に行けば行くほどより後発的な、付随的な、補足的な分岐点(異性愛マトリクスにおいては分岐はせずまっすぐに進んで行くわけですが)になる、という思い込みです。つまり、体の生物学的性が最初に決まり、それが決定してしまえばあとは自動的に決まってしまうのだ、という、生物学的性を性のすべての根幹とする発想です。

この2つめの問題点については、「LGBT」関連の場においても、あまり議論されることがありません。それどころか、以下の画像に表れているように、むしろ前提として受け入れられてしまっている場合すらあります。

1つめの画像は、ツイッター上に「学生時代のゼミ発表資料」としてアップロードされていたものです。学生時代のものだそうなので、出典URLを示すことが適切かどうか分かりません。HTMLソースを開くとIDと投稿番号が見れるようにはしてありますので、投稿者に害を与えるつもりではなく単に「マサキが勝手に捏造したものではない」ことを確認したいだけだという人は、ソースを見て考えればツイートにたどり着けるでしょう。
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2つめの画像は、最近ネットのLGBT界隈で話題になった「LGBTの学校生活に関する実態調査(2013) 結果報告書」の中の表です。
スクリーンショット 2014-05-03 4.04.56

ご覧の通り、どちらの表も左から「生物学的性」「性自認」「性的指向」となっています。これは、生物学的性が性自認の根拠にならないこと、性自認が性的指向の根拠にならないことを示すことで、分岐の多様性を表しています。つまり、異性愛マトリクスの1つめの問題点を指摘していると言えます。

一方で、まさにこの表の書き方が分岐の様子を示しているがゆえに、項目の順番が、根幹的な分岐から付随的な分岐へ、左から右に並んでいるように見えます。人を性に関して分類するときには、まず最初に生物学的性でわける、次に性自認でわける、そして最後に性的指向でわける、という前提がここには見て取れます。あたかも、生物学的性が最も根幹的であるという異性愛マトリクスの前提を踏襲しているように見えます。

表を作った人にはそんなつもりはなかったのかもしれません。それに、もしそういう思い込みがあったとしても、ゼミ発表や報告書の内容の価値が著しく貶められるべきではありません。ただ、「生物学的性」に合った性自認を持て、「生物学的性」に合った性的指向を持て、という社会のプレッシャーに対抗している私たちが、どうしていまだに「生物学的性」の虚構の根幹性を時に受け入れてしまうのか、考えないといけないんじゃないかと思っています。

「LGBT」フレンドリーなら何やってもいいのか?

昨年、大阪市淀川区が出した「LGBT支援宣言」がネットでも話題になった。

それ自体が悪いことではないとは思うものの、私は何となく不安を感じて、この区長の名前を検索してみた。そして見つけたのが、この論文(PDF)。これは、榊正文(さかき・まさふみ)淀川区長が区長に立候補する際の公募論文として提出したもので、大阪市のウェブサイトに掲載されているもの。

注目して欲しいのは、以下の部分。

生活保護受給者の地域での役割

課題は、不正受給の摘発と、就職能力があるにもかかわらず活動しない人の対策です。つまり、本当に困窮している弱者かどうかの見極めです。困難な財政状況下、生活保護より真の弱者保護、働ける人に働いてもらい、消費してもらう社会へ、という考えを推進します。
①生活保護者が、地域社会で、(例;地域ボランティア活動の義務付け等)なんらかの役割を担うように施策を検討します。(時期;24年度上期に府市政と方向を出す)

また、イダ・ヒロユキさんはブログに「大阪市淀川区の異常さ―ー生保攻撃する区長」という記事を書いています。ここに、一部を抜粋します。

[…]淀川区で、生保受給者を脅すような文書が配られました。事実上の締め付けです。

大阪市淀川区役所支援運営課(旧福祉事務所)が、区内生活保護利用者の1月分の保護決定通知書の中に異様な文書が同封されたのです。
「虚偽」の申告をしたら警察に告訴するとし、淀川区から過去1年間で4名の逮捕者をだしていると書いています。裏面は「警察OBを含む不正受給調査専任チームを配置しているとし、生活保護法60条(生活上の義務)、61条の(届出の義務)、63条(費用返還義務)など「義務」ばかりを強調しています。

大生連の家宅捜索はすべて淀川区からの告発によるもので、淀川区は異常な対応を取っています。
橋下・維新が選んだ区長が、こういうことをしてきたということです。

今の社会において、LGBTの尊厳や権利を支持するとあえて宣言することには、意味があると思います。もちろん、もっと言えば「LGBT以外は?」とかも言えるのだけれど、それよりも私個人的には「LGBTの生活保護受給者、想定してる?」という疑問が湧きますし、そもそも「LGBT」じゃなくたって生活保護を受給しているということを理由に無償労働をさせるなんていう発想自体が、「LGBT」とか以前に、アウトでしょう、と。

今後、こういうタイプのやり方は多くの政治家が採用すると思います。それを支持するかどうかは個々のクィアのみなさんの自由ですが、「ちょっとそれはどうなのか」と思うようなところがある政治家に対して「でもLGBTフレンドリーだし」とその責任を免除することは、他のマイノリティを切り捨てることでもあり、更に「LGBT」の一部の人々をも切り捨てることになるんだということは、考えてもらいたいなと思っています。

(画像:淀川区ウェブサイトより)